徳川家康になったら喋るウミウシと出会った   作:しそ

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徳川家康

元和元年、秋。

 

大坂の陣が終わってから、数か月が過ぎた。

 

豊臣家は滅び、天下に徳川へ対抗できるほどの大きな勢力はなくなった。諸大名はそれぞれの領国へ戻り、戦に使われた道具も片づけられ、世の中は少しずつ落ち着きを取り戻しつつある。

 

俺も駿府へ戻っていた。

 

戦が終われば、もう少しゆっくり暮らせると思っていたのだが、相変わらず仕事は多い。

 

今年は武家諸法度も定めた。

 

諸大名が勝手に軍勢を動かしたり、無断で城を修築したりすることを防ぐための決まりである。これまでの戦国大名同士の付き合いとは違い、天下の武家を一つの秩序の中に置かなければならない。

 

そんなことを考えながら書状を読んでいると、ふと、妙な気分になる。

 

俺は、本当に徳川家康になったのだな。

 

最初は、名前を知っただけで随分と驚いたものだった。

 

徳川家康。

 

江戸幕府を開いた人。

 

学校で習ったこともある、有名な歴史上の人物。

 

それが自分だと知ったときには、長生きできるという妙な安心感もあった。

 

だが、実際に生きてみれば、そんなに簡単な話ではなかった。

 

戦で死にかけたこともある。

 

家臣を失ったこともある。

 

家族を守るために、歴史を変えようとしたこともある。

 

そして、つい数か月前には。

 

救いたかった人々を、結局救えなかった。

 

「……殿」

 

石川数正が、書状を持ってきた。

 

「江戸より、秀忠様のお返事が届いております」

 

「ありがとう」

 

俺は受け取った。

 

このところ、数正も随分と歳を取った。

 

背中は曲がり、歩くのも遅い。昔なら一息で済ませていた廊下を、途中で休みながら歩くようになっている。

 

それでも、俺のところへ書状を持ってくる仕事だけは、なかなか手放そうとしなかった。

 

「……数正」

 

「何でございましょう」

 

「そろそろ隠居したらどうだ」

 

数正は、俺を見た。

 

「殿がなされるのであれば、考えましょう」

 

「俺はもう将軍を辞めただろ」

 

「将軍職を退かれただけにございます」

 

……なるほど。

 

それは、確かにそうだ。

 

俺が黙っていると、数正は少しだけ笑った。

 

「殿。お互い、長く生きすぎたのかもしれませぬな」

 

俺も笑った。

 

「そうだな」

 

数正とは、長い付き合いである。

 

若い頃には、まさかこれほど長く一緒に働くことになるとは思わなかった。

 

俺が間違ったことをすれば、遠慮なく意見を述べる。

 

無理なことを命じれば、できないものはできないと言う。

 

随分と苦労をかけた。

 

それでも、今こうして傍にいてくれる。

 

ありがたいことだった。

 

「……数正」

 

「はっ」

 

「今まで、苦労をかけたな」

 

数正は、少し驚いたようだった。

 

それから、深く頭を下げた。

 

「……こちらこそ、長くお仕えできましたこと、ありがたく存じます」

 

俺は頷いた。

 

数正は、しばらく俺を見ていた。

 

そして、何か言いたそうな顔をした。

 

「……何だ?」

 

「いえ」

 

「気になるだろ」

 

「……殿がそのようなことを仰ると、少々心配になります」

 

俺は苦笑した。

 

「何をだよ」

 

「急に、すべてを終わらせるおつもりなのではないかと」

 

……まったく。

 

少し礼を言っただけで、これである。

 

俺は書状を広げた。

 

「安心しろ。まだまだ仕事は残っている」

 

数正は、深く息を吐いた。

 

「……それを聞いて安心してよいものか、迷いますな」

 

俺は笑った。

 

◇

 

大坂から戻って以来、かぐやは以前より静かになった。

 

もちろん、一日中黙っているわけではない。

 

腹が減れば菓子をねだるし、庭へ出たいと思えば俺や瀬名を呼ぶ。新しいものを見つければ大喜びするところも、昔と変わらない。

 

ただ、時折、何かを思い出したように黙ることがあった。

 

たとえば、碁石を使った遊びをしていたときだ。

 

「……あっ」

 

かぐやが声を上げた。

 

「どうした?」

 

「これ、茶々が得意だったやつ」

 

俺は盤へ目を落とした。

 

以前、茶々とかぐやが大坂城で遊んでいたという勝負である。

 

かぐやが教えたはずなのに、途中から茶々の方が強くなったらしい。

 

大坂から戻ってきたとき、かぐやが随分と悔しがっていた。

 

もっとも、その相手はもういない。

 

「……そうか」

 

俺が答えると、かぐやは石を一つ動かした。

 

「茶々、これ置くの上手かったんだよね」

 

「へえ」

 

「私がこっちに置くと、絶対あっちに置くの!」

 

かぐやは、盤の上で石の位置を示した。

 

俺も、言われるままに動かしてみる。

 

「……なるほど」

 

「でしょ!?」

 

確かに、面白い。

 

俺が思いついた手は、すぐに塞がれてしまう。

 

「……茶々殿、上手だったんだな」

 

「そうなの! 最初は私が勝ってたんだけどね」

 

かぐやは、得意げに話し始めた。

 

それから、途中で口を閉じた。

 

「……でも、もう勝負できないんだよね」

 

俺は盤を見た。

 

黒い石と白い石が、途中まで並んでいる。

 

「……そうだな」

 

かぐやは、しばらく黙っていた。

 

それから、石を一つ動かした。

 

