徳川家康になったら喋るウミウシと出会った   作:しそ

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三河の殿様

「殿、少々よろしゅうございますか」

 

岡崎城へ戻って三日目。

 

ようやく自分の城で落ち着いて暮らせるようになったと思っていた俺は、朝餉を終えたところで家臣に呼び止められた。

 

「何だ?」

 

「村方より訴えが届いております。先の戦で田畑を荒らされた者たちが、年貢についてご相談したいと」

 

「……年貢?」

 

「はっ。それと、城に残された兵糧の扱いについても、ご判断を仰ぎたく」

 

どうやら、一つではないらしい。

 

話を聞けば、他にも確認してもらいたいことがいくつかあるという。

 

俺は持っていた茶碗を置いた。

 

「分かった。詳しく聞こう」

 

そう答えると、家臣は安堵したように頭を下げた。

 

……いや、待ってくれ。

 

俺はまだ朝飯を食べ終えたばかりなんだが。

 

◇

 

岡崎城へ帰ってきた。

 

それ自体は、もちろん嬉しい。

 

幼い頃に人質として三河を離れ、尾張へ送られ、駿府で暮らすこと十年以上。ようやく生まれ故郷へ帰ることができたのだ。

 

おまけに、今度は客ではない。

 

松平家の当主として、この城に住むのである。

 

前世の感覚でいえば、長年の単身赴任を終えて自宅へ帰ってきたようなものだろうか。

 

いや、違うか。

 

そもそも前世では自分の城など持っていなかったし、単身赴任を経験したこともない。

 

まあ、とにかく喜ばしいことである。

 

ただ、一つだけ誤算があった。

 

城主というのは、思っていた以上に忙しい。

 

「殿、こちらの書付にもお目通しを」

 

「うむ」

 

「それから、三河の諸将へ使いを出す件ですが」

 

「その話は忠次とも相談しよう」

 

「承知いたしました」

 

こんな具合である。

 

朝から人が来る。

 

昼になっても人が来る。

 

ようやく仕事が終わったと思えば、今度は別の者がやってくる。

 

人質だった頃にも、それなりに忙しくはしていた。手習いや武芸の稽古があったし、元服してからは今川家の武将として戦にも出た。

 

しかし、あの頃には今川家という大きな後ろ盾があった。

 

何か問題が起きても、俺一人ですべてを決める必要はなかったのである。

 

ところが今は違う。

 

岡崎城の主は俺だ。

 

松平家の者たちは、俺に判断を求めてくる。

 

何とも面倒な話だった。

 

もちろん、何もかも自分で決めているわけではない。忠次をはじめ、経験豊かな家臣たちが支えてくれている。

 

というより、彼らがいなければ今頃どうなっていたか分からない。

 

俺は戦国時代に転生した現代人ではあるが、別に政治の専門家ではないのだ。

 

前世では、税金の仕組みすら詳しく説明できなかった。

 

それが今では、年貢をどうするか相談されている。

 

なかなか無茶な出世である。

 

◇

 

「……つまり、田が荒れてしまって、以前と同じだけの年貢は納められぬということか」

 

「はっ」

 

目の前に座る家臣が頷いた。

 

傍らには、村からやってきた年配の男も控えている。

 

話を聞く限り、先の戦で一部の田畑が荒らされ、今年の収穫が危ぶまれているらしい。

 

村の男は何度も頭を下げながら訴えた。

 

「何とぞ、ご慈悲を賜りとうございます。このままでは、冬を越すにも難儀いたします」

 

困った。

 

いや、相手が困っていることは分かる。

 

田畑が荒れて収穫が減るなら、年貢を軽くしてやるのが一番だろう。

 

ただ、こちらにも事情がある。

 

今川義元が討たれたことで、三河の情勢は大きく変わった。これから何が起こるか分からない以上、兵糧はできるだけ確保しておきたい。

 

城を守る兵にも飯を食わせなければならないし、家臣たちの暮らしだってある。

 

俺の一存で何でも減らしてよいものなのか、正直なところ分からなかった。

 

「……荒れた田は、どれほどある?」

 

家臣が書付を広げる。

 

説明を聞いてみたものの、数字だけでは実感が湧かなかった。

 

「実際に見た者はおるか?」

 

「村方からの申し出にございますゆえ、まだ詳しくは」

 

「ならば、一度確かめさせよう。収穫の見込みも調べたうえで、どこまで軽くできるか考えたい」

 

家臣は頷いた。

 

しかし、村の男は不安そうだった。

 

「それでは……」

 

「すぐに返事ができず、すまぬ。だが、話は分かった。放っておくつもりはない」

 

そう伝えると、男は深々と頭を下げた。

 

「ありがたき幸せにございます」

 

……いや、まだ何もしていないんだけどな。

 

礼を言われると、何だか申し訳ない。

 

村の者が下がった後、俺は家臣に尋ねた。

 

「実際のところ、どれほど余裕がある?」

 

「年貢のことにございましょうか」

 

「ああ」

 

家臣は少し考えてから答えた。

 

「村によって事情は異なりまする。此度の戦で荒れた土地もあれば、さほど影響のなかった土地もございます。ただ、今後の軍勢の動きを考えますと、安易に減らすのも難しゅうございますな」

 

「そうだろうな……」

 

「かといって、無理に取り立てれば逃散する者も出ましょう」

 

「それは困る」

 

田を耕す人間がいなくなったら、来年はもっと困るではないか。

 

結局、もう少し詳しく調べてもらうことにした。

 

しかし、これで終わりではなかった。

 

次は土地の境を巡る争い。

 

その次は、兵の宿営に関する話。

 

さらに、今川方の武将が退いた後の城や土地をどう扱うかという相談まで出てきた。

 

一つ終われば、また一つ。

 

俺は途中から、目の前の書付を見るのも嫌になってきた。

 

とはいえ、投げ出すわけにもいかない。

 

当主だからな。

 

……当主って大変だ。

 

◇

 

「竹千代、お疲れー!」

 

部屋に戻ると、かぐやがいつもの調子で迎えてくれた。

 

「ただいま。あー、疲れた」

 

俺は腰を下ろし、思いきり背伸びをした。

 

ずっと座っていたせいで、腰が痛い。

 

「今日は遅かったね!」

 

「うん。朝からずっと人が来てたんだよ」

 

「へえー。何かあったの?」

 

「いろいろ。年貢のこととか、土地のこととか」

 

「おお、ちゃんと殿様してる!」

 

「してるっていうか、させられてるっていうか……」

 

「何それ!」

 

かぐやが笑った。

 

「でも、いいじゃん! 自分のお城なんでしょ?」

 

「まあ、そうなんだけどさ」

 

「じゃあ、好きなことできるんじゃないの?」

 

「そう思うだろ?」

 

俺は苦笑した。

 

「ところが、そうでもないんだよ」

 

「えー、何で?」

 

「城主になったら、城のことを全部考えなきゃいけないからな。兵の飯とか、村のこととか、家臣たちのこととか」

 

「あー、そっか」

 

「むしろ駿府にいた頃の方が楽だったかもしれない」

 

「えっ、帰ってきたかったんじゃないの?」

 

「帰ってきたかったよ。それとこれとは別だって」

 

かぐやはしばらく考えていた。

 

それから、楽しそうに言った。

 

「じゃあ、竹千代はお城に住みたかったけど、殿様の仕事はしたくなかったんだ!」

 

「……そう言われると、ものすごくわがままだな」

 

「実際そうじゃん!」

 

否定できない。

 

俺は笑いながら、用意されていた茶を飲んだ。

 

少し冷めていたが、今はそれくらいがちょうどよかった。

 

「そういえばさ、竹千代」

 

「何?」

 

「昨日、城の中を見て回ってもいいって言ってたじゃん?」

 

「ああ、言ったな」

 

「いつ行く?」

 

「……まだ覚えてたのか」

 

「そりゃ覚えてるよ!」

 

かぐやが不満そうな声を出した。

 

「竹千代、約束したでしょ!」

 

「約束ってほどでも……いや、したか」

 

確かに、岡崎城へ戻った夜、そんな話をした覚えがある。

 

人に見つからないようにできるなら、と条件もつけたはずだ。

 

「でも、城の中は人が多いからな」

 

「分かってるって! 竹千代と一緒に行くんでしょ?」

 

「そうなるな。お前一人で出歩かせるわけにはいかないし」

 

「じゃあ、いつ?」

 

「そうだな……」

 

俺は少し考えた。

 

明日も家臣たちとの話し合いがある。

 

明後日には、城の周囲を見て回る予定が入っていた。

 

それ以外にも、まだ片づいていない仕事が山ほどある。

 

「……しばらく先になりそう」

 

「えーっ!」

 

かぐやが大きな声を出した。

 

俺は慌てて戸の方を見る。

 

幸い、人の気配はなかった。

 

「声、声」

 

「あっ、ごめん!」

 

かぐやは声を落とした。

 

「でもさー、竹千代。いつまで経っても終わらないんじゃない?」

 

「何が?」

 

「仕事!」

 

「……ああ」

 

言われてみれば、そのとおりだった。

 

今の様子では、仕事が全部片づく日なんて来ない気がする。

 

「だったら、ちょっとくらい休んでもいいじゃん」

 

「まあ、そうなんだけど……」

 

「竹千代が倒れたら、もっと困るでしょ?」

 

「それもそうだな」

 

「でしょ!」

 

かぐやは得意げだった。

 

俺は少し考えた末、明日の夕方に時間が取れれば、城の人目につかないところを一緒に見て回ることにした。

 

「本当!?」

 

「ああ。ただし、急に仕事が入ったら無理だからな」

 

「分かった! 楽しみにしてる!」

 

随分と嬉しそうだった。

 

岡崎城など、かぐやにとっては珍しくもないだろうに。

 

いや、実際にこの城へ来るのは初めてだったか。

 

何千年も生きているとはいえ、行ったことのない場所まで全部知っているわけではないのだろう。

 

「それにしても、竹千代」

 

「ん?」

 

「本当に殿様になっちゃったんだねー」

 

「前から一応、松平家の当主だったんだけどな」

 

「そうだけど! 前は今川のところにいたじゃん」

 

「まあな」

 

「今はみんな、竹千代に聞きに来るんでしょ?」

 

「そうなんだよ。それが大変でさ」

 

「ふーん……」

 

かぐやは少し考えた。

 

「じゃあ、竹千代が決めたことで、みんなの生活が変わるんだ」

 

「……そうなるな」

 

何気ない言葉だった。

 

けれど、改めて言われると、少し考えてしまう。

 

今朝、年貢について訴えてきた村の男。

 

俺がどう判断するかで、あの村の暮らしは変わるのだろう。

 

それだけではない。

 

家臣たちの扱いも、兵をどこへ送るかも、これからは俺の判断に左右される。

 

これまでも兵を率いて戦ってきた。

 

人を死なせたことだってある。

 

それでも、城主になってからは、戦場以外でも人の暮らしに関わることが増えていた。

 

「……なあ、かぐや」

 

「何?」

 

「俺、ちゃんとやれてると思う?」

 

かぐやは少し驚いたようだった。

 

「えっ、何が?」

 

「殿様の仕事」

 

「あー」

 

少し考えてから、かぐやは答えた。

 

「分かんない!」

 

「……おい」

 

「あはは! だって、私、竹千代が仕事してるところ全部見てるわけじゃないし!」

 

それはそうだった。

 

「でもさ、分かんないことは他の人に聞いてるんでしょ?」

 

「ああ」

 

「だったら、今はそれでいいんじゃない?」

 

「……そうかな」

 

