徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
桶狭間。
その名前を意識するようになってから、しばらく経った。
いつ起きるのか、正確には分からない。何年だったか、季節はいつだったか。今川義元がどれほどの兵を連れて、どの道を通り、どこで織田信長に襲われたのか。
そこまで詳しく覚えていれば、もう少し気の利いたこともできたのだろう。
残念ながら、俺の歴史知識はそこまで親切ではなかった。
知っているのは、今川義元が大軍を率いて尾張へ進み、桶狭間で織田信長に敗れて死ぬこと。そして、その後に松平元康が今川から離れ、岡崎へ戻ること。
大まかにはそれだけだ。
だから、今川方で戦の準備が始まったと聞いても、それが桶狭間なのかどうか、最初は分からなかった。この時代、戦そのものは珍しくない。俺だってすでに初陣を済ませている。
今回もその一つかもしれない。
そう思おうとした。
けれど、話を聞くほど嫌な予感が強くなっていった。
尾張へ進む。
相手は織田。
そして、義元自身が軍を率いる。
ここまで揃うと、さすがに無視できない。
「……来たかもしれない」
居所へ戻ってから、俺は思わずそう呟いた。
「何が?」
近くにいたかぐやが反応する。
俺は少し迷ってから答えた。
「桶狭間」
「おけはざま?」
当然、かぐやには通じない。
「前に話しただろ。俺が知ってる歴史のこと」
「ああ。竹千代が未来で知ってたやつ?」
「そう。その中に、今川義元が織田信長に負けて死ぬ戦がある」
かぐやの動きが止まった。
さっきまでの軽い調子が消える。
「……死ぬの?」
「ああ。俺の知ってる歴史だとな」
「今川義元って、竹千代が今仕えてる人だよね」
「そう」
かぐやはすぐには何も言わなかった。
これまで俺が歴史の話をしたことは何度もある。誰が天下を取ったとか、どこで大きな戦が起きたとか、後の時代から見れば全部すでに終わった話だった。
今回は違う。
義元は今も生きている。
飯を食い、人と話し、軍を動かし、この先のことを考えている。
その人間について、俺だけが「この先で死ぬ」と知っている。
「……変な感じ」
かぐやが小さく言った。
「何が?」
「竹千代にとっては、もう起きたことなんだよね」
「前世ではな」
「でも、今はまだ起きてない」
「そうだな」
かぐやは少し考え込んだ。
「未来から見たら、誰が勝って誰が死んだかまで書いてあるのに、今ここにいる人たちはまだ何も知らないんでしょ?」
「まあな」
「それ、ちょっと怖いね。この人はここで死にますって、もう決まったみたいに残ってるのに、その人は今まだ普通に生きてるんだよね」
俺も黙った。
歴史の教科書では、今川義元は桶狭間で討ち死にした戦国大名だ。
それで終わる。
けれど、今の俺にとってはもう、それだけの人間ではない。
「竹千代」
「何だ」
「それ、本当に今から行く戦なの?」
「分からない。尾張へ行く。相手は織田。義元も出る。条件はかなり近い。でも俺は、桶狭間が何年の何月何日に起きたかまでは覚えてない」
「じゃあ、違うかもしれない?」
「違うかもしれないし、これかもしれない」
かぐやは少しだけ身体を縮めた。
「もしこれだったら……助けられないの?」
その問いに、今度は俺が詰まった。
助けたい。
そう思っている。
でも同時に、助けるのが怖かった。
義元が桶狭間で死ななければ、俺の知っている歴史から外れる。
歴史どおりなら、松平元康はこの先を生き延びる。岡崎へ戻り、今川から離れ、やがて徳川家康となり、最後には天下を取る。
何より、長生きする。
俺はずっとそれを頼りにしてきた。
歴史どおりに進めば、少なくとも俺は簡単には死なない。
その道を自分から壊すのか。
怖くないわけがない。
けれど、だからといって義元が死ぬのを黙って見ていればいいのかと言われると、それも違う。
変えたくない。
変えたい。
どちらも本心だった。
