徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
「父上。そんなに見つめられると、落ち着きません」
亀にそう言われて、俺は我に返った。
「……すまん」
「先ほどから、ずっとでございます」
「いや、立派になったなと思って」
「それも、先ほど伺いました」
隣で瀬名が笑った。
どうやら、同じことを何度も言っていたらしい。
仕方がないだろう。
娘が嫁ぐのである。
天正四年。
亀は、奥平信昌のもとへ嫁ぐことになった。
信昌といえば、長篠城を守り抜いた武将である。武田勝頼の大軍に囲まれながら援軍の到着まで持ちこたえ、こちらの勝利に大きく貢献してくれた。
亀との婚姻は、それ以前から話を進めていたものだ。
奥平家を徳川方につなぎとめるという意味でも、重要な縁組である。
相手に不満はない。
ないのだが、それはそれとして、父親としては少々複雑だった。
俺が初めて亀を抱いたとき、あの子は泣き出してしまった。
父親なのに初対面。
それから何年も経ち、ようやく親子らしく話せるようになったと思ったら、今度は嫁入りである。
子供の成長というものは、どうにも早すぎる。
「父上」
「何だ?」
「そのようなお顔をなさらないでくださいませ」
「……どんな顔をしておる?」
「今にも泣き出しそうなお顔です」
瀬名がとうとう声を出して笑った。
「殿。亀も困っておりますよ」
「分かっておる」
そう答えると、亀は少し笑った。
その表情が瀬名によく似ていて、また何か言いたくなった。
しかし、今度こそ我慢した。
◇
「亀ちゃーん! 結婚おめでとう!」
人払いを済ませた部屋で、かぐやが元気よく声を上げた。
「ありがとうございます、かぐや様」
亀は嬉しそうに笑った。
最初にかぐやと会った頃は、喋るウミウシを前にして随分と緊張していたものだ。
それが今では、こうして自然に話している。
「ねえねえ、向こうに行ってもお手紙くれる?」
「もちろんでございます。また、かぐや様にもお便りいたします」
「やった! じゃあ私も返事する!」
「かぐや、書くのは俺だけどな」
「分かってるって!」
かぐやが笑った。
「でも、竹千代。亀ちゃんがいなくなったら寂しいでしょ?」
「……まあ、そうだな」
「父上には、またお会いできます」
亀が言った。
「それに、私は遠い国へ嫁ぐわけではございませんから」
「それはそうなのだが」
「また同じことを仰っております」
……まったく、今日は娘に言い負かされてばかりである。
瀬名は楽しそうに俺たちを眺めていた。
そのとき、かぐやが亀に尋ねた。
「ねえ、亀ちゃん。結婚するの、楽しみ?」
亀は少し考えた。
「楽しみな気持ちもございます」
「うんうん!」
「ですが、知らぬお家で暮らすことになりますので、少し不安もございます」
「そっかぁ」
かぐやは素直に頷いた。
「じゃあ、何かあったらお手紙書いてよ! 私も竹千代も瀬名ちゃんもいるんだから!」
「……はい」
亀が笑った。
「ありがとうございます」
その返事を聞いて、かぐやも嬉しそうに身体を揺らした。
俺は二人を眺めながら、ふと考えた。
かぐやが亀と会えるようになって、本当によかったと思う。
もし俺がずっと秘密にしていたら、こんな時間はなかった。
ただ、今のところ、かぐやのことを知っているのは俺と瀬名、そして亀だけである。
信康にも、亀の嫁ぎ先にも話していない。
これからも、むやみに秘密を広めるつもりはなかった。
◇
亀を送り出してから、岡崎城へ立ち寄った。
久しぶりに信康とゆっくり話したかったからだ。
「父上。長篠の後始末について、少々ご相談がございます」
そう言って現れた息子を見て、俺は思わず笑いそうになった。
……こいつも大きくなったなあ。
亀ばかり気にしていたが、信康だってもう子供ではない。
元服して何年も経つ。
今では岡崎城を預かり、家臣を率いて戦にも出ている。
おまけに、妻までいるのだ。
その妻は、織田信長の娘である徳姫。
考えてみれば、なかなか大変な立場ではないだろうか。
「父上?」
「ああ、すまぬ。話を聞こう」
信康は持参した書付を広げた。
戦功の扱いや、城の備えについての相談だった。
俺も一つずつ確認し、必要なところは忠次らと改めて相談するよう伝えた。
信康は真剣に聞いている。
その様子を見ていると、何だか少し嬉しくなった。
「……信康」
「はっ」
「岡崎を任せておること、負担には思っておらぬか?」
信康は少し驚いたようだった。
「いえ。父上よりお預かりした城にございます。精一杯、務める所存です」
「そうか」
「何か至らぬところがございましたか?」
「いや、そうではない」
俺は笑った。
「よく働いてくれておると思ってな」
信康は一瞬、返事に困ったようだった。
それから、少し照れくさそうに頭を下げた。
「……ありがたきお言葉にございます」
俺は頷いた。
立派になったものだ。
あの頃、瀬名の腕の中で眠っていた赤ん坊が、今ではこうして俺の前に座り、城の仕事について相談している。
