徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
「竹千代は、よく眠る子でございますね」
瀬名がそう言ったので、一瞬、自分のことかと思ってしまった。
もちろん、違う。
瀬名が抱いている赤ん坊のことである。
昨年、俺と瀬名の間に男の子が生まれた。
松平家の跡取りとなる長男で、名前は竹千代。俺が幼い頃に名乗っていたのと同じ名前だ。
最初に聞いたときは少し妙な気分だったが、松平家では縁起のよい幼名らしい。周囲も喜んでいたし、別に反対する理由はなかった。
ただ、自分と同じ名前の子供がいるというのは、なかなか慣れないものである。
「殿?」
「ああ、すまぬ。少し考え事をしておった」
「お疲れなのではございませんか?」
「いや、大丈夫だ」
そう答え、瀬名の腕の中を覗き込む。
竹千代は気持ちよさそうに眠っていた。小さな手が握られていて、時折、指がぴくりと動く。
俺にもこんな頃があったのだろうか。
いや、あったのは間違いない。
前世の記憶を持ったまま赤ん坊になり、何もできずに苦労した覚えがある。
それを思えば、この子は随分と大人しい。
「抱いてみられますか?」
瀬名に尋ねられ、俺は頷いた。
「そうしよう」
何度か抱いたことはあるのだが、いまだに少し緊張する。
首はもうしっかりしてきたものの、身体はまだ小さい。うっかり落としたりしないよう、腕の位置を確かめながら受け取った。
すると、眠っていた竹千代が目を開けた。
しばらく俺の顔を見上げていたかと思うと、突然、手を伸ばしてくる。
「おっと」
指が鼻に当たった。
そのまま頬を触られ、今度は口元を掴もうとしてくる。
随分と遠慮がない。
「殿のお顔が気になるのでしょう」
瀬名が笑った。
「父親の顔くらい覚えてほしいものだが」
「まだ幼いのですから、仕方ございません」
「それもそうか」
俺は竹千代の手を軽く握った。
すると、向こうも指を握り返してきた。
思っていたより力が強い。
「……元気に育ってくれればよいな」
「はい」
瀬名は頷いた。
その後、竹千代がぐずり始めたので、俺は大人しく瀬名に返した。
やはり母親の方が安心するらしい。
少々悔しいが、こればかりは仕方がない。
◇
「竹千代ー!」
部屋へ戻ると、早速かぐやの声がした。
「ただいま」
「おかえり! ねえねえ、赤ちゃんどうだった?」
「元気だったよ。今日は俺の顔を随分と触りたがってた」
「あはは! 可愛いじゃん!」
「まあ、可愛いけどな。結構力も強くなってきたよ」
「へえー。大きくなるの早いね!」
かぐやは感心したように言った。
「そういえばさ、前から思ってたんだけど」
「何?」
「何で息子にも竹千代って名前つけたの?」
「ああ、松平家の跡取りが受け継ぐ名前なんだよ。俺もそうだったし」
「ふーん。じゃあ、竹千代が二人いるんだ」
「そうなるな」
「紛らわしくない?」
「……実際、たまに紛らわしい」
かぐやが笑った。
「じゃあ、私が竹千代って呼んだら、どっちが返事するの?」
「今のところ俺だけだよ。あいつはまだ小さいからな」
「大きくなったら?」
「その頃には、あいつも別の名前になってるんじゃないか?」
「そっか。じゃあ大丈夫だね!」
何が大丈夫なのかは分からないが、かぐやは納得したらしい。
「でもさー、竹千代」
「ん?」
「竹千代が父親って、何か面白いね!」
「何だよ、それ」
「だって、最初に会ったときはあんなにちっちゃかったのに、もう結婚して子供までいるんだよ?」
「そりゃ何年も経ってるからな」
「そうだけどさ。何か不思議じゃん!」
かぐやは楽しそうだった。
言われてみれば、俺自身も少し不思議な気分ではある。
ついこの間まで子供だったような気がするのに、今では妻がいて、息子までいる。
おまけに武将として戦に出るようにもなった。
前世では二十代半ばまで生きていたが、結婚も子育ても経験したことがない。
今の身体はまだ十代なのに、やっていることだけは前世よりずっと大人らしい。
もっとも、中身までそれに見合っているかと聞かれると、少々自信がなかった。
「ねえ、竹千代」
「何?」
「赤ちゃん、今度私にも見せてよ!」
「え、息子を?」
「うん! だって気になるじゃん!」
「そうだなあ……」
俺は少し考えた。
別に、かぐやに見せたくないわけではない。
ただ、息子の周囲には瀬名や乳母をはじめ、何かと人がいる。俺が部屋へ連れてくるにしても、まだ幼い子供なのだから、そう簡単に人払いができるわけでもない。
「ちょっと難しいかもしれないな。周りに人がいるし、お前が喋ったら大変なことになるだろ?」
「あー、そっか……」
かぐやは残念そうだった。
しかし、すぐに何か思いついたらしい。
「あれ? でもさ、私が喋らなければよくない?」
「……ああ」
言われてみれば、そのとおりだった。
「竹千代が抱っこしてるところを、こっそり見るだけでもいいんだけど!」
「それなら何とかなるかな」
「本当!?」
「機会があればな。あいつもまだ小さいし、あんまり連れ回したくないんだよ」
「それはそうだね。じゃあ、楽しみにしてる!」
「分かったよ」
かぐやは随分と嬉しそうだった。
それにしても、赤ん坊を見たいだけでここまで喜ぶものだろうか。
