徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
慶長二十年、春。
駿府に届く大坂からの書状には、決まって堀のことが書かれていた。
冬の陣で結んだ和睦により、大坂城は外側の守りを失った。だが、工事は豊臣方が考えていた範囲を超えて進められ、内側の堀まで埋められている。豊臣方からは幾度も抗議が寄せられていたが、すでに埋めてしまったものを簡単に元へ戻すこともできなかった。
その結果、大坂城は以前のような堅城ではなくなっている。
俺が望んだことだった。
そして、その城には今、かぐやがいる。
「殿。大坂より、新たな報告が届いております」
石川数正が、書状を差し出してきた。
俺は受け取り、最初から目を通した。
城内に残る牢人の数。豊臣方で進んでいる軍備の立て直し。堀を掘り返そうとする動き。
どれも、見過ごすことのできない話だった。
「……まだ、数万も残っているのか」
「はっ。冬の陣の後に城を去った者もおりますが、なお相当な人数を抱えているようでございます」
「それだけの人数を、いつまでも養えるとは思えんが」
「豊臣家の蔵には、相応の蓄えがあるかと」
俺は書状を置いた。
牢人たちの中には、徳川に敗れて主君を失った者が大勢いる。豊臣家が彼らを雇うこと自体、必ずしも不自然な話ではない。
だが、冬の陣で戦った者たちがそのまま残り、城の守りを直し始めたとなれば、話は別だった。
こちらの大名たちが警戒するのも当然である。
「……数正。以前まとめさせた、豊臣家の移転についての案は?」
「こちらに」
数正が別の書付を広げた。
俺はそれを手元へ引き寄せる。
豊臣家が大坂城を離れ、別の土地で家を存続させる。
そのために必要な所領、家臣の扶持、城、そして今後の軍役について記したものだった。
条件を考えるだけなら、いくらでもできる。
問題は、それを茶々と秀頼が受け入れるかどうかだ。
「秀頼様に従う者は、できるだけそのまま召し抱えられるようにしたい。ただし、大坂にいる牢人の全員を豊臣家へ抱え込ませるわけにはいかぬ」
「では、残る者たちは?」
「徳川方で召し抱えられる者は引き取り、帰郷する者には道中の安全を保証する。諸大名にも協力を求めよう」
数正は、少し眉を寄せた。
「……多くの費用が必要になりますな」
「ああ。だが、もう一度戦をすれば、もっとかかる」
何より、人が死ぬ。
冬の陣だけでも、随分と多くの兵を失った。
俺の命令で出陣した者たちだ。
その犠牲を無駄にしないためにも、今度こそ戦を避けたい。
「……それから」
俺は、もう一枚の書状を取り出した。
瀬名を通じて、茶々から届いた私的な便りである。
かぐやについて書かれていた。
大坂へ来てからも元気に過ごしていること。最近は茶々の侍女たちに見つからないよう、部屋の中で遊ぶ場所を増やしていること。
それから、茶々との勝負で負けが続いていること。
俺は、思わず笑ってしまった。
あいつら、そんなことをしているのか。
こっちは大坂城の堀一つで頭を抱えているというのに。
もっとも、手紙には別のことも書かれていた。
『かぐやは、竹千代がきちんと休んでいるかと、しきりに尋ねております』
……余計なお世話だ。
俺は書状を畳んだ。
「……数正」
「はっ」
「豊臣家との交渉には、できるだけ時間をかけたい。軍勢を動かすことになっても、使者の往来だけは絶やさぬようにしてくれ」
「承知いたしました」
「それと、大坂から駿府までの道も調べておいてほしい。戦になった場合でも、安全に人を運べる道がないか」
数正が顔を上げた。
「……どなたか、お迎えになるので?」
俺は少し考えた。
「……大切な客人がいる」
数正は、それ以上尋ねなかった。
◇
その日の夜、俺は秀忠と話した。
江戸から届いた書状ではなく、本人を呼んでの話し合いだった。
「父上。豊臣家を別の土地へ移すというお考えに、変わりはございませぬか」
「ああ」
「家臣たちの間には、今度こそ豊臣家の力を完全に削ぐべきだという意見もございます」
「分かっている」
俺は頷いた。
「だが、力を削ぐことと、家を滅ぼすことは同じではない」
秀忠は黙って聞いていた。
「秀頼様に所領を残し、豊臣の家格も認める。ただし、勝手に大軍を動かせぬようにする。徳川の定めた軍役に従ってもらう。それで済むなら、俺はそれがよいと思っている」
