徳川家康になったら喋るウミウシと出会った   作:しそ

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大坂夏の陣

慶長二十年、春。

 

駿府に届く大坂からの書状には、決まって堀のことが書かれていた。

 

冬の陣で結んだ和睦により、大坂城は外側の守りを失った。だが、工事は豊臣方が考えていた範囲を超えて進められ、内側の堀まで埋められている。豊臣方からは幾度も抗議が寄せられていたが、すでに埋めてしまったものを簡単に元へ戻すこともできなかった。

 

その結果、大坂城は以前のような堅城ではなくなっている。

 

俺が望んだことだった。

 

そして、その城には今、かぐやがいる。

 

「殿。大坂より、新たな報告が届いております」

 

石川数正が、書状を差し出してきた。

 

俺は受け取り、最初から目を通した。

 

城内に残る牢人の数。豊臣方で進んでいる軍備の立て直し。堀を掘り返そうとする動き。

 

どれも、見過ごすことのできない話だった。

 

「……まだ、数万も残っているのか」

 

「はっ。冬の陣の後に城を去った者もおりますが、なお相当な人数を抱えているようでございます」

 

「それだけの人数を、いつまでも養えるとは思えんが」

 

「豊臣家の蔵には、相応の蓄えがあるかと」

 

俺は書状を置いた。

 

牢人たちの中には、徳川に敗れて主君を失った者が大勢いる。豊臣家が彼らを雇うこと自体、必ずしも不自然な話ではない。

 

だが、冬の陣で戦った者たちがそのまま残り、城の守りを直し始めたとなれば、話は別だった。

 

こちらの大名たちが警戒するのも当然である。

 

「……数正。以前まとめさせた、豊臣家の移転についての案は?」

 

「こちらに」

 

数正が別の書付を広げた。

 

俺はそれを手元へ引き寄せる。

 

豊臣家が大坂城を離れ、別の土地で家を存続させる。

 

そのために必要な所領、家臣の扶持、城、そして今後の軍役について記したものだった。

 

条件を考えるだけなら、いくらでもできる。

 

問題は、それを茶々と秀頼が受け入れるかどうかだ。

 

「秀頼様に従う者は、できるだけそのまま召し抱えられるようにしたい。ただし、大坂にいる牢人の全員を豊臣家へ抱え込ませるわけにはいかぬ」

 

「では、残る者たちは?」

 

「徳川方で召し抱えられる者は引き取り、帰郷する者には道中の安全を保証する。諸大名にも協力を求めよう」

 

数正は、少し眉を寄せた。

 

「……多くの費用が必要になりますな」

 

「ああ。だが、もう一度戦をすれば、もっとかかる」

 

何より、人が死ぬ。

 

冬の陣だけでも、随分と多くの兵を失った。

 

俺の命令で出陣した者たちだ。

 

その犠牲を無駄にしないためにも、今度こそ戦を避けたい。

 

「……それから」

 

俺は、もう一枚の書状を取り出した。

 

瀬名を通じて、茶々から届いた私的な便りである。

 

かぐやについて書かれていた。

 

大坂へ来てからも元気に過ごしていること。最近は茶々の侍女たちに見つからないよう、部屋の中で遊ぶ場所を増やしていること。

 

それから、茶々との勝負で負けが続いていること。

 

俺は、思わず笑ってしまった。

 

あいつら、そんなことをしているのか。

 

こっちは大坂城の堀一つで頭を抱えているというのに。

 

もっとも、手紙には別のことも書かれていた。

 

『かぐやは、竹千代がきちんと休んでいるかと、しきりに尋ねております』

 

……余計なお世話だ。

 

俺は書状を畳んだ。

 

「……数正」

 

「はっ」

 

「豊臣家との交渉には、できるだけ時間をかけたい。軍勢を動かすことになっても、使者の往来だけは絶やさぬようにしてくれ」

 

「承知いたしました」

 

「それと、大坂から駿府までの道も調べておいてほしい。戦になった場合でも、安全に人を運べる道がないか」

 

数正が顔を上げた。

 

「……どなたか、お迎えになるので?」

 

俺は少し考えた。

 

「……大切な客人がいる」

 

数正は、それ以上尋ねなかった。

 

◇

 

その日の夜、俺は秀忠と話した。

 

江戸から届いた書状ではなく、本人を呼んでの話し合いだった。

 

「父上。豊臣家を別の土地へ移すというお考えに、変わりはございませぬか」

 

「ああ」

 

「家臣たちの間には、今度こそ豊臣家の力を完全に削ぐべきだという意見もございます」

 

「分かっている」

 

俺は頷いた。

 

「だが、力を削ぐことと、家を滅ぼすことは同じではない」

 

秀忠は黙って聞いていた。

 

「秀頼様に所領を残し、豊臣の家格も認める。ただし、勝手に大軍を動かせぬようにする。徳川の定めた軍役に従ってもらう。それで済むなら、俺はそれがよいと思っている」

 

「……秀頼様がお受けにならなかった場合は?」

 

俺は、すぐには答えなかった。

 

秀忠の言うことはもっともだった。

 

何度条件を示したところで、受け入れてもらえなければ意味がない。

 

