徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
かぐやを連れて帰った翌日から、俺の生活には喋るウミウシが加わった。
こう書くと自分でも意味が分からないが、実際そうなのだから仕方がない。
かぐやは俺の居所の、人目につきにくいところにいることになった。誰かが入ってくるときだけ黙ってもらえば、今のところ大きな騒ぎにはならない。
最初は数日もすれば、何か別の場所へ移すことになると思っていた。
ところが三日経っても、一週間経っても、かぐやは普通にいた。
俺も特に追い出さなかった。
「竹千代、おかえりー」
その日も手習いから戻ると、かぐやがいつもの調子で声をかけてきた。
「ただいま」
返事をしてから、自分でも妙だと思う。
数日前まで存在すら知らなかったウミウシに、今では普通に帰宅の挨拶をしている。
人間、案外何にでも慣れるらしい。
「今日何してたの?」
「手習い」
「てならい?」
聞き慣れないらしく、かぐやの声が少し上がった。
「字を書いたり、物を読んだりするんだよ」
「ああ、勉強ね」
「まあ、そんな感じ」
「最初からそう言ってよ」
「こっちじゃ手習いって言うんだ」
「知らないもん、そんなの」
それもそうだった。
かぐやがこの時代についてほとんど知らないことは、数日一緒にいればすぐに分かった。
駿府も知らない。今川も知らない。当然、松平なんて聞いたこともない。
逆に、俺の知らないことはかぐやが山ほど知っていた。
だから俺たちは、暇があれば話をした。
俺がこの時代のことを教えれば、かぐやも自分のことを少しずつ話した。
「それで結局、お前は何なんだ?」
何度目かの夜、俺は改めて聞いた。
昼間と違い、人の出入りが少ない。こういう話をするなら夜の方が都合がいい。
「かぐや」
「それは知ってる」
「あ、そっちじゃなくて?」
「そっちじゃない」
かぐやは少し考えた。
「説明すると長いよ?」
「じゃあ短いところからでいい」
「短いところかあ」
しばらく悩んだあと、かぐやは自分の身体を示すように動いた。
「まずね、私、元々はこんな姿じゃなかったの」
「やっぱりそうなのか」
「うん。普通に人だったよ」
それを聞いて少し安心した。
喋るウミウシという生き物がどこかに普通に存在する世界だったら、それはそれで困る。
「それで、いろいろあって今はこうなってる」
「その『いろいろ』が一番気になるんだけど」
「そこから話したら本当に長いって」
「じゃあ後でいい」
別に今夜中に全部聞かなければならないわけでもない。
「あと、私、ここで生まれたわけじゃないよ」
「それは何となく分かってた」
この辺りのことを何も知らないのだから、遠い土地から来たのだろう。
そう思って聞いた。
「どこから来たんだ?」
「月」
「…………月?」
予想していた距離を大幅に超えてきた。
思わず天井を見上げる。
当然、月は見えない。
「月って、空にある月か?」
「そうだよ」
さらっと言われた。
そこで、ようやく俺の中で何かがつながった。
かぐや。
月。
この二つが並んで、日本人なら一度くらい聞いたことがある話を思い出さない方が難しい。
「お前、本当にかぐや姫なのか?」
「かぐや姫?」
「月から来たかぐやって言ったら、それしかないだろ」
「ああ、竹取物語の?」
今度は俺が驚いた。
「知ってるのか?」
「知ってるよ。前に教えてもらった」
「誰に?」
「彩葉」
初めて聞く名前だった。
「じゃあ竹取物語のかぐや姫がお前なのか?」
「違う違う。私、竹から生まれてないし」
「今はウミウシだけどな」
「そこは関係ないでしょ!」
声が大きくなったので、慌てて静かにするよう手で示す。
かぐやも気づいたらしく、少し声を落とした。
どうやら竹取物語の本人というわけではないらしい。
それでも、かぐやという名前で月から来た少女というのは出来すぎている。
本人も初めて竹取物語を聞いたときは驚いたそうだ。
それから少しずつ、かぐやの昔話を聞くようになった。
といっても、本当に少しずつだ。
何しろ話が長い。
かぐや自身、どれほど長く生きてきたのか正確には分からないらしい。
