徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
慶長十二年、春。
俺は駿府へ移った。
将軍職を秀忠に譲ってから、およそ二年。江戸の政務も少しずつ息子たちへ任せられるようになり、ようやく隠居らしい暮らしができるかと思っていた。
もちろん、そんなわけがなかった。
「殿。江戸より書状が届いております」
朝食を終えたところで、石川数正が顔を出した。すでに七十を大きく過ぎた老人である。昔より足取りは遅くなったが、書状の束を抱えてくるときだけは妙に元気がよい。
「……昨日も届いただろう」
「本日は別件にございます」
「秀忠からか?」
「秀忠様と信康様、それぞれからにございます」
俺は天井を仰いだ。
駄目だ。逃げられない。
将軍を辞めた以上、細かな政務は息子たちに任せる。そう決めたはずだったのだが、二人は二人で、何か重要なことがあれば俺へ相談してくる。しかも信康は長年の経験から問題になりそうな箇所を見つけるのが上手いし、秀忠は秀忠で、こちらが答えに窮するほど細かなことを尋ねてくる。
仕事ができる息子を持つのも考えものだった。
「信康からは?」
「関東の河川普請についてにございます。新たに築いた堤の件で、一部の村より申し立てがあったようで」
「……また水か」
「秀忠様からは、諸大名の軍役についてでございます」
俺は数正から書状を受け取った。
駿府へ来たからといって、天下の問題がなくなるわけではない。それどころか、江戸に将軍がいて、駿府に俺がいるということは、二つの場所で相談しながら政務を進めなければならないということでもある。
ならば最初から江戸にいればよかったのではないか。
そんな疑問が湧くのも当然だろう。
だが、俺には俺の考えがあった。
駿府は、かつて人質として暮らしていた土地である。東海道に面し、京や大坂との行き来にも都合がよい。これから先、天下の政務を秀忠へ任せながら、上方の動きにも目を配るには悪くない場所だった。
何より、江戸に居座っていては秀忠がやりにくい。
将軍になった息子の隣で、父親が何もかも決めてしまっては意味がないからな。
……もっとも、駿府にいても結局は口を出しているのだが。
「数正。信康へは、まず現地の奉行から詳しい報告を取り寄せるよう伝えてくれ。堤を築いた後に水が溢れる場所が変わったのなら、村の言い分も聞かねばならぬ」
「承知いたしました」
「秀忠の方は、俺も少し考えたい。返事は明日にしよう」
数正が頷いた。
それから、俺の顔をじっと見た。
「……殿」
「何だ?」
「お疲れではございませぬか」
「……今それを言うか?」
「少々、お顔に出ておりますゆえ」
俺は苦笑した。
「お前も歳なんだから、無理するなよ。そろそろ後進に仕事を任せたらどうだ」
すると数正は、何とも言えない顔をした。
「……殿にだけは、申されたくございませぬ」
ひどい言われようである。
◇
駿府での暮らしは、悪くなかった。
城の普請はまだ続いていたものの、江戸に比べれば町は落ち着いている。古くからの寺社もあり、馴染みのある道も多い。幼い頃に通った場所を訪ねてみると、建物が変わっていたり、道が広くなっていたりして、意外な発見もあった。
ただし、昔と同じ場所を歩いていても、俺の身体は昔と同じではない。
ある日、城内の庭を歩いていたときのことだった。
「竹千代、遅い!」
かぐやが文箱の縁から声を上げた。
「……お前が急ぎすぎなんだよ」
「だって、あっちの池が見たいんだもん!」
「逃げないだろ、池は」
「そうだけど!」
瀬名が隣で笑っていた。
このところ、かぐやは駿府の城内を見て回ることに夢中になっている。江戸から移るときには随分と文句を言っていたが、今では新しい庭の方が気に入っているらしい。
もっとも、俺がいなければ勝手に出歩けないので、結局は付き合わされることになる。
「殿、お疲れでしたら少しお休みになっては?」
瀬名が声をかけてきた。
「いや、平気だよ」
そう答えた直後、足元の小さな段差に気づかず、危うくつまずきかけた。
「……おっと」
「竹千代!」
かぐやが大声を上げた。
「危ないじゃん!」
「分かってるよ」
「もう! ちゃんと足元見て!」
……はいはい。
最近、こんなやり取りが増えた。
昔なら俺がかぐやに注意していたのだが、今では向こうから注意されることも珍しくない。
もっとも、本人は俺が年老いたからといって、特別扱いするつもりはないらしい。歩くのが遅ければ急かすし、疲れた顔をしていれば休めと言う。その日の気分によって言うことが違うのも、昔のままだ。
「……竹千代」
しばらくして、かぐやが呼びかけてきた。
「何だ?」
「今度、茶々にもお手紙出して!」
俺は足を止めた。
「茶々殿に?」
「うん!」
「何を書くんだ?」
「駿府に来たよって!」
俺は苦笑した。
「それはもう知っておられると思うぞ」
「じゃあ、ここのお庭がきれいだよって!」
「それならいいな」
かぐやは嬉しそうだった。
茶々とは、相変わらず文のやり取りを続けている。
もちろん、かぐや自身が筆を持って書くわけではない。瀬名が話を聞いて代わりに書き、ほかの者には分からないよう、挨拶の書状に紛れ込ませて届けていた。
返事が来ることもある。
季節の花について書かれたもの。
大坂で見つけた珍しい菓子について書かれたもの。
かぐやから贈られた貝殻を、今も大切にしているというもの。
政治に関わる話は、そこには書かれていない。
俺も、その中身を詳しく聞くつもりはなかった。
茶々とかぐやの付き合いは、二人のものだ。
「……瀬名」
「はい」
「後で、かぐやの文を頼めるか」
「もちろんにございます」
「やった!」
かぐやが喜んだ。
「茶々に、ここの花のこといっぱい教えてあげる!」
俺は、庭に咲いている花へ目を向けた。
……うん。
これくらいの頼みなら、いくらでも聞いてやれる。
◇
その日の夜、俺は久しぶりに古い書付を取り出した。
信康と秀忠へ、かぐやの存在を明かした頃に考えたものだった。
俺が死んだ後、かぐやが困らないようにする。
言葉にすると簡単だが、実際には難しい。
徳川の家にずっと置いておけばよい、という話ではないからだ。
かぐやは俺の家臣でも、家族に仕える者でもない。ましてや、珍しい生き物として徳川が所有してよい存在でもない。
あいつには、あいつ自身の人生がある。
俺よりもずっと長い人生が。
昔、そのことについて話したことがあった。
俺がいつか死ぬこと。
その後もかぐやは生き続けること。
そして、遥か先の未来に、あいつが会いたいと願う者たちがいること。
どんな相手なのか、いつ、どこで会えるのか。
詳しいことを俺が理解しているわけではない。
ただ、かぐやがこの先も長く生き、どこかで大切な誰かと巡り合おうとしていることは知っている。
……何千年も先、か。
正直、想像もつかない。
俺が前世で暮らしていた現代日本ですら、この時代から見れば途方もなく先のことだ。
そのさらに向こうまで続く時間を、かぐやは生きていく。
俺には付き合えない。
瀬名にも、信康にも、秀忠にも無理だろう。
徳川の世が、いつまで続くのかさえ分からない。
だからこそ、今できることを残しておきたかった。
人が安心して道を行き来できること。
町が育ち、物が行き交い、知識が次の世代へ伝わっていくこと。
そして、かぐやがどこかへ行きたいと思ったとき、俺の子孫がそれを妨げないこと。
信康と秀忠には、その点をよく話してある。
だが、さらに次の世代へどう伝えるかとなると、簡単ではなかった。
かぐやの秘密を誰彼構わず明かすわけにはいかない。
かといって、何も残さなければ、俺たちが死んだ後に存在を知る者がいなくなるかもしれない。
……困ったものだ。
天下を治める仕組みについては、それなりに考えがある。
だが、小さな友人一人の未来については、いまだに分からないことだらけだった。
俺は書付を畳んだ。
今すぐ答えを出す必要はない。
ただ、考えることをやめるわけにもいかない。
「……竹千代?」
文箱から声がした。
顔を上げると、かぐやが蓋の隙間からこちらを覗いている。
「まだ起きてたの?」
「ああ。少し考え事をしてた」
「またお仕事?」
「……まあ、そんなところだ」
「もう!」
かぐやは不満そうだった。
「明日にしなよ!」
俺は思わず笑った。
「そうだな」
書付をしまい、灯りを落とす。
すると、かぐやが嬉しそうに言った。
「おやすみ、竹千代!」
「おやすみ」
……まったく。
俺が何を考えていたのかも知らないで。
そう思ったが、別に教える必要もなかった。
今夜くらいは、こいつに心配されずに眠りたい。
◇
慶長十六年、春。
俺は久しぶりに上洛した。
朝廷の代替わりに伴う儀式もあり、京ではさまざまな準備が進んでいた。諸大名も集まり、都の宿はどこも賑わっている。
俺自身も、二条城で多くの者と顔を合わせなければならなかった。
その中に、一人、どうしても会っておきたい人物がいた。
豊臣秀頼である。
「……殿」
数正が書状を差し出した。
「秀頼様とのお目通りについて、返事が届いております」
俺は受け取った。
大坂方は、こちらの申し出に応じるという。
「……そうか」
「三月二十八日、二条城へお越しになるとのことにございます」
俺は頷いた。
秀頼とは、随分と長いこと顔を合わせていなかった。
千姫が大坂へ嫁いだ頃には、まだ少年らしさが残っていた。
だが、今では十九歳。
すでに立派な青年になっているはずだった。
「……数正」
「はっ」
「今の秀頼様について、何か聞いておるか」
「学問にも武芸にも励んでおられると伺っております。大坂城内での評判もよろしいようで」
「そうか」
「……殿は、何をご心配なので?」
俺は少し考えた。
「……会えば分かることもあるだろう」
数正は、それ以上尋ねなかった。
俺は書状を畳んだ。
秀頼を守る。
その約束は、今も忘れていない。
だが、徳川の将軍職はすでに秀忠へ譲った。
天下の武家を統べるのは、徳川である。
豊臣家がその仕組みをどう受け止めるのか。
秀頼自身は、どのように考えているのか。
これまで届いた書状だけでは、分からないことも多かった。
◇
三月二十八日。
二条城へ、豊臣秀頼がやってきた。
出迎えのため庭先へ出た俺は、近づいてくる一行を見て、思わず目を細めた。
……大きくなったな。
まず、そう思った。
背丈も随分と伸び、立派な装束を身につけている。歩き方にも落ち着きがあり、周囲の家臣たちに囲まれていても、無闇に視線を動かさなかった。
以前の、父親が元気になるのかと俺に尋ねてきた少年ではない。
今、目の前にいるのは、豊臣家の当主だった。
「大御所殿」
秀頼は、丁寧に礼をした。
俺もそれを迎えた。
「秀頼様。ようお越しくださいました」
「此度は、お招きいただき、ありがとうございます」
声も変わっていた。
俺は少し笑った。
「長らくお目にかかる機会がございませなんだ。お健やかそうで、何よりにございます」
「大御所殿も、お変わりなく」
……いや、随分と変わったと思うぞ。
こっちはもう七十近い老人である。
もっとも、そんなことを言う場面ではなかった。
座敷へ案内する際には、互いに礼を尽くすことを申し出たが、秀頼は年長の俺を立てようとした。こちらが遠慮すれば向こうも遠慮する。あまり続けても周囲の者たちが困るので、結局は秀頼の心遣いを受けることになった。
その後、席を設けて言葉を交わした。
高台院殿も同席された。
秀吉の正室だった方である。
今では出家しておられるが、豊臣家にとって重要な人物であることは変わらない。
「……秀頼様」
俺は、頃合いを見て口を開いた。
「千姫は、いかがにございますか」
秀頼は少し笑った。
「元気にしております。近頃は、こちらが忙しくしていると、身体を休めるよう申されます」
俺は思わず笑ってしまった。
「……それは、困りましたな」
「大御所殿も、同じように言われるのでございますか」
「ええ。妻にも、古い友人にも、よく言われます」
高台院殿が笑った。
秀頼も、楽しそうだった。
しばらくは、そんな話をした。
千姫のこと。
大坂の暮らし。
最近読んでいる書物のこと。
秀頼は、こちらの話をよく聞いた。
分からないことがあれば尋ね、考えを求められれば、自分の言葉で答える。父親の名ばかりを持ち出すようなところもなく、かといって必要以上に自分を大きく見せようともしなかった。
……なるほど。
よく育っている。
茶々も、ずいぶん苦労したことだろう。
俺は、少し安心した。
だが、それと同時に、別の考えも浮かんだ。
これほど立派な青年なら、豊臣家の家臣たちも誇らしく思うだろう。
秀吉の恩を受けた大名たちも、昔を思い出すかもしれない。
そして、その中には、もう一度豊臣の天下を望む者もいるはずだ。
秀頼自身が望むかどうかとは、別の話である。
「……大御所殿」
秀頼が声をかけてきた。
「何にございましょう」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
秀頼は姿勢を正した。
「私は、まだ大坂の外をよく知りませぬ。父上が亡くなってから、多くの者が私のために働いてくれておりますが、天下のこととなれば、知らぬことばかりでございます」
俺は黙って聞いていた。
「千も、徳川の方々も、大坂の者たちも、皆が争わずに暮らせるようにしたいと思っております。そのためには、何を学ぶべきなのでしょう」
俺は、少し驚いた。
てっきり、豊臣の家格や所領について何か尋ねられるものと思っていた。
だが、秀頼が聞いてきたのは、そんなことではなかった。
「……秀頼様」
俺は少し考えた。
「私も、知らぬことばかりにございます」
秀頼が目を瞬いた。
「……大御所殿が?」
「はい。今でも、新しいことに出くわしては家臣に教わっております。領地の水のこと一つ取っても、実際に住んでいる者の方が詳しい場合がございますから」
秀頼は、しばらく俺を見ていた。
俺は続けた。
「何を学ぶべきかと尋ねられれば、まずは人の話を聞くことかと。ですが、聞いたことをすべて信じてよいわけでもございませぬ。誰が、何のために、そう申しているのか。それを考える必要がございます」
秀頼は頷いた。
「……なるほど」
「そして、できればご自身の目でもお確かめください。書物や報告だけでは分からぬこともございます」
そこまで話したところで、俺は少し口を閉じた。
……待てよ。
俺は今、秀頼に何を教えているんだ?