父親としては、喜ばしい限りである。
ただ。
俺には、どうしても気になることがあった。
徳川家康の妻と息子は、歴史上、悲しい最期を迎える。
それだけは覚えていた。
だが、詳しい経緯は分からない。
何が原因で、いつ、どのように二人が死ぬことになったのか。
前世で聞いた覚えはあるものの、肝心なところが曖昧だった。
以前は、それでも何とかなると思っていた。
歴史上の出来事を知っているのだから、危なくなったら対処すればいい。
そんなふうに考えていたのである。
しかし、桶狭間も三方ヶ原も、そう簡単にはいかなかった。
知っているだけでは、どうにもならないことがある。
目の前の信康は、そんな俺の考えなど知らず、次の書付を広げていた。
「父上。こちらについても、ご判断を仰ぎたく」
「ああ」
俺は書付へ目を落とした。
今の信康は、何も悪いことをしていない。
瀬名もそうだ。
それなのに、いつか二人を失うかもしれない。
……そんなの、嫌に決まっている。
「信康」
「はっ」
「これから先、何か困ったことがあれば、遠慮せず知らせてくれ」
息子が顔を上げた。
「……急に、いかがなされました?」
「いや、岡崎を任せておるとはいえ、何もかも一人で抱える必要はないと思ってな」
信康は少し考えた。
そして、真面目な顔で頷いた。
「承知いたしました」
俺も頷いた。
これだけで何かが変わるとは思わない。
ただ、少なくとも、息子の身に何が起きているかも知らないまま、取り返しのつかないことになるのだけは避けたかった。
◇
最初に徳姫のことを相談されたのは、亀を嫁がせて間もない頃だった。
「殿。若殿のお方様が、奥向きの者と揉めておいでとか」
忠次の報告に、俺は首を傾げた。
「奥向き?」
「姫様にお仕えする女房のことでございます。織田から伴われた者と、岡崎の者との間で、行き違いがあったようにございます」
「……それで、徳姫が怒っておるのか?」
「はっ。ご自身に断りなく、お付きの者を替えられたと」
俺は思わず額を押さえた。
信康と徳姫。
二人の婚姻は、徳川と織田の同盟を固めるためのものだった。
しかし、だからといって夫婦仲まで保証されるわけではない。
長篠の戦いの後、ようやく武田に対して優勢に立てるようになったというのに、今度は身内の問題である。
「……一度、岡崎へ行こう」
幸い、信康とも話したいことがあった。
俺は予定を調整し、数日後に岡崎へ向かった。
◇
「私がお連れした者を、何の相談もなく替えられたのです」
徳姫は、最初からはっきりと不満を口にした。
「私に落ち度があったのでしょうか。そうであれば、そう仰っていただきたかったのです」
「いや、徳姫に落ち度があるという話ではない。まずは事情を確かめたい」
俺が答えると、徳姫は少し表情を和らげた。
話を聞けば、娘の世話をする女房の一人が、別の仕事へ移されていたという。
徳姫はすでに娘を産んでいた。幼い子供の世話をする者が、母親に何の相談もなく替わっていれば、確かに不安になるだろう。
「信康には話したのか?」
「申し上げました。ですが、城の者が決めたことだからと」
「……なるほど」
俺は信康にも同じことを尋ねた。
ところが、こちらの言い分は少し違った。
「父上。織田から参った女房が、岡崎の者を差し置いて勝手に人を動かしておりました。家臣たちが見過ごせぬと申したのです」
「ならば、なぜ徳姫に相談しなかった?」
「城内の人の配置は、城主である私が決めることにございます」
「それはそうだが、娘の世話をする者だろう」
「……母上にも、ご相談いたしました」
嫌な予感がした。
今度は瀬名に聞く。
「私は、あの者の働きぶりに問題があると聞いておりました」
「誰から?」
「岡崎の年寄からでございます」
「徳姫には?」
瀬名は口を閉じた。
しばらくして、静かに答える。
「……申し上げておりません」
俺はため息をこらえた。
誰か一人が悪意を持って動いたわけではない。
徳姫は娘のことを考えている。
信康は城内の秩序を守ろうとしている。
瀬名は岡崎の者たちから相談を受け、善かれと思って動いた。
だが、その結果、徳姫だけが何も知らされないまま、自分の周囲を変えられていた。
これでは、面白くないに決まっている。
◇
俺は三人を集め、奥向きの人事について話し合うことにした。
「これからは、徳姫に仕える者を替えるときには、本人にも必ず話を通そう。娘たちの世話については、徳姫の考えを第一に聞く」
徳姫が小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし、城の守りに関わることは別だ。出入りする者の身元を確かめるのは、信康の務めでもある」
信康も頷く。
「承知いたしました」
「瀬名も、何か気になることがあれば、まず徳姫に相談してやってくれ」
「はい」
よし。
これで、少しは落ち着くだろう。
……と、そのときは思ったのである。
◇
翌年、また岡崎から知らせが届いた。