「……竹千代」

 

「何だ?」

 

「もう一回やろ」

 

俺は顔を上げた。

 

「いいのか?」

 

「うん!」

 

かぐやは、少し笑った。

 

「今度は竹千代に勝つ!」

 

「お前、さっきから俺に負けてるだろ」

 

「次は勝つもん!」

 

俺は苦笑した。

 

「……じゃあ、もう一回だな」

 

石を並べ直す。

 

かぐやは、さっそく手を考え始めた。

 

昔から、こいつはこうだった。

 

悲しいことがあっても、ずっと同じ場所に留まっているわけではない。

 

長い間、多くの人と出会い、別れを経験してきたのだろう。

 

それでも、慣れてしまったから悲しくないということではない。

 

俺が茶々を思い出すのと同じように、かぐやも時折思い出す。

 

そして、こうしてまた遊ぶ。

 

俺は石を一つ置いた。

 

かぐやが、すぐに声を上げる。

 

「あーっ! そこ置くの!?」

 

「駄目なのか?」

 

「駄目じゃないけど!」

 

俺は笑った。

 

しばらくすると、かぐやも笑い始めた。

 

◇

 

ある日、千姫から文が届いた。

 

大坂の陣の後、あの子も随分とつらい思いをしている。

 

秀頼は夫だった。

 

茶々も、大坂へ嫁いで以来、母親のように接してくれた人である。

 

その二人を一度に失った。

 

しかも、二人を死なせたのは、千姫の実家である徳川だった。

 

いったい、どれほど複雑な思いを抱えていることだろう。

 

文には、近頃の暮らしについて書かれていた。

 

身体の調子は悪くない。

 

周囲の者たちもよくしてくれる。

 

だが、夜になると大坂城のことを思い出すという。

 

俺は、何度も読み返した。

 

返事を書こうとして、筆が止まった。

 

何と書けばよいのか。

 

大坂のことは忘れなさい。

 

前を向いて生きなさい。

 

そんなことを、俺が言えるだろうか。

 

秀頼を討ったのは徳川だ。

 

茶々を追い詰めたのも、徳川である。

 

俺が何を言っても、言い訳にしか聞こえないかもしれない。

 

それでも、返事を出さないわけにはいかなかった。

 

俺は、しばらく考えてから筆を動かした。

 

千姫が無事に暮らしていることを嬉しく思うこと。

 

今すぐ気持ちを整理する必要はないこと。

 

大坂で過ごした日々を、大切にしてよいこと。

 

そして、何か困ったことがあれば、遠慮なく知らせてほしいということ。

 

書き終えてから、もう一度読んだ。

 

随分と頼りない文章だ。

 

だが、今の俺にはこれが精いっぱいだった。

 

俺は文を畳んだ。

 

そのとき、文箱から声がした。

 

「……竹千代」

 

「何だ?」

 

「千姫、元気?」

 

「ああ。身体は元気らしい」

 

「そっか」

 

かぐやは、少し考えた。

 

「……千姫も、茶々のこと好きだったんだよね」

 

「そうだな」

 

「じゃあ、寂しいね」

 

俺は頷いた。

 

「……ああ」

 

かぐやは、それ以上何も言わなかった。

 

俺も、しばらく筆を置いたままにしていた。

 

◇

 

冬が近づく頃、俺は信康と秀忠を駿府へ呼んだ。

 

二人とも忙しい身である。

 

信康は関東の政務を見ており、秀忠は将軍として江戸を預かっている。

 

だが、どうしても今のうちに話しておきたいことがあった。

 

「……父上」

 

信康が、書付を見た。

 

「これは?」

 

「俺が死んだ後のことだ」

 

二人の表情が変わった。

 

「……父上!」

 

秀忠が口を開いた。

 

「そのようなお話をなさるには、まだ早うございます」

 

「そうか?」

 

俺は笑った。

 

「もう随分と歳を取ったぞ」

 

「ですが……」

 

「まあ、聞いてくれ」

 

俺は二人へ座るよう促した。

 

まずは、徳川のことだった。

 

秀忠が将軍であること。

 

信康には引き続き、関東の政務を助けてもらいたいこと。

 

二人が互いに協力し、必要以上に権限を争わないこと。

 

そんな話をした。

 

もっとも、これは以前から何度も話している。

 

二人も十分理解していた。

 

「……それから」

 

俺は、用意していた別の書付を取り出した。

 

「かぐやのことだ」

 

信康と秀忠が顔を上げた。

 

「……かぐや殿でございますか」

 

「ああ」

 

俺は頷いた。

 

「お前たちには、すでに事情を話してある。あいつが俺より長く生きることも、知っているな」

 

二人は頷いた。

 

「俺が死んだ後、しばらくは瀬名が面倒を見てくれるだろう。亀姫にも話してある。だが、その先のことは分からぬ」

 

俺は書付を指した。

 

「そこで、二人に頼みがある」

 

信康が姿勢を正した。

 

「何なりと、お申しつけください」

 

「かぐやを、徳川の家のものとして扱わぬことだ」

 

二人は黙った。

 

「珍しい生き物だからといって、人前に出して見せ物にするな。何か役に立つかもしれぬと、勝手に調べようとするのも許さぬ」

 

俺は続けた。

 

「ただし、あいつ自身が何かを望んだなら、できる限り手伝ってやってほしい。どこかへ行きたいと言えば、危険を確かめたうえで送り出してやる。誰かと暮らしたいと言えば、その意思を尊重する」

 

秀忠は、少し考えた。

 

「……徳川の家を離れたいと申された場合も、でございますか」

 

