徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
酒寄彩葉は、父親のことが好きだった。
もちろん、だからといって腹が立たないわけではない。
「そこ、音が多すぎない?」
「……お父さん」
「うん?」
「昨日も同じこと言ったよね?」
「あれ、そうだった?」
「そうだった!」
画面越しに、父親が困ったように笑う。
彩葉はヘッドホンを外して机に置いた。電話の向こうにいる父親の顔は、相変わらず人のよさそうな笑みを浮かべている。普段は穏やかなくせに、音楽のこととなると妙に細かい。自分で作った曲を聞かせれば必ず何か言ってくるし、こちらが反論すると嬉しそうに議論を始める。昔からそうだった。
「彩葉がよく考えて作ってるのは分かるよ。だからこそ、ちょっと気になってね」
「分かってるって。別に意見聞きたくないわけじゃないし」
「じゃあ、もう一つだけ」
「もう一つ!?」
父親が笑った。
彩葉は天井を仰いだ。
こちらから曲を聞かせておいて文句を言うのもどうかと思うが、何度も同じところを指摘されれば腹も立つ。しかも、言われたことに一理あるのが余計に厄介だった。
父親は作曲家だった。
子供の頃から一緒に曲を作り、音楽について話してきた。彩葉が音楽を好きになった理由を尋ねられたら、真っ先に父親の名前を挙げるだろう。
ただし、それとこれとは別である。
「……もういい。続きは自分でやる」
「うん。頑張って」
「言われなくても!」
「完成したら聞かせてね」
「気が向いたらね」
通話を切る直前、父親が思い出したように言った。
「あ、そうだ。お母さんが、来月は京都に帰ってくるのかって」
「まだ分かんない。学校の予定もあるし」
「そう。決まったら連絡してね」
「はーい」
通話が終わった。
彩葉は、椅子の背にもたれた。
画面には作りかけの曲が表示されている。
父親が指摘した箇所を、もう一度再生した。
「…………」
確かに、音が多い。
彩葉は少し考えた後、音を二つ減らしてみた。
再生する。
さっきよりよくなった。
「……あー、もう!」
悔しい。
今度京都へ帰ったら、絶対に何か言い返してやろう。
そんなことを考えながら、彩葉は作業を続けた。
◇
酒寄彩葉、十七歳。
東京都立武蔵川高校に通う高校二年生である。
出身は京都。
父親は作曲家、母親は弁護士。
兄は兄で何やら好き勝手にやっているらしいが、詳しいことは聞いていない。聞けば面倒な話が出てきそうなので、今のところは放置している。
彩葉は高校進学を機に上京した。
理由は、家族との不仲ではない。
単純に、東京で暮らしてみたかったからだ。
進学先として都立武蔵川高校を選んだのも、自分で調べて決めたことだった。学業に力を入れられる環境があり、通学できる範囲には興味のある場所も多い。
何より、一度くらい親元を離れて生活してみたかった。
母親には随分と心配された。
父親からも、一人暮らしは想像以上に大変だと忠告された。
彩葉は、必要なことを調べ、生活費を計算し、家事についても練習したうえで、何度も話し合った。
結果として、両親は認めてくれた。
賃貸契約は父親が手伝ってくれたし、生活費も家から仕送りされている。アルバイトで学費まで稼がなければならないわけではない。
もちろん、だからといって暇になるわけでもなかった。
高校の授業。
試験勉強。
友人との付き合い。
家事。
そして、音楽制作。
そのすべてを真面目にやろうとするものだから、結局いつも忙しい。
「彩葉ってさあ」
昼休み。
諌山真実が、弁当を食べながら口を開いた。
「ん?」
「何でそんなに忙しそうなの?」
「……何でって」
彩葉は箸を止めた。
「普通じゃない?」
「普通の人は、昼休みに英語の課題を終わらせながら昼ご飯食べないと思う」
隣に座っていた綾紬芦花が、笑いを堪えている。
彩葉は手元を見た。
弁当。
英語のプリント。
開いた参考書。
確かに、少し忙しそうに見えるかもしれない。
「……午後までに終わらせたいだけ」
「まだ提出まで三日あるよ?」
「早めに終わらせとけば楽でしょ」
「そう言って、空いた時間に別のこと始めるんだよね」