「……そのときは、また考える」

 

「父上」

 

秀忠が、少し厳しい顔をした。

 

「いつまでも、先延ばしにはできませぬ」

 

「ああ。そうだな」

 

俺は苦笑した。

 

昔は、秀忠にもう少し自分の考えを持てと説教していたものだ。

 

今では逆である。

 

将軍という立場が、人を変えるのだろう。

 

「……秀忠」

 

「はっ」

 

「一つ、頼みがある」

 

「何でございましょう」

 

「大坂城には、かぐやがいる」

 

秀忠の表情が変わった。

 

「……はい」

 

「もし戦になったら、あいつを安全に城から出す方法が必要だ」

 

秀忠は、少し考えた。

 

「……淀殿のもとにおられるのでございましたな」

 

「ああ。本人が望んで行った。だから、無理に連れ戻すつもりはない」

 

俺は続けた。

 

「だが、いざ城が危険になったとき、逃げる場所がなければ困る。大坂方へ使者を送る際に、瀬名からの贈り物を預かっている者がいれば、怪しまずに通せるようにしておきたい」

 

秀忠は頷いた。

 

「……承知いたしました」

 

「信康にも話しておこう。あいつには、東海道の宿場や輸送のことを調べてもらいたい」

 

「はい」

 

俺は、少しだけ息を吐いた。

 

かぐやの存在を息子たちに明かしておいてよかった。

 

俺一人では、できることに限りがある。

 

ましてや今は、歳も取った。

 

何もかも自分で決めて、自分で動くわけにはいかない。

 

「……父上」

 

秀忠が声をかけてきた。

 

「何だ?」

 

「かぐや殿は、父上にとって、それほど大切なお方なのですね」

 

俺は、少し驚いた。

 

「……今さらか?」

 

「いえ」

 

秀忠は、少し笑った。

 

「ただ、改めてそう思いました」

 

俺は、しばらく黙っていた。

 

そして、机に置かれた書状を見た。

 

「……あいつはな」

 

「はい」

 

「俺が竹千代だった頃から、ずっと一緒にいるんだ」

 

それだけ言うと、秀忠は静かに頷いた。

 

それ以上、説明する必要はなかった。

 

◇

 

大坂城では、茶々がかぐやとの勝負に勝ったところだった。

 

「はい。これで私の勝ちですね」

 

「ええーっ!?」

 

かぐやが、文箱の縁から身を乗り出した。

 

「ちょっと待って! 今のなし!」

 

「なぜです」

 

「だって、そっちに置くと思わなかったもん!」

 

「それが勝負というものですよ」

 

茶々は涼しい顔で答えた。

 

碁石を使った簡単な遊びである。

 

最初に教えたのはかぐやだったが、最近は茶々の方が勝つことが増えた。

 

「絶対、茶々の方が練習してる!」

 

「さて、どうでしょうね」

 

「ずるい!」

 

茶々は声を上げて笑った。

 

「負け惜しみも、そこまで堂々としていれば立派なものですね」

 

「もう一回!」

 

「今日はこれまでです」

 

「えー!」

 

茶々は石を片づけた。

 

「これから秀頼と話があります」

 

かぐやは、少し身体を傾けた。

 

「またお仕事?」

 

「ええ」

 

「茶々も竹千代も、仕事ばっかり!」

 

「それは困りましたね」

 

茶々は笑った。

 

だが、その表情はすぐに引き締まった。

 

秀頼から、軍議に出席してほしいとの知らせが届いていた。

 

城内では、再び徳川と戦うべきだという声が強まっている。

 

牢人たちは、冬の陣で徳川の大軍を退けたという自信を持っていた。

 

しかし、茶々はよく分かっていた。

 

あのときと、今とでは条件が違う。

 

大坂城の堀は埋められた。

 

城を頼りに長く戦うことは、以前よりはるかに難しい。

 

「……かぐや」

 

「なーに?」

 

「少し、留守にします」

 

「うん!」

 

茶々は文箱を整えた。

 

「勝手に外へ出てはなりませんよ」

 

「分かってるって!」

 

「本当ですか?」

 

「本当!」

 

茶々は、少し疑わしそうな顔をした。

 

だが、それ以上は何も言わず、文箱の蓋を閉じた。

 

◇

 

軍議の場では、家臣たちの意見が割れていた。

 

「徳川は、我らを滅ぼすつもりにございます!」

 

「今こそ兵を挙げ、先に敵を討つべきです!」

 

「いや、冬の陣とは違う。堀のない城で籠城などできぬ!」

 

茶々は、しばらく黙って聞いていた。

 

やがて、扇を畳んだ。

 

「……少し、静かになさい」

 

家臣たちが口を閉じる。

 

茶々は秀頼を見た。

 

「秀頼。そなたは、どう考えますか」

 

秀頼は、少し考えた。

 

「……私は、豊臣家を残しとうございます」

 

「ええ」

 

「ですが、城を離れ、徳川に従うという話には、まだ迷いがございます」

 

茶々は頷いた。

 

「当然でしょう」

 

秀頼は続けた。

 