そして話を聞いていると、妙な言葉がたびたび混ざった。
その決定打になったのが、ある日のことだった。
「写真があれば見せるの早いんだけどね」
何気なく言われて、俺は反射的に聞き返した。
「写真?」
「うん」
その瞬間、かぐやの反応が変わった。
「竹千代、写真知ってるの?」
しまったと思った。
この時代に写真はない。
俺が知っていること自体がおかしい。
「……知ってる」
誤魔化しても仕方がない。
「なんで?」
そう聞かれて、今度こそ言葉に詰まった。
自分が一度死んだこと。
前世の記憶を持ったまま、この時代に生まれたこと。
これまで誰にも話していない。
話して信じてもらえるとは思えなかったし、信じられても困る。
けれど目の前にいるのは、月から来た元人間の喋るウミウシだった。
こいつを相手に今さら常識を気にするのも、何か違う気がする。
それでも、口に出す直前には少し迷った。
一度言えば戻せない。
かぐやがどう受け取るかも分からない。
しばらく黙ったあと、俺は息を吐いた。
「俺も、この時代の人間じゃない」
「やっぱり!」
「やっぱりって、今分かったんだろ」
「細かいことはいいの。それで、竹千代も未来から来たの?」
「そこは少し違う」
俺は、覚えている範囲で前世の最後を話した。
目の前に車が迫ってきたこと。
そこで記憶が途切れたこと。
次に意識がはっきりしたときには、松平竹千代として生まれていたこと。
「死んだの?」
かぐやの声が急に真面目になった。
「たぶんな。衝突したところは覚えてないけど」
「それ、絶対大丈夫じゃなかったやつじゃん」
「まあ、その結果が今なんだろ」
そう言うと、かぐやはしばらく黙った。
「じゃあ、竹千代は生き直してるんだ」
「生き直してる?」
「一回終わったのに、また生きてるんでしょ?」
そんな考え方をしたことはなかった。
俺にとっては転生した、徳川家康になった、それだけだった。
「そういう言い方もあるか」
「あるある。だったら今度は長生きしないとね」
「それは俺もそう思ってる」
かなり本気でそう思う。
徳川家康は長生きした。
それは、この時代に来てから俺を安心させてくれている数少ない知識だった。
ただ、歴史上の家康が長生きしたからといって、俺まで自動的に同じ年まで生きられるとは思っていない。
無茶をして怪我をすれば死ぬかもしれないし、病気にかかることもある。食べ物だって現代ほど安全ではない。
だから怪我をしそうなことはなるべく避けるし、身体の調子がおかしければ無理をしない。できる範囲で食べ物にも気をつける。
大した医学知識があるわけではない。
それでも、自分で避けられる危険くらいは避けたい。
せっかく長生きするはずの徳川家康になったのに、俺自身の不注意で早死にしましたでは笑えない。
そんな話をしてから、俺とかぐやの会話は以前よりずっと増えた。
前世のことを話せる相手ができたのは、思っていた以上に気が楽だった。
そして、かぐやの話にはよく彩葉という名前が出てきた。
「また彩葉か」
ある夜、俺がそう言うと、かぐやは当然のように返した。
「だって彩葉と一緒にいたんだもん」
酒寄彩葉。
かぐやに竹取物語を教えた少女で、どうやらかぐやにとってかなり大切な人らしい。
最初はそれくらいの認識だった。
ところが話を聞けば聞くほど、俺の中で彩葉という少女の姿がおかしなことになっていった。
「その彩葉って、何歳なんだ?」
「十七歳」
「十七?」
思わず聞き返した。
「女子高生だよ」
女子高生。
それ自体は分かる。
俺も元は現代日本人なのだから。
だが、かぐやが話す彩葉は、俺の知っている普通の女子高生像から随分遠かった。
学校へ通いながら一人で暮らし、勉強もしながら働いていたという。それだけでも十分大変そうなのに、かぐやと出会ってからは彼女の世話までしていたらしい。
さらに、ツクヨミという場所では、かぐやと一緒に活動するために曲まで作っていた。
「待て。曲まで作れるのか?」
「作れるよ。彩葉の曲、すっごくいいんだから」
「お前、その子の話をすると急に自慢が始まるな」
「だってすごいもん」
否定できない。