いや、かぐやにしてみれば、昔から知っている俺の子供なのだ。多少は気になるのかもしれない。
そう考えると、少し分かる気もした。
◇
数日後、かぐやとの約束を果たす機会が訪れた。
その日、俺は瀬名のもとを訪ね、息子を抱かせてもらっていた。
竹千代は機嫌がよかった。
俺の指を掴んだり、衣を引っ張ったりして遊んでいる。
これなら、少しくらい連れていっても大丈夫だろう。
「瀬名、少しこの子を連れていってもよいか?」
そう尋ねると、瀬名は少し意外そうな顔をした。
「殿がお一人で、でございますか?」
「ああ。少しの間、部屋で過ごそうと思ってな」
「珍しゅうございますね」
「そうか?」
「ええ。殿はいつも、落としてしまわぬかと気になさっておいでですから」
「……それは今も気になっておる」
瀬名が笑った。
「では、乳母に付き添わせましょう」
「いや、すぐ近くに控えてもらえればよい。何かあれば呼ぶ」
「さようでございますか」
瀬名は少し考えたが、特に反対はしなかった。
「それでは、お気をつけくださいませ」
「分かっておる」
息子を抱いたまま立ち上がる。
すると、竹千代が俺の衣を掴んだ。
小さな指が布をしっかり握っている。
「……離してくれぬか」
当然ながら返事はない。
結局、掴ませたまま歩くことになった。
◇
部屋に戻り、付き従ってきた者には外で待ってもらった。
乳母も近くに控えているので、何かあればすぐに呼べる。
人の気配が遠ざかったところで、俺は文箱へ目を向けた。
「かぐや」
返事がない。
「もう大丈夫だよ」
すると、蓋の陰から小さな声がした。
「……本当に?」
「大丈夫。誰か来たら教えるから」
「分かった!」
かぐやが文箱の陰から顔を出した。
そして、俺の腕の中を見るなり、声を上げかけた。
「あっ!」
「しーっ」
慌てて指を口元に当てる。
かぐやもすぐに気づいたらしい。
今度は声を出さず、こくこくと頷いた。
俺は息子を抱いたまま、文箱の近くに腰を下ろした。
「ほら、こいつが俺の息子」
かぐやが身を乗り出す。
「わあ……!」
今度は囁くような声だった。
「ちっちゃい!」
「そりゃ赤ん坊だからな」
「そうだけど! 手とか、すっごく小さいね!」
「見た目より力は強いんだぞ」
ちょうどそのとき、息子が小さな手を伸ばしてきた。
指が俺の衣に引っかかる。
「ほらな」
「本当だ!」
かぐやは楽しそうだった。
俺が抱く位置を少し変えると、息子は今度は文箱の方へ顔を向けた。
「お?」
かぐやが声を漏らした。
「こっち見てる!」
「そうみたいだな」
「竹千代、私のこと分かるのかな?」
「どうだろう。まだ何でも気になる年頃だからな」
「そっかー」
かぐやは少し身体を揺らした。
息子はその動きを目で追っているようだった。
「ほら、竹千代。動くものが気になるみたいだぞ」
「えっ、私?」
「ああ」
「じゃあ……」
かぐやが身体を右へ傾ける。
息子の視線も、そちらへ動いた。
今度は左。
また視線が動く。
「おおー!」
かぐやが嬉しそうな声を出した。
「見て見て! ちゃんと追いかけてる!」
「見てるよ」
「可愛いー!」
かぐやはしばらく同じことを繰り返していた。
俺も面白くなって、息子の顔を覗き込む。
すると、今度は俺の方を見た。
「……何だよ」
当然、返事はない。
ただ、小さな手が伸びてきて、また鼻を触られた。
「おっと」
「また触られてる!」
かぐやが笑った。
「竹千代の顔、そんなに面白いのかな?」
「普通の顔だと思うんだけどな」
「えー、分かんないよ?」
「何が?」
「赤ちゃんには面白く見えてるかもしれないじゃん!」
「それはちょっと嫌だな……」
二人で笑った。
その間も息子は、俺の鼻を掴んだり、衣を引っ張ったりと忙しそうだった。
やがて、かぐやがふと黙った。
どうしたのかと思って見ると、じっと息子を眺めている。
「……何か気になる?」
「ううん」
かぐやは小さく身体を揺らした。
「竹千代の赤ちゃんなんだなーって」
「そうだよ。俺の息子」
「何か面白いね!」
「何が?」
「だってさ、最初に会ったときの竹千代なんて、こんなに小さかったのに!」
「いや、さすがにここまで小さくはなかっただろ」
「あはは! そうだった!」
かぐやが笑う。
俺も笑いかけたところで、腕の中の息子がもぞもぞと動き始めた。
小さな顔がくしゃりと歪む。
まずい。
これは泣く前の顔だ。
「……あ」
「えっ?」
次の瞬間、元気な泣き声が部屋に響いた。
「ふぎゃあああ!」
「うわっ!」
かぐやが驚いて文箱の陰へ引っ込んだ。
俺も慌てて息子を抱き直す。
「よしよし、どうした。腹が減ったか?」
当然ながら返事はない。
代わりに泣き声が大きくなった。
「元康様、いかがなさいました!」
戸の向こうから声がした。
乳母である。
「ああ、少しぐずり始めてな。すまぬが、来てくれぬか」
「ただいま!」
返事をして、乳母が入ってくる。
俺は息子を預け、泣き止むのを確かめた。
どうやら腹が減っていたらしい。
乳母が息子を連れて下がった後、文箱からかぐやが顔を出した。
「びっくりしたー!」
「俺もびっくりしたよ」
「急に泣くんだもん!」
「赤ん坊ってそういうものだからな」
「そっかぁ……」
かぐやは少し考えてから、また楽しそうな声を出した。
「でも、可愛かったね!」