「俺は結果しか知らないんだ。義元が死ぬことは知ってる。でも、どこで何をすれば助かるのかは知らない」
「じゃあ、何か言ったら?」
「何て言うんだよ」
「この先危ないって」
「理由を聞かれたら困る」
未来を知っています。
あなたはこの戦で死にます。
そんなことを言えるはずがない。
狂人と思われるだけならまだいい。何か裏があると疑われれば、俺一人では済まない。
それでも、かぐやは引かなかった。
「知ってるのに、何もしないのも嫌じゃない?」
「嫌だよ」
そこだけは、迷わず答えられた。
「だから困ってる」
「歴史を変えたら、竹千代がどうなるか分からなくなるんだよね」
「ああ」
「でも、変えなかったら義元は死ぬ」
「……そうなる」
口にすると、嫌なくらい単純だった。
俺が自分の未来を守りたいなら、義元の死を受け入れる方が都合がいい。
その事実が気持ち悪かった。
「俺が知ってる未来だと、徳川家康は最後まで生き残る。だから今までは、なるべく歴史から外れない方がいいと思ってた」
「竹千代が長生きするために?」
「そう」
かぐやは少し黙った。
「でも、そのために誰かが死ぬのをそのままにするの?」
責めるような声ではなかった。
だから余計に答えづらかった。
「……それも嫌なんだよ」
かぐやはしばらく何も言わなかった。
「難しいね、歴史って」
「本当にな」
「未来から見たら一行なのにね。『誰々が死にました』って。それで終わるのに、その一行の中にいる人は本当に死ぬんだよね」
俺は返事をしなかった。
「義元って、竹千代にとって大事な人?」
少し考えた。
恩人と呼んでしまうと、何か違う。
俺は今川の人質だった。
今川に都合のいい存在として扱われていたのも事実だ。
けれど、義元は俺を牢に入れたわけではない。元服させ、名の一字を与え、松平の当主として扱った。妻を迎えたのも、今川の中でのことだ。
今の俺が松平元康として立っていることに、義元が大きく関わっている。
「……死んでほしいとは思わないな」
ようやくそう答えた。
「じゃあ、できることはした方がいいんじゃない?」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
かぐやの声は真面目だった。
「助けられるか分からないし、歴史が変わるかもしれないし、竹千代まで危なくなるかもしれない。でも何もしなかったら、竹千代ずっと気にするでしょ?」
否定できなかった。
「……気にするだろうな」
「だったら、何ができるかくらい考えてみようよ」
未来を変えたくない気持ちは消えなかった。
むしろ、この先もずっと残るのだと思う。
それでも、本当にこれが桶狭間なら。
何も知らないふりをして見ているだけというのは、俺にはできそうになかった。
◇
数日後。
俺は今川軍の一員として、尾張へ向かうことになった。
かぐやもついてきた。
「留守番しててもいいんだぞ」
出立前にそう言ったが、かぐやはすぐ首を――首らしいものを――振った。
「嫌だよ」
「戦だぞ」
「だからだよ」
普段より真っ直ぐな声だった。
結局、人目につかないよう俺の荷の中へ隠れてもらうことになった。
道中、俺の頭から桶狭間のことが消えることはなかった。
そして、義元に言葉を伝える機会は思っていたより早く来た。
軍議の後だった。
義元の前へ進み出る。
何度も顔を合わせたことはある。
元服の際にも会っている。
それでも、慣れるような相手ではなかった。
俺にとって義元は「桶狭間で死ぬ人」である以前に、駿河・遠江・三河へ大きな力を伸ばす今川家の主だ。
今こうして集まっている多くの人間の動きが、この男の一言で変わる。
俺自身もその一人だ。
前世なら、歴史上の人物として名前を覚えるだけだった。
今はその本人が目の前にいる。
しかも、俺の命も家も家臣も、下手をすれば妻の立場まで、この男の判断一つでどうにでもなり得る。
喉が少し乾いた。
未来を知っているからといって、義元より上に立てる。