「少なくとも、分かんないのに適当に決めるよりはいいと思うよ!」

 

なるほど。

 

確かに、それはそうかもしれない。

 

俺は少し笑った。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして!」

 

かぐやは満足そうだった。

 

それから、ふと思い出したように尋ねてきた。

 

「そういえば、瀬名ちゃんたちは?」

 

「ああ……」

 

俺は茶碗を置いた。

 

駿府に残してきた瀬名と、息子の竹千代。

 

二人のことは、もちろん忘れていない。

 

何度か使いを出し、様子を確かめようとしている。

 

それに、瀬名は二人目の子を身ごもっていた。出産の時期も近づいているはずだが、今川家の情勢が落ち着かないため、詳しい知らせはなかなか届かなかった。

 

「まだ駿府だよ。今のところ、二人とも無事らしい」

 

「そっか。よかった!」

 

「ああ」

 

「赤ちゃんも、無事に生まれるといいね!」

 

「……そうだな」

 

今川義元は死んだ。

 

だが、今川家そのものが滅んだわけではない。

 

義元の跡を継いだ氏真がいるし、三河にも今川家に従う者たちは残っている。

 

俺自身、今川家との関係をどうするべきか、まだ決めきれていなかった。

 

少なくとも、桶狭間の直後にすべてを投げ出してよいほど、簡単な話ではない。

 

義元には恩がある。

 

今川家に仕えてきた年月もある。

 

そして何より、妻と息子、これから生まれてくる子が駿府にいる。

 

「……かぐや」

 

「ん?」

 

「ちょっと面倒なことになりそうなんだよな」

 

「今も十分面倒そうだけど?」

 

「いや、それとは別に」

 

俺は少し笑った。

 

「今川とのこと、そろそろちゃんと考えないといけないんだ」

 

「そっか」

 

かぐやはそれだけ言った。

 

それから、いつもの調子で続けた。

 

「じゃあ、明日はお城を見て回って、その後で考えよう!」

 

「……いや、順番おかしくない?」

 

「だって約束したじゃん!」

 

「それはそうだけどさ」

 

「あはは!」

 

かぐやが笑った。

 

俺もつられて笑ってしまった。

 

本当に気楽なやつである。

 

ただ、こうして笑っていられる時間は、悪くなかった。

 

駿府にいた頃も、戦から帰った後も、かぐやは大体こんな調子だった。

 

俺の立場が変わろうと、名前が変わろうと、相変わらず竹千代と呼んでくる。

 

まあ、それでいい。

 

少なくとも、こいつの前でまで殿様らしく振る舞う必要はないだろう。

 

「じゃあ、明日は頼むね!」

 

「分かったよ。時間が取れたらな」

 

「取ってよ!」

 

「努力するって」

 

「絶対だからね!」

 

念を押された。

 

……これは明日、何とか時間を作らないと駄目そうだな。

 

俺は残っていた茶を飲み干した。

 

そのとき、廊下から足音が近づいてきた。

 

「殿、失礼いたします」

 

かぐやが素早く文箱の陰へ引っ込む。

 

「何だ?」

 

「酒井様がお見えにございます。尾張表の件で、至急お話があるとのこと」

 

……また仕事か。

 

俺は茶碗を置き、立ち上がった。

 

「分かった。すぐに参る」

 

家臣が下がるのを待ってから、文箱へ目を向ける。

 

「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」

 

「はーい! いってらっしゃい!」

 

俺が戸に手をかけると、背後からもう一度声がした。

 

「竹千代!」

 

「ん?」

 

「明日、忘れないでよ!」

 

「……覚えてるって」

 

まったく。

 

城主になっても、かぐやに急かされる生活だけは変わらないらしい。

 

俺は苦笑しながら部屋を出た。

 

酒井忠次が待っている。

 

尾張の話ということは、織田家の動きだろうか。

 

前世の知識では、この後、俺は織田信長と同盟を結ぶはずだった。

 

だが、今はまだ今川家に仕える立場であり、織田とは敵対している。

 

その関係を変えるというのは、簡単なことではない。

 

何より、駿府には家族がいる。

 

俺一人の都合で済む話ではなかった。

 

忠次の待つ部屋へ向かいながら、俺は考えた。

 

岡崎へ戻れば、少しは自由になると思っていた。

 

実際、以前より自分で決められることは増えた。

 

ただ、その分だけ、決めなければならないことも増えている。

 

どうやら、三河の殿様というのは、思っていたほど気楽な商売ではないらしい。

 

◇

 

「水野信元様より、使いが参っております」

 

忠次が持ってきたのは、そんな話だった。

 

水野信元は俺の母方の伯父に当たる人物で、現在は織田方についている。

 

桶狭間の後にも何度か連絡があったが、今回は少し事情が違うらしい。

 

「信元殿は、織田との争いを収めることも考えるべきではないかと仰せです」

 

「……なるほど」

 

俺は広げられた書状に目を落とした。

 

書かれているのは、互いに無益な戦を避け、今後の関係について話し合いたいという内容だった。

 

随分と穏やかな話に聞こえる。

 

だが、もちろん、これをそのまま受け取るわけにはいかない。

 

つい先日まで、松平と織田は敵同士だった。

 

桶狭間でも、織田信長は今川義元を討っている。

 

今川家に仕える立場だった俺からすれば、信長は主君の仇である。

 

「忠次はどう思う?」

 

「悪い話ではございませぬ。尾張との争いを収められれば、三河に力を注ぐことができます」

 

「うむ」

 

「されど、織田方がどこまで本気かは、見極めねばなりませぬ」

 

「そうだな」

 

俺は書状を畳んだ。

 

正直に言えば、織田と和睦できるのはありがたい。

 

前世の知識でも、徳川家康と織田信長が同盟を結んだことは覚えている。

 

この二人が長く協力関係を続けることも、一応は知っている。

 

だが、だからといって目の前の使者に「分かりました、同盟しましょう」と即答するわけにはいかなかった。

 

第一、向こうが何を求めているのかも分からない。

 

俺たちの土地をどこまで認めるつもりなのか。今川方との戦になった場合、どうするのか。和睦した後、再び攻めてこない保証がどこにあるのか。

 

考え始めると、気になることはいくらでも出てくる。

 

「まずは話を聞いてみよう。信元殿には、こちらも無益な争いを望んではおらぬと伝えてくれ」

 

「承知いたしました」

 

忠次が頷いた。

 

「ただし、今すぐ織田方につくと決めたわけではない。その辺りは、誤解のないようにな」

 

「はっ」

 

忠次が下がった後、俺は再び書状を広げた。

 

今川から離れ、織田と結ぶ。

 

歴史を知っている身としては、いずれそうなるのだろうと思っていた。

 

しかし、実際にその場面が来ると、どうにも落ち着かない。

 

義元には世話になった。

 

元服のときに名前を与えられ、武将として取り立ててもらった。

 

その義元が死んだからといって、あっさり今川を見限るのは気が引ける。

 

かといって、義元への恩だけで松平家の行く末を決めてよいものでもない。

 

駿府には氏真がいる。

 

そして、瀬名と息子の竹千代もいる。瀬名は二人目の子を身ごもっているのだから、そのことも考えなければならない。

 

俺が織田と手を結べば、家族はどうなるのか。

 

そちらの方が、よほど気がかりだった。

 

◇

 

その翌日。

 

俺は珍しく、夕方までに仕事を切り上げた。

 

「殿、まだこちらの書付が……」

 

「急ぎでなければ明日にしよう」

 

「しかし」

 

「今夜中に決めねばならぬことか?」

 

そう尋ねると、家臣は少し考えてから首を振った。

 

「いえ、そこまでのものではございませぬ」

 

「ならば明日、改めて聞こう」

 

家臣は頭を下げて下がっていった。

 

別に仕事を放り出したわけではない。

 

急ぎの用件は片づけたし、残りは明日でも構わないものばかりだ。

 

そう自分に言い聞かせながら部屋へ戻ると、かぐやが待ち構えていた。

 

「竹千代!」

 

「はいはい、覚えてるよ」

 

「まだ何も言ってないじゃん!」

 

「城の中を見て回るんだろ?」

 

「そう! 行こう行こう!」

 

随分と楽しみにしていたらしい。

 

俺は小さな箱を用意した。

 

普段、かぐやを連れて移動するときに使っているもので、蓋を少し開ければ外の様子も見られる。

 

「今日は人が少ないところだけだからな」

 

「分かってるって!」

 

「あと、人が来たらすぐ隠れること」

 

「はーい!」

 

「声も出さない」

 

「はいはい!」

 

返事だけは立派である。

 

もっとも、何度も一緒に出歩いているので、かぐやも人目を避けることには慣れていた。

 

問題は、面白そうなものを見つけると、時々それを忘れることだ。

 

「じゃあ、行くか」

 

「出発ー!」

 

箱を抱え、部屋を出た。

 

◇

 

岡崎城は、駿府で俺が暮らしていた屋敷とはずいぶん違っていた。

 

何しろ、ここには実際に城を守る兵がいる。

 

門や塀の修繕も必要だし、兵糧を蓄えておく場所もある。城の中を歩けば、仕事をしている者たちと何度もすれ違った。

 

そのたびに頭を下げられるので、気軽な散歩というわけにはいかない。

 

それでも、普段は足を運ばない場所を見て回るのは、なかなか面白かった。

 

「殿、こちらはいまだ修繕が済んでおりませぬ」

 

案内をしていた家臣が、塀の一角を指し示した。

 

「先の戦の後、手を入れる必要があると分かったのですが、人手が足りませぬ」

 

「そうか。雨が降る前に直したいところだな」

 

「はっ。職人と相談いたします」

 

俺は頷いた。

 

そのまま歩き、城内の倉を見せてもらう。

 

積まれている俵の数を確認し、傷んだものがないか尋ねた。

 

……何だか、普通に仕事をしている気がする。

 

いや、実際に仕事なのだが。

 

せっかくかぐやとの約束を果たそうと思ったのに、結局こうなってしまうらしい。

 

ようやく人の少ない場所まで来たところで、俺は家臣たちに少し下がってもらった。

 

「この先は一人で見て回ろう。何かあれば呼ぶ」

 

「承知いたしました」

 

人の気配が遠ざかるのを待ち、箱の蓋を開ける。

 

「かぐや、もういいよ」

 

「ぷはー!」

 

勢いよく顔を出した。

 

「やっと喋れるー!」

 

「お疲れ」

 

「ねえねえ、さっきのお米、すごかったね!」

 

「見えてたのか?」

 

「ちょっとだけ! あんなにいっぱい積んであるんだ!」

 

「あれでも、足りるかどうか心配なんだけどな」

 

「えーっ、あんなにあったのに?」

 

「兵がたくさんいるからさ。毎日食べるだろ?」

 

「あー、そっか!」

 

かぐやは納得した様子で頷いた。

 

それから、周囲を見回す。

 

「それにしても、お城って広いねー!」

 

「そうだな」

 

「さっきの門も大きかったし、いっぱい人がいたし!」

 

「まだ見てないところもあるぞ」

 

「本当!? じゃあ、そっちも行こうよ!」

 

「今日はもう日が暮れるから、そこまでは無理かな」

 

「えー!」

 

「また今度な」

 

「絶対だよ!」

 

俺は笑って頷いた。

 

少し歩くと、城下を見渡せる場所へ出た。

 

夕方の光が町の屋根を照らしている。

 

道には人が行き交い、遠くから何かを売る声が聞こえた。炊事の煙も、あちこちから上がっている。

 

かぐやはしばらく黙って眺めていた。

 

「……竹千代」

 