「ああ」

 

俺は頷いた。

 

「そういう日が来るかもしれん」

 

信康が口を開いた。

 

「ですが、父上。かぐや殿は、人目に触れれば危険にございます。ご自身だけで遠くへ向かわれることも難しいでしょう」

 

「分かっている」

 

俺は答えた。

 

「だからこそ、助けてやってほしい」

 

俺は二人を見た。

 

「かぐやが望む場所へ行けるように。必要なときには、安心して頼れる者がいるように。それだけでいい」

 

秀忠は、ゆっくりと頷いた。

 

「……承知いたしました」

 

信康も頭を下げた。

 

「必ず、お守りいたします」

 

「……ありがとう」

 

俺は、書付を二人へ渡した。

 

そこには、かぐやの存在をむやみに広めないことや、身の安全を守るための扱いについて記してある。

 

もっとも、これだけで何百年も先まで約束が守られるとは思っていない。

 

人が代われば、考え方も変わる。

 

徳川の家だって、いつかは今と違う形になるだろう。

 

それでも、今できることはしておきたかった。

 

「……父上」

 

秀忠が、少し笑った。

 

「かぐや殿のことになると、父上は本当に心配性でございますな」

 

俺は顔を上げた。

 

「……そうか?」

 

「はい」

 

信康も、小さく笑った。

 

「以前から、何度も同じことを申しつけられております」

 

……確かに。

 

言われてみれば、そうかもしれない。

 

俺は苦笑した。

 

「……まあ、長い付き合いだからな」

 

◇

 

二人が帰った後、瀬名が俺の部屋を訪ねてきた。

 

「殿。お話は終わりましたか」

 

「ああ」

 

「かぐや殿のことも?」

 

「話したよ」

 

瀬名は、静かに頷いた。

 

それから、俺の隣へ座った。

 

「……殿」

 

「何だ?」

 

「最近、随分と先のことをお考えになりますね」

 

俺は苦笑した。

 

「歳を取ったからかな」

 

「それだけではないでしょう」

 

瀬名は、俺を見た。

 

長年連れ添った妻である。

 

俺が何を考えているのか、言葉にしなくても分かることがあるのだろう。

 

「……大坂のことですか」

 

俺は、しばらく黙っていた。

 

「……ああ」

 

瀬名は頷いた。

 

「茶々殿も、秀頼様も、助けたかった」

 

「……はい」

 

「だが、助けられなかった」

 

俺は、庭へ目を向けた。

 

大坂城が燃えていた日のことを思い出す。

 

千姫から助命の願いを受け取った。

 

すぐに使者を出した。

 

兵を止めるよう命じた。

 

それでも、間に合わなかった。

 

何度考えても、あの日の結末は変わらない。

 

「……瀬名」

 

「はい」

 

「俺は、間違えたのかな」

 

瀬名は、すぐには答えなかった。

 

俺も、返事を急がせるつもりはなかった。

 

やがて、瀬名が口を開いた。

 

「……私には、分かりませぬ」

 

俺は顔を上げた。

 

「殿が、どれほど苦労して天下を治めてこられたのか、私も傍で見てまいりました。ですが、だからといって、すべてのご判断が正しかったと申し上げることはできませぬ」

 

俺は、ゆっくりと頷いた。

 

「……そうだな」

 

「淀殿にも、淀殿のお考えがございました。秀頼様にも、豊臣家の方々にも、それぞれの思いがあったのでしょう」

 

「……ああ」

 

「殿が助けたいと願われたことも、私は知っております」

 

瀬名は、俺の手へ自分の手を重ねた。

 

「ですが、亡くなられた方々のことを、無理に納得なさる必要もないと思います」

 

俺は、しばらく瀬名を見ていた。

 

そして、小さく息を吐いた。

 

「……ありがとう」

 

瀬名は微笑んだ。

 

その後、二人でしばらく庭を眺めていた。

 

昔から、瀬名には随分と助けられてきた。

 

もちろん、喧嘩をしたこともある。

 

俺が仕事を優先しすぎて、叱られたこともある。

 

子供たちのことで、意見が食い違ったこともあった。

 

それでも、今こうして隣にいる。

 

史実では、俺はこの妻を失うはずだった。

 

信康も失うはずだった。

 

だが、今は二人とも生きている。

 

そのことだけは、何度考えてもありがたかった。

 

「……瀬名」

 

「はい」

 

「長いこと、付き合わせたな」

 

瀬名は、少し笑った。

 

「今さらでございますね」

 

俺も笑った。

 

「……それもそうか」

 

◇

 

元和二年、正月。

 

俺は、鷹狩りへ出かけた。

 

最近は身体が重く、以前のように長く歩くことも難しくなっていたが、それでも外へ出るのは嫌いではなかった。

 

城の中で書状ばかり読んでいると、気が滅入る。

 

たまには風に当たりたい。

 

そう考えてのことだった。

 

もちろん、瀬名にもかぐやにも反対された。

 

「竹千代、寒いよ!」

 

「分かってる」

 

「風邪ひくって!」

 

「ちゃんと着込んでいくよ」

 

「また無理するんだから!」

 

……本当に、口うるさくなったものだ。

 

もっとも、心配してくれているのは分かっている。

 

「早めに帰ってくるよ」

 

そう答えると、かぐやは不満そうだったが、ひとまず納得した。

 

その日は、久しぶりに外で過ごした。

 

冬の空気は冷たかったが、馬に乗り、周囲の景色を眺めていると、少し気分がよくなった。

 

しかし、夜になって体調が悪くなった。

 