「だろ?」
「うん! また見せてよ!」
「いいけど、次はもう少し大人しくしてくれると助かるな」
「えー、私、ちゃんと静かにしてたじゃん!」
「最後は驚いて声出してただろ」
「あれは竹千代の赤ちゃんが急に泣くから!」
「いや、あいつは悪くないだろ」
かぐやが笑った。
俺もつられて笑う。
◇
永禄三年。
この頃になると、今川家と織田家の間で戦が起こることは、別に珍しい話ではなくなっていた。
俺自身、すでに今川方の武将として何度か兵を率いている。
尾張方面の情勢についても、家臣たちから報告を受ける機会が増えていた。
今川家は強大だった。
駿河、遠江を中心に三河にも勢力を広げ、尾張の織田家と争っている。
前世では、今川義元といえば桶狭間で負けた人物という印象が強かった。
しかし、今の俺にとっては違う。
元服の際に名前を与えてくれた主君であり、俺を武将として取り立ててくれた人物だった。
今川家の庇護がなければ、松平家がどうなっていたかも分からない。
少なくとも、俺がこうして駿府で暮らし、妻子を持ち、家臣たちに囲まれていられるのは、今川家のおかげでもあった。
そのことは、忘れようがなかった。
とはいえ、だからといって将来のことが気にならなくなるわけでもない。
桶狭間。
今川義元が織田信長に討たれる戦い。
その出来事自体は、前世から知っていた。
だが、正確な年月日を覚えているわけではない。
何年の出来事だったかさえ、少々怪しい。
信長が少数の兵で大軍を破った、という話は覚えている。
雨が降っていたとか、奇襲だったとか、そんなことも聞いた気がする。
ただ、それ以上のことになると、記憶は随分と曖昧だった。
だからこそ、今川家が尾張へ兵を進めるという話を聞くたびに、どうしても気になってしまう。
今回がそうなのか。
それとも、まだ先なのか。
そんなことを考えるようになっていた。
◇
「殿、尾張表についてご報告がございます」
その日、酒井忠次が持ってきたのは、尾張方面の戦況についての知らせだった。
忠次は俺が幼い頃から付き従ってくれている家臣で、今では軍事のことでも何かと頼りにしている。
「聞こう」
「大高城の周辺に、織田方が砦を構えております。鷲津、丸根の両砦により、城への出入りも難しくなっているとのこと」
大高城。
聞き覚えのある名前だった。
いや、何度か報告に出てきているのだから、当然ではある。
尾張にある今川方の城で、織田方と対峙している重要な拠点だ。
「城の兵糧はどうなっておる?」
「十分とは申せませぬ。敵の動きもあり、運び入れるには相応の備えが必要かと」
「そうか……」
俺は広げられた図へ目を落とした。
大高城と、その周囲に築かれた砦。
忠次が指し示した場所を順番に確かめる。
「この道は使えぬのか?」
「通れぬわけではございません。ただ、敵に知られず兵糧を運ぶとなれば、容易ではありますまい」
「なるほどな」
俺は頷いた。
尾張の織田家。
その当主は織田信長である。
今の時点では、今川家の方がずっと大きな勢力を持っている。
それでも、信長が侮れない相手であることは、家中でも認識されていた。
何しろ、実際に今川方の城を脅かしているのだ。
その相手と、これから本格的に戦うことになる。
「ところで、御屋形様は?」
「尾張への大きな出兵をお考えとのこと。詳しくは追って沙汰が下りましょう」
俺は顔を上げた。
「……大きな出兵か」
「はっ。此度は相応の軍勢を動かされるものと存じます」
忠次は落ち着いた様子で答えた。
俺はもう一度、目の前の図を見た。
大高城。
尾張。
織田信長。
そして、今川義元の出陣。
頭の中で、いくつかの名前が結びついた。
まさか。
いや、待て。
今川家と織田家は、以前から争っている。
尾張への出兵だって、今回が初めてではない。
だから、これだけで桶狭間だと決めつけるのは早い。
早いのだが……。
「殿?」
忠次の声に顔を上げた。
「いかがなされました?」
「ああ、いや……」
俺は少し迷った。
ここで何を聞けばいいのだろう。
織田方の兵力か。
信長の居場所か。
それとも、義元自身の進軍経路か。
どれも大切な情報だが、今の俺が知ったところで、未来の出来事と結びつけられる自信はない。
結局、俺は目の前の問題について尋ねることにした。
「我ら松平勢にも、出陣の沙汰があると思うか?」
「まず間違いございますまい。三河衆としても、此度は大きな働きどころとなりましょう」
「……そうか」
忠次は頼もしげに頷いた。
「殿におかれましても、御武運を示されるよき機会にございます」
ありがたい話である。
初陣を済ませてから、俺もそれなりに戦を経験してきた。
家臣たちも、以前より俺を信頼してくれているらしい。
ただ、今回ばかりは素直に喜べなかった。
俺は図の上に置いていた手を引いた。
「分かった。沙汰があり次第、すぐに知らせてくれ」
「はっ」
忠次は頭を下げ、部屋を出ていった。
一人になってからも、俺はしばらく図を眺めていた。
桶狭間。
確か、今川義元は尾張へ大軍を率いて攻め込んだはずだ。
その途中で、織田信長に討たれる。
俺が覚えているのは、そこまでである。
……どうする?
もし今回が桶狭間なら、義元は死ぬ。
だが、違ったら?
それに、たとえ今回が桶狭間だったとして、俺に何ができる?
