徳川家康になったら喋るウミウシと出会った   作:しそ

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桶狭間

「竹千代は、よく眠る子でございますね」

 

瀬名がそう言ったので、一瞬、自分のことかと思ってしまった。

 

もちろん、違う。

 

瀬名が抱いている赤ん坊のことである。

 

昨年、俺と瀬名の間に男の子が生まれた。

 

松平家の跡取りとなる長男で、名前は竹千代。俺が幼い頃に名乗っていたのと同じ名前だ。

 

最初に聞いたときは少し妙な気分だったが、松平家では縁起のよい幼名らしい。周囲も喜んでいたし、別に反対する理由はなかった。

 

ただ、自分と同じ名前の子供がいるというのは、なかなか慣れないものである。

 

「殿?」

 

「ああ、すまぬ。少し考え事をしておった」

 

「お疲れなのではございませんか?」

 

「いや、大丈夫だ」

 

そう答え、瀬名の腕の中を覗き込む。

 

竹千代は気持ちよさそうに眠っていた。小さな手が握られていて、時折、指がぴくりと動く。

 

俺にもこんな頃があったのだろうか。

 

いや、あったのは間違いない。

 

前世の記憶を持ったまま赤ん坊になり、何もできずに苦労した覚えがある。

 

それを思えば、この子は随分と大人しい。

 

「抱いてみられますか?」

 

瀬名に尋ねられ、俺は頷いた。

 

「そうしよう」

 

何度か抱いたことはあるのだが、いまだに少し緊張する。

 

首はもうしっかりしてきたものの、身体はまだ小さい。うっかり落としたりしないよう、腕の位置を確かめながら受け取った。

 

すると、眠っていた竹千代が目を開けた。

 

しばらく俺の顔を見上げていたかと思うと、突然、手を伸ばしてくる。

 

「おっと」

 

指が鼻に当たった。

 

そのまま頬を触られ、今度は口元を掴もうとしてくる。

 

随分と遠慮がない。

 

「殿のお顔が気になるのでしょう」

 

瀬名が笑った。

 

「父親の顔くらい覚えてほしいものだが」

 

「まだ幼いのですから、仕方ございません」

 

「それもそうか」

 

俺は竹千代の手を軽く握った。

 

すると、向こうも指を握り返してきた。

 

思っていたより力が強い。

 

「……元気に育ってくれればよいな」

 

「はい」

 

瀬名は頷いた。

 

その後、竹千代がぐずり始めたので、俺は大人しく瀬名に返した。

 

やはり母親の方が安心するらしい。

 

少々悔しいが、こればかりは仕方がない。

 

◇

 

「竹千代ー!」

 

部屋へ戻ると、早速かぐやの声がした。

 

「ただいま」

 

「おかえり! ねえねえ、赤ちゃんどうだった?」

 

「元気だったよ。今日は俺の顔を随分と触りたがってた」

 

「あはは! 可愛いじゃん!」

 

「まあ、可愛いけどな。結構力も強くなってきたよ」

 

「へえー。大きくなるの早いね!」

 

かぐやは感心したように言った。

 

「そういえばさ、前から思ってたんだけど」

 

「何?」

 

「何で息子にも竹千代って名前つけたの?」

 

「ああ、松平家の跡取りが受け継ぐ名前なんだよ。俺もそうだったし」

 

「ふーん。じゃあ、竹千代が二人いるんだ」

 

「そうなるな」

 

「紛らわしくない?」

 

「……実際、たまに紛らわしい」

 

かぐやが笑った。

 

「じゃあ、私が竹千代って呼んだら、どっちが返事するの?」

 

「今のところ俺だけだよ。あいつはまだ小さいからな」

 

「大きくなったら?」

 

「その頃には、あいつも別の名前になってるんじゃないか?」

 

「そっか。じゃあ大丈夫だね!」

 

何が大丈夫なのかは分からないが、かぐやは納得したらしい。

 

「でもさー、竹千代」

 

「ん?」

 

「竹千代が父親って、何か面白いね!」

 

「何だよ、それ」

 

「だって、最初に会ったときはあんなにちっちゃかったのに、もう結婚して子供までいるんだよ?」

 

「そりゃ何年も経ってるからな」

 

「そうだけどさ。何か不思議じゃん!」

 

かぐやは楽しそうだった。

 

言われてみれば、俺自身も少し不思議な気分ではある。

 

ついこの間まで子供だったような気がするのに、今では妻がいて、息子までいる。

 

おまけに武将として戦に出るようにもなった。

 

前世では二十代半ばまで生きていたが、結婚も子育ても経験したことがない。

 

今の身体はまだ十代なのに、やっていることだけは前世よりずっと大人らしい。

 

もっとも、中身までそれに見合っているかと聞かれると、少々自信がなかった。

 

「ねえ、竹千代」

 

「何?」

 

「赤ちゃん、今度私にも見せてよ!」

 

「え、息子を?」

 

「うん! だって気になるじゃん!」

 

「そうだなあ……」

 

俺は少し考えた。

 

別に、かぐやに見せたくないわけではない。

 

ただ、息子の周囲には瀬名や乳母をはじめ、何かと人がいる。俺が部屋へ連れてくるにしても、まだ幼い子供なのだから、そう簡単に人払いができるわけでもない。

 

「ちょっと難しいかもしれないな。周りに人がいるし、お前が喋ったら大変なことになるだろ?」

 

「あー、そっか……」

 

かぐやは残念そうだった。

 

しかし、すぐに何か思いついたらしい。

 

「あれ? でもさ、私が喋らなければよくない?」

 

「……ああ」

 

言われてみれば、そのとおりだった。

 

「竹千代が抱っこしてるところを、こっそり見るだけでもいいんだけど!」

 

「それなら何とかなるかな」

 

「本当!?」

 

「機会があればな。あいつもまだ小さいし、あんまり連れ回したくないんだよ」

 

「それはそうだね。じゃあ、楽しみにしてる!」

 

「分かったよ」

 

かぐやは随分と嬉しそうだった。

 

それにしても、赤ん坊を見たいだけでここまで喜ぶものだろうか。

 

いや、かぐやにしてみれば、昔から知っている俺の子供なのだ。多少は気になるのかもしれない。

 

そう考えると、少し分かる気もした。

 

◇

 

数日後、かぐやとの約束を果たす機会が訪れた。

 

その日、俺は瀬名のもとを訪ね、息子を抱かせてもらっていた。

 