「何?」

 

「あそこに住んでる人たちも、竹千代のところの人?」

 

「まあ、そうだな。全部が全部、俺の好きにできるってわけじゃないけど」

 

「ふーん」

 

「どうした?」

 

「いや、いっぱい住んでるなーって」

 

かぐやは少し身を乗り出した。

 

「あっ、見て! あそこ、子供が走ってる!」

 

指さすように身体を傾ける。

 

俺もそちらを見た。

 

道を駆けていく子供が二人いる。

 

一人が振り返り、もう一人に何か叫んでいるようだった。

 

「元気だな」

 

「ねー!」

 

かぐやは笑った。

 

「竹千代も昔、あんな感じだった?」

 

「いや、俺はあそこまで走り回ってなかったと思う」

 

「えー、そうだっけ?」

 

「お前と会った頃には、結構大人しかっただろ」

 

「うーん……あ、でも枝で突っつこうとしてきたよね!」

 

「それはもういいって」

 

「忘れないもーん!」

 

楽しそうに笑われた。

 

俺は箱を持ち直し、もう一度城下を眺めた。

 

あそこに住んでいる人たちの名前を、俺はほとんど知らない。

 

顔を見たこともない人間が大勢いる。

 

それでも、俺が戦を始めれば、あの人たちの暮らしにも影響が出るのだろう。

 

兵が通れば田畑が荒れることもある。

 

年貢を重くすれば、生活が苦しくなる者もいる。

 

そんなことを考えていると、かぐやがこちらを見上げた。

 

「竹千代?」

 

「ん?」

 

「せっかく来たんだから、もっと向こうも見ようよ!」

 

「ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」

 

「また仕事?」

 

「まあ、そんなところ」

 

「もう! 今日はお散歩でしょ!」

 

そのとおりだった。

 

俺は笑って、箱を抱え直した。

 

「分かったよ。じゃあ、あっちまで行ってみようか」

 

「やった!」

 

結局、空が暗くなるまで、城の中をあちこち見て回ることになった。

 

翌朝、足が少し痛かった。

 

かぐやには笑われた。

 

◇

 

岡崎へ戻ってから、しばらく経った頃のことだった。

 

駿府から、久しぶりに嬉しい知らせが届いた。

 

「殿、瀬名様が姫君をお産みになりました!」

 

報告を持ってきた家臣は、随分と嬉しそうだった。

 

一方、俺はすぐには反応できなかった。

 

「……生まれたのか?」

 

「はっ! 母子ともにご無事とのことにございます!」

 

「そうか!」

 

思わず声が大きくなった。

 

「よかった。それは本当によかった」

 

瀬名が二人目の子を身ごもっていることは、桶狭間へ出陣する前から知っていた。だから、いつ生まれてもおかしくないとは思っていたのである。

 

ただ、今は駿府と岡崎で離れて暮らしている。

 

出産に立ち会えないのはもちろん、無事に生まれたかどうかさえ、こうして人づてに聞くしかない。

 

前世なら、もう少し簡単に連絡が取れただろうに。

 

「瀬名の身体は? 何か変わったことはないのか?」

 

「お産の後も、お加減は悪くないとのことにございます」

 

「そうか。ならばよい」

 

ようやく安心できた。

 

生まれたのは女の子らしい。

 

名前は亀。

 

松平家に、また一人家族が増えたわけである。

 

「駿府へ返事を送りたい。瀬名には、無事に生まれて安心したと伝えてくれ。それと、身体を大切にするようにな」

 

「承知いたしました!」

 

家臣は嬉しそうに頭を下げた。

 

俺も、つられて笑っていた。

 

息子の竹千代が生まれたときは、すぐそばにいられた。

 

抱き上げることもできたし、瀬名と一緒に名前を考えることもできた。

 

だが、今度は違う。

 

娘が生まれたというのに、その顔を見ることさえできない。

 

無事だったのだから、今はそれだけで十分だ。

 

そう思おうとしたものの、やはり少し寂しかった。

 

「……早く会いたいな」

 

つい、口に出してしまった。

 

◇

 

「かぐや!」

 

部屋へ戻った俺は、いつもより少し大きな声で呼びかけた。

 

「はーい! どうしたの、竹千代?」

 

文箱から、かぐやが顔を出した。

 

「何かいいことあった?」

 

「よく分かったな」

 

「だって、すっごく嬉しそうな顔してるもん!」

 

そんなに顔に出ていただろうか。

 

まあ、別に隠す必要もない。

 

「娘が生まれたんだよ」

 

「……えっ?」

 

かぐやの動きが止まった。

 

それから、勢いよく身体を持ち上げた。

 

「ええっ! 本当!?」

 

「本当だよ。さっき駿府から知らせが来たんだ」

 

「やったー! おめでとう、竹千代!」

 

「ありがとう」

 

「女の子!? 女の子なんだよね!?」

 

「そうそう。母親も子供も元気らしい」

 

「よかったー!」

 

かぐやは文箱の縁で何度も身体を揺らした。

 

その様子がおかしくて、俺は笑ってしまった。

 

「お前、俺より喜んでない?」

 

「だって嬉しいじゃん! 竹千代に娘ができたんだよ!」

 

「まあ、そうだけど」

 

「名前は? もう決まってるの?」

 

「亀だって」

 

「かめ?」

 

「うん」

 

「亀ちゃん!」

 

早速、勝手な呼び方が決まったらしい。

 

「可愛い名前だね!」

 

「そうか? まあ、縁起のいい名前ではあるけど」

 

「うん! 亀ちゃんかぁ。会ってみたいなー!」

 

かぐやは楽しそうに繰り返した。

 

俺も、まだ顔を見たことのない娘を思い浮かべた。

 

どんな顔をしているのだろう。

 

瀬名に似ているのか。

 

それとも、俺に似ているのか。

 

正直なところ、想像もつかなかった。

 

「……俺もまだ会ってないんだよな」

 

そう言うと、かぐやがこちらを見た。

 

「あ、そっか」

 

「ああ。駿府だからな」

 

「じゃあ、亀ちゃんがどんな子なのかも分からないんだ」

 

「そうなんだよ。早く会いたいんだけどね」

 

「うーん……」

 

かぐやは少し考えた。

 

「じゃあさ、お手紙書いたら?」

 

「手紙?」

 

「うん! 瀬名ちゃんに!」

 

「いや、返事ならもう頼んだけど」

 

「そうじゃなくて、竹千代が自分で書くの!」

 

俺は少し驚いた。

 

「……ああ、なるほど」

 

確かに、言われてみればそのとおりだった。

 

使いに口頭で伝えるだけでなく、俺自身が手紙を書けばいい。

 

別に難しいことではない。

 

それなのに、どういうわけか思いつかなかった。

 

「かぐや、たまにはいいこと言うな」

 

「たまにはって何!?」

 

「あはは、悪い悪い」

 

かぐやが抗議してきた。

 

俺は笑いながら、文箱の近くに座った。

 

「よし。じゃあ書くか」

 

「うん!」

 

「何て書こうかな……」

 

「亀ちゃんに早く会いたいです、とか!」

 

「いや、それくらい自分で考えるって」

 

「えー、いいじゃん!」

 

結局、かぐやに横からあれこれ言われながら手紙を書くことになった。

 

瀬名の身体を気遣う言葉。

 

娘が無事に生まれたことへの喜び。

 

それから、今すぐ会いに行けないことへの詫び。

 

書き始めてみると、伝えたいことは意外に多かった。

 

「……これくらいでいいかな」

 

「見せて見せて!」

 

「お前、読めるの?」

 

「読めるよ! 全部じゃないけど!」

 

「じゃあ、ちょっとだけな」

 

書いたものを見せると、かぐやはしばらく眺めていた。

 

「……ねえ、竹千代」

 

「何?」

 

「もっと嬉しいって書いてもいいんじゃない?」

 

「書いてあるだろ?」

 

「うん。でもさ、竹千代、さっきすっごく喜んでたじゃん!」

 

俺はもう一度、手紙を見た。

 

確かに、少し堅苦しい文章かもしれない。

 

妻に送る手紙なのだから、もう少しくらい素直に書いてもいいだろう。

 

結局、一部を書き直すことにした。

 

「これでどう?」

 

「うん! いいと思う!」

 

「そっか」

 

俺は手紙を畳んだ。

 

明日、駿府へ向かう使いに託そう。

 

「ねえ、竹千代」

 

「ん?」

 

「亀ちゃんが岡崎に来たら、私も会いたいな!」

 

「いいよ。まあ、竹千代のときみたいに、こっそりになると思うけど」

 

「うん! 楽しみにしてる!」

 

かぐやは嬉しそうに身体を揺らした。

 

ただ、俺には一つ気がかりがあった。

 

果たして、その日がいつ来るのか。

 

今川家との関係は、これからますます難しくなるだろう。

 

娘が生まれたという知らせを受けても、すぐに会いに行けない。

 

城主になって自分で決められることは増えたが、こういうことばかりは、思うようにならなかった。

 

「……早く会えるといいな」

 

俺が呟くと、かぐやが頷いた。

 

「うん! 楽しみにしてようよ!」

 

その声につられて、俺も頷いた。

 

今は、できることを一つずつやるしかない。

 

まずは、瀬名たちが無事でいることを喜ぼう。

 

◇

 

尾張との和睦についての話し合いは、それからも続いた。

 

使者が行き来し、互いの意向を確かめる。

 

その間にも、三河では戦が起こっていた。

 

今川方についている者。

 

松平家へ従おうとする者。

 

織田との関係を見て、態度を決めかねている者。

 

一口に三河といっても、事情はばらばらである。

 

岡崎城へ戻ったからといって、三河中の武将が俺に従ってくれるわけではなかった。

 

それどころか、少し兵を動かしただけでも、あちらこちらから抗議や知らせが届く。

 

「殿、東の諸将の中には、いまだ今川家を頼る者も多うございます」

 

忠次はそう報告した。

 

「だろうな」

 

俺も頷いた。

 

「我らとて、ついこの間までは今川に仕えていたのだ。簡単に考えを変えられるものではあるまい」

 

「左様にございます」

 

「とはいえ、こちらを攻めてくるなら話は別だ。備えは怠るな」

 

「はっ」

 

話し合いで済む相手ばかりではない。

 

松平家の立場を固めるためには、どうしても戦が必要になる。

 

そのことは、もう分かっていた。

 

そして、戦を重ねるほど、今川家との関係は悪くなっていく。

 

俺が何も言わなくとも、周囲はそれを理解していた。

 

「……忠次」

 

「はっ」

 

「駿府に残る瀬名たちのこと、何か新しい知らせはあるか?」

 

忠次の表情が少し変わった。

 

「いまだ大きな変わりはないようにございます。ただ、今後も無事であると申し上げられるかは……」

 

「そうか」

 

言いたいことは分かった。

 

瀬名だけではない。

 

息子の竹千代と、生まれたばかりの娘の亀も駿府にいる。

 

まだ一度も会えていない娘が、どう過ごしているのかも気になっていた。

 

三人が何の不自由もなく暮らせているなら、それに越したことはない。

 

しかし、俺が今川方から離れていけば、そうもいかなくなるだろう。

 

忠次はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

 

「殿。これより先は、いずれ御決断が必要になりましょう」

 

「ああ」

 

「それでも、我らは殿にお従いいたします」

 

その言葉がありがたかった。

 

同時に、少し怖くもあった。

 

この人たちは、俺が決めたことに従ってくれる。

 

たとえ、その判断が間違っていたとしても。

 

俺は書付を畳んだ。

 

