徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
徳川家康が亡くなってからも、かぐやの時間は続いた。
瀬名が亡くなり、信康が亡くなり、秀忠が亡くなった。亀姫も、いつかはいなくなった。
竹千代が大切にしていた人々は、一人ずつ世を去っていった。かぐやはそのたびに泣き、寂しがり、ときにはひどく腹を立てた。それでも、新しい人と出会うことをやめなかった。竹千代に教えてもらった道を通って知らない町へ行き、そこでまた友人を作った。
江戸は大きくなった。
将軍が代わり、町が広がり、人々の暮らしも変わっていった。
やがて、徳川の世が終わった。
かぐやは、それを見届けた。
竹千代があれほど苦労して築いた幕府がなくなると聞いたときには、さすがに複雑な気持ちになった。だが、その頃には、かぐやもよく知っていた。
人が作ったものは、いつか変わる。
それは、何もかもが無駄になるという意味ではなかった。
徳川の世が終わっても、道は残っていた。町も、人々が積み重ねてきた仕事も、すべて消えてしまったわけではない。
新しい時代が始まり、さらに時代が進んだ。
かぐやは、汽車に驚き、自動車に驚き、飛行機が空を飛ぶのを見て大騒ぎした。
竹千代に見せたら、どんな顔をするだろう。
そんなことを考えた回数は、一度や二度ではない。
その後も、世界は変わり続けた。
そして、かぐや自身も変わっていった。
◇
月見ヤチヨ。
今では、それが彼女の名前だった。
仮想空間《ツクヨミ》の管理人。
大勢の人々が集まり、遊び、歌い、創作活動を楽しむ世界を作り上げた少女である。
銀色の長い髪。
華やかな衣装。
歌うことも、踊ることも、自由にできる身体。
昔、竹千代の手のひらに乗っていた小さなウミウシが、こんな姿になるなど、竹千代が知ったら何と言うだろう。
きっと、最初は目を丸くする。
そして、ひとしきり驚いた後で、どういう仕組みなのかと聞いてくるに違いない。
何しろ、妙なことには昔から興味津々だった。
「ヤチヨ?」
フシに呼ばれ、ヤチヨは顔を上げた。
「んー?」
「何か楽しそうだね」
「えへへ。ちょっと昔のこと思い出してた!」
「昔?」
「うん! すっごく昔!」
フシは不思議そうだったが、それ以上は尋ねなかった。
ヤチヨも詳しく話すつもりはなかった。
竹千代との思い出は、いくら話しても話し足りない。
ただ、それをすべて誰かに聞かせようと思えば、何日あっても足りなくなる。
今は仕事もある。
《ツクヨミ》では、今日も新しい企画が始まろうとしていた。
ヤチヨは作業画面を開いた。
そこには、仮想空間の利用状況や、一般公開されているイベントの情報が並んでいる。
新しい歌。
新しい配信者。
今まで見たこともないような作品。
どれも面白そうだった。
「よーし! 今日も頑張っちゃお!」
ヤチヨは笑った。
だが、画面を切り替えたところで、その手が止まった。
一つの催しが目に入ったからだ。
小さな音楽会だった。
親子で楽しむことのできる、地域の音楽教室の発表会。
出演者の一覧に、見覚えのある人物がいた。
ヤチヨは、しばらく画面を見つめていた。
「……彩葉のお父さん」
口にしてから、急いで周囲を確かめた。
フシは別の作業をしている。
ヤチヨは、もう一度出演者の欄を見た。
間違いなかった。
酒寄彩葉の父親。
かつて彩葉から、何度も話を聞いた人だった。
◇
彩葉は、幼い頃に父親を亡くしている。
ヤチヨは、そのことを知っていた。
父親が音楽をしていたことも、彩葉と一緒に曲を作っていたことも知っている。
だが、具体的にいつ、何が原因で亡くなったのかまでは知らなかった。
彩葉は、父親の死について詳しく話したがらなかった。
ヤチヨも、無理に聞こうとはしなかった。
大切な人を失うつらさは、よく知っていたからだ。
だが、今は事情が違う。
彩葉のお父さんは、まだ生きている。
しかも、これから亡くなる可能性がある。
ヤチヨは、発表会の案内を閉じた。
しばらくして、もう一度開いた。
写真には、楽しそうに笑う参加者たちが写っていた。
その中には、幼い子供もいる。
今の彩葉は、まだ小さい。
父親と一緒に曲を作り、音楽を楽しんでいる頃だ。
これから何が起きるのか、本人は知らない。
父親も、母親も、兄も。
誰も知らない。
ヤチヨだけが、その先にある出来事を覚えている。
「……どうしよう」
小さく呟いた。
助けられるのだろうか。
そもそも、どうやって助ければいい?
