徳川家康になったら喋るウミウシと出会った   作:しそ

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元服への道

「竹千代様、もう少しじっとしていただけませぬか」

 

「動いてはおらぬつもりだが」

 

「先ほどから何度も身をよじっておいでです」

 

そう言われても、苦しいものは苦しい。

 

新しく仕立てられた衣は、普段着ているものより随分と窮屈だった。少し身動きするだけで腰の辺りが引っ張られるし、締め直されるたびに息まで詰まりそうになる。

 

「もう少し緩められぬか?」

 

「これ以上は見栄えが悪うございます」

 

「少しくらい構わぬだろう」

 

「そういうわけには参りませぬ。大切なご元服を控えておいでなのですから」

 

それを言われると弱い。

 

俺は仕方なく両腕を広げ、されるがままになった。

 

駿府へ来てから、何年かが過ぎた。

 

あの頃はまだ幼かった俺も、今では数えで十四になる。背も伸びたし、以前より身体もしっかりしてきた。ついこの間まで子供だった気がするのに、周囲からはそろそろ大人としての振る舞いを求められるようになっている。

 

そして、いよいよ元服である。

 

徳川家康が今川義元のもとで元服したことは、前世でも何となく知っていた。

 

ただ、実際に自分がその立場になると、思っていた以上に準備が面倒だった。

 

衣を用意するだけでは済まない。当日の作法を覚え、段取りを聞き、会う者からは元服について何度も声をかけられる。

 

昨日など、同じ話を三度も聞かされた。

 

もちろん、それだけ大切な儀式なのだろう。

 

分かってはいるのだが、当の本人としては、何年も前から手習いや武芸の稽古を続けているわけである。元服したからといって、明日から急に何かができるようになるわけでもない。

 

「若君も、ようやくご元服でございますな」

 

衣の具合を確かめていた男が、感慨深そうに言った。

 

幼い頃から身の回りの世話をしてくれている者である。

 

「岡崎の者たちも、さぞ喜びましょう」

 

「そうだとよいが」

 

「何を仰います。これで松平の家も、いよいよ……」

 

男はそこで言葉を切り、俺の衣の裾を整え直した。

 

先ほどまで窮屈だと言い合っていたときとは違い、その顔には嬉しそうな笑みが浮かんでいた。

 

この男にとって、俺の元服は単に一人の子供が大人になるという話ではないらしい。

 

岡崎を離れて久しい。

 

俺自身、三河で暮らした頃の記憶はもう随分と薄くなっている。それでも、こうして松平の家を気にかけ、俺が元服する日を待っていた者たちがいる。

 

「……そうだな」

 

俺が頷くと、男は満足そうに頭を下げた。

 

その後も何度か衣を直され、ようやく解放されたのは、しばらく経ってからのことだった。

 

部屋へ戻ると、真っ先に襟元を緩めた。

 

「あー、疲れた」

 

「お疲れさまー!」

 

文箱の陰から、聞き慣れた声が返ってきた。

 

かぐやである。

 

数年前、寺の庭で拾った喋るウミウシは、今も変わらず俺の居所にいた。

 

最初の頃は互いに知らないことばかりだったが、何年も一緒に過ごしていれば、さすがに慣れる。

 

今では俺が部屋に戻るなり話しかけてくるし、こちらも特に構えず返事をするようになっていた。

 

「今日は随分と大人しかったな」

 

「そりゃそうでしょ。人がいっぱいいたし」

 

「前は人がいても喋りかけてきただろ」

 

「あれは最初の頃じゃん。私だって学習するんですー」

 

「はいはい、偉い偉い」

 

「何その適当な褒め方!」

 

かぐやが抗議してきた。

 

俺は笑いながら座り込み、窮屈だった衣を脱ぐ。

 

すると、かぐやが興味深そうに声を上げた。

 

「あっ、もう脱いじゃうの?」

 

「そりゃ脱ぐよ。暑いし、動きにくいし」

 

「えー、せっかく似合ってたのに!」

 

「そうか?」

 

「うん! ちゃんと偉そうだった!」

 

「それ褒めてる?」

 

「褒めてる褒めてる!」

 

本当だろうか。

 

まあ、似合っていると言われて悪い気はしない。

 

「そういえばさ、竹千代」

 

「ん?」

 

「明日から名前変わるんだっけ?」

 

「ああ。元信って名前になるんだよ」

 

「もとのぶ?」

 

「そう。松平次郎三郎元信」

 

「うわ、長っ!」

 

即座に返ってきた感想に、俺は笑ってしまった。

 

「まあ、普段から全部名乗るわけじゃないけどな」

 

「だよねー。毎回それ全部言ってたら大変そう」

 

「呼ぶ方も面倒だろうし」

 

「でも、元信かぁ……」

 

かぐやは何度か新しい名前を繰り返した。

 

「もとのぶ、もとのぶ……うーん」

 

「何だよ」

 

「いや、変な名前ってわけじゃないんだけどさ。竹千代の方がしっくりくるなーって」

 

「そりゃ何年もそう呼んでたからだろ」

 

「それもある!」

 

それから、かぐやはあっさりと言った。

 

「じゃあ、私は今まで通り竹千代って呼ぶね!」

 

「え、元信じゃなくて?」

 

「うん!」

 

「せっかく新しい名前になるのに?」

 

「だって、竹千代は竹千代じゃん」

 

随分と雑な理由である。

 

「……まあ、別にいいけどさ」

 

「いいんだ?」

 

「お前にまで改まって呼ばれても、何か変な感じがするし」

 

「あはは! 確かに!」

 

かぐやは楽しそうに笑った。

 

考えてみれば、俺自身も新しい名前にはまだ慣れていない。

 

前世では生まれてから死ぬまで同じ名前を使っていたのに、今度の人生では成長するにつれて何度も名前が変わる。

 

武家では別に珍しいことではないし、俺もこの時代で育った以上、そういうものだと理解している。

 

だが、理解していることと、自分が実際にそうなることは別だった。

 

「でもさ、竹千代」

 

「何?」

 

「元信って名前、誰が決めたの?」

 

「今川義元様だよ。名前に『元』の字をいただくんだ」

 

「あー、あの偉い人!」

 

「そうそう」

 

かぐやの前では、今川家の当主も随分と簡単な呼び方になる。

 

もっとも、かぐやは義元に直接会ったことがない。俺から話を聞いて知っているだけなので、仕方がないのかもしれない。

 

「じゃあさ、結構すごいことなんじゃない?」

 

「まあ、そうだな。ありがたいことだよ」

 