竹千代は機嫌がよかった。

 

俺の指を掴んだり、衣を引っ張ったりして遊んでいる。

 

これなら、少しくらい連れていっても大丈夫だろう。

 

「瀬名、少しこの子を連れていってもよいか?」

 

そう尋ねると、瀬名は少し意外そうな顔をした。

 

「殿がお一人で、でございますか?」

 

「ああ。少しの間、部屋で過ごそうと思ってな」

 

「珍しゅうございますね」

 

「そうか?」

 

「ええ。殿はいつも、落としてしまわぬかと気になさっておいでですから」

 

「……それは今も気になっておる」

 

瀬名が笑った。

 

「では、乳母に付き添わせましょう」

 

「いや、すぐ近くに控えてもらえればよい。何かあれば呼ぶ」

 

「さようでございますか」

 

瀬名は少し考えたが、特に反対はしなかった。

 

「それでは、お気をつけくださいませ」

 

「分かっておる」

 

息子を抱いたまま立ち上がる。

 

すると、竹千代が俺の衣を掴んだ。

 

小さな指が布をしっかり握っている。

 

「……離してくれぬか」

 

当然ながら返事はない。

 

結局、掴ませたまま歩くことになった。

 

◇

 

部屋に戻り、付き従ってきた者には外で待ってもらった。

 

乳母も近くに控えているので、何かあればすぐに呼べる。

 

人の気配が遠ざかったところで、俺は文箱へ目を向けた。

 

「かぐや」

 

返事がない。

 

「もう大丈夫だよ」

 

すると、蓋の陰から小さな声がした。

 

「……本当に?」

 

「大丈夫。誰か来たら教えるから」

 

「分かった!」

 

かぐやが文箱の陰から顔を出した。

 

そして、俺の腕の中を見るなり、声を上げかけた。

 

「あっ!」

 

「しーっ」

 

慌てて指を口元に当てる。

 

かぐやもすぐに気づいたらしい。

 

今度は声を出さず、こくこくと頷いた。

 

俺は息子を抱いたまま、文箱の近くに腰を下ろした。

 

「ほら、こいつが俺の息子」

 

かぐやが身を乗り出す。

 

「わあ……!」

 

今度は囁くような声だった。

 

「ちっちゃい!」

 

「そりゃ赤ん坊だからな」

 

「そうだけど! 手とか、すっごく小さいね!」

 

「見た目より力は強いんだぞ」

 

ちょうどそのとき、息子が小さな手を伸ばしてきた。

 

指が俺の衣に引っかかる。

 

「ほらな」

 

「本当だ!」

 

かぐやは楽しそうだった。

 

俺が抱く位置を少し変えると、息子は今度は文箱の方へ顔を向けた。

 

「お?」

 

かぐやが声を漏らした。

 

「こっち見てる!」

 

「そうみたいだな」

 

「竹千代、私のこと分かるのかな?」

 

「どうだろう。まだ何でも気になる年頃だからな」

 

「そっかー」

 

かぐやは少し身体を揺らした。

 

息子はその動きを目で追っているようだった。

 

「ほら、竹千代。動くものが気になるみたいだぞ」

 

「えっ、私?」

 

「ああ」

 

「じゃあ……」

 

かぐやが身体を右へ傾ける。

 

息子の視線も、そちらへ動いた。

 

今度は左。

 

また視線が動く。

 

「おおー!」

 

かぐやが嬉しそうな声を出した。

 

「見て見て! ちゃんと追いかけてる!」

 

「見てるよ」

 

「可愛いー!」

 

かぐやはしばらく同じことを繰り返していた。

 

俺も面白くなって、息子の顔を覗き込む。

 

すると、今度は俺の方を見た。

 

「……何だよ」

 

当然、返事はない。

 

ただ、小さな手が伸びてきて、また鼻を触られた。

 

「おっと」

 

「また触られてる!」

 

かぐやが笑った。

 

「竹千代の顔、そんなに面白いのかな?」

 

「普通の顔だと思うんだけどな」

 

「えー、分かんないよ?」

 

「何が?」

 

「赤ちゃんには面白く見えてるかもしれないじゃん!」

 

「それはちょっと嫌だな……」

 

二人で笑った。

 

その間も息子は、俺の鼻を掴んだり、衣を引っ張ったりと忙しそうだった。

 

やがて、かぐやがふと黙った。

 

どうしたのかと思って見ると、じっと息子を眺めている。

 

「……何か気になる?」

 

「ううん」

 

かぐやは小さく身体を揺らした。

 

「竹千代の赤ちゃんなんだなーって」

 

「そうだよ。俺の息子」

 

「何か面白いね!」

 

「何が?」

 

「だってさ、最初に会ったときの竹千代なんて、こんなに小さかったのに!」

 

「いや、さすがにここまで小さくはなかっただろ」

 

「あはは! そうだった!」

 

かぐやが笑う。

 

俺も笑いかけたところで、腕の中の息子がもぞもぞと動き始めた。

 

小さな顔がくしゃりと歪む。

 

まずい。

 

これは泣く前の顔だ。

 

「……あ」

 

「えっ?」

 

次の瞬間、元気な泣き声が部屋に響いた。

 

「ふぎゃあああ!」

 

「うわっ!」

 

かぐやが驚いて文箱の陰へ引っ込んだ。

 

俺も慌てて息子を抱き直す。

 

「よしよし、どうした。腹が減ったか?」

 

当然ながら返事はない。

 

代わりに泣き声が大きくなった。

 

「元康様、いかがなさいました!」

 

戸の向こうから声がした。

 

乳母である。

 

「ああ、少しぐずり始めてな。すまぬが、来てくれぬか」

 

「ただいま!」

 

返事をして、乳母が入ってくる。

 

俺は息子を預け、泣き止むのを確かめた。

 

どうやら腹が減っていたらしい。

 

乳母が息子を連れて下がった後、文箱からかぐやが顔を出した。

 

「びっくりしたー!」

 

「俺もびっくりしたよ」

 

「急に泣くんだもん!」

 

「赤ん坊ってそういうものだからな」

 

「そっかぁ……」

 

かぐやは少し考えてから、また楽しそうな声を出した。

 

「でも、可愛かったね!」

 

「だろ?」

 

「うん! また見せてよ!」

 

「いいけど、次はもう少し大人しくしてくれると助かるな」

 

「えー、私、ちゃんと静かにしてたじゃん!」

 

「最後は驚いて声出してただろ」

 