豊臣家の当主に、人の話を聞き、自分の目で確かめ、自分の判断を持てと言っている。
当然のことだ。
だが、秀頼が本当にそういう人物になったら、いずれ俺と意見が食い違うこともあるだろう。
そのとき、どうする?
「……ありがとうございます」
秀頼が頭を下げた。
俺は、慌てて姿勢を正した。
「いえ。お役に立てたのであれば、何よりにございます」
……まあ、いいか。
秀頼が立派に成長すること自体は、悪いことではない。
俺は、そう思うことにした。
◇
会見を終え、秀頼が帰っていった後。
俺はしばらく座敷に残っていた。
「……殿」
数正が近づいてきた。
「いかがにございましたか」
俺は茶を口に含んだ。
「……立派になられたな」
「さようでございますな」
「昔は、俺に父親との戦について尋ねてきたものだが」
数正が少し笑った。
「そのようなこともございましたな」
「もう、あの頃の子供ではない」
俺は茶碗を置いた。
「秀頼様は、今後ますます周囲の者から頼りにされるだろう」
「……それは、豊臣家にとって喜ばしいことにございましょう」
「ああ」
俺は頷いた。
しかし、そこで言葉が途切れた。
数正は、俺を見ていた。
「……殿」
「何だ」
「秀頼様が立派になられるほど、豊臣家のことを考える者も増えましょうな」
「……そうだな」
俺は窓の外へ目を向けた。
秀頼は、何か悪いことをしたわけではない。
俺に対して無礼な態度を取ったわけでもない。
むしろ、実に礼儀正しい青年だった。
それでも、その存在が今後の天下に大きく関わることは間違いなかった。
「……数正」
「はっ」
「俺は、秀頼様と戦いたくない」
数正は、静かに頷いた。
「……御意」
「だが、秀頼様を担いで兵を集めようとする者が現れれば、放っておくわけにもいかぬ」
「そのとおりにございます」
「豊臣家が自ら軍勢を動かせば、なおさらだ」
俺は息を吐いた。
「……何とか、話し合いで済ませたいものだな」
数正は答えなかった。
俺も、それ以上は何も言わなかった。
◇
一方、大坂へ戻った秀頼は、茶々に二条城での出来事を話していた。
「……なるほど。徳川殿は、そのように仰ったのですね」
茶々は息子の話を最後まで聞き、ゆっくりと頷いた。
「はい。私が何を学ぶべきかと尋ねたところ、人の話を聞き、自ら確かめよと」
「それは、もっともなことです」
「母上も、そう思われますか」
「ええ。ただし」
茶々は息子を見た。
「徳川殿の仰ったことを、そのまま何もかも正しいと思ってはなりませんよ」
秀頼が目を瞬いた。
「……なぜです」
「徳川殿は、徳川の家を守るために働いておられます。そなたは、豊臣の家を預かる身です。時には、望むものが違うこともありましょう」
「……はい」
「徳川殿が親切にしてくださったからといって、豊臣家のことまでお任せしてよいわけではありません」
茶々の声には、迷いがなかった。
秀頼は少し考えた。
「……では、母上は徳川殿を信用なさっていないのですか」
「信用できるところは、しております」
茶々は答えた。
「これまで約束を守ってくださったこともあります。千姫様を大切にしてくださることも、ありがたく思っております」
そこで言葉を切った。
「ですが、天下を徳川の家に継がせるとお決めになったことについて、私は今も納得しておりません」
秀頼は黙った。
「父上が、そなたへ残そうとなさったものです。徳川殿にもお考えがあるのでしょうが、私どもにまで、それを当然のこととして受け入れよとは申せますまい」
茶々は息子の顔を見た。
「……秀頼」
「はい」
「そなたは、これから多くの者に頭を下げられ、さまざまなことを願われるでしょう。そのすべてを聞き入れる必要はありません」
「……承知しております」
「ただし、聞かずに退けるのも愚かなことです。相手の話をよく聞き、そのうえでご自身の考えを持ちなさい」
秀頼は、少し笑った。
「……徳川殿と、似たようなことを仰いますね」
茶々は眉を上げた。
「まあ。あのお方と一緒にされるのは、少々心外ですね」
秀頼が笑った。
茶々も、つられて笑った。
しかし、すぐに表情を戻した。
「……秀頼」
「はい」
「豊臣の家を守るのは、そなたです。私も力を尽くしますが、いつまでも私が代わりに決められるわけではありません」
秀頼は姿勢を正した。
「……はい」
「そのことだけは、忘れぬように」
「承知いたしました」
茶々は頷いた。
その顔には、母親としての優しさと、豊臣家を背負う者としての厳しさが同居していた。
◇
その夜、二条城の一室。
俺は瀬名と、今日の会見について話していた。
「秀頼様は、随分と立派になられましたね」
「ああ。見違えたよ」
「淀殿も、お喜びでございましょう」
「そうだな」
瀬名は、少し考えた。
「……殿」
「何だ?」
「淀殿から、以前いただいた文にございました。秀頼様は近頃、ご自身で物事を決めようとなさることが増えたそうです」
「……そうか」
「まだお若いとはいえ、豊臣家の当主でございますから」
俺は頷いた。
すると、文箱から声がした。
「瀬名ちゃーん!」
かぐやである。
「さっきのお手紙、まだある?」
瀬名が振り返った。
「淀殿からのものでございますか」
「うん!」
瀬名は文箱の近くへ座った。
「先ほど、読み聞かせたものですね」
「もう一回聞きたい!」
俺は苦笑した。
かぐやは、茶々から届いた文を何度も読んでもらいたがることがある。
特に、以前会ったときの出来事が書かれているときはそうだった。
瀬名は文を取り出した。
そこには、庭に咲いた花のことや、千姫が最近気に入っている菓子のことが書かれていた。
そして最後に、かぐやへ向けた言葉が添えられている。
『また、ゆるりとお話しできる日を楽しみにしております』
「ねえ、竹千代!」
読み終わると、かぐやがこちらを向いた。
「何だ?」
「茶々に会いに行きたい!」
俺は、少し考えた。
「……大坂へか」
「うん!」
「今回は、京での用事が多いからな。大坂まで行けるかどうか……」
「えー!」
かぐやが不満そうな声を上げた。
瀬名が笑った。
「かぐや殿。すぐにお会いできずとも、また機会はございますよ」
「ほんと?」
「ええ。私からも、お便りを出しておきましょう」
かぐやは、少し考えた。
「……じゃあ、しょうがないか!」
あっさり納得した。
俺は思わず笑った。
……こいつは、本当に。
一方、瀬名は、文を丁寧に畳んでいた。
その様子を見て、ふと思った。
茶々は、かぐやに会いたいと書いている。
かぐやも、茶々に会いたがっている。
俺たちがどのような立場にあろうと、二人の間ではそのことが何より大切なのだろう。
……できれば、これから先も。
気兼ねなく会えるようにしてやりたいものだ。
◇
慶長十九年、夏。
京から、方広寺の大仏殿再建に関する報告が届いた。
豊臣家が進めていた大規模な普請である。
かつて秀吉が建立した大仏殿は、地震などによって大きな被害を受けていた。それを秀頼が再建しようとしている。
豊臣家にとっては、亡き秀吉の事業を継ぐ意味もあるのだろう。
再建そのものについて、俺も以前から報告を受けていた。
だが、今回は少し様子が違った。
「……数正」
「はっ」
「この鐘の銘文についてだが」
俺は書付を指した。
『国家安康』
『君臣豊楽』
そう記されている。
「こちらの家臣から、問題があると申してきております」
数正が答えた。
「……俺の名を分けている、ということか」
「はい。また、豊臣の名を用いた文言についても、懸念する声がございます」
俺は書付を見た。
国家安康。
国が安らかである。
普通に読めば、めでたい言葉にも思える。
しかし、俺の名は家康だ。
その二文字が分かれている。
一方で、君臣豊楽。
豊臣の二文字が含まれている。
それを、徳川へ害意を抱く言葉だと解釈する者がいる。
「……これを書いた者は、何と申しておる」
「鐘銘を撰した僧についても、調べを進めております」
俺は頷いた。
鐘の銘文だけで、ただちに豊臣家が徳川へ害意を持っていると決めつけることはできない。
だが、こちらの家臣たちが問題視している以上、何もなかったことにするのも難しい。
何より、徳川と豊臣の間には、以前から積み重なっている問題がある。
秀頼は、すでに成人した。
豊臣家の所領も、大坂城も、そのまま残っている。
大名たちの中には、今も豊臣家へ強い恩義を感じている者が多い。
徳川が将軍職を世襲する仕組みを作っても、そのことに不満を抱く者がいなくなったわけではなかった。
「……まずは、豊臣家へ説明を求めよう」
俺は言った。
「鐘銘のことも、供養のことも、詳しく確かめたい」
数正が頷いた。
「片桐且元殿を通じて、話を進めましょう」
「ああ。できれば、穏便に済ませたい」
俺は書付を置いた。
すると、数正が少し考えてから口を開いた。
「……殿」
「何だ?」
「鐘銘の問題が解決したとしても、豊臣家との関係が以前のように戻るとは限りませぬ」
俺は、顔を上げた。
数正は続けた。
「秀頼様が成人なされ、大坂には今なお多くの兵を集められる力がございます。徳川が将軍家となった今、そのことを気にする者も増えております」
「……分かっておる」
「では、此度の件を、どのように収められるおつもりで?」
俺はすぐには答えなかった。
鐘の銘文を改めさせるだけなら、それほど難しいことではないだろう。
問題は、その後だった。
豊臣家は今後も大坂城を持ち、独自の力を保ち続ける。
徳川はそれを認めたまま、天下の武家を統べていく。
双方が相手を信用しなくなれば、わずかな行き違いが大きな争いにつながりかねない。
その危険は、以前から承知していた。
それでも俺は、決定的な話し合いを先延ばしにしてきた。
秀頼が幼いから。
茶々が警戒するから。
千姫がいるから。
今は平穏だから。
理由はいくらでもあった。
……だが、本当は。
俺自身が、豊臣家と正面から向き合うことを避けていたのかもしれない。
秀吉から秀頼を託された。
あのときの約束を破りたくなかった。
その一方で、徳川の天下を築くことも諦められなかった。
二つがいつまでも両立するとは限らないと、分かっていたのに。
「……数正」
「はっ」
「豊臣家へは、鐘の銘文だけでなく、今後のことも話す必要があるな」
数正が、静かに頷いた。
俺は、机に置かれた書状を見た。
史実では、この先に大坂の陣が起きる。
そして、茶々も秀頼も死ぬ。
もちろん、俺の知っている歴史と今の歴史は、すでに違っている。
瀬名は生きている。
信康も生きている。
数正だって、今なお俺の傍にいる。
変えられたことは、確かにあるのだ。
だったら、今度も。
……何とか、できないものだろうか。
俺は書状を畳んだ。
「……数正」
「はっ」
「秀頼様には、できる限り戦に巻き込まれずに済む道を選んでいただきたい」
数正は、静かに頭を下げた。
◇
大坂城。
方広寺の一件について、茶々は家臣たちから報告を受けていた。
「……徳川方は、鐘の文字を問題にしているというのですね」
「はい」
「国家安康、君臣豊楽。それが、徳川殿を呪い、豊臣を讃える言葉だと?」
「そのように解釈されております」
茶々は、しばらく黙っていた。
そして、呆れたように息を吐いた。
「……ずいぶんと難しい読み方をなさるものですね」
家臣たちは答えなかった。
「鐘の文字を選んだ者に、そのような意図があったのかどうか。それを確かめもせずに決めつけられては、困ります」
茶々は続けた。
「もちろん、徳川殿が不快に思われたというのであれば、説明は必要でしょう。ですが、だからといって、豊臣家が害意を抱いているなどと申されるのは、承服できません」
秀頼も頷いた。
「私も、父上の供養のために進めた仕事だ。徳川を呪うためではない」
「そのとおりです」
茶々は、息子へ向き直った。
「ただし、秀頼。相手が理不尽だからといって、こちらも感情に任せてよいわけではありません」
「……はい」
「まずは片桐に説明させましょう。鐘銘について、どのような意味で記したのか。供養のことも含め、きちんと伝えさせるのです」
秀頼は頷いた。
「承知いたしました」
茶々は、そこで少し声を落とした。
「……ですが、秀頼」
「何でしょう」