「へえー。よかったじゃん!」

 

「うん」

 

俺は畳んだ衣へ目を向けた。

 

今川義元から一字を与えられる。

 

松平家の跡取りとして、正式に大人の仲間入りをする。

 

それは、俺が今川家の中でどういう立場にあるのかを、改めて示すことでもあった。

 

これまでは子供だからと許されていたことも、今後はそうはいかなくなるだろう。

 

いずれ戦にも出ることになる。

 

史実の家康がいつ初陣を迎えたのか、正確には覚えていない。だが、元服してからいつまでも駿府で手習いを続けていられるとは思えなかった。

 

「竹千代?」

 

かぐやの声で顔を上げた。

 

「何か難しい顔してるよ?」

 

「ん? ああ、ちょっと考え事してた」

 

「明日のこと?」

 

「それもあるけど……元服したら、今までみたいにはいかないんだろうなって」

 

「そっかぁ」

 

かぐやは少し考えてから尋ねてきた。

 

「竹千代は嫌なの?」

 

「元服が?」

 

「うん」

 

「嫌ってわけじゃないよ。いつまでも子供のままってわけにもいかないし」

 

「ふーん」

 

「ただ、面倒事は増えそうだなとは思ってる」

 

「それはありそう!」

 

かぐやが笑った。

 

「竹千代、そういうの苦手だもんね」

 

「苦手っていうか、できれば面倒なことは少ない方がいいだろ」

 

「でも、結局ちゃんとやるじゃん」

 

「やらないともっと面倒になるからな」

 

「あはは! それもそうだ!」

 

かぐやは納得したらしい。

 

俺は衣を片づけ、座り直した。

 

「そういえば、かぐや」

 

「なーに?」

 

「お前は昔、元服みたいな儀式を見たことあるのか?」

 

「あるよー。似たようなのも含めたら、結構いっぱい!」

 

「へえ。やっぱり大変だった?」

 

「んー、人によるかな。すっごく緊張してる子もいたし、早く終わらないかなーって顔してる子もいたし」

 

「それ、今の俺じゃん」

 

「そうそう!」

 

楽しそうに笑われた。

 

「でも、衣装を着てはしゃいでる子もいたよ。竹千代ももうちょっと喜んだら?」

 

「いや、嬉しくないわけじゃないんだけどさ」

 

「じゃあ明日はもっと嬉しそうな顔しなよ!」

 

「顔まで指定されるのか……」

 

「せっかくだし!」

 

相変わらず気楽なものである。

 

もっとも、かぐやは明日の儀式に出席するわけではない。

 

俺がどれだけ緊張していても、こうして好き勝手に言えるわけだ。

 

「かぐやも一回、あの衣を着てみれば分かるよ。結構大変なんだから」

 

「えー、私には大きすぎるでしょ!」

 

「じゃあ小さく仕立ててもらうか?」

 

「えっ、いいの!?」

 

予想外に食いつかれた。

 

「いや、冗談だって」

 

「何だー。ちょっと着てみたかったのに」

 

「……着たいのか?」

 

「うん! 面白そうじゃん!」

 

ウミウシが元服の衣を着ているところを想像してしまった。

 

似合うのだろうか。

 

そもそも、どうやって着せるんだ。

 

「竹千代、何笑ってるの?」

 

「いや、お前があの服着たところ想像してた」

 

「えー! 絶対可愛いじゃん!」

 

「そうかなあ」

 

「そうだよ!」

 

本人は随分と自信があるらしい。

 

俺はしばらく笑っていたが、ふと、かぐやが最初に言っていたことを思い出した。

 

元服する俺を見て、大きくなったと言っていたことだ。

 

「そういえば、俺も随分大きくなったよな」

 

「急にどうしたの?」

 

「いや、最初に会った頃と比べてさ」

 

「あー! そうだね!」

 

かぐやは声を弾ませた。

 

「最初はもっとちっちゃかったもんね。あのときなんか、枝で私を突っつこうとしてたし!」

 

「まだ覚えてるのかよ」

 

「忘れるわけないじゃん!」

 

「悪かったって、何回謝ればいいんだ」

 

「あはは!」

 

何年も前の話なのに、かぐやは今でも時々持ち出してくる。

 

俺としてはそろそろ忘れてほしいのだが、本人はそうするつもりがないらしい。

 

「でも、本当に大きくなったよね」

 

「そりゃ成長期だからな」

 

「成長期かぁ。いいねー!」

 

何がいいのか聞こうとして、やめた。

 

かぐやの身体は、出会った頃からほとんど変わっていない。

 

本人は別に気にしていないようだが、こちらからあれこれ言うことでもないだろう。

 

「そうだ、竹千代!」

 

「今度は何?」

 

「さっきの服、もう一回着てよ!」

 

「え?」

 

「ちゃんと正面から見たい!」

 

「いや、もう脱いだんだけど」

 

「お願い! ちょっとだけ!」

 

「明日着るだろ。今日はもういいって」

 

「えー、明日は私、見られないじゃん!」

 

それはそうだった。

 

明日の元服には、当然ながらかぐやを連れていけない。

 

部屋に置いていくことになる。

 

「……そんなに見たい?」

 

「見たい!」

 

即答だった。

 

俺は畳んだ衣を見た。

 

さっきまで散々苦しい思いをして、ようやく脱いだばかりである。

 

できればもう着たくない。

 

しかし、かぐやは期待した様子で待っている。

 

「……少しだけだからな」

 

「やった!」

 

結局、もう一度袖を通すことになった。

 

一人で着られる範囲まで身につけ、かぐやの前に立ってみせる。

 

「どう?」

 

「おおー!」

 

かぐやが声を上げた。

 

「いいじゃん、竹千代! かっこいい!」

 

「そうか?」

 

「うん! 何か偉い人みたい!」

 

「一応、松平家の跡取りなんだけどな」

 

「知ってる知ってる!」

 

あまりありがたみのない返事だった。

 

ただ、かぐやはしばらく俺の姿を眺めていた。

 

その後、満足したのか、ようやく「もういいよ!」と言ってくれた。

 

俺はさっさと衣を脱ぐ。

 

「はあ、やっぱりこっちの方が楽だな」

 

「お疲れさまー!」

 

「お前は見てるだけだからいいよな」

 

「えへへ!」

 

まったく、気楽なものである。

 

俺は脱いだ衣を丁寧に畳み直した。

 

明日は、これを着て元服に臨むことになる。

 

少し面倒だが、いつまでも子供でいるわけにもいかない。

 

松平元信。

 

まだ自分の名前という感じはしないが、そのうち慣れるだろう。

 