「あれは竹千代の赤ちゃんが急に泣くから!」

 

「いや、あいつは悪くないだろ」

 

かぐやが笑った。

 

俺もつられて笑う。

 

◇

 

永禄三年。

 

この頃になると、今川家と織田家の間で戦が起こることは、別に珍しい話ではなくなっていた。

 

俺自身、すでに今川方の武将として何度か兵を率いている。

 

尾張方面の情勢についても、家臣たちから報告を受ける機会が増えていた。

 

今川家は強大だった。

 

駿河、遠江を中心に三河にも勢力を広げ、尾張の織田家と争っている。

 

前世では、今川義元といえば桶狭間で負けた人物という印象が強かった。

 

しかし、今の俺にとっては違う。

 

元服の際に名前を与えてくれた主君であり、俺を武将として取り立ててくれた人物だった。

 

今川家の庇護がなければ、松平家がどうなっていたかも分からない。

 

少なくとも、俺がこうして駿府で暮らし、妻子を持ち、家臣たちに囲まれていられるのは、今川家のおかげでもあった。

 

そのことは、忘れようがなかった。

 

とはいえ、だからといって将来のことが気にならなくなるわけでもない。

 

桶狭間。

 

今川義元が織田信長に討たれる戦い。

 

その出来事自体は、前世から知っていた。

 

だが、正確な年月日を覚えているわけではない。

 

何年の出来事だったかさえ、少々怪しい。

 

信長が少数の兵で大軍を破った、という話は覚えている。

 

雨が降っていたとか、奇襲だったとか、そんなことも聞いた気がする。

 

ただ、それ以上のことになると、記憶は随分と曖昧だった。

 

だからこそ、今川家が尾張へ兵を進めるという話を聞くたびに、どうしても気になってしまう。

 

今回がそうなのか。

 

それとも、まだ先なのか。

 

そんなことを考えるようになっていた。

 

◇

 

「殿、尾張表についてご報告がございます」

 

その日、酒井忠次が持ってきたのは、尾張方面の戦況についての知らせだった。

 

忠次は俺が幼い頃から付き従ってくれている家臣で、今では軍事のことでも何かと頼りにしている。

 

「聞こう」

 

「大高城の周辺に、織田方が砦を構えております。鷲津、丸根の両砦により、城への出入りも難しくなっているとのこと」

 

大高城。

 

聞き覚えのある名前だった。

 

いや、何度か報告に出てきているのだから、当然ではある。

 

尾張にある今川方の城で、織田方と対峙している重要な拠点だ。

 

「城の兵糧はどうなっておる?」

 

「十分とは申せませぬ。敵の動きもあり、運び入れるには相応の備えが必要かと」

 

「そうか……」

 

俺は広げられた図へ目を落とした。

 

大高城と、その周囲に築かれた砦。

 

忠次が指し示した場所を順番に確かめる。

 

「この道は使えぬのか?」

 

「通れぬわけではございません。ただ、敵に知られず兵糧を運ぶとなれば、容易ではありますまい」

 

「なるほどな」

 

俺は頷いた。

 

尾張の織田家。

 

その当主は織田信長である。

 

今の時点では、今川家の方がずっと大きな勢力を持っている。

 

それでも、信長が侮れない相手であることは、家中でも認識されていた。

 

何しろ、実際に今川方の城を脅かしているのだ。

 

その相手と、これから本格的に戦うことになる。

 

「ところで、御屋形様は?」

 

「尾張への大きな出兵をお考えとのこと。詳しくは追って沙汰が下りましょう」

 

俺は顔を上げた。

 

「……大きな出兵か」

 

「はっ。此度は相応の軍勢を動かされるものと存じます」

 

忠次は落ち着いた様子で答えた。

 

俺はもう一度、目の前の図を見た。

 

大高城。

 

尾張。

 

織田信長。

 

そして、今川義元の出陣。

 

頭の中で、いくつかの名前が結びついた。

 

まさか。

 

いや、待て。

 

今川家と織田家は、以前から争っている。

 

尾張への出兵だって、今回が初めてではない。

 

だから、これだけで桶狭間だと決めつけるのは早い。

 

早いのだが……。

 

「殿?」

 

忠次の声に顔を上げた。

 

「いかがなされました?」

 

「ああ、いや……」

 

俺は少し迷った。

 

ここで何を聞けばいいのだろう。

 

織田方の兵力か。

 

信長の居場所か。

 

それとも、義元自身の進軍経路か。

 

どれも大切な情報だが、今の俺が知ったところで、未来の出来事と結びつけられる自信はない。

 

結局、俺は目の前の問題について尋ねることにした。

 

「我ら松平勢にも、出陣の沙汰があると思うか?」

 

「まず間違いございますまい。三河衆としても、此度は大きな働きどころとなりましょう」

 

「……そうか」

 

忠次は頼もしげに頷いた。

 

「殿におかれましても、御武運を示されるよき機会にございます」

 

ありがたい話である。

 

初陣を済ませてから、俺もそれなりに戦を経験してきた。

 

家臣たちも、以前より俺を信頼してくれているらしい。

 

ただ、今回ばかりは素直に喜べなかった。

 

俺は図の上に置いていた手を引いた。

 

「分かった。沙汰があり次第、すぐに知らせてくれ」

 

「はっ」

 

忠次は頭を下げ、部屋を出ていった。

 

一人になってからも、俺はしばらく図を眺めていた。

 

桶狭間。

 

確か、今川義元は尾張へ大軍を率いて攻め込んだはずだ。

 

その途中で、織田信長に討たれる。

 

俺が覚えているのは、そこまでである。

 

……どうする?

 

もし今回が桶狭間なら、義元は死ぬ。

 

だが、違ったら?

 

それに、たとえ今回が桶狭間だったとして、俺に何ができる?

