徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
「……本当に、喋るのですか?」
亀が尋ねると、瀬名は少し笑った。
「ええ。ですが、驚いて大きな声を出してはいけませんよ」
「はい」
「それから、かぐや殿のことは、他の者には内緒です」
「……はい」
二度目の返事は、少し小さかった。
亀は俺の隣に座り、目の前の文箱をじっと見つめている。
その様子がおかしくて、俺は笑いそうになった。
何しろ、つい先ほどまで「早くお会いしたいです」と張り切っていたのだ。それが、いざ本人を前にすると、すっかり大人しくなってしまった。
もっとも、気持ちは分からなくもない。
喋るウミウシに初めて会うのだから。
「かぐや、もういいぞ」
俺が声をかけると、文箱の蓋が少し動いた。
「はーい!」
元気な返事が聞こえた。
亀の肩がぴくりと跳ねる。
そして、小さな身体が蓋の陰から現れた。
「こんにちは! かぐやです!」
亀は目を丸くした。
しばらくかぐやを見つめ、それから俺の顔を見上げる。
「……父上」
「何だ?」
「本当に喋りました」
「そうだな」
「……不思議です」
実に素直な感想だった。
「えー、そんなに不思議?」
かぐやが尋ねる。
亀は少し迷ってから、こくりと頷いた。
「はい。亀は、初めて見ました」
「そっかー。じゃあ、はじめましてだね!」
かぐやは嬉しそうに身体を揺らした。
「ずっと会いたかったんだよ、亀ちゃん!」
「……亀ちゃん?」
「うん! そう呼んでもいい?」
亀は瀬名を振り返った。
瀬名が頷くと、ようやく小さく笑う。
「はい。構いません」
「やった!」
かぐやが喜んだ。
どうやら、まずは仲良くできそうである。
◇
瀬名にかぐやの存在を打ち明けてから、何年かが過ぎていた。
その間に、俺は松平から徳川へと姓を改め、三河の支配を固めてきた。
家臣たちの働きもあって、以前よりできることは増えている。
もちろん、その分だけ仕事も増えた。
そんな俺をよそに、瀬名とかぐやは随分と仲良くなっていた。
最初の頃は互いに遠慮もあったらしいが、今では俺の知らないところでも話をしているという。
何を話しているのか、詳しくは知らない。
ただ、たまに瀬名から昔の失敗を指摘されることがあるので、大体の想像はついている。
……余計なことを喋っていなければいいのだが。
一方、子供たちには、かぐやの存在をまだ明かしていなかった。
小さいうちは、どうしても秘密を守るのが難しいからだ。
亀も、ようやく分別がついてきたところである。
瀬名と相談し、まずは亀に会わせてみることにした。
もちろん、本人が怖がるようなら無理に会わせるつもりはない。
しかし、どうやら心配はいらなかったらしい。
「かぐや様は、いつから父上のお友達なのですか?」
「竹千代がちっちゃい頃からだよ!」
「……竹千代?」
「あっ、父上のことね!」
俺が補足すると、亀はますます不思議そうな顔になった。
「父上は、家康というお名前では?」
「そうだぞ」
「では、どうして竹千代とお呼びになるのですか?」
「昔からそう呼んでるから!」
かぐやが答えた。
亀は少し考えた。
それから、俺を見上げる。
「父上は、よろしいのですか?」
「まあ、別に構わないよ」
「……そうなのですか」
どうやら、まだ納得できないらしい。
瀬名が小さく笑った。
「亀。かぐや殿と父上は、長いお付き合いなのですよ」
「そうそう!」
かぐやが身体を乗り出す。
「だから、竹千代の昔のこともいっぱい知ってるんだよ!」
「昔のこと……」
亀がこちらを向いた。
何だろう。
嫌な予感がする。
「かぐや様」
「なーに?」
「父上は、小さい頃、どのようなお子だったのですか?」
ほら来た。
「亀、別にそんな話は――」
「えっとねー!」
かぐやが嬉々として話し始めた。
「最初に会ったときなんか、私のことを枝で突っつこうとしてきたんだよ!」
「えっ?」
亀が目を丸くする。
瀬名は、もう笑っていた。