「……秀頼様がお受けにならなかった場合は?」
俺は、すぐには答えなかった。
秀忠の言うことはもっともだった。
何度条件を示したところで、受け入れてもらえなければ意味がない。
「……そのときは、また考える」
「父上」
秀忠が、少し厳しい顔をした。
「いつまでも、先延ばしにはできませぬ」
「ああ。そうだな」
俺は苦笑した。
昔は、秀忠にもう少し自分の考えを持てと説教していたものだ。
今では逆である。
将軍という立場が、人を変えるのだろう。
「……秀忠」
「はっ」
「一つ、頼みがある」
「何でございましょう」
「大坂城には、かぐやがいる」
秀忠の表情が変わった。
「……はい」
「もし戦になったら、あいつを安全に城から出す方法が必要だ」
秀忠は、少し考えた。
「……淀殿のもとにおられるのでございましたな」
「ああ。本人が望んで行った。だから、無理に連れ戻すつもりはない」
俺は続けた。
「だが、いざ城が危険になったとき、逃げる場所がなければ困る。大坂方へ使者を送る際に、瀬名からの贈り物を預かっている者がいれば、怪しまずに通せるようにしておきたい」
秀忠は頷いた。
「……承知いたしました」
「信康にも話しておこう。あいつには、東海道の宿場や輸送のことを調べてもらいたい」
「はい」
俺は、少しだけ息を吐いた。
かぐやの存在を息子たちに明かしておいてよかった。
俺一人では、できることに限りがある。
ましてや今は、歳も取った。
何もかも自分で決めて、自分で動くわけにはいかない。
「……父上」
秀忠が声をかけてきた。
「何だ?」
「かぐや殿は、父上にとって、それほど大切なお方なのですね」
俺は、少し驚いた。
「……今さらか?」
「いえ」
秀忠は、少し笑った。
「ただ、改めてそう思いました」
俺は、しばらく黙っていた。
そして、机に置かれた書状を見た。
「……あいつはな」
「はい」
「俺が竹千代だった頃から、ずっと一緒にいるんだ」
それだけ言うと、秀忠は静かに頷いた。
それ以上、説明する必要はなかった。
◇
大坂城では、茶々がかぐやとの勝負に勝ったところだった。
「はい。これで私の勝ちですね」
「ええーっ!?」
かぐやが、文箱の縁から身を乗り出した。
「ちょっと待って! 今のなし!」
「なぜです」
「だって、そっちに置くと思わなかったもん!」
「それが勝負というものですよ」
茶々は涼しい顔で答えた。
碁石を使った簡単な遊びである。
最初に教えたのはかぐやだったが、最近は茶々の方が勝つことが増えた。
「絶対、茶々の方が練習してる!」
「さて、どうでしょうね」
「ずるい!」
茶々は声を上げて笑った。
「負け惜しみも、そこまで堂々としていれば立派なものですね」
「もう一回!」
「今日はこれまでです」
「えー!」
茶々は石を片づけた。
「これから秀頼と話があります」
かぐやは、少し身体を傾けた。
「またお仕事?」
「ええ」
「茶々も竹千代も、仕事ばっかり!」
「それは困りましたね」
茶々は笑った。
だが、その表情はすぐに引き締まった。
秀頼から、軍議に出席してほしいとの知らせが届いていた。
城内では、再び徳川と戦うべきだという声が強まっている。
牢人たちは、冬の陣で徳川の大軍を退けたという自信を持っていた。
しかし、茶々はよく分かっていた。
あのときと、今とでは条件が違う。
大坂城の堀は埋められた。
城を頼りに長く戦うことは、以前よりはるかに難しい。
「……かぐや」
「なーに?」
「少し、留守にします」
「うん!」
茶々は文箱を整えた。
「勝手に外へ出てはなりませんよ」
「分かってるって!」
「本当ですか?」
「本当!」
茶々は、少し疑わしそうな顔をした。
だが、それ以上は何も言わず、文箱の蓋を閉じた。
◇
軍議の場では、家臣たちの意見が割れていた。
「徳川は、我らを滅ぼすつもりにございます!」
「今こそ兵を挙げ、先に敵を討つべきです!」
「いや、冬の陣とは違う。堀のない城で籠城などできぬ!」
茶々は、しばらく黙って聞いていた。
やがて、扇を畳んだ。
「……少し、静かになさい」
家臣たちが口を閉じる。
茶々は秀頼を見た。
「秀頼。そなたは、どう考えますか」
秀頼は、少し考えた。
「……私は、豊臣家を残しとうございます」
「ええ」