今度は、徳姫が実家へ送ろうとした書状が、城の者によって一時的に留め置かれたという。
俺は報告を読み終え、天井を仰いだ。
「……何でそうなるんだ」
書状は、娘の近況や実家への挨拶を記したものだったらしい。
ただし、使者が織田領へ向かうということで、岡崎の家臣が中身の確認を求めたのだという。
武田との戦が続いている以上、城の情報が外へ漏れることを警戒するのは分かる。
だが、相手は同盟国の姫である。
よりによって、信長の娘の書状を勝手に止めるとは。
「信康は何と言っておる?」
「城の定めに従ったまで、と」
忠次が申し訳なさそうに答えた。
「……本人に会おう」
俺はまた岡崎へ向かった。
徳姫は、前回よりも冷たい顔をしていた。
「父上は、私の話を聞いてくださったはずです」
「ああ。覚えておる」
「けれど、何も変わっておりません」
その言葉に、すぐには返せなかった。
徳姫は続けた。
「私は、三郎様の妻として岡崎へ参りました。織田の家の者だからと、特別な扱いをしていただきたいわけではございません」
そこで一度、息を整えた。
「ですが、実家へ手紙を出すことさえ、誰かの許しを得ねばならぬのでしょうか」
「……それは行き過ぎだな」
俺が答えると、徳姫の表情がわずかに変わった。
ただ、安堵した様子ではなかった。
「父上。私は、三郎様からそのお言葉を聞きとうございました」
◇
「信康。徳姫の書状を留め置いたのは、お前の命令か?」
息子は首を振った。
「家臣が確かめたことにございます」
「ならば、なぜ止めなかった?」
「父上。岡崎は武田との戦に備えております。織田から参った者であっても、すべて信用してよいとは限りませぬ」
「それは分かる。だが、徳姫の実家へ送る書状まで、何もかも疑っていては――」
「では、父上は岡崎の備えを緩めよと仰るのですか」
「そうは言っておらぬ」
信康は黙った。
俺も言葉を探した。
この話は、最初から食い違っている。
徳姫は妻として信用されたい。
信康は城主としての判断を尊重されたい。
どちらも、自分が軽んじられていると思っていた。
「……信康。俺はお前が岡崎を守ろうとしておることを疑っておらぬ」
「でしたら、なぜ家臣の判断を咎められるのです」
「守りを固めることと、妻を孤立させることは別だ」
息子は不満そうに目を伏せた。
「徳の方は、何かあれば織田の家を頼られます」
「……うむ」
「私は、徳川の当主となるべく岡崎を預かっております。それなのに、城内のことまで織田の意向を気にせねばならぬのでしょうか」
その言葉に、俺は答えを失った。
信康が言いたいことも分かってしまったからだ。
織田との同盟がなければ、今の徳川はない。
だが、だからといって岡崎のすべてを織田の意向に合わせるわけにもいかない。
ましてや、信康は徳川の跡取りである。
いつかは自分で家臣を率い、物事を決めなければならない。
俺は、息子に何を求めているのだろう。
城を任せておきながら、問題が起きれば口を出す。
そうかと思えば、普段は浜松にいて、細かなことを知ろうともしない。
信康からすれば、さぞ勝手な父親に見えていることだろう。
◇
それでも、何もしないわけにはいかなかった。
俺は信康と徳姫、それぞれの言い分を整理し、岡崎の家臣にも話を聞いた。
書状の扱いについては、家中の機密に関わる場合を除き、徳姫が実家へ便りを送ることを妨げないよう命じた。
奥向きの揉め事についても、当事者同士で解決できない場合には、双方の話を聞ける者を間に立てることにした。
そして、信康には改めて言い聞かせた。
「徳姫が不満を口にする前に、お前から話を聞いてやってくれ」
「……承知いたしました」
徳姫にも頼んだ。
「信康にも立場がある。何かあれば、まず夫婦で話し合ってほしい」
「……努めます」
そのときは、二人とも頷いてくれた。
ところが、しばらくして分かった。
二人が頷いたのは、俺の言うことに納得したからではなかった。
父親であり、徳川の当主でもある俺を前にして、これ以上言い争いたくなかっただけなのだ。
俺が浜松へ戻ると、また以前のように話が行き違う。
徳姫が家臣を通して願いを伝えれば、信康はなぜ直接言わぬのかと不満を抱く。
信康が家臣に指示を出せば、徳姫は自分に相談がないと感じる。
仲裁役を置けば、今度はその者がどちらの味方なのかという話になる。
瀬名が間に入ったこともあったが、それも長くは続かなかった。
「徳の方には、もう少し信康の立場を考えていただきとうございます」
瀬名にそう言われた。
一方の徳姫は、
「瀬名様は、最後には必ず三郎様のお味方をなさいます」
と訴えた。
二人とも、嘘をついているわけではないのだろう。
俺は何度も岡崎へ足を運んだ。
書状も送った。
信康と二人で話し、徳姫の話も聞いた。
しかし、顔を合わせるたびに新しい問題が出てくる。
そのうち、岡崎から使者が来ただけで、何か揉め事が起きたのではないかと身構えるようになっていた。
◇
三度目の仲裁がうまくいかなかった夜だった。