「……かぐや」
「何?」
「その話、何回するつもり?」
「えー、だって亀ちゃんは初めて聞くじゃん!」
確かにそのとおりではある。
だが、何も初対面で話すことはないだろう。
「父上」
亀が俺を見上げた。
「かぐや様を、枝で突っついたのですか?」
「……まあ、ちょっとだけな」
「痛かったのではありませんか?」
「うん! びっくりした!」
「ごめんな、かぐや」
「今さら!?」
かぐやが笑った。
亀は俺とかぐやを交互に見ている。
それから、真面目な顔で言った。
「父上。生き物を枝で突っついてはいけません」
「……はい」
瀬名がとうとう声を出して笑った。
俺は何も言い返せなかった。
◇
その日の夕方。
亀が部屋へ戻った後も、かぐやは上機嫌だった。
「いやー、亀ちゃん可愛かったね!」
「そうだな」
「またお話ししたいなー!」
「瀬名とも相談して、少しずつな」
「うん!」
かぐやは素直に頷いた。
俺は文箱の蓋を閉じかけて、ふと手を止めた。
「そういえば、お前さ」
「何?」
「亀に俺の昔話をするの、ちょっと楽しみにしてただろ」
「えへへ、ばれた?」
「やっぱりな」
かぐやは楽しそうに笑った。
俺も苦笑しながら、文箱をいつもの場所へ戻す。
そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。
「殿。酒井様がお見えにございます」
また仕事か。
いや、今日はまだ日が暮れたばかりだ。別に珍しいことでもない。
「分かった。すぐに参る」
返事をすると、かぐやが小さく声をかけてきた。
「竹千代、またお仕事?」
「ああ。ちょっと行ってくるよ」
「大変だねー」
「本当にな」
「頑張って!」
「はいはい」
俺は立ち上がった。
廊下へ出ると、忠次が待っていた。
その顔を見て、足を止める。
普段の報告とは、少し様子が違った。
「……何かあったか?」
「はっ。甲斐より、新たな知らせが届きましてございます」
「甲斐?」
「武田信玄の動きについてにございます」
俺は顔を上げた。
武田信玄。
その名前を聞くだけで、どうしても前世の知識が頭をよぎる。
三方ヶ原。
徳川家康が武田軍に大敗した戦い。
……嫌な名前を思い出してしまった。
「詳しく聞こう」
俺は忠次を促し、部屋へ戻った。
◇
「武田信玄が、今川との関係を見直しているようにございます」
忠次の言葉に、俺は眉を寄せた。
「……詳しく聞こう」
「甲斐と駿河の間で、以前ほど使者の行き来がございませぬ。また、武田方が今川領へ兵を進めるのではないかという話も出ております」
「まだ噂か?」
「はっ。されど、甲斐の動きは以前より慌ただしくなっております」
俺は頷き、卓上に広げた絵図へ目を落とした。
甲斐の武田信玄。
駿河の今川氏真。
そして、三河の俺。
この三つの勢力が、互いに隣り合っている。
武田と今川は長く同盟関係にあったはずだが、義元の死後、その関係も以前ほど安定していないらしい。
まあ、戦国時代なのだから、昨日までの味方が明日も味方であるとは限らない。
実際、俺自身が今川から離れ、織田と手を結んでいる。
人のことは言えなかった。
「信玄が動くとなれば、駿河も落ち着いてはおれまいな」
「左様にございます。我らとしても、備えを怠るわけには参りませぬ」
「うむ。引き続き、動きを探らせてくれ」
忠次が頭を下げる。
報告はそこで終わるかと思ったが、彼はもう一つ書状を取り出した。
「それから、遠江の諸将についても、少々」
……まだあるのか。
俺は内心でため息をついた。
亀とかぐやの楽しそうな声が、まだ耳に残っている。
できれば今日は、もう少し家族と過ごしたかったのだが。
そんなことを言っていられる状況ではなさそうだった。
◇
それから二年ほどの間に、情勢は大きく変わった。
武田信玄は今川との同盟を破り、駿河へ侵攻した。
俺も、武田方と遠江・駿河の分割について話をつけ、遠江へ兵を進めることになった。
もっとも、両家の思惑が完全に一致していたわけではない。