最初は、疲れたのだろうと思った。

 

歳も歳だ。

 

無理をしたつもりはなかったが、身体は正直なのかもしれない。

 

ところが、翌日になっても調子が戻らない。

 

腹の具合も悪い。

 

食欲も落ちている。

 

医師を呼ぶことになった。

 

そして、俺は駿府へ戻った。

 

◇

 

「……竹千代」

 

かぐやが、枕元から声をかけてきた。

 

「だから言ったじゃん!」

 

俺は、布団の中で苦笑した。

 

「……そうだな」

 

「寒いって言ったのに!」

 

「ああ」

 

「ちゃんと休んでって言ったのに!」

 

「……分かったよ」

 

かぐやは、しばらく身体を揺らしていた。

 

それから、少し声を落とした。

 

「……大丈夫?」

 

俺は、かぐやを見た。

 

「……大丈夫だよ」

 

そう答えた。

 

だが、正直なところ、自分でもよく分からなかった。

 

医師たちは、あれこれと薬を用意してくれる。

 

食事も工夫してくれる。

 

瀬名も、毎日のように様子を見に来る。

 

それでも、なかなか身体がよくならない。

 

俺は、少し困っていた。

 

史実の徳川家康は、元和二年に死ぬ。

 

そのことは覚えている。

 

だが、自分が本当にその年に死ぬとは思っていなかった。

 

何しろ、すでに歴史は随分と変わっている。

 

妻も息子も生きている。

 

石川数正も、今なお健在だ。

 

豊臣家との戦についても、史実とは違う判断を重ねてきた。

 

だったら、俺の寿命だって変わっているかもしれない。

 

そう思っていた。

 

だが、こうして寝込んでいると、嫌でも考えてしまう。

 

……もしかして。

 

本当に、今年なのか?

 

俺は、そっと目を閉じた。

 

できれば、もう少し生きたい。

 

別に、永遠に生きたいわけではない。

 

ただ、まだやりたいことがある。

 

瀬名と、もう少し一緒に暮らしたい。

 

信康や秀忠が、これからどのように徳川の世を治めていくのかも見てみたい。

 

亀姫や孫たちにも、まだまだ会いたい。

 

そして、かぐやとも。

 

もう少し、遊んでいたかった。

 

◇

 

病は、一度よくなったように思えても、また悪くなった。

 

起き上がれる日もあれば、ほとんど布団から出られない日もある。

 

食事を口にするのがつらいことも増えた。

 

そんな中でも、仕事は続いた。

 

正純や崇伝が書状を持ってくる。

 

諸大名のこと。

 

朝廷のこと。

 

幕府がこれから進めるべき仕事のこと。

 

俺は、できる範囲で話をした。

 

ただし、以前ほど長くは続けられなかった。

 

少し話すだけで疲れてしまう。

 

「……殿」

 

医師が、心配そうに声をかけてくる。

 

「本日は、もうお休みくださいませ」

 

「……そうだな」

 

昔の俺なら、もう少しだけと粘っただろう。

 

だが、最近は素直に聞くことが増えた。

 

というより、身体が言うことを聞かないのだから仕方がない。

 

その日の夕方、数正が訪ねてきた。

 

「……殿」

 

「数正か」

 

「はい」

 

俺は、少し笑った。

 

「お前も無理するなよ」

 

数正は、困ったような顔をした。

 

「……そのお言葉、そっくりお返しいたします」

 

俺は笑った。

 

だが、途中で咳が出た。

 

数正が、慌てて身体を支えようとする。

 

「……大丈夫だ」

 

俺は手を上げた。

 

「少し、むせただけだよ」

 

数正は黙っていた。

 

俺は、しばらく息を整えた。

 

「……数正」

 

「はっ」

 

「お前には、随分と世話になった」

 

「……殿」

 

「若い頃から、ずっとな」

 

数正は、俯いた。

 

「……恐れながら」

 

「何だ?」

 

「そのようなお話は、まだ早うございます」

 

俺は、少し笑った。

 

「……そうかもしれんな」

 

数正は、それ以上何も言わなかった。

 

俺も、しばらく黙っていた。

 

やがて、数正が深く頭を下げた。

 

「……殿」

 

「何だ?」

 

「どうか、お身体を大切になさってくださいませ」

 

「……ああ」

 

俺は頷いた。

 

「お前もな」

 

数正は、もう一度頭を下げた。

 

その背中が、昔より随分と小さく見えた。

 

◇

 

三月になると、俺は自分の死後について、具体的な指示を出すようになった。

 

葬儀のこと。

 

遺骸をどこへ納めるか。

 

朝廷や幕府への伝達。

 

残された書物の扱い。

 

そうしたことを、一つずつ決めていった。

 

もちろん、まだ生きているのだから、死んだ後のことばかり考えているのも妙な話である。

 

だが、準備しておかなければ、残された者たちが困る。

 

それは嫌だった。

 

三月二十七日には、太政大臣に任じられた。

 

随分と立派な官職である。

 

昔、駿府で人質として暮らしていた竹千代に、こんな日が来ると誰が想像しただろう。

 

俺自身、まったく考えていなかった。

 

もっとも、その頃には身体の具合が悪く、素直に喜ぶ余裕もあまりなかった。

 

「……殿」

 

瀬名が、任官の知らせを聞いて訪ねてきた。

 

「おめでとうございます」

 

「ありがとう」

 

俺は笑った。

 

「随分と偉くなったものだな」

 

瀬名も笑った。

 

「今さらでございますね」

 

「……確かに」

 

俺は、しばらく瀬名を見ていた。

 