「家臣たちの中には、最後まで戦うべきだと申す者もおります。今さら徳川に従えば、冬の陣で死んだ者たちに申し訳が立たぬとも」

 

「……そうでしょうね」

 

茶々は、家臣たちへ目を向けた。

 

「ですが、死んだ者に申し訳が立たぬからといって、さらに大勢を死なせることが正しいとは思いません」

 

誰も答えなかった。

 

「徳川殿は、豊臣家を別の土地で存続させる案を示しておられます。その条件について、まだ確かめるべきことがあります」

 

茶々は続けた。

 

「約束を守らせるための手立ても必要でしょう。大坂城を離れた途端にすべてを奪われるようでは、話になりませんから」

 

家臣の一人が口を開いた。

 

「しかし、御方様。徳川を信用できましょうか」

 

茶々は、すぐに答えた。

 

「信用するかどうかではありません」

 

その声には、はっきりとした強さがあった。

 

「何を約束させ、どのように守らせるかです。人の善意だけを頼りに、豊臣家の存続を決めるわけにはいきません」

 

秀頼も頷いた。

 

茶々は、息子へ向き直った。

 

「秀頼。そなたが豊臣家の当主です。皆の意見を聞いたうえで、ご自身で決めなさい」

 

「……はい」

 

だが、話し合いが続く間にも、城内では別の動きが進んでいた。

 

牢人たちの一部が、徳川との再戦に向けて兵を整え始めていたのである。

 

◇

 

四月。

 

大坂方が城外へ兵を動かし始めた。

 

堺が襲われたという知らせも届いた。

 

俺は報告を聞き、額を押さえた。

 

「……よりによって、今か」

 

大坂城の守りを修復する。

 

兵を集める。

 

そして、城外へ軍勢を出す。

 

これでは、徳川方の大名たちが黙っているはずもない。

 

「殿。諸大名からも、再出陣を求める声が増えております」

 

数正が言った。

 

「分かっている」

 

俺は書状を机へ置いた。

 

豊臣家からは、移転の条件について返事が来ていた。

 

拒絶ではない。

 

だが、最終的な合意にも至っていなかった。

 

話し合いが続いている間に、軍勢が動き始めてしまったのである。

 

「……数正」

 

「はっ」

 

「大坂へ、もう一度使者を送る」

 

数正が顔を上げた。

 

「和睦の申し入れにございますか」

 

「ああ。秀頼様と淀殿のお命を保証すること、それから豊臣家を存続させる条件について、改めて伝えたい」

 

俺は続けた。

 

「そして、かぐやのこともだ」

 

数正が、少し不思議そうな顔をした。

 

「……お客人にございますか」

 

「ああ」

 

俺は頷いた。

 

「瀬名から預かった品を、淀殿へ届けたことがあるだろう。あの荷について、いつでも送り返せるようにしてほしいと伝えてくれ」

 

数正は頭を下げた。

 

「承知いたしました」

 

俺は、しばらく考えた。

 

かぐやは、茶々の傍にいたいと望んだ。

 

その気持ちは尊重したい。

 

だが、今度は冬の陣よりも危険だ。

 

大坂城が攻め落とされることになれば、誰があいつを守れる?

 

茶々だって、秀頼や千姫のことで手いっぱいになるだろう。

 

そのときになってから迎えに行こうとしても、間に合わないかもしれない。

 

俺は、もう一枚書状を用意した。

 

かぐやへ宛てたものだった。

 

『今はまだ大坂にいてもよい。だが、城が危なくなる前に戻ってきてほしい。茶々殿のお傍にいたい気持ちは分かる。だからこそ、茶々殿も一緒にお連れできるよう、俺も最後まで考える』

 

書き終えてから、少し眺めた。

 

まるで、子供に出す手紙だ。

 

もっとも、相手は俺よりはるかに長く生きている。

 

そんな相手に、何を言っているんだか。

 

俺は苦笑した。

 

だが、それでも書き直さなかった。

 

これが、今の俺の本音だった。

 

◇

 

書状が届いたとき、かぐやは茶々の部屋にいた。

 

茶々は、瀬名からの私的な文として届けられたものを開き、かぐやへ読み聞かせた。

 

「……竹千代、心配しすぎ!」

 

かぐやが声を上げた。

 

茶々は笑った。

 

「そなたのことが、大切なのでしょう」

 

「分かってるけど!」

 

かぐやは、少し身体を揺らした。

 

「茶々だって、心配だもん!」

 

茶々は、しばらく黙っていた。

 

それから、そっと頷いた。

 

「……ありがとうございます」

 

かぐやは、文箱の縁からこちらを見た。

 

「ねえ、茶々」

 

「何でしょう」

 

「もしまた戦になったら、一緒に逃げようよ」

 

茶々は、すぐには答えなかった。

 

「竹千代、助けてくれるって言ってるし!」

 

「……そうですね」

 

「秀頼も、千姫も、みんなで行けばいいじゃん!」

 

茶々は、小さく息を吐いた。

 

それができれば、どれほどよいだろう。

 

だが、豊臣家には多くの家臣がいる。

 

大坂城を頼って集まった者たちも大勢いる。

 

そのすべてを連れて逃げることはできない。

 