「ねえ、竹千代」

 

「ん?」

 

「明日、帰ってきたら元服の話聞かせてね!」

 

「いいよ。どうせ話すほど面白いことはないと思うけど」

 

「いいのいいの! 竹千代がどうだったか知りたいし!」

 

「分かった。帰ったら話すよ」

 

「約束ね!」

 

「はいはい」

 

かぐやは満足そうに笑っていた。

 

俺は畳んだ衣を脇へ寄せ、明日の段取りを記した書付を手に取った。

 

まだ覚えておかなければならないことが残っている。

 

しばらく目を通していると、文箱の方から小さな声が聞こえた。

 

「……竹千代」

 

「何?」

 

「さっきの服、やっぱりもう一回――」

 

「着ないからな」

 

「まだ最後まで言ってないじゃん!」

 

俺は笑いながら、書付へ目を戻した。

 

◇

 

翌朝、俺はいつもより早く目を覚ました。

 

別に緊張して眠れなかったわけではない。むしろ、昨夜は早めに布団へ入ったおかげで、十分に眠れたと思う。

 

ただ、朝から人の出入りが多かった。

 

「竹千代様、お支度を」

 

そう声をかけられ、布団から起き上がる。

 

昨日散々着せられた衣が、きちんと用意されていた。

 

あれをまた着るのか。

 

仕方ないとは分かっているが、できればもう少し動きやすいものにしてほしい。もっとも、そんなことを言ったところで聞き入れてもらえるとも思えなかった。

 

大人しく着替えを始める。

 

その間、文箱の方は静かだった。

 

かぐやも、さすがに今日が大切な日だということは理解しているらしい。

 

支度を整え、部屋を出る直前。

 

誰もこちらを見ていない隙に、文箱へ目を向けた。

 

すると、蓋の陰から小さな身体が覗いた。

 

口を動かすような仕草が見える。

 

声は出さない。

 

代わりに、身体をぴょこんと持ち上げてみせた。

 

何となく、頑張れと言われている気がした。

 

俺は軽く頷き、迎えに来た者の後について部屋を出た。

 

◇

 

元服の儀式は、俺が思っていたよりも緊張するものだった。

 

いや、緊張しない方がおかしいのかもしれない。

 

今川義元。

 

駿河、遠江、三河に大きな影響力を持つ戦国大名であり、現在の俺の主君となる人物である。

 

そして、前世の知識によれば、数年後には桶狭間で討ち死にする人物でもあった。

 

その義元の前に、俺は座っていた。

 

こういう場面になると、どうしても前世の知識が頭をよぎる。

 

桶狭間。

 

織田信長。

 

今川義元の敗死。

 

ただし、俺が知っているのは大まかな結果だけだ。

 

正確な日付も、合戦に至る詳しい経緯も分からない。

 

何より、今はそんなことを考えている場合ではなかった。

 

「竹千代」

 

呼びかけられ、顔を上げる。

 

目の前の義元は、俺が昔テレビで見たことのある、いかにも公家風の大名という印象とは少し違っていた。

 

話す言葉は落ち着いているが、こちらを見定めるような目には妙な迫力がある。

 

この人が、今川家を率いているのか。

 

俺は姿勢を正した。

 

その後、教えられたとおりに儀式を進めた。

 

少しでも間違えれば恥をかくのではないかと気を揉んでいたが、幸い、大きな失敗はしなかった。

 

そして、俺は新しい名前を与えられた。

 

松平次郎三郎元信。

 

今川義元から「元」の一字をいただいたのである。

 

「この名に恥じぬ働きをいたせ」

 

義元の言葉に、俺は頭を下げた。

 

「ありがたき幸せに存じます」

 

用意していた言葉だった。

 

それでも、実際に口にすると、思っていたより重く感じられた。

 

名前をもらう。

 

ただそれだけのことではない。

 

これから俺は、松平元信として今川家に仕えることになる。

 

松平家の跡取りであると同時に、今川家の家臣でもある。

 

今までもそういう立場ではあったが、元服によって、それがよりはっきりした形になった。

 

俺が頭を下げている間にも、周囲では儀式が進んでいく。

 

顔を上げたとき、義元はすでに別の者へ視線を移していた。

 

俺にとっては人生の節目でも、義元にとっては数ある政務の一つなのだろう。

 

そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。

 

◇

 

「ただいま」

 

「おかえりー! 竹千代!」

 

部屋へ戻るなり、聞き慣れた声がした。

 

人の気配がなくなるのを待っていたらしい。

 

「どうだった!? 元服!」

 

「無事に終わったよ」

 

「おおー! おめでとう!」

 

「ありがとう」

 

俺が腰を下ろすと、かぐやは文箱から身体を乗り出した。

 

「で、で! どんな感じだった?」

 

「どんな感じって……昨日教えたとおりだよ。義元様の前で儀式をして、名前をいただいて」

 

「うんうん!」

 

「それで終わり」

 

「えー、それだけ?」

 

「いや、他にもいろいろあったけど、話して面白いようなことじゃないぞ」

 

「いいじゃん、聞かせてよ!」

 

結局、俺は朝からの出来事を一通り話して聞かせることになった。

 

衣の着付けに時間がかかったこと。

 

教わった作法を間違えないよう気をつけたこと。

 

義元の前では、思った以上に緊張したこと。

 

かぐやは時々口を挟みながら、楽しそうに聞いていた。

 

「へえー! 竹千代でも緊張するんだ」

 

「そりゃするだろ。大勢の前で失敗したら恥ずかしいし」

 

「何か意外!」

 

「何でだよ」

 

「だって竹千代、普段はあんまり慌てないじゃん」

 

「お前がしょっちゅう騒ぐから、慌てる暇がないだけじゃない?」

 

「えっ、私のせい!?」

 

「半分くらいは」

 

「ひどーい!」

 

かぐやが笑った。

 

俺もつられて笑う。

 

儀式の間はずっと気を張っていたせいか、こうして話していると随分と楽だった。

 

「それにしても、元信かぁ」

 

かぐやが呟いた。

 

「何だよ、まだ気になるの?」

 

「んー、何となくね。竹千代が違う名前になっちゃったんだなーって」

 

「別に中身が変わるわけじゃないよ」

 

「分かってるって!」

 

かぐやは少し考えてから、得意げに言った。

 

「じゃあ、これからは元信様って呼んであげようか?」

 

「絶対からかってるだろ」

 

「元信様ー!」

 

「やめろって」

 

「松平元信様ー!」

 

「はいはい、何でしょうか」

 