考えれば考えるほど、分からなくなってきた。
俺は図を畳み、もう一度忠次を呼ぶことにした。
出陣の沙汰が下る前に、せめて大高城の周囲について、もう少し詳しく聞いておきたかった。
◇
呼び戻した忠次に、俺はいくつかのことを尋ねた。
大高城へ通じる道のこと。織田方の動き。今川本隊がどの辺りを進む予定なのか。
忠次は一つずつ答えてくれたが、当然ながら、まだ決まっていないことも多かった。
「御屋形様の本陣がどこに置かれるかは、進軍の具合にもよりましょう。今のうちから細かく定めるのは難しいかと」
「そうか……」
「何かお気がかりなことでも?」
俺は少し迷った。
今川義元が桶狭間で討たれる。
そのことを知っている、と正直に話したところで信じてもらえるはずがない。
かといって、黙っているのも気分が悪かった。
「織田勢の動きが気になってな。兵の数では我らが勝っておるとしても、信長が大人しくしているとは思えぬ」
「それは我らも承知しております。敵も尾張を守るため、必死に抗いましょう」
「ならば、御屋形様の周囲にも十分な物見を出しておいた方がよい。敵の動きを見誤っては困る」
忠次は頷いた。
「ごもっともにございます。ただ、御本陣には御本陣の備えがございます。我らの方から進言することはできますが……」
「ああ。分かっておる」
今川義元ほどの大名が、周囲の警戒すらせずに戦へ出るわけがない。
そんなことは俺にだって分かる。
織田信長に注意しろ、などという話は、俺が言わなくとも誰かが考えているだろう。
問題は、いつ、どこで、どのように義元が討たれるのか、ということだ。
それが分からない。
せめて正確な場所だけでも覚えていれば、もう少し具体的な話ができたかもしれないのに。
「……ともかく、我らも敵の動きには十分気を配ろう。物見を惜しまず、気になることがあればすぐに知らせてほしい」
「承知いたしました」
忠次は頭を下げた。
その後、今川本隊へも警戒を怠らぬよう進言しておくことになった。
ただ、俺自身、それで何かが変わるとはあまり思えなかった。
何しろ、敵に警戒しろというのは、戦であれば当たり前のことなのだから。
◇
出陣の沙汰が下ったのは、それから間もなくのことだった。
今川義元が大軍を率いて尾張へ進む。
俺も松平勢を率いて参陣することになった。
いよいよである。
こうなってくると、さすがに桶狭間のことを考えずにはいられなかった。
永禄三年。
尾張への大規模な出兵。
今川義元と織田信長。
これだけ条件が揃っていれば、今回が桶狭間である可能性は高い。
ただ、やはり確信は持てなかった。
俺が知っている桶狭間の戦いは、教科書に載っていた程度のものだ。
今川義元が大軍を率いて尾張へ攻め込み、少数の織田軍に敗れて討ち死にする。
覚えているのはそれくらいである。
そもそも、なぜそんなことになったのか。
詳しい経緯は知らなかった。
前世の俺がもう少し歴史好きだったら、随分と違ったのだろうか。
いや、今さら考えても仕方がない。
俺は俺にできることをするしかなかった。
出陣の支度を進める傍ら、瀬名にも話をした。
「此度は、しばらく戻れぬかもしれぬ」
「承知しております」
瀬名は落ち着いた様子だった。
初めて戦に出るわけではない。俺が留守にすることにも、以前より慣れてきているのだろう。
「竹千代のことは、私どもにお任せくださいませ」
「ああ。頼む」
息子は相変わらず元気だった。
瀬名に抱かれながら、こちらを見ている。
俺が指を近づけると、すぐに握られた。
「……また大きくなったな」
「毎日ご覧になっているではありませんか」
「そうなのだが、見るたびに大きくなっている気がする」
瀬名が笑った。
俺も笑いながら、息子の手を軽く握り返した。
「父上はしばらく留守にするぞ」
当然ながら、返事はなかった。
ただ、指を握る力が少し強くなった。
「……何とも頼もしいな」
「まだ何も分かっておりませぬよ」
「それもそうか」
瀬名は息子を抱き直し、それから俺へ向き直った。
「殿も、お身体にはお気をつけくださいませ」
「ああ。無事に戻る」
そう答えると、瀬名は頭を下げた。
俺はもう一度息子の顔を見てから、部屋を出た。
◇
「で、竹千代。今回はどうするの?」
かぐやに尋ねられたのは、出陣前の夜だった。
「どうするって?」
「戦だよ。何か考えてるんでしょ?」
「まあ、いろいろとな」
俺は荷物を確かめながら答えた。
戦に持っていくものは多い。身の回りの品から書付まで、必要なものを揃えるだけでも一仕事である。
その中に、かぐやが身を隠すための小さな箱もあった。
「今回も一緒に行くんだよな?」
「うん。そのつもり!」
「結構危ないかもしれないぞ」
「今までもそうだったじゃん」
「それはそうだけどさ」
かぐやは、俺が戦に出るようになってからも、何度か同行している。
もちろん、家臣たちには秘密である。
人の目が多いところでは箱の中で大人しくしているし、俺も不用意に取り出したりはしない。
それでも、危険がないわけではなかった。
何かあったときに、必ず守ってやれるとは限らない。
「竹千代」
「ん?」
「もしかして、今回の戦って何かあるの?」
俺は荷物をまとめる手を止めた。
「……どうして?」
「だって、最近ずっと難しい顔してるし。いつもの戦の前とはちょっと違うなーって」
何年も一緒にいるだけあって、そういうところにはよく気がつく。
俺は少し迷った末、かぐやに話すことにした。
「前にも言ったと思うけど、俺はこの時代の歴史を少し知ってるんだよ」
「うん。学校で習ったんでしょ?」
「そう。それでさ、今川義元って、織田信長との戦で死ぬんだ」
「……あの偉い人?」