「ですが、城を離れ、徳川に従うという話には、まだ迷いがございます」
茶々は頷いた。
「当然でしょう」
秀頼は続けた。
「家臣たちの中には、最後まで戦うべきだと申す者もおります。今さら徳川に従えば、冬の陣で死んだ者たちに申し訳が立たぬとも」
「……そうでしょうね」
茶々は、家臣たちへ目を向けた。
「ですが、死んだ者に申し訳が立たぬからといって、さらに大勢を死なせることが正しいとは思いません」
誰も答えなかった。
「徳川殿は、豊臣家を別の土地で存続させる案を示しておられます。その条件について、まだ確かめるべきことがあります」
茶々は続けた。
「約束を守らせるための手立ても必要でしょう。大坂城を離れた途端にすべてを奪われるようでは、話になりませんから」
家臣の一人が口を開いた。
「しかし、御方様。徳川を信用できましょうか」
茶々は、すぐに答えた。
「信用するかどうかではありません」
その声には、はっきりとした強さがあった。
「何を約束させ、どのように守らせるかです。人の善意だけを頼りに、豊臣家の存続を決めるわけにはいきません」
秀頼も頷いた。
茶々は、息子へ向き直った。
「秀頼。そなたが豊臣家の当主です。皆の意見を聞いたうえで、ご自身で決めなさい」
「……はい」
だが、話し合いが続く間にも、城内では別の動きが進んでいた。
牢人たちの一部が、徳川との再戦に向けて兵を整え始めていたのである。
◇
四月。
大坂方が城外へ兵を動かし始めた。
堺が襲われたという知らせも届いた。
俺は報告を聞き、額を押さえた。
「……よりによって、今か」
大坂城の守りを修復する。
兵を集める。
そして、城外へ軍勢を出す。
これでは、徳川方の大名たちが黙っているはずもない。
「殿。諸大名からも、再出陣を求める声が増えております」
数正が言った。
「分かっている」
俺は書状を机へ置いた。
豊臣家からは、移転の条件について返事が来ていた。
拒絶ではない。
だが、最終的な合意にも至っていなかった。
話し合いが続いている間に、軍勢が動き始めてしまったのである。
「……数正」
「はっ」
「大坂へ、もう一度使者を送る」
数正が顔を上げた。
「和睦の申し入れにございますか」
「ああ。秀頼様と淀殿のお命を保証すること、それから豊臣家を存続させる条件について、改めて伝えたい」
俺は続けた。
「そして、かぐやのこともだ」
数正が、少し不思議そうな顔をした。
「……お客人にございますか」
「ああ」
俺は頷いた。
「瀬名から預かった品を、淀殿へ届けたことがあるだろう。あの荷について、いつでも送り返せるようにしてほしいと伝えてくれ」
数正は頭を下げた。
「承知いたしました」
俺は、しばらく考えた。
かぐやは、茶々の傍にいたいと望んだ。
その気持ちは尊重したい。
だが、今度は冬の陣よりも危険だ。
大坂城が攻め落とされることになれば、誰があいつを守れる?
茶々だって、秀頼や千姫のことで手いっぱいになるだろう。
そのときになってから迎えに行こうとしても、間に合わないかもしれない。
俺は、もう一枚書状を用意した。
かぐやへ宛てたものだった。
『今はまだ大坂にいてもよい。だが、城が危なくなる前に戻ってきてほしい。茶々殿のお傍にいたい気持ちは分かる。だからこそ、茶々殿も一緒にお連れできるよう、俺も最後まで考える』
書き終えてから、少し眺めた。
まるで、子供に出す手紙だ。
もっとも、相手は俺よりはるかに長く生きている。
そんな相手に、何を言っているんだか。
俺は苦笑した。
だが、それでも書き直さなかった。
これが、今の俺の本音だった。
◇
書状が届いたとき、かぐやは茶々の部屋にいた。
茶々は、瀬名からの私的な文として届けられたものを開き、かぐやへ読み聞かせた。
「……竹千代、心配しすぎ!」
かぐやが声を上げた。
茶々は笑った。
「そなたのことが、大切なのでしょう」
「分かってるけど!」
かぐやは、少し身体を揺らした。
「茶々だって、心配だもん!」
茶々は、しばらく黙っていた。
それから、そっと頷いた。
「……ありがとうございます」
かぐやは、文箱の縁からこちらを見た。
「ねえ、茶々」
「何でしょう」
「もしまた戦になったら、一緒に逃げようよ」
茶々は、すぐには答えなかった。
「竹千代、助けてくれるって言ってるし!」
「……そうですね」