わざと丁寧に返してやると、かぐやは声を上げて笑った。

 

「似合わなーい!」

 

「言い出したのお前だろ」

 

「だって竹千代は竹千代だもん!」

 

結局、そこに戻るらしい。

 

まあ、いい。

 

これから先、家臣たちに何と呼ばれるようになろうと、かぐやまで改まる必要はない。

 

「じゃあ、今までどおりでいいよ」

 

「うん!」

 

それで話は終わった。

 

かぐやは早速、今日の夕餉について尋ねてきた。

 

元服の話はもういいのだろうか。

 

随分と切り替えが早い。

 

ただ、俺としても、いつまでも儀式の話を続けるよりは気楽だった。

 

◇

 

元服を済ませたからといって、翌日から生活が一変したわけではなかった。

 

朝になれば起きるし、手習いや武芸の稽古も続く。

 

かぐやは相変わらず騒がしい。

 

新しい名前にも、しばらくは慣れなかった。

 

「元信様」

 

そう呼ばれても、最初のうちは自分のことだと気づくまで一拍かかる。

 

さすがに何度か繰り返されれば慣れたが、かぐやが横から「竹千代」と呼んでくるものだから、時々おかしな気分になった。

 

しかし、変化がなかったわけではない。

 

まず、家臣たちの態度が少し変わった。

 

以前から俺を松平家の跡取りとして扱ってはいたものの、元服してからは、三河のことについて意見を求められる機会が増えたのである。

 

もちろん、まだ俺一人で何かを決められるわけではない。

 

岡崎には今川方の人間もいるし、松平家の家臣たちにもそれぞれの事情がある。

 

それでも、俺の言葉が以前より重く受け取られるようになったのは確かだった。

 

ある日、三河から届いた話について、年長の家臣と相談していたときのことである。

 

「殿は、いかがなさるおつもりで?」

 

いきなり尋ねられた。

 

俺は手元の書付を見た。

 

土地を巡る争いについての報告だった。

 

互いの言い分は書かれているが、肝心なところがよく分からない。そもそも、俺はその土地へ行ったことさえない。

 

「……双方の言い分は聞いたのか?」

 

「片方からは使いが参っております。もう一方は、いまだ」

 

「ならば、そちらの話も聞いてからにしよう。今ここで決めても、後で揉めるやもしれぬ」

 

家臣はしばらく黙った。

 

何かまずいことを言っただろうか。

 

少し不安になったところで、男が頭を下げた。

 

「ごもっともにございます」

 

いや、別に大したことは言っていない。

 

片方の話だけで決めるのは危ないという、ごく普通の判断である。

 

しかし、家臣は妙に感心した様子だった。

 

「若くして、よくお考えでございますな」

 

「……そうか?」

 

「はっ」

 

そんなことを言われても困る。

 

俺としては、知らないことを無理に決めたくなかっただけなのだ。

 

もっとも、それを正直に言うのもどうかと思い、曖昧に頷いておいた。

 

後でかぐやに話すと、案の定笑われた。

 

「竹千代、また褒められたの?」

 

「笑い事じゃないって。あんまり期待されても困るんだよ」

 

「でも、ちゃんと考えて答えたんでしょ?」

 

「そりゃ、適当なこと言って揉めたら嫌だし」

 

「だったらいいじゃん!」

 

「お前は気楽でいいよな」

 

「えへへー!」

 

褒めていないのだが。

 

それでも、こういうことが増えてくると、さすがに自覚せざるを得なかった。

 

松平家の跡取り。

 

その言葉は、ただ周囲から大切に扱われるという意味ではないらしい。

 

俺の判断を待っている人間がいる。

 

面倒な話だが、何も考えずに済ませるわけにもいかなかった。

 

◇

 

元服からさらに時が過ぎた頃、婚姻の話が持ち上がった。

 

相手は関口家の娘。

 

今川家につながる家の姫君である。

 

名前は瀬名というらしい。

 

……とうとう来たか。

 

前世の知識が、久しぶりに役立った。

 

徳川家康の正室といえば築山殿。

 

確か、今川家に縁の深い女性だったはずである。

 

そして、後に息子とともに命を落とす人物でもあった。

 

ただし、俺が知っているのはその程度だった。

 

どうして死ぬことになったのか。

 

何が原因だったのか。

 

詳しいことは覚えていない。

 

そもそも、築山殿という名前は知っていても、瀬名という女性がどんな人物だったのかは分からなかった。

 

俺がそんなことを考えている間にも、婚姻の話は進んでいった。

 

当然ながら、俺に拒否するつもりはない。

 

今川家の一門につながる家から妻を迎えるというのは、松平家にとって大きな意味がある。

 

何より、この時代の婚姻は当人同士が好きだから結婚する、という話ばかりではないのだ。

 

前世の感覚が残っている俺としては、少し複雑ではあった。

 

しかし、ここで変に抵抗しても仕方がない。

 

相手がどんな人なのか、まずは会ってみることにした。

 

◇

 

初めて瀬名と言葉を交わしたとき、俺は少し意外に思った。

 

もっと大人しい女性を想像していたのである。

 

別に、瀬名が騒がしかったわけではない。

 

礼儀正しく、物腰も落ち着いていた。

 

ただ、こちらの言葉を聞く目がしっかりしていた。

 

「松平殿は、駿府での暮らしが長いそうですね」

 

「はい。幼い頃からお世話になっております」

 

「三河へお戻りになりたいとは思われませんか?」

 

いきなり、少し答えにくい質問だった。

 

周囲には人もいる。

 

ここで迂闊なことを言えば、今川家への不満と受け取られかねない。

 

「……故郷を懐かしく思うことはございます。ただ、今は駿府での務めを果たすことが大切だと考えております」

 

我ながら無難な答えである。

 

すると、瀬名は少しだけ口元を緩めた。

 

「そうでございますか」

 

それ以上は何も言わない。

 

しかし、どうやらこちらの答えをただ聞き流したわけではないらしい。

 

「瀬名殿は、駿府を離れたいと思われることは?」

 

尋ね返すと、瀬名は俺を見た。

 

「私が、ですか?」

 

「はい」

 

「……考えたことがないわけではございません」

 

少し間を置いて、続ける。

 

「ですが、生まれ育った土地を離れるとなれば、何かと心細いものでしょうね」

 

その返事を聞いて、少し考えた。

 

俺は岡崎で生まれ、尾張へ移され、今は駿府で暮らしている。

 

幼い頃から何度も住む場所が変わった。

 

だからといって、誰もが同じように慣れられるわけではない。

 