「……もう少し、皆の話を聞かせてくれ。決めるのは、それからにしたい」

 

忠次は頷いた。

 

「承知いたしました」

 

それからも、俺たちは何度も話し合った。

 

今川へ戻った場合。

 

織田と結んだ場合。

 

どちらとも距離を置こうとした場合。

 

それぞれに利点があり、危険もある。

 

ただ、時間が経つほど、選べる道は少なくなっていった。

 

そして、俺は織田と手を結ぶ道を選んだ。

 

義元への恩を忘れたわけではない。

 

氏真が嫌いになったわけでもない。

 

ただ、この先も松平家を保ち、三河で生き残ろうと思えば、今川だけを頼りにすることはできなかった。

 

そう判断したのである。

 

自分で決めたことなのに、決まってしまうと妙に落ち着かなかった。

 

とはいえ、家臣たちの前でいつまでも迷っているわけにはいかない。

 

俺は織田方との和睦を進めるよう命じた。

 

その結果、尾張との戦はひとまず収まることになった。

 

しかし、これで何もかもが解決したわけではない。

 

むしろ、ここからが大変だった。

 

◇

 

永禄五年。

 

織田との和睦を経て、俺は尾張の清須へ赴くことになった。

 

織田信長と直接会い、今後の両家の関係を確かめるためである。

 

正直なところ、緊張していた。

 

相手は、あの織田信長だ。

 

前世の日本で暮らしていれば、知らない人間の方が少ないだろう。教科書にも載っているし、ドラマやゲームにも何度となく登場する。

 

しかも、俺の知っている信長は、後に天下統一へ近づく大人物である。

 

今はまだ尾張の大名だが、決して侮れる相手ではない。

 

そんなことを考えながら清須へ入った。

 

そして、実際に信長と対面してみて、少し拍子抜けした。

 

いや、別に信長が大したことのない人物だったという意味ではない。

 

想像していたほど、奇妙な人間ではなかったのである。

 

「そなたが元康か」

 

「はっ。松平元康にございます」

 

信長は俺をしばらく眺めた。

 

視線が遠慮なく動く。

 

品定めをされているようで、少々落ち着かない。

 

「今川の下で随分と働いておったそうだな」

 

「若輩ゆえ、家臣たちに助けられてばかりにございます」

 

「ふん。大高へ兵糧を入れ、丸根を落とした男が何を申す」

 

……そこまで知っているのか。

 

まあ、桶狭間の戦いで敵同士だったのだから、当然かもしれない。

 

「それも、家臣たちがよく働いてくれたおかげにございます」

 

「家臣、家臣か。そなたは随分と家臣を頼りにするのだな」

 

「頼れる者を頼らずにいては、できることもできませぬので」

 

信長は少し笑った。

 

「なるほど。そういう考えか」

 

それから、話は両家の関係へ移った。

 

尾張と三河。

 

これまで何度も争ってきた土地である。

 

互いに敵対を続ければ、それだけ兵を失い、田畑が荒れる。

 

織田家にも松平家にも、他に目を向けるべき相手がいた。

 

だからといって、昨日までの敵を無条件に信用することはできない。

 

その辺りについて、信長も曖昧な話では済ませなかった。

 

「元康。そなたは今川を捨てるのか」

 

真っ直ぐに尋ねられた。

 

少し答えにくい質問だった。

 

「……今川義元様には、大恩がございます」

 

「うむ」

 

「それを忘れるつもりはございませぬ」

 

「では、今川とともに織田を攻めるか?」

 

「それでは松平がもちませぬ」

 

信長がこちらを見た。

 

俺は言葉を続けた。

 

「岡崎へ戻り、ようやく家臣たちと暮らせるようになりました。今は、松平の家を保つことが第一にございます」

 

「そのためなら、今川とも戦うと?」

 

「……必要とあらば」

 

そう答えるしかなかった。

 

実際、その覚悟は決めている。

 

俺が何もしなければ、松平家は再び今川と織田の間に挟まれることになる。

 

それだけは避けたい。

 

信長はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

 

「そなた、見かけによらず欲張りよな」

 

「……そうでしょうか」

 

「今川への恩は忘れぬ。されど松平は守る。織田とも争いたくないと申す」

 

「できることなら、無益な戦は避けとうございます」

 

「誰しもそうであろうよ」

 

信長は笑った。

 

その笑い方が、何となく気になった。

 

こちらの言葉を面白がっているようでもあり、本気で値踏みしているようでもある。

 

少なくとも、俺をただの若造だとは思っていないらしい。

 

ありがたいことなのか、迷惑なことなのか。

 

その後も話し合いは続いた。

 

互いの領地について。

 

今後の軍勢の動きについて。

 

双方がどこまで協力するのかについて。

 

一度話しただけですべてが決まったわけではないが、大筋では合意することができた。

 

こうして、松平と織田の間に同盟が成立した。

 

後の世で、清洲同盟と呼ばれるものだ。

 

◇

 

「で、で! どうだった!?」

 

岡崎へ戻るなり、かぐやに尋ねられた。

 

「何が?」

 

「織田信長だよ!」

 

「ああ。普通に話せる人だったよ」

 

「えー、それだけ?」

 

「いや、別に普通の人って意味じゃないぞ」

 

俺は腰を下ろした。

 

「思ってたより、ちゃんと話を聞いてくれる人だったってこと」

 

「ふーん」

 

「でも、油断はできないな。こっちが何を考えてるのか、よく見てる感じだった」

 

「へえー!」

 

かぐやは楽しそうだった。

 

「竹千代、緊張した?」

 

「したよ。相手が信長だからな」

 

「あはは! 有名人に会ったみたい!」

 

「まあ、実際そうなんだけどさ」

 

前世の俺からすれば、歴史上の有名人に会ったようなものである。

 

ただ、今の信長は教科書の人物ではない。

 

これから長く付き合うことになる隣国の大名だ。

 

今度は、こちらが何か言い間違えたせいで戦になる可能性だってある。

 

そう考えると、あまり気楽な相手ではなかった。

 

「でもさ、仲良くなれそうなんでしょ?」

 

「仲良くっていうか……協力はできそうだな」

 

「じゃあよかったじゃん!」

 

「まあな」

 

俺は頷いた。

 

ただ、気がかりなことが一つ残っている。

 

瀬名たちのことだ。

 

今川家と敵対する以上、駿府に残した家族の立場はますます悪くなるだろう。

 

かぐやも、そのことを覚えていたらしい。

 

「瀬名ちゃんたちは、どうなるの?」

 

「……まだ分からない」

 

「そっか」

 

「でも、何とかして迎えに行くよ」

 

俺はそう答えた。

 

そのつもりだった。

 

ただ、どうすれば三人を無事に取り戻せるのか。

 

まだ、具体的な手立てはなかった。

 

◇

 

その手立てが見つかったのは、上ノ郷城を攻めたときのことだった。

 

上ノ郷城の城主、鵜殿長照。

 

今川家に深いつながりを持つ武将であり、俺たちとは敵対する立場にあった。

 

こちらが勢力を広げようとすれば、どうしてもぶつかる相手である。

 

「殿、鵜殿勢は容易には退きませぬ」

 

忠次の報告どおり、城の守りは堅かった。

 

こちらが攻めても、なかなか落ちない。

 

兵を動かせば損害が出るし、長く包囲すれば食料も必要になる。

 

何とも面倒な戦だった。

 

「……これ以上、同じところから攻めても仕方あるまい」

 

俺は城の図を見ながら言った。

 

「敵もこちらの動きに慣れておろう。別の手を考えたい」

 

「夜襲という手もございますが」

 

「うむ。城内を乱せればよいのだが……」

 

その後、家臣たちと相談を重ね、夜陰に乗じて城内へ忍び込ませた者に火を放たせる策を取ることになった。

 

危険な仕事である。

 

失敗すれば、送り込んだ者は帰ってこられないかもしれない。

 

それでも、同じ攻め方を続けて兵を失うよりは、まだ可能性があると判断した。

 

結果として、策は成功した。

 

城内に火が上がり、守備側が混乱する。

 

そこへ松平勢が攻めかかった。

 

上ノ郷城は落ちた。

 

しかし、当然ながら、無傷で勝てたわけではない。

 

こちらにも負傷者が出たし、討たれた者もいる。

 

そして、城主の鵜殿長照も、この戦で命を落とした。

 

「殿、鵜殿の子らを捕らえましてございます」

 

報告を受けたとき、俺は顔を上げた。

 

「子ら?」

 

「はっ。氏長、氏次の兄弟にございます」

 

二人とも、生きて捕らえられたらしい。

 

俺はしばらく考えた。

 

鵜殿氏は、今川家の一門に連なる家である。

 

ならば、この二人は氏真にとっても無視できない存在のはずだった。

 

「……忠次」

 

「はっ」

 

「この兄弟、粗略に扱わぬようにしてくれ」

 

「承知いたしました」

 

「傷があれば手当てもさせよう。それから、今川へ使いを出す」

 

忠次が俺を見た。

 

「もしや……」

 

「ああ」

 

俺は頷いた。

 

「瀬名たちを取り戻せるかもしれぬ」

 

忠次は少し驚いたようだったが、すぐに頭を下げた。

 

「なるほど。鵜殿の子らとの交換でございますな」

 

「うむ。向こうが応じるかは分からぬが、試す価値はあろう」

 

今川氏真が、この二人をどれほど重く見ているのか。

 

それは分からない。

 

だが、今の俺には、他に有力な手立てがなかった。

 

◇

 

捕らえられた兄弟とは、一度だけ顔を合わせた。

 

二人とも、俺をひどく警戒していた。

 

当然だろう。

 

父親を討った相手なのだ。

 

そのうえ、今は捕虜として連れてこられている。

 

何をされるか分からないと思っていても、おかしくない。

 

「……そなたらを殺すつもりはない」

 

そう伝えると、兄の方が顔を上げた。

 

「まことに?」

 

「ああ。今川へ帰すことを考えておる」

 

二人は顔を見合わせた。

 

それから、弟の方が小さな声で尋ねてきた。

 

「……父上は」

 

俺はすぐには答えられなかった。

 

この二人は、父親が死んだことを知っているのだろうか。

 

いや、城が落ちたのだから、何となく察してはいるかもしれない。

 

それでも、俺の口から聞きたいのだろう。

 

「長照殿は、戦で討たれた」

 

そう答えた。

 

弟は俯いた。

 

兄の方は何も言わなかったが、膝の上で拳を握りしめていた。

 

俺はそれ以上、何も言えなかった。

 

慰められる立場ではない。

 

俺が命じて攻めた城で、二人の父親は死んだのだから。

 

その日のうちに、今川方との交渉を進めるよう命じた。

 

鵜殿兄弟と引き換えに、瀬名と子供たちを返してもらう。

 

交渉はすぐにまとまったわけではなかった。

 

使者が行き来し、互いの条件を確かめる。

 

俺が今川から離れたことを、向こうが快く思っていないのは当然だった。

 

それでも、最終的に人質の交換が成立した。

 

知らせを聞いたとき、俺はしばらく言葉が出なかった。

 

「……本当か?」

 

「はっ。先方も承知したとのことにございます」

 

忠次が答えた。

 

「そうか……」

 

何度も確認したくなった。

 

だが、忠次がわざわざ間違った知らせを持ってくるとは思えない。

 

「……よかった」

 

つい、そう口にしていた。

 

忠次が少し笑った。

 

「殿、ようございましたな」

 

「ああ。本当に」

 

俺も笑った。

 

久しぶりに、心から嬉しい知らせだった。

 

ただ、鵜殿兄弟の顔が頭から離れなかった。

 