「秀頼も、千姫も、みんなで行けばいいじゃん!」
茶々は、小さく息を吐いた。
それができれば、どれほどよいだろう。
だが、豊臣家には多くの家臣がいる。
大坂城を頼って集まった者たちも大勢いる。
そのすべてを連れて逃げることはできない。
「……かぐや」
「なーに?」
「もし城を離れることになれば、豊臣家は今までのようには暮らせなくなるでしょう」
「……うん」
「それでも、秀頼が生きていられるのであれば、私は考えねばならないと思っています」
かぐやは黙って聞いていた。
茶々は続けた。
「ですが、私一人で決められることではありません。秀頼も、家臣たちもおりますから」
かぐやは、しばらく考えた。
「……そっか」
それから、少しだけ声を明るくした。
「じゃあ、みんなで考えよう!」
茶々は目を瞬いた。
そして、思わず笑った。
「……本当に、そなたは」
「何?」
「簡単に申してくれますね」
「えへへ!」
茶々は、笑いながら首を振った。
だが、その言葉を聞いて、少しだけ気が楽になった。
◇
五月六日。
道明寺と八尾・若江で、大きな戦が起きた。
徳川方が勝った。
だが、報告に並ぶ死者の名を見ていると、とても喜ぶ気にはなれなかった。
後藤基次。
木村重成。
豊臣方の名のある武将たちが、次々と討ち死にしている。
こちらにも、多くの損害が出た。
「……父上」
秀忠が、軍勢の配置について報告に来た。
「大坂方は、なお戦う構えにございます」
「ああ」
俺は絵図を広げた。
大坂城の南側。
天王寺と岡山のあたりで、豊臣方が最後の軍勢を整えつつある。
真田信繁も、そこにいるという。
「……秀忠」
「はっ」
「城へ通じる道を、すべて塞ぐな」
秀忠が顔を上げた。
「……どういうことでございますか」
「使者が行き来できる道を残しておきたい」
俺は答えた。
「もし秀頼様が和睦を望まれたら、すぐに話ができるようにしておく」
秀忠は、しばらく考えた。
「……敵が、その道を利用する恐れもございます」
「分かっている。だから、こちらで厳重に守らせる」
俺は続けた。
「それから、大坂城にいる者を迎え出す必要がある場合も、その道を使わせたい」
秀忠は、すぐに理解したようだった。
「……かぐや殿でございますか」
俺は頷いた。
「……ああ」
それだけではない。
茶々も、秀頼も、千姫も。
できることなら、全員を無事に城から出したかった。
「……父上」
秀忠が、少し声を落とした。
「大坂城が落ちれば、敵味方の区別も難しくなりましょう」
「分かっている」
「すべての者を救うことは、できませぬ」
俺は黙った。
秀忠は、慎重に続けた。
「父上がかぐや殿を大切に思われていることは、承知しております。ですが、そのために軍勢の動きを大きく変えれば、こちらの兵にも危険が及びます」
俺は、息を吐いた。
息子の言うことは、正しい。
俺は徳川の大御所だ。
かぐや一人を守るために、何万もの兵を危険に晒してよいわけではない。
それでも。
「……秀忠」
「はっ」
「できる範囲でよい。城内から助けを求める者が来たら、無用に追い返すな」
秀忠は頷いた。
「……承知いたしました」
俺は、絵図を見た。
あの城には、かぐやがいる。
それだけで、いつもの戦とは違っていた。
もし城が落ちたら。
もし、あいつが逃げ遅れたら。
考えたくもなかった。
◇
五月七日。
天王寺・岡山で、豊臣方の最後の攻撃が始まった。
真田信繁の軍勢が、こちらの本陣へ向かって突撃してくる。
最初の報告を聞いたとき、俺はそれほど心配していなかった。
こちらの兵は多い。
備えも整えている。
多少押し込まれても、すぐに立て直せるだろう。
……甘かった。
「殿! 真田勢が、こちらへ向かっております!」
使者が駆け込んできた。
「前方の備えが崩れました!」
俺は顔を上げた。
「……何だと?」
外へ出る。
遠くで、兵たちが慌ただしく動いていた。
旗が揺れ、怒号が飛び交っている。
そして、こちらへ迫ってくる赤い軍勢が見えた。
おいおい。
勘弁してくれ。
俺はもう、七十を過ぎた老人なんだぞ。
「馬を!」
俺が命じると、家臣たちが慌てて動いた。
「殿! こちらへ!」
「分かっておる!」
馬へ乗ろうとした瞬間、足元で兵が倒れた。
鉄砲の音が近い。
敵が、思っていた以上に深く入り込んでいる。
「……まずいな」
思わず呟いた。