武田は武田で領地を広げたい。
こちらも三河の外へ勢力を伸ばしたい。
一時的に利害が重なったからといって、いつまでも仲良くできる保証などなかった。
そして俺は、前世の知識から、その保証がないことをよく知っている。
それでも遠江へ進むことを決めたのは、今川領だった土地を武田にすべて押さえられれば、次に圧迫されるのは三河だからだった。
俺が動かなければ、信玄は手を緩めてくれる。
そんな都合のいい話ではないだろう。
問題は、その先だった。
「殿。掛川城の備えは、なお堅固にございます」
家臣から報告を受け、俺は頭を抱えたくなった。
掛川城には、今川氏真が籠もっていた。
かつて俺が仕えた今川家の当主であり、義元の息子である。
家康が今川家を攻めたという史実は知っていた。
だが、実際に城を囲んでみると、気分のいいものではなかった。
「あまり長引かせたくはないな」
「されど、城方の抵抗は激しゅうございます」
「分かっておる。だからこそ、和睦の道も探りたい」
無理に攻めれば、双方に死者が増える。
それに、武田の動きも気になっていた。
遠江をこちらのものにするという話が、いつまでも守られるとは思えない。
結局、掛川城は力攻めだけでは落とせず、氏真との和睦によって開城させることになった。
条件を整え、氏真が無事に城を去れるようにする。
それについては、俺自身も譲るつもりがなかった。
「……よろしいので?」
家臣にそう聞かれたこともある。
「よい。これ以上、氏真殿と争って何になる」
そう答えた。
ただ、城が明け渡された日に、俺はあまり喜べなかった。
氏真は、長く今川家が治めてきた土地を失った。
それを奪った側に、今の俺がいる。
義元が生きていた頃には、考えもしなかったことだった。
◇
元亀元年。
俺は岡崎から浜松へ本拠を移した。
今川家が治めていた遠江を手に入れた以上、そこを安定させなければならない。
そして、東から攻め込んでくる武田に備える必要もあった。
岡崎より東にある浜松へ移るのは、そのためである。
「……また引っ越し?」
かぐやに話すと、予想どおりの反応が返ってきた。
「そうなんだよ」
「竹千代って、結構あちこち住んでるよね」
「好きで引っ越してるわけじゃないけどな」
「今度はどんなところ?」
「浜松ってところ。海も近いぞ」
「海!?」
かぐやの声が弾んだ。
「じゃあ、海まで遊びに行ける?」
「いや、遊びに行くために引っ越すんじゃないんだけど」
「分かってるって! でも近いなら行ってみたいじゃん!」
「……時間があればな」
「やった! 約束ね!」
「まだ約束してないぞ」
「えー!」
いつもの調子である。
ただ、浜松へ移ることになれば、瀬名や子供たちとは離れて暮らす時間が増える。
岡崎は嫡男の信康を中心に、家臣たちが守ることになる。
まだ若い息子に任せきりにするわけではないが、いずれは松平――いや、徳川の家を継ぐ身だ。
少しずつ経験を積んでもらいたかった。
「瀬名ちゃんたちは岡崎に残るんだよね?」
かぐやに尋ねられ、頷いた。
「うん。信康もいるしな」
「そっかぁ。じゃあ、ちょっと寂しくなるね」
「まあな」
「でも、私がいるから大丈夫!」
「……それは頼もしいな」
「でしょ!」
かぐやは得意げだった。
俺は笑いながら、荷物をまとめ始めた。
◇
浜松へ移ってからも、瀬名との手紙のやり取りは続いた。
子供たちの様子や、岡崎で起きた出来事。
信康が家臣からどんなことを教わっているのか。
亀が何に夢中になっているのか。
そんな話が届く。
かぐやも手紙を楽しみにしていた。
「亀ちゃん、また背が伸びたんだって?」
「らしいな。今度会ったらびっくりするかも」
「竹千代、前にも同じこと言ってたよ」
「そりゃ子供は大きくなるからな」
「じゃあ私が会うたびにびっくりしてもいいじゃん!」
「好きにしてくれ」
そんな話をしている時間は、俺にとっても息抜きだった。
ただ、浜松での仕事は岡崎にいた頃より難しくなっていた。