そんな気分にはまったくならなかった。
むしろ逆だった。
知っているのは最後だけ。
今ここで義元が何を考え、どこまで状況を読んでいるのか、俺には分からない。
「申し上げたき儀がございます」
義元がこちらを見る。
「申せ」
短い一言だった。
それだけで、背筋が勝手に伸びた。
「織田方、兵の多少のみをもって侮るは危ういかと存じます」
言いながら、自分でも弱いと思った。
そんなことは義元も分かっている。
義元は少しの間、黙って俺を見た。
その沈黙が妙に長く感じた。
「元康」
「は」
「そなた、何を恐れておる」
心臓が跳ねた。
見抜かれたか。
一瞬、本気でそう思った。
顔には出すな。
そう思えば思うほど、自分の表情が不自然になっている気がする。
未来のことを知っていると気づかれるはずがない。
それでも、この男なら何かを見抜いてしまうのではないか。
そう思わせる圧があった。
「織田を恐れております」
結局、そう答えた。
嘘ではない。
義元の眉がわずかに動いた。
「信長をか」
「はい」
「少勢の織田を、今川の大軍より恐ろしいと申すか」
試されている。
そう感じた。
「兵の数そのものを恐れているわけではございませぬ」
慎重に言葉を選ぶ。
「正面より当たれば、我らが大きく劣るとは思いませぬ。されど、それを織田方も承知しているはず。ならば正面より来ぬのではないかと」
義元は黙っている。
俺は続けた。
「こちらが大軍であるからこそ、目の届かぬところも生まれましょう。道は長く、軍勢も伸びまする。織田方が勝つ道を探すとすれば、そうしたところを狙うのではないかと」
そこまで言うと、義元が小さく息を吐いた。
「なるほど」
その一言が怖かった。
何が「なるほど」なのか。
俺の言葉に納得したのか。
それとも、何か別のものを読まれたのか。
「そなた、以前より慎重であったが、戦を覚えてますます臆病になったな」
「……否定はいたしませぬ」
「臆病は恥ではない」
思っていたのと違う言葉が返ってきた。
「大軍を持てば、人は己まで大きくなったように思う。されど、矢が一人を射抜くことには変わりない。少勢であろうが、敵は敵よ」
静かな言葉だった。
そこで初めて、俺は少しだけ気づいた。
この男は、俺が心配しているようなことを何も考えていないわけではない。
当然だ。
俺より遥かに長くこの時代を生き、これほどの勢力を率いてきた大名なのだ。
俺だけが「信長を侮るな」と知っているつもりになっていたのかもしれない。
「されど」
義元が続けた。
「元康。そなたの言いようは、ただ織田を恐れておるだけには聞こえぬな」
背中に冷たいものが走った。
今度こそ、呼吸が止まりかけた。
「何かあるのか」
すぐには答えられなかった。
「……勘にございます」
苦し紛れだった。
「初陣を終えてより、戦では何が起きるか分からぬと考えるようになりました。今回、何か嫌なものを感じております」
義元はしばらく俺を見ていた。
やがて視線を外した。
「勘を笑うつもりはない。武辺の者が命を長らえるに、理ばかりで足りぬこともあろう。そなたがそこまで申すならば、用心はさせよう」
近くに控えていた者へ、周囲の警戒を怠らぬよう改めて言葉が飛ぶ。
聞いてくれた。
それだけで、胸の奥に少し希望が生まれた。
もしかすると。
本当に何か変わるかもしれない。
義元はそんな俺を見て、わずかに目を細めた。
「元康」
「は」
「よい顔をするようになった」
「……は?」
意味が分からず、間の抜けた声が出かけた。
「人質として駿府へ来た頃は、周囲ばかり見ておった。今は己の考えを持って口を開く」
褒められているのだろうか。
判断に迷った。
「松平の主たるなら、それでよい。ただし、恐れに呑まれるな。恐れを見ることと、恐れに従うことは違う」
「……心得ます」
頭を下げた。
その瞬間、胸の中に別の感情が生まれた。
この人を死なせたくない。
さっきまでより、はっきりそう思った。
同時に、怖さも増した。