三方ヶ原を思い出した。
あのときも、武田の軍勢に散々追い回された。
何とか逃げ延びたが、あの戦で多くの家臣を失った。
そのとき以来だろうか。
本気で、ここで死ぬかもしれないと思ったのは。
「殿!」
家臣が叫ぶ。
「お急ぎください!」
俺は馬へ乗った。
振り返ると、徳川の馬印が大きく揺れていた。
……真田め。
まったく、最後の最後まで恐ろしい男だ。
俺は手綱を握り直した。
「本陣を立て直せ! 勝手に逃げるな!」
家臣たちが声を上げる。
俺も、できる限り大きな声で命令を出した。
だが、心臓は激しく鳴っていた。
死にたくない。
まだ、死にたくない。
秀忠も信康もいる。
瀬名もいる。
そして、かぐやがいる。
あいつに、また会うと約束したのだ。
こんなところで死んでたまるか。
◇
戦は、やがて徳川方の優勢となった。
真田の軍勢は激しく抵抗したが、数に勝るこちらが少しずつ押し返していく。
そして、真田信繁が討ち死にしたとの知らせが届いた。
俺は、しばらく黙っていた。
「……そうか」
一人の、恐ろしい武将だった。
敵でなければ、どれほど心強かったことだろう。
しかし、感傷に浸っている暇はなかった。
大坂方の軍勢は崩れ、城へ戻り始めている。
「……秀忠」
「はっ」
「城へ向かう兵たちに伝えよ。秀頼様と淀殿を見つけたら、必ず保護するように」
「承知いたしました」
「それから、千姫もだ」
俺は続けた。
「城を攻めるのはよい。だが、命令もなく二人を討つことは許さぬ」
秀忠は頷いた。
「御意」
俺は、そこで一度言葉を切った。
「……それから」
秀忠が顔を上げた。
「小さな文箱を持った者がいれば、決して粗略に扱うな。淀殿のもとから運ばれるものだ」
秀忠は、すぐに理解したようだった。
「……かぐや殿でございますな」
「ああ」
俺は頷いた。
「本人が無事に逃げられるよう、できるだけ手を尽くしてくれ」
秀忠は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
俺は、大坂城へ目を向けた。
遠くに、煙が上がっている。
……頼むから。
間に合ってくれよ。
そう願った。
◇
その日の夕方。
大坂城から火の手が上がった。
最初は、一部の建物が燃えているだけだった。
だが、風にあおられ、火は次々と広がっていった。
茶々は、侍女たちと共に廊下を急いでいた。
「秀頼は?」
「山里の方へお移りになっております!」
「千姫様は?」
「こちらに!」
茶々は振り返った。
千姫が、侍女に手を引かれている。
顔は真っ青だった。
「千姫様」
茶々は近づいた。
「お怪我はありませんか」
「……はい」
「よろしい」
茶々は、千姫の肩へ手を置いた。
「今から、城を出ていただきます」
千姫が顔を上げた。
「母上様は?」
「私は、秀頼のところへ参ります」
「では、私も」
「なりません」
茶々は、はっきりと言った。
「そなたは、徳川の方々のもとへ戻りなさい」
千姫は、首を振った。
「嫌でございます」
「千姫様」
「秀頼様も、母上様も……」
茶々は、しばらく千姫を見つめた。
そして、そっと抱き寄せた。
「そなたは、よい子ですね」
千姫は、声を詰まらせた。
茶々は続けた。
「ですが、ここに残ってはなりません。そなたには、これからも生きていただかなければ」
「……母上様」
「大丈夫です。徳川殿へ、私からの言葉を伝えてください」
茶々は、用意していた書状を渡した。
そこには、秀頼と自分の助命を求める言葉が記されていた。
豊臣家が今後、徳川の定める条件に従うことも、改めて申し入れている。
茶々は、最後まで諦めるつもりがなかった。
だが、書状だけでは足りない。
もう一つ、どうしても送り出さなければならない者がいた。
◇
「……かぐや」
人払いを済ませた部屋で、茶々は文箱を開いた。
「茶々!」
かぐやが顔を出す。
「外、すごい音してる! 大丈夫!?」
「ええ。私は大丈夫です」
茶々は答えた。
かぐやは、じっとこちらを見た。
「……嘘」
茶々は、少し驚いた。
「何がです?」
「茶々、怪我してるじゃん!」
袖に、血がついていた。
逃げる途中、壊れた建具で腕を切ったのである。
茶々は、小さく笑った。
「たいした傷ではありませんよ」
「でも!」
「かぐや」
茶々は、少し強く呼びかけた。
かぐやが口を閉じる。
