徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
「殿。こちらの者には、家を継ぐ男子がおりませぬ」
差し出された書付には、三方ヶ原で死んだ家臣の名があった。残されたのは病気の妻と、十二と九つの娘。
「……親類を呼ぼう。妻子が暮らせるよう、土地の扱いも考えたい」
一人分が終わると、また別の名が出る。消息さえ確かでない者もいた。
夏目吉信の名は、もう何度も読んだ。
「殿、次はこちらに」
「ああ」
筆を持つ指に墨が染みた。拭っても、爪の際からなかなか落ちなかった。
◇
「竹千代、またご飯残したでしょ」
部屋へ戻るなり、かぐやに言われた。
「食べたよ。半分くらい」
「それ、残したって言うんだよ!」
かぐやが文箱から身を乗り出した。
「今日も、戦の後片づけ?」
「ああ。吉信みたいに、帰ってこなかった者の家のことを決めてる」
「……そっか」
「戦に負けるって、終わってからも大変なんだな」
「勝ったときも?」
聞き返されて、上ノ郷城で捕らえた鵜殿兄弟の顔が浮かんだ。
「そうだな。勝った方にも死んだ人がいるし、負けた方にはもっといる」
「じゃあ、次は戦わないで済むといいね」
「ああ。けど武田が引いてくれないんだよ」
かぐやはすぐに返事をせず、俺の手元を見た。
「竹千代。まず手、洗ったら? さっきからずっと擦ってる」
親指をこする手を止めた。
「……そうする」
◇
岡崎から瀬名の手紙が届いた。
信康は稽古で腕を痛めたらしい。亀は手習いに励み、書状の末尾には整った筆跡で「父上、またお会いできる日を楽しみにしております」と添えていた。
「亀ちゃんの字だ!」
かぐやが歓声を上げる。
「前よりずっと上手になったね!」
「ああ。何だか、俺の知らないうちに大人になっていくな」
「ねえ、私にもお手紙書いてほしいなあ」
「返事にそう書いておくよ」
「私からも何か言いたい!」
かぐやの言葉を書き留めているうちに、瀬名への返事の方が短くなった。
「ねえ、竹千代。瀬名ちゃんにも、ちゃんと休んでるって書いてね!」
「……それは、ちょっと嘘になるかな」
「じゃあ、ちゃんと休めばいいじゃん!」
「簡単に言ってくれるなあ」
かぐやが笑った。久しぶりに手紙を書くのが楽しかった。
だが翌朝、野田城から救援を求める知らせが来た。
信玄は三河へ進み、城を囲んでいた。助けたいが、三方ヶ原で失った兵も馬も戻っていない。無理に出陣すれば浜松まで危うくなる。
結局、野田城は落ちた。
「……城兵はどうなった」
忠次は生存者を調べていると答え、さらに言った。
「ただ、武田勢が退き始めたとの報せがございます」
「退く? 野田城を落としたばかりで?」
「理由は、まだ」
俺は絵図を見つめた。
信玄は天下を取る前に死ぬ。習った記憶はあるが、時期も死因も曖昧だった。
「……物見を増やそう。願望で敵の動きを決めつけるわけにはいかぬ」
◇
武田信玄が死んだ。
その知らせが確かなものになったのは、武田軍が退いてからしばらく後だった。
「本当に?」
かぐやが尋ねた。
「どうやらね」
「竹千代、よかった?」
俺は答えに迷った。生きていれば、次はどれだけ領地を失ったか分からない。恐れていた相手がいなくなった。
「……うん。ほっとしてるよ」
「そっか」
「でも、別に武田がなくなったわけじゃないんだ」
信玄の跡を継ぐのは、武田勝頼。俺はその名前も知っていた。そして、長篠の戦いで武田が敗れることも。
だからといって、勝頼が弱いとは思えなかった。
俺たちは兵を進め、長篠城を取り戻した。だが翌年、勝頼が遠江へ大軍を率いてきた。
狙われたのは高天神城だった。城からは何度も救援を求める知らせが届いた。
「殿、いかがなされます」
助けたい。だがこちらの兵だけでは、勝頼の大軍を押し返せない。
信長にも援軍を求めたが、十分な救援を届けられないまま、城は開城した。
使者の袖には乾いた泥がついていた。
「……城の者たちは?」
使者は俯いた。
「それぞれ、武田方の沙汰に従うことになったとのことにございます」
信玄が死んでも、武田との戦は終わらない。
高天神城から届いた最後の知らせを、俺は長いこと捨てられなかった。
◇
天正三年五月。
武田勝頼が、今度は長篠城を囲んだ。
守るのは奥平貞昌。かつて武田に従い、今は徳川方につく武将だ。
「今回は救けたい」
俺が言うと、忠次は頷いた。
「織田殿の援軍も参ります。三方ヶ原とは違います」
「そうあってほしいな」
今度こそ、城を守る者たちを見捨てたくなかった。
出陣前の夜、かぐやが尋ねてきた。
「竹千代、今度の戦って、あの長篠?」
「うん。多分な」