芦花の指摘に、彩葉は口を閉じた。
……否定できない。
「そういえば、彩葉。昨日のヤチヨの配信見た?」
真実が話題を変えた。
彩葉の手が止まった。
「見た」
即答だった。
「早っ」
「当然でしょ」
「昨日の新曲、よかったよね」
「めっちゃよかった!」
彩葉は勢いよく顔を上げた。
「あのサビ前の入り方、最高じゃなかった? あそこで一回音を落としてから、ヤチヨの声が入ってくるのがもう……!」
真実が笑い始めた。
芦花も、完全に笑っている。
「……何?」
「いや、彩葉って分かりやすいなあって」
「何が?」
「ヤチヨの話になると、急に元気になるところ」
彩葉は一瞬固まった。
そして、視線を逸らした。
「……別に、普通でしょ」
「普通かなあ?」
「普通!」
二人がまた笑う。
彩葉は、少しだけ頬を膨らませた。
まったく。
人の推し活に、いちいち突っ込まないでほしい。
◇
月見ヤチヨ。
仮想空間《ツクヨミ》の管理人にして、トップライバー。
歌もダンスも上手く、配信ではいつも楽しそうに笑っている。
彩葉にとって、ヤチヨは特別な存在だった。
学校で疲れた日も。
曲が思うように作れなかった日も。
何となく気分が沈んでいる日も。
ヤチヨの配信を見ていると、少しだけ元気になれる。
何より、あの楽しそうな姿が好きだった。
誰かの作品を見つけて喜ぶ。
新しい遊びを思いついては、周囲を巻き込む。
失敗しても笑い飛ばして、また別のことを始める。
見ている方まで楽しくなってくるのだ。
彩葉は、自分の部屋に戻るとパソコンを起動した。
壁にはヤチヨのグッズがいくつか飾られている。
机の隅には、小さなアクリルスタンド。
棚にはライブの記念品。
京都から引っ越すとき、持っていくものを選ぶのに苦労したが、これらを置いていくという選択肢は最初からなかった。
「……よし」
彩葉は椅子に座った。
今日は、新しい配信の告知があるらしい。
開始時間までは、あと十分。
少し時間がある。
作りかけの曲を進めようか。
それとも、先に夕食の支度をしておこうか。
迷った末、彩葉はヘッドホンを手に取った。
配信前に家事を始めると、絶対に途中で切り上げることになる。
それは何となく嫌だった。
「……あとでやろ」
そう呟いて、配信画面を開いた。
◇
『ヤオヨロ~!』
聞き慣れた声が響いた。
彩葉は、思わず笑った。
「……かわいい」
誰に聞かせるでもなく呟く。
画面の中では、ヤチヨが新しい企画について話していた。
《ツクヨミ》の利用者が参加できる音楽イベント。
プロもアマチュアも関係ない。
自分で作った曲を応募し、みんなで楽しもうという催しだった。
『というわけで! 今回はみんなの曲をいっぱい聞いちゃいまーす!』
彩葉は、マウスを動かす手を止めた。
「……え?」
『もちろん、初めて曲を作った人も大歓迎! みんなで盛り上がろー!』
画面に応募要項が表示される。
彩葉は食い入るように読んだ。
応募期間。
楽曲の長さ。
形式。
使用する音源についての規定。
どれも、今作っている曲なら問題なさそうだった。
「…………」
心臓が、妙に速くなる。
もしかして。
本当に、もしかしたら。
自分の曲を、ヤチヨに聞いてもらえるかもしれない。
「……応募しよ」
気づけば、そう呟いていた。
もちろん、採用される保証などない。
参加する人間は多いだろうし、自分より上手い人だっていくらでもいる。
それでも、応募しなければ何も始まらない。
彩葉は、作業中の楽曲データを開いた。
……よし。
締め切りまでに、完成させよう。
そう決めた。
◇
それから数日間。
彩葉は、曲の仕上げに追われた。
授業も、学校の課題も、普段どおりにこなした。
友人と遊ぶ約束も、一応は守った。
だが、空いた時間はほとんど作曲に使った。
その結果。
「……眠い」
金曜日の朝。
鏡の前で、彩葉は自分の顔を見つめた。
目の下に、少しだけ隈ができている。
昨日は予定より遅くまで作業してしまった。
「……あかん」
彩葉は洗面台へ手をついた。
別に、無理してまでやる必要はない。
誰かに頼まれたわけでもないのだ。
それくらいは分かっている。
だが、もう少しで完成すると思うと、どうしてもやめられなかった。