「よく聞きなさい」
「……うん」
「そなたは、千姫様と一緒に城を出ます」
かぐやは、動きを止めた。
「……茶々は?」
「私は、秀頼のところへ参ります」
「じゃあ、私も!」
「なりません」
茶々は、はっきりと言った。
かぐやは、しばらく黙っていた。
「……やだ」
その声は、小さかった。
「私、茶々と一緒にいたい」
茶々は、ゆっくりと目を閉じた。
この友人が、どれほど自分を大切に思ってくれているのか。
今さら確かめる必要などなかった。
だからこそ、連れていくわけにはいかなかった。
「……かぐや」
茶々は、そっと文箱へ手を伸ばした。
「私は、そなたと過ごした時間が好きでしたよ」
かぐやは、黙っていた。
「そなたが来ると、いつも騒がしくなりました。菓子をねだって、遊びに誘って、私が負けると大喜びして」
茶々は、少し笑った。
「まったく、困った友人です」
「……茶々」
「ですが、とても楽しかった」
外で、何かが崩れる音がした。
茶々は、一度だけそちらへ目を向けた。
そして、かぐやへ向き直った。
「会いたい者がいるのだろう?」
かぐやは、しばらく何も言わなかった。
茶々は、まっすぐにその小さな友人を見ていた。
「そなたには、まだ行くべきところがあります」
「……でも」
「私のことは案ずるな、と申しても、そなたは聞かぬでしょうね」
茶々は、少し笑った。
「ならば、約束してください。ここを出たら、ご自身の望むところへ向かうと」
かぐやは、身体を震わせた。
「……茶々も、一緒に行こうよ」
茶々は答えなかった。
「茶々も、秀頼も! みんなで逃げようよ!」
「……できる限り、そうするつもりです」
茶々は、正面から答えた。
「ですが、今すぐそなたを連れて歩くことはできません。ここには、大勢の兵が入ってきます」
かぐやは黙った。
茶々は続けた。
「そなたは、先に行きなさい。そして、徳川殿へ伝えてください。秀頼と私を助けたいと仰った、そのお言葉を守っていただきたいと」
かぐやは、しばらく茶々を見ていた。
やがて、小さく頷いた。
「……分かった」
茶々は微笑んだ。
「よろしい」
それから、用意していた布を文箱の中へ敷き直した。
道中でかぐやの身体が傷つかぬよう、いつもより丁寧に整える。
「……茶々」
「何でしょう」
「昨日の勝負、まだ終わってないよ」
茶々の手が止まった。
かぐやは続けた。
「私、次は絶対勝つからね」
茶々は、しばらく黙っていた。
そして、笑った。
「……そうですか」
「うん」
「では、覚えておきましょう」
茶々は、そっと蓋へ手をかけた。
「……かぐや」
「なーに?」
「そなたは、これからも楽しく生きなさい」
かぐやは、何も言わなかった。
茶々は微笑んだ。
「徳川殿には、あまり無茶をなさらぬよう、よく申し上げてくださいね」
「……うん」
「それから、そなた自身もです」
「……分かった」
茶々は、ゆっくりと蓋を閉じた。
外では、火が燃えている。
人の叫び声が、少しずつ近づいてきていた。
茶々は文箱を抱え、千姫のもとへ向かった。
◇
千姫は、徳川方へ送り出された。
茶々から託された書状と、小さな文箱を携えて。
箱の中身については、誰にも話さぬよう頼まれている。
千姫は、その約束を守った。
一方、茶々は秀頼のもとへ戻った。
城内には、まだ戦おうとする者もいた。
だが、すでに組織だった抵抗は難しくなっている。
炎は広がり、兵たちは次々と倒れていった。
「……母上」
秀頼が、茶々を迎えた。
「千は?」
「無事に送り出しました」
「……そうですか」
秀頼は、少しだけ安心したようだった。
茶々は息子の傍へ座った。
「徳川殿へ、書状も持たせました」
「助命の願いを?」
「ええ」
秀頼は黙った。
「……母上」
「何でしょう」
「私は、判断を誤ったのでしょうか」
茶々は、すぐには答えなかった。
秀頼は続けた。
「もっと早く城を出るべきだったのか。それとも、初めから戦を避けるべきだったのか」
茶々は、息子を見つめた。
「秀頼」
「はい」
「私にも、分かりません」
秀頼が顔を上げた。
茶々は続けた。
「そなたに豊臣家を残そうとして、ここまで参りました。私も多くのことを決め、そなたにも決めさせました」
「……」
「そのすべてが正しかったなどとは、申しません」
茶々は、息子の手を取った。