「此度のことが、鐘の文字だけで終わるとは思わぬ方がよいでしょう」
秀頼が顔を上げた。
茶々は続けた。
「徳川殿は、長いこと豊臣家を気にかけてこられました。ですが、その一方で、徳川の家を将軍家として定め、天下を治める仕組みを整えてこられた」
「……はい」
「私どもが大坂城を持ち続けることを、いつまでも同じように認めてくださるかどうか」
茶々は、少しだけ目を細めた。
「……その点については、私も疑問に思っております」
秀頼は黙った。
茶々は立ち上がった。
「片桐には、鐘銘の説明だけでなく、徳川方が本当に何を望んでおられるのか、確かめさせなさい」
「……承知いたしました」
茶々は頷いた。
大坂城の外には、夏の強い日差しが降り注いでいた。
だが、城内ではすでに、次の戦を恐れる声が増え始めていた。
◇
大坂へ返事を出した翌日、片桐且元が駿府へ来ているとの知らせが届いた。
方広寺の件で、豊臣家から遣わされたという。
「……且元殿が?」
俺が尋ねると、数正は頷いた。
「はい。鐘銘について弁明したきことがあるとのことでございます」
「そうか」
俺は机に置かれた書付を見た。
片桐且元。
若い頃から秀吉に仕え、今では豊臣家の政務を支えている男だ。徳川との交渉にも長く携わっており、俺自身、何度となく顔を合わせてきた。
豊臣家の中でも、こちらの事情をよく理解している人物だと思っている。
だからこそ、困った。
且元が弁明に来たということは、向こうも鐘銘の件を重大な問題として受け止めたということだ。ここで俺が簡単に話を収めれば、豊臣家を疑っていた家臣たちは納得しないだろう。逆に厳しく問い詰めれば、豊臣家の中で且元の立場が悪くなる恐れもある。
「……正純と崇伝には、会ってもらおう」
俺は言った。
「鐘銘をどういう意図で記したのか、供養の日取りをどうするのか。それぞれ詳しく確かめたい」
数正が頷いた。
「且元殿とは、お目通りなされますか」
俺は少し考えた。
「……まずは、話を聞いてからだな」
結局、俺は且元と直接会わず、交渉を本多正純と金地院崇伝に任せることにした。
政治の駆け引きというものは、相手と顔を合わせればよいというものでもない。こちらが何を問題にしているのか、まず明らかにさせる必要があった。
もっとも、あとになって思えば、この判断も且元にとっては厳しいものだったのだろう。
俺に会えなかったというだけで、大坂へ帰った際に何を言われるか。
そこまで考えなかったわけではない。
ただ、俺はそれでも、豊臣家からより明確な返答が必要だと考えていた。
◇
数日後。
正純と崇伝から、交渉の報告を受けた。
「……且元殿は、鐘銘に徳川への害意はないと申しております」
正純が言った。
「言葉の意味についても、詳しく説明がございました」
「そうか」
俺は頷いた。
「俺の名を裂いて呪うために記したわけではない、と」
「はい」
「……まあ、そうだろうな」
正純が顔を上げた。
「殿?」
「本当に俺を呪うつもりなら、わざわざ大きな鐘に刻む必要もあるまい」
崇伝が、わずかに眉を動かした。
俺は続けた。
「ただ、書いた者に悪意がなかったとしても、読む者がどう受け取るかは別だ。将軍家を侮る言葉だと考える者が出れば、それ自体が問題になる」
「そのとおりにございます」
崇伝が頭を下げた。
俺は二人を見た。
「……鐘の件は、改める方法もあろう。だが、俺が気にしておるのは、それだけではない」
正純が頷いた。
大坂城に、牢人たちが集まり始めている。
その報告は以前から届いていた。
関ヶ原で敗れた者の家臣。
改易された大名に仕えていた武士。
新たな仕官先を見つけられず、各地を渡り歩いていた者。
そうした者たちが、少しずつ大坂へ向かっているという。
「……豊臣家は、何のために兵を集めておるのか」
俺は尋ねた。
正純が書付を広げた。
「且元殿は、すべてが秀頼様のご命令によるものではないと申しております。中には、勝手に大坂へ集まる者もいるとのことで」
「それは、そうだろうな」
誰かが城下へやって来るたびに、秀頼が許可しているとは思わない。
だが、集まった武士たちをそのまま城内へ迎え入れ、兵糧まで与えるようになれば、話は違ってくる。
「……且元殿には、その点も確かめてもらいたい」
俺は言った。
「大坂城に軍勢を集めるのであれば、こちらも警戒せざるを得ぬ。今後の豊臣家の立場についても、話し合う必要がある」
崇伝が頭を下げた。
「承知いたしました」
俺は、しばらく黙っていた。
鐘の銘文を直せば、それですべてが収まる。
もう、そんな段階ではない。
そのことを、ようやく認めなければならなかった。
◇
九月。
且元が大坂へ戻った。
ところが、その報告は、城内の者たちを安心させるどころか、かえって混乱させることになった。
「……大坂城を出よと?」
秀頼が顔を上げた。
且元は深く頭を下げた。
「必ずしも、それのみを求められているわけではございませぬ」
且元は、徳川との和解を確かなものとするために、いくつかの案を示した。
秀頼が江戸へ赴き、将軍との関係を明らかにする。
あるいは、茶々が江戸へ移って両家の親交を示す。
または、豊臣家が大坂城を離れ、別の土地へ移る。
いずれも、豊臣家にとって容易に受け入れられる話ではなかった。
しかも、且元が説明した案について、大坂の者たちは、それが徳川から正式に命じられた条件なのか、それとも且元自身が考えた和解の方法なのか、はっきり理解できずにいた。
「……片桐」
茶々が口を開いた。
「そなたは、それで豊臣家が安泰になると考えるのですか」
且元は顔を上げた。
「……はい」
「大坂城を離れても?」
「城を守ることと、豊臣家を守ることは、必ずしも同じではございませぬ」
その言葉に、家臣の一人が顔をしかめた。
「……何を申すか」
且元は続けた。
「徳川方が疑いを抱いている以上、何らかの形でそれを晴らさねばなりませぬ。このまま互いに兵を集めれば、いずれ戦になります」
「戦を恐れて、大坂を明け渡せと申すのか!」
声が上がった。
且元は首を振った。
「恐れているのではございませぬ。避けられる戦ならば、避けるべきと申しているのです」
「それでは、徳川の言いなりではないか!」
次々と反論が飛んだ。
茶々は、しばらく黙って聞いていた。
そして、扇を畳んだ。
乾いた音が響く。
「……皆、静まりなさい」
声を荒らげたわけではなかった。
それでも、家臣たちは口を閉じた。
茶々は且元を見た。
「片桐。そなたが豊臣家を思って働いてくれていることは、承知しております」
「……ありがたき幸せ」
「ですが、一つ答えなさい」
「はっ」
「秀頼が大坂城を離れれば、徳川は二度と豊臣家へ兵を向けぬと、約束してくださるのですか」
且元は言葉に詰まった。
「……それは」
「相応の所領を残すと申されても、その取り決めを後から改めぬという保証は、どこにあります」
「……」
「そなたの誠意を疑っているのではありません。私が知りたいのは、徳川が何を約束し、誰がそれを守るのかということです」
且元は俯いた。
茶々は続けた。
「秀頼は、豊臣家の当主です。今まで守ってきた城を離れよというのであれば、それに見合うだけの確かな約束が必要でしょう」
「……仰せのとおりにございます」
「ならば、もう一度確かめなさい。私どもも、ただ意地を張って戦を望んでいるわけではありません」
茶々は一度言葉を切った。
「ですが、豊臣家を残すためと言いながら、豊臣家が何を失うのかも定められていない案を、簡単に受け入れることはできませぬ」
秀頼も、静かに頷いた。
「……私も、母上と同じ考えです」
且元は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
しかし、この話し合いの後も、城内の不満は収まらなかった。
片桐且元は徳川に通じている。
豊臣家を裏切り、大坂城を明け渡そうとしている。
そうした噂が、日に日に増えていった。
茶々は、且元への非難を抑えようとした。
だが、城内に集まっていた者たちの中には、もはや且元の言葉を信用しない者もいた。
秀頼の命令をもってしても、すべてを静めることは難しくなっていた。
◇
且元が大坂城を去ったという知らせが届いたのは、十月に入ってからだった。
「……何だと?」
俺は書状を読み返した。
且元は、身の危険を感じて大坂を退去したという。
城内では、且元を討とうとする動きまであったらしい。
「……数正」
「はっ」
「これは、本当なのか」
「複数の者から、同じような報告が届いております」
俺は書状を机へ置いた。
……まずいな。
いや、まずいどころではない。
且元は、これまで徳川と豊臣の間に立って交渉してきた男だ。
こちらの考えも、向こうの事情も知っている。
その且元が大坂城を追われた。
それは、豊臣家の中で、徳川との交渉を続けようとする者の立場が著しく弱くなったということでもある。
「……且元殿を、こちらへ迎え入れよ」
「承知いたしました」
「本人からも話を聞きたい」
数正が頭を下げた。
俺は、しばらく書状を見つめていた。
どうして、こうなった。
鐘の文字について、説明を求めた。
大坂に兵が集まっている理由を尋ねた。
今後の両家の関係について、はっきりさせようとした。
一つずつ見れば、必要なことだったと思う。
だが、その積み重ねが、且元を大坂城から追い出す結果につながった。
俺が直接会わなかったことも、向こうの不信を強めたのだろう。
そう考えると、まったく責任がないとは言えなかった。
とはいえ、ここでこちらがすべてを取り下げれば、豊臣家が兵を集め続けることを認めることになる。
それもできない。
「……殿」
数正が、静かに声をかけた。
「豊臣家へ、もう一度使者を送られますか」
俺は顔を上げた。
「……送ろう」
「御意」
「ただし、且元殿が去った理由についても説明を求めたい。交渉のために遣わされた者が、戻った途端に命を狙われるようでは、こちらも安心できぬ」
数正は頷いた。
俺は続けた。
「それから、牢人たちのことだ。城へ兵を集める動きを止めてもらいたい」
「……それを拒まれた場合は?」
俺は、しばらく答えなかった。
窓の外から、庭を掃く音が聞こえた。
秋の風が、障子をわずかに揺らしている。
「……そのときは、兵を出す」
数正は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
口にしてから、俺は長く息を吐いた。
もう、戦を避けるための方法を考えるだけでは済まなくなっていた。
戦を始める準備も、進めなければならない。
◇
その日の夕刻。
俺は、数正に古い絵図を持ってこさせた。
大坂城を中心に、周囲の道や川、豊臣家が持つ土地について記されたものだ。
「……殿」
「何だ?」
「出陣のためのご準備にございますか」
「それもある」
俺は答えた。
「だが、今度は別のことを考えておる」
数正が顔を上げた。
「豊臣家が大坂城を離れる場合、どこへ移っていただくのがよいと思う?」
数正は、少し驚いたようだった。
「……今から、それをお考えになるので?」
「ああ」
俺は絵図を広げた。
「戦になれば、当然、こちらが勝つつもりで兵を出す。だが、勝った後に秀頼様をどうするのか。そのことを決めぬまま戦を始めるつもりはない」
数正は黙った。
俺は続けた。
「秀頼様に相応の所領を残し、豊臣家の家格も認める。家臣のうち、従って移る者には働く場所を与える。従わぬ者についても、無用な処罰をせずに済むよう考えたい」
「……それは、容易なことではございませぬな」
「分かっている」
豊臣家は、まだ大きな力を持っている。
秀頼を慕う者も多い。
所領を与えれば、それを頼りに再び兵を集める者が出てくるかもしれない。
だが、だからといって、秀頼と茶々を殺す必要があるとは思えなかった。
「……数正」
「はっ」
「領地の広さだけでなく、周囲の大名との関係も調べてくれ。豊臣家が暮らしていけても、周りを敵に囲まれていては意味がない」
「承知いたしました」
「それから、千姫のことも考えねばならぬ。あの子だけを引き離して済む話ではないからな」
数正は頷いた。
俺は絵図へ目を落とした。
秀吉のことを思い出す。