遠江には、徳川家に従うようになったばかりの武将もいる。
今川の時代から暮らしている領民もいる。
誰もが俺を歓迎しているわけではなかった。
おまけに、東には武田信玄がいる。
以前は一時的に協力した相手だが、今では遠江を巡って争うようになっていた。
「殿。また武田方が国境近くで兵を動かしております」
そんな報告が、珍しくなくなった。
ある日、俺は忠次に尋ねた。
「……信玄は、どこまで来るつもりなのだろうな」
「遠江を手中に収めるまで、手を緩めぬやもしれませぬ」
「やはり、そう思うか」
「はっ」
俺は絵図を見た。
武田信玄。
歴史上の名将。
そして、徳川家康を三方ヶ原で打ち破った男。
昔の俺なら、随分と格好いい人物だと思っていたかもしれない。
だが、今は違う。
正直、できれば戦いたくない相手だった。
◇
元亀三年、十月。
武田軍が遠江へ侵攻してきた。
報告にあった兵の数を聞いたとき、俺は思わず聞き返した。
「……二万を超えるのか?」
「はっ。それも精強な兵が揃っております」
二万以上。
数字で聞いても、あまり実感が湧かない。
しかし、以前、大軍を率いて行軍する大変さを経験しているだけに、それだけの兵を動かしている信玄の恐ろしさは分かった。
こちらも兵を集め、織田から援軍を受ける予定だったが、まともにぶつかれば不利なのは明らかだった。
「まともに戦うのは避けたいな」
俺が言うと、忠次が頷いた。
「されど、敵がこちらの城々を攻めるならば、援けぬわけにも参りませぬ」
「……そうなんだよな」
遠江には、徳川に従っている城主たちがいる。
武田が攻めてきたからといって、彼らを見捨てればどうなるか。
今度は別の城主が、徳川を頼るより武田へ従った方がよいと考えるかもしれない。
実際、すでに武田方へ通じている者もいるらしかった。
それだけではない。
遠江が武田の手に落ちれば、次は三河が危ない。
岡崎には瀬名と子供たちがいる。
あの土地だけは、どうしても守りたかった。
「……まずは敵の動きをよく見よう。兵を出すにしても、戦う場所を選ばねばならぬ」
「承知いたしました」
そう命じてから、俺は書付を読み直した。
武田軍の進路。
周辺の城の様子。
味方の兵の数。
どこを見ても、安心できる材料が少ない。
三方ヶ原。
あの名前が、また頭に浮かんだ。
徳川家康は、ここで武田信玄に負ける。
俺はそのことを知っている。
ならば、戦わなければいい。
そう考えるのは簡単だった。
だが、どこに籠もれば安全なのか。いつまで耐えればいいのか。信玄がこちらの思いどおりに動いてくれるのか。
そんなことは分からない。
そもそも、俺が前世で知っていたのは、徳川家康が三方ヶ原で敗北したという結果だけだった。
その戦いを避けた場合、何が起きるのかまでは教科書に載っていない。
当たり前の話である。
◇
武田軍の侵攻は、想像していた以上に厄介だった。
一つの城が攻められたと思えば、別の場所にも敵が現れる。
こちらが兵を集めれば、向こうは別の道を使って進んでいく。
そのたびに報告が届き、家臣たちは絵図を広げ直した。
「殿、こちらの城主が武田へ従ったとの知らせにございます」
「……またか」
「兵を出しまするか?」
「待て。今動かせば、こちらの守りが薄くなる」
そう答えながら、自分でも歯がゆかった。
せっかく遠江まで領地を広げたのに、武田が来た途端、守ることさえ難しくなっている。
俺だって何もしてこなかったわけではない。
城を直し、兵を整え、家臣たちと何度も相談してきた。
それでも、信玄は構わず進んでくる。
やがて、二俣城が攻められた。
天竜川沿いの重要な城である。
ここを失えば、浜松の守りにも大きく影響する。
城兵はよく抵抗していた。
しかし、武田方は城の水の手を断ち、守りを崩していった。
「……水を断たれたのか」
報告を聞いた俺は、思わず唸った。
城の中に兵糧があっても、水がなければ長くは持ちこたえられない。
分かっている。
そんなことは分かっているのだが、実際にやられると厳しい。