「ですが、まだ終わったわけではありません。千姫様が徳川殿へたどり着けば、話ができるかもしれません」
秀頼は、ゆっくりと頷いた。
茶々も頷いた。
そのとき、遠くで大きな音がした。
城の一部が崩れたらしい。
茶々は、息子の手を握り直した。
「……秀頼」
「はい」
「最後まで、諦めずにおりましょう」
秀頼は、深く頷いた。
◇
千姫が徳川方へたどり着いたとの知らせを受け、俺はすぐに面会を命じた。
「……千!」
姿を見た瞬間、思わず声が出た。
千姫は、埃にまみれていた。
衣も乱れている。
だが、生きている。
「……お祖父様」
千姫が、深く頭を下げた。
「よくぞ無事で……」
そこまで言って、俺は言葉を止めた。
まだ、安心している場合ではない。
「……秀頼様と淀殿は?」
千姫は、茶々から預かった書状を差し出した。
俺はすぐに開いた。
そこには、豊臣家がこれ以上戦を続けるつもりはないことと、助命を求める言葉が記されていた。
俺は、最後まで読み終えた。
「……分かった」
秀忠を呼ぶ。
大坂城にいる二人を保護するよう命じ、使者を送らせることにした。
「……父上」
秀忠が、少し険しい顔をした。
「城内には、まだ抵抗する者がおります」
「分かっている」
「今、兵を止めれば、かえって混乱する恐れもございます」
「それでも、できる限り止めよ」
俺は言った。
「秀頼様と淀殿が降伏を申し出ておられる。これ以上、二人を討つ理由はない」
秀忠は、しばらく俺を見ていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
俺は、すぐに使者を出させた。
ただし、戦場は広い。
命令を出したからといって、すべての兵がその場で動きを止めるわけではない。
しかも、城内には火が回っている。
俺は、何度も報告を求めた。
その間に、千姫が小さな文箱を差し出してきた。
「……お祖父様」
「何だ?」
「母上様から、こちらもお預かりしました」
俺は、箱を見た。
見覚えがあった。
胸が、妙に騒いだ。
「……千」
「はい」
「これを預かってきたのか」
「はい。決して開けぬよう、仰せつかりました」
俺は、そっと受け取った。
「……ありがとう」
千姫が下がった後、人払いをした。
そして、文箱を開いた。
「……かぐや」
返事はなかった。
小さな身体が、布の上で丸まっている。
「……かぐや?」
しばらくして、身体が動いた。
「……竹千代?」
俺は、長く息を吐いた。
「……よかった」
かぐやが顔を上げた。
「……茶々は?」
俺は、返事に詰まった。
「……今、助けに行かせている」
かぐやは、黙っていた。
「……間に合う?」
俺は、文箱を見つめた。
「……間に合わせる」
そう答えた。
その言葉が、どれほど頼りないものか。
俺自身、よく分かっていた。
◇
五月八日。
豊臣秀頼と淀殿が亡くなったという知らせが届いた。
俺は、最初の報告を信じなかった。
「……もう一度、確かめよ」
使者が下がる。
しばらくして、別の報告が来た。
やはり、同じだった。
炎に追われ、最後に立て籠もった場所で、秀頼と茶々は自害したという。
俺は、書状を机へ置いた。
……何だよ、それ。
何のために、ここまでやってきたんだ。
豊臣家を残すための条件を考えた。
秀忠にも認めさせた。
諸大名とも話をした。
城へ使者を通す道まで残した。
最後には、茶々から降伏の申し出も届いた。
それなのに。
……間に合わなかった。
俺は、しばらく動けなかった。
秀吉の顔が浮かんだ。
痩せた手を伸ばし、秀頼を頼むと告げた男の顔だった。
……すまない。
俺は、約束を守れなかった。
それだけではない。
大坂城を追い詰めたのは、俺だ。
堀を埋めたのも、兵を進めたのも、最後の戦を命じたのも。
すべて、俺の判断だった。
救いたかった。
本当に、救いたかった。
だが、俺が救いたいと思っていたことと、俺が実際に何をしたかは、別の話だった。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
茶々殿。
あんたは、最後まで戦っていたんだな。
秀頼様を守るために。
豊臣家を残すために。
そして、最後には、かぐやまで送り出してくれた。
俺は、何も言えなかった。
◇
その日の夕方。
俺は、かぐやの文箱を開いた。
「……かぐや」