あの二人も、これから今川へ帰る。

 

父親のいない家へ。

 

俺は忠次に命じ、二人が無事に引き渡されるよう、最後まで気を配らせた。

 

◇

 

瀬名が岡崎へやってきた日。

 

俺は、どうにも落ち着かなかった。

 

朝から何度も人を呼び、到着はまだかと尋ねてしまった。

 

三度目には、忠次から苦笑された。

 

「殿、もう間もなくでございます」

 

「……そうか」

 

「先ほども申し上げましたが」

 

「分かっておる」

 

分かっているのだが、気になるものは仕方がない。

 

それからしばらくして、ようやく知らせが届いた。

 

瀬名たちが到着したという。

 

俺はすぐに迎えに出た。

 

久しぶりに見た瀬名は、少し痩せたように見えた。

 

しかし、俺の姿を見ると、いつものように礼をした。

 

「殿。ご無沙汰しております」

 

「……ああ」

 

何から話せばよいのか、一瞬分からなくなった。

 

久しぶりだ、と言えばいいのか。

 

無事でよかった、と言うべきか。

 

それとも、長い間待たせてすまなかったと謝るべきか。

 

結局、最初に出たのは、実にありきたりな言葉だった。

 

「……よく来てくれた」

 

瀬名が顔を上げた。

 

少しだけ笑っている。

 

「殿こそ、ご無事で何よりにございます」

 

その返事を聞いて、俺もようやく笑えた。

 

息子の竹千代は、以前より随分と大きくなっていた。

 

もう一人、瀬名のそばには娘の亀がいる。

 

駿府で生まれたという知らせを受けてから、どれほど会いたいと思ったことか。

 

今では自分の足で歩くようになっている。

 

「……亀も大きくなったな」

 

「はい。元気に育っております」

 

俺が屈んで手を差し出すと、亀は瀬名の後ろへ隠れてしまった。

 

……まあ、そうなるよな。

 

父親とはいえ、これが初対面なのだ。

 

いきなり知らない男が近づいてきたようなものだろう。

 

「怖がらせてしまったか」

 

「いずれ慣れます」

 

瀬名はそう言って笑った。

 

一方、竹千代は俺をじっと見ていた。

 

「……父上?」

 

おそるおそる、といった声だった。

 

「ああ。そうだぞ」

 

俺が頷くと、竹千代は少し迷った後、近づいてきた。

 

そして、俺の衣を掴んだ。

 

昔と同じだった。

 

あの頃は抱き上げなければ顔も見えなかったのに、今では自分の足で立ち、俺を見上げている。

 

「……ただいま」

 

そう言ってみた。

 

すると、竹千代は少し考えてから答えた。

 

「おかえりなさい」

 

俺は思わず笑った。

 

「……ああ」

 

ようやく帰ってきた気がした。

 

◇

 

その夜、瀬名と二人で話をした。

 

子供たちは寝かせてある。

 

久しぶりに夫婦で向かい合うと、何から話せばいいのか迷った。

 

「駿府では、苦労をかけたな」

 

俺がそう言うと、瀬名は首を振った。

 

「殿が岡崎へお戻りになった以上、いずれこのようなことになるとは思っておりました」

 

「……そうか」

 

「ですが、少しばかり心細うございました」

 

その言葉に、俺は顔を上げた。

 

瀬名は、こちらを見ていた。

 

「殿のお考えが分からぬまま、駿府に残っておりましたので」

 

「すまぬ」

 

「責めているわけではございません」

 

そう言ってから、少し間を置いた。

 

「ただ、今度は私にもお話しくださいませ」

 

俺は頷いた。

 

「……そうしよう」

 

瀬名は今川家につながる家の娘だ。

 

俺が今川と戦うことについて、簡単に割り切れるはずがない。

 

それでも、こうして岡崎へ来てくれた。

 

そのことを、軽く考えてはいけないと思った。

 

「瀬名」

 

「はい」

 

「これからも、苦労をかけると思う」

 

「存じております」

 

即答だった。

 

俺は少し驚いた。

 

瀬名は笑っていた。

 

「殿が大人しく岡崎でお暮らしになるとは、思っておりませぬので」

 

「……そんなに落ち着きがないように見えるか?」

 

「いえ。むしろ、何かと考え込んでおいでです」

 

「それは……」

 

否定できない。

 

「ですが、考えた末に決めたことであれば、私もできる限り支えとうございます」

 

俺はしばらく黙っていた。

 

それから、頭を下げた。

 

「……ありがとう」

 

瀬名は少し驚いたようだった。

 

「殿?」

 

「いや、礼を言っておきたくてな」

 

瀬名は困ったように笑った。

 

「夫婦の間で、改まって何を仰います」

 

「そういうものか」

 

「そういうものでございます」

 

……なるほど。

 

また一つ、覚えることが増えたらしい。

 

◇

 

「瀬名ちゃんたち、帰ってきたんだって!?」

 

部屋へ戻るなり、かぐやに尋ねられた。

 

「うん。無事に帰ってきたよ」

 

「よかったー!」

 

かぐやは身体を大きく揺らした。

 

「竹千代、ずっと心配してたもんね!」

 

「まあな」

 

「赤ちゃんたちも元気?」

 

「元気だよ。もう赤ん坊ってほど小さくないけど」

 

「えー! そんなに大きくなったの?」

 

「会ってない間に、結構な」

 

「いいなー! 私も早く会いたい!」

 

「そうだな。落ち着いたら会えるようにするよ」

 

「本当!? じゃあ、亀ちゃんにも会えるんだ!」

 

「うん。まだ俺もあんまり一緒に過ごせてないしな」

 

「そっか。じゃあ、楽しみだね!」

 

「そうだな」

 

かぐやは嬉しそうだった。

 

それから、何か思い出したらしい。

 

「あっ、そうだ!」

 

「何?」

 

「息子の竹千代も、もう喋れるんだよね?」

 

「ああ。喋れるぞ」

 

「じゃあさ、やっぱり竹千代って呼んだら二人とも振り向くのかな?」

 

「……まだその話覚えてたのか」

 

「そりゃ覚えてるよ!」

 

かぐやが笑った。

 

「試してみたい!」

 

「やめろって。お前が呼んだら大騒ぎになるだろ」

 

「あー、そっか!」

 

少し残念そうだった。

 

だが、すぐに別のことを思いついたらしい。

 

「じゃあ、竹千代が竹千代って呼んでみてよ!」

 

「……自分で自分を呼ぶのか?」

 

「あはは! そうなるね!」

 

「何が面白いんだよ」

 

そう言いながら、俺も笑ってしまった。

 

その後、かぐやは子供たちの様子をあれこれ聞いてきた。

 

俺も、久しぶりに会った息子や娘のことを話してやった。

 

いつの間にか、夜も更けていた。

 

◇

 

瀬名たちが岡崎へ帰ってきてから、数日が過ぎた。

 

ようやく家族が揃ったというのに、俺は相変わらず忙しかった。

 

朝から家臣が訪ねてくるし、城の仕事は減らない。瀬名とゆっくり話せるのも、夕方から夜にかけてのことが多かった。

 

そんなある日、俺は一つ決めたことがあった。

 

かぐやのことを、瀬名に話そうと思ったのである。

 

別に、今まで黙っていたことに深い理由があるわけではない。

 

いや、理由はある。

 

喋るウミウシなどというものを見せたら、大騒ぎになるかもしれないからだ。

 

第一、俺自身、最初に出会ったときは相当驚いた。

 

そんなものを妻に見せて、はいそうですかと納得してもらえるとは思えなかった。

 

だから、これまでは秘密にしてきた。

 

しかし、これからは瀬名も岡崎で暮らす。

 

いつまでも隠し続けられるとは限らない。

 

何より、あの夜に言われたことが気になっていた。

 

今度は私にもお話しくださいませ。

 

そう言われたばかりなのに、肝心なことを隠し続けるのもどうかと思う。

 

ただ、問題はどう説明するかだった。

 

◇

 

「……で、どう言えばいいと思う?」

 

「えっ、私に聞くの!?」

 

かぐやが驚いた声を出した。

 

「そりゃ、お前のことだからな」

 

「うーん……」

 

しばらく考えてから、かぐやは言った。

 

「普通に紹介すればいいんじゃない?」

 

「普通に?」

 

「うん! はじめまして、かぐやです! って!」

 

「いや、その前に俺が説明しないと駄目だろ」

 

「えー、そうかな?」

 

「そりゃそうだよ。急にお前が喋り始めたら、瀬名だって驚くだろ」

 

「まあ、それはそうか!」

 

納得するのが早い。

 

俺は少し考えた。

 

「というか、お前はいいの? 瀬名に会うの」

 

「いいよ!」

 

返事は即答だった。

 

「ずっと竹千代から話聞いてたし、会ってみたかったんだよね!」

 

「そうなのか?」

 

「うん! だって竹千代の奥さんでしょ?」

 

「まあ、そうだけど」

 

「それに、亀ちゃんたちのお母さんだし!」

 

かぐやは楽しそうだった。

 

「でも、怖がられちゃったらどうしようかなー」

 

「……それはありそうだな」

 

「えっ、否定してよ!」

 

「いや、最初は驚くだろ。俺だって驚いたし」

 

「それは竹千代が枝で突っつこうとしたからでしょ!」

 

「まだ言うのかよ」

 

かぐやが笑った。

 

俺も笑いながら、もう一度考えた。

 

とりあえず、瀬名に話してみよう。

 

その後どうするかは、反応を見て決めればいい。

 

◇

 

その夜。

 

俺は瀬名を自分の部屋へ呼んだ。

 

子供たちは、もう眠っている。

 

人払いも済ませてあるので、しばらくは誰も入ってこないはずだった。

 

「殿、お話があると伺いましたが」

 

「ああ。少し、見せたいものがあってな」

 

「見せたいもの、でございますか?」

 

瀬名は不思議そうだった。

 

俺は文箱を見た。

 

かぐやは中で大人しくしている。

 

……さて、どうしたものか。

 

「まず、驚かずに聞いてほしいのだが」

 

「はい」

 

「実は、駿府にいた頃から、ずっと一緒にいる者がいる」

 

瀬名の眉が僅かに動いた。

 

「……一緒にいる者?」

 

「ああ」

 

「それは、どなたでございますか?」

 

何だか、言い方を間違えた気がする。

 

「いや、そういう話ではないぞ」

 

「……私はまだ何も申し上げておりませんが」

 

「そうだったな」

 

少々気まずい。

 

俺は咳払いした。

 

「とにかく、会ってもらった方が早い」

 

そう言って、文箱の蓋を開けた。

 

「かぐや、もういいぞ」

 

「はーい!」

 

元気な返事とともに、小さな身体が顔を出した。

 

「はじめまして! かぐやです!」

 

瀬名は動かなかった。

 

俺と、文箱と、その中にいるかぐやを順番に見ている。

 

何も言わない。

 

あまりにも静かなので、少し心配になってきた。

 

「……瀬名?」

 

「殿」

 

「うむ」

 

「今、こちらから声がいたしましたか?」

 

「ああ」

 

「……こちらの、小さな生き物から?」

 

「そうだ」

 

瀬名はもう一度かぐやを見た。

 

「こんにちはー!」

 

かぐやが小さく身体を揺らす。

 

瀬名は目を瞬かせた。

 

「……殿」

 

「何だ?」

 

「少し、座り直してもよろしゅうございますか」

 

「ああ、もちろん」

 

瀬名は居住まいを正した。

 

それから、もう一度かぐやを見た。

 

「……人の言葉を、話すのでございますね」

 