「ああ。俺が元服したときに名前をくれた人」
かぐやは少し考えた。
「その戦が、今回かもしれないってこと?」
「そうなんだよな」
「そっかぁ」
それから、かぐやは当然のように尋ねてきた。
「じゃあ、助けられないの?」
俺は答えに詰まった。
「……助けたいとは思ってるよ」
「うん」
「でも、どうすれば助けられるのか分からないんだ。どこで死ぬのかも、何が原因なのかも、ほとんど覚えてない」
「そっか」
「一応、敵には気をつけた方がいいって話はしてあるんだけどね」
「それだけじゃ足りない?」
「……どうだろうな」
正直に言えば、足りない気がする。
しかし、それ以上何を言えばいいのか。
義元に直接会って、未来から来た人間だからあなたが死ぬことを知っている、とでも言うのか。
そんなことを言い出したら、俺の方がどうなるか分からない。
「何かあったら、もう少し具体的に動けると思うんだけどさ」
「うん」
「今はまだ、何も分からないんだよ」
かぐやはしばらく黙っていた。
それから、小さく身体を揺らした。
「じゃあ、分かったときに考えようよ」
「……そうだな」
「何も起きないかもしれないし!」
「ああ。それなら一番いいんだけどな」
俺は荷物をまとめ直した。
かぐやも、それ以上は何も聞かなかった。
◇
今川軍が尾張へ進む。
大軍の行進というものは、なかなか壮観だった。
道には兵が連なり、荷駄が続く。馬の足音と人の声が絶えず、場所によっては進むだけでも時間がかかった。
これだけの軍勢を動かせるのだから、今川家の力は大したものだと思う。
ただ、実際にその中にいると、壮観だなどと感心している余裕はあまりなかった。
兵が多ければ、その分だけ食料が必要になる。
水もいる。
荷を運ぶ者も必要だし、道が狭ければ行軍が滞る。
それに、軍勢が一か所に集まれば何かと揉め事も起こる。
俺は松平勢の様子を確かめながら、家臣たちと連日相談を重ねていた。
そんな折、今川方から新たな命令が下った。
大高城への兵糧搬入である。
「……大高城か」
話を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
今川方の城である大高城は、織田方の砦によって圧迫されている。
そこへ食料を運び込めというのだ。
当然、簡単な仕事ではない。
「敵に妨げられることも考えねばなりますまい」
忠次が言った。
「そうだな。荷を抱えて戦うのは避けたいところだ」
「夜陰に乗じて運び入れる手立てがよろしいかと」
俺は頷いた。
大高城への兵糧搬入。
この話には聞き覚えがあった。
確か、徳川家康は桶狭間の戦いで大高城へ兵糧を運び込んでいたはずだ。
……ということは。
やはり、今回なのか。
俺は図を見つめた。
桶狭間という名前は覚えている。
だが、肝心の場所が分からない。
大高城との位置関係も、よく知らなかった。
「殿?」
忠次がこちらを見た。
「ああ、すまぬ。続きを聞こう」
今は目の前の仕事を果たすしかない。
俺は兵糧の量や運搬経路について、家臣たちと相談を始めた。
◇
兵糧の搬入は、ひどく神経を使う仕事だった。
夜になっても、思うように進めるとは限らない。
道が悪ければ荷車は止まるし、荷を担ぐ者が足を滑らせれば、そのたびに列が乱れる。
敵に気づかれないよう気を配りながら、それでも進まなければならなかった。
「殿、前方に物見を出しております」
「分かった。戻るまでは進みすぎぬように」
「はっ」
暗がりでは、少し離れただけで人の顔も見えにくくなる。
松明を増やせば歩きやすくなるが、今度は敵からも見つかりやすい。
なかなか面倒な話だった。
荷を運ぶ者たちの息遣いが聞こえる。
途中で一人が足を取られ、俵を落としかけた。
近くの兵が慌てて支える。
「大丈夫か」
「はっ、申し訳ございませぬ!」
「怪我はないな?」
「ございませぬ」
「ならばよい。急がず、足元に気をつけよ」
そう言って先へ進ませた。
誰かが転んで怪我でもすれば、それだけで仕事が増える。
ましてや、ここは敵のいる土地である。
余計な騒ぎを起こすわけにはいかなかった。
途中、何度か足を止めることもあった。
敵の動きを確かめ、進む道を変え、荷の遅れを待つ。
そのたびに時間が過ぎていく。
俺は何度も空を見上げた。
夜が明ける前に、何とか城へ辿り着きたい。
その一心だった。
そして、ようやく。
大高城へ兵糧を運び込むことに成功した。
「殿、すべて運び終えましてございます!」
報告を聞いたとき、俺は思いきり息を吐いた。
「……よかった」
声に出してしまった。
近くにいた忠次が、少し笑った。
「見事なお働きにございます」
「いや、皆がよくやってくれた」
実際、そのとおりだった。
俺一人で運べる量ではないし、道を探った者や荷を運んだ者がいなければ、とても成功しなかった。
それでも、無事に終わったことが嬉しかった。
肩の荷が下りた気がする。
もっとも、まだ戦は終わっていない。
大高城の周囲には織田方の砦が残っていた。
◇
翌朝、松平勢は丸根砦へ攻めかかった。
こちらが攻めれば、向こうも当然抵抗する。
城へ兵糧を入れる仕事とは違い、今度は真正面から敵と戦わなければならなかった。
砦から矢が飛んでくる。
近くで兵が倒れ、別の者がそれを引きずって下がった。
俺は家臣たちから報告を受けながら、兵を進めた。
「無理に一か所へ集まるな! 敵の動きをよく見よ!」
声を張り上げる。
こちらの兵が砦へ迫ると、敵も必死に防いできた。
当然だ。
向こうだって、死にたくはないだろう。
しかし、こちらも引くわけにはいかなかった。
戦が長引けば、それだけ味方の損害も増える。