話を聞く限り、勉強もできるし、生活能力も高い。働きながら一人暮らしをして、そのうえ音楽まで作る。
俺が高校生だった頃は、学校から帰って適当に過ごしていた記憶しかない。
比較すると悲しくなるので、それ以上は考えないことにした。
「それでね、ヤチヨカップにも優勝したんだよ」
「ヤチヨカップ?」
また知らない単語が出てきた。
かぐやから説明を聞く。
詳しい仕組みは俺にはよく分からなかったが、ツクヨミで活動する者たちが競い合う大きな催しらしい。
「どのくらい活動してから優勝したんだ?」
「彩葉と会ってから数か月くらいかな」
「数か月?」
「うん」
思わず黙った。
女子高生が学校へ通い、生活のために働き、一人暮らしをしながら家事をこなし、その合間に曲を作って、かぐやと活動を始めて、数か月で大会に優勝した。
さすがに盛ってないか。
そう思ってかぐやを見る。
「本当だよ?」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
どうやら本当らしい。
「……完璧超人では?」
思わずそう言うと、かぐやは嬉しそうに身体を揺らした。
「彩葉、すごいでしょ」
「お前が褒められたみたいに喜ぶな」
「いいじゃん」
ただ、何でも簡単にこなせる人間だったわけではないらしい。
かぐやの話を聞いていると、彩葉はむしろ自分で抱え込むところがあった。
出来るからやる。
やれるから頼らない。
その結果、無理をしてしまう。
「倒れたこともあるよ」
「完璧超人じゃなかった」
「そこ安心するとこ?」
「いや、むしろ安心したら駄目な話なんだけど」
ようやく人間らしい部分が出てきたと思っただけだ。
それでも、俺の中で彩葉という少女への評価が下がることはなかった。
むしろ、一人で何でも出来てしまうからこそ無理をするという話を聞くと、少しだけどんな人間だったのか想像できるようになった。
「会ってみたかったな」
何となくそう言うと、かぐやは少し間を置いた。
「竹千代と彩葉、意外と話合ったかも」
「そうか?」
「二人とも変なところで慎重だし」
「それ褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
怪しい。
それでも、彩葉の話をするかぐやは楽しそうだった。
だから俺も、聞くのは嫌ではなかった。
そうして、俺とかぐやの生活は続いた。
俺が外で何かを学んで戻れば、その話をする。かぐやも、昔のことや未来のことを話す。
同じ場所にいるのだから、わざわざ会う約束など必要ない。
気づけば朝も夜も、俺の生活のどこかにかぐやがいた。
そして年月が流れた。
俺にも、元服の日がやってきた。
松平竹千代から、松平次郎三郎元信へ。
名前が変わるというのは、思っていた以上に妙なものだった。
「元信様」
そう呼ばれて、一瞬だけ反応が遅れた。
危ない。
元服初日から自分の名前を聞き逃すところだった。
「何じゃ」
何食わぬ顔で返事をした。
こういうときは堂々としていれば案外どうにかなる。
前世の仕事でも、聞き逃した話を分かったような顔でやり過ごしたことくらいある。
あまり褒められた技術ではない。
その日の夜。
居所へ戻ると、かぐやがいつも通り声をかけてきた。
「竹千代、おかえり」
「俺、今日から元信なんだけど」
「知ってるよ」
「じゃあ元信って呼ばないのか?」
かぐやは少し考えた。
「竹千代でいいじゃん」
「俺の意見は?」
「竹千代は竹千代だもん」
どうやら変更する気はないらしい。
不思議なもので、周囲が元信と呼び始めたせいか、かぐやにまで元信と呼ばれる方が違和感があった。
「まあ、好きにしろ」
「じゃあ竹千代ね」
結局、それからも変わらなかった。
やがて俺は妻を迎えた。
瀬名。
今川家につながる娘で、俺との婚姻には当然、政治的な意味がある。
前世の感覚なら十代で結婚など早すぎるが、この時代では珍しくもない。
それより俺が気になったのは、瀬名という名前そのものだった。
徳川家康の妻。
俺のぼんやりした歴史知識にも、彼女と息子には後々何か大きな事件があった、という記憶が残っている。