亡くなった時期についても、曖昧な記憶しかない。
詳しい状況を知らない以上、事故が起こる場所を予想することもできなかった。
仮に事故を防ぐことができても、別の原因で亡くなってしまう可能性だってある。
それに。
ヤチヨには、もっと大きな不安があった。
彩葉のお父さんが生きていたら、どうなるのだろう。
◇
あの未来。
ヤチヨが覚えている彩葉は、一人暮らしをしていた。
学業とアルバイトを両立し、生活費を稼ぎ、毎日忙しそうに過ごしていた。
音楽が好きなのに、自分の好きなことを後回しにしていた。
そんな彩葉と、かぐやは出会った。
最初は、いろいろと大変だった。
突然現れたかぐやに、彩葉は随分と振り回された。
それでも、一緒に暮らした。
遊んで、歌って、喧嘩もした。
そして、かけがえのない時間を過ごした。
ヤチヨは、その記憶をすべて持っている。
だが、彩葉のお父さんが生きていたら。
彩葉は、家を出ることになるのだろうか。
母親との関係は、同じようになるのだろうか。
音楽を諦めることがあるのだろうか。
そして、あの日。
かぐやと出会うことがあるのだろうか。
「……」
ヤチヨは、作業画面を閉じた。
自分が知っている未来が、変わってしまう。
それは、ずっと恐れてきたことだった。
ずっと昔、竹千代と暮らしていた頃にも、この問題について考えたことはある。
過去の何かを変えれば、未来も変わるのではないか。
その結果、自分が彩葉と出会えなくなってしまうのではないか。
竹千代と過ごしていた頃にも、そんな不安がよぎったことがあった。
だが、竹千代は歴史を変えた。
本来亡くなるはずだった人々を救い、徳川の世を築いた。
それでも、かぐや自身は消えなかった。
だからといって、今度も大丈夫だという保証はない。
彩葉のお父さんを助ければ、彩葉の人生そのものが大きく変わる。
そして、彩葉とかぐやの出会いがなくなれば、自分がここにいる理由まで変わってしまうかもしれない。
考え始めると、恐ろしかった。
「ヤチヨ?」
フシが戻ってきた。
「どうしたの?」
ヤチヨは、慌てて笑顔を作った。
「ん? 何でもないよ!」
フシは、少し疑わしそうに彼女を見た。
「本当?」
「本当だって!」
そう答えたが、普段ほど元気な声は出なかった。
フシは、しばらく考えた。
そして、隣へ座った。
「話したくなったら、聞くよ」
ヤチヨは、少し驚いた。
それから、笑った。
「……ありがと」
◇
それから、ヤチヨは考え続けた。
彩葉のお父さんが亡くなる。
その未来を知っている。
だが、自分が何かをしたところで、必ず助けられるとは限らない。
そもそも、父親の生活を常に見張るようなことをするつもりもなかった。
ヤチヨは彩葉のことが大好きだ。
だからこそ、本人たちが知らないところで、その家族の暮らしに踏み込みすぎることには抵抗があった。
できることは、限られている。
それでも、何もしないまま待つのは嫌だった。
ヤチヨは、公開されている交通情報や気象情報に注意を払うようになった。
大雨。
台風。
道路の通行止め。
列車の遅延。
誰でも確認できる情報を、以前より丁寧に見るようになった。
事故の詳細を知らない以上、それが本当に役立つのかは分からない。
だが、何か危険な兆候を見つけたとき、見過ごさずに済む。
そんな準備を続けていた。
そして、ある日のことだった。
◇
雨が続いていた。
数日前から降り始めた雨は、弱まったり強まったりを繰り返していた。
各地で河川の水位が上がり、山沿いの道路では土砂災害への警戒が呼びかけられている。
ヤチヨは、いつものように気象情報を確認していた。
そこで、一つの異常に気づいた。
市街地の外れにある、古い橋だった。