「うん! 話せるよ!」

 

かぐやが答えた。

 

瀬名はしばらく黙っていた。

 

俺も、特に何も言わなかった。

 

何を言えばよいのか分からなかったのである。

 

やがて、瀬名が口を開いた。

 

「殿。こちらは、いったい何なのでございましょう」

 

「……俺も最初はそう思った」

 

「そうでございましょうね」

 

瀬名は妙に納得した様子だった。

 

その返事がおかしくて、俺は少し笑ってしまった。

 

「おい、竹千代!」

 

かぐやが抗議してきた。

 

「何で二人してそういう反応なの!」

 

「いや、仕方ないだろ」

 

「ちゃんと名前もあるんだからね!」

 

「ああ。かぐや、だったな」

 

俺は瀬名へ向き直った。

 

「こいつは、かぐやという。駿府でまだ幼かった頃、偶然出会ってな。それからずっと一緒にいるんだ」

 

「……ずっと、でございますか?」

 

「ああ」

 

「私と夫婦になる前から?」

 

「そうだな」

 

瀬名は少し考えた。

 

「それほど長い間、どなたにも知られずに?」

 

「できるだけ人には見せないようにしてきた。騒ぎになれば困るからな」

 

「それは……確かに」

 

瀬名はかぐやを見た。

 

「かぐや殿、とお呼びすればよろしゅうございますか?」

 

「えっ、そんな丁寧じゃなくていいよ! かぐやでいいって!」

 

「……そういうわけにも参りませぬ」

 

「えー!」

 

かぐやが残念そうな声を出した。

 

瀬名はその様子をじっと見ていたが、やがて俺へ尋ねた。

 

「殿。この方は、何ゆえ殿とご一緒に?」

 

「何ゆえ、か……」

 

改めて聞かれると、答えに困る。

 

最初は、寺の近くで偶然出会っただけだった。

 

喋るウミウシが珍しくて、少し話をした。

 

それが何となく続いて、気づけば何年も一緒にいる。

 

特別な約束を交わした覚えもない。

 

「……最初は、何となくだったんだよ」

 

「何となく、でございますか?」

 

「ああ。話が合ったというか、気が合ったというか」

 

「竹千代が勝手に連れていったんだよね!」

 

かぐやが口を挟んできた。

 

「いや、お前も来る気満々だっただろ」

 

「そうだっけ?」

 

「そうだよ」

 

「えへへ!」

 

瀬名は俺たちのやり取りを聞いていた。

 

そして、小さく息を吐いた。

 

「……なるほど」

 

何に納得したのだろう。

 

少し気になったが、瀬名は別のことを尋ねてきた。

 

「では、かぐや殿は、殿のお側にずっと?」

 

「ああ。駿府にいた頃も、戦へ出るときもな」

 

「……戦にも?」

 

「うん! 竹千代が連れていってくれるんだ!」

 

かぐやが嬉しそうに答えた。

 

瀬名は一瞬、言葉を失った。

 

「……殿」

 

「何だ?」

 

「危のうございます」

 

「……そうだな」

 

「そうだな、ではございません」

 

今度は少し強い口調だった。

 

「戦場へ、このような小さな方をお連れになるなど」

 

「まあ、確かに危ないけど……」

 

「竹千代、私だって自分で行くって言ってるんだよ!」

 

「それは分かってるって」

 

「殿」

 

瀬名が俺を見た。

 

「その、かぐや殿のことは、どこまでお考えなのでございますか?」

 

……難しい質問だった。

 

ただ、何も考えていないわけではない。

 

かぐやが見つかれば、騒ぎになる。

 

戦に連れていけば、危険もある。

 

それでも、かぐや自身が望んでいることまで、俺が勝手に決めてよいものなのか。

 

ずっと迷いながら付き合ってきた。

 

「……できるだけ、危ない目には遭わせたくないと思っている」

 

俺は答えた。

 

「ただ、かぐやにも考えがあるからな。俺が全部決めるわけにもいかぬ」

 

瀬名はかぐやを見た。

 

「かぐや殿も、そうお望みなのですか?」

 

「うん! 竹千代についていくのは、私が決めたことだよ!」

 

「……さようでございますか」

 

瀬名はまだ納得しきれていない様子だったが、それ以上は追及しなかった。

 

代わりに、今度は子供たちのことを尋ねた。

 

「殿。竹千代や亀は、かぐや殿のことを知っているのでございますか?」

 

「いや、知らない」

 

そう答えてから、少し迷った。

 

……正確には、一度だけ息子に会わせたことがある。

 

「ただ、駿府にいた頃、かぐやに頼まれて竹千代を一度会わせたことはある。まだ赤ん坊だった頃だが」

 

瀬名の表情が変わった。

 

「……私の知らぬ間に?」

 

「ああ。すまぬ」

 

これは素直に謝るしかなかった。

 

「そのときは乳母も近くに控えていたし、危ないことはさせておらぬ。ただ、勝手に決めたのは悪かった」

 

かぐやも声を上げた。

 

「あっ、私が会いたいってお願いしたんだよ! 竹千代を責めないであげて!」

 

「かぐや、それは俺が決めたことだから」

 

「でも……」

 

瀬名は二人を見比べていた。

 

しばらくして、俺に向かって言った。

 

「殿」

 

「うむ」

 

「私が心配しているのは、かぐや殿を責めたいからではございません」

 

「……ああ」

 

「子供たちのことは、私にも相談していただきたかったのでございます」

 

そのとおりだった。

 

「すまぬ。次からはそうしよう」

 

瀬名は頷いた。

 

それから、かぐやへ向き直った。

 

「かぐや殿」

 

「は、はい!」

 

かぐやが少し背筋を伸ばすように身体を持ち上げた。

 

「子供たちに会いたいと仰るのであれば、私にもお話しくださいませ。何も知らぬままでは、こちらも驚いてしまいますので」

 

「……うん! 分かった!」

 

かぐやは元気よく答えた。

 

俺は少し安心した。

 

少なくとも、いきなり追い出されるようなことにはならなかったらしい。

 

「……瀬名」

 

「はい」

 

「驚かせてすまなかった」

 

「まことに驚きました」

 

即答だった。

 

俺は思わず笑ってしまった。

 

瀬名も、少しだけ笑った。

 

「ですが、殿が幼い頃からご一緒にいるのであれば、私が知らぬことも多いのでしょう」

 

「ああ」

 

「まだ、何もかも分かったわけではございません」

 

瀬名はかぐやを見た。

 

「ですから、これから少しずつ、お話を伺えればと思います」

 

「もちろん!」

 

かぐやが嬉しそうに答えた。

 

「私も瀬名ちゃんとお話ししたかったんだ!」

 

「……瀬名ちゃん?」

 

瀬名が聞き返した。

 

かぐやは一瞬、動きを止めた。

 

「あっ、駄目だった?」

 

「いえ……」

 

瀬名は少し困ったように笑った。

 

「そのように呼ばれたことが、あまりございませんので」

 

「えー、そうなの?」

 

「はい」

 

「じゃあ、瀬名ちゃんって呼んでいい?」

 

「……人前でなければ、構いませぬ」

 

「やった!」

 

かぐやが喜んだ。

 

俺は二人のやり取りを眺めていた。

 

瀬名とかぐや。

 

この二人が話しているところなど、今まで想像したこともなかった。

 

だが、実際にこうして見ていると、不思議なことに、それほど違和感はなかった。

 

「ところで、殿」

 

瀬名がこちらへ向き直った。

 

「何だ?」

 

「一つ、お尋ねしてもよろしゅうございますか?」

 

「もちろん」

 

「かぐや殿は、普段どのようなものを召し上がるのでございますか?」

 

「……え?」

 

予想していなかった質問だった。

 

「いや、それは……」

 

「長くお側にいるのであれば、お食事のことも考えねばなりませぬでしょう」

 

「まあ、そうだな」

 

俺が答えようとすると、かぐやが先に口を開いた。

 

「あっ! 私、竹千代が持ってきてくれるお菓子が好き!」

 

「……お菓子?」

 

瀬名が俺を見た。

 

「殿」

 

「……うむ」

 

「かぐや殿のお食事は、殿が用意なさっているのでございますか?」

 

「ああ。まあ、そういうことになるな」

 

瀬名は少し考えた。

 

それから、何とも言えない顔で笑った。

 

「殿は、私の知らぬところで随分とまめなお方だったのですね」

 

「……そうなのかな」

 

「そうでございますよ」

 

かぐやが楽しそうに笑い始めた。

 

「あはは! 竹千代、褒められてる!」

 

「いや、これ褒められてるのか?」

 

「褒めております」

 

瀬名が答えた。

 

その声が少し楽しそうだったので、俺も笑ってしまった。

 

もっとも、これからどうなるのかは分からない。

 

瀬名がかぐやのことを完全に受け入れたわけでもないだろう。

 

それでも、ひとまず話はできた。

 

いつまでも秘密にしているよりは、ずっとよかったと思う。

 

ただ、一つだけ決めておかなければならないことがあった。

 

「瀬名」

 

「はい」

 

「かぐやのことは、他の者には話さないでほしい」

 

瀬名は頷いた。

 

「承知しております。このような方がいると知れれば、どのような騒ぎになるか分かりませぬ」

 

「助かる」

 

「子供たちにも、今すぐ話すのは控えた方がよろしいでしょう」

 

「ああ。俺もそう思う」

 

かぐやも頷いた。

 

「分かった! 私も気をつけるね!」

 

「うむ。頼むぞ」

 

そう言ったところで、瀬名が少し笑った。

 

「殿」

 

「何だ?」

 

「かぐや殿には、随分と気安くお話しになるのですね」

 

「ああ、まあ……昔からこんな感じだからな」

 

「さようでございますか」

 

瀬名はもう一度かぐやを見た。

 

かぐやも、にこにこと身体を揺らしている。

 

「……何だか、少し羨ましゅうございます」

 

小さな声だった。

 

俺は少し驚いた。

 

「瀬名?」

 

「いえ、何でもございません」

 

瀬名は微笑んだ。

 

俺は何か言おうとしたが、うまい言葉が出てこなかった。

 

そのとき、かぐやが声を上げた。

 

「じゃあさ、瀬名ちゃんももっと気楽に話せばいいじゃん!」

 

「……私も、でございますか?」

 

「うん! 竹千代って、そんなに怖い人じゃないし!」

 

「おい」

 

「えへへ!」

 

かぐやが笑った。

 

瀬名も、それにつられたように笑った。

 

俺は二人を見比べた。

 

……まあ、いいか。

 

少なくとも、悪い雰囲気ではない。

 

「それじゃあ、改めてよろしく。瀬名ちゃん!」

 

「……はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします。かぐや殿」

 

こうして、瀬名はかぐやの存在を知ることになった。

 

もちろん、まだ何もかも話したわけではない。

 

かぐやがどこから来たのか。

 

どれほど長く生きているのか。

 

そして、俺自身が本当は何者なのか。

 

それらについては、まだ話していなかった。

 

ただ、瀬名はこれから長く一緒に暮らす妻である。

 

必要なことは、少しずつ話していけばいい。

 

そう思った。

 

◇

 

瀬名たちが岡崎で暮らすようになり、少しずつ日常が戻ってきた。

 

もっとも、俺の仕事が減ったわけではない。

 

織田との同盟を結んだからといって、三河が平和になったわけでもなかった。

 

今川方の諸将とは、引き続き戦わなければならない。

 

松平家の中にも、俺の方針に納得していない者がいる。

 

家臣たちが皆、同じ考えを持っているわけではなかった。

 