俺は浜松の自室で、岡崎から持ち帰った書付を広げていた。
奥向きの人事。
書状の扱い。
家臣の配置。
信康からの返答と、徳姫の訴え。
何度読み直しても、互いの不満が減ったようには見えない。
俺が新しい決まりを作るたび、それを巡ってまた揉めている。
とうとう書付を伏せた。
「……もう、どうしたらいいんだよ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
俺は徳姫を泣かせたくない。
信康にも、岡崎を立派に治めてほしい。
瀬名には、余計な苦労をかけたくなかった。
それなのに、俺が間に入ると、誰かが不満を抱く。
徳姫の願いを聞けば、信康の立場が弱くなる。
信康の判断を尊重すれば、徳姫が孤立する。
瀬名に頼れば、徳姫との関係が悪くなる。
「……何なんだよ、もう」
情けない声が出た。
三河を治め、遠江まで領地を広げた。
武田信玄と戦い、長篠では勝利も収めた。
なのに、息子夫婦の仲一つ、まともに取り持てない。
腹が立つ相手もいなかった。
何しろ、俺自身がずっと浜松にいて、岡崎の問題を後回しにしていたのだから。
「竹千代ー」
文箱から声がした。
「……何?」
「すっごく怖い顔してるよ」
「今、ちょっと考え事してるんだ」
「知ってる! さっきから紙ばっかり見てるもん!」
かぐやは箱の縁から、こちらを覗き込んだ。
「ねえ、竹千代。私、いいこと思いついた!」
「……何を?」
「みんなでお菓子食べよう!」
思わず顔を上げた。
「……はい?」
「だって、喧嘩してるんでしょ? だったら、おいしいもの食べながらお話しすればいいじゃん!」
「いや、それで済むなら苦労してないよ」
「えー! でも、お腹空いてると余計に怒りっぽくなるじゃん!」
「……それは、まあ」
「ほら! 私、いいこと言った!」
かぐやが得意げになった。
俺は呆れた。
呆れたのだが、なぜか笑ってしまった。
「ははっ……何だよ、それ」
「えっ、そんなに変だった?」
「いや、変というか……」
一度笑い始めると、なかなか止まらなかった。
「お前さあ、こっちは結構深刻なんだけど」
「私だって真面目に考えたんだよ!」
「分かった、分かった。ありがとう」
「むー!」
かぐやは不満そうにしていたが、俺が笑い続けているのを見ると、つられて笑い出した。
随分と久しぶりだった。
こんなふうに、腹の底から笑ったのは。
◇
「……ねえ、竹千代」
しばらくして、かぐやが尋ねてきた。
「そんなに大変なの?」
「うん。正直、もうお手上げだよ」
「そっかぁ」
俺は畳に寝転がった。
天井の木目を見ながら、口を開く。
「俺さ、信康が生まれたとき、すごく嬉しかったんだよ」
「覚えてるよ! 竹千代、ずっとニヤニヤしてたもん!」
「してたなあ」
「亀ちゃんのときも!」
「ああ」
あの頃は、二人とも元気に育ってくれれば、それだけで十分だった。
それが今では、立派な武将になれだの、城を守れだの、家を継げだの。
いろいろなことを求めるようになっている。
「……信康の気持ちも、ちゃんと聞いてやらなかったんだろうな」
「それなら、これから聞けばいいじゃん!」
「もう何度も話してるよ」
「でも、まだ話したいことがあるんでしょ?」
俺は黙った。
かぐやは、あまり難しいことを言わない。
政治のことも、家臣のことも、正確に理解しているわけではないだろう。
それでも、話していると不思議と気持ちが軽くなる。
何より、かぐやの前では格好をつけなくていい。
徳川家康として立派なことを言わなくてもいいし、弱音を吐いたからといって、家臣に失望される心配もない。
昔のことも、これから起こるかもしれないことも、気兼ねなく話せる。
俺がこの時代へ生まれてきてから、ずっとそうだった。
「……なあ、かぐや」
「なーに?」
「未来にいた頃って、こういう面倒なとき、どうしてたんだろうな」
「うーん。竹千代だったら、お家でゴロゴロしてそう!」
「……否定できない」
「それで、おいしいもの食べて、寝て!」
「何というか、ひどい生活だな」
「でも、竹千代っぽいよ?」
「まあな」
かぐやが笑った。
俺も笑った。
今の俺には、仕事を投げ出して一日中寝転がることなんてできない。
だが、そういうくだらない話ができる相手がいる。
それが、どれほどありがたいことなのか。
かぐやと話している間に、ようやく気づいた。
◇
天正七年。
徳姫から織田信長へ、岡崎での出来事を訴える書状が送られた。
報告を受けたとき、俺は思わず立ち上がった。
「……信長殿に?」
「はっ」
忠次の顔も険しかった。
その書状には、信康の粗暴な振る舞いや、夫婦仲の悪化だけでなく、瀬名が武田方と通じているのではないかという疑惑まで記されていたという。
「……武田と内通?」
「そのような疑いがある、と」
「証拠は?」
「確かなものは、まだ」
俺は唇を噛んだ。
徳姫がそこまで追い詰められていたことにも、信康たちの周囲にそんな疑いが生じていることにも、動揺した。
信康と瀬名。