義元が生き残れば歴史は変わる。
俺の未来は分からなくなる。
それでも今は、変わってほしいと思っている。
数年前の俺なら、絶対に考えなかったことだった。
◇
大高城への兵糧入れは成功した。
丸根の砦も攻め落とした。
俺自身も、家臣たちも生きている。
その間も、義元のことはずっと頭の隅にあった。
まだ進んでいる。
異常はない。
そんな知らせを聞くたびに、もしかすると本当に変わったのではないかという期待が膨らんだ。
「……変わってくれないかな」
人目のないところで、思わず口に出した。
「歴史?」
かぐやが聞く。
「ああ」
「変わってほしい?」
少し前なら、迷わず変わってほしくないと言っただろう。
今は違った。
「……今は、変わってほしい」
口にすると怖かった。
自分から未来の保証を手放すような気がした。
それでも、そう思っていた。
「そっか」
かぐやの声は柔らかかった。
しばらくして、大高城の中が騒がしくなった。
最初は何が起きたのか分からなかった。
兵が走り、声が飛び交う。
本陣が襲われたらしい。
いや、違う。
御屋形様が退かれたらしい。
織田勢が迫っている。
どの話が本当なのか、誰にも分からない。
胸の奥が冷たくなる。
俺は近くの家臣を呼び止めた。
「何があった」
男はすぐには答えなかった。
「申せ」
「……御屋形様が、桶狭間にて討たれたとの報せにございます」
頭の中が真っ白になった。
知っていた。
ずっと前から知っていた。
それでも、「死ぬ」と「死んだ」は違った。
確認を命じた。
間違いであってほしかった。
俺の忠告で少しでも変わっていてほしかった。
だが、ほどなくして報せは重なった。
義元は死んだ。
間違いなかった。
人のいないところまで来たとき、かぐやが小さく声をかけてきた。
「竹千代」
「……死んだ」
「うん」
「俺、言ったんだけどな」
「うん」
「ちゃんと聞いてくれたんだ。警戒もさせるって言ってた。それでも死んだ」
自分でも何を言いたいのか分からなかった。
もっと強く言えばよかったのか。
桶狭間という名前まで出せばよかったのか。
未来から来たと全部話せばよかったのか。
義元のそばに残ればよかったのか。
考えれば、いくらでも出てくる。
「竹千代」
かぐやの声が少し震えていた。
「嫌だね」
「……ああ」
「歴史では知ってたのにね。変えようともしたのに」
「変わらなかった」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が重くなった。
かぐやも黙った。
「私、歴史ってもっと……昔の話なんだと思ってた」
ぽつりと、かぐやが言った。
「竹千代の時代から見たら昔だけど、今は違うじゃん。さっきまで生きてた人が、これから死ぬって知ってて。本当に死んじゃって。それがいつか『桶狭間で死にました』って話になるんでしょ?」
「ああ」
「……やっぱり嫌だな」
「俺もだよ」
少しの間、何も話さなかった。
「竹千代、悲しい?」
聞かれて、考えた。
父が死んだと聞いたときとは違った。
義元とは実際に言葉を交わした。
ついさっきまで俺を見て話していた。
恐れに呑まれるな、と言われた。
「……悲しいと思う」
今度は曖昧にしなかった。
「そっか」
かぐやはそれ以上何も言わなかった。
その沈黙がありがたかった。
◇
感傷に浸っている暇はなかった。
「殿」
呼ばれて顔を上げる。
家臣たちが集まっていた。
誰もが硬い顔をしている。
今川軍の総大将が討たれた。
本隊は崩れ、どこにどれだけの兵が残っているのかも分からない。
織田勢がこちらへ向かってくる可能性もある。
「いかがなされます」
問われて、ほんの一瞬言葉を失った。
俺に聞くのか。
すぐにそう思った自分が情けなかった。
当然だ。
俺は松平家の当主だ。
ここにいる者たちは、俺の判断を待っている。
「まず、城の周囲を探らせろ。織田勢がどこまで来ているか知りたい。道も確認する」
「駿府へ退かれますか」