 

考えれば考えるほど、分からなくなってきた。

 

俺は図を畳み、もう一度忠次を呼ぶことにした。

 

出陣の沙汰が下る前に、せめて大高城の周囲について、もう少し詳しく聞いておきたかった。

 

◇

 

呼び戻した忠次に、俺はいくつかのことを尋ねた。

 

大高城へ通じる道のこと。織田方の動き。今川本隊がどの辺りを進む予定なのか。

 

忠次は一つずつ答えてくれたが、当然ながら、まだ決まっていないことも多かった。

 

「御屋形様の本陣がどこに置かれるかは、進軍の具合にもよりましょう。今のうちから細かく定めるのは難しいかと」

 

「そうか……」

 

「何かお気がかりなことでも?」

 

俺は少し迷った。

 

今川義元が桶狭間で討たれる。

 

そのことを知っている、と正直に話したところで信じてもらえるはずがない。

 

かといって、黙っているのも気分が悪かった。

 

「織田勢の動きが気になってな。兵の数では我らが勝っておるとしても、信長が大人しくしているとは思えぬ」

 

「それは我らも承知しております。敵も尾張を守るため、必死に抗いましょう」

 

「ならば、御屋形様の周囲にも十分な物見を出しておいた方がよい。敵の動きを見誤っては困る」

 

忠次は頷いた。

 

「ごもっともにございます。ただ、御本陣には御本陣の備えがございます。我らの方から進言することはできますが……」

 

「ああ。分かっておる」

 

今川義元ほどの大名が、周囲の警戒すらせずに戦へ出るわけがない。

 

そんなことは俺にだって分かる。

 

織田信長に注意しろ、などという話は、俺が言わなくとも誰かが考えているだろう。

 

問題は、いつ、どこで、どのように義元が討たれるのか、ということだ。

 

それが分からない。

 

せめて正確な場所だけでも覚えていれば、もう少し具体的な話ができたかもしれないのに。

 

「……ともかく、我らも敵の動きには十分気を配ろう。物見を惜しまず、気になることがあればすぐに知らせてほしい」

 

「承知いたしました」

 

忠次は頭を下げた。

 

その後、今川本隊へも警戒を怠らぬよう進言しておくことになった。

 

ただ、俺自身、それで何かが変わるとはあまり思えなかった。

 

何しろ、敵に警戒しろというのは、戦であれば当たり前のことなのだから。

 

◇

 

出陣の沙汰が下ったのは、それから間もなくのことだった。

 

今川義元が大軍を率いて尾張へ進む。

 

俺も松平勢を率いて参陣することになった。

 

いよいよである。

 

こうなってくると、さすがに桶狭間のことを考えずにはいられなかった。

 

永禄三年。

 

尾張への大規模な出兵。

 

今川義元と織田信長。

 

これだけ条件が揃っていれば、今回が桶狭間である可能性は高い。

 

ただ、やはり確信は持てなかった。

 

俺が知っている桶狭間の戦いは、教科書に載っていた程度のものだ。

 

今川義元が大軍を率いて尾張へ攻め込み、少数の織田軍に敗れて討ち死にする。

 

覚えているのはそれくらいである。

 

そもそも、なぜそんなことになったのか。

 

詳しい経緯は知らなかった。

 

前世の俺がもう少し歴史好きだったら、随分と違ったのだろうか。

 

いや、今さら考えても仕方がない。

 

俺は俺にできることをするしかなかった。

 

出陣の支度を進める傍ら、瀬名にも話をした。

 

「此度は、しばらく戻れぬかもしれぬ」

 

「承知しております」

 

瀬名は落ち着いた様子だった。

 

初めて戦に出るわけではない。俺が留守にすることにも、以前より慣れてきているのだろう。

 

「竹千代のことは、私どもにお任せくださいませ」

 

「ああ。頼む」

 

息子は相変わらず元気だった。

 

瀬名に抱かれながら、こちらを見ている。

 

俺が指を近づけると、すぐに握られた。

 

「……また大きくなったな」

 

「毎日ご覧になっているではありませんか」

 

「そうなのだが、見るたびに大きくなっている気がする」

 

瀬名が笑った。

 

俺も笑いながら、息子の手を軽く握り返した。

 

「父上はしばらく留守にするぞ」

 

当然ながら、返事はなかった。

 

ただ、指を握る力が少し強くなった。

 

「……何とも頼もしいな」

 

「まだ何も分かっておりませぬよ」

 

「それもそうか」

 

瀬名は息子を抱き直し、それから俺へ向き直った。

 

「殿も、お身体にはお気をつけくださいませ」

 

「ああ。無事に戻る」

 

そう答えると、瀬名は頭を下げた。

 

俺はもう一度息子の顔を見てから、部屋を出た。

 

◇

 

「で、竹千代。今回はどうするの?」

 

かぐやに尋ねられたのは、出陣前の夜だった。

 

「どうするって?」

 

「戦だよ。何か考えてるんでしょ?」

 

「まあ、いろいろとな」

 

俺は荷物を確かめながら答えた。

 

戦に持っていくものは多い。身の回りの品から書付まで、必要なものを揃えるだけでも一仕事である。

 

その中に、かぐやが身を隠すための小さな箱もあった。

 

「今回も一緒に行くんだよな?」

 

「うん。そのつもり!」

 

「結構危ないかもしれないぞ」

 

「今までもそうだったじゃん」

 

「それはそうだけどさ」

 

かぐやは、俺が戦に出るようになってからも、何度か同行している。

 

もちろん、家臣たちには秘密である。

 

人の目が多いところでは箱の中で大人しくしているし、俺も不用意に取り出したりはしない。

 

それでも、危険がないわけではなかった。

 

何かあったときに、必ず守ってやれるとは限らない。

 

「竹千代」

 

「ん?」

 

「もしかして、今回の戦って何かあるの?」

 

俺は荷物をまとめる手を止めた。

 

「……どうして?」

 

「だって、最近ずっと難しい顔してるし。いつもの戦の前とはちょっと違うなーって」

 

何年も一緒にいるだけあって、そういうところにはよく気がつく。

 

俺は少し迷った末、かぐやに話すことにした。

 

「前にも言ったと思うけど、俺はこの時代の歴史を少し知ってるんだよ」

 

「うん。学校で習ったんでしょ?」

 

「そう。それでさ、今川義元って、織田信長との戦で死ぬんだ」

 

「……あの偉い人?」

 

「ああ。俺が元服したときに名前をくれた人」

 

かぐやは少し考えた。

 

「その戦が、今回かもしれないってこと?」

 

「そうなんだよな」

 

「そっかぁ」

 

それから、かぐやは当然のように尋ねてきた。

 

「じゃあ、助けられないの?」

 

俺は答えに詰まった。

 

「……助けたいとは思ってるよ」

 

「うん」

 

「でも、どうすれば助けられるのか分からないんだ。どこで死ぬのかも、何が原因なのかも、ほとんど覚えてない」

 

「そっか」

 

「一応、敵には気をつけた方がいいって話はしてあるんだけどね」

 