歴史上、二人が命を落とすことは知っている。
だが、その原因や詳しい経緯は覚えていない。
以前は、事件が起きそうになったら何とかすればいいと思っていた。
とんでもない思い上がりだった。
俺は何年も前から夫婦の問題を知っていた。
何度も仲裁し、改善を求めてきた。
それなのに、結局ここまで来てしまったのである。
「……岡崎へ行く」
俺は立ち上がった。
「信康と瀬名、徳姫とも、もう一度話す」
◇
「父上まで、そのような噂を信じられるのですか!」
信康は激しく怒った。
「信じておらぬ。だから直接確かめている」
「何を確かめる必要がございます!」
「武田と通じた者が、岡崎に出入りしていたという話だ。お前は知っておったのか?」
信康の表情が変わった。
「……取り調べております」
「なぜ俺に知らせなかった?」
「岡崎のことは、私にお任せいただいているはずです!」
「信康!」
思わず声が大きくなった。
信康も立ち上がった。
「父上は、いつまで私を子供として扱われるのですか!」
俺は言葉を失った。
「岡崎を預けられながら、何かあるたび浜松から口を出される! 家臣たちも、私ではなく父上のお言葉を待つようになっております!」
「……」
「それでは、私は何のために城主を務めているのでございますか!」
信康の目は赤くなっていた。
俺は、すぐには答えられなかった。
これまで、俺は自分が正しいことをしているつもりだった。
信康が失敗しないように。
家中が揉めないように。
徳姫が困らないように。
しかし、そのたびに信康の判断を覆してきたのも事実だった。
息子を守りたいという気持ちが、息子の立場を傷つけていた。
「……信康」
「何でございますか」
「お前が岡崎でよく働いていることは知っている」
信康は何も答えなかった。
「だが、武田との内通が疑われるとなれば、岡崎だけの問題では済まぬ。俺にも調べさせてくれ」
「……父上は、結局、私を信用しておられぬ」
そう言われた。
違うと答えたかった。
しかし、信康の顔を見ていると、その言葉が出てこなかった。
◇
瀬名も、当然ながら怒っていた。
「殿。私は、今川の家と縁があるというだけで疑われねばならぬのでございますか」
「そうではない」
「では、何をしたと申すのでしょう」
瀬名は俺を見つめた。
「私は、信康を守りたいだけでございます」
「分かっておる」
「……本当に?」
その問いに、胸が痛んだ。
瀬名は続けた。
「私は何度も、殿にお願いしてまいりました。信康の話を聞いてやってほしいと。あの子は、父上に認めていただきたいのです」
「……ああ」
「それなのに、いつも何か起きてから岡崎へお越しになる」
返す言葉がなかった。
瀬名の言葉は厳しかった。
しかし、間違ってはいなかった。
俺は浜松の仕事が忙しいことを理由に、岡崎のことを後回しにしてきた。
問題が起きるたびに仲裁してはいたが、その後の様子を十分に確かめていなかった。
「……すまぬ」
俺が言うと、瀬名は首を振った。
「謝っていただきたいわけではございません」
その声が震えていた。
「私は、あの子を失いたくないのでございます」
俺は瀬名を見た。
「……失わせぬ」
「殿?」
「信康は死なせぬ。お前もだ」
瀬名が目を見開いた。
「……何を仰っているのでございますか」
まだ誰も、二人の命を奪うとは言っていない。
だからこそ、俺の言葉は唐突に聞こえたのだろう。
だが、俺は決めていた。
信長が何と言おうと。
家臣たちが反対しようと。
信康と瀬名だけは、絶対に死なせない。
◇
信長から使者が来た。
岡崎の混乱を、徳川家としてどう収めるつもりなのか。
そして、信康と瀬名への疑いをどう扱うのか。
その答えを求められた。
俺は、すぐに安土へ赴くことを決めた。
「殿。織田殿のご不興を買えば、徳川の家にも危険が及びまする」
忠次が言った。
「分かっておる」
「若殿のことも、慎重にお考えくだされ」
「ああ」
慎重に。
もちろん、そのつもりだった。
信長と争えば、武田が喜ぶ。
織田との同盟が崩れれば、三河も遠江も危うくなる。
そんなことは、言われなくても分かっている。
だが。
「……忠次」
「はっ」
「俺は、信康を斬るつもりはない」
忠次は黙った。
「瀬名もだ」
「……殿」
「そのために何を差し出さねばならぬのか、安土で確かめてくる」
俺は立ち上がった。
「徳川の家を危うくするつもりはない。だが、妻と息子を殺してまで守る家なら、俺は何のために今まで戦ってきたのか分からなくなる」
忠次は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……お供いたします」
◇
安土へ向かう前夜。
俺は、かぐやに事情を話した。
「……信長殿と、直接話してくる」
「信長って、あの信長?」
「ああ」
「竹千代が前に、すっごく怖いって言ってた人?」
「……まあ、そうだな」
かぐやは少し考えた。
「竹千代、怖い?」
「怖いよ」
即答だった。
「信長殿が怒れば、徳川は織田と戦うことになるかもしれない。そうなったら、どれだけの人が死ぬか……」