痩せた手。
弱々しい声。
そして、秀頼にはまだ何の罪もないと告げた顔。
……分かっているよ。
俺だって、忘れてはいない。
俺が本当に望んでいるのは、豊臣家を滅ぼすことではない。
徳川の世を安定させ、その中で豊臣家にも生き残ってもらうことだ。
簡単な話ではない。
しかし、瀬名と信康を救うことができたのだ。
あのときも、決して簡単ではなかった。
だったら、今度だって。
……諦めるには、まだ早い。
◇
その夜、瀬名が俺の部屋を訪ねてきた。
「……殿」
「どうした?」
「大坂のこと、伺いました」
俺は頷いた。
「……兵を出すことになるかもしれん」
瀬名は、しばらく黙っていた。
「……淀殿は」
「まだ、何も決まっておらぬ」
俺は答えた。
「だが、大坂城へ兵が集まっている。こちらからの問いにも、十分な返事がない。このままでは、いずれ戦になる」
瀬名は膝の上で手を重ねた。
「……かぐや殿には、お話しになりましたか」
俺は文箱へ目を向けた。
「……まだだ」
「そうですか」
瀬名も、そちらを見た。
かぐやは眠っているらしく、声を上げる様子はなかった。
「……殿」
瀬名が、静かに言った。
「かぐや殿は、淀殿と親しくしておられます」
「ああ」
「お二人のことを思えば、できる限り争いにならぬようにしていただきとうございます」
俺は、すぐには答えられなかった。
瀬名は、俺が何を考えているのか分かっているのだろう。
ただ、それでも言わずにはいられなかったのだと思う。
「……俺も、そうしたい」
俺は答えた。
「だが、徳川にも守らねばならぬものがある。大坂に軍勢が集まるのを見過ごせば、いずれ天下のどこかで争いが起きるだろう」
瀬名は頷いた。
「……承知しております」
「豊臣家が今の形で残ることを認め続ければ、徳川に不満を持つ者たちが大坂へ集まる。逆に、大坂の力を削ごうとすれば、豊臣家が抵抗する」
俺は息を吐いた。
「……どちらにしても、難しい」
瀬名は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに尋ねた。
「……秀頼様を、お討ちになるおつもりですか」
俺は顔を上げた。
「……いや」
答えたのは、すぐだった。
「それは望まぬ」
瀬名が俺を見た。
「秀頼様には、命を失うような目に遭ってほしくない。豊臣家も、何らかの形で残したいと思っている」
俺は続けた。
「そのために、大坂城を離れていただく場合のことも考えている。所領も、家臣の処遇も、できる限り整えたい」
「……淀殿は、お受けになるでしょうか」
「……分からぬ」
俺は正直に答えた。
茶々は、ただ命を助けてもらえれば満足するような人ではない。
あの人には、豊臣家を守るという意志がある。
秀頼自身にも、当主としての考えがある。
そこを無視して条件を押しつけたところで、納得してもらえるはずがなかった。
「……瀬名」
「はい」
「俺は、茶々殿にも秀頼様にも生きていてほしい」
俺は、文箱へ目を向けた。
「……かぐやにとっても、大切な人だからな」
瀬名は、静かに頷いた。
「……ええ」
「俺にとっても、そうだよ」
瀬名が顔を上げた。
俺は少し笑った。
「かぐやは、俺が竹千代だった頃から傍にいてくれた。今川の人質だったときも、三河へ戻ったときも、戦に負けて逃げ帰ったときもだ」
「……はい」
「徳川家康という立場を知られる前から、あいつは俺を知っている」
俺は息を吐いた。
「そのあいつが、今は茶々殿を大切に思っている。俺だって、できることなら二人を引き離したくない」
瀬名は、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「……殿」
「何だ?」
「でしたら、最後まで諦めずにいてくださいませ」
俺は、瀬名を見た。
「私も、できることがあればいたします」
俺は頷いた。
「……ありがとう」
◇
翌朝。
かぐやに、大坂のことを話した。
「……えっ?」
かぐやは、文箱の縁に身体を乗せたまま動かなくなった。
「竹千代、戦に行くの?」
「……まだ、決まったわけじゃない」
「でも、行くかもしれないんでしょ?」
「ああ」
かぐやは、しばらく黙っていた。
それから、急に声を上げた。
「茶々は!?」
俺は口を閉じた。
「茶々は、大坂にいるんでしょ!?」
「……ああ」
「じゃあ、危ないじゃん!」
「……そうだな」
俺が頷くと、かぐやは身体を揺らした。
「駄目だよ!」
その声は、いつもより大きかった。
「竹千代、茶々のところに行くの!?」
「……」
「戦するの!?」
俺は、かぐやを見た。
何と答えても、あいつを安心させることはできないだろう。
だが、ここで嘘をつくわけにもいかなかった。
「……戦になれば、そうなる」
かぐやは、しばらく何も言わなかった。
俺は続けた。
「かぐや。俺は茶々殿を殺したいわけじゃない。秀頼様にも、死んでほしくないと思っている」
「……じゃあ、何で戦するの?」
その問いに、俺はすぐ答えられなかった。
答えようとすれば、いくらでも説明はできる。
大坂城に兵が集まっている。
徳川の支配を認めない者たちがいる。
豊臣家との交渉が行き詰まっている。
このまま放置すれば、天下が再び戦乱へ戻るかもしれない。
そうしたことを、一つずつ説明することはできる。
だが、それを聞いたところで、かぐやが安心できるわけではない。
俺自身、できれば別の道を選びたいと思っているのだから。
「……かぐや」
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、徳川の家を守らなければならない」
かぐやは黙って聞いていた。
「秀忠も信康もいる。家臣たちもいる。江戸や駿府で暮らしている者たちもいる。今ここで大坂との争いを放っておけば、その者たちが危険に晒されるかもしれない」
「……うん」
「だから、戦になると分かっていても、兵を出さなければならないことがある」
かぐやは、しばらく考えた。
それから、小さな声で言った。
「……でも、茶々も大事だよ」
俺は頷いた。
「……ああ」
「竹千代も大事だし、茶々も大事」
「……分かってる」
「私、二人とも死んでほしくない」
俺は、かぐやを見た。
そこには怒りよりも、はっきりとした不安があった。
俺は、しばらく何も言えなかった。
「……俺も、そう思っている」
ようやく答えた。
「……本当?」
「ああ」
「じゃあ、二人とも助かるようにしてね」
……簡単に言ってくれる。
いつもの俺なら、そう思って苦笑しただろう。
だが、今日は笑えなかった。
かぐやは、俺にできないことを頼んでいるわけではない。
俺が何としても実現したいと思っていることを、そのまま口にしているだけなのだから。
「……できる限り、やってみるよ」
俺は答えた。
かぐやは、しばらく俺を見ていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
それから、少し考えて言った。
「ねえ、竹千代」
「何だ?」
「茶々に会いたい」
俺は、長く息を吐いた。
「……今は、難しい」
「……そっか」
かぐやは、珍しくすぐに納得した。
だが、諦めたわけではないらしい。
「じゃあ、戦が終わったら?」
俺は、少し考えた。
「……そのときは、何とか方法を探そう」
「本当?」
「ああ」
「約束?」
俺は、かぐやを見た。
「……約束する」
かぐやは、少しだけ身体を揺らした。
「……じゃあ、待ってる」
その返事を聞き、俺は頷いた。
この約束だけは、何としても守りたかった。
◇
十月。
俺は諸大名へ出陣を命じた。
秀忠も、江戸から軍勢を進めることになった。
信康には関東の守りと物資の輸送を任せた。関ヶ原以来、大軍を動かすために必要な兵糧や街道のことを、あいつは誰よりもよく知っている。
「……父上」
出陣前、信康が俺のもとへ来た。
「大坂のこと、伺いました」
「ああ」
「此度は、私もお供いたしたく存じます」
俺は首を振った。
「信康。お前には関東を頼みたい」
信康の表情が変わった。
「……また、留守を守るのでございますか」
「そうだ」
「私も、徳川の武将にございます」
「分かっている」
俺は頷いた。
「だが、戦は前に出る者だけでできるわけではない。大坂へ何万もの兵を進めれば、食糧も武具も大量に必要になる。しかも、いつ終わるか分からぬ戦だ」
信康は黙った。
「江戸からの輸送が滞れば、兵は戦う前に飢える。関東の守りが薄くなれば、そこを狙う者も現れるかもしれない」
俺は息子を見た。
「お前だからこそ、任せたい」
信康は、しばらく黙っていた。
それから、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
「頼んだぞ」
「はい」
信康は顔を上げた。
「……父上」
「何だ?」
「一つだけ、お願いがございます」
「聞こう」
「どうか、ご無事でお戻りください」
俺は、少し驚いた。
信康は真面目な顔をしていた。
「父上も、すでにお若くはございませぬ。戦場では、何が起きるか分かりません」
「……ああ」
「どうか、無理をなさらぬように」
俺は、思わず笑った。
「最近、皆にそればかり言われるな」
「……それだけ、皆が心配しているのでございます」
信康は、少しだけ笑った。
それから、声を落とした。
「……かぐや殿も、心配なさるでしょう」
俺は顔を上げた。
信康は、俺を真っ直ぐ見ていた。
「父上に何かあれば、あの方もお悲しみになるかと」
「……そうだな」
俺は頷いた。
信康も、今ではかぐやを知っている。
初めて会わせたときには随分と驚いていたが、その後も何度か顔を合わせていた。
あいつは、俺がどれほどかぐやを大切にしているのかも、少しずつ理解してくれているのだろう。
「……信康」
「はい」
「かぐやのことは、今後も頼む」
「承知しております」
「だが、あいつを徳川の家に縛りつけるようなことはするなよ」
信康は、少し笑った。
「以前にも、伺いました」
「……そうだったな」
「父上の大切なご友人にございます。私も、粗略に扱うつもりはありませぬ」
俺は頷いた。
「……頼んだ」
◇
出陣の日。
瀬名が見送りに来た。
「殿。どうか、お気をつけて」
「ああ」
「お身体を冷やされませぬように」
「分かっている」
「食事も、きちんとお取りくださいませ」
「……はいはい」
瀬名が、少し眉を寄せた。
俺は慌てて言い直した。
「……分かった。気をつけるよ」
それで、ようやく笑ってくれた。
かぐやは、文箱の中にいた。
「……竹千代」
小さな声がした。
「何だ?」
「茶々を、いじめないでね」
俺は、しばらく黙った。
「……できる限り、危険な目には遭わせたくないと思っている」
「……本当?」
「ああ」
かぐやは、蓋の隙間からこちらを見ていた。
「……竹千代も、気をつけてね」
俺は少し笑った。
「ああ」
「怪我しないでね!」
「分かった」
「それから、ちゃんと帰ってきて!」
俺は頷いた。
「……帰ってくるよ」
かぐやは、ようやく少し笑った。
「約束だよ!」
「ああ」
俺は、そっと文箱の蓋を閉じた。
そして、瀬名へ預けた。
「……頼む」
「はい」
瀬名は、文箱を大切そうに抱えた。
俺は二人を見送ってから、馬へ乗った。
……さて。
今度こそ、戦を終わらせなければならない。
そして、できることなら。
豊臣の親子も、かぐやも、誰も失わずに済ませたい。
俺は手綱を握り直した。
◇
十一月。
大坂城を取り囲む軍勢は、膨れ上がっていた。
徳川方は、およそ二十万ともいわれる大軍を動員した。
もちろん、全員が同時に戦うわけではない。
陣を守る者もいる。
道を確保する者もいる。
兵糧を運ぶ者もいる。
それでも、大坂の周囲は見渡す限り兵で埋まっているように見えた。
「……壮観ですな」
数正が、遠くの陣を眺めて言った。
俺は頷いた。
「……ああ」
だが、あまり嬉しい気分にはなれなかった。
これほどの兵を集めなければならない相手が、大坂城にいる。
そして、その城には秀頼と茶々がいる。
「……殿」
秀忠がやってきた。
「軍勢の配置について、ご相談がございます」
「聞こう」
俺たちは絵図を広げた。