橋の近くを流れる川は、水位がかなり上がっている。
にもかかわらず、道路情報には通行止めの表示がない。
周囲の道路では警戒が呼びかけられているのに、その橋だけは通常どおり通れることになっていた。
「あれ?」
ヤチヨは、別の情報を確かめた。
川の水位。
周辺の雨量。
道路管理者が公開している点検記録。
どれも、誰でも閲覧できる情報だった。
古い橋だった。
過去にも、大雨の後には点検が行われている。
ただ、今回は雨が長く続いている。
近くに設置された観測設備では、地盤の変化を示す値も報告されていた。
ヤチヨは、眉を寄せた。
「これ、危なくない?」
フシが覗き込んできた。
「どうしたの?」
「ここの橋。川の水、すっごく増えてる」
「本当だ」
「でも、通行止めになってないんだよね」
ヤチヨは、しばらく考えた。
もしかすると、すでに道路管理者が確認しているのかもしれない。
それなら、問題はない。
だが、観測値が危険を示しているなら、念のため知らせておいた方がいい。
ヤチヨは、道路管理者の通報窓口を開いた。
公開されている観測値と、周辺の状況をまとめる。
そして、危険がないか確認してほしいという連絡を送った。
それだけだった。
特定の誰かを助けるための通報ではない。
事故が起こりそうな場所を見つけたから、知らせた。
普通に考えれば、そういう行動だった。
ところが、送信する直前。
ヤチヨは、もう一度その場所を確認した。
橋の向こうには、音楽教室や小さな演奏会場がいくつかある。
そのうちの一つで、今日、親子向けの催しが開かれることになっていた。
数日前に見た案内だった。
彩葉のお父さんが、出演する予定の催しである。
「……え」
ヤチヨは、画面を見つめた。
この橋を通るかどうかは分からない。
別の道を使うかもしれない。
そもそも、今日ここで事故が起こるとも限らない。
だが、もし。
「……」
ヤチヨの手が止まった。
今、通報すれば。
橋が通行止めになれば。
彩葉のお父さんの予定が変わるかもしれない。
それだけではない。
今日の出来事が少し変われば、明日の予定も変わる。
家族との会話も、仕事の進み方も。
その先の未来は、少しずつ違うものになっていくだろう。
「ヤチヨ?」
フシが声をかけた。
ヤチヨは、返事をしなかった。
送信の操作は、目の前にある。
ただ、それを押すだけだった。
なのに、指が動かなかった。
◇
知らない未来を恐れることは、間違いじゃない。
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
ヤチヨは、目を見開いた。
「……竹千代?」
誰もいないはずの場所で、思わず名前を呼んでいた。
返事はない。
当然だった。
竹千代は、もうずっと昔に亡くなっている。
それでも、あの日の声は覚えていた。
駿府城の一室。
病床に伏した老人。
かつて徳川家康と呼ばれた男が、最後の力を振り絞るようにして話してくれた。
『怖いなら、立ち止まって考えればいい。誰かに相談したっていいし、準備が必要ならすればいい』
ヤチヨは、目を閉じた。
『でも、最後は己の心に従え。お前が本当に大切にしたいものを、自分で選ぶんだ』
その言葉を、忘れたことはなかった。
竹千代も、未来を知っていた。
だが、何もかもを知っていたわけではない。
歴史が変わった後に何が起きるのかなど、本人にも分からなかった。
それでも、瀬名を救った。
信康も救った。
一方で、茶々と秀頼は救えなかった。
何度も悩み、後悔し、それでも自分で決めようとしていた。
……そうだったね。
ヤチヨは、ゆっくりと目を開いた。
竹千代が大切にしていたもの。
家族。
家臣。
領民。
そして、かぐや。