そこまで言って、口を閉じた。
かぐやは黙って聞いていた。
「でも、俺は信康と瀬名を死なせたくないんだ」
「うん」
「二人がどれだけ俺を恨んでもいい。城を取り上げることになっても構わない。けど、命だけは……」
言葉が詰まった。
かぐやは、しばらく何も言わなかった。
それから、いつもより少し大きな声で言った。
「じゃあ、竹千代! 絶対に帰ってきてね!」
俺は顔を上げた。
「……え?」
「信長とお話しするんでしょ? だったら、ちゃんと帰ってきて、私にも聞かせてよ!」
「……いや、そんな簡単な話じゃ」
「知ってるよ!」
かぐやが笑った。
「でも、竹千代が帰ってこなかったら、私、誰からお話聞けばいいの?」
「……忠次とか?」
「えー! 忠次は私と喋れないじゃん!」
思わず笑った。
「……確かに」
「でしょ!」
かぐやは嬉しそうだった。
「それに、瀬名ちゃんだって待ってるよ。だから、ちゃんと帰ってきて!」
俺は、しばらくかぐやを見つめていた。
信長と会うのが怖くなくなったわけではない。
交渉がうまくいく保証もない。
それでも、かぐやと話しているうちに、ようやく息がしやすくなった。
「……分かった。帰ってくるよ」
「うん!」
「ちゃんと話して、ちゃんと帰ってくる」
「よし!」
かぐやは満足そうに笑った。
そして、何かを思い出したように言った。
「あっ、そうだ! 帰ってきたら、お土産よろしくね!」
「……お前なあ」
「えへへ!」
結局、俺はまた笑ってしまった。
◇
安土城で信長と向かい合った。
「家康。わざわざ参ったか」
「はっ」
「信康のことだな」
「そのとおりにございます」
信長は、しばらく俺を見つめていた。
「娘からの訴えは聞いておる」
「はっ」
「お主の嫡男は、随分と勝手な振る舞いをしておるようだな」
俺は頭を下げた。
「家中を収めきれず、申し訳ございませぬ」
「詫びに来たのか?」
「いえ。信康と瀬名の処遇について、お話ししたく参りました」
信長の目が細くなった。
「……申してみよ」
俺は、これまでの経緯を説明した。
夫婦間の対立。
岡崎の家臣たちの不満。
自分が何度も仲裁を試みたこと。
それでも、十分に改善できなかったこと。
信長は黙って聞いていた。
やがて、口を開いた。
「……それで?」
「はっ」
「お主は何年もかけて、何も収められなかったのだな」
胸に刺さった。
「……仰るとおりにございます」
「家康。城を治めることもできぬ者に、どうして家を継がせる?」
俺はすぐには答えられなかった。
信長は続けた。
「徳は、儂の娘だ」
「はっ」
「その娘を嫁がせた先で、不安な思いをさせておる。お主はそれを知りながら、何度も同じことを繰り返したという」
反論できなかった。
俺が間に入っても、結局、問題は解決しなかった。
その結果が、今ここにある。
「……家康」
信長が言った。
「儂は、徳をこれ以上危うい場所に置くつもりはない」
「承知しております」
「信康が武田と通じていたという疑いもある」
「その件については、まだ確かな証拠がございませぬ」
「証拠がなければ、何もせぬのか?」
「いえ。調べを進めております」
「遅い」
短い言葉だった。
俺は頭を下げた。
信長は、しばらく黙っていた。
そして、静かに尋ねた。
「……信康を斬れと命じたら、どうする」
俺は顔を上げた。
「お断りいたします」
即答した。
信長の表情が消えた。
「……何?」
「信康を斬ることはできませぬ」
「妻もか」
「瀬名もでございます」
「……家康」
信長の声が低くなった。
「儂に逆らうつもりか」
心臓が嫌な音を立てた。
怖い。
本当に、怖かった。
ここで信長の機嫌を損ねれば、何が起きるか分からない。
それでも、俺は頭を下げなかった。
「……信長殿」
「何だ」
「信康が武田と通じていたなら、城も兵も取り上げます。家督を継がせることも、当面は認めませぬ。必要ならば、牢に閉じ込めてでも責任を取らせます」
信長は黙って聞いていた。
「瀬名についても、疑いが晴れるまでは浜松で私の監督下に置きます。武田との往来は断ち、書状についても調べます」
「……それで済むと?」
「済ませるために、私が責任を負います」
「責任、か」
信長が鼻で笑った。
「お主一人の首で、徳川の家が守れると思うなよ」
「承知しております」
「では、どうする」
俺は息を吸った。
「徳姫様のご身辺は、これまで以上に厳重に守ります。望まれるなら、織田へ戻られることも妨げませぬ。信康とは、当面別々に暮らさせます」
「……」
「岡崎の家臣については、配置を改めます。信康に従う者たちも調べ、武田との内通が認められれば、しかるべく処罰いたします」
「お主の言葉だけで、儂が信用すると?」
「織田からの使者をお受けいたします。調べの経過も、隠さずご報告いたします」
信長は俺を見つめた。
俺も目を逸らさなかった。
「……そこまでして、二人を生かしたいのか」
「はっ」
「息子が、お主を裏切っていたとしても?」