大坂城は、守りの堅い城だった。
堀は深く、石垣は高い。
周囲の川や湿地も、攻める側には厄介である。
城へ近づくには、いくつもの備えを突破しなければならなかった。
「……正面から力攻めするのは、難しいな」
俺は言った。
秀忠が頷いた。
「兵の損耗も、大きくなりましょう」
「ああ。できれば、長く囲んで相手の出方を見たい」
「……籠城を続けるつもりなのでしょうか」
「そのつもりだろう」
俺は絵図を指した。
「大坂方には、大勢の牢人が集まっている。だが、すべてが同じ考えで動いているわけではあるまい。長く囲めば、内部で意見が分かれることもある」
数正が頷いた。
「……兵糧についても、こちらの方が長く保てるかと」
「ああ。信康が、関東からの輸送を整えてくれている」
俺は息子の書状を思い出した。
どの港から、どれほどの米を送るか。
どの道を使い、どこで荷を積み替えるか。
何日分の備蓄を残すか。
そうしたことが、細かく記されていた。
……あいつがいてくれて、本当に助かった。
俺は絵図を畳んだ。
「……秀忠」
「はっ」
「無理に城を攻めるな。兵を無駄に失う必要はない」
「承知いたしました」
秀忠は頭を下げた。
しかし、戦というものは、こちらが望んだとおりに進むとは限らなかった。
◇
十二月。
真田の出城を巡って、激しい戦が起きた。
大坂城の南側に設けられた備えである。
真田信繁。
以前、真田昌幸のもとで戦っていた男だ。
上田で秀忠の軍勢を苦しめた真田家の者である。
その男が、今度は大坂城へ入り、徳川方を迎え撃っている。
「……厄介な相手だな」
俺は報告を聞きながら呟いた。
真田の陣は、よく考えて築かれていた。
敵が攻め寄せてくる場所を絞り、鉄砲を撃ちかけやすくしている。
しかも、相手の動きを見て兵を出し入れし、こちらが深く踏み込めば反撃する。
「……殿」
使者が駆け込んできた。
「真田の出城を攻めた軍勢、大きな損害を受けております!」
俺は顔をしかめた。
「……どれほどだ」
使者が報告する。
思っていた以上の損害だった。
俺は、しばらく黙った。
「……これ以上、無理に攻めるな」
「はっ!」
「退ける者は退かせよ。負傷者を運び、態勢を整える」
使者が走っていった。
俺は絵図を見た。
……真田め。
上田で秀忠を苦しめただけでは飽き足らず、今度は俺の軍勢まで苦しめるつもりか。
まったく、勘弁してほしい。
だが、戦上手なのは認めざるを得なかった。
あれほどの備えを、短い期間でよく整えたものだ。
「……秀忠」
「はっ」
「真田の出城は、ひとまず放っておけ」
秀忠が顔を上げた。
「……よろしいので?」
「ああ。敵が守りを固めておる場所へ、わざわざ突っ込む必要はない」
俺は続けた。
「城を囲むことが目的だ。真田の陣を落とさなければ、大坂城を包囲できぬわけではあるまい」
秀忠は頷いた。
「……承知いたしました」
俺は、長く息を吐いた。
勝つために兵を集めた。
だが、その兵たちを死なせるために集めたわけではない。
……できれば、これ以上の損害は避けたいものだ。
もっとも、大坂方がそう簡単に降伏するとは思えなかった。
◇
大坂城の中では、戦の報告が次々と届いていた。
「真田勢、徳川方を撃退いたしました!」
使者の報告に、家臣たちが沸いた。
秀頼も顔を上げた。
「……よくやった!」
「はっ!」
だが、茶々はすぐに声をかけた。
「秀頼。勝ったことを喜ぶのは結構ですが、次の備えを忘れてはなりませんよ」
秀頼が振り返った。
「……はい」
「徳川の軍勢は、まだ城を囲んでおります。一度退けたからといって、それで終わりではありません」
茶々は家臣たちを見た。
「兵糧は、あとどれほど保ちますか。負傷した者たちの手当ては足りておりますか。冬の間に病人が増えれば、どういたします」
家臣たちは顔を見合わせた。
一人が答えた。
「……兵糧については、まだ余裕がございます」
「余裕がある、では分かりませぬ。何人を何日養えるのか、改めて調べなさい」
「はっ!」
「負傷者の手当ても急がせるように。戦に勝ったからといって、怪我人が治るわけではありません」
茶々は、そこで少し声を落とした。
「……そなたたちが豊臣のために戦ってくれていることは、承知しております」
家臣たちは黙った。
「ですが、勇ましい言葉ばかりでは城は守れませぬ。勝ち続けるつもりなら、明日のことだけでなく、その先も考えなさい」
その声には、はっきりとした強さがあった。
秀頼も、静かに頷いた。
「……母上の仰るとおりだ」
それから、家臣たちへ向き直った。
「兵糧と負傷者のこと、改めて報告せよ」
「はっ!」
使者たちが下がった後、秀頼は茶々を見た。
「……母上」
「何でしょう」
「私は、豊臣家を守りとうございます」
茶々は頷いた。
「……ええ」
「ですが、城の者たちを死なせたいわけではありませぬ」
「それは、私も同じです」
茶々は、息子の肩に手を置いた。
「だからこそ、勝てる戦と、避けるべき戦を見極めなければならないのです」
秀頼は、しばらく考えた。
「……和睦の道も、探るべきなのでしょうか」
「もちろんです」
茶々は即答した。
秀頼が顔を上げる。
「戦を始めた以上、必ず最後まで戦わなければならないなどという決まりはありません」
茶々は続けた。
「ただし、和睦をするなら、何を守るための和睦なのかを明らかにしなさい。命を助けてもらう代わりに豊臣の家を失うというのでは、何のために戦ったのか分からなくなります」
秀頼は頷いた。
「……承知いたしました」
茶々は、息子を見つめた。
幼い頃には、何かあれば自分の後ろへ隠れていた。
今では、豊臣家の当主として軍勢を率いている。
その成長を喜ばしく思う一方で、こんな戦を経験させなければならなくなったことが、胸に重くのしかかっていた。
だが、茶々はその思いを顔には出さなかった。
秀頼が不安を抱えているのなら、母親である自分まで取り乱すわけにはいかなかった。
◇
十二月に入ると、徳川方は大筒を使った攻撃を強めた。
大坂城の堀は深い。
兵を進めようにも、近づくだけで矢や鉄砲を浴びせられる。石垣をよじ登るなど、よほどの事情がなければ考えたくもなかった。
ならば、遠くから撃ち込む。
単純な話ではある。
だが、こちらも好きなだけ撃てるわけではない。弾には限りがあり、運ぶのにも手間がかかる。何より、大筒そのものが扱いにくかった。
「……殿。大筒の据えつけが終わりました」
報告を受け、俺は陣の外へ出た。
遠くに大坂城が見える。
あれほど大きな城を築くのに、どれほどの金と人手が必要だったのだろう。江戸の普請に散々苦労してきた俺には、少しばかり想像できる。
その城へ、今から弾を撃ち込む。
「……秀忠」
「はっ」
「城内へ届くか」
「届くと申しております。ただし、狙った場所へ正確に当たるかどうかは、撃ってみなければ分かりませぬ」
「……そうか」
俺は頷いた。
「まずは、敵の櫓や備えを狙え。城内へも圧力をかけたい」
秀忠は、少し考えてから尋ねた。
「……本丸へも、でございますか」
俺は大坂城を見た。
秀頼と茶々は、あの中にいる。
千姫もいる。
そのことは、当然分かっていた。
「……本丸へ届けば、向こうも戦を続ける危険を理解するだろう」
俺は答えた。
「ただし、撃つ場所については十分に調べよ。むやみに弾を使うな」
秀忠が頷いた。
俺はもう一度、城を見た。
本丸へ撃ち込めば、そこにいる者が死ぬかもしれない。
それを承知で命じるのだから、結果についても責任がある。
……嫌な仕事だな。
しかし、今ここで城を力攻めすれば、さらに大勢の兵が死ぬ。
攻め続けるよりも、和睦を選ばせる方が犠牲は少なくなる。
少なくとも、俺はそう判断した。
大筒の音が響いた。
重い音が、腹の底まで伝わってくる。
しばらくして、遠くに土煙が上がった。
俺は、黙ってそれを見ていた。
◇
城内へ大筒の弾が届くようになると、大坂の人々は昼も夜も落ち着いて過ごせなくなった。
最初のうちは、遠くで大きな音がするだけだった。
しかし、やがて弾は城の内側にまで飛び込んでくるようになった。
壁を砕くもの。
屋根を壊すもの。
庭の地面を抉るもの。
どこへ落ちるのか、城内の者たちには分からなかった。
「……母上!」
秀頼が茶々の部屋へ駆け込んできた。
「ご無事ですか!」
「ええ」
茶々は息子へ向き直った。
「私は大丈夫です。そなたこそ、お怪我は?」
「ありませぬ」
秀頼は答えたが、顔には疲れが見えた。
茶々は、息子の衣についた埃を払った。
「……大筒が、また近くへ落ちたそうですね」
「はい。ですが、本丸の守りはまだ破られておりませぬ」
「そうですか」
茶々は頷いた。
しかし、その直後だった。
凄まじい音がした。
部屋の外で、何かが砕ける。
床が揺れ、天井から埃が落ちた。
「伏せてください!」
侍女が叫んだ。
次の瞬間、隣の部屋から悲鳴が上がった。
茶々は、息子に抱きかかえられるようにして身を伏せた。
しばらく、何が起きたのか分からなかった。
耳鳴りがしている。
埃が舞い、室内の様子もよく見えない。
「……母上!」
秀頼の声が聞こえた。
「……大丈夫です」
茶々は答えた。
「そなたは?」
「私は……」
秀頼が頷く。
そのとき、隣の部屋から人を呼ぶ声がした。
茶々は立ち上がった。
「……何があったのです」
侍女が駆け込んできた。
顔を真っ青にしている。
「……御方様!」
「落ち着きなさい。何があったのです」
侍女は、震える声で答えた。
「……隣のお部屋に、大筒の弾が……」
茶々は、すぐに廊下へ出た。
秀頼も後に続こうとしたが、茶々は振り返った。
「秀頼。そなたは、ここに」
「ですが!」
「……お願いです」
息子は、足を止めた。
茶々は隣の部屋へ向かった。
そこには、先ほどまで自分の身の回りの世話をしていた女たちがいた。
誰かが泣いている。
誰かが、倒れた者の名を呼んでいる。
壁は壊れ、畳には瓦や木片が散らばっていた。
茶々は、その場に立ち尽くした。
つい先ほどまで、彼女たちは普通に働いていた。
茶を運んでくれた者もいる。
衣を整えてくれた者もいる。
明日の支度について話していた者もいた。
その者たちが、今は動かない。
茶々は膝をついた。
倒れた女の傍へ近づき、そっと手を取る。
呼びかけても、返事はなかった。
「……医師を呼びなさい」
茶々が言った。
侍女が、泣きながら頷いた。
「急ぎなさい!」
今度は、強い声だった。
侍女が走り去る。
茶々は、その背中を見送った。
それから、周囲の者たちへ向き直った。
「まだ息のある者を、先に運びなさい。手当てのできる場所を用意して」
「……はい!」
「泣くのは、後でもできます。今は、助けられる者を助けるのです」
侍女たちは、慌てて動き始めた。
茶々は、もう一度倒れた女へ目を向けた。
手は、まだ温かかった。
そのことが、かえってつらかった。
「……申し訳ありません」
誰にも聞こえぬほど小さく呟いた。
だが、すぐに顔を上げた。
ここで自分が崩れれば、ほかの者たちまで動けなくなる。
茶々は立ち上がった。
「……秀頼を呼んでください」
近くにいた家臣が頭を下げた。
「それから、軍議の支度を」
茶々は続けた。
「徳川へ、和睦の話を進める必要があります」
◇
その日の夕方。
大坂城の本丸に弾が届き、茶々の近くにいた女たちが亡くなったという報告が届いた。
俺は、しばらく動けなかった。
「……淀殿は?」
ようやく尋ねる。
「ご無事とのことにございます」
「……秀頼様は?」
「お怪我はないと」
俺は息を吐いた。
二人とも生きている。
千姫についても、無事が確かめられた。
だが、死んだ者がいる。
しかも、茶々の身近に仕えていた女たちだという。
「……殿」
秀忠が、静かに声をかけてきた。
俺は顔を上げた。
「……何だ」
「砲撃について、今後はいかがなさいますか」
俺は、しばらく考えた。
今すぐやめることもできる。
だが、それでは相手に、こちらが城内の者たちを傷つけるのを恐れていると思わせるかもしれない。
いや。
実際に、俺は恐れている。
茶々や秀頼が死ぬことを。
そして、かぐやがこの知らせを聞いたとき、何を思うのかということも。
……俺は、あいつに何と説明すればいい?