「それだけじゃ足りない?」

 

「……どうだろうな」

 

正直に言えば、足りない気がする。

 

しかし、それ以上何を言えばいいのか。

 

義元に直接会って、未来から来た人間だからあなたが死ぬことを知っている、とでも言うのか。

 

そんなことを言い出したら、俺の方がどうなるか分からない。

 

「何かあったら、もう少し具体的に動けると思うんだけどさ」

 

「うん」

 

「今はまだ、何も分からないんだよ」

 

かぐやはしばらく黙っていた。

 

それから、小さく身体を揺らした。

 

「じゃあ、分かったときに考えようよ」

 

「……そうだな」

 

「何も起きないかもしれないし!」

 

「ああ。それなら一番いいんだけどな」

 

俺は荷物をまとめ直した。

 

かぐやも、それ以上は何も聞かなかった。

 

◇

 

今川軍が尾張へ進む。

 

大軍の行進というものは、なかなか壮観だった。

 

道には兵が連なり、荷駄が続く。馬の足音と人の声が絶えず、場所によっては進むだけでも時間がかかった。

 

これだけの軍勢を動かせるのだから、今川家の力は大したものだと思う。

 

ただ、実際にその中にいると、壮観だなどと感心している余裕はあまりなかった。

 

兵が多ければ、その分だけ食料が必要になる。

 

水もいる。

 

荷を運ぶ者も必要だし、道が狭ければ行軍が滞る。

 

それに、軍勢が一か所に集まれば何かと揉め事も起こる。

 

俺は松平勢の様子を確かめながら、家臣たちと連日相談を重ねていた。

 

そんな折、今川方から新たな命令が下った。

 

大高城への兵糧搬入である。

 

「……大高城か」

 

話を聞いた瞬間、嫌な予感がした。

 

今川方の城である大高城は、織田方の砦によって圧迫されている。

 

そこへ食料を運び込めというのだ。

 

当然、簡単な仕事ではない。

 

「敵に妨げられることも考えねばなりますまい」

 

忠次が言った。

 

「そうだな。荷を抱えて戦うのは避けたいところだ」

 

「夜陰に乗じて運び入れる手立てがよろしいかと」

 

俺は頷いた。

 

大高城への兵糧搬入。

 

この話には聞き覚えがあった。

 

確か、徳川家康は桶狭間の戦いで大高城へ兵糧を運び込んでいたはずだ。

 

……ということは。

 

やはり、今回なのか。

 

俺は図を見つめた。

 

桶狭間という名前は覚えている。

 

だが、肝心の場所が分からない。

 

大高城との位置関係も、よく知らなかった。

 

「殿?」

 

忠次がこちらを見た。

 

「ああ、すまぬ。続きを聞こう」

 

今は目の前の仕事を果たすしかない。

 

俺は兵糧の量や運搬経路について、家臣たちと相談を始めた。

 

◇

 

兵糧の搬入は、ひどく神経を使う仕事だった。

 

夜になっても、思うように進めるとは限らない。

 

道が悪ければ荷車は止まるし、荷を担ぐ者が足を滑らせれば、そのたびに列が乱れる。

 

敵に気づかれないよう気を配りながら、それでも進まなければならなかった。

 

「殿、前方に物見を出しております」

 

「分かった。戻るまでは進みすぎぬように」

 

「はっ」

 

暗がりでは、少し離れただけで人の顔も見えにくくなる。

 

松明を増やせば歩きやすくなるが、今度は敵からも見つかりやすい。

 

なかなか面倒な話だった。

 

荷を運ぶ者たちの息遣いが聞こえる。

 

途中で一人が足を取られ、俵を落としかけた。

 

近くの兵が慌てて支える。

 

「大丈夫か」

 

「はっ、申し訳ございませぬ!」

 

「怪我はないな?」

 

「ございませぬ」

 

「ならばよい。急がず、足元に気をつけよ」

 

そう言って先へ進ませた。

 

誰かが転んで怪我でもすれば、それだけで仕事が増える。

 

ましてや、ここは敵のいる土地である。

 

余計な騒ぎを起こすわけにはいかなかった。

 

途中、何度か足を止めることもあった。

 

敵の動きを確かめ、進む道を変え、荷の遅れを待つ。

 

そのたびに時間が過ぎていく。

 

俺は何度も空を見上げた。

 

夜が明ける前に、何とか城へ辿り着きたい。

 

その一心だった。

 

そして、ようやく。

 

大高城へ兵糧を運び込むことに成功した。

 

「殿、すべて運び終えましてございます!」

 

報告を聞いたとき、俺は思いきり息を吐いた。

 

「……よかった」

 

声に出してしまった。

 

近くにいた忠次が、少し笑った。

 

「見事なお働きにございます」

 

「いや、皆がよくやってくれた」

 

実際、そのとおりだった。

 

俺一人で運べる量ではないし、道を探った者や荷を運んだ者がいなければ、とても成功しなかった。

 

それでも、無事に終わったことが嬉しかった。

 

肩の荷が下りた気がする。

 

もっとも、まだ戦は終わっていない。

 

大高城の周囲には織田方の砦が残っていた。

 

◇

 

翌朝、松平勢は丸根砦へ攻めかかった。

 

こちらが攻めれば、向こうも当然抵抗する。

 

城へ兵糧を入れる仕事とは違い、今度は真正面から敵と戦わなければならなかった。

 

砦から矢が飛んでくる。

 

近くで兵が倒れ、別の者がそれを引きずって下がった。

 

俺は家臣たちから報告を受けながら、兵を進めた。

 

「無理に一か所へ集まるな! 敵の動きをよく見よ!」

 

声を張り上げる。

 

こちらの兵が砦へ迫ると、敵も必死に防いできた。

 

当然だ。

 

向こうだって、死にたくはないだろう。

 

しかし、こちらも引くわけにはいかなかった。

 

戦が長引けば、それだけ味方の損害も増える。

 

やがて、丸根砦は落ちた。

 

鷲津砦も今川方の攻撃によって陥落したという知らせが届いた。

 

大高城を圧迫していた織田方の拠点が、立て続けに失われたことになる。

 

「殿、これで御屋形様の軍勢も進みやすくなりましょう」

 

忠次が言った。

 

「ああ。そうだな」

 

俺は頷いた。

 

兵糧搬入は成功。

 

丸根砦も攻略した。

 

今川方としては、順調な戦況である。

 

少なくとも、今のところは。

 