竹千代は、自分が死んだ後のことまで考えて、できる限りのものを残そうとしていた。
かぐやが、いつか自分の好きな場所へ行けるように。
まだ出会っていない人々と、自由に暮らせるように。
そう願っていた。
ヤチヨは、目の前の画面を見た。
彩葉のお父さん。
あの人が生きていたら、彩葉の人生が変わる。
自分と彩葉が、もう一度出会える保証はなくなる。
それは、怖い。
本当に怖い。
だが。
「……私、助けたい」
ヤチヨは、静かに言った。
フシが顔を上げた。
「何を?」
「この橋を通る人たち」
ヤチヨは答えた。
「危ないかもしれないんでしょ。だったら、ちゃんと知らせなきゃ」
それから、小さく付け加えた。
「……彩葉のお父さんも、通るかもしれないし」
ヤチヨは、送信した。
画面に、受付完了の表示が出た。
それだけだった。
何かが大きく変わったようには見えなかった。
だが、ヤチヨの胸は激しく鳴っていた。
自分で選んだ。
今まで知っていた未来よりも、目の前にいる人の命を守ることを。
その先に何が待っているのか、分からないまま。
◇
通報を受けた道路管理者は、現地の確認を始めた。
観測値を確かめると、確かに橋の付近で地盤の変化が進んでいた。
すぐに職員が派遣され、橋への進入を制限する措置が取られた。
道路情報にも、通行止めが表示された。
近くを通る車には、迂回路が案内された。
その中に、一台の車があった。
運転しているのは、音楽関係の仕事を終え、帰宅しようとしていた男性だった。
助手席には、楽譜の入った鞄が置かれている。
今日は家族と夕食を取る約束をしていた。
少し遅くなってしまったが、まだ十分に間に合う時間だった。
ところが、いつも使っている道が通行止めになっていた。
男性は困ったように道路標識を眺めた。
仕方がないので、案内された道を通ることにした。
少し遠回りになる。
だが、それだけだった。
男性は車を走らせた。
そして、帰宅した。
その数時間後。
橋の一部が、大きく損傷した。
橋脚を支えていた地盤が崩れ、路面が沈み込んだのである。
幸い、通行止めの措置が取られていたため、車が巻き込まれることはなかった。
翌日のニュースでは、早期に異常が見つかったことが報じられた。
ヤチヨは、その報道を見ていた。
だが、喜ぶことはできなかった。
「……本当に、危なかったんだ」
その言葉を、何度も繰り返した。
もし、通報していなかったら。
もし、橋が通行止めになっていなかったら。
彩葉のお父さんは、あの橋を通ったのだろうか。
それとも、別の道を使っていたのだろうか。
分からない。
ヤチヨが知っている未来では、彩葉のお父さんは亡くなっている。
だが、死因は詳しく聞いていない。
今回の橋の事故が、本来の死につながる出来事だったのかどうかも、分からなかった。
それでも。
何かが変わったことだけは、確かだった。
◇
数日後。
地域の音楽教室が、発表会の写真を公開した。
そこには、楽しそうに笑う子供たちの姿があった。
そして、その隣に。
彩葉のお父さんがいた。
以前見た写真よりも、少し疲れた顔をしている。
だが、笑っていた。
その傍には、小さな女の子がいる。
幼い彩葉だった。
ヤチヨは、しばらく画面を見つめていた。
彩葉のお父さんは、生きている。
娘と一緒に、音楽を続けている。
少なくとも、今日という日まで。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
「……よかった」
ヤチヨは、小さく呟いた。
それから、写真を閉じた。
父親の命を救えたと、完全に確信できたわけではない。
ただ、今の彩葉は、父親と一緒に笑っている。
それなら、今は十分だった。
……本当に?