茶々を守りたいと言った。
秀頼も死なせたくないと言った。
それなのに、俺の命令で撃ち込んだ弾が、茶々の傍にいた者たちを殺した。
「……秀忠」
「はっ」
「和睦の話を進めよ」
秀忠が顔を上げた。
「……御意」
「大筒の威力は、向こうにも伝わったはずだ。これ以上続けるより、今のうちに条件を詰めたい」
俺は続けた。
「だが、こちらが兵を退く以上、大坂城の守りについては譲れぬ。外側の備えを残したままでは、また同じことになる」
秀忠は頷いた。
俺は、机に置かれた絵図を見た。
大坂城。
天下有数の堅城である。
これを残したまま、豊臣家が大軍を集める。
その状況を、俺は認められなかった。
「……秀忠」
「はっ」
「秀頼様と淀殿のお命は、必ず守りたい」
「承知しております」
「だが、城を弱める必要はある」
秀忠は、少し黙った。
「……豊臣方が、それを受け入れるでしょうか」
「……分からぬ」
俺は答えた。
「だが、話すしかあるまい」
そこで、俺は一つ思いついた。
「……秀忠」
「はい」
「和睦の条件には、秀頼様と淀殿のお命を保証することを、はっきり記させたい」
秀忠は頷いた。
「……御意」
「それから、豊臣方に加わった者たちについても、無用な処罰を避けたい。戦が終わった後、勝手に討ち取られるようなことがあっては困る」
「承知いたしました」
俺は続けた。
「大坂城の守りを崩す以上、豊臣家が何を失うのかは明らかになる。ならば、こちらが何を保証するのかも、同じように明らかにせねばならぬ」
秀忠は、しばらく俺を見ていた。
「……父上」
「何だ?」
「そこまで豊臣家を残すことに、こだわられるのでございますか」
俺は顔を上げた。
秀忠は、慎重に言葉を選んでいた。
「豊臣家が存続すれば、再び兵を集める者も現れましょう。今後の天下を考えれば、ここで徹底して力を削ぐべきという意見もございます」
「……ああ」
「父上も、その危険はご存じのはずです」
俺は頷いた。
「……分かっている」
秀忠は黙った。
俺は、少し考えた。
「だが、だからといって秀頼様を討てば、それですべてが収まるとは限らぬ。豊臣に恩義を感じている者も多い。幼い頃からあの方を支えてきた者たちもいる」
俺は続けた。
「何より、俺は秀吉殿に約束した」
秀忠の表情が変わった。
「……秀頼様を、お守りするという」
「ああ」
俺は頷いた。
「その約束を、できる限り守りたい」
そこまで言って、少し言葉を切った。
「……それに」
「はい」
「俺にとって、大切な友人も関わっている」
秀忠は、すぐに理解したようだった。
「……かぐや殿でございますか」
俺は頷いた。
「……ああ」
かぐやは、茶々を大切に思っている。
俺も、かぐやを大切に思っている。
そんな単純なことが、今ではひどく難しくなっていた。
秀忠は、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
俺は息を吐いた。
「……頼むぞ」
◇
駿府では、戦の知らせが届くたびに、瀬名が文箱を気にするようになっていた。
かぐやは、以前より静かだった。
まったく喋らないわけではない。
菓子が出れば喜ぶし、見慣れないものがあれば何かと尋ねてくる。
だが、大坂の話になると、必ず茶々のことを聞いた。
「……瀬名ちゃん」
「はい」
「茶々、元気かな」
瀬名は、すぐには答えられなかった。
大坂城へ大筒の弾が届いているという。
淀殿は無事だと報告されているが、身近な者たちが亡くなったとも聞いている。
それを、かぐやにどう伝えるべきか。
迷っているうちに、かぐやがもう一度声をかけた。
「……瀬名ちゃん?」
瀬名は、ゆっくりと頷いた。
「……淀殿は、ご無事だそうです」
「本当!?」
「ええ」
かぐやは、安心したように身体を揺らした。
しかし、瀬名が続けた。
「ですが、お城へ大きな弾が飛び込み、お傍に仕えていた方々が亡くなられたそうです」
かぐやは、動きを止めた。
「……茶々の?」
「……はい」
「……そっか」
それきり、しばらく何も言わなかった。
瀬名は、かぐやの近くへ座った。
「……かぐや殿」
「なーに?」
「何か、して差し上げられることはございませんか」
かぐやは、少し考えた。
「……竹千代に、お手紙書いて」
「殿に、でございますか」
「うん」
瀬名は頷いた。
「何とお書きいたしましょう」
かぐやは、しばらく黙っていた。
それから、はっきりと言った。
「私、茶々に会いに行きたい」
瀬名は筆を止めた。
「……かぐや殿」
「今すぐじゃなくてもいい。でも、会いに行きたい」
「……大坂は、今、戦の最中にございます」
「うん」
「危険でございますよ」
「……分かってる」
瀬名は、かぐやを見た。
いつものように勢いだけで言っているのではないことは、分かった。
「……竹千代も心配だよ」
かぐやが続けた。
「戦に行くって聞いたときも、嫌だったもん」
瀬名は頷いた。
「……ええ」
「でも、茶々も心配なんだ」
かぐやは、文箱の縁に身体を乗せた。
「茶々が怖い思いしてるのに、私、何にもできないじゃん」
瀬名は、しばらく何も言わなかった。
「……だから、会いたい」
その言葉は、静かだった。
怒っているわけではない。
竹千代を責めたいわけでもない。
ただ、茶々のところへ行きたい。
かぐやは、そう願っていた。
瀬名は筆を取り直した。
「……承知いたしました」
かぐやの言葉を、そのまま書くことにした。
余計な説明は加えなかった。
殿なら、分かってくださるだろう。
そう思った。
◇
数日後。
駿府から届いた書状を読んで、俺は長く息を吐いた。
かぐやが、茶々に会いたがっている。
……やっぱりか。
予想はしていた。
むしろ、今まで我慢していた方だろう。
俺は書状を畳んだ。
「……殿」
傍らに控えていた数正が声をかけてきた。
「いかがなされましたか」
「……いや。家のことだ」
「さようにございますか」
数正は、それ以上尋ねなかった。
俺は、しばらく考えた。
かぐやを大坂城へ送り届ける。
それ自体は、不可能ではない。
戦が終わり、和睦が成立すれば、両家の間で使者が行き来するようになるだろう。
そのとき、瀬名から茶々への贈り物として、小さな文箱を届けることもできるかもしれない。
だが、問題はその後だった。
かぐやが大坂城へ行けば、俺の目の届かないところに置くことになる。
豊臣家との関係が再び悪くなれば、簡単には迎えに行けなくなる。
万が一、城が攻められれば、かぐやまで危険に晒される。
……それでも、行きたいと言うのか。
いや。
もう、本人は答えている。
俺が納得できないからといって、何度も同じことを尋ねても仕方がない。
俺は、書状をもう一度開いた。
瀬名が代筆した、短い文章だった。
『竹千代。茶々に会いたい。危ないのは分かってるけど、会いに行きたい。』
俺は、その文字を見つめた。
昔から、かぐやはこうだった。
俺が人質だった頃も、岡崎へ戻った頃も、浜松へ移った頃も。
何かをしたいと思えば、遠慮なく口にする。
そのたびに、俺が心配して止めようとすると、決まって不満そうな顔をした。
今も、同じなのだろう。
ただ、今回ばかりは危険が大きすぎる。
俺は筆を取った。
瀬名宛ての返事を書く。
今は危険だから、まだ動かないこと。
和睦が成立したなら、改めて方法を考えること。
そして、その場合にはかぐや自身の意思を尊重すること。
書き終えてから、しばらく筆を置いたまま考えた。
……頼むから。
無事でいてくれよ。
俺は、書状を畳んだ。
◇
十二月十八日。
和睦のための交渉が、本格的に始まった。
徳川方からは、本多正純と阿茶局。
豊臣方からは、茶々の妹である常高院が出てきた。
常高院は、かつての名を初という。
茶々の妹であり、徳川秀忠の正室である江の姉でもある。
つまり、徳川と豊臣の双方に縁のある人物だった。
まったく、戦国の婚姻関係というのは複雑である。
昨日まで互いに兵を向けていた家同士が、親類を通じて和睦の話をする。
それでも、こういう縁が残っていることはありがたかった。
交渉の報告を聞きながら、俺は条件を一つずつ確かめた。
秀頼と茶々の身の安全。
豊臣方に加わった者たちの処遇。
大坂城の堀と外側の備え。
そして、今後の両家の関係。
「……城の守りを崩すことについて、豊臣方は難色を示しております」
正純が報告した。
「当然だろうな」
俺は頷いた。
「大坂城の守りがなくなれば、豊臣家が戦を続けることは難しくなる」
「はい」
「だが、それが必要なのだ」
俺は絵図を指した。
「外側の堀と備えを残したままでは、また兵が集まる。そうなれば、今度こそ力攻めをしなければならぬかもしれない」
正純は頷いた。
「……豊臣方からは、秀頼様のお命を保証するよう、強く求められております」
「ああ」
俺は答えた。
「それは保証する」
「……牢人たちについても、処罰せぬよう求められております」
「戦を終わらせるためなら、認めよう。だが、今後また兵を集めるなら話は別だ」
正純は頭を下げた。
俺は続けた。
「阿茶にも伝えてくれ。淀殿と秀頼様には、これ以上戦を続けるつもりはないと、はっきり申し上げたい」
「承知いたしました」
俺は、しばらく考えた。
豊臣家に譲らせるものは、大きい。
大坂城の守りを崩す。
それは、豊臣家が独自の軍事力を持ち続けることを難しくするという意味でもある。
……分かっている。
俺は、豊臣家のためだけにこれを求めているわけではない。
徳川の天下を安定させるためだ。
そのうえで、秀頼と茶々の命を守りたいと思っている。
二つの考えが、完全に同じ方向を向いているわけではなかった。
だが、今の俺には、ほかに現実的な方法が見つからなかった。
◇
大坂城では、茶々が常高院からの報告を聞いていた。
「……堀を埋める、と」
「はい」
常高院が頷いた。
茶々は、しばらく黙っていた。
それから、静かに尋ねた。
「それは、どこまでの話なのです」
「外側の備えについて、まず取り決めを進めたいとのことでございます」
「……まず、ですか」
茶々は眉を寄せた。
「その言い方では、後からさらに何かを求められるようにも聞こえますね」
常高院は、少し困った顔をした。
「……姉上」
「初。そなたを責めているのではありませんよ」
茶々は答えた。
「ですが、城を守る堀を埋めるというのは、ただ土を入れるだけの話ではありません。それが何を意味するか、私にも分かっております」
常高院は頷いた。
「……承知しております」
茶々は、しばらく考えた。
大坂城は、これまで何度も豊臣家を守ってきた。
その城の守りを崩せば、次に徳川が兵を出してきたとき、今度こそ籠城は難しくなる。
それでも、和睦をしなければ戦は続く。
城内には負傷者がいる。
兵糧にも限りがある。
何より、秀頼と千姫を、これ以上危険な目に遭わせたくなかった。
「……初」
「はい」
「徳川殿は、秀頼の命を保証すると仰ったのですね」
「はい」
「豊臣家を残すことについても?」
「そのお考えに変わりはないと」
茶々は、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました」
それから、顔を上げた。
「ただし、こちらも条件を明らかにさせましょう」
常高院が姿勢を正した。
「……何を、でございますか」
「秀頼の身の安全だけではありません。千姫様も、城内の者たちも同じです。和睦が成った後に、勝手に兵を入れられては困ります」
茶々は続けた。
「堀を埋めるのであれば、その範囲も定めなさい。外側の備えを崩すという話が、いつの間にか城のすべてを取り払う話になっては困ります」
「……承知いたしました」
「それから」
茶々は、少し声を強めた。
「徳川殿へ、お伝えください」
常高院が顔を上げた。
「豊臣家は、命を助けてもらうためだけに和睦するのではありません。これから先も豊臣の家を残すために、和睦するのです」
常高院は深く頷いた。
「……必ず、お伝えいたします」
茶々は、そこでようやく小さく息を吐いた。
「……頼みましたよ、初」
「はい、姉上」
◇
十二月十九日。
和睦の条件について、双方が合意したとの報告が届いた。
俺は、しばらく目を閉じた。
「……そうか」
ようやく、戦が終わる。
少なくとも、今は。
翌日には誓詞を交わし、砲撃も止めることになった。
各陣へ知らせを出す。
勝手に城へ攻め寄せぬこと。
豊臣方の兵を挑発せぬこと。
定められた命令があるまで、軍勢を動かさぬこと。
そうしたことを、繰り返し伝えた。
「……秀忠」
「はっ」
「ようやく、ここまで来たな」
秀忠は深く頷いた。
「……はい」