「……忠次」

 

「はっ」

 

「御屋形様の本隊について、何か知らせは来ておらぬか?」

 

「進軍を続けておられるとのこと。詳しいことは、まだ」

 

「そうか」

 

今川義元がどこを進んでいるのか。

 

織田信長が何をしているのか。

 

肝心なところが分からなかった。

 

ただ、今回が桶狭間であることについては、もう疑いようがない気がしていた。

 

俺は一度、大高城へ戻ることにした。

 

兵たちも疲れている。

 

休ませる必要があった。

 

◇

 

「竹千代、お疲れさま」

 

人目がなくなったところで、かぐやが声をかけてきた。

 

「……ああ。疲れたよ」

 

俺は腰を下ろし、兜を外した。

 

首筋に汗が流れる。

 

甲冑を着て動き回ったせいで、身体のあちこちが重かった。

 

「大丈夫?」

 

「怪我はしてないよ。ちょっと疲れただけ」

 

「そっか。よかった」

 

かぐやはそれ以上、何も言わなかった。

 

普段なら、戦の様子をあれこれ聞いてくるところだ。

 

俺は水を飲み、少し落ち着いてから話しかけた。

 

「なあ、かぐや」

 

「ん?」

 

「やっぱり、今回が桶狭間だと思う」

 

「……あの、偉い人が死ぬ戦?」

 

「ああ」

 

かぐやは少し黙った。

 

「もう始まってるの?」

 

「そうだな。少なくとも、俺が知ってる話とかなり似てる」

 

「そっか」

 

「でも、今川は勝ってるんだよ」

 

俺は苦笑した。

 

「兵糧も運び込めたし、敵の砦も落とした。今のところは順調なんだ」

 

「うん」

 

「これで義元様が死ぬなんて、正直、あんまり想像できない」

 

そう言ってから、少し嫌な気分になった。

 

未来のことを知っているからこそ、今の戦況を素直に喜べない。

 

ただ、それだけだった。

 

俺は再び水を飲んだ。

 

「……少し休むよ」

 

「うん。おやすみ、竹千代」

 

かぐやは大人しく引き下がった。

 

俺は横になった。

 

疲れていたせいか、ほどなく眠りに落ちた。

 

◇

 

目を覚ましたのは、人の声が聞こえたからだった。

 

何やら外が騒がしい。

 

最初は敵でも来たのかと思った。

 

しかし、聞こえてくるのは戦の声ではなく、慌ただしく行き交う足音と、何かを話す声だった。

 

「殿!」

 

忠次が入ってきた。

 

その顔を見て、俺は身体を起こした。

 

「どうした?」

 

「御本陣について、妙な知らせが届いております」

 

「妙な知らせ?」

 

「……御屋形様が討たれた、と」

 

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 

いや。

 

分かっていた。

 

分かっていたはずなのに、すぐには言葉が出なかった。

 

「……何だと?」

 

「まだ確かなことではございませぬ。織田勢が御本陣を襲い、御屋形様が討死なされたとの噂が広まっております」

 

俺は立ち上がった。

 

「誰からの知らせだ?」

 

「落ち延びてきた者が申しております。ただ、戦場は混乱しており、話も食い違っております」

 

「……そうか」

 

桶狭間。

 

今川義元の討死。

 

ついに、その知らせが届いてしまった。

 

しかし、まだ噂である。

 

本当に義元が死んだのか、それとも織田方が流した偽の知らせなのか。

 

ここで間違った判断をすれば、こちらまで危険にさらされる。

 

「物見を出せ。御本陣の様子を確かめさせよう」

 

「はっ」

 

「それと、兵には不用意に騒がぬよう伝えてくれ。まだ確かめたわけではない」

 

「承知いたしました」

 

忠次はすぐに動いた。

 

俺も甲冑を身につけ直した。

 

手が少し震えていた。

 

紐を結び直す。

 

なかなかうまくいかなかった。

 

「……竹千代」

 

かぐやの声がした。

 

俺は顔を上げた。

 

「本当に、死んじゃったの?」

 

「……まだ分からない」

 

そう答えた。

 

だが、心の中では違うことを考えていた。

 

知っていた。

 

俺は知っていたのだ。

 

今川義元が桶狭間で死ぬことを。

 

だからこそ、何度も考えた。

 

何かできないかと。

 

それでも、結局。

 

俺は何も変えられなかったのかもしれない。

 

◇

 

夕方になって、さらに詳しい知らせが届いた。

 

織田信長の軍勢が今川本隊へ攻めかかったこと。

 

今川方が大きく崩れたこと。

 

そして、義元が討たれたということ。

 

それでも、俺はすぐには信じなかった。

 

いや、信じたくなかったのかもしれない。

 

やがて、伯父に当たる水野信元からも知らせがもたらされた。

 

信元は織田方についている人物である。

 

そのため、何もかも鵜呑みにするわけにはいかなかったが、複数の知らせが同じことを伝えていた。

 

物見からの報告も、今川本隊が敗れたことを裏づけていた。

 

もはや、否定する理由の方が少なかった。

 

「……御屋形様が、討たれたか」

 

俺はようやく口にした。

 

忠次は黙って頭を下げた。

 

周囲の家臣たちも、誰も何も言わなかった。

 

しばらくして、一人が尋ねた。

 

「殿、いかがいたしましょう」

 

俺は顔を上げた。

 

そうだ。

 

今は、考えている場合ではない。

 

今川義元が死んだ。

 

それによって、俺たちは敵中に取り残された。

 

織田方の軍勢がこのまま押し寄せてくる可能性もある。

 

大高城に留まれば、安全だという保証はなかった。

 

「……まず、兵の様子を確かめよう。動ける者がどれほどいるか、負傷者はどうするか。それを決めねばならぬ」

 

「はっ」

 

「それから、帰る道を探る。敵の動きを見誤るわけにはいかぬ」

 

忠次が頷いた。

 

「では、岡崎へ?」

 

「……ああ」

 

岡崎。

 

俺が生まれた城のある場所だ。

 

長い間、帰ることのできなかった故郷である。

 

だが、今は感慨に浸っている場合ではなかった。

 

「今川方の軍勢がどうなっているかも分からぬ。敵に見つからぬ道を探し、無理のないところで動こう」

 

「承知いたしました」

 

家臣たちが動き始めた。

 

俺も必要な指示を出した。

 

その間、何度も頭に浮かんだ。

 

義元が死んだ。

 