鏡の中の自分と目が合う。
「……今日は早く寝よ」
そう決めた。
もっとも、この決意がどれほど当てになるのかは、自分でもよく分かっていた。
◇
締め切り当日。
彩葉は、ようやく曲を完成させた。
最後の最後まで気になるところはあったが、もう直している時間はない。
改めて最初から聞き直す。
少しだけ、身体が揺れた。
……うん。
悪くない。
少なくとも、今の自分が作れるものにはなった。
彩葉は応募画面を開いた。
楽曲データを添付し、タイトルを入力する。
投稿者名には、普段《ツクヨミ》で使っているアカウント名が表示されていた。
『iro』
わざわざ変更する必要もない。
そのまま送信する。
画面に、受付完了の文字が出た。
「……終わったぁ」
彩葉は、椅子の背にもたれた。
達成感と疲労が、一緒になって押し寄せてくる。
ようやく終わった。
今日はもう、何もしない。
そう決めた直後、スマートフォンが震えた。
父親からだった。
『曲、完成した?』
彩葉は、思わず笑った。
『した』
すぐに返事が来る。
『おめでとう。よく頑張ったね』
彩葉は、その文章を眺めた。
それから、少し考えて返信した。
『今度帰ったら聞かせてあげる』
送信する。
数秒後。
『楽しみにしてる』
彩葉は、スマートフォンを伏せた。
「……ほんま、調子狂うわ」
そう言いながらも、口元は緩んでいた。
◇
《ツクヨミ》の管理人、月見ヤチヨは、現在進行形で頭を抱えていた。
「フシー!」
「何?」
「応募が多すぎる!」
目の前には、大量の楽曲データが並んでいる。
想像以上の参加者数だった。
もちろん、それ自体は嬉しい。
音楽が好きな人たちが集まり、自分の作品を披露してくれる。
《ツクヨミ》を作った者としては、これ以上ないほど喜ばしいことだ。
問題は、確認する側の仕事量だった。
「ヤチヨが企画したんでしょ」
「そうだけどー!」
フシは笑った。
ヤチヨも、つられて笑った。
最初からすべてを一人で聞くつもりだったわけではない。審査には運営スタッフも参加しているし、応募規定を満たしているかどうかの確認も分担している。
ヤチヨが担当するのは、最終候補に残った作品だった。
それでも、かなりの数がある。
「……よーし!」
ヤチヨは姿勢を正した。
「続き、いっくよー!」
次の楽曲を再生する。
最初に聞こえたのは、ピアノの音だった。
明るい旋律。
少し複雑な和音。
それから、曲の途中で思い切った転調が入る。
ヤチヨの手が止まった。
「……あ」
音が重なっていく。
テンポが変わる。
最後の旋律が流れ、曲が終わった。
ヤチヨは、再生画面を見つめていた。
「……ヤチヨ?」
フシが声をかけた。
「気に入ったの?」
ヤチヨは、すぐには答えなかった。
もう一度、曲を再生する。
最初から最後まで聞いた。
それから、投稿者名へ目を向けた。
『iro』
ほんの短い名前だった。
それだけで誰なのか分かるわけではない。
だが、ヤチヨには覚えがあった。
この音の選び方。
少し強引なくらい大胆に展開させるところ。
それでいて、最後には全体をきれいにまとめてしまうところ。
ヤチヨは、口元を押さえた。
「……そっか」
小さく呟く。
今の彩葉は、まだ音楽を作っている。
そのことが、嬉しかった。
以前とは違う人生を歩んでいるのだろう。
家族と暮らし、父親から音楽を教わり、自分の好きなことを続けている。
それでも、こうして《ツクヨミ》に曲を届けてくれた。
直接会ったわけではない。
本人だと確かめたわけでもない。
それでも、ヤチヨは何度も曲を聞いた。
「……ヤチヨ?」
フシが、もう一度声をかけた。
ヤチヨは顔を上げた。
そして、にっこり笑った。
「うん! この曲、好き!」
それから、運営スタッフによる評価へ目を通した。
ほかの審査担当者からも、好意的な意見が寄せられている。
ヤチヨは、それを確認してから候補に残した。
特別扱いするつもりはなかった。
曲そのものが、ちゃんとよかった。
それが、何より嬉しかった。
◇
イベント当日。
彩葉は、開始時間より三十分も早く《ツクヨミ》へログインしていた。
理由は単純だった。