やがて、丸根砦は落ちた。
鷲津砦も今川方の攻撃によって陥落したという知らせが届いた。
大高城を圧迫していた織田方の拠点が、立て続けに失われたことになる。
「殿、これで御屋形様の軍勢も進みやすくなりましょう」
忠次が言った。
「ああ。そうだな」
俺は頷いた。
兵糧搬入は成功。
丸根砦も攻略した。
今川方としては、順調な戦況である。
少なくとも、今のところは。
「……忠次」
「はっ」
「御屋形様の本隊について、何か知らせは来ておらぬか?」
「進軍を続けておられるとのこと。詳しいことは、まだ」
「そうか」
今川義元がどこを進んでいるのか。
織田信長が何をしているのか。
肝心なところが分からなかった。
ただ、今回が桶狭間であることについては、もう疑いようがない気がしていた。
俺は一度、大高城へ戻ることにした。
兵たちも疲れている。
休ませる必要があった。
◇
「竹千代、お疲れさま」
人目がなくなったところで、かぐやが声をかけてきた。
「……ああ。疲れたよ」
俺は腰を下ろし、兜を外した。
首筋に汗が流れる。
甲冑を着て動き回ったせいで、身体のあちこちが重かった。
「大丈夫?」
「怪我はしてないよ。ちょっと疲れただけ」
「そっか。よかった」
かぐやはそれ以上、何も言わなかった。
普段なら、戦の様子をあれこれ聞いてくるところだ。
俺は水を飲み、少し落ち着いてから話しかけた。
「なあ、かぐや」
「ん?」
「やっぱり、今回が桶狭間だと思う」
「……あの、偉い人が死ぬ戦?」
「ああ」
かぐやは少し黙った。
「もう始まってるの?」
「そうだな。少なくとも、俺が知ってる話とかなり似てる」
「そっか」
「でも、今川は勝ってるんだよ」
俺は苦笑した。
「兵糧も運び込めたし、敵の砦も落とした。今のところは順調なんだ」
「うん」
「これで義元様が死ぬなんて、正直、あんまり想像できない」
そう言ってから、少し嫌な気分になった。
未来のことを知っているからこそ、今の戦況を素直に喜べない。
ただ、それだけだった。
俺は再び水を飲んだ。
「……少し休むよ」
「うん。おやすみ、竹千代」
かぐやは大人しく引き下がった。
俺は横になった。
疲れていたせいか、ほどなく眠りに落ちた。
◇
目を覚ましたのは、人の声が聞こえたからだった。
何やら外が騒がしい。
最初は敵でも来たのかと思った。
しかし、聞こえてくるのは戦の声ではなく、慌ただしく行き交う足音と、何かを話す声だった。
「殿!」
忠次が入ってきた。
その顔を見て、俺は身体を起こした。
「どうした?」
「御本陣について、妙な知らせが届いております」
「妙な知らせ?」
「……御屋形様が討たれた、と」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
いや。
分かっていた。
分かっていたはずなのに、すぐには言葉が出なかった。
「……何だと?」
「まだ確かなことではございませぬ。織田勢が御本陣を襲い、御屋形様が討死なされたとの噂が広まっております」
俺は立ち上がった。
「誰からの知らせだ?」
「落ち延びてきた者が申しております。ただ、戦場は混乱しており、話も食い違っております」
「……そうか」
桶狭間。
今川義元の討死。
ついに、その知らせが届いてしまった。
しかし、まだ噂である。
本当に義元が死んだのか、それとも織田方が流した偽の知らせなのか。
ここで間違った判断をすれば、こちらまで危険にさらされる。
「物見を出せ。御本陣の様子を確かめさせよう」
「はっ」
「それと、兵には不用意に騒がぬよう伝えてくれ。まだ確かめたわけではない」
「承知いたしました」
忠次はすぐに動いた。
俺も甲冑を身につけ直した。
手が少し震えていた。
紐を結び直す。
なかなかうまくいかなかった。
「……竹千代」
かぐやの声がした。
俺は顔を上げた。
「本当に、死んじゃったの?」
「……まだ分からない」
そう答えた。
だが、心の中では違うことを考えていた。
知っていた。
俺は知っていたのだ。
今川義元が桶狭間で死ぬことを。
だからこそ、何度も考えた。
何かできないかと。
それでも、結局。
俺は何も変えられなかったのかもしれない。
◇
夕方になって、さらに詳しい知らせが届いた。
織田信長の軍勢が今川本隊へ攻めかかったこと。
今川方が大きく崩れたこと。
そして、義元が討たれたということ。
それでも、俺はすぐには信じなかった。
いや、信じたくなかったのかもしれない。
やがて、伯父に当たる水野信元からも知らせがもたらされた。
信元は織田方についている人物である。
そのため、何もかも鵜呑みにするわけにはいかなかったが、複数の知らせが同じことを伝えていた。
物見からの報告も、今川本隊が敗れたことを裏づけていた。
もはや、否定する理由の方が少なかった。
「……御屋形様が、討たれたか」
俺はようやく口にした。
忠次は黙って頭を下げた。
周囲の家臣たちも、誰も何も言わなかった。
しばらくして、一人が尋ねた。
「殿、いかがいたしましょう」
俺は顔を上げた。
そうだ。
今は、考えている場合ではない。
今川義元が死んだ。
それによって、俺たちは敵中に取り残された。
織田方の軍勢がこのまま押し寄せてくる可能性もある。
大高城に留まれば、安全だという保証はなかった。
「……まず、兵の様子を確かめよう。動ける者がどれほどいるか、負傷者はどうするか。それを決めねばならぬ」
「はっ」
「それから、帰る道を探る。敵の動きを見誤るわけにはいかぬ」
忠次が頷いた。
「では、岡崎へ?」
「……ああ」
岡崎。
俺が生まれた城のある場所だ。
長い間、帰ることのできなかった故郷である。