昔のことを思い出す。

 

駿府で婚姻した頃のことだ。

 

あのとき、俺はまだ今川家の家臣だった。

 

今川義元のもとで暮らし、いずれ松平の家を継ぐのだろうと思っていた。

 

天下を取るなど、考えてもいなかった。

 

それが、随分と遠くまで来たものだ。

 

「……瀬名」

 

「はい」

 

「俺と夫婦になって、どうだった?」

 

瀬名は、少し目を瞬いた。

 

「……急に、何をお尋ねになるのです」

 

「いや。ちょっと聞いてみたくなった」

 

瀬名は、しばらく考えた。

 

それから、笑った。

 

「……苦労ばかりでございました」

 

俺は、思わず笑ってしまった。

 

「……そうか」

 

「ええ。殿は、昔から何かと面倒を抱えてこられましたから」

 

「否定できないな」

 

「ですが」

 

瀬名は、俺の手を取った。

 

「……こうして、長くご一緒できました」

 

俺は、瀬名を見た。

 

「……ああ」

 

「それだけで、十分にございます」

 

俺は、しばらく何も言えなかった。

 

それから、そっと頷いた。

 

「……ありがとう」

 

瀬名は微笑んだ。

 

俺も、笑った。

 

◇

 

四月。

 

病は、さらに重くなった。

 

医師たちは、できる限りのことをしてくれた。

 

だが、俺自身にも分かる。

 

身体が、少しずつ弱っている。

 

以前は平気だったことが、今ではひどく大変だった。

 

水を飲む。

 

身体を起こす。

 

少し話をする。

 

それだけで、疲れてしまう。

 

そんなある日、信康と秀忠が揃って訪ねてきた。

 

「……父上」

 

「二人とも、来たのか」

 

俺は、少し笑った。

 

「忙しいだろうに」

 

秀忠が首を振った。

 

「父上のお身体の方が大切にございます」

 

信康も頷いた。

 

俺は、二人を見た。

 

昔は、随分と小さかった。

 

信康が生まれたときのことも、よく覚えている。

 

秀忠も、幼い頃にはよく瀬名や家臣たちに叱られていた。

 

その二人が、今では立派な武将になっている。

 

俺よりも背が高くなり、髭も生え、家臣たちから頭を下げられている。

 

不思議なものだ。

 

「……秀忠」

 

「はっ」

 

「将軍として、これからも苦労するだろう」

 

「承知しております」

 

「分からぬことがあれば、信康に相談しろ。あいつは、現場のことをよく知っている」

 

秀忠は頷いた。

 

「はい」

 

「信康」

 

「はっ」

 

「秀忠を頼む」

 

信康は、深く頭を下げた。

 

「……承知いたしました」

 

俺は、しばらく二人を見ていた。

 

「……二人とも」

 

「はい」

 

「よく育ってくれたな」

 

信康が顔を上げた。

 

秀忠も、こちらを見た。

 

俺は少し笑った。

 

「昔は、どうなることかと思ったよ」

 

秀忠が、困ったように笑った。

 

「……父上」

 

信康は、何も言わなかった。

 

ただ、深く頭を下げていた。

 

俺は、二人へ手を伸ばした。

 

信康が、その手を取った。

 

秀忠も、反対側から握ってくれた。

 

俺は、しばらくそのままでいた。

 

……よかった。

 

二人とも、生きている。

 

それだけで、今は十分だった。

 

◇

 

その日の夜。

 

俺は、瀬名に頼んで、かぐやを連れてきてもらった。

 

人払いを済ませる。

 

部屋には、瀬名と俺、それからかぐやだけになった。

 

「……竹千代」

 

文箱から、声がした。

 

「……ああ」

 

俺は、かぐやを見た。

 

相変わらず、小さな身体である。

 

鮮やかな色も、昔のままだ。

 

初めて会ったときと、ほとんど変わっていない。

 

俺だけが、随分と歳を取った。

 

「……竹千代」

 

「何だ?」

 

「今日、ご飯食べた?」

 

俺は、少し笑った。

 

「……少しだけな」

 

「ちゃんと食べなきゃ駄目じゃん!」

 

「そう言うなよ。あんまり腹が減らなくてな」

 

かぐやは、不満そうだった。

 

「……じゃあ、明日は?」

 

「……明日か」

 

俺は、少し考えた。

 

「食べられるといいな」

 

かぐやは、しばらく黙っていた。

 

それから、文箱の縁に身体を乗せた。

 

「……竹千代」

 

「何だ?」

 

「私、まだいっぱい遊びたいよ」

 

俺は、かぐやを見た。

 

「……そうだな」

 

「一緒に行きたいところもあるし」

 

「ああ」

 

「まだ話したいこともある」

 

俺は頷いた。

 

「……俺もだよ」

 

かぐやは、しばらく黙っていた。

 

それから、小さな声で言った。

 

「……竹千代、死んじゃうの?」

 

俺は、すぐには答えられなかった。

 

医師たちは、まだ治療を続けてくれている。

 

俺自身、できれば生きたい。

 

だが、もう長くはないのかもしれない。

 

そのことを、何となく感じていた。

 

「……そうかもしれん」

 

俺は答えた。

 

かぐやは、動かなかった。

 

「……そっか」

 

小さな声だった。

 

俺は、そっと手を差し出した。

 

かぐやが、その上へ乗ってくる。

 

昔から、何度もこうしてきた。

 

初めて出会った頃、俺はまだ小さな子供だった。

 

かぐやも、今と同じ姿をしていた。

 

あのときは、枝でつつこうとして怒られたんだったな。

 