ヤチヨが出演するからである。
「……よし」
狐耳のアバターで、会場へ入る。
広場には、すでに大勢の参加者が集まっていた。
ステージの周囲には色とりどりの照明が並び、空には大きな月が浮かんでいる。
今回のイベントのために、特別な演出も用意されているらしい。
彩葉は、会場を見回した。
「……すご」
思わず声が出た。
これほど大勢の人が集まる場所で、自分の曲が流れるかもしれない。
そう考えるだけで、少し緊張する。
もっとも、今はまだ結果を知らない。
採用されるかどうかも、分からない。
彩葉は、ステージの近くへ移動した。
そして、開始時刻を待った。
やがて、照明が落ちる。
歓声が上がった。
『ヤオヨロ~! みんな、楽しんでるー!?』
月見ヤチヨが現れた。
彩葉は、反射的に背筋を伸ばした。
「……っ!」
画面越しに何度も見ている姿だ。
それでも、同じ仮想空間にいると思うと緊張する。
『今日はみんなの曲を、いっぱい紹介しちゃうぞー!』
ヤチヨが楽しそうに笑った。
彩葉は、思わず口元を押さえた。
「……かわいい」
小さく呟く。
周囲には同じように盛り上がっている参加者が大勢いた。
誰も、彩葉のことなど見ていない。
それが、少しだけありがたかった。
◇
イベントは、大いに盛り上がった。
さまざまな曲が流れる。
明るい曲。
静かな曲。
不思議な曲。
今まで聞いたこともないような音の組み合わせ。
彩葉は、いつの間にか普通に楽しんでいた。
自分の曲のことも気になるが、それ以上に、知らない人が作った音楽を聞くのが面白い。
気に入った作品が流れれば、すぐに作者の名前を確認した。
あとで、ほかの曲も聞いてみようと思ったからだ。
そして、イベントも終盤に差しかかった頃。
『続いてはこちら! 投稿者「iro」さんの作品です!』
彩葉は、動きを止めた。
「……え?」
聞き間違いかと思った。
だが、ステージの画面には、自分の投稿者名が表示されている。
楽曲のタイトルも、間違いない。
「……うそ」
曲が流れ始めた。
何度も聞いた旋律。
何度も直した和音。
父親と散々言い合いをした、あの部分。
それが今、大勢の観客の前で流れている。
彩葉は、何もできなかった。
ただ、聞いていた。
途中で観客から反応が上がる。
曲が終わると、拍手が広がった。
『いいねー! こういう曲も大好き!』
ヤチヨの声が響いた。
彩葉は、完全に固まった。
……好き。
今、好きって言った。
ヤチヨが。
自分の曲を。
「…………」
何か言おうとしたが、声にならなかった。
もちろん、ヤチヨは大勢の参加者へ向けて話している。
彩葉個人に声をかけているわけではない。
それくらい、分かっている。
分かっているのだが。
「……やば」
彩葉は、両手で顔を覆った。
「ほんま、やばい……」
自分の曲を聞いてもらえた。
しかも、好きだと言ってもらえた。
それだけで、数日間の苦労がすべて報われた気がした。
……いや。
さすがに、それは言いすぎかもしれない。
寝不足だったことは、普通につらかった。
それでも。
彩葉は、もう一度ステージへ目を向けた。
そこでは、ヤチヨが次の曲を紹介していた。
いつもと同じ、楽しそうな笑顔だった。
彩葉も、つられて笑った。
◇
イベントが終わった後、彩葉はすぐに家族へ連絡した。
まず父親。
次に母親。
それから兄にも連絡しようとして、やめた。
どうせまた何か言われる。
今は、普通に喜んでくれる人へ報告したかった。
『お父さん! 私の曲、イベントで紹介された!』
返事は、すぐに来た。
『本当? すごいじゃないか!』
『ヤチヨにも聞いてもらえた!』
『よかったね』
続いて、父親から通話がかかってきた。
彩葉は、少し笑いながら応答した。
「もしもし」
『おめでとう、彩葉』
「ありがと」
『どうだった?』
「……めっちゃ緊張した」
父親が笑った。
『そうだろうね』
「でも、楽しかった」
『うん』
彩葉は、少し考えた。
それから、付け加えた。
「……また曲作りたい」
父親は、すぐに答えた。
『いいじゃないか』
「今度は、もうちょっと上手く作りたい」
『楽しみにしてるよ』
彩葉は、口元を緩めた。
「……お父さん」