救援の兵を出すことも考えた。しかし、武田軍の主力が近くにいる以上、下手に動けば城へ辿り着く前に討たれかねない。
結局、二俣城は開城した。
その知らせが届いた日、俺は家臣たちを集めた。
誰もが疲れた顔をしていた。
「……これで武田は、浜松の近くまで進めるようになった」
俺が言うと、忠次が頷いた。
「いよいよ、本城の守りを固めねばなりますまい」
「ああ。兵糧を確かめ、城内の備えを整えよう。城下の者にも、無理のない範囲で支度を進めさせてくれ」
家臣たちが立ち上がり、それぞれの役目に向かった。
俺は最後まで部屋に残った。
目の前には、何度も見返した絵図がある。
浜松城。
三方ヶ原。
二俣城。
そして、迫ってくる武田軍。
もう、間違いないだろう。
俺が知っているあの敗戦は、すぐそこまで来ていた。
◇
「竹千代、またご飯残したでしょ」
部屋に戻ると、かぐやが言った。
「……何で知ってるんだよ」
「さっきお膳を下げる人が、困った顔してたもん」
「見てたのか」
「ちょっとだけね」
俺は腰を下ろした。
「食べたくないわけじゃないんだけどさ。最近、何食べてもあんまり味がしないんだよ」
「それ、ちゃんと休んだ方がいいんじゃない?」
「そうかもな」
かぐやは少し考えてから、文箱の縁に身体を乗せた。
「武田って、そんなに強いの?」
「強いよ。少なくとも、俺たちよりはずっと」
「竹千代でも勝てない?」
「……勝つ方法があるなら、俺も知りたい」
自分で言ってから、少し嫌になった。
かぐやに八つ当たりするつもりはなかった。
「ごめん。変な言い方した」
「別にいいよ」
かぐやはあっさり答えた。
「でも、竹千代って、前から武田のこと気にしてたよね」
「覚えてたのか」
「そりゃ覚えてるよ。三方ヶ原、だっけ?」
俺は頷いた。
「そう。そこで俺が大負けするんだ」
「……もうすぐなの?」
「たぶんね。今回の戦がそうだと思う」
かぐやは、しばらく何も言わなかった。
俺も黙っていた。
外では、兵の声がしている。
夜になっても、城の中は落ち着かなかった。
「……だったらさ」
かぐやが口を開いた。
「できるだけ、その場所に行かないようにしたら?」
「うん。そのつもりだよ」
「それじゃ駄目なの?」
「駄目ってわけじゃない。ただ、武田がどう動くか分からないんだ」
「そっか」
かぐやは身体を揺らした。
「私、戦のことは竹千代ほど分からないけどさ」
「うん」
「逃げた方がいいときは、逃げてもいいと思うよ」
俺は顔を上げた。
「……そうだな」
「竹千代、結構無理するじゃん」
「そうかな」
「するよ! 昔からそう!」
思った以上に強く言われた。
俺は少し笑った。
「分かったよ。危ないと思ったら逃げる」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、約束ね」
かぐやはそれで納得したらしい。
しかし、俺はすぐには寝る気になれなかった。
文箱の近くに座ったまま、もう一度絵図を広げる。
かぐやはしばらく眺めていたが、やがて別の話を始めた。
岡崎から届いた手紙に、亀が書き添えてくれた言葉のことだった。
今度かぐやに会ったら、また父上の昔話を聞きたい。
そんなことが書いてあったらしい。
「……あいつ、まだ聞きたいのか」
「うん! 楽しみにしてるんだって!」
「勘弁してほしいなあ」
「じゃあ、竹千代の格好いい話もしてあげようか?」
「……あったっけ、そんな話」
「あるよ!」
かぐやは少し考えた。
「あれ? 何だっけ?」
「おい」
思わず笑ってしまった。
その夜は、久しぶりに少しだけ眠れた。
◇
十二月二十二日。
武田軍が浜松城へ近づいてきた。
城内は朝から慌ただしかった。
敵の軍勢は、こちらよりはるかに多い。
織田からの援軍も加わってはいるが、野戦でまともにぶつかれば不利なのは変わらなかった。
俺は家臣たちと相談し、できるだけ城の守りを固めることにした。
ところが、昼過ぎになって妙な知らせが届いた。