「……かぐや」

 

「なーに?」

 

「初めて会った日のこと、覚えてるか?」

 

かぐやが顔を上げた。

 

「覚えてるよ!」

 

「……そうか」

 

「竹千代、いきなり棒でつつこうとしたんだもん!」

 

俺は、思わず笑ってしまった。

 

「……悪かったって」

 

「びっくりしたんだからね!」

 

「ああ」

 

かぐやは、少しだけ身体を揺らした。

 

「でも、竹千代って面白かったよね」

 

「……そうか?」

 

「うん!」

 

かぐやは続けた。

 

「変なこといっぱい知ってるし、たまに変なこと言うし!」

 

「……お前に言われたくないな」

 

「えー!」

 

俺は笑った。

 

かぐやも笑った。

 

しばらく、二人で昔のことを話した。

 

駿府で暮らしていた頃。

 

岡崎へ戻った頃。

 

浜松で、戦に負けて帰ってきた頃。

 

江戸へ移った頃。

 

思い出そうとすれば、いくらでも出てくる。

 

俺は、あいつと随分と長い時間を過ごしてきた。

 

そのことを、改めて感じた。

 

◇

 

しばらくして、かぐやが静かになった。

 

俺は、手のひらの上にいる小さな身体を見た。

 

「……かぐや」

 

「何?」

 

「一つだけ、頼みがある」

 

かぐやが、こちらを向いた。

 

「……なーに?」

 

「俺がいなくなっても、好きなことをして生きていってくれ」

 

かぐやは、しばらく黙っていた。

 

俺は続けた。

 

「信康と秀忠には、話してある。瀬名にも、亀姫にもな」

 

かぐやが顔を上げた。

 

「……何を?」

 

「お前がどこかへ行きたいと言ったら、できる限り手伝ってやるようにって」

 

かぐやは、しばらく何も言わなかった。

 

「……竹千代」

 

「何だ?」

 

「そんなこと、ずっと考えてたの?」

 

俺は、少し笑った。

 

「……まあな」

 

かぐやは、こちらを見ていた。

 

俺は続けた。

 

「お前には、これからも長い時間がある。いろいろな人と会って、いろいろな場所へ行くんだろう」

 

「……うん」

 

「いつか、会いたい人のところへ戻れる日も来るかもしれない」

 

かぐやの身体が、少し動いた。

 

「……彩葉のところ?」

 

俺は頷いた。

 

「……ああ」

 

かぐやは、しばらく黙っていた。

 

彩葉。

 

以前、かぐやから何度か聞いた名前だった。

 

俺が前世で暮らしていた時代よりも先に、かぐやが出会った大切な少女。

 

かぐやは、今もその子のことを覚えている。

 

もう一度会いたいとも思っている。

 

だが、俺にはそこへ連れていく方法が分からなかった。

 

俺が知っている未来と、かぐやが帰りたい場所が、どのようにつながっているのかさえ分からない。

 

それでも、いつか道が見つかるかもしれない。

 

少なくとも、かぐやが自分の意思で進もうとしたとき、それを妨げるものを残したくはなかった。

 

「……竹千代」

 

「何だ?」

 

「私、彩葉に会いたいよ」

 

俺は頷いた。

 

「……そうだな」

 

「でも、竹千代にも会いたい」

 

俺は、何も言えなかった。

 

かぐやは続けた。

 

「茶々にも、また会いたいし」

 

「……ああ」

 

「会いたい人、いっぱいいるんだよ」

 

俺は、しばらくかぐやを見ていた。

 

そして、小さく笑った。

 

「……欲張りだな」

 

「いいじゃん!」

 

いつもの返事だった。

 

俺は頷いた。

 

「……いいよ」

 

かぐやが顔を上げた。

 

「会いたい人がいるなら、会いに行けばいい。難しいこともあるだろうけど、諦める必要はない」

 

「……うん」

 

「俺のことは、まあ……覚えていてくれたら嬉しいかな」

 

かぐやは、少し怒ったような声を出した。

 

「忘れるわけないじゃん!」

 

俺は、思わず笑った。

 

「……そうか」

 

「そうだよ!」

 

かぐやは、身体を揺らした。

 

「竹千代、何言ってるの!」

 

「……悪かった」

 

俺は笑った。

 

それから、しばらく二人で黙っていた。

 

◇

 

夜が更けた。

 

瀬名が、そろそろ休んだ方がよいと声をかけてきた。

 

俺は頷いた。

 

「……そうだな」

 

かぐやは、まだ俺の手のひらに乗っていた。

 

「……竹千代」

 

「何だ?」

 

「眠い?」

 

「……少しな」

 

「じゃあ、寝よう!」

 

俺は、少し笑った。

 

「……そうだな」

 

かぐやが文箱へ戻ろうとした。

 

だが、途中で動きを止めた。

 

「……ねえ、竹千代」

 

「何だ?」

 

「私、ここにいてもいい?」

 

俺は、かぐやを見た。

 

「……もちろん」

 

かぐやは、嬉しそうだった。

 

「じゃあ、ここにいる!」

 

俺は、そっと手を伸ばした。

 

瀬名が、文箱を枕元へ置いてくれる。

 

かぐやは、その中から顔を出した。

 

「……竹千代」

 

「何だ?」

 

「おやすみ!」

 

俺は笑った。

 

「……おやすみ」

 

そして、目を閉じた。

 

◇

 

四月十七日。

 

朝から、身体の具合が悪かった。

 

医師たちが慌ただしく動いている。

 

部屋の外には、多くの家臣が集まっているらしい。

 

時折、話し声が聞こえた。

 