本当に、死んでしまった。

 

元服のとき、俺に名前を与えてくれた人物。

 

松平家を庇護し、俺を武将として取り立ててくれた主君。

 

あの人は、もういない。

 

前世では、桶狭間で死んだ人というだけだった。

 

それが今では、顔も声も覚えている。

 

直接言葉を交わしたこともある。

 

戦の働きを褒められたこともあった。

 

そんな人間が死んだのだ。

 

俺は、知っていたのに。

 

◇

 

大高城を出るまでには、しばらく時間がかかった。

 

状況を確かめ、動ける者を集め、残していくものを選ばなければならない。

 

何より、敵の動きが分からなかった。

 

今川本隊が敗れた以上、織田方は勢いづいているはずだ。

 

無理に動けば、逃げる途中で討たれるかもしれない。

 

「殿、支度が整いました」

 

忠次が報告に来た。

 

「そうか」

 

俺は頷いた。

 

「では、参ろう」

 

大高城を後にする。

 

せっかく兵糧を運び込み、敵の砦まで落としたというのに、こうして逃げることになるとは。

 

戦というものは、本当に分からない。

 

進む道は慎重に選んだ。

 

敵の動きを探りながら、できるだけ危険を避けて進む。

 

途中で何度か足を止めることもあった。

 

遠くから人の声が聞こえるたびに、兵たちが身構える。

 

俺も落ち着かない。

 

それでも、ここで慌ててはならなかった。

 

もし俺が取り乱せば、家臣たちまで不安になる。

 

そう思って、できるだけ普段どおりに振る舞った。

 

もっとも、内心では何度も冷や汗をかいていたのだが。

 

やがて、三河へ入った。

 

岡崎までは、もう遠くない。

 

◇

 

岡崎へ戻った俺たちは、まず松平家の菩提寺である大樹寺へ入った。

 

城にはまだ今川方の兵がいた。

 

今川義元が討たれたからといって、すぐに俺の城になるわけではない。

 

何より、今川家そのものが滅んだわけではなかった。

 

義元には息子の氏真がいる。

 

駿府には、俺の妻と息子も残っている。

 

ここで勝手な行動をすれば、二人を危険にさらすことになるかもしれない。

 

そのことは、頭から離れなかった。

 

「殿、岡崎城の様子については引き続き探らせております」

 

忠次が言った。

 

「ああ。頼む」

 

「今川方も混乱しているようにございます」

 

「そうだろうな……」

 

当主が突然討たれたのだ。

 

家中が混乱するのも無理はない。

 

俺はしばらく考えてから、忠次に尋ねた。

 

「駿府へは、知らせを送れるか?」

 

「道中の情勢を確かめねばなりませぬが、手立てはございます」

 

「ならば頼む。瀬名と竹千代の様子が知りたい」

 

忠次は深く頷いた。

 

「承知いたしました」

 

その後、俺は寺の一室でようやく身体を休めることができた。

 

甲冑を脱ぎ、腰を下ろす。

 

長い一日だった。

 

いや、何日も続けていたような気がする。

 

大高城への兵糧搬入。

 

丸根砦の攻略。

 

今川義元の討死。

 

そして、大高城からの退却。

 

少し前までは、何とか無事に戦を終えられそうだと思っていたのだ。

 

それが、こんなことになるとは。

 

「竹千代」

 

かぐやが声をかけてきた。

 

俺は顔を上げた。

 

「……何?」

 

「大丈夫?」

 

「ああ。怪我はしてないよ」

 

「そうじゃなくて」

 

かぐやはそこで言葉を切った。

 

俺も何も言わなかった。

 

しばらくしてから、かぐやが尋ねた。

 

「……あの人、死んじゃったんだね」

 

「うん」

 

それだけ答えた。

 

かぐやは黙っていた。

 

俺は膝の上に置いていた手を見つめた。

 

「……知ってたんだよな」

 

「うん」

 

「前から、義元様が死ぬってことは知ってたんだ」

 

かぐやは返事をしなかった。

 

「でも、結局何もできなかった」

 

言ってから、少し違う気がした。

 

何もしていないわけではない。

 

敵に注意するよう進言もした。

 

情報も集めた。

 

自分なりにできることはやったつもりだった。

 

ただ、それでも結果は変わらなかった。

 

「……いや、何もできなかったわけじゃないか」

 

俺は小さく息を吐いた。

 

「でも、助けられなかったんだよ」

 

「そっか」

 

かぐやは短く答えた。

 

慰めの言葉はなかった。

 

俺も、別に慰めてほしいわけではなかった。

 

しばらくして、かぐやが声をかけてきた。

 

「竹千代」

 

「ん?」

 

「ご飯、食べてないでしょ」

 

「……ああ」

 

言われて気づいた。

 

今日はまともに食事を取っていなかった。

 

「食べた方がいいよ」

 

「そうだな」

 

「明日も忙しいんでしょ?」

 

「うん。多分な」

 

「じゃあ、ちゃんと食べなきゃ」

 

俺は少し笑った。

 

「分かったよ」

 

立ち上がろうとして、身体の重さに顔をしかめた。

 

思っていた以上に疲れている。

 

「……かぐや」

 

「何?」

 

「ちょっとだけ、休んでからにするよ」

 

「うん。そうしな」

 

俺は再び腰を下ろした。

 

かぐやも、それ以上は何も言わなかった。

 

◇

 

岡崎城から今川方の兵が退いたという知らせが届いたのは、それから数日後のことだった。

 

「殿、城が空きましてございます」

 

報告を聞いたとき、俺はしばらく黙っていた。

 

岡崎城。

 

俺が生まれた場所である。

 

幼い頃に離れてから、随分と長い時間が経っていた。

 

父の広忠が亡くなった後も、松平家の本拠でありながら、俺自身が城主として暮らすことはできなかった。

 

その城へ、ようやく帰ることができる。

 

「……そうか」

 

俺は頷いた。

 

忠次がこちらを見ていた。

 

その顔には、何とも言えない表情が浮かんでいる。

 

嬉しそうでもあり、どこか疲れているようでもあった。

 

「殿」

 

「何だ?」

 

「お帰りになれますな」

 

短い言葉だった。

 

俺は少し笑った。

 

「ああ。ようやくだな」

 

忠次は深く頭を下げた。

 

俺たちは大樹寺を出て、岡崎城へ向かった。

 

城が見えてきたとき、俺は思わず足を止めた。

 

覚えている。

 