「……かぐや」

 

「なーに?」

 

「もし城を離れることになれば、豊臣家は今までのようには暮らせなくなるでしょう」

 

「……うん」

 

「それでも、秀頼が生きていられるのであれば、私は考えねばならないと思っています」

 

かぐやは黙って聞いていた。

 

茶々は続けた。

 

「ですが、私一人で決められることではありません。秀頼も、家臣たちもおりますから」

 

かぐやは、しばらく考えた。

 

「……そっか」

 

それから、少しだけ声を明るくした。

 

「じゃあ、みんなで考えよう!」

 

茶々は目を瞬いた。

 

そして、思わず笑った。

 

「……本当に、そなたは」

 

「何?」

 

「簡単に申してくれますね」

 

「えへへ!」

 

茶々は、笑いながら首を振った。

 

だが、その言葉を聞いて、少しだけ気が楽になった。

 

◇

 

五月六日。

 

道明寺と八尾・若江で、大きな戦が起きた。

 

徳川方が勝った。

 

だが、報告に並ぶ死者の名を見ていると、とても喜ぶ気にはなれなかった。

 

後藤基次。

 

木村重成。

 

豊臣方の名のある武将たちが、次々と討ち死にしている。

 

こちらにも、多くの損害が出た。

 

「……父上」

 

秀忠が、軍勢の配置について報告に来た。

 

「大坂方は、なお戦う構えにございます」

 

「ああ」

 

俺は絵図を広げた。

 

大坂城の南側。

 

天王寺と岡山のあたりで、豊臣方が最後の軍勢を整えつつある。

 

真田信繁も、そこにいるという。

 

「……秀忠」

 

「はっ」

 

「城へ通じる道を、すべて塞ぐな」

 

秀忠が顔を上げた。

 

「……どういうことでございますか」

 

「使者が行き来できる道を残しておきたい」

 

俺は答えた。

 

「もし秀頼様が和睦を望まれたら、すぐに話ができるようにしておく」

 

秀忠は、しばらく考えた。

 

「……敵が、その道を利用する恐れもございます」

 

「分かっている。だから、こちらで厳重に守らせる」

 

俺は続けた。

 

「それから、大坂城にいる者を迎え出す必要がある場合も、その道を使わせたい」

 

秀忠は、すぐに理解したようだった。

 

「……かぐや殿でございますか」

 

俺は頷いた。

 

「……ああ」

 

それだけではない。

 

茶々も、秀頼も、千姫も。

 

できることなら、全員を無事に城から出したかった。

 

「……父上」

 

秀忠が、少し声を落とした。

 

「大坂城が落ちれば、敵味方の区別も難しくなりましょう」

 

「分かっている」

 

「すべての者を救うことは、できませぬ」

 

俺は黙った。

 

秀忠は、慎重に続けた。

 

「父上がかぐや殿を大切に思われていることは、承知しております。ですが、そのために軍勢の動きを大きく変えれば、こちらの兵にも危険が及びます」

 

俺は、息を吐いた。

 

息子の言うことは、正しい。

 

俺は徳川の大御所だ。

 

かぐや一人を守るために、何万もの兵を危険に晒してよいわけではない。

 

それでも。

 

「……秀忠」

 

「はっ」

 

「できる範囲でよい。城内から助けを求める者が来たら、無用に追い返すな」

 

秀忠は頷いた。

 

「……承知いたしました」

 

俺は、絵図を見た。

 

あの城には、かぐやがいる。

 

それだけで、いつもの戦とは違っていた。

 

もし城が落ちたら。

 

もし、あいつが逃げ遅れたら。

 

考えたくもなかった。

 

◇

 

五月七日。

 

天王寺・岡山で、豊臣方の最後の攻撃が始まった。

 

真田信繁の軍勢が、こちらの本陣へ向かって突撃してくる。

 

最初の報告を聞いたとき、俺はそれほど心配していなかった。

 

こちらの兵は多い。

 

備えも整えている。

 

多少押し込まれても、すぐに立て直せるだろう。

 

……甘かった。

 

「殿! 真田勢が、こちらへ向かっております!」

 

使者が駆け込んできた。

 

「前方の備えが崩れました!」

 

俺は顔を上げた。

 

「……何だと?」

 

外へ出る。

 

遠くで、兵たちが慌ただしく動いていた。

 

旗が揺れ、怒号が飛び交っている。

 

そして、こちらへ迫ってくる赤い軍勢が見えた。

 

おいおい。

 

勘弁してくれ。

 

俺はもう、七十を過ぎた老人なんだぞ。

 

「馬を!」

 

俺が命じると、家臣たちが慌てて動いた。

 

「殿! こちらへ!」

 

「分かっておる!」

 

馬へ乗ろうとした瞬間、足元で兵が倒れた。

 

鉄砲の音が近い。

 

敵が、思っていた以上に深く入り込んでいる。

 

「……まずいな」

 

思わず呟いた。

 

三方ヶ原を思い出した。

 

あのときも、武田の軍勢に散々追い回された。

 

何とか逃げ延びたが、あの戦で多くの家臣を失った。

 

そのとき以来だろうか。

 