俺は、布団の中で目を開けた。

 

天井が見える。

 

見慣れた、駿府城の天井だった。

 

……ああ。

 

とうとう、来たのか。

 

不思議な気分だった。

 

俺は、前世で一度死んでいる。

 

あのときは、何が起きたのかもよく分からなかった。

 

車が近づいてきたこと。

 

大きな音がしたこと。

 

それくらいしか覚えていない。

 

気づいたときには、竹千代として生まれていた。

 

そして、今。

 

もう一度、死を迎えようとしている。

 

今度は、随分と長く生きた。

 

七十年以上だ。

 

前世の分まで考えれば、相当なものだろう。

 

だが、まだ生きたい。

 

もう少し、瀬名と話したい。

 

息子たちの顔も見たい。

 

かぐやとも、また遊びたい。

 

そう思うと、何とも悔しかった。

 

「……殿」

 

瀬名の声がした。

 

俺は、ゆっくりと顔を向けた。

 

瀬名が、傍に座っている。

 

「……瀬名」

 

「はい」

 

「……すまんな」

 

瀬名は、首を振った。

 

「何を仰います」

 

俺は、少し笑った。

 

「……いろいろと」

 

瀬名は、俺の手を取った。

 

「……殿」

 

「……ああ」

 

「長い間、お疲れさまでございました」

 

俺は、瀬名を見た。

 

何か言おうとしたが、うまく声が出なかった。

 

ただ、手を握り返した。

 

◇

 

しばらくして、信康と秀忠が来た。

 

二人とも、ひどく険しい顔をしていた。

 

俺は、何とか笑おうとした。

 

「……そんな顔をするな」

 

信康が、唇を噛んだ。

 

秀忠も、何も言わなかった。

 

「……二人とも」

 

俺は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……頼んだぞ」

 

信康が、深く頭を下げた。

 

「……父上」

 

秀忠も、頭を下げた。

 

「……承知いたしました」

 

俺は頷いた。

 

それから、しばらく二人を見ていた。

 

ああ。

 

本当に、立派になったものだ。

 

俺がいなくなっても、この二人なら何とかやっていけるだろう。

 

もちろん、苦労はする。

 

失敗もする。

 

俺と同じように、何かを失うこともあるだろう。

 

だが、それでも。

 

生きていってほしかった。

 

俺は、目を閉じた。

 

◇

 

どれほど時間が経ったのだろう。

 

ふと、声が聞こえた。

 

「……竹千代」

 

かぐやだった。

 

俺は、ゆっくりと目を開けた。

 

枕元に、小さな文箱が置かれている。

 

瀬名が運んできてくれたのだろう。

 

部屋には、もうほかの者はいなかった。

 

瀬名だけが、傍に座っている。

 

「……かぐや」

 

声を出すのが、ひどく大変だった。

 

だが、かぐやには聞こえたらしい。

 

「竹千代!」

 

いつもの声だった。

 

元気で、少し騒がしい。

 

俺は、何とか笑った。

 

「……うるさいな」

 

「えー!」

 

かぐやが抗議した。

 

「せっかく起きたのに!」

 

俺は、少し笑った。

 

……本当に。

 

最後まで、こいつは変わらない。

 

「……かぐや」

 

「なーに?」

 

「……楽しかったよ」

 

かぐやが、動きを止めた。

 

俺は続けた。

 

「……お前と一緒にいられて」

 

かぐやは、しばらく何も言わなかった。

 

それから、少しだけ身体を揺らした。

 

「……私もだよ」

 

俺は頷いた。

 

「……そうか」

 

「うん!」

 

かぐやは、明るく答えようとしていた。

 

だが、その声は少し震えていた。

 

俺は、手を伸ばそうとした。

 

しかし、もう思うように動かない。

 

瀬名が気づき、そっと俺の手を持ち上げてくれた。

 

かぐやが、その上へ乗ってくる。

 

小さく、温かい身体だった。

 

「……竹千代」

 

「……何だ」

 

「私、まだいっぱい遊びたかった」

 

俺は、ゆっくりと頷いた。

 

「……俺もだよ」

 

かぐやは、黙った。

 

俺は、そっと手を動かした。

 

昔のように頭を撫でてやろうとしたが、指先はほとんど動かなかった。

 

それでも、かぐやは手のひらに身体を寄せてくれた。

 

「……竹千代」

 

「……ああ」

 

「……ありがとね」

 

俺は、かぐやを見た。

 

「……何が?」

 

かぐやは、少し考えた。

 

「……いろいろ!」

 

俺は、思わず笑った。

 

本当に、こいつらしい。

 

「……そうか」

 

「うん!」

 

かぐやは続けた。

 

「竹千代と一緒にいて、楽しかった!」

 

俺は、ゆっくりと頷いた。

 

「……俺も」

 

それから、少しだけ目を閉じた。

 

もう、声を出すのも難しい。

 

身体が重かった。

 

だが、不思議と嫌な気分ではなかった。

 

瀬名が傍にいる。

 

かぐやもいる。

 

二人の声が、ちゃんと聞こえる。

 

……それなら。

 

まあ、悪くないか。

 

「……竹千代?」

 

かぐやが呼んだ。

 

俺は、返事をしようとした。

 

だが、声が出なかった。

 

「……竹千代」

 

もう一度、呼ばれた。

 

俺は、何とか目を開けた。

 

かぐやが、こちらを見ている。

 

その小さな身体は、俺が初めて出会った頃と何も変わっていなかった。

 

俺は、七十年以上をかけて歳を取った。

 

だが、あいつは変わらず、そこにいる。

 