そんな中、俺は再び名前を変えることになった。

 

松平家康。

 

元康から家康へ。

 

今川義元からいただいた「元」の字を改めたのである。

 

「……また名前が変わるの?」

 

かぐやが呆れたように言った。

 

「そうなんだよ」

 

「今度は何?」

 

「家康」

 

「いえやす?」

 

「うん」

 

かぐやは何度か繰り返した。

 

「いえやす、いえやす……」

 

「どう?」

 

「うーん」

 

少し考えた後、首を傾げるように身体を動かした。

 

「やっぱり竹千代の方がいい!」

 

「だろうな」

 

もう驚かない。

 

「でも、いい名前じゃん!」

 

「そうか?」

 

「うん! 何か強そう!」

 

「名前だけ強くても困るんだけどな」

 

「じゃあ、名前に負けないように頑張らないと!」

 

「……お前、家臣みたいなこと言うなあ」

 

「あはは!」

 

かぐやは楽しそうだった。

 

俺も笑った。

 

ただ、今回の改名には、それなりに大きな意味があった。

 

今川義元から与えられた「元」の字を捨てる。

 

それは、今川家との関係を改めて示す行為でもある。

 

もう、昔のようには戻れない。

 

そのことは、俺自身が一番よく分かっていた。

 

◇

 

永禄六年。

 

三河で、一向宗の寺院と松平家の間に争いが起こった。

 

最初に報告を受けたとき、俺は大したことのない揉め事だと思っていた。

 

兵糧米の徴収を巡る争い。

 

そう聞いたからである。

 

寺院の持つ米を取り立てようとしたところ、寺側が反発した。

 

ただ、それだけの話だと思っていた。

 

ところが、実際にはそう簡単な話ではなかった。

 

「殿、寺内には古くから不入の権が認められております」

 

忠次が説明した。

 

「不入?」

 

「はっ。領主の使いといえども、勝手に立ち入ることができぬというものでございます」

 

「……なるほど」

 

つまり、普通の村とは扱いが違うらしい。

 

寺院側には寺院側の権利があり、それを守ってきた歴史もある。

 

一方、松平家には兵糧が必要だった。

 

領内を治める以上、こちらとしても勝手なことをされては困る。

 

しかし、だからといって、今まで認められていた権利を一方的に踏みにじってよいものでもない。

 

「最初に米を取り立てようとしたのは、誰の命だ?」

 

そう尋ねると、家臣たちは顔を見合わせた。

 

やがて、一人が答えた。

 

「……我らの者が、十分に確かめぬまま寺内へ踏み入ったようにございます」

 

「そうか」

 

俺は少し考えた。

 

「ならば、こちらにも非があるな」

 

「されど、殿」

 

別の家臣が口を開いた。

 

「寺の者たちも、ただ権利を守ろうとしているだけではございませぬ。今川方に通じる者もおります。放っておけば、いずれ我らに刃を向けるやもしれませぬ」

 

それも分からない話ではなかった。

 

三河は、まだ完全にまとまっていない。

 

寺院が今川方の諸将と結べば、松平家にとって脅威になる可能性もある。

 

だが、だからといって、すべての寺院を敵と決めつけるわけにもいかない。

 

「まずは使いを出そう。何を求めているのか、話を聞きたい」

 

そう命じた。

 

しかし、事態は俺が考えていたよりもずっと早く悪化していった。

 

寺院の門徒たちが集まり、武器を取る者が現れる。

 

周辺の武将たちまで動き始めた。

 

それだけなら、まだ分かる。

 

問題は、松平家の家臣の中にも、一向宗を信仰している者たちがいたことだった。

 

そして、その一部が寺院側についたのである。

 

◇

 

「……本多正信も、向こうについたのか」

 

報告を聞いたとき、俺は思わず聞き返した。

 

「はっ」

 

忠次が頷いた。

 

「蜂屋貞次も、一揆方へ加わったとのことにございます」

 

「そうか……」

 

俺は黙った。

 

知っている名前だった。

 

どちらも、ただの見知らぬ武士ではない。

 

松平家に仕えてきた者たちである。

 

俺自身、言葉を交わしたこともある。

 

その人間が、敵になった。

 

「……忠次」

 

「はっ」

 

「ほかにもおるのか?」

 

忠次は少し間を置いた。

 

「夏目吉信も、寺方へ心を寄せているとの知らせがございます」

 

俺は目を閉じた。

 

夏目吉信。

 

その名前まで出てくるとは思わなかった。

 

「……本当か?」

 

「まだ確かなことではございませぬ。ただ、家中で動揺が広がっております」

 

「そうか」

 

忠次の声は、いつもより硬かった。

 

無理もない。

 

今までは、今川方や織田方と戦ってきた。

 

敵には敵の旗があり、互いにどこの軍勢か分かっていた。

 

だが、今回は違う。

 

昨日まで同じ城にいた者が、明日には敵として現れるかもしれない。

 

俺は家臣たちの顔を見た。

 

誰も、明るい表情はしていなかった。

 

「……皆に伝えてくれ」

 

俺は言った。

 

「信仰のことだけで、誰かを疑うような真似はするな。寺へ通っているというだけで、敵と決めつけてはならぬ」

 

家臣たちが頷いた。

 

「だが、兵を集めてこちらを攻めるというなら、放っておくわけにはいかぬ。そちらには備えを進めよう」

 

「はっ」

 

そう命じながら、自分でも嫌な気分になった。

 

家臣たちを疑いたくない。

 

しかし、疑わずにいれば足元をすくわれるかもしれない。

 

だからといって、疑い始めればきりがない。

 

城主というのは、こんなことまで考えなければならないのか。

 

◇

 

一向一揆との戦は、ひどくやりにくかった。

 

相手が、見知らぬ敵ばかりではないからである。

 

かつて一緒に戦った者がいる。

 

酒を酌み交わした者もいる。

 

同じ主君に仕え、同じ城を守っていた者たちだ。

 

それが、今は別の旗の下にいる。

 

戦場で見知った顔を見つけるたびに、兵たちの動きが鈍る。

 

向こうも同じなのだろう。

 

敵を見つけても、すぐには斬りかかれない者がいた。

 

だが、そんなことをしていれば、こちらが討たれる。

 

「殿! 敵が押し寄せてまいります!」

 

報告が届いた。

 

俺は前方へ目を向けた。

 

一揆勢の中には、農民や寺の門徒もいる。

 

しかし、槍や弓を持ち、隊を組んで攻めてくる以上、今は敵である。

 

「備えを崩すな! 弓を進めよ!」

 

命じた。

 

矢が飛ぶ。

 

敵の中から悲鳴が上がった。

 

こちらにも矢が飛んでくる。

 

近くの兵が倒れた。

 

「殿、危のうございます!」

 

家臣に促され、俺は馬を下げた。

 

そのとき、向こうの旗の下に、見覚えのある男の姿が見えた。

 

「……あれは」

 

夏目吉信だった。

 

間違いない。

 

以前、俺の前で頭を下げ、忠義を誓っていた男である。

 

その男が、今は一揆方にいる。

 

向こうも俺に気づいたらしい。

 

一瞬、目が合った。

 

吉信の顔が強張った。

 

俺は何か言おうとした。

 

しかし、その前に、周囲の兵たちが動き始めた。

 

「殿、こちらへ!」

 

家臣に引かれ、俺は後ろへ下がった。

 

次の瞬間、矢が飛んできた。

 

先ほどまで俺がいた場所へ、矢が突き立つ。

 

思わず息を呑んだ。

 

危なかった。

 

少し遅れていれば、当たっていたかもしれない。

 

「……助かった」

 

そう言うと、家臣は頭を下げた。

 

「殿の御身こそ第一にございます」

 

俺は頷いた。

 

その言葉を聞きながら、先ほど見た吉信の顔を思い出していた。

 

あの男は、なぜ向こうについたのだろう。

 

信仰のためか。

 

それとも、松平家のやり方に不満があったのか。

 

あるいは、その両方なのか。

 

今となっては、直接聞くこともできない。

 

少なくとも、戦場で顔を合わせたときには。

 

◇

 

一揆との戦は、すぐには終わらなかった。

 

勝つこともあれば、苦しい戦になることもある。

 

こちらに従っている者たちも、皆が皆、同じ考えで戦っているわけではない。

 

寺を敵に回すことに反対する者もいた。

 

家族が一向宗を信仰しているという者もいる。

 

そんな者たちに、ただ敵を討てと命じるのは簡単ではなかった。

 

だからといって、兵を動かさずにいれば、一揆勢に押されるばかりである。

 

俺は家臣たちと相談しながら、戦を続けた。

 

何度も和睦の話を持ちかけた。

 

しかし、互いの主張は簡単には折り合わない。

 

寺院側には守りたい権利があり、松平家には領内を治める必要がある。

 

そして、戦が長引くほど、双方に死者が増えていった。

 

ある日、戦で負傷した兵を見舞いに行くと、一人の男が俺に言った。

 

「殿。向こうに、弟がおるのでございます」

 

「……弟?」

 

「はっ。一向宗を信仰しておりまして、寺方へ加わったと聞いております」

 

男の腕には、深い傷があった。

 

布が巻かれているものの、まだ血が滲んでいる。

 

「先の戦で、弟によく似た者を見かけまして……」

 

男はそこで言葉を切った。

 

俺は黙って続きを待った。

 

「……もし、本当に弟であったなら」

 

それ以上、男は何も言わなかった。

 

俺にも、何を答えればよいのか分からなかった。

 

戦場で弟を見つけたらどうするべきか。

 

そんなことを、主君の立場から簡単に答えられるはずがない。

 

「……無理をするな」

 

結局、そう言った。

 

男は頭を下げた。

 

それだけだった。

 

◇

 

「竹千代、最近ちゃんと寝てる?」

 

かぐやに尋ねられたのは、戦から岡崎へ戻った夜だった。

 

「……まあ、寝てるよ」

 

「本当?」

 

「一応ね」

 

「一応って!」

 

かぐやが声を上げた。

 

「それ、ちゃんと寝てない人の言い方じゃん!」

 

俺は少し笑った。

 

「いや、寝てはいるんだよ。ただ、夜中に起こされることもあるし」

 

「そっかぁ」

 

かぐやはしばらく考えた。

 

「今回の戦、そんなに大変なの?」

 

「ああ」

 

俺は頷いた。

 

「大変だよ。今までと違って、知ってる人間が向こうにいるからさ」

 

「……うん」

 

「この前も、昔から仕えてくれてた家臣が敵になってた」

 

「そっか」

 

かぐやは箱の縁に身体を寄せた。

 

「竹千代は、その人と戦いたくない?」

 

「できればな」

 

「うん」

 

「でも、向こうが兵を率いて攻めてきたら、そうも言ってられないんだよ」

 

かぐやは頷いた。

 

「分かるよ」

 

その返事は、普段より少し落ち着いていた。

 

「昔ね、私の知ってる人たちも、そういうことがあったよ」

 

「……戦で?」

 

「うん。最初は同じところにいたのに、途中で別々になっちゃってさ。どっちも自分たちが正しいって思ってるから、なかなか仲直りできなくて」

 

「そっか」

 

「私もさ、最初は仲直りすればいいのにーって思ったんだけどね」

 

そこで、かぐやは少し身体を揺らした。

 

「簡単じゃないんだよね、そういうの」

 

俺は頷いた。

 

何千年も生きているのだから、似たようなことを何度も見てきたのだろう。

 

かぐやは普段、こういう話をあまりしない。

 

だが、俺が尋ねれば、時々昔のことを話してくれる。

 