瀬名にとって、駿府は生まれ育った土地なのだ。

 

そして、これからは松平家に嫁ぐことになる。

 

「……できる限り、不自由のないようにしたいと思っています」

 

そう答えると、瀬名は少し驚いたようだった。

 

「ありがとうございます」

 

それから、付け加えた。

 

「ですが、私も関口の家の娘でございます。嫁いだ先で何もせず、ただ大切にされているつもりはございません」

 

なるほど。

 

どうやら、こちらが思っていた以上にしっかりした女性らしい。

 

「それは頼もしいですね」

 

俺がそう言うと、瀬名は今度こそ少し笑った。

 

その笑顔を見て、ようやく年相応の女性と話している気がした。

 

◇

 

婚姻を済ませてから、俺の生活には瀬名が加わった。

 

当然ながら、最初から何でも気軽に話せるようになったわけではない。

 

互いに知らないことが多すぎるのだ。

 

瀬名は俺の好みを知らないし、俺も瀬名が何を好むのか知らない。

 

それでも、一緒に過ごす時間が増えれば少しずつ分かってくることもある。

 

例えば、瀬名は書物を読むのが好きだった。

 

ただし、何でも大人しく聞いているわけではない。

 

俺が読んでいたものについて、時折鋭い質問をしてくる。

 

ある日など、書物の内容について尋ねられ、俺はまともに答えられなかった。

 

「殿は、こちらをどうお考えですか?」

 

「……少し難しいところだな」

 

「そうでございますね」

 

瀬名は頷いた。

 

その後、俺がもう一度書物へ目を落とすと、隣から声がした。

 

「ですが、先ほどは分かったようなお顔をなさっておいででした」

 

……見られていた。

 

「そんな顔をしていたか?」

 

「はい」

 

何とも言えない気分になった。

 

しかし、瀬名はからかっているというより、純粋に面白がっているようだった。

 

「分からぬところは、分からぬと言う方がよいのかもしれぬな」

 

「では、私もそういたします」

 

「そうしてくれ」

 

二人で少し笑った。

 

こんなやり取りができるようになるまでには、それなりに時間がかかった。

 

だが、悪いものではなかった。

 

前世では結婚どころか、まともに将来のことを考えていたかどうかも怪しい。

 

それが今では妻がいる。

 

しかも、自分はまだ十代である。

 

人生というのは本当に分からない。

 

もっとも、そんな話をかぐやにすると、随分と楽しそうに笑われた。

 

「竹千代、結婚おめでとー!」

 

「ありがとう。……今さらだけどな」

 

「だって、ちゃんと言う機会なかったじゃん!」

 

「まあ、そうだな」

 

「で、瀬名ちゃんってどんな人?」

 

「どんな人って……しっかりした人だよ」

 

「へえー!」

 

「俺よりちゃんとしてるかもしれない」

 

「それはそうかも!」

 

「おい」

 

即答することはないだろう。

 

「でもさ、よかったじゃん!」

 

「何が?」

 

「仲良くできそうなんでしょ?」

 

「まあ、今のところはね」

 

「ならよかった!」

 

かぐやは満足そうだった。

 

もっとも、瀬名にかぐやの存在を教えるつもりは、今のところなかった。

 

教えてしまった方が楽なこともあるかもしれない。

 

しかし、秘密というのは、知る人間が増えれば増えるほど守るのが難しくなる。

 

何より、瀬名を余計な面倒事に巻き込みたくなかった。

 

幸い、かぐやもその辺りは理解しているらしい。

 

瀬名や他の者がいるときには、決して姿を見せようとしなかった。

 

ただ、一つだけ困ったことがあった。

 

「ねえ、竹千代」

 

「ん?」

 

「瀬名ちゃんって可愛い?」

 

「……何でそんなこと聞くんだよ」

 

「気になるじゃん!」

 

「まあ、綺麗な人だよ」

 

「へえー!」

 

かぐやは少し考えた後、楽しそうに言った。

 

「じゃあ、竹千代は幸せ者だね!」

 

「……そうだな」

 

否定する理由はなかった。

 

まだ夫婦になったばかりで、互いに遠慮もある。

 

それでも、瀬名と過ごす時間は決して嫌なものではなかった。

 

いつか三河へ戻ることになったとき、彼女はどうするのだろう。

 

そんなことを考えるようになったのも、結婚してからだった。

 

以前の俺なら、自分がいつ岡崎へ戻れるかばかり気にしていたはずなのに。

 

◇

 

その後、俺はもう一度名前を変えることになった。

 

松平元康。

 

今川義元からいただいた「元」の字はそのままに、祖父である松平清康の「康」を取った名前である。

 

祖父は、若くして三河に大きな勢力を築いた武将だったという。

 

もっとも、俺が知っているのは周囲から聞いた話ばかりだった。生まれる前に亡くなっているので、当然ながら会ったこともない。

 

それでも、松平家の家臣たちにとっては特別な人物らしい。

 

改名の話を伝えたときも、年長の家臣たちは随分と喜んでいた。

 

「清康様の御名を継がれるとは、まことに喜ばしきことにございます」

 

そんなふうに言われると、少し気恥ずかしい。

 

俺としては、元信という名前にようやく慣れてきたところだったのだ。

 

それがまた変わるのだから、何とも忙しい人生である。

 

「えっ、また名前変わるの?」

 

当然ながら、かぐやにも驚かれた。

 

「そうなんだよ。今度は元康」

 

「もとやす?」

 

「うん」

 

「元信になってから、そんなに経ってなくない?」

 

「まあ、そうだな」

 

「へえー。竹千代って大変だね!」

 

「お前は名前変えなくていいから気楽だよな」

 

「えー、私だっていろいろあったんだよ?」

 

「そうなの?」

 

「そりゃもう、いろいろ!」

 

何だか気になる言い方だった。

 

しかし、かぐやはそれ以上詳しく話そうとしなかった。

 

代わりに、いつものように「竹千代」と呼んでくる。

 

どうやら、俺が何度名前を変えようと、かぐやには関係ないらしい。

 

まあ、別にいい。

 

それよりも、この頃の俺には、名前のことなど気にしていられない問題が持ち上がっていた。

 

初陣である。

 

◇

 

永禄元年。

 

今川家から離反し、織田方へ通じた寺部城の鈴木氏を攻めることになった。

 

その役目を、俺が任されたのである。

 

もちろん、何の準備もなく突然放り出されたわけではない。

 

今川家のもとで武芸を学び、松平家の家臣たちと接する時間も増えていた。戦についても、書物や稽古を通じてある程度は教わっている。

 