この先も、そうなのだろう。

 

俺が知らない時代を生きて。

 

俺が知らない人々と出会って。

 

また、誰かと笑うのだろう。

 

……よかった。

 

俺は、そう思った。

 

かぐやには、まだ先がある。

 

俺が死んでも、終わりではない。

 

「……竹千代」

 

かぐやが、もう一度呼んだ。

 

俺は、最後の力を振り絞った。

 

「……かぐや」

 

小さな身体が、こちらへ近づく。

 

俺は、何とか笑った。

 

「……元気でな」

 

かぐやは、しばらく何も言わなかった。

 

それから、元気よく返事をしようとした。

 

「……うん!」

 

俺は、ゆっくりと目を閉じた。

 

その声を、最後まで聞いていたかった。

 

◇

 

元和二年四月十七日。

 

徳川家康は、駿府城にてその生涯を終えた。

 

享年七十五。

 

三河の小大名の子として生まれ、幼い頃には織田と今川の人質となり、幾度もの戦を経て天下を治めた男だった。

 

後世には、江戸幕府を開いた人物として名を残すことになる。

 

その生涯には、数多くの功績があった。

 

そして、数多くの失敗もあった。

 

守れた命もあれば、守れなかった命もある。

 

天下を治めるために、多くの人間を戦わせた。

 

戦を終わらせようとして、さらに戦を起こしたこともある。

 

それでも、最後まで自分の選んだ道を歩き続けた。

 

その男が、幼い頃から誰にも知られぬまま、小さな友人と暮らしていたことを知る者は少ない。

 

徳川家康。

 

あるいは、松平竹千代。

 

彼には、もう一つの呼ばれ方があった。

 

ただの、竹千代。

 

それは、天下人になる前から、最後の瞬間まで変わることのなかった呼び名だった。

 

◇

 

家康が亡くなった後、かぐやはしばらく駿府城にいた。

 

瀬名が、今までと同じように世話をしてくれた。

 

信康も秀忠も、父との約束を守り、かぐやの存在をむやみに広めようとはしなかった。

 

亀姫も、時折訪ねてきた。

 

かぐやは、以前と同じように暮らしていた。

 

菓子を食べる。

 

庭へ連れていってもらう。

 

気になったことがあれば、瀬名に尋ねる。

 

ただ、一つだけ変わったことがあった。

 

何か面白いものを見つけたとき、かぐやは時折、家康の名を呼びかけそうになった。

 

そして、途中で口を閉じる。

 

「……あ」

 

そんな声を出すことがあった。

 

ある日、庭を眺めていたかぐやに、瀬名が声をかけた。

 

「……かぐや殿」

 

「なーに?」

 

「何か、見つけられましたか」

 

かぐやは、少し考えた。

 

「……うん」

 

「何でしょう」

 

「……あの木」

 

瀬名は、かぐやが示す方を見た。

 

庭の隅に、一本の木がある。

 

昔から、そこにあった木だ。

 

「……あの木が、いかがなさいましたか」

 

かぐやは、少しだけ身体を揺らした。

 

「竹千代と、前に見たことあるんだ」

 

瀬名は、静かに頷いた。

 

「……そうでしたか」

 

「うん!」

 

かぐやは、少し笑った。

 

「竹千代、あの木の名前知らなかったんだよ!」

 

瀬名も笑った。

 

「殿にも、知らぬことはたくさんございましたから」

 

「そうそう!」

 

かぐやは、嬉しそうだった。

 

それから、少し黙った。

 

「……瀬名ちゃん」

 

「はい」

 

「私、竹千代のこと、いっぱい覚えてるよ」

 

瀬名は、かぐやを見た。

 

「……ええ」

 

「でも、まだ話したいこともあったんだ」

 

瀬名は、しばらく何も言わなかった。

 

そして、そっと文箱を抱え直した。

 

「……私もでございます」

 

かぐやが顔を上げる。

 

瀬名は、庭の木を見ていた。

 

「殿に、お話ししたかったことは、まだたくさんございます」

 

かぐやは、しばらく黙っていた。

 

それから、ゆっくりと頷いた。

 

「……そっか」

 

「ええ」

 

二人は、しばらく庭を眺めていた。

 

春の風が吹いている。

 

庭の木々には、新しい葉がつき始めていた。

 

やがて、かぐやが声を上げた。

 

「……ねえ、瀬名ちゃん!」

 

「はい」

 

「今度、海に行きたい!」

 

瀬名は、少し驚いた。

 

「……海でございますか」

 

「うん!」

 

かぐやは嬉しそうだった。

 

「竹千代と前に行ったところ、また行きたい!」

 

瀬名は、しばらく考えた。

 

それから、微笑んだ。

 

「……では、暖かくなったら参りましょうか」

 

「本当!?」

 

「ええ」

 

「やった!」

 

かぐやが、嬉しそうに身体を揺らした。

 

瀬名も笑った。

 

そして、そっと文箱を抱えた。

 

家康が亡くなっても、かぐやの時間は続いていく。

 

これから先、何があるのか。

 

どこへ行き、誰と出会うのか。

 

今はまだ、誰にも分からない。

 

ただ、かぐやには行きたい場所があった。

 

会いたい人もいた。

 

そして、忘れたくない人たちがいた。

 

「……瀬名ちゃん!」

 

「はい」

 

「早く暖かくならないかな!」

 

瀬名は、笑いながら答えた。

 

「そうですね」

 

かぐやは、楽しそうに庭を眺めた。

 

その姿は、駿府で竹千代と出会った頃と、何も変わっていなかった。

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