本気で、ここで死ぬかもしれないと思ったのは。

 

「殿!」

 

家臣が叫ぶ。

 

「お急ぎください!」

 

俺は馬へ乗った。

 

振り返ると、徳川の馬印が大きく揺れていた。

 

……真田め。

 

まったく、最後の最後まで恐ろしい男だ。

 

俺は手綱を握り直した。

 

「本陣を立て直せ! 勝手に逃げるな!」

 

家臣たちが声を上げる。

 

俺も、できる限り大きな声で命令を出した。

 

だが、心臓は激しく鳴っていた。

 

死にたくない。

 

まだ、死にたくない。

 

秀忠も信康もいる。

 

瀬名もいる。

 

そして、かぐやがいる。

 

あいつに、また会うと約束したのだ。

 

こんなところで死んでたまるか。

 

◇

 

戦は、やがて徳川方の優勢となった。

 

真田の軍勢は激しく抵抗したが、数に勝るこちらが少しずつ押し返していく。

 

そして、真田信繁が討ち死にしたとの知らせが届いた。

 

俺は、しばらく黙っていた。

 

「……そうか」

 

一人の、恐ろしい武将だった。

 

敵でなければ、どれほど心強かったことだろう。

 

しかし、感傷に浸っている暇はなかった。

 

大坂方の軍勢は崩れ、城へ戻り始めている。

 

「……秀忠」

 

「はっ」

 

「城へ向かう兵たちに伝えよ。秀頼様と淀殿を見つけたら、必ず保護するように」

 

「承知いたしました」

 

「それから、千姫もだ」

 

俺は続けた。

 

「城を攻めるのはよい。だが、命令もなく二人を討つことは許さぬ」

 

秀忠は頷いた。

 

「御意」

 

俺は、そこで一度言葉を切った。

 

「……それから」

 

秀忠が顔を上げた。

 

「小さな文箱を持った者がいれば、決して粗略に扱うな。淀殿のもとから運ばれるものだ」

 

秀忠は、すぐに理解したようだった。

 

「……かぐや殿でございますな」

 

「ああ」

 

俺は頷いた。

 

「本人が無事に逃げられるよう、できるだけ手を尽くしてくれ」

 

秀忠は、深く頭を下げた。

 

「承知いたしました」

 

俺は、大坂城へ目を向けた。

 

遠くに、煙が上がっている。

 

……頼むから。

 

間に合ってくれよ。

 

そう願った。

 

◇

 

その日の夕方。

 

大坂城から火の手が上がった。

 

最初は、一部の建物が燃えているだけだった。

 

だが、風にあおられ、火は次々と広がっていった。

 

茶々は、侍女たちと共に廊下を急いでいた。

 

「秀頼は?」

 

「山里の方へお移りになっております!」

 

「千姫様は?」

 

「こちらに!」

 

茶々は振り返った。

 

千姫が、侍女に手を引かれている。

 

顔は真っ青だった。

 

「千姫様」

 

茶々は近づいた。

 

「お怪我はありませんか」

 

「……はい」

 

「よろしい」

 

茶々は、千姫の肩へ手を置いた。

 

「今から、城を出ていただきます」

 

千姫が顔を上げた。

 

「母上様は?」

 

「私は、秀頼のところへ参ります」

 

「では、私も」

 

「なりません」

 

茶々は、はっきりと言った。

 

「そなたは、徳川の方々のもとへ戻りなさい」

 

千姫は、首を振った。

 

「嫌でございます」

 

「千姫様」

 

「秀頼様も、母上様も……」

 

茶々は、しばらく千姫を見つめた。

 

そして、そっと抱き寄せた。

 

「そなたは、よい子ですね」

 

千姫は、声を詰まらせた。

 

茶々は続けた。

 

「ですが、ここに残ってはなりません。そなたには、これからも生きていただかなければ」

 

「……母上様」

 

「大丈夫です。徳川殿へ、私からの言葉を伝えてください」

 

茶々は、用意していた書状を渡した。

 

そこには、秀頼と自分の助命を求める言葉が記されていた。

 

豊臣家が今後、徳川の定める条件に従うことも、改めて申し入れている。

 

茶々は、最後まで諦めるつもりがなかった。

 

だが、書状だけでは足りない。

 

もう一つ、どうしても送り出さなければならない者がいた。

 

◇

 

「……かぐや」

 

人払いを済ませた部屋で、茶々は文箱を開いた。

 

「茶々!」

 

かぐやが顔を出す。

 

「外、すごい音してる! 大丈夫!?」

 

「ええ。私は大丈夫です」

 

茶々は答えた。

 

かぐやは、じっとこちらを見た。

 

「……嘘」

 

茶々は、少し驚いた。

 

「何がです?」

 

「茶々、怪我してるじゃん!」

 

袖に、血がついていた。

 

逃げる途中、壊れた建具で腕を切ったのである。

 

茶々は、小さく笑った。

 

「たいした傷ではありませんよ」

 

「でも!」

 

「かぐや」

 

茶々は、少し強く呼びかけた。

 

かぐやが口を閉じる。

 

「よく聞きなさい」

 

「……うん」

 