だが、それと実際に兵を率いて戦うことは別だ。

 

「殿、此度の出陣につきましては、我らがお支えいたします」

 

そう言ったのは、酒井忠次だった。

 

三河から長く俺に付き従っている家臣で、幼い頃から世話になっている。

 

俺よりもずっと年長で、経験も豊富だ。

 

今では家中でも頼りにされている人物の一人である。

 

「うむ。頼りにしておる」

 

「もったいなきお言葉」

 

忠次は頭を下げた。

 

その後、兵の支度や道筋について話し合った。

 

俺も分かる範囲では意見を出したが、知らないことの方が多い。

 

地形も、敵の様子も、報告を聞いただけでは十分に想像できなかった。

 

「この辺りは道が狭いと聞くが、兵を進めるのに差し障りはないか?」

 

「荷を運ぶには難儀いたしましょう。先に通れる道を確かめさせます」

 

「そうしてくれ。途中で動けなくなるのは困る」

 

「はっ」

 

何とも地味なやり取りだった。

 

しかし、俺にとっては切実な問題である。

 

前世のゲームなら、兵士に命令すれば勝手に目的地まで移動してくれた。

 

現実には、食料を運ぶにも道が必要だし、人間が歩けば疲れる。

 

何百人もの人間を動かすというのは、それだけで大変な仕事なのだ。

 

ましてや、これから向かう先には敵がいる。

 

俺は出陣の準備を進めながら、何度か自分に言い聞かせた。

 

無理はしない。

 

分からないことは経験のある家臣に聞く。

 

何より、生きて帰る。

 

格好よく敵を討ち取ることなど、考えなくていい。

 

初陣なのだから、まずは無事に終わらせたい。

 

そんなことを考えていると、かぐやからも声をかけられた。

 

「竹千代、戦に行くんだって?」

 

「ああ。今度、三河の方にな」

 

「そっか」

 

かぐやは少し黙った。

 

それから、いつもと変わらない調子で尋ねてきた。

 

「準備は大丈夫?」

 

「まあ、できることはやってるよ」

 

「ちゃんとご飯食べてる?」

 

「食べてるって」

 

「寝不足は?」

 

「それも大丈夫」

 

「本当に?」

 

「……お前、俺の母親か何か?」

 

「あはは! 違うけどさ!」

 

かぐやが笑った。

 

俺も少し笑ったが、かぐやはすぐに次の質問をしてきた。

 

「戦って、初めてなんでしょ?」

 

「ああ」

 

「怖い?」

 

あまりにも普通に聞かれたので、かえって答えに迷った。

 

「……そりゃ、怖いよ」

 

「うん」

 

「刀で斬られたら痛いだろうし、矢だって飛んでくるんだぞ。できれば遠慮したい」

 

「だよねー」

 

かぐやはあっさり同意した。

 

何か励ましの言葉でも返ってくるのかと思ったが、そういうことはなかった。

 

「でも、行かなきゃいけないんだ」

 

「そうなんだよな」

 

「そっかぁ」

 

そこで一度、会話が途切れた。

 

俺は手元に置いていた書付を畳んだ。

 

「まあ、できるだけ気をつけるよ。家臣たちもいるし」

 

「うん。そうして」

 

かぐやはそれだけ言った。

 

翌日には、また普段どおりの調子で話しかけてきた。

 

戦の話ばかりすることもなかった。

 

俺もその方が助かった。

 

どうせ出陣までには、嫌というほど戦のことを考えなければならないのだから。

 

◇

 

寺部城へ向けて兵を進めた。

 

俺にとっては初めての戦である。

 

しかし、周囲の者たちにとっては必ずしもそうではない。

 

すでに何度も戦を経験している者がいる。

 

父の代から松平家に仕えてきた者もいる。

 

そうした家臣たちが、俺の命令を待っている。

 

正直、妙な気分だった。

 

ついこの間まで、俺は大人に世話をされる子供だった。

 

それが今では、甲冑を身につけ、馬に乗り、兵を率いている。

 

徳川家康なのだから、いずれこうなることは分かっていた。

 

だが、実際にその立場になってみると、思っていたほど格好いいものではなかった。

 

甲冑は重い。

 

馬上にいると尻が痛くなる。

 

それに、何より緊張する。

 

「殿」

 

忠次に声をかけられた。

 

「間もなく、敵の備えが見えてまいります」

 

「分かった」

 

返事をして、前方へ目を向ける。

 

遠くに城が見えた。

 

周囲には兵の姿もある。

 

あそこに敵がいる。

 

当たり前のことなのだが、実際に目にすると妙な感じがした。

 

これから俺たちは、あそこにいる人間と戦うのだ。

 

向こうにも家族がいるのだろう。

 

帰りを待っている人間もいるかもしれない。

 

そんなことを考えてしまった。

 

しかし、だからといって引き返すわけにはいかない。

 

俺の後ろには兵がいる。

 

今川義元から命じられた戦であり、松平家として果たさなければならない役目でもある。

 

「……では、進めよう」

 

俺は命じた。

 

◇

 

戦は、想像していた以上に騒がしかった。

 

人の声。

 

馬のいななき。

 

金属がぶつかり合う音。

 

どこかで怒鳴り声が上がり、別の場所から悲鳴が聞こえる。

 

周囲の様子を確かめようとしても、土埃や人の動きに遮られ、思うように見通せない。

 

「殿、こちらへ!」

 

家臣の声に従い、馬を進める。

 

敵の矢が飛んできた。

 

近くの地面に突き立った瞬間、身体が勝手に縮こまった。

 

怖い。

 

これは、かなり怖い。

 

今まで稽古で何度も弓を見てきたが、こちらへ向かって飛んでくる矢はまるで別物だった。

 

当たれば怪我をする。

 

運が悪ければ死ぬ。

 

そんなことは分かっていたはずなのに、実際に目の前へ飛んでくると、考えるより先に身体が反応してしまう。

 

「殿!」

 

また声をかけられた。

 

「分かっている!」

 

少し強い声で返してしまった。

 

相手が一瞬驚いたような顔をしたので、俺は慌てて言葉を続けた。

 

「……すまぬ。続けてくれ」

 

家臣は何も言わず、敵の動きを報告した。

 

俺は必死に耳を傾けた。

 

今、どこで何が起きているのか。

 

こちらの兵はどうなっているのか。

 

敵は何をしようとしているのか。

 

頭の中で整理しようとしても、次々と新しい報告が入ってくる。

 

とても全部は覚えられない。

 