「殿! 武田勢が浜松を攻めず、西へ進んでおります!」
「……何だと?」
思わず立ち上がった。
「間違いないのか?」
「はっ。物見からの知らせにございます!」
俺は絵図へ目を向けた。
武田軍が浜松を通り過ぎ、西へ進む。
そのまま三河へ向かうつもりなのか。
あるいは、こちらを城から誘い出そうとしているのか。
「……忠次、どう思う?」
忠次はしばらく考えた。
「城を攻めるより先に、三河へ進むおつもりやもしれませぬ」
「そうか……」
岡崎には、瀬名と子供たちがいる。
信康も、すでに武家の跡取りとしての務めを果たそうとしている。
だが、まだ若い。
あそこへ武田の大軍が押し寄せたら、どうなるだろう。
「敵の後ろを突けるのでは?」
家臣の一人が言った。
「こちらを顧みず進むなら、好機にございます!」
「待て。信玄が何の備えもなく背を向けるとは思えぬ」
俺は答えた。
ただ、そう言いながらも迷っていた。
武田勢がこのまま西へ進めば、三河への道が脅かされる。
織田から来た援軍も、城に閉じこもったままでは意味がないと考えるだろう。
そもそも、俺が遠江を守るために浜松へ移ったのは何のためだったのか。
武田が通り過ぎるのを黙って見送るだけでは、周囲の城主たちからも見限られかねない。
しかし。
三方ヶ原。
徳川家康が大敗した場所。
目の前の絵図には、その名が記されている。
「……殿」
忠次がこちらを見た。
俺はしばらく黙っていた。
やがて、口を開いた。
「……兵を出す」
家臣たちが顔を上げた。
「ただし、深追いはせぬ。敵の動きを確かめ、戦えると判断した場合のみ攻める。備えが整っておるなら、すぐに引き返す」
「はっ!」
「物見を先に進めよ。敵の居場所を見誤るな」
命令を出しながら、自分でも納得しきれていなかった。
本当に出るべきなのか。
城に残る方がよいのではないか。
しかし、家臣たちはすでに動き始めていた。
こうして、俺は浜松城を出ることになった。
◇
出陣の直前、かぐやに声をかけた。
「かぐや」
「何?」
「今日は城に残っててくれ」
かぐやはすぐには返事をしなかった。
「……危ないの?」
「うん。たぶん、今までで一番」
「そっか」
いつもなら、一緒に行くと言い出すところだった。
しかし、今日は違った。
「分かった。待ってる」
俺は少し驚いた。
「……いいの?」
「だって、竹千代がそう言うくらいだもん」
かぐやは箱の縁から俺を見上げた。
「その代わり、ちゃんと帰ってきてね」
「……ああ」
「怪我も、できればしないで!」
「それは頑張るよ」
「できればじゃなくて、絶対!」
「無茶言うなあ」
かぐやが笑った。
俺も笑った。
ただ、いつもより笑うのが難しかった。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい、竹千代!」
その声を聞いてから、俺は部屋を出た。
◇
三方ヶ原へ出たとき、風が強かった。
枯れた草が馬の脚に絡みつき、乾いた土が舞い上がる。
俺は前方を見渡した。
武田軍は、こちらの予想よりずっと近くにいた。
しかも、逃げているわけではない。
兵を整え、こちらへ向き直っている。
「……何だ、あれは」
思わず口に出した。
敵の旗が並んでいる。
馬に乗った武士たちが動き、槍を持った兵がその後ろに続く。
こちらが背後を突くどころか、向こうはすでに戦う準備を終えていた。
「殿、いかがいたします!」
家臣が尋ねてきた。
俺は息を呑んだ。
……まずい。
これは、まずいぞ。
「退くぞ! ここで戦うのは危険だ!」
命じた。
しかし、すでにこちらの兵も進んでいる。
後方には、まだ状況を知らない者たちがいる。前の兵が止まれば、後ろの兵がつかえる。
その間にも、武田軍が動き始めた。
「敵、来ます!」
叫び声が上がった。
弓が放たれる。
こちらも応戦した。
だが、最初の衝突で、すぐに分かってしまった。
強い。
武田軍は、思っていた以上に強かった。