『何?』
「次は、もっといい曲作るから」
『うん』
「そしたら、また聞いて」
父親は、少し笑った。
『もちろん』
彩葉も笑った。
◇
一方、その頃。
ヤチヨは《ツクヨミ》の広場を歩いていた。
イベントは終わった。
大勢の参加者は、それぞれの場所へ帰っていった。
今は、広場にも人影が少ない。
ヤチヨは、今日紹介した曲をもう一度確認していた。
新しい才能が、たくさん見つかった。
面白い曲も、たくさんあった。
そして、その中に。
『iro』
あの名前もあった。
ヤチヨは、少し笑った。
本当に、来てくれたんだね。
どれほど長い時間を待ってきたのだろう。
以前の未来では、彩葉は音楽から離れようとしていた。
だが、今は違う。
自分から曲を作り、たくさんの人に聞いてもらおうとしている。
その違いが、ヤチヨには嬉しかった。
ただ、それで安心しきれるわけではない。
彩葉がこれからどんな人生を送るのか。
誰と出会い、何を選ぶのか。
まだ分からない。
それに、ヤチヨにはどうしても気になることがあった。
かぐやのことだ。
彩葉と出会った、あの頃の自分。
まだ月見ヤチヨになる前の、自分自身。
本来なら、そろそろ地球へやってくるはずだった。
だが、今は未来が変わっている。
彩葉のお父さんは生きている。
彩葉は、自分の意思で東京へ進学した。
生活も、人間関係も、以前とは少しずつ違っている。
それでも、かぐやは地球へやってくるのだろうか。
そもそも、あの出来事自体が起きるのだろうか。
ヤチヨには、分からなかった。
そして、もう無理に確かめようとも思わなかった。
自分が何かを仕組めば、元の未来に近づけられるのかもしれない。
だが、それでは意味がない。
彩葉にも、かぐやにも、それぞれの時間がある。
何を選ぶのかは、二人自身が決めることだった。
ヤチヨは、広場の中央で足を止めた。
大きな月が浮かんでいる。
かつて、かぐやが何度も見上げた月だった。
「……どうなるんだろ」
小さく呟いた。
怖くないわけではない。
彩葉と、もう一度一緒に過ごしたい。
その願いは、今も変わっていない。
だが、もし以前とは違う未来が来たとしても。
そのときは、その未来でできることを探そうと思った。
ヤチヨは、ゆっくりと目を閉じた。
そして、遠い昔のことを思い出した。
駿府城。
病床に伏した竹千代。
自分の小さな身体を、手のひらに乗せてくれた友人。
『知らない未来を恐れることは、間違いじゃない』
あの言葉は、今も覚えている。
『でも、最後は己の心に従え』
ヤチヨは、少し笑った。
……竹千代。
私、まだちょっと怖いよ。
これから何が起きるのか、全然分かんないから。
でも、ちゃんと進んでる。
彩葉のお父さんを助けたことも。
その先の未来が変わったことも。
私は、後悔してないよ。
ヤチヨは目を開けた。
そして、いつものように笑った。
「……ありがと、竹千代」
その声は、誰にも聞こえなかった。
◇
それから、少し後のことだった。
東京、立川。
学校帰りの酒寄彩葉は、スーパーの袋を片手に、いつもの道を歩いていた。
明日は休みだ。
宿題はすでに終わっている。
冷蔵庫には、今日買った食材を入れれば十分な量が揃う。
つまり、明日はほぼ一日、好きなことに時間を使える。
「……よし」
彩葉は、少しだけ笑った。
新しい曲を作ろう。
イベントでほかの人たちの作品を聞いてから、試してみたいことがいくつもできた。
今度は、もう少し違った雰囲気にしてみようか。
そんなことを考えながら、住宅街へ入った。
そのときだった。
「……ん?」
彩葉は足を止めた。
少し先にある電柱が、妙な光を放っている。
赤。
青。
黄色。
緑。
さまざまな色が、次々と切り替わっていた。
「……は?」
思わず声が出た。
いやいや。
何、あれ。
電柱って、あんな光り方するものだったっけ。
彩葉は、しばらく眺めていた。
周囲を見回す。
誰も気にしていない。
いや、そもそも通行人がほとんどいない。
「……いや、おかしいでしょ」
どう見てもおかしい。
七色に光る電柱など、見たことがない。
最近は何でも光らせればいいというものではないだろうに。
……ゲーミング電柱?