「そなたは、千姫様と一緒に城を出ます」

 

かぐやは、動きを止めた。

 

「……茶々は?」

 

「私は、秀頼のところへ参ります」

 

「じゃあ、私も!」

 

「なりません」

 

茶々は、はっきりと言った。

 

かぐやは、しばらく黙っていた。

 

「……やだ」

 

その声は、小さかった。

 

「私、茶々と一緒にいたい」

 

茶々は、ゆっくりと目を閉じた。

 

この友人が、どれほど自分を大切に思ってくれているのか。

 

今さら確かめる必要などなかった。

 

だからこそ、連れていくわけにはいかなかった。

 

「……かぐや」

 

茶々は、そっと文箱へ手を伸ばした。

 

「私は、そなたと過ごした時間が好きでしたよ」

 

かぐやは、黙っていた。

 

「そなたが来ると、いつも騒がしくなりました。菓子をねだって、遊びに誘って、私が負けると大喜びして」

 

茶々は、少し笑った。

 

「まったく、困った友人です」

 

「……茶々」

 

「ですが、とても楽しかった」

 

外で、何かが崩れる音がした。

 

茶々は、一度だけそちらへ目を向けた。

 

そして、かぐやへ向き直った。

 

「会いたい者がいるのだろう?」

 

かぐやは、しばらく何も言わなかった。

 

茶々は、まっすぐにその小さな友人を見ていた。

 

「そなたには、まだ行くべきところがあります」

 

「……でも」

 

「私のことは案ずるな、と申しても、そなたは聞かぬでしょうね」

 

茶々は、少し笑った。

 

「ならば、約束してください。ここを出たら、ご自身の望むところへ向かうと」

 

かぐやは、身体を震わせた。

 

「……茶々も、一緒に行こうよ」

 

茶々は答えなかった。

 

「茶々も、秀頼も! みんなで逃げようよ!」

 

「……できる限り、そうするつもりです」

 

茶々は、正面から答えた。

 

「ですが、今すぐそなたを連れて歩くことはできません。ここには、大勢の兵が入ってきます」

 

かぐやは黙った。

 

茶々は続けた。

 

「そなたは、先に行きなさい。そして、徳川殿へ伝えてください。秀頼と私を助けたいと仰った、そのお言葉を守っていただきたいと」

 

かぐやは、しばらく茶々を見ていた。

 

やがて、小さく頷いた。

 

「……分かった」

 

茶々は微笑んだ。

 

「よろしい」

 

それから、用意していた布を文箱の中へ敷き直した。

 

道中でかぐやの身体が傷つかぬよう、いつもより丁寧に整える。

 

「……茶々」

 

「何でしょう」

 

「昨日の勝負、まだ終わってないよ」

 

茶々の手が止まった。

 

かぐやは続けた。

 

「私、次は絶対勝つからね」

 

茶々は、しばらく黙っていた。

 

そして、笑った。

 

「……そうですか」

 

「うん」

 

「では、覚えておきましょう」

 

茶々は、そっと蓋へ手をかけた。

 

「……かぐや」

 

「なーに?」

 

「そなたは、これからも楽しく生きなさい」

 

かぐやは、何も言わなかった。

 

茶々は微笑んだ。

 

「徳川殿には、あまり無茶をなさらぬよう、よく申し上げてくださいね」

 

「……うん」

 

「それから、そなた自身もです」

 

「……分かった」

 

茶々は、ゆっくりと蓋を閉じた。

 

外では、火が燃えている。

 

人の叫び声が、少しずつ近づいてきていた。

 

茶々は文箱を抱え、千姫のもとへ向かった。

 

◇

 

千姫は、徳川方へ送り出された。

 

茶々から託された書状と、小さな文箱を携えて。

 

箱の中身については、誰にも話さぬよう頼まれている。

 

千姫は、その約束を守った。

 

一方、茶々は秀頼のもとへ戻った。

 

城内には、まだ戦おうとする者もいた。

 

だが、すでに組織だった抵抗は難しくなっている。

 

炎は広がり、兵たちは次々と倒れていった。

 

「……母上」

 

秀頼が、茶々を迎えた。

 

「千は?」

 

「無事に送り出しました」

 

「……そうですか」

 

秀頼は、少しだけ安心したようだった。

 

茶々は息子の傍へ座った。

 

「徳川殿へ、書状も持たせました」

 

「助命の願いを?」

 

「ええ」

 

秀頼は黙った。

 

「……母上」

 

「何でしょう」

 

「私は、判断を誤ったのでしょうか」

 

茶々は、すぐには答えなかった。

 

秀頼は続けた。

 

「もっと早く城を出るべきだったのか。それとも、初めから戦を避けるべきだったのか」

 

茶々は、息子を見つめた。

 

「秀頼」

 

「はい」

 

「私にも、分かりません」

 

秀頼が顔を上げた。

 

茶々は続けた。

 

「そなたに豊臣家を残そうとして、ここまで参りました。私も多くのことを決め、そなたにも決めさせました」

 

「……」

 

「そのすべてが正しかったなどとは、申しません」

 

茶々は、息子の手を取った。

 