こちらの兵が押し返そうとしても、向こうは崩れない。むしろ、こちらの備えが少しでも乱れた場所へ、次々と兵を送り込んでくる。
「左が押されております!」
「援けを出せ!」
「殿、右も危のうございます!」
右も左も。
一体、どうなっているんだ。
俺は必死に周囲を見渡した。
戦場では、報告を聞いてから命令を出すまでに時間がかかる。
その間にも状況は変わる。
こちらの兵が進んだと思えば、次の瞬間には押し戻される。
命令を伝えに走った者が、戻ってこないこともあった。
「殿! お下がりくだされ!」
忠次の声がした。
「分かっておる! だが、まだ兵が――」
「このままでは御身が危のうございます!」
そう言われても、簡単に引き返せるわけではない。
俺が退けば、家臣たちも退かなければならない。
だが、兵の中には、まだ敵と戦っている者がいる。
ここで彼らを置いていくのか。
迷った。
その一瞬が、よくなかった。
近くに矢が飛んできた。
馬が驚いて身体をよじる。
俺は手綱を引いたが、うまく抑えられなかった。
「うわっ!」
身体が大きく揺れた。
何とか落馬は免れたものの、心臓がひどく速く打っている。
怖い。
初陣のときも怖かった。
桶狭間でも、逃げる途中は生きた心地がしなかった。
しかし、今回はそれ以上だった。
武田軍が、こちらを押し潰そうとしている。
何とか立て直そうとしても、うまくいかない。
「……退く! 退却を伝えよ!」
ようやくそう命じた。
だが、遅かった。
味方の一部が崩れ、周囲の兵が逃げ始める。
それにつられるように、別の隊まで動揺した。
怒鳴り声が上がる。
誰かが馬から落ちた。
別の者が、その上を飛び越えていく。
俺は必死に馬を進めた。
そのときだった。
「殿!」
聞き覚えのある声がした。
振り返ると、夏目吉信がいた。
「吉信!」
一向一揆で敵に回り、その後、再び徳川家へ戻ってきた男である。
今では何事もなかったかのように働いていたが、俺の方は、あのときのことをよく覚えていた。
吉信は馬を寄せ、俺の前に出た。
「殿、ここはお退きくだされ!」
「分かっておる! お前も来い!」
「我らが敵を防ぎます!」
「馬鹿を言うな! もう戦は負けだ!」
俺は怒鳴った。
負けた。
もう、どうしようもない。
今さら格好をつけても仕方がないのだ。
ここで一人でも多く逃がさなければ、被害が増えるばかりである。
「吉信、お前も――」
「殿!」
吉信が、俺の言葉を遮った。
「どうか、お急ぎくだされ!」
その顔を見て、俺は一瞬、何も言えなくなった。
吉信は笑っていなかった。
かといって、怯えている様子でもない。
ただ、必死だった。
「……必ず戻ってこい!」
俺はそう叫んだ。
吉信は深く頭を下げた。
そして、兵を率いて敵の方へ向かった。
俺は馬を進めた。
何度も振り返ろうとしたが、そのたびに家臣に急かされた。
「殿、前を!」
分かっている。
分かっているのだが。
あいつは、本当に戻ってくるのだろうか。
◇
浜松城へ辿り着いたときには、もう日が落ちていた。
城門をくぐった途端、身体から力が抜けそうになった。
それでも、まだ休むわけにはいかない。
「城の備えを固めよ! 敵が追ってくるやもしれぬ!」
俺は声を張り上げた。
「負傷者は先に運べ! 戻った兵の数を確かめよ!」
家臣たちが動き始める。
俺も甲冑を脱ぎ、報告を聞くことにした。
どの隊が戻ったのか。
誰が傷を負ったのか。
誰が帰ってきていないのか。
その一つ一つを確かめるたびに、胃の辺りが重くなった。
戦に敗れたことは、分かっている。
ただ、ここまでひどいとは思っていなかった。
織田から来た援軍にも、大きな損害が出ている。
こちらの家臣たちも、大勢が討たれた。
中には、幼い頃から知っている者もいた。
何度も話をしたことのある者もいた。
名前を聞けば顔が浮かぶ。
そんな人間が、もう戻ってこない。
「……吉信は?」
俺は尋ねた。
忠次が黙った。
「吉信は、どうした」
もう一度聞いた。
忠次は、しばらくしてから答えた。