ただ、細かいことが出てこない。
どうしてそうなったのか。
いつ起こったのか。
誰が関わったのか。
そこまで覚えていない。
未来を知っているのに、肝心なところで役に立たない。
実際に瀬名と話してみると、なおさら気持ちは複雑になった。
歴史の本なら「家康の正室」と一言で済む。
目の前にいるのは、当然そんな一言で終わる人間ではない。
話せば返事をするし、笑うこともある。
それを見ていると、将来この人に何かが起きるとだけ知っている状況は、妙に落ち着かなかった。
「竹千代、結婚したんだって?」
かぐやにはすぐに知られた。
「したよ」
「どんな人?」
「普通にいい人だ」
「可愛い?」
「……まあ」
「可愛いんだ?」
妙に楽しそうだった。
「何でお前が喜ぶんだよ」
「竹千代がそういうこと言うの面白いから」
「俺を何だと思ってるんだ」
前世も含めれば普通に成人男性である。
女性を見て何も思わないわけではない。
ただ、今の俺には別の問題もあった。
歴史を知っている。
けれど、詳しくは知らない。
その曖昧さが、この頃から少しずつ怖くなり始めていた。
そして俺は、元信から元康へ名を改めた。
さらに時が過ぎ、とうとう戦場へ出ることになった。
初陣である。
寺部城を攻めると聞かされ、俺はまず前世の記憶を探った。
何も出てこない。
寺部城。
知らない。
桶狭間や関ヶ原なら分かる。
三方ヶ原で家康が武田信玄に負けたことも知っている。
だが、寺部城と言われても、俺の知識には引っかからなかった。
つまり今回、未来知識は何の役にも立たない。
実際の戦場は、想像していたよりずっと落ち着かなかった。
人の声も、武具の音も大きい。
味方がどこにいて敵がどう動いているのか、全部を一度に把握するなんて無理だ。
そして何より、怖かった。
当然だ。
本物の戦なのだから。
徳川家康はここでは死なないはずだ、と頭では考える。
だが、だからといって刀が当たらなくなるわけではない。
俺が余計なことをして前に出れば、普通に死ぬかもしれない。
それが分かるから、無茶はしなかった。
分からないことは家臣の意見を聞いた。
自分だけで何でも判断できると思わないようにした。
未来人だからといって、戦国武将としての経験まで前世から持ってきたわけではない。
俺に出来ることをやるしかない。
そして、初陣は勝利に終わった。
帰った俺を見て、かぐやが最初に言ったのは戦の結果ではなかった。
「怪我してない?」
「してない」
「ほんと?」
「見れば分かるだろ」
かぐやは俺の周りを確認するように動いてから、ようやく安心した声を出した。
「よかった」
その一言を聞いて、俺も少しだけ力が抜けた。
戦場を離れてからも、身体のどこかにずっと力が入っていたらしい。
「どうだった?」
「戦か?」
「うん」
少し考えた。
武将らしい立派な言葉でも出れば格好がつくのだろう。
残念ながら、そんなものは浮かばなかった。
「できれば、もう行きたくない」
かぐやが少し笑った。
「でもまた行くんでしょ?」
「たぶんな」
俺は松平の当主で、今川に仕える武将だ。
嫌だから行かない、では済まない。
「じゃあ、ちゃんと帰ってきてね」
「できるだけな」
「そこは絶対って言うところじゃない?」
「戦で絶対なんて言えるか」
「じゃあ、絶対に近いくらい」
「何だそれ」
思わず笑った。
元服した。
妻を迎えた。
戦にも出た。
気がつけば、俺は歴史の中で知っていた徳川家康へ、少しずつ近づいていた。
そして俺が知っている歴史なら、この先には一つ、大きな出来事がある。
桶狭間。
今川義元が織田信長に敗れ、死ぬ戦いだ。
昔の俺にとって、今川義元はその程度の人間だった。
桶狭間で死ぬ人。
けれど今は違う。
俺は今川の中で何年も暮らしてきた。
駿府で多くの人間と関わった。
義元も、歴史の一行ではなく、この時代で生きている一人の人間だ。
それでも、俺の知っている歴史では死ぬ。
いつだったかは、もう近いはずだ。
その死を境に、松平元康の人生は大きく変わる。
そしてたぶん。
俺の知っている歴史が、本当にそのまま続くのかどうかを試されるのも、そこからなのだと思う。