そう自分へ問いかけた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
ヤチヨは、画面を閉じたまま動けなくなった。
この先、何が起こるのだろう。
彩葉は、どんな人生を送るのだろう。
自分と出会うことはあるのだろうか。
その答えは、もう分からない。
ヤチヨが覚えている未来から、少しずつ離れ始めている。
もし、彩葉が父親と一緒に暮らし続けたら。
母親との関係が悪くならなかったら。
音楽を諦めずに済んだら。
あのアパートに、一人で暮らすこともなくなるかもしれない。
そして。
あの日、かぐやを拾うこともなくなるかもしれない。
ヤチヨは、目を閉じた。
あの時間が、なくなってしまう。
彩葉と笑い合った日々。
一緒に歌った曲。
かぐやとして過ごした、かけがえのない時間。
自分の中には、今もすべて残っている。
だが、これから生まれる未来には、存在しないかもしれない。
「……怖い」
声が漏れた。
未来が変わる。
そのことが、こんなにも怖いなんて。
ヤチヨは、知らなかった。
◇
「ヤチヨ?」
フシが声をかけた。
ヤチヨは、顔を上げた。
「ん?」
「また、考え事?」
「うん」
フシは、隣へ座った。
「橋のこと?」
ヤチヨは頷いた。
「私、変えちゃったのかな」
「何を?」
「……未来」
フシは、少し考えた。
「未来って、変わるものじゃないの?」
ヤチヨは、目を瞬いた。
「え?」
「だって、まだ起きてないんでしょ?」
フシは、当たり前のことを言うように続けた。
「だったら、これから何が起きるかは分からないんじゃない?」
ヤチヨは、しばらく黙っていた。
「……そうなんだけど」
知っていた。
理屈では、分かっていた。
だが、ヤチヨには、すでに経験した未来がある。
彩葉と出会い、一緒に暮らした記憶がある。
その記憶が、今まで自分を支えてきた。
それを失うかもしれないと考えると、どうしても怖くなった。
「私ね」
ヤチヨは、静かに言った。
「もう一回、彩葉に会いたいんだ」
フシは黙って聞いていた。
「ずっと、会いたかった」
そのために、長い時間を生きてきた。
何度も別れを経験した。
竹千代も、茶々も、瀬名も。
みんないなくなった。
それでも、彩葉に会いたいという気持ちは変わらなかった。
「でもね」
ヤチヨは、膝を抱えた。
「彩葉のお父さんが生きてたら、私と会わなくなるかもしれない」
フシは、しばらく考えた。
「じゃあ、助けなければよかった?」
ヤチヨは、顔を上げた。
「それは嫌!」
即答だった。
フシが目を瞬いた。
ヤチヨは、少し驚いた。
自分でも、こんなにはっきり答えるとは思っていなかった。
「絶対、嫌」
もう一度言った。
彩葉のお父さんが死んでしまう。
それを知っているのに、何もしない。
そんな選択をしていたら。
たとえ未来で彩葉と再会できたとしても、自分は笑っていられるだろうか。
あの子が父親のことを思い出して悲しんだとき。
自分は、何と声をかければいいのだろう。
ヤチヨは、ゆっくりと息を吐いた。
「助けたかったんだ」
フシは頷いた。
「うん」
「彩葉のお父さん、生きててほしかった」
「うん」
「だから、助けたかったの」
それが、自分の選んだことだった。
未来が変わることは怖い。
その気持ちは、今も変わらない。
だが、助けたいと思ったことまで、間違いにしたくはなかった。
「竹千代」
ヤチヨは、小さく呟いた。
竹千代の声が、また浮かんできた。
『知らない未来を恐れることは、間違いじゃない』
そうだ。
怖い。
今も怖い。
『でも、最後は己の心に従え』
ヤチヨは、顔を上げた。
「……うん」
フシが、少し首を傾げた。
「何?」
ヤチヨは笑った。
「何でもない!」
それから、少し考えて付け加えた。
「私、ちゃんと選べたよ」
フシは、何のことか分からないようだった。
だが、ヤチヨが少し元気になったことは伝わったらしい。