「……その人たちは、どうなった?」

 

俺が尋ねると、かぐやは少し考えた。

 

「仲直りできた人もいたよ!」

 

「そうか」

 

「でも、できなかった人もいた」

 

「……そっか」

 

「うん」

 

それから、かぐやはいつもの調子に戻った。

 

「だからさ、竹千代もできることはやってみたらいいと思う!」

 

「そうだな」

 

「それで駄目だったら……うーん、そのときはまた考えよう!」

 

俺は少し笑った。

 

「結局、それなんだな」

 

「だって、先のことなんて分かんないじゃん!」

 

「まあ、そうだよな」

 

俺は頷いた。

 

前世の俺は、歴史の結末をある程度知っていた。

 

徳川家康は生き残り、最後には天下を取る。

 

そのことを安心材料にしてきた。

 

だが、今の俺には分からないことが多すぎる。

 

どうすれば家臣たちを救えるのか。

 

どうすれば、三河をまとめられるのか。

 

そんなことは、教科書には載っていなかった。

 

「……かぐや」

 

「何?」

 

「明日も忙しいから、そろそろ寝るよ」

 

「うん! ちゃんと寝てね!」

 

「分かったって」

 

「おやすみ、竹千代!」

 

「おやすみ」

 

俺は布団に入った。

 

しばらくして、文箱の方から小さな声がした。

 

「……竹千代」

 

「ん?」

 

「お腹空いてない?」

 

「……ああ、そういえば夕飯、あんまり食べてないな」

 

「でしょ! ちゃんと食べなきゃ駄目だよ!」

 

「……もう寝るところなんだけど」

 

「じゃあ、明日の朝はいっぱい食べて!」

 

「はいはい」

 

「約束ね!」

 

俺は笑いながら頷いた。

 

まったく、よく気がつくやつである。

 

◇

 

永禄七年。

 

長く続いた一向一揆は、ようやく収まり始めた。

 

こちらにも、向こうにも、これ以上戦を続けたくないという者が増えていた。

 

俺自身、できることなら早く終わらせたかった。

 

三河をまとめるための戦なのに、その三河の人間同士で殺し合っている。

 

そんなことをいつまでも続けていては、国が疲弊するばかりである。

 

和睦の話がまとまり、寺院側との争いはひとまず収まった。

 

一揆に加わった家臣たちについても、帰参を認める者が出てきた。

 

夏目吉信も、その一人だった。

 

久しぶりに俺の前へ現れた吉信は、以前より痩せていた。

 

「……面目次第もございませぬ」

 

そう言って、深く頭を下げた。

 

俺はしばらく黙っていた。

 

言いたいことは山ほどある。

 

なぜ一揆方についたのか。

 

なぜ松平家を裏切ったのか。

 

俺がどれほど困ったのか。

 

そんなことを、いくらでも尋ねられた。

 

だが、目の前にいる吉信の顔を見ていると、どうにも言葉が出てこなかった。

 

「……吉信」

 

「はっ」

 

「戻るつもりはあるか」

 

吉信が顔を上げた。

 

「……お許しいただけるのであれば」

 

「ならば戻れ」

 

俺は言った。

 

「これからも働いてもらわねば困る」

 

吉信は驚いたようだった。

 

しばらくして、再び深く頭を下げた。

 

「……ありがたき幸せにございます」

 

声が震えていた。

 

俺は頷いた。

 

ただし、すべての者が戻ってきたわけではない。

 

帰参を許されない者もいる。

 

自ら去っていった者もいた。

 

本多正信も、しばらくは松平家から離れることになった。

 

家臣たちが全員、元どおりになったわけではなかった。

 

それでも、戦は終わった。

 

少なくとも、三河の中で大きな争いを続けることは、ひとまず避けられた。

 

その後、俺は一向宗の寺院に対して厳しい処置を取ることになった。

 

寺院の持つ特権をどう扱うか。

 

今後、再び同じような一揆を起こさせないためには、どうするべきか。

 

家臣たちと何度も相談した末、従わぬ寺院には厳しく対処することを決めたのである。

 

当然、反発する者もいた。

 

それでも、俺は命令を撤回しなかった。

 

ここで曖昧に済ませれば、また同じ争いが起こるかもしれない。

 

そう考えたからだ。

 

正しい判断だったのかどうか、今でも分からない。

 

ただ、俺が命じたことで、寺を去らなければならなくなった者がいる。

 

暮らしを変えなければならなくなった者もいる。

 

一揆が終わったからといって、すべてが元どおりになるわけではなかった。

 

◇

 

「殿、三河の諸将より、新たに帰順の申し出が届いております」

 

ある日、忠次が嬉しそうに報告してきた。

 

「そうか」

 

俺は書付を受け取った。

 

一向一揆が収まったことで、ようやく他のことにも目を向けられるようになっていた。

 

今川方の諸将との争いも続いているが、少しずつ松平家の勢力は広がっている。

 

岡崎へ戻ったばかりの頃と比べれば、ずいぶん状況はよくなった。

 

「これで、三河も随分と落ち着いてまいりましたな」

 

忠次が言った。

 

「ああ。皆がよく働いてくれたおかげだ」

 

「殿こそ、よくぞここまでお導きくださいました」

 

「……そうか?」

 

「はっ。桶狭間の後、松平の家がどうなるか、我らも案じておりました。それが今では、三河の多くが殿に従っております」

 

忠次は感慨深そうだった。

 

俺も、少しだけ嬉しくなった。

 

確かに、ここまで来るのは大変だった。

 

織田と和睦し、今川と戦い、瀬名たちを取り戻した。

 

そして、一向一揆まで起こった。

 

その間に多くの人間が死んだ。

 

松平家に戻ってきた者もいれば、去っていった者もいる。

 

何とかここまで来られたのは、家臣たちのおかげだった。

 

「……忠次」

 

「はっ」

 

「これからも、頼りにしておるぞ」

 

忠次は少し驚いたようだった。

 

それから、嬉しそうに笑った。

 

「はっ。どこまでもお供いたします」

 

俺は頷いた。

 

その言葉が、何より頼もしかった。

 

◇

 

その日の夕方。

 

久しぶりに少し時間ができたので、俺はかぐやを連れて城の中を歩いていた。

 

以前、修繕が必要だと言われていた塀は、すでに直されていた。

 

「おおー!」

 

かぐやが小さな声を上げた。

 

「綺麗になってる!」

 

「だろ?」

 

「前は、あそこちょっと壊れてたもんね!」

 

「ああ。ようやく直せたんだ」

 

かぐやはしばらく塀を眺めていた。

 

それから、ふと思いついたように言った。

 

「竹千代ってさ、結構ちゃんと殿様してるよね!」

 

「……今さら?」

 

「だって、最初は仕事が嫌だーって言ってたじゃん!」

 

「今でも嫌な仕事はあるよ」

 

「あはは! そりゃそうだ!」

 

俺も笑った。

 

「でも、最近は前より慣れてきたかな」

 

「へえー!」

 

「分からないことはまだ多いけど、家臣たちもいるし、何とかやってるよ」

 

「そっか!」

 

かぐやは楽しそうだった。

 

「じゃあ、立派な殿様になったんだね!」

 

「いや、そこまでは……」

 

俺は少し考えた。

 

以前なら、笑って否定していたかもしれない。

 

しかし、今は少し違う。

 

自分の判断で、たくさんの人間が動く。

 

俺が決めたことで、誰かが助かることもある。

 

その一方で、誰かが苦しむこともある。

 

それを知ってしまった。

 

「……まあ、少しはな」

 

そう答えると、かぐやが笑った。

 

「おおー! 自信ついたじゃん!」

 

「ちょっとくらいはね」

 

「いいことだ!」

 

何とも偉そうである。

 

俺は苦笑した。

 

「……お前は変わらないな」

 

「えー、私だって変わったよ!」

 

「そうなの?」

 

「そうだよ! 最近は瀬名ちゃんともお話しできるようになったし!」

 

「ああ、そういえばそうだったな」

 

瀬名にかぐやの存在を打ち明けてから、もう随分と経つ。

 

最初の頃こそ互いに遠慮があったものの、最近では二人だけで話すこともあるらしい。

 

もちろん、他の者に知られないよう気をつけてはいる。

 

「この前なんて、瀬名ちゃんがお菓子を持ってきてくれたんだよ!」

 

「へえ、よかったじゃん」

 

「うん! おいしかった!」

 

かぐやは嬉しそうに身体を揺らした。

 

「あとね、竹千代の昔の話もした!」

 

「……俺の?」

 

「そう!」

 

「何の話?」

 

「最初に会ったときの話とか!」

 

「ああ、そういう……」

 

嫌な予感がした。

 

「もしかして、枝の話もした?」

 

「もちろん!」

 

「……何でよりによってそれなんだよ」

 

「あはは! 瀬名ちゃんも笑ってたよ!」

 

勘弁してほしい。

 

あれは俺がまだ子供だった頃の話である。そろそろ忘れてくれてもいいだろうに。

 

「他には何か話した?」

 

「うーん、いろいろ!」

 

「いろいろって?」

 

「竹千代が昔から結構面倒くさがりだったとか!」

 

「おい」

 

「でも、何だかんだちゃんとやるんだよーって!」

 

「……それ、褒めてる?」

 

「褒めてる褒めてる!」

 

本当だろうか。

 

俺がため息をつくと、かぐやが楽しそうに笑った。

 

「そういえば、瀬名ちゃんも言ってたよ。竹千代って、もっと人に頼ればいいのにって」

 

「……そんなこと言ってたのか?」

 

「うん。家臣の人たちには頼ってるけど、疲れててもなかなか休まないって」

 

「まあ、仕事があるからな」

 

「ほら、またそういうこと言う!」

 

かぐやが声を上げた。

 

「瀬名ちゃんも心配してるんだから、ちゃんと休まないと駄目だよ?」

 

「……お前、いつの間にか瀬名と仲良くなったな」

 

「えへへ! いいでしょ!」

 

「いいけど、二人がかりで小言を言われるようになるとは思わなかったよ」

 

「小言じゃないもん! 心配してるんだよ!」

 

「はいはい。ありがとう」

 

「もう、適当に返事してるでしょ!」

 

俺は笑った。

 

瀬名とかぐや。

 

随分と違う二人だが、思っていた以上に気が合うらしい。

 

最初は、喋るウミウシを妻に紹介するという状況そのものが心配だった。

 

しかし、今ではこうして俺の知らないところで話をしている。

 

それはそれで、少し不思議な気分だった。

 

「でもさ、竹千代」

 

「ん?」

 

「こうして一緒にお散歩するのも、やっぱり楽しいよ!」

 

「そうか?」

 

「うん! 瀬名ちゃんとお話しするのも楽しいけど、竹千代と遊ぶのはまた別だし!」

 

「……まあ、そうだな」

 

考えてみれば、かぐやと二人で出かけるのも久しぶりだった。

 

駿府にいた頃は、もう少し気軽に時間を作れた気がする。

 

今は城主になり、三河のことを考えなければならない。

 

だが、いつまでも仕事ばかりしているのも、どうなのだろう。

 

「じゃあ、また時間を作るよ」

 

「本当!?」

 

「ああ。まあ、毎日は難しいけどな」

 

「毎日じゃなくてもいいよ! その代わり、約束したら忘れないでね!」

 

「……それは気をつける」

 

「前にも忘れかけてたもんね!」

 

「覚えてるって」

 

かぐやは満足そうに笑った。

 

それから、城下の方へ目を向ける。

 

以前と同じ場所だった。

 

夕方の光が町の屋根を照らし、道には人が行き交っている。

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