だが、今は感慨に浸っている場合ではなかった。
「今川方の軍勢がどうなっているかも分からぬ。敵に見つからぬ道を探し、無理のないところで動こう」
「承知いたしました」
家臣たちが動き始めた。
俺も必要な指示を出した。
その間、何度も頭に浮かんだ。
義元が死んだ。
本当に、死んでしまった。
元服のとき、俺に名前を与えてくれた人物。
松平家を庇護し、俺を武将として取り立ててくれた主君。
あの人は、もういない。
前世では、桶狭間で死んだ人というだけだった。
それが今では、顔も声も覚えている。
直接言葉を交わしたこともある。
戦の働きを褒められたこともあった。
そんな人間が死んだのだ。
俺は、知っていたのに。
◇
大高城を出るまでには、しばらく時間がかかった。
状況を確かめ、動ける者を集め、残していくものを選ばなければならない。
何より、敵の動きが分からなかった。
今川本隊が敗れた以上、織田方は勢いづいているはずだ。
無理に動けば、逃げる途中で討たれるかもしれない。
「殿、支度が整いました」
忠次が報告に来た。
「そうか」
俺は頷いた。
「では、参ろう」
大高城を後にする。
せっかく兵糧を運び込み、敵の砦まで落としたというのに、こうして逃げることになるとは。
戦というものは、本当に分からない。
進む道は慎重に選んだ。
敵の動きを探りながら、できるだけ危険を避けて進む。
途中で何度か足を止めることもあった。
遠くから人の声が聞こえるたびに、兵たちが身構える。
俺も落ち着かない。
それでも、ここで慌ててはならなかった。
もし俺が取り乱せば、家臣たちまで不安になる。
そう思って、できるだけ普段どおりに振る舞った。
もっとも、内心では何度も冷や汗をかいていたのだが。
やがて、三河へ入った。
岡崎までは、もう遠くない。
◇
岡崎へ戻った俺たちは、まず松平家の菩提寺である大樹寺へ入った。
城にはまだ今川方の兵がいた。
今川義元が討たれたからといって、すぐに俺の城になるわけではない。
何より、今川家そのものが滅んだわけではなかった。
義元には息子の氏真がいる。
駿府には、俺の妻と息子も残っている。
ここで勝手な行動をすれば、二人を危険にさらすことになるかもしれない。
そのことは、頭から離れなかった。
「殿、岡崎城の様子については引き続き探らせております」
忠次が言った。
「ああ。頼む」
「今川方も混乱しているようにございます」
「そうだろうな……」
当主が突然討たれたのだ。
家中が混乱するのも無理はない。
俺はしばらく考えてから、忠次に尋ねた。
「駿府へは、知らせを送れるか?」
「道中の情勢を確かめねばなりませぬが、手立てはございます」
「ならば頼む。瀬名と竹千代の様子が知りたい」
忠次は深く頷いた。
「承知いたしました」
その後、俺は寺の一室でようやく身体を休めることができた。
甲冑を脱ぎ、腰を下ろす。
長い一日だった。
いや、何日も続けていたような気がする。
大高城への兵糧搬入。
丸根砦の攻略。
今川義元の討死。
そして、大高城からの退却。
少し前までは、何とか無事に戦を終えられそうだと思っていたのだ。
それが、こんなことになるとは。
「竹千代」
かぐやが声をかけてきた。
俺は顔を上げた。
「……何?」
「大丈夫?」
「ああ。怪我はしてないよ」
「そうじゃなくて」
かぐやはそこで言葉を切った。
俺も何も言わなかった。
しばらくしてから、かぐやが尋ねた。
「……あの人、死んじゃったんだね」
「うん」
それだけ答えた。
かぐやは黙っていた。
俺は膝の上に置いていた手を見つめた。
「……知ってたんだよな」
「うん」
「前から、義元様が死ぬってことは知ってたんだ」
かぐやは返事をしなかった。
「でも、結局何もできなかった」
言ってから、少し違う気がした。
何もしていないわけではない。
敵に注意するよう進言もした。
情報も集めた。
自分なりにできることはやったつもりだった。
ただ、それでも結果は変わらなかった。
「……いや、何もできなかったわけじゃないか」
俺は小さく息を吐いた。
「でも、助けられなかったんだよ」
「そっか」
かぐやは短く答えた。
慰めの言葉はなかった。
俺も、別に慰めてほしいわけではなかった。
しばらくして、かぐやが声をかけてきた。
「竹千代」
「ん?」
「ご飯、食べてないでしょ」
「……ああ」
言われて気づいた。
今日はまともに食事を取っていなかった。
「食べた方がいいよ」
「そうだな」
「明日も忙しいんでしょ?」
「うん。多分な」
「じゃあ、ちゃんと食べなきゃ」
俺は少し笑った。
「分かったよ」
立ち上がろうとして、身体の重さに顔をしかめた。
思っていた以上に疲れている。
「……かぐや」
「何?」
「ちょっとだけ、休んでからにするよ」
「うん。そうしな」
俺は再び腰を下ろした。
かぐやも、それ以上は何も言わなかった。
◇
岡崎城から今川方の兵が退いたという知らせが届いたのは、それから数日後のことだった。
「殿、城が空きましてございます」
報告を聞いたとき、俺はしばらく黙っていた。
岡崎城。
俺が生まれた場所である。
幼い頃に離れてから、随分と長い時間が経っていた。
父の広忠が亡くなった後も、松平家の本拠でありながら、俺自身が城主として暮らすことはできなかった。
その城へ、ようやく帰ることができる。
「……そうか」
俺は頷いた。
忠次がこちらを見ていた。
その顔には、何とも言えない表情が浮かんでいる。
嬉しそうでもあり、どこか疲れているようでもあった。
「殿」
「何だ?」
「お帰りになれますな」
短い言葉だった。
俺は少し笑った。
「ああ。ようやくだな」
忠次は深く頭を下げた。