「これで、兵を帰せる」
「御意」
俺は絵図を見た。
大坂城。
まだ、そこにある。
秀頼も、茶々も生きている。
千姫も無事だ。
犠牲がなかったわけではない。
むしろ、大勢の者が死んだ。
だが、豊臣家が滅びるところまでは行かずに済んだ。
……よかった。
そう思った。
ただし、それで安心しきれるほど、俺も楽観的ではなかった。
堀を埋める仕事が残っている。
外側の備えを崩す仕事もある。
その進め方を間違えれば、また豊臣方と争いになるかもしれない。
「……秀忠」
「はっ」
「城の普請については、取り決めの内容を確かめながら進めよ。現場の者が勝手に範囲を広げることのないように」
「承知いたしました」
俺は頷いた。
そして、もう一つの仕事を思い出した。
「……それから」
「はい」
「豊臣家が大坂を離れる場合の取り決めについても、考えをまとめておきたい」
秀忠が顔を上げた。
「……まだ、そのお考えでございますか」
「ああ」
俺は頷いた。
「今の和睦が、いつまでも続くとは限らぬ。大坂城の堀を埋めれば、豊臣方の中には不満を抱く者も出るだろう」
「……はい」
「もし再び争いになったとしても、最後まで戦う以外の道を残しておきたい」
秀忠は黙った。
俺は続けた。
「秀頼様と淀殿が城を離れることを望まれたとき、すぐに迎え入れられるようにしたい。所領も、家臣の処遇も、先に考えておく」
「……承知いたしました」
俺は絵図へ目を落とした。
大坂城を離れてもらう。
豊臣家を残す。
徳川の天下を守る。
その三つを、何とか両立させたい。
簡単ではない。
だが、まだ諦めるつもりはなかった。
◇
和睦が成立した後、俺は阿茶局を呼んだ。
「……阿茶」
「はい」
「此度は、よく働いてくれた」
阿茶局は頭を下げた。
「恐れ入ります」
「常高院殿にも、礼を伝えてほしい。難しい役目を引き受けていただいた」
「承知いたしました」
俺は、しばらく考えた。
そして、用意していた書状を差し出した。
「……それと、もう一つ頼みがある」
阿茶局が顔を上げた。
「何でございましょう」
「駿府から、小さな荷が届くことになっている」
「……お荷にございますか」
「ああ。瀬名から淀殿への贈り物だ」
俺は続けた。
「それを、淀殿へ直接届けてもらいたい」
阿茶局は、少し考えた。
「……承知いたしました。ですが、今はまだ両家の間に緊張も残っております。お届けするものについて、何かお伝えすべきことはございますか」
俺は頷いた。
「……開けずに、そのままお渡ししてほしい」
阿茶局が、わずかに目を瞬いた。
「……さようでございますか」
「ああ。淀殿には、瀬名からの私的な贈り物だと伝えてくれればよい」
阿茶局は、しばらく俺を見ていた。
そして、静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
俺は息を吐いた。
かぐやを大坂城へ送り届ける。
ようやく、その方法が見えてきた。
ただし、まだ準備が必要だった。
駿府から運ばれてくる文箱の中に、かぐやがいる。
それを、和睦の使者として城へ入る阿茶局に預ける。
阿茶局自身には、箱の中身を明かさない。
そして、茶々へ直接渡してもらう。
道中の揺れに備え、箱の中には柔らかい布を敷く。かぐやが困らないよう、水を保てる小さな器も用意する必要があった。
運ぶ者に怪しまれないよう、箱の扱いにも気をつけなければならない。
何より、かぐや自身が道中で声を出さないようにしてもらう必要がある。
……一番難しいのは、そこかもしれないな。
俺は苦笑した。
◇
駿府から届いた文箱を受け取ったのは、年の暮れだった。
俺は、人払いを済ませた部屋で蓋を開いた。
「……かぐや」
「竹千代ー!」
元気な声が飛び出した。
俺は、思わず笑った。
「……元気そうだな」
「元気だよ!」
「道中、大丈夫だったか」
「うん! でも、ずっと箱の中でつまんなかった!」
「……それは悪かった」
かぐやは文箱の縁へ身体を乗せた。
「ねえ、茶々に会えるの!?」
「ああ」
俺は頷いた。
「和睦が成立した。今なら、城へ入る使者がいる」
「本当!?」
「本当だ」
かぐやは嬉しそうに身体を揺らした。
だが、俺は続けた。
「……ただし、かぐや」
「何?」
「一つだけ、話しておきたい」
かぐやがこちらを向いた。
俺は、少し考えてから口を開いた。
「大坂城へ行けば、しばらく帰ってこられないかもしれない」
「……うん」
「また徳川と豊臣の間で問題が起きれば、お前を迎えに行くことも難しくなる」
「……うん」
「俺は、また戦が起きることを避けたいと思っている。だが、今ここで絶対に大丈夫だとは言えない」
かぐやは、しばらく黙っていた。
俺は続けた。
「……それでも、お前が茶々殿のところへ行きたいことは分かっている」
「……竹千代」
「何だ?」
「私、茶々に会いたい」
「ああ」
俺は頷いた。
「……そうだな」
かぐやは少し考えた。
「茶々、怖かったと思うんだ」
俺は黙った。
「大きな音がして、近くの人が死んじゃって……」
かぐやの声が、少し小さくなった。
「私、何にもしてあげられなかった」
俺は、何も言えなかった。
かぐやは続けた。
「だから、今度は一緒にいたい」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
かぐやが顔を上げた。
「いいの!?」
「ああ」
俺は答えた。
「茶々殿のところへ行ってこい」
「……竹千代!」
かぐやが嬉しそうに声を上げた。
俺は、少し笑った。
「ただし、茶々殿にも都合がある。向こうで困らせるなよ」
「分かってるって!」
……本当に、何度聞いただろう。この返事。
俺は苦笑した。
だが、まだ言わなければならないことがあった。
「……かぐや」
「なーに?」
「俺は、茶々殿も秀頼様も助けたいと思っている」
かぐやは黙って聞いていた。
「今度の和睦で、ひとまず戦は終わった。だが、豊臣家と徳川の間にある問題が、すべて片づいたわけではない」
「……うん」
「もしまた戦になったら、俺は徳川の家を守らなければならない。それでも、あの親子を死なせたくはない」
俺は、言葉を切った。
「……できれば、お前にも危険な目に遭ってほしくない」
かぐやは、しばらく俺を見ていた。
それから、少しだけ身体を寄せてきた。
「……竹千代」
「何?」
「私も、竹千代に死んでほしくないよ」
俺は口を閉じた。
「茶々も大事だけど、竹千代も大事だもん」
「……ああ」
「だから、無茶しないでね」
俺は思わず笑った。
「……それは、こっちの台詞だよ」
「えー!」
かぐやが不満そうな声を上げた。
俺は、文箱の中へ手を伸ばした。
かぐやが、俺の手のひらへ乗ってくる。
昔と変わらない、小さな身体だった。
俺が竹千代だった頃から、ずっと一緒にいた。
父が死んだときも。
母と離れて暮らしていたときも。
戦に負けたときも。
信長と向き合ったときも。
秀吉と争ったときも。
あいつは、いつも傍にいた。
……本当に、長い付き合いだ。
俺は、手のひらの上にいるかぐやを見た。
「……かぐや」
「何?」
「俺がいなくなった後も、ちゃんと生きていけよ」
かぐやが、少しだけ身体を傾けた。
「……急にどうしたの?」
「いや」
俺は笑った。
「もう、随分と歳を取ったからな」
「またその話?」
「……そうだよ」
かぐやは、少し考えた。
「竹千代、まだ死なないでね」
「ああ」
「もっといっぱい遊びたいし!」
「……そうだな」
「まだ行ってないところも、いっぱいあるじゃん!」
俺は頷いた。
「……ああ」
かぐやは、少しだけ身体を揺らした。
「だから、また会おうね!」
俺は、しばらく返事ができなかった。
また会おう。
何でもない言葉だ。
だが、今の俺には随分と重かった。
「……ああ」
俺は頷いた。
「また会おう」
かぐやは嬉しそうに笑った。
俺も笑った。
それから、ふと思い出した。
「……かぐや」
「なーに?」
「お前には、ずっと先に会いたい人がいるんだったな」
かぐやは、少し驚いたようだった。
「……覚えてたの?」
「そりゃ覚えてるよ」
俺は苦笑した。
「何千年も先のことだろ。忘れる方が難しい」
かぐやは、しばらく黙っていた。
俺は続けた。
「俺には、そこまで一緒に行ってやることはできない」
「……うん」
「けど、お前がいつか会いたい人のところへ行けるように、できるだけのことはしておきたいと思ってる」
かぐやが、こちらを見た。
「……竹千代?」
「俺が死んだ後も、お前が好きなところへ行けるようにな。信康と秀忠にも、よく頼んである」
俺は少し笑った。
「まあ、何千年も先のことまで保証できるわけじゃないけどさ」
かぐやは、しばらく何も言わなかった。
そして、ぽつりと言った。
「……ありがと」
俺は、少し驚いた。
かぐやが、こうして静かに礼を言うのは珍しい。
「……どういたしまして」
そう答えると、かぐやはすぐに元気を取り戻した。
「じゃあ、竹千代!」
「何だ?」
「私も頑張る!」
「……何を?」
「いっぱい生きる!」
俺は、思わず笑ってしまった。
「……そうか」
「うん!」
「なら、頼むよ」
かぐやは嬉しそうだった。
俺は、その小さな身体をしばらく眺めていた。
この先、また会えるのか。
いつ会えるのか。
それは分からない。
だが、かぐやが茶々に会いたいと思う気持ちを、俺の都合で止めることはできなかった。
「……じゃあ、行ってこい」
「うん!」
かぐやは、元気よく答えた。
「行ってきまーす!」
俺は、そっと文箱の蓋を閉じた。
◇
阿茶局へ文箱を預けた後、俺はしばらくその場に残っていた。
数正が、部屋へ入ってきた。
「……殿」
「何だ?」
「大坂城の堀について、新たな報告が届いております」
俺は顔を上げた。
「……見せてくれ」
書状を受け取る。
堀を埋める工事は、予定よりも進んでいた。
だが、豊臣方からは、取り決めの範囲を超えているのではないかという抗議も届いている。
「……数正」
「はっ」
「現場へ、改めて確認を命じよ」
「承知いたしました」
「和睦の条件について、双方の解釈が違っているなら、そのまま進めるわけにはいかぬ」
数正は頷いた。
俺は書状を置いた。
ただし、工事そのものを止めるつもりはなかった。
大坂城の守りを崩さなければ、また同じような戦が起きるかもしれない。
俺は、そう考えていた。
だが、茶々にとってはどうだろう。
和睦をした。
秀頼の命を守るという約束も得た。
それなのに、城の堀は埋められていく。
自分たちが少しずつ追い詰められているように感じても、不思議ではない。
「……数正」
「はっ」
「豊臣家が城を離れる場合の話は、進んでいるか」
「いくつか案をまとめております」
「そうか」
俺は頷いた。
「今のうちに、できるだけ詳しく詰めておこう」
「……御意」
数正は頭を下げた。
俺は、しばらく窓の外を見ていた。
かぐやは、もう大坂城へ向かっている頃だろう。
あいつが茶々と再会したら、きっと喜ぶ。
茶々も、かぐやが来たことを喜んでくれるだろうか。
……いや。
あの人のことだから、まず俺に文句を言うかもしれないな。
こんな危ない場所へ、何を考えて送り込んだのかと。
俺は、思わず苦笑した。
それでも、かぐや自身が望んだことだ。
俺は、その願いを叶える手伝いをした。
……だからこそ。
もう一度戦になったとき、あいつを危険に晒すようなことだけは、できれば避けたかった。
◇
大坂城。
年の暮れ。
阿茶局から届けられた小さな文箱を見て、茶々は不思議そうな顔をした。
「……瀬名殿から?」
「はい。お届けするよう、仰せつかりました」
阿茶局が答えた。
茶々は、箱を手に取った。
随分と小さい。
しかも、どこか見覚えのある形をしている。
「……これは」
茶々は、少しだけ目を細めた。
阿茶局は頭を下げた。
「私的なお品とのことにございます。中身については、直接ご覧いただきたいと」
茶々は頷いた。
「……ありがとうございます」
阿茶局が下がった後、茶々は侍女たちにも席を外すよう命じた。
部屋に一人になる。
そして、文箱を膝の上へ置いた。
「……まさか」
そっと蓋を持ち上げる。
次の瞬間。
「茶々ー!」
元気な声が飛び出した。
茶々は、思わず息を呑んだ。
「……かぐや?」
「久しぶりー!」
小さな身体が、文箱から顔を出した。
「会いたかったよ!」
茶々は、しばらく何も言えなかった。
まさか、こんなときに。
こんな形で、また会えるとは思っていなかった。
「……どうして」
ようやく、声が出た。
「どうして、ここへ?」
「竹千代が、連れてきてくれたの!」