頭に浮かんだ言葉が、あまりにも馬鹿馬鹿しくて、彩葉は自分で少し呆れた。
そのとき。
カタン。
小さな音がした。
電柱の表面に、細い線が浮かび上がっている。
彩葉は目を凝らした。
……扉?
どう見ても、扉だった。
電柱の一部が、縦に開いている。
そして、その内側から柔らかな光が漏れていた。
「……は?」
今日二度目の、間の抜けた声が出た。
電柱の中に扉。
そんなものがあるわけがない。
だが、現に目の前にある。
彩葉は、スーパーの袋を持ち直した。
近づかない方がいい。
普通に考えれば、そうだ。
こんな得体の知れないものに関わって、ろくなことになるはずがない。
そう思った。
思ったのだが。
開いた扉の向こうから、小さな声が聞こえた。
「……え?」
彩葉は足を止めた。
今のは、何だ。
もう一度、声がした。
赤ん坊の声だった。
「……いやいやいや」
彩葉は、思わず首を振った。
そんなわけがない。
電柱の中に赤ん坊がいるなんて、どう考えてもおかしい。
だが、声は確かに聞こえた。
彩葉は、ゆっくりと扉へ近づいた。
中を覗き込む。
そして、固まった。
「…………」
赤ん坊がいた。
小さな、小さな赤ん坊だった。
柔らかな光に包まれ、こちらを見上げている。
彩葉は、しばらく何も言えなかった。
頭の中では、疑問が次々と浮かんでくる。
何で?
誰の子?
どうして電柱の中に?
そもそも、この電柱は何?
警察に連絡するべき?
いや、何て説明すればいい?
七色に光る電柱の中に赤ちゃんがいました。
……駄目だ。
自分で言っていても意味が分からない。
彩葉は、眉間を押さえた。
「……どうなってんの、これ」
赤ん坊は、そんな彩葉をじっと見つめていた。
やがて、小さな手を伸ばしてきた。
「…………」
彩葉は、その手を見た。
本当に小さい。
少し力を入れただけで、傷つけてしまいそうだった。
こんな場所に、一人でいる。
誰が、何のために。
分からないことばかりだ。
だが、一つだけ確かなことがある。
この子を、このままにしておくわけにはいかない。
「……もう」
彩葉は、小さく息を吐いた。
スーパーの袋を足元へ置き、両手を伸ばす。
赤ん坊をそっと抱き上げた。
思っていたよりも、ずっと軽かった。
柔らかくて、温かい。
腕の中の赤ん坊は、彩葉の顔を見上げた。
そして、嬉しそうに笑った。
「…………」
彩葉は、何とも言えない気分になった。
本当に。
一体、何がどうなっているのやら。
それでも、赤ん坊の身体が冷えないよう、自分の上着を少し開いて包み込む。
小さな頭を支え、身体を引き寄せた。
七色の光が、二人を照らしている。
彩葉は、ゲーミング電柱の前で、その小さな命をそっと胸に抱いた。
これにてお終い。
そして新しい輪廻の始まり。