「……夏目吉信、討死にございます」
俺は口を閉じた。
やはり。
そうか。
帰ってこなかったのか。
「……そうか」
それだけ言った。
忠次は頭を下げたままだった。
俺は手元の書付を見た。
吉信の名前がある。
その横には、討死と記されていた。
一向一揆の後、俺のもとへ戻ってきたときのことを思い出した。
あのとき、吉信は随分と申し訳なさそうだった。
俺は、これからも働いてもらわねば困ると言った。
吉信は、それを喜んでくれた。
……何だよ。
戻ってきたばかりじゃないか。
まだ、いくらでも働いてもらうつもりだったのに。
俺は書付を置いた。
「……ほかの者も、引き続き確かめてくれ」
「はっ」
「負傷者には、できるだけ手当てを。亡くなった者の家族にも、後で知らせねばならぬ」
「承知いたしました」
忠次が下がる。
俺は一人になった。
少しして、ようやく手が震えていることに気づいた。
寒いわけではなかった。
◇
「……竹千代?」
部屋へ戻ると、かぐやが声をかけてきた。
俺は返事をしなかった。
いや、できなかった。
甲冑を外し、腰を下ろす。
身体のあちこちが痛む。
馬を走らせ、必死に逃げてきたせいだろう。
「……怪我してる?」
かぐやが尋ねた。
「大したことないよ」
「本当?」
「うん」
それから、少し間を置いて答えた。
「……負けた」
かぐやは黙っていた。
「ひどい負け方だった。もう、どうしようもなかった」
自分でも驚くほど、声がかすれていた。
「……うん」
「吉信も死んだ」
かぐやが小さく身体を動かした。
「……あの、一揆のときの?」
「そう」
俺は頷いた。
「一度敵になって、戻ってきたやつ」
「覚えてるよ」
「……そっか」
それ以上、何も言えなかった。
しばらく黙っていると、かぐやが尋ねてきた。
「竹千代、何か食べた?」
「……まだ」
「じゃあ、ちょっとでも食べた方がいいよ」
「うん」
返事をしたものの、立ち上がる気になれなかった。
かぐやはそれを見ていた。
「……ねえ、竹千代」
「何?」
「私、今日ずっと待ってたんだよ」
「……そうか」
「外が騒がしくなって、みんな走り回っててさ。何があったのか、よく分かんなかった」
かぐやは少し声を落とした。
「竹千代が帰ってこなかったら、どうしようって思った」
俺は顔を上げた。
かぐやは、文箱の縁からこちらを見ていた。
「……ごめん」
そう言うと、かぐやは首を傾げるように身体を動かした。
「何で謝るの?」
「心配かけたから」
「そりゃ心配するよ!」
少し強い声だった。
「でも、帰ってきてくれたから、今はそれでいいよ」
俺は黙った。
その言葉を聞いて、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
かぐやはいつもの調子で答えた。
ただ、今日はそれ以上、明るく振る舞おうとはしなかった。
俺が黙っていれば、かぐやも黙っている。
しばらくして、俺は立ち上がった。
「……何か食べてくるよ」
「うん!」
「戻ってきたら、少し話そうか」
「いいよ!」
俺は頷いた。
それから、戸の前で足を止めた。
「かぐや」
「何?」
「……本当に、帰ってこられてよかったよ」
かぐやは、少しだけ身体を揺らした。
「うん。私もそう思う」
俺は戸を開けた。
外では、まだ兵たちが慌ただしく動いている。
戦は負けた。
大勢が死んだ。
明日になれば、さらに多くの悪い知らせが届くかもしれない。
それでも、俺は生きて帰ってきた。
生きている以上、まだやらなければならないことがある。
まずは、帰ってこなかった者たちの名前を確かめよう。
その家族に、何を伝えるべきかも考えなければならない。
そして、岡崎の瀬名たちにも知らせを送ろう。
心配させるだろうが、俺自身の言葉で無事を伝えたかった。
俺は廊下を歩き始めた。
途中、何人かの家臣とすれ違った。
皆、疲れた顔をしていた。
それでも、俺の姿を見ると頭を下げてくれる。
俺は一人ずつ声をかけた。
今夜は、まだ長くなりそうだった。