茶々は目を瞬いた。
「……徳川殿が?」
「うん!」
かぐやは嬉しそうだった。
「茶々に会いたいってお願いしたら、届けてくれた!」
茶々は、文箱を見た。
そして、かぐやを見た。
次の瞬間、蓋を閉じた。
「ちょっと、茶々!?」
中から抗議の声がした。
「何で閉めるの!?」
茶々は、閉じた蓋を見つめた。
「……徳川殿は、いったい何をお考えなのです」
小さく呟く。
大坂城では、つい先日まで戦が続いていた。
ようやく和睦が成立したとはいえ、徳川と豊臣の間にはまだ多くの問題が残っている。
そのような場所へ、かぐやを送り込むとは。
「……まったく、あのお方は」
茶々は、もう一度蓋を開けた。
「かぐや」
「なーに?」
「そなた、ここがどのような場所か分かっておるのですか」
「大坂城!」
「それは知っております」
茶々は眉を寄せた。
「つい先日まで、徳川と戦をしていた城ですよ。今も、外では堀を埋めているというのに」
「知ってるよ」
かぐやが答えた。
茶々は、少し驚いた。
「……知っていて、来たのですか」
「うん!」
「危ないとは思わなかったのですか」
「思った!」
「だったら、なぜ……」
「茶々に会いたかったから!」
茶々は口を閉じた。
かぐやは続けた。
「竹千代にも、危ないって言われたよ。でも、私が行きたいって言ったの!」
茶々は、しばらく黙っていた。
それから、深く息を吐いた。
「……そなたも、随分と頑固ですね」
「茶々に言われたくないんだけど!」
即座に返事が来た。
茶々は目を見開いた。
そして、とうとう笑ってしまった。
「……まあ!」
「だって、そうじゃん!」
「私が、頑固だと?」
「うん!」
「……誰から聞いたのです」
「竹千代!」
茶々の笑みが止まった。
「……徳川殿が?」
「うん!」
「……そうですか」
茶々は、ゆっくりと頷いた。
「あのお方には、いずれ文を書かねばなりませんね」
「えっ、何書くの?」
「もちろん、お礼ですよ」
茶々は微笑んだ。
「これほど大切なお客人を、わざわざお送りくださったのですから」
かぐやは、しばらく考えた。
「……茶々、それ怒ってる?」
「さあ、どうでしょう」
「絶対怒ってるじゃん!」
茶々は声を上げて笑った。
◇
しばらくして、茶々はかぐやへ菓子を分けてやった。
かぐやは、いつものように嬉しそうだった。
「おいしー!」
「それは、ようございました」
茶々は笑った。
戦が始まってから、こんなふうに笑ったことがあっただろうか。
城内では、今も多くの者が忙しく働いている。
戦で壊れた場所を直す者。
負傷した兵の世話をする者。
食糧の残りを調べる者。
和睦が成立したとはいえ、すべてが元どおりになったわけではない。
それでも、今は大筒の音が聞こえない。
廊下を歩く侍女たちも、以前ほど怯えた顔をしていなかった。
「……茶々」
かぐやが、菓子を食べ終えてから声をかけた。
「何でしょう」
「戦のとき、怖かった?」
茶々は、少しだけ手を止めた。
かぐやは、じっとこちらを見ている。
茶々は、しばらく考えた。
「……怖くなかったと言えば、嘘になりますね」
「……そっか」
「ですが、怖いからといって、何もせずにいるわけにはまいりません」
茶々は続けた。
「秀頼がおります。千姫様もおります。城には、私どもを頼って暮らしている者たちも大勢おりますから」
かぐやは黙って聞いていた。
「……だから、何とかしなければならないのです」
茶々は、少し笑った。
「たとえ、怖くとも」
かぐやは、しばらく考えた。
「……茶々、すごいね」
茶々は目を瞬いた。
「……何がです?」
「だって、怖いのに頑張ったんでしょ!」
「……」
「私だったら、泣いちゃうかも!」
茶々は、思わず笑った。
「……そなたも、随分と正直ですね」
「えへへ!」
かぐやは得意げだった。
茶々は、その小さな身体を見た。
「……かぐや」
「なーに?」
「そなたは、どうしてそこまで私に会いたかったのです」
かぐやは、少し考えた。
「……茶々が心配だったから」
「……そうですか」
「それに、一緒に遊びたかったし!」
茶々は、小さく笑った。
「……それは、嬉しいことですね」
かぐやは嬉しそうに身体を揺らした。
茶々は、そっと文箱へ手を伸ばした。
「……では、しばらくこちらにいなさい」
「いいの!?」
「ええ」
茶々は頷いた。
「ただし、勝手に部屋から出てはなりませんよ。城内には、そなたのことを知らぬ者が大勢おります」
「分かってるって!」
茶々は眉を上げた。
「……その返事、少々信用できませんね」
「えー!」
かぐやが不満そうな声を上げた。
茶々は、楽しそうに笑った。
◇
その後、茶々はかぐやを連れて庭へ出た。
もちろん、人目につかない場所である。
庭には、冬の冷たい風が吹いていた。
花は少ない。
木々も、葉を落としている。
だが、かぐやは楽しそうだった。
「ねえ、あれ見て!」
「……何でしょう」
「鳥!」
茶々は、かぐやが示す方を見た。
庭木の枝に、小さな鳥が止まっていた。
「……本当ですね」
「かわいい!」
かぐやが嬉しそうに笑った。
茶々も、そっと笑った。
大坂城は、まだそこにある。
秀頼も生きている。
千姫も、無事だった。
徳川との和睦も成立した。
ただ、城の堀を埋める工事が始まっている。
遠くから、土を運ぶ音が聞こえていた。
茶々は、そちらへ目を向けた。
かつて、大坂城を守っていた深い堀。
それが、少しずつ埋められていく。
この先、何が起きるのか。
考え始めれば、不安は尽きなかった。
だが、その不安に任せて動くつもりはなかった。
秀頼を守る。
豊臣の家を残す。
そのために、今後も徳川と交渉しなければならない。
必要なら、相手が家康であっても正面から意見を述べるつもりだった。
「……茶々?」
かぐやが声をかけてきた。
茶々は、顔を戻した。
「……何でしょう」
「難しい顔してる」
茶々は、少し笑った。
「……そうですか」
「うん!」
かぐやは身体を揺らした。
「また何か考えてた?」
「ええ。少しばかり」
「お仕事?」
「……そのようなものです」
「竹千代と一緒だ!」
茶々は目を瞬いた。
「……徳川殿と?」
「うん! 竹千代も、すぐ難しい顔するんだよ!」
茶々は、とうとう笑ってしまった。
「……そうですか」
「それでね、私が休もうって言うと、まだ仕事があるって!」
茶々は、しばらく考えた。
「……それは、困ったお方ですね」
「でしょ!」
かぐやは得意げだった。
茶々は、文箱を抱え直した。
「……では、かぐや」
「なーに?」
「私までそのようにならぬよう、時折注意してくださいませ」
「任せて!」
かぐやは元気よく答えた。
茶々は、声を上げて笑った。
◇
しばらくして、かぐやが文箱の中をごそごそと探り始めた。
「……あった!」
「何でしょう」
「これ!」
かぐやが取り出したのは、小さな貝殻だった。
薄い桃色をしている。
「茶々にあげる!」
茶々は目を瞬いた。
「……また、ですか?」
「うん!」
「以前いただいたものも、大切にしておりますよ」
「知ってる!」
かぐやは得意げだった。
「でも、これは新しいやつ!」
茶々は、そっと受け取った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして!」
かぐやは嬉しそうに笑った。
茶々は、貝殻を手のひらに乗せた。
小さく、軽かった。
これまでにも、かぐやから何度も貝殻をもらっている。
そのたびに、きれいだと思った。
今も同じだった。
「……かぐや」
「なーに?」
「そなたには、ずっと先に会いたい方がいるのでしょう?」
かぐやが顔を上げた。
「……うん」
茶々は頷いた。
以前、二人で話したことがあった。
かぐやが、普通の人間とは比べものにならないほど長い時間を生きてきたこと。
そして、その先にもまだ、会いたいと願う者たちがいること。
茶々には、すべてを理解することはできなかった。
だが、かぐやがその未来を大切にしていることは分かっていた。
「……でしたら、そなたも無茶をしてはなりませんよ」
茶々は言った。
かぐやが、少し不思議そうな顔をした。
「……茶々?」
「私に会いたいからといって、危険な場所へ来てしまうのですから。心配するのはこちらの方です」
「えー!」
「えー、ではありません」
茶々は、少し厳しい声で続けた。
「今度この城が危険になったら、そなたは逃げなさい」
かぐやは、すぐには答えなかった。
「……でも、茶々は?」
「私には、私の役目があります」
茶々は答えた。
「秀頼を守らねばなりません。豊臣家のこともございます」
「……」
「ですが、そなたまで一緒に危険な目に遭う必要はありません」
かぐやは、しばらく考えた。
それから、小さな声で言った。
「……茶々も、一緒に逃げようよ」
茶々は、目を瞬いた。
かぐやは続けた。
「また危なくなったら、一緒に行こうよ!」
茶々は、しばらく黙っていた。
そして、少しだけ笑った。
「……そなたは、本当に」
そこまで言って、言葉を切った。
かぐやは、まっすぐこちらを見ている。
茶々は、その小さな身体を見つめた。
「……そのときは、考えましょう」
かぐやが顔を上げた。
「……本当?」
「ええ」
茶々は頷いた。
「ですが、今はまだ、そのようなことにならぬようにしなければなりません」
「……うん!」
かぐやは、少しだけ安心したようだった。
茶々も微笑んだ。
そして、庭の向こうへ目を向けた。
遠くでは、堀を埋める工事の音が続いている。
和睦は成立した。
だが、徳川と豊臣の間にある問題は、何一つ完全には解決していない。
この先、再び戦になる可能性もある。
茶々は、そのことを十分理解していた。
それでも、今すぐ何もかも諦めるつもりはなかった。
秀頼は生きている。
豊臣家も、まだ残っている。
そして、かぐやもここにいる。
今できることは、まだあるはずだった。
「……茶々!」
かぐやが、また声を上げた。
「何でしょう」
「今度は、あっち行こう!」
茶々は、かぐやが示す方を見た。
庭の奥に、小さな池がある。
「……寒いですから、あまり長くはおれませんよ」
「分かった!」
「本当ですか?」
「本当!」
茶々は、少し笑った。
「……では、あと少しだけ」
「やった!」
かぐやが嬉しそうに身体を揺らした。
茶々は、文箱を抱えて歩き出した。
冬の冷たい風が吹いている。
遠くでは、まだ普請の音が聞こえていた。
それでも、今は大筒の音がしない。
かぐやは楽しそうに、池の方を眺めている。
茶々は、その小さな友人を見た。
そして、そっと微笑んだ。
「……まったく。そなたが来てから、少しも静かになりませんね」
「えー! いいじゃん!」
「ええ」
茶々は答えた。
「悪くありませんよ」
◇
同じ頃。
大坂の陣を終えた俺は、堀を埋める工事の報告に目を通していた。
和睦は成立した。
秀頼も茶々も生きている。
かぐやも、無事に大坂城へ入ったはずだ。
それでも、俺にはまだ多くの仕事が残されていた。
「……殿」
数正が声をかけてきた。
「豊臣家の今後について、またご相談がございます」
俺は頷いた。
「……聞こう」
書状を受け取る。
大坂城の堀について、豊臣方から新たな抗議が届いていた。
俺は、しばらく目を通した。
……やはり、簡単には済まないか。
そう思いながら、筆を取った。
秀頼と茶々を救いたい。
かぐやを守りたい。
そして、徳川の世も守らなければならない。
俺が何を望んでいるのか、自分でも分かっている。
だが、そのすべてを叶える方法は、まだ見つかっていなかった。
それでも、諦めるつもりはなかった。
あいつがいつか未来へたどり着き、会いたい者たちと巡り合えるように。
そのときまで、少しでも穏やかな世が続くように。
俺にできることなど、たかが知れている。
何千年も先まで生きられるわけではないし、この国がどうなっていくのかも分からない。
だが、今この時代に生きる者として、何かを残すことはできるはずだった。
……竹千代。
ふと、かぐやの声を思い出した。
あいつは、いつだって俺をそう呼ぶ。
将軍になっても。
将軍を辞めても。
白髪が増えて、膝が痛むようになっても。
きっと、これからも。
俺は、思わず小さく笑った。
……だからこそ。
まだ、死ぬわけにはいかないな。
少なくとも、やれることをすべてやるまでは。
俺は書状へ目を戻した。
堀を埋める工事は、まだ終わっていない。
豊臣家との交渉も、これから続けなければならない。
そして、大坂城には今、かぐやがいる。
……頼むから。
今度こそ、戦にならずに済んでくれよ。
そう願いながら、俺は筆を走らせた。