「裏切りが事実であれば、当主として処罰いたします。ただし、命までは奪いませぬ」
信長の眉が動いた。
「それは、父親の言葉か。それとも当主の言葉か」
「……両方にございます」
俺は答えた。
「私は、徳川の当主です。家を守る責任があります。ですが、信康の父親でもございます」
信長は黙った。
俺は続けた。
「息子が過ちを犯したなら、その責任は取らせます。城を失い、名誉を失うことになっても仕方ありませぬ。ですが、生きていれば、いつかやり直すこともできましょう」
喉が乾いていた。
「……妻も、息子も」
俺は言った。
「命だけは、どうしても譲れませぬ」
信長は、長いこと俺を見ていた。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……家康」
「はっ」
「お主は、随分と厄介な男になったな」
「……申し訳ございませぬ」
「褒めておらぬ」
信長は苦々しげに言った。
しかし、怒鳴りはしなかった。
「徳のことは、儂が決める。帰りたいと申せば、帰らせる」
「承知いたしました」
「信康は岡崎から退けよ。兵を預けることも許さぬ」
「はっ」
「疑いのある者は、すべて調べよ。その経過は逐一知らせるのだ」
「承知いたしました」
信長は俺を睨んだ。
「……二人を生かすというなら、その後の始末までお主がつけよ」
俺は深く頭を下げた。
「必ず」
信長の言葉は、全面的な赦免ではない。
これからの俺の行動次第で、事態はいくらでも変わる。
だが、少なくとも今、この場で二人の命を奪うことは避けられた。
俺は、ようやく息を吐いた。
◇
浜松へ戻った日の夜。
かぐやは、俺の顔を見るなり声を上げた。
「竹千代! おかえり!」
「……ただいま」
「お土産は!?」
「……第一声がそれ?」
「だって約束したじゃん!」
「いや、してないよ」
「えー!」
かぐやが笑った。
俺も笑った。
しかし、そのまま座り込んでしまった。
身体から力が抜けた。
「……竹千代?」
「……疲れた」
「うん」
「本当に、疲れたよ」
俺は両手で顔を覆った。
安土では、何とか平静を保っていた。
信長の前で弱音を吐くわけにはいかなかった。
家臣たちにも、あまり不安な顔を見せたくなかった。
だが、今はもう無理だった。
「……怖かった」
そう言うと、かぐやが静かになった。
「信長殿に逆らったら、殺されるかもしれないと思った」
「……うん」
「徳川が織田と戦うことになったら、今度こそ皆を巻き込む。そんなことになったら、俺が信康と瀬名を守りたいと思ったせいで……」
言葉が続かなかった。
両手に力が入る。
「……何やってるんだろうな、俺」
信康は怒っている。
瀬名も、俺のことを完全には信じていない。
徳姫は織田へ戻ることになるかもしれない。
信長との関係も、今までより難しくなった。
必死に動いたのに、誰一人、喜んでくれていない。
「……かぐや」
「何?」
「俺、何か間違えたかな」
答えは返ってこなかった。
かぐやも、すぐには何も言えなかったのだろう。
しばらくして、声がした。
「……竹千代」
「うん」
「私、そんな難しいこと分かんないよ」
「……そうか」
「でもさ」
かぐやは少しだけ声を張った。
「私、竹千代が帰ってきてくれて、すっごく嬉しい!」
俺は顔を上げた。
「……え?」
「だって、ちゃんと帰ってきたじゃん! しかも、瀬名ちゃんも信康も生きてるんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、よかったじゃん!」
かぐやは笑った。
「もちろん、まだ大変なんだろうけどさ。でも、竹千代が帰ってこなかったら、私、お土産ももらえないし!」
「……またそれかよ」
「あはは!」
その笑い声を聞いていると、不意に目の奥が熱くなった。
俺は顔を伏せた。
かぐやは、何も言わなかった。
いつものように、文箱の縁にちょこんと乗っていた。
「……なあ、かぐや」
「なーに?」
「俺、今すごく情けない顔してると思う」
「うん!」
即答だった。
「……そこは否定してくれよ」
「えー! だって本当だもん!」
思わず笑った。
涙が出そうだったのに、笑ってしまった。
「……お前、ほんと変わらないな」
「そう? 私だって色々変わってるよ!」
「何が?」
「瀬名ちゃんとも仲良くなったし、亀ちゃんともお手紙してるし! あと、最近は竹千代がちゃんとご飯食べてるかも分かるようになった!」
「最後は昔からじゃないか?」
「えへへ、そうかも!」
かぐやは楽しそうだった。
その様子を見ているうちに、俺はようやく息を整えることができた。
この時代に来てから、何十年も経っている。
人質だった頃も、戦場に出たときも、三方ヶ原で負けたときも。
かぐやは、いつもそこにいた。
そして、今も。
俺がどれだけ情けない姿を見せても、いつもどおり話しかけてくれる。
それが、どれほど大きな救いになっているのか。
うまく言葉にできなかった。
「……ありがとう、かぐや」