俺たちは大樹寺を出て、岡崎城へ向かった。
城が見えてきたとき、俺は思わず足を止めた。
覚えている。
幼い頃の記憶は曖昧なものも多いが、この城のことは覚えていた。
俺はここで生まれた。
ここで暮らし、やがて人質として外へ出された。
それから十年以上。
尾張へ行き、駿府へ移り、元服し、結婚し、戦に出た。
今では息子までいる。
何とも長い道のりだった。
「殿?」
忠次が声をかけてきた。
「ああ、すまぬ」
俺は歩き出した。
城へ入ると、松平家の家臣たちが迎えてくれた。
久しぶりに会う者もいた。
初めて顔を合わせる者もいた。
皆、俺が帰ってきたことを喜んでいるようだった。
ありがたい話である。
ただ、俺はまだ素直に喜べなかった。
今川義元が死んだ。
それによって、俺は岡崎へ戻ることができた。
あの人が生きていれば、こうして帰ることはなかったかもしれない。
そう考えると、どうにも複雑だった。
それでも、家臣たちの前で暗い顔をするわけにはいかない。
「皆、よく留守を守ってくれた」
そう言うと、家臣たちは頭を下げた。
中には、涙を浮かべている者もいた。
俺は一人ずつ声をかけた。
名前を覚えている者には名前を呼び、知らない者にはこれまでの働きを尋ねた。
時間はかかったが、急ぐ理由もなかった。
俺が帰ってきたことを、こんなにも喜んでくれる人間がいる。
そのことは、素直に嬉しかった。
◇
その日の夜。
岡崎城の一室で、俺はようやく一息ついた。
部屋は広かった。
駿府で暮らしていた頃とは、何もかもが違う。
ここは松平家の城であり、俺が生まれた場所だ。
そして今、俺はその主として迎えられている。
「竹千代ー」
かぐやが声をかけてきた。
「何?」
「ここが岡崎城?」
「ああ。俺が生まれた城だよ」
「へえー!」
かぐやは部屋を見回しているようだった。
「結構広いね!」
「そうだな。俺も久しぶりだから、まだ落ち着かないけど」
「そっかぁ」
かぐやは少し考えた。
「竹千代、嬉しい?」
「……うん」
俺は頷いた。
「嬉しいよ。やっぱり、自分が生まれた場所だからな」
「そっか!」
かぐやは明るい声で言った。
「じゃあ、おかえり!」
俺は少し驚いた。
「……何だよ、急に」
「だって、帰ってきたんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、おかえりでいいじゃん!」
なるほど。
確かに、そのとおりだった。
俺は少し笑った。
「……ただいま」
かぐやも笑った。
それから、しばらく二人で話をした。
岡崎城のこと。
駿府での暮らしのこと。
これからどうなるのかということ。
ただ、今後のことについては、俺にもまだ分からなかった。
今川義元が死んだからといって、今川家との関係がすぐに終わるわけではない。
駿府には氏真がいる。
妻と息子も残っている。
三河には、今川家に従っている者もいれば、織田家に近い者もいる。
俺が岡崎城へ戻ったことで、すべてが解決したわけではなかった。
むしろ、これから考えなければならないことの方が多い。
「ねえ、竹千代」
「ん?」
「これからは、ここに住むの?」
「そうなると思う」
「じゃあ、瀬名ちゃんたちは?」
「……それなんだよな」
俺は少し考えた。
「できれば、早くこっちへ呼びたいんだけど」
「うん」
「今川との関係もあるし、簡単にはいかないと思う」
「そっかぁ」
かぐやは少し黙った。
それから、いつもの調子で言った。
「じゃあ、迎えに行けるように頑張らないとね!」
「……そうだな」
俺は頷いた。
岡崎へ帰ってきた。
それは確かに嬉しいことだった。
しかし、瀬名と竹千代はまだ駿府にいる。
義元が死んだことで、今川家も大きく変わるだろう。
その中で、俺はどうするべきなのか。
今川家に従い続けるのか。
それとも、別の道を選ぶのか。
前世の知識では、徳川家康はこの後、織田信長と同盟を結ぶはずだった。
だが、それがいつだったのか。
どんな経緯だったのか。
細かいことは覚えていない。
そもそも、今の俺には妻と息子がいる。
家臣たちもいる。
歴史通りだからといって、簡単に今川家を裏切るわけにはいかなかった。
「……まいったな」
つい口に出してしまった。
「何が?」
かぐやが尋ねてきた。
「いや、これからのこと考えてたんだよ」
「大変そう?」
「かなり」
「そっかー」
かぐやは少し考えた。
「じゃあ、今日はもう寝たら?」
「……何でそうなるんだよ」
「だって、ずっと疲れてるじゃん。考えるのは明日でもできるでしょ?」
言われてみれば、そのとおりだった。
今夜のうちにすべてを決めなければならないわけではない。
俺は小さく息を吐いた。
「……そうだな。今日はもう寝るか」
「うん!」
かぐやは満足そうだった。
俺は寝る支度を始めた。
久しぶりの岡崎城。
幼い頃に離れた場所へ、ようやく戻ってきた。
前世の知識を頼りに、歴史通りに生きれば何とかなると思っていた。
しかし、桶狭間で今川義元が死んだことで、その考えは少し変わった。
知っていることと、実際にその場にいることは違う。
歴史上の出来事を覚えていても、それを思い通りに変えられるわけではない。
それでも、今の俺にはやらなければならないことがある。
三河のこと。
松平家のこと。
駿府に残した妻と息子のこと。
どれも、前世の教科書には載っていなかった俺自身の問題だった。
「竹千代ー」
「……何?」
「明日、城の中を見て回ってもいい?」
「……人に見つからないようにできるならな」
「やった!」
相変わらず気楽なやつである。
俺は少し笑ってから、布団に入った。
明日から、また忙しくなりそうだった。