「ですが、まだ終わったわけではありません。千姫様が徳川殿へたどり着けば、話ができるかもしれません」

 

秀頼は、ゆっくりと頷いた。

 

茶々も頷いた。

 

そのとき、遠くで大きな音がした。

 

城の一部が崩れたらしい。

 

茶々は、息子の手を握り直した。

 

「……秀頼」

 

「はい」

 

「最後まで、諦めずにおりましょう」

 

秀頼は、深く頷いた。

 

◇

 

千姫が徳川方へたどり着いたとの知らせを受け、俺はすぐに面会を命じた。

 

「……千!」

 

姿を見た瞬間、思わず声が出た。

 

千姫は、埃にまみれていた。

 

衣も乱れている。

 

だが、生きている。

 

「……お祖父様」

 

千姫が、深く頭を下げた。

 

「よくぞ無事で……」

 

そこまで言って、俺は言葉を止めた。

 

まだ、安心している場合ではない。

 

「……秀頼様と淀殿は?」

 

千姫は、茶々から預かった書状を差し出した。

 

俺はすぐに開いた。

 

そこには、豊臣家がこれ以上戦を続けるつもりはないことと、助命を求める言葉が記されていた。

 

俺は、最後まで読み終えた。

 

「……分かった」

 

秀忠を呼ぶ。

 

大坂城にいる二人を保護するよう命じ、使者を送らせることにした。

 

「……父上」

 

秀忠が、少し険しい顔をした。

 

「城内には、まだ抵抗する者がおります」

 

「分かっている」

 

「今、兵を止めれば、かえって混乱する恐れもございます」

 

「それでも、できる限り止めよ」

 

俺は言った。

 

「秀頼様と淀殿が降伏を申し出ておられる。これ以上、二人を討つ理由はない」

 

秀忠は、しばらく俺を見ていた。

 

やがて、深く頭を下げた。

 

「……承知いたしました」

 

俺は、すぐに使者を出させた。

 

ただし、戦場は広い。

 

命令を出したからといって、すべての兵がその場で動きを止めるわけではない。

 

しかも、城内には火が回っている。

 

俺は、何度も報告を求めた。

 

その間に、千姫が小さな文箱を差し出してきた。

 

「……お祖父様」

 

「何だ?」

 

「母上様から、こちらもお預かりしました」

 

俺は、箱を見た。

 

見覚えがあった。

 

胸が、妙に騒いだ。

 

「……千」

 

「はい」

 

「これを預かってきたのか」

 

「はい。決して開けぬよう、仰せつかりました」

 

俺は、そっと受け取った。

 

「……ありがとう」

 

千姫が下がった後、人払いをした。

 

そして、文箱を開いた。

 

「……かぐや」

 

返事はなかった。

 

小さな身体が、布の上で丸まっている。

 

「……かぐや?」

 

しばらくして、身体が動いた。

 

「……竹千代?」

 

俺は、長く息を吐いた。

 

「……よかった」

 

かぐやが顔を上げた。

 

「……茶々は?」

 

俺は、返事に詰まった。

 

「……今、助けに行かせている」

 

かぐやは、黙っていた。

 

「……間に合う?」

 

俺は、文箱を見つめた。

 

「……間に合わせる」

 

そう答えた。

 

その言葉が、どれほど頼りないものか。

 

俺自身、よく分かっていた。

 

◇

 

五月八日。

 

豊臣秀頼と淀殿が亡くなったという知らせが届いた。

 

俺は、最初の報告を信じなかった。

 

「……もう一度、確かめよ」

 

使者が下がる。

 

しばらくして、別の報告が来た。

 

やはり、同じだった。

 

炎に追われ、最後に立て籠もった場所で、秀頼と茶々は自害したという。

 

俺は、書状を机へ置いた。

 

……何だよ、それ。

 

何のために、ここまでやってきたんだ。

 

豊臣家を残すための条件を考えた。

 

秀忠にも認めさせた。

 

諸大名とも話をした。

 

城へ使者を通す道まで残した。

 

最後には、茶々から降伏の申し出も届いた。

 

それなのに。

 

……間に合わなかった。

 

俺は、しばらく動けなかった。

 

秀吉の顔が浮かんだ。

 

痩せた手を伸ばし、秀頼を頼むと告げた男の顔だった。

 

……すまない。

 

俺は、約束を守れなかった。

 

それだけではない。

 

大坂城を追い詰めたのは、俺だ。

 

堀を埋めたのも、兵を進めたのも、最後の戦を命じたのも。

 

すべて、俺の判断だった。

 

救いたかった。

 

本当に、救いたかった。

 

だが、俺が救いたいと思っていたことと、俺が実際に何をしたかは、別の話だった。

 

俺は、ゆっくりと目を閉じた。

 

茶々殿。

 

あんたは、最後まで戦っていたんだな。

 

秀頼様を守るために。

 

豊臣家を残すために。

 

そして、最後には、かぐやまで送り出してくれた。

 

俺は、何も言えなかった。

 

◇

 

その日の夕方。

 

俺は、かぐやの文箱を開いた。

 

「……かぐや」

 

小さな身体が、ゆっくりと動いた。

 

「……竹千代?」

 