その言葉で、瀬名の顔が浮かんだ。
駿府には妻がいる。
俺が勝手に三河へ戻ればどうなる。
今川への裏切りと見られるかもしれない。
今川方に残っている者たちが、瀬名へ何かする可能性もある。
一方で、今から駿府へ向かうのが正しいのかも分からない。
本隊は崩れた。
誰の指示が生きているのかも分からない。
尾張から駿府までの長い道を、敗軍の中で進むのか。
俺は前世の知識を思い返した。
元康は岡崎へ戻る。
そこだけは知っている。
なら岡崎へ行けばいい。
そう考える自分がいる。
歴史どおりなら生き残れる。
また、それに縋りたくなった。
「殿?」
返事が遅れ、家臣に呼ばれた。
「……三河へ戻る」
ようやく答えた。
「岡崎を目指す。ただし、今すぐ飛び出すのは危険だ。敵の位置を確かめる」
「御意」
「織田がこちらへ向いているか、本隊を追っているか。それが分からないうちは動くな」
別の家臣が口を開く。
「されど、留まれば大高を囲まれる恐れもございます」
「分かってる」
自分でも声が少し強くなったのが分かった。
「……すまん。だから急いで調べさせてくれ」
家臣は一瞬だけこちらを見たあと、深く頭を下げた。
「は」
焦っている。
それを家臣にぶつけかけた。
気をつけなければならない。
俺の不安は、俺だけのものではない。
ここにいる全員が怖いのだ。
年長の家臣が静かに言った。
「御屋形様を失い、皆動揺しております。しかし我ら松平の者には、殿がおられます」
その言葉が重かった。
「殿が生きて三河へ戻られること。それが今は何より肝要にございましょう」
俺が生きること。
今までなら、自分が死にたくないから当然だと思っていた。
今は少し違う。
俺が死ねば困る人間が、すでにいる。
「……そうだな」
俺は頷いた。
「まず生きて帰る。その後のことは、生きてから考える」
◇
動ける時を待つ間が、一番長く感じた。
何か大きな音がするたびに、織田勢が来たのかと思う。
伝令が走ってくれば、悪い知らせかと身構える。
外を見ても、いつ敵が現れるのか分からない。
しかも、その間にも頭の中では別のことが回り続けていた。
岡崎へ戻ったあとどうする。
今川に残るのか。
氏真は俺をどう見る。
織田はどう動く。
瀬名をどうする。
家臣たちをどう守る。
考え始めると止まらない。
「竹千代」
荷の陰から、かぐやの小さな声がした。
「何だ」
「考えすぎ」
「考えることが多すぎるんだよ」
「全部今決めるの?」
「……いや」
「じゃあ今決めなくていいやつは、今考えなくていいんじゃない?」
思わず黙った。
「今は岡崎まで帰るんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、それでいいじゃん。岡崎まで生きて帰る。次のことは着いてから考える」
簡単な話のように言う。
けれど、今の俺にはその簡単な言葉が妙にありがたかった。
「……お前、こういうときは妙にまともだな」
「こういうとき『は』って何!」
声が少し大きくなり、俺は慌てて指を立てた。
「静かに」
「竹千代が変なこと言うからでしょ」
小声で怒られた。
さっきまで張り詰めていたものが、ほんの少し緩んだ。
「でもまあ……助かった」
「でしょ?」
急に得意そうな声になる。
「私、長く生きてるからね」
「本人はそう言ってるな」
「まだ疑ってるの?」
「何年生きてるか自分でも分からない奴を完全に信用しろって方が無理だろ」
「長すぎて分かんないだけ!」
「余計に怪しい」
「ひどい!」
思わず口元が緩んだ。
こんな状況で笑うとは思わなかった。
ほんの一瞬だったが、それだけでも頭の中が少し整理された。
本当にどれほど長く生きてきたのかは、今でも俺には確かめようがない。
でも、こういうとき妙に落ち着いたことを言うあたり、本人の言う通り長く生きているだけはあるのかもしれない。
「竹千代」
「今度は何だ」
「顔、ちょっと戻った」
「そうか?」