俺が言うと、かぐやは少し驚いたようだった。
「えっ、急にどうしたの?」
「いや、いつも助かってるなと思って」
「……えへへ!」
かぐやは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今度こそお土産よろしくね!」
「分かったよ。今度はちゃんと買ってくる」
「やったー!」
その声が、今夜はやけに心地よかった。
◇
信康に処分を伝えた。
岡崎城を離れ、遠江の城で謹慎すること。
兵を預かることは、当面認めないこと。
徳川家の跡取りとしての立場も、しばらく保留すること。
「……父上は、私からすべてを奪われるのですか」
信康の声は低かった。
「すべてではない」
「城も、兵も、家臣も取り上げられるのです。それで何が残るのでございますか」
俺はすぐには答えられなかった。
信康は、父親に認められたくて努力してきた。
その結果、岡崎城を任された。
そして今、俺はその城を取り上げようとしている。
息子が怒るのも当然だった。
「……信康」
「何でございますか」
「俺は、お前に生きていてほしい」
信康が顔を上げた。
「……何を仰っているのですか」
「城を失っても、家督を継げなくなっても構わぬ。だが、命を失ってはどうにもならぬ」
「……父上」
「俺は、お前を死なせたくない」
信康はしばらく黙っていた。
そして、絞り出すように言った。
「……生き恥をさらせと仰るのですか」
俺は息を呑んだ。
そうか。
信康にとっては、そうなのか。
武家の跡取りとして育ち、城を任された。
その立場を失うことは、命を失うことにも等しい屈辱なのだろう。
だが。
「……それでも、生きていてほしい」
俺は答えた。
「恨まれても構わぬ。父親失格だと思われてもいい。だが、お前を死なせることだけはできぬ」
信康は俯いた。
長い沈黙があった。
やがて、頭を下げた。
「……仰せのままに」
その声は冷たかった。
俺は、何も言えなかった。
◇
瀬名にも、浜松へ移ってもらうことになった。
信康と離れて暮らすことになる。
当然、納得してくれるはずもなかった。
「……殿は、私から信康まで取り上げるおつもりなのですか」
「そうではない」
「では、なぜ離さねばならぬのでございますか」
俺は事情を説明した。
信康の周囲にいる家臣たちを改めて調べる必要があること。
瀬名の今川家との縁についても、疑いを晴らさなければならないこと。
信長との約束を果たすためにも、しばらく二人の行動を制限する必要があること。
瀬名は黙って聞いていた。
そして、静かに言った。
「……信康は、殿を恨んでおります」
「分かっておる」
「私は、あの子の母親でございます」
「ああ」
「どれほどつらい思いをしているか、考えるだけで……」
瀬名の声が震えた。
俺は、何も言えなかった。
「殿」
「何だ」
「どうか、あの子を見捨てないでくださいませ」
俺は顔を上げた。
「見捨てるつもりなどない」
「……本当に?」
「必ず、また会いに行く。これから先も、何度でも話す」
瀬名は、しばらく俺を見つめていた。
やがて、小さく頷いた。
「……お願いいたします」
その声が、胸に残った。
◇
浜松へ戻ってから、瀬名は以前よりも口数が少なくなった。
かぐやが話しかければ笑うこともある。
亀から届いた手紙を、一緒に読むこともあった。
だが、信康の話になると、どうしても表情が曇る。
ある日、俺が部屋へ戻ると、瀬名とかぐやが話していた。
「瀬名ちゃん、亀ちゃんにお返事書いた?」
「ええ。昨日、送りましたよ」
「いいなー! 私も早く会いたい!」
「また機会を作りましょう」
「やった!」
かぐやが喜んでいる。
瀬名も、小さく笑っていた。
俺はその様子を見て、少し足を止めた。
「……殿?」
瀬名が気づいた。
「いや、邪魔をしたかと思ってな」
「いいえ」
瀬名は首を振った。
かぐやが、こちらを向いた。
「竹千代! おかえり!」
「ただいま」
「ねえ、瀬名ちゃんと亀ちゃんの話してたんだよ!」
「そうか」
「また会いに行きたいねって!」
「……そうだな。機会を作ろう」
そう答えると、かぐやは満足そうだった。
瀬名は、しばらく俺を見ていた。
「……殿」
「何だ?」
「信康のこと、またお話ししてもよろしいでしょうか」
俺は頷いた。
「もちろんだ」
瀬名は少し安心したようだった。
俺は、その隣に腰を下ろした。
信康が俺を許してくれるかは分からない。
瀬名との関係も、すぐには元に戻らないだろう。
だが、今度は何か問題が起きてから話すのではなく、普段から話をしようと思った。
それが、今の俺にできることだった。
「……かぐや」
「何?」
「今日は、ちょっと長い話になるかもしれない」
「いいよ!」
かぐやが笑った。
「私、二人のお話聞くの好きだもん!」
「……そうか」
俺も笑った。
瀬名も、ほんの少しだけ笑った。
それから俺たちは、信康のことを話し始めた。
どうすれば、もう一度あの子と向き合えるのか。
今度こそ、きちんと考えるために。