「ああ」

 

「……茶々は?」

 

俺は、しばらく返事ができなかった。

 

かぐやは、俺を見ていた。

 

「……竹千代」

 

俺は、ようやく口を開いた。

 

「……すまん」

 

かぐやが動きを止めた。

 

「……助けられなかった」

 

しばらく、何の音もしなかった。

 

外では、兵たちが行き来している。

 

大坂城は落ちた。

 

徳川が勝った。

 

家臣たちは、戦が終わったことを喜んでいる。

 

だが、俺はその声を聞く気になれなかった。

 

「……茶々、死んじゃったの?」

 

かぐやが尋ねた。

 

俺は頷いた。

 

「……ああ」

 

かぐやは、何も言わなかった。

 

俺は、そっと手を差し出した。

 

かぐやが、その上へ乗ってくる。

 

いつもより、動きが遅かった。

 

「……竹千代」

 

「何だ?」

 

「私、茶々と、まだ遊ぶ約束してたんだ」

 

俺は黙った。

 

「昨日の勝負、まだ終わってなかったの」

 

「……そうか」

 

「次は絶対勝つって言ったんだよ」

 

俺は、何も言えなかった。

 

かぐやは、しばらく黙っていた。

 

それから、小さな声で言った。

 

「……もう、できないんだね」

 

俺は、ゆっくりと頷いた。

 

「……ああ」

 

かぐやは、身体を丸めた。

 

俺は、その小さな身体を両手で包んだ。

 

昔から、何度もこうしてきた。

 

初めて出会った頃も。

 

戦に負けた夜も。

 

俺が歳を取ったと、かぐやにからかわれた日も。

 

だが、今日ばかりは、何を言えばよいのか分からなかった。

 

「……竹千代」

 

しばらくして、かぐやが呼んだ。

 

「何だ?」

 

「……茶々、最後までかっこよかったよ」

 

俺は、かぐやを見た。

 

「すっごく怖かったと思うけど、ちゃんと私を送り出してくれた」

 

「……ああ」

 

「竹千代に、よろしくって」

 

俺は、目を閉じた。

 

……そうか。

 

茶々殿は、最後まで俺のことを考えてくれたのか。

 

あれほど対立していたというのに。

 

俺は、しばらく黙っていた。

 

やがて、かぐやが小さく言った。

 

「……竹千代」

 

「何だ?」

 

「私、茶々のこと忘れたくない」

 

俺は頷いた。

 

「……俺もだよ」

 

「……本当?」

 

「ああ」

 

俺は、かぐやを見た。

 

「忘れない」

 

かぐやは、しばらく俺を見ていた。

 

それから、ゆっくりと身体を寄せてきた。

 

俺は、何も言わずに支えた。

 

◇

 

大坂城は焼け落ちた。

 

豊臣家は滅び、徳川の天下に対抗できる大きな勢力は、もはや残っていない。

 

俺が長年かけて築いてきたものは、ようやく形になろうとしていた。

 

戦のない世。

 

子や孫の時代にも続く仕組み。

 

人々が安心して暮らせる国。

 

それを作るために、俺は随分と多くのものを失ってきた。

 

家臣も、友人も。

 

そして、今回は。

 

かぐやにとって大切な友人まで、失わせてしまった。

 

俺は、部屋の隅に置かれた文箱を見た。

 

かぐやは、まだ中で眠っている。

 

この先も、あいつは生きていく。

 

俺が死んだ後も。

 

徳川の世が終わった後も。

 

そして、いつか俺の知らない誰かと出会い、また笑う日が来るのだろう。

 

それだけは、奪いたくなかった。

 

だが、どれほど世の中を整えても、茶々を生き返らせることはできない。

 

俺には、もう何もしてやれない。

 

……いや。

 

まだ、できることはあるのかもしれない。

 

少なくとも、かぐやが茶々のことを思い出したとき、話を聞くことくらいはできる。

 

俺が覚えている限り、茶々は死んだ後も、俺たちの中に残る。

 

それが、慰めになるのかどうかは分からない。

 

だが、今はそれしかなかった。

 

「……竹千代?」

 

文箱から声がした。

 

俺は顔を上げた。

 

「……起きたのか」

 

「うん」

 

かぐやが、蓋の隙間からこちらを見ている。

 

「……竹千代」

 

「何だ?」

 

「お腹すいた」

 

俺は、思わず目を瞬いた。

 

それから、少しだけ笑った。

 

「……そうか」

 

「うん」

 

「何か持ってこよう」

 

かぐやは、ゆっくりと頷いた。

 

俺は立ち上がった。

 

膝が、少し痛んだ。

 

だが、そんなことを言っている場合ではない。

 

かぐやが腹を空かせている。

 

ならば、何か食べさせてやらなければならない。

 

それは、竹千代だった頃から変わらない俺の仕事だった。

 

俺は文箱を抱えた。

 

「……かぐや」

 

「なーに?」

 

「帰ろうか」

 

かぐやは、しばらく黙っていた。

 

それから、小さく答えた。

 

「……うん」

 

俺は、そっと蓋を閉じた。

 

外では、戦の終わりを告げる声が聞こえていた。

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