「うん。さっきまで怖かったもん」
そんな顔をしていたのか。
俺は息を吐いた。
「ありがとな」
「うん」
今度は、かぐやも茶化さなかった。
◇
やがて、動けると判断した。
大高城を出る。
大勢で騒がしく動けば目立つ。
かといって小さく分かれすぎれば、敵と遭遇したときに各個に潰される。
家臣たちと相談し、隊をまとめた。
「先を探らせます」
「ああ。ただし深追いさせるな。敵を見つけても、戦う必要がなければ戻れ」
「承知」
「殿は中央へ」
「前に出すぎるなってことか」
「当然にございます」
随分とはっきり言われた。
「当主を守るのも我らの役目にございますれば」
「分かった」
こういうところでは、素直に従った方がいい。
未来の知識を持っているからといって、夜の撤退戦まで上手くなるわけではない。
城を離れる。
夜道は暗かった。
前世の夜とは違う。
街灯などない。
松明の光が届く範囲しか見えず、その先はほとんど闇だ。
草木が揺れただけで、人がいるように見える。
遠くから音が聞こえれば、馬なのか人なのか、それともただの風なのか分からない。
「前方、異状ございませぬ」
戻ってきた者から報告を受ける。
「分かった。進む」
少し進む。
止まる。
また探る。
思っていたより、ひどく遅い。
だが、急いで敵の中へ飛び込むよりはいい。
途中、前方に複数の人影が見えた。
隊が止まる。
一気に空気が張り詰めた。
「織田か」
誰かが呟く。
「まだ分からん」
俺は声を抑えた。
手に汗が滲んでいる。
家臣たちが武器へ手をかける。
俺もいつでも動けるよう身構えた。
敵ならどうする。
数は。
地形は。
退けるか。
頭の中で考えている間に、先へ出た者が戻った。
「今川方の者にございます。敗走してきた様子」
息を吐いた。
力が抜けそうになる。
だが、相手の様子は安心できるものではなかった。
鎧は汚れ、顔には疲労が浮かび、部隊としてのまとまりもほとんどない。
話を聞いても、誰がどこへ退いたのか分からない。
御屋形様が討たれた。
本隊は崩れた。
織田が追ってきた。
あちらへ逃げろと言われた。
いや、そちらには敵がいる。
情報がばらばらだった。
「殿」
隣にいた家臣が低く言った。
「あの様子では、今川勢と合流すれば安全とも限りませぬな」
「ああ」
大きな軍勢が崩れるというのは、こういうことなのか。
昨日まで同じ命令で動いていた者たちが、今はそれぞれ自分で逃げ道を探している。
今川という大勢力そのものが一日でなくなったわけではない。
それでも、その中心を失っただけで、これほど変わる。
義元という男がどれだけ大きかったのか、死んでから改めて思い知らされた。
再び進む。
しばらくして、足が重くなっていることに気づいた。
「殿、少しお休みを」
家臣に言われた。
「まだ行ける」
反射的に答える。
「行けることと、休まぬことは別にございます」
言い返そうとして、やめた。
正しい。
俺が無理をして倒れれば、隊全体を止めることになる。
「……少しだけ休む」
「それがよろしゅうございます」
近くの安全を確かめ、短い休息を取った。
水を飲む。
それだけで、思っていた以上に身体が楽になった。
「竹千代」
かぐやがこっそり声をかけてくる。
「何だ」
「ちゃんと休めて偉い」
「子供扱いするな」
「でも休まないって言ってたじゃん」
「うるさい」
「ほら、こういうとき体調悪くしたら長生きできないよ」
言われて、ぐうの音も出なかった。
「……覚えてたのか」
「そりゃ覚えてるよ」
「なら最初からそれ言えよ」
「家臣の人が言ってくれたから私の出番なかったし」
妙なところで遠慮する。
「それに」
かぐやが続ける。
「竹千代、全部自分でやらなくてもいいんじゃない?」
「やってないだろ」
「うん。ちゃんと人の話聞いてるから大丈夫そう」
何となく褒められた。
「何だよ急に」
「彩葉も一人で全部やろうとして大変だったから」
それで少し納得した。