それでも、分からないまま黙っているわけにはいかなかった。

 

忠次や周囲の家臣に確かめながら、兵を動かしていく。

 

やがて、城の外郭へ攻めかかることになった。

 

火をかけるという。

 

「……火か」

 

「はっ。敵を奥へ追い込むには、これがよろしいかと」

 

俺は城の方を見た。

 

外郭には建物がある。

 

その向こうには敵の兵がいるはずだった。

 

火をかければ燃える。

 

逃げ遅れた者がいれば、焼かれるかもしれない。

 

ただ、攻めずにいればこちらの兵も危険にさらされ続ける。

 

「……分かった。進めてくれ」

 

命じた。

 

やがて煙が上がった。

 

最初は細かった煙が、風に煽られて広がっていく。

 

炎が屋根を舐め、黒い煙が空へ昇った。

 

敵の方から怒鳴り声が聞こえた。

 

こちらの兵も声を上げる。

 

俺はその光景を見ていた。

 

何か、もっと別のやり方があったのだろうか。

 

そんな考えが浮かんだものの、すぐには答えが出なかった。

 

今は戦の最中である。

 

考え込んでいる間にも、周囲の人間は動いている。

 

俺は目の前の状況へ意識を戻した。

 

◇

 

寺部城への攻撃は、今川方にとって戦功を示せる結果に終わった。

 

外郭を焼き、敵を追い込んだ後、俺たちは兵を引いた。

 

少なくとも、初陣で大失敗をしたわけではない。

 

そのことには心底安心した。

 

周囲の家臣たちも喜んでいた。

 

「殿、見事な初陣にございました!」

 

そんなことまで言われた。

 

実際のところ、俺一人の手柄などほとんどないと思う。

 

兵を動かすにも、敵の様子を探るにも、家臣たちの助けが必要だった。

 

何より、俺は初めての戦に随分と緊張していた。

 

しかし、そんなことを言ったところで、皆が納得するとも思えない。

 

「皆の働きあってのことだ。よくやってくれた」

 

そう答えると、家臣たちは嬉しそうに頭を下げた。

 

俺も、ようやく少しだけ笑うことができた。

 

ただ、その日のうちに笑えなくなる出来事があった。

 

戦で傷を負った者たちの様子を見に行ったときのことだ。

 

腕を布で巻かれた男がいた。

 

別の者は足を傷め、仲間に肩を貸されていた。

 

血の匂いがした。

 

傷の手当てを受けている男が、痛みを堪えるように歯を食いしばっている。

 

俺が近づくと、男は慌てて起き上がろうとした。

 

「殿……!」

 

「よい。そのままでおれ」

 

男は申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「不覚を取りました」

 

「……命があって何よりだ」

 

そう言うと、男は少し笑った。

 

「ありがたきお言葉」

 

俺は何か言おうとして、やめた。

 

大丈夫か、と尋ねても大丈夫ではないだろう。

 

痛むか、と聞くまでもない。

 

それでも、他に気の利いた言葉が出てこなかった。

 

少し離れたところでは、別の兵たちが何かを話していた。

 

帰ってこなかった者がいるらしい。

 

俺はその名前を尋ねた。

 

聞き覚えのない名前だった。

 

どこの出身なのかを聞き、家族がいるのかを確かめた。

 

家臣が答えてくれた。

 

俺は頷いた。

 

それから、他にも死傷した者がいないか確認するよう命じた。

 

それくらいしか、できることが思いつかなかった。

 

戦には勝った。

 

少なくとも、今川方から見れば、そういうことになるのだろう。

 

だが、こちらにも傷を負った者がいて、帰ってこなかった者がいる。

 

当たり前のことだった。

 

戦争なのだから、人が死ぬのは当然である。

 

それは前世の知識として、ずっと分かっていた。

 

ただ、実際に自分が命令を出した戦で人が死ぬというのは、あまり気分のいいものではなかった。

 

俺はその日、あまり食欲がなかった。

 

それでも夕餉は取った。

 

翌日もやらなければならないことがあったし、腹が減れば身体は動かなくなる。

 

食事を終え、ようやく横になったときには、すっかり疲れていた。

 

◇

 

駿府へ戻ると、初陣の働きを褒められた。

 

今川義元からも戦功を認められ、松平家の家臣たちは喜んでいた。

 

ありがたい話である。

 

実際、褒められて悪い気はしなかった。

 

戦の最中は怖かったし、何度も失敗するのではないかと思った。

 

それでも、何とか役目を果たすことができたのだ。

 

少しくらい喜んでもいいだろう。

 

ただ、手放しで浮かれる気分にもなれなかった。

 

負傷した兵のことが頭に残っていたからだ。

 

「竹千代!」

 

部屋へ戻ると、かぐやがいつもの声で迎えてくれた。

 

「おかえりー!」

 

「ただいま」

 

「どうだった? 大丈夫だった?」

 

「ああ。何とか無事に終わったよ」

 

「よかったー!」

 

かぐやは嬉しそうだった。

 

「怪我は?」

 

「してないよ。ほら、このとおり」

 

両手を広げてみせる。

 

「おおー! 無事だ!」

 

「そんなに驚くことか?」

 

「だって戦に行ってたんでしょ? 心配くらいするよ!」

 

それはそうか。

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして!」

 

かぐやは少し笑ってから、尋ねてきた。

 

「で、勝ったの?」

 

「ああ。勝ったよ」

 

「じゃあ、おめでとう!」

 

「ありがとう」

 

俺は腰を下ろした。

 

かぐやはそれからも、戦についていくつか尋ねてきた。

 

俺は答えられる範囲で話した。

 

敵の城がどんなところだったのか。

 

兵を動かすのが思った以上に大変だったこと。

 

初めて矢が飛んできたとき、本気で驚いたこと。

 

「えっ、竹千代に矢が飛んできたの!?」

 

「まあ、近くにな」

 

「危なっ!」

 

「だから怖かったって言ってるだろ」

 

「いやいや、怖いで済ませないでよ!」

 

「でも当たらなかったし」

 

「そういう問題じゃないって!」

 

かぐやは少し怒ったようだった。

 

「もっと気をつけてよ!」

 

「気をつけたよ。だから無事に帰ってきたんだって」

 

「もう……」

 

何だか立場が逆になっている。

 

いつもなら俺がかぐやに注意しているところなのに。

 

「次も気をつけるよ」

 

そう言うと、かぐやはようやく納得したらしい。

 

「約束だからね!」

 

「分かったって」

 

しばらくすると、かぐやが俺の顔を覗き込むように身体を向けた。

 