「前に、武田が負けるって言ってたよね?」
「ああ。でも、どうやって勝つのかまでは覚えてないんだよ」
「そっかぁ」
かぐやは少し考えた。
「じゃあ、今度は勝てるといいね!」
「そうだな」
「ちゃんと帰ってきてね!」
「分かってるよ」
「本当? 三方ヶ原のとき、すっごく心配したんだから!」
俺は少し笑った。
「今回は、あんなことにならないようにするよ」
「うん!」
その声を聞きながら、俺は出陣の支度を続けた。
◇
設楽原には、織田と徳川の兵が並んでいた。
信長は俺の顔を見るなり笑った。
「家康。今度は武田を追い払わねばな」
「はっ。そのためにも、お力をお借りいたします」
「うむ。勝頼も、容易には退くまい」
信長が正面へ目を向けた。
柵の後ろには鉄砲を持つ兵が控える。だが、それだけで勝てるとは思わなかった。
撃った直後に詰め寄られれば危うい。相手は武田だ。
三方ヶ原の恐怖は消えていない。
軍議で忠次が、鳶ヶ巣山砦を背後から攻める策を申し出た。
「山道を行くのか」
「土地を知る者に案内させます。夜のうちに回り込めば、敵の意表を突けましょう」
砦を落とせば長篠城を助けられ、武田の背後も脅かせる。
「……忠次。無理はするなよ」
「承知しております」
忠次は笑った。俺も笑い返したが、正直なところ不安だった。
◇
夜、忠次たちが陣を出た。翌朝、山の向こうに煙が上がった。
「殿! 鳶ヶ巣山の方角にございます!」
「……始まったか!」
間もなく砦陥落の知らせが届いた。長篠城の守兵も動き始めた。
拳を握ったが、正面の武田勢も動き始めた。
鉄砲の音が重なり、煙が柵の前を覆う。敵は簡単には崩れなかった。
倒れた馬の脇を歩兵が抜け、柵に手を掛ける。
「右へ兵を回せ!」
煙の向こうは見えず、報告が届く頃には状況が変わっている。
三方ヶ原で味わった、何も分からなくなる怖さが喉元まで上がってくる。
それでも隣の隊は踏みとどまり、破れた柵にはすぐ兵が集まった。
昼過ぎ、ついに武田勢が退き始めた。
「殿! 敵が退いております!」
報告を聞いても、すぐには信じられなかった。
「……本当か?」
「はっ!」
敵の旗が遠ざかり、歓声が上がる。
今度は、勝ったのだ。
だが、忠次が戻っていない。あいつが無事に帰ってくるまでは、安心できなかった。
◇
「殿!」
夕方、忠次が戻ってきた。袖には血がついていた。
「忠次! 無事だったか!」
「はっ。長篠の囲みも解けましてございます」
「そうか……よくやってくれた」
俺はようやく息を吐いた。しかし、忠次は続けた。
「ただ、深溝松平伊忠が、討死いたしました」
「……伊忠が?」
「はっ」
俺は口を閉じた。
また、死者と残された家族の書付が届く。
きっと今回も、そうなるのだろう。
◇
浜松へ帰ると、かぐやがいつもの場所から顔を出した。
「竹千代! おかえり!」
「ただいま」
「勝ったんでしょ?」
「うん。今回は勝てたよ」
「やったー! よかったね、竹千代!」
「……ああ」
俺も笑った。ただ、すぐには続く言葉が見つからなかった。
「でも、また何人か帰ってこなかったんだ」
「……そっか」
かぐやは少し黙った。それから、思い出したように声を上げた。
「あっ、そうだ! 竹千代に渡したいものがあるんだった!」
「何?」
「亀ちゃんからのお手紙! 今度は私にも書いてくれたの!」
亀自身の手紙だった。整った筆跡が目に入る。
『かぐや様へ
お久しゅうございます。父上から、かぐや様もお元気でいらっしゃると伺い、嬉しく思っております。
またお会いできる日を楽しみにしております。その折には、父上の幼い頃のお話を、また聞かせてください。
亀』
「……亀のやつ」
思わず笑ってしまった。
「何で最後は俺の昔話なんだよ」
「あはは! 亀ちゃん、楽しみにしてるんだって!」
「お前も随分いろいろ話したもんな」
「まだまだあるよ!」
「……もう勘弁してくれ」
かぐやが楽しそうに笑う。俺も手紙をもう一度眺めた。
初対面では瀬名の後ろに隠れていた娘が、かぐや宛てに手紙を書くようになった。
「……大きくなったなあ」
「ねー! 私も早く会いたい!」
「今度、岡崎へ行けるといいな」
「うん! それまでに返事も書かなきゃ!」
明日になれば長篠の死者の家族に向き合わなければならない。武田との戦も終わっていない。
それでも、今夜くらいは休みたかった。
「かぐや」
「何?」
「今日はさ、亀への返事を一緒に考えようか」
「いいの!?」
「ああ」
「やった!」
俺は筆を取り、紙を広げた。
勝った戦の後も、やるべきことはいくらでもある。だが、今夜くらいは、娘への手紙を先に書いてもいいだろう。