「そっか」
フシは笑った。
ヤチヨも笑った。
◇
その後も、世界は何事もなかったかのように動き続けた。
朝になれば人々は仕事へ向かい、学校へ通い、家へ帰る。
新しい歌が生まれ、新しい作品が発表される。
昨日とは違う何かが、毎日のように増えていった。
その中で、ヤチヨは一つのことを気にするようになった。
彩葉が、どんな未来を歩んでいくのか。
知りたい。
できれば、もう一度会いたい。
だが、それを確かめるために、今すぐ彩葉の前へ現れようとは思わなかった。
今の彩葉には、父親がいる。
母親も、兄もいる。
家族と一緒に過ごす時間がある。
その時間を、自分の都合で変えようとするのは違う気がした。
だから、ヤチヨは待つことにした。
ただし、以前とは違う。
あらかじめ知っている未来が、そのとおり訪れるのを待つのではない。
何が起きるのか分からない未来を、自分も生きていく。
そして、いつか彩葉が《ツクヨミ》へ来ることがあれば。
そのときは、今までと同じように迎えよう。
もしかすると、彩葉は自分のことを知らないかもしれない。
月見ヤチヨの歌を聞いたこともないかもしれない。
それでも構わない。
また、最初から仲良くなればいい。
そう考えたところで、ヤチヨは少し笑った。
……いや。
やっぱり、構わないわけじゃないかも。
知らない顔をされたら、絶対に落ち込む。
あんなに一緒にいたのに、なんて思ってしまう。
だが、だからといって、彩葉が悪いわけではない。
そのときは、自分から話しかけてみよう。
歌を聞いてもらおう。
一緒に遊ぼうと誘ってみよう。
彩葉が嫌がったら、そのときに考えればいい。
「よし!」
ヤチヨは、立ち上がった。
「フシ!」
「何?」
「お仕事、再開しよ!」
フシは、少し驚いた。
「もう大丈夫?」
ヤチヨは、にっこり笑った。
「大丈夫!」
それから、少し考えた。
「……いや、やっぱり怖いけど!」
フシが笑った。
ヤチヨも笑った。
「でも、やりたいこといっぱいあるもん!」
目の前に、《ツクヨミ》の作業画面が広がった。
まだ完成していない場所がある。
新しい企画もある。
誰かが困っているなら、手を貸してもいい。
これから出会う人々のために、できることはたくさんあった。
ヤチヨは、作業を始めた。
ふと、昔のことを思い出す。
駿府城。
書状を広げ、頭を抱えていた竹千代。
何度も戦を経験し、何度も後悔して、それでも自分の仕事をやめなかった。
竹千代は、最後まで未来のことを考えていた。
自分が死んだ後に、何を残せるのか。
かぐやが生きる世を、少しでもよいものにできるのか。
そんなことを、ずっと考えていた。
……竹千代。
ヤチヨは、心の中で呼びかけた。
あのとき、未来の道筋を少しは作れただろうかと、あんたは心配していたね。
でも、作れてるよ。
全部じゃない。
竹千代が知らないところで、たくさんの人が働いて、世界を変えてきた。
失敗もしたし、戦だって起きた。
それでも、今はこんなに遠くまで来た。
そして今日。
私は、自分で未来を変えることを選んだ。
そのことが、今でも少し怖い。
これから何が起きるのか、分からないから。
でも。
……ちゃんと、自分の心に従ったよ。
ヤチヨは、目の前の画面を操作した。
《ツクヨミ》の広場に、新しい道が一本できあがる。
その先には、まだ何もない。
これから誰かが建物を作るかもしれない。
新しい遊び場になるかもしれない。
歌うための場所になるかもしれない。
何になるのかは、誰にも分からない。
ヤチヨは、その道を眺めた。
そして、笑った。
「……ま、何とかなるっしょ!」
その声は、昔と変わらず明るかった。
知らない未来は、怖い。
それでも、ヤチヨにはまだやりたいことがあった。
もう一度会いたい人もいた。
そして、今度は自分で選んだ未来が待っている。
ヤチヨは作業画面を閉じ、広場の方へ歩き出した。
新しく作った道を、誰よりも先に歩いてみたかった。