「竹千代、疲れてる?」

 

「……まあ、少しな」

 

「そっか」

 

かぐやは少し考えた。

 

それから、いつもより控えめな声で言った。

 

「じゃあ、今日は早く寝たら?」

 

「そうするつもり」

 

「話の続きは明日でいいよ」

 

「珍しいな」

 

「何が?」

 

「お前が自分から話を切り上げるなんて」

 

「えー、私だって気を遣うときくらいあるよ!」

 

「そうだったな。悪い悪い」

 

かぐやは笑った。

 

俺も少し笑った。

 

それから、ふと思い出したことを尋ねてみた。

 

「なあ、かぐや」

 

「ん?」

 

「お前、戦って見たことあるんだよな」

 

「あるよ」

 

返事は早かった。

 

「何回も?」

 

「うん。結構いっぱい」

 

「……そうか」

 

かぐやは、それ以上何も言わなかった。

 

俺もすぐには次の言葉が出てこなかった。

 

何千年も生きているのだから、戦争くらい何度も見ているのだろう。

 

俺が今回初めて知ったようなことも、かぐやにとっては珍しくないのかもしれない。

 

「竹千代」

 

「何?」

 

「初めてだったんだもんね」

 

「ああ」

 

「そっかぁ」

 

かぐやはそう言って、少し身体を揺らした。

 

それから、いつもの調子で続けた。

 

「じゃあ、今日はもう寝よっか!」

 

「そうだな」

 

俺は立ち上がり、寝る支度を始めた。

 

身体は疲れている。

 

それなのに、いざ布団へ入ると、なかなか寝つけなかった。

 

目を閉じると、戦場の光景を思い出す。

 

土埃。

 

煙。

 

怒鳴り声。

 

傷を負った兵の顔。

 

しばらく寝返りを打っていると、文箱の方から声がした。

 

「竹千代、まだ起きてる?」

 

「……起きてるよ」

 

「眠れない?」

 

「ちょっとな」

 

「そっか」

 

かぐやは少し黙った。

 

やがて、小さな声で言った。

 

「じゃあ、何か話そうか?」

 

「何の話?」

 

「何でも! 面白い話とか!」

 

「……お前の話、長いんだよな」

 

「あっ、ひどい!」

 

俺は笑った。

 

「冗談だって。何か聞かせてよ」

 

「よーし! じゃあねー!」

 

そうして、かぐやは話し始めた。

 

昔、どこかの町で出会った変わり者の話だった。

 

何をしても失敗ばかりするくせに、妙に自信だけはある男だったらしい。

 

かぐやの話は相変わらずあちこちに飛んだ。

 

途中で別の出来事を思い出し、話が脱線する。

 

俺が何度か続きを促すと、ようやく元の話に戻ってきた。

 

何とも締まりのない話だった。

 

だが、聞いているうちに少しずつ眠くなってきた。

 

「……それでね、その人がさ――」

 

かぐやの声が遠くなる。

 

俺は返事をしたつもりだったが、ちゃんと声になっていたかは分からない。

 

そのまま眠ってしまった。

 

◇

 

初陣を終えてからも、俺の暮らしは続いた。

 

今川家の家臣として役目を果たし、松平家の跡取りとして家臣たちと接する。

 

瀬名と過ごす時間も少しずつ増えた。

 

かぐやは相変わらず俺の居所にいて、暇さえあれば何か話しかけてくる。

 

何もかもが大きく変わったわけではない。

 

ただ、以前とは違うこともあった。

 

家臣たちは、俺を一人前の武将として扱うようになった。

 

まだ若いというのに、随分と期待されているらしい。

 

中には、俺の言動を必要以上に深読みする者までいた。

 

ある日、忠次がこんなことを言ってきた。

 

「殿は、先の戦でも随分と慎重に兵をお進めになりましたな」

 

「初陣であったからな。無理をするわけにもいくまい」

 

「まことに。功を焦らず、兵をいたずらに損なわぬ。若くして得難きご判断にございます」

 

「……そうか?」

 

「はっ。家中の者たちも、殿の落ち着きぶりに感じ入っております」

 

何やら随分と褒められてしまった。

 

俺としては、初陣で怖かったから慎重になっていただけである。

 

しかし、そんなことをわざわざ説明する必要もないだろう。

 

「皆がよく働いてくれたからだ。これからも頼むぞ」

 

「ははっ!」

 

忠次は嬉しそうに頭を下げた。

 

その様子を見ながら、俺は少し考えた。

 

この人たちは、本当に俺を信頼してくれているのだろう。

 

それはありがたい。

 

ありがたいのだが。

 

……あんまり期待しすぎないでほしい。

 

俺だって、分からないことは山ほどあるのだから。

 

もっとも、そんな本音を家臣たちの前で口にするわけにはいかない。

 

代わりに、かぐやの前で愚痴をこぼした。

 

「最近、家臣たちの期待が重いんだよな」

 

「えー、いいことじゃん!」

 

「そうなんだけどさ。俺、そんなに大したこと考えてるわけじゃないんだよ」

 

「でも、ちゃんとやってるんでしょ?」

 

「まあ、何とかね」

 

「じゃあ大丈夫だって!」

 

「お前は本当に気楽だな」

 

「えへへー!」

 

かぐやは笑った。

 

俺も少し笑ってから、ふと考えた。

 

徳川家康。

 

前世の俺が知っているのは、天下を取った後の姿ばかりだった。

 

しかし、今の俺はまだ、今川家に仕える若い武将にすぎない。

 

天下など、遥か先の話である。

 

とりあえず、目の前の仕事を一つずつ片づけていこう。

 

幸い、初陣も無事に終わった。

 

妻もできたし、家臣たちも頼りになる。

 

この調子なら、何とかやっていけるかもしれない。

 

「ねえ、竹千代」

 

「ん?」

 

「そういえば、今日のお菓子は?」

 

「……あ」

 

忘れていた。

 

「えーっ! 楽しみにしてたのに!」

 

「悪い悪い。明日は持ってくるよ」

 

「絶対だからね!」

 

「分かったって」

 

かぐやはしばらく文句を言っていたが、やがて別の話を始めた。

 

俺もそれに付き合った。

 

戦国時代に生まれ直して、もう十数年。

 

名前も変わり、結婚し、戦にまで出た。

 

以前よりできることは増えたが、その分だけ面倒事も増えている。

 

それでも、今のところは何とかやっていけている。

 

だからこそ、俺はまだ気づいていなかった。

 

今川義元が討たれる日が、思っていたよりもずっと近くに迫っていることに。

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