幼い頃の記憶は曖昧なものも多いが、この城のことは覚えていた。

 

俺はここで生まれた。

 

ここで暮らし、やがて人質として外へ出された。

 

それから十年以上。

 

尾張へ行き、駿府へ移り、元服し、結婚し、戦に出た。

 

今では息子までいる。

 

何とも長い道のりだった。

 

「殿?」

 

忠次が声をかけてきた。

 

「ああ、すまぬ」

 

俺は歩き出した。

 

城へ入ると、松平家の家臣たちが迎えてくれた。

 

久しぶりに会う者もいた。

 

初めて顔を合わせる者もいた。

 

皆、俺が帰ってきたことを喜んでいるようだった。

 

ありがたい話である。

 

ただ、俺はまだ素直に喜べなかった。

 

今川義元が死んだ。

 

それによって、俺は岡崎へ戻ることができた。

 

あの人が生きていれば、こうして帰ることはなかったかもしれない。

 

そう考えると、どうにも複雑だった。

 

それでも、家臣たちの前で暗い顔をするわけにはいかない。

 

「皆、よく留守を守ってくれた」

 

そう言うと、家臣たちは頭を下げた。

 

中には、涙を浮かべている者もいた。

 

俺は一人ずつ声をかけた。

 

名前を覚えている者には名前を呼び、知らない者にはこれまでの働きを尋ねた。

 

時間はかかったが、急ぐ理由もなかった。

 

俺が帰ってきたことを、こんなにも喜んでくれる人間がいる。

 

そのことは、素直に嬉しかった。

 

◇

 

その日の夜。

 

岡崎城の一室で、俺はようやく一息ついた。

 

部屋は広かった。

 

駿府で暮らしていた頃とは、何もかもが違う。

 

ここは松平家の城であり、俺が生まれた場所だ。

 

そして今、俺はその主として迎えられている。

 

「竹千代ー」

 

かぐやが声をかけてきた。

 

「何?」

 

「ここが岡崎城?」

 

「ああ。俺が生まれた城だよ」

 

「へえー!」

 

かぐやは部屋を見回しているようだった。

 

「結構広いね!」

 

「そうだな。俺も久しぶりだから、まだ落ち着かないけど」

 

「そっかぁ」

 

かぐやは少し考えた。

 

「竹千代、嬉しい?」

 

「……うん」

 

俺は頷いた。

 

「嬉しいよ。やっぱり、自分が生まれた場所だからな」

 

「そっか!」

 

かぐやは明るい声で言った。

 

「じゃあ、おかえり!」

 

俺は少し驚いた。

 

「……何だよ、急に」

 

「だって、帰ってきたんでしょ?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、おかえりでいいじゃん!」

 

なるほど。

 

確かに、そのとおりだった。

 

俺は少し笑った。

 

「……ただいま」

 

かぐやも笑った。

 

それから、しばらく二人で話をした。

 

岡崎城のこと。

 

駿府での暮らしのこと。

 

これからどうなるのかということ。

 

ただ、今後のことについては、俺にもまだ分からなかった。

 

今川義元が死んだからといって、今川家との関係がすぐに終わるわけではない。

 

駿府には氏真がいる。

 

妻と息子も残っている。

 

三河には、今川家に従っている者もいれば、織田家に近い者もいる。

 

俺が岡崎城へ戻ったことで、すべてが解決したわけではなかった。

 

むしろ、これから考えなければならないことの方が多い。

 

「ねえ、竹千代」

 

「ん?」

 

「これからは、ここに住むの?」

 

「そうなると思う」

 

「じゃあ、瀬名ちゃんたちは?」

 

「……それなんだよな」

 

俺は少し考えた。

 

「できれば、早くこっちへ呼びたいんだけど」

 

「うん」

 

「今川との関係もあるし、簡単にはいかないと思う」

 

「そっかぁ」

 

かぐやは少し黙った。

 

それから、いつもの調子で言った。

 

「じゃあ、迎えに行けるように頑張らないとね!」

 

「……そうだな」

 

俺は頷いた。

 

岡崎へ帰ってきた。

 

それは確かに嬉しいことだった。

 

しかし、瀬名と竹千代はまだ駿府にいる。

 

義元が死んだことで、今川家も大きく変わるだろう。

 

その中で、俺はどうするべきなのか。

 

今川家に従い続けるのか。

 

それとも、別の道を選ぶのか。

 

前世の知識では、徳川家康はこの後、織田信長と同盟を結ぶはずだった。

 

だが、それがいつだったのか。

 

どんな経緯だったのか。

 

細かいことは覚えていない。

 

そもそも、今の俺には妻と息子がいる。

 

家臣たちもいる。

 

歴史通りだからといって、簡単に今川家を裏切るわけにはいかなかった。

 

「……まいったな」

 

つい口に出してしまった。

 

「何が?」

 

かぐやが尋ねてきた。

 

「いや、これからのこと考えてたんだよ」

 

「大変そう?」

 

「かなり」

 

「そっかー」

 

かぐやは少し考えた。

 

「じゃあ、今日はもう寝たら?」

 

「……何でそうなるんだよ」

 

「だって、ずっと疲れてるじゃん。考えるのは明日でもできるでしょ?」

 

言われてみれば、そのとおりだった。

 

今夜のうちにすべてを決めなければならないわけではない。

 

俺は小さく息を吐いた。

 

「……そうだな。今日はもう寝るか」

 

「うん!」

 

かぐやは満足そうだった。

 

俺は寝る支度を始めた。

 

久しぶりの岡崎城。

 

幼い頃に離れた場所へ、ようやく戻ってきた。

 

前世の知識を頼りに、歴史通りに生きれば何とかなると思っていた。

 

しかし、桶狭間で今川義元が死んだことで、その考えは少し変わった。

 

知っていることと、実際にその場にいることは違う。

 

歴史上の出来事を覚えていても、それを思い通りに変えられるわけではない。

 

それでも、今の俺にはやらなければならないことがある。

 

三河のこと。

 

松平家のこと。

 

駿府に残した妻と息子のこと。

 

どれも、前世の教科書には載っていなかった俺自身の問題だった。

 

「竹千代ー」

 

「……何?」

 

「明日、城の中を見て回ってもいい?」

 

「……人に見つからないようにできるならな」

 

「やった!」

 

相変わらず気楽なやつである。

 

俺は少し笑ってから、布団に入った。

 

明日から、また忙しくなりそうだった。

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