小さな身体が、ゆっくりと動いた。
「……竹千代?」
「ああ」
「……茶々は?」
俺は、しばらく返事ができなかった。
かぐやは、俺を見ていた。
「……竹千代」
俺は、ようやく口を開いた。
「……すまん」
かぐやが動きを止めた。
「……助けられなかった」
しばらく、何の音もしなかった。
外では、兵たちが行き来している。
大坂城は落ちた。
徳川が勝った。
家臣たちは、戦が終わったことを喜んでいる。
だが、俺はその声を聞く気になれなかった。
「……茶々、死んじゃったの?」
かぐやが尋ねた。
俺は頷いた。
「……ああ」
かぐやは、何も言わなかった。
俺は、そっと手を差し出した。
かぐやが、その上へ乗ってくる。
いつもより、動きが遅かった。
「……竹千代」
「何だ?」
「私、茶々と、まだ遊ぶ約束してたんだ」
俺は黙った。
「昨日の勝負、まだ終わってなかったの」
「……そうか」
「次は絶対勝つって言ったんだよ」
俺は、何も言えなかった。
かぐやは、しばらく黙っていた。
それから、小さな声で言った。
「……もう、できないんだね」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
かぐやは、身体を丸めた。
俺は、その小さな身体を両手で包んだ。
昔から、何度もこうしてきた。
初めて出会った頃も。
戦に負けた夜も。
俺が歳を取ったと、かぐやにからかわれた日も。
だが、今日ばかりは、何を言えばよいのか分からなかった。
「……竹千代」
しばらくして、かぐやが呼んだ。
「何だ?」
「……茶々、最後までかっこよかったよ」
俺は、かぐやを見た。
「すっごく怖かったと思うけど、ちゃんと私を送り出してくれた」
「……ああ」
「竹千代に、よろしくって」
俺は、目を閉じた。
……そうか。
茶々殿は、最後まで俺のことを考えてくれたのか。
あれほど対立していたというのに。
俺は、しばらく黙っていた。
やがて、かぐやが小さく言った。
「……竹千代」
「何だ?」
「私、茶々のこと忘れたくない」
俺は頷いた。
「……俺もだよ」
「……本当?」
「ああ」
俺は、かぐやを見た。
「忘れない」
かぐやは、しばらく俺を見ていた。
それから、ゆっくりと身体を寄せてきた。
俺は、何も言わずに支えた。
◇
大坂城は焼け落ちた。
豊臣家は滅び、徳川の天下に対抗できる大きな勢力は、もはや残っていない。
俺が長年かけて築いてきたものは、ようやく形になろうとしていた。
戦のない世。
子や孫の時代にも続く仕組み。
人々が安心して暮らせる国。
それを作るために、俺は随分と多くのものを失ってきた。
家臣も、友人も。
そして、今回は。
かぐやにとって大切な友人まで、失わせてしまった。
俺は、部屋の隅に置かれた文箱を見た。
かぐやは、まだ中で眠っている。
この先も、あいつは生きていく。
俺が死んだ後も。
徳川の世が終わった後も。
そして、いつか俺の知らない誰かと出会い、また笑う日が来るのだろう。
それだけは、奪いたくなかった。
だが、どれほど世の中を整えても、茶々を生き返らせることはできない。
俺には、もう何もしてやれない。
……いや。
まだ、できることはあるのかもしれない。
少なくとも、かぐやが茶々のことを思い出したとき、話を聞くことくらいはできる。
俺が覚えている限り、茶々は死んだ後も、俺たちの中に残る。
それが、慰めになるのかどうかは分からない。
だが、今はそれしかなかった。
「……竹千代?」
文箱から声がした。
俺は顔を上げた。
「……起きたのか」
「うん」
かぐやが、蓋の隙間からこちらを見ている。
「……竹千代」
「何だ?」
「お腹すいた」
俺は、思わず目を瞬いた。
それから、少しだけ笑った。
「……そうか」
「うん」
「何か持ってこよう」
かぐやは、ゆっくりと頷いた。
俺は立ち上がった。
膝が、少し痛んだ。
だが、そんなことを言っている場合ではない。
かぐやが腹を空かせている。
ならば、何か食べさせてやらなければならない。
それは、竹千代だった頃から変わらない俺の仕事だった。
俺は文箱を抱えた。
「……かぐや」
「なーに?」
「帰ろうか」
かぐやは、しばらく黙っていた。
それから、小さく答えた。
「……うん」
俺は、そっと蓋を閉じた。
外では、戦の終わりを告げる声が聞こえていた。