長く生きた経験なのか、彩葉と過ごした経験なのか。
たぶん両方なのだろう。
「俺は倒れないようにするよ」
「よし」
「何でお前が満足そうなんだ」
「私が言ったこと聞いたから」
「半分は家臣に言われたんだけどな」
「じゃあ半分私」
「随分欲張るな」
また少し笑った。
緊張が消えたわけではない。
怖さもある。
義元が死んだという重さも残っている。
それでも、ずっと張り詰め続けていたら、どこかで判断を誤る。
かぐやがいることで、ほんの少しだけその糸を緩められている。
そのことは、素直にありがたかった。
再び歩き出した。
三河へ近づくほど、今度は戦の後のことが頭へ戻ってくる。
岡崎へ戻ったらどうする。
今川へ忠誠を続けるのか。
氏真はどう出る。
織田は。
松平の家臣たちは。
そして、駿府にいる瀬名はどうなる。
また考え始めている自分に気づいた。
「竹千代」
かぐやの声がした。
「……何だ」
「今また全部考えてるでしょ」
ばれた。
「顔に出てる?」
「ちょっと」
「仕方ないだろ」
「岡崎着いてから」
「分かったよ」
今度は素直に切った。
少なくとも今は、目の前の道を見る。
まず生きて帰る。
その先は、その先だ。
夜が明け始める頃、三河の空が見えた。
すぐに安心したわけではない。
岡崎へ着くまでは終わらない。
それでも、尾張の中で義元戦死の報せを聞いたときより、家臣たちの顔にも少しだけ余裕が戻っていた。
やがて岡崎城が見えてきた。
俺が生まれた場所。
松平の本拠。
なのに、ほとんど故郷という実感がない。
幼いうちに離れ、織田へ行き、今川へ行った。
俺の記憶の大半は外で作られている。
城を見た家臣たちの表情が、明らかに変わった。
「あれが岡崎にございます」
一人が言った。
知っている。
地名としては。
歴史としては。
でも、自分の目で見るのは別だった。
俺の隣で、年長の家臣が深く息を吐いた。
「ようやく、お戻りになられましたな」
その言葉に引っかかった。
戻る。
俺にとっては、ほとんど初めて来る場所なのに。
この人たちにとっては違う。
ずっと、松平の当主が岡崎へ戻ることを待っていたのかもしれない。
「……待たせたな」
自然に出た。
家臣は一瞬驚いたような顔をしたあと、頭を下げた。
「いえ」
短い返事だった。
それだけだったが、妙に胸に残った。
「竹千代」
荷の陰から、かぐやが小さく声を出した。
「ここが岡崎?」
「ああ」
「竹千代の家?」
少し考えた。
今度は前より、答えが出るのが早かった。
「……ああ。俺の家だ」
自分で言うと、妙な感じがした。
けれど、さっきよりはしっくりきた。
「じゃあ、帰ってきたんだね」
かぐやが言った。
帰ってきた。
そうなのかもしれない。
俺は未来の徳川家康が岡崎へ戻ることを知っていた。
だからここまで来た。
ここまでは歴史どおりだ。
義元を救おうとしても、歴史は変わらなかった。
だったら、このまま歴史に沿った方がいいのかもしれない。
そう思う。
その方が俺は生き残れる。
でも、もう一つの気持ちも残っている。
次に誰かが死ぬと知ったとき。
また「歴史どおりだから」で済ませられるのか。
たぶん、無理だ。
未来は変えたくない。
でも、変えたい。
その二つを抱えたまま進むしかないのだろう。
「ねえ竹千代」
「何だ」
「これからどうするの?」
俺は岡崎城を見上げた。
今も本当は分からない。
ただ、一つだけは決まっている。
「まず、ここを守る」
「その後は?」
「その後は……考える」
「今度はちゃんと、着いてから?」
「ああ」
「よし」
「何でお前が監督みたいになってるんだよ」
「竹千代が考えすぎるからでしょ」
「誰のせいで考えることが増えたと思ってるんだ」
「私関係ないじゃん!」
かぐやが小声で抗議する。
俺は少し笑った。
今川義元が死んだ。
歴史は、俺の知っている通りに大きく動いた。
そして松平元康は、家臣たちとともに岡崎へ戻った。
ここまでは知っている。
問題は、その先だった。