徳川家康になったら喋るウミウシと出会った   作:しそ

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本能寺

「父上。もう少し、私を信用していただけませぬか」

 

信康にそう言われ、俺は持っていた書付を下ろした。

 

「……信用しておらぬつもりはないが」

 

「では、なぜ何度もお確かめになるのです」

 

目の前の息子は、少し不機嫌そうだった。

 

天正十年。信康を岡崎城から退かせて、三年近くが経とうとしている。

 

あれから、何度も顔を合わせた。

 

最初の頃は、まともに話すことさえ難しかった。俺が何を言っても、信康は必要最低限の返事しかしなかった。

 

最近になって、ようやく仕事の相談をしてくれるようになったのである。

 

もっとも、岡崎城も兵を率いる権限も、まだ返していない。

 

今は俺の監督下で、領内の物資の管理や書付の確認などを任せていた。

 

もちろん、いつまでもそのままにするつもりはない。

 

ただ、信長と交わした約束もある。俺の一存で、すぐに以前の立場へ戻せるわけではなかった。

 

「……すまん。前に問題があったものだから、つい気になってな」

 

「それは承知しております。ですが、同じ書付を三度も確かめられては、私も立つ瀬がございませぬ」

 

「三度も見たか?」

 

「はい」

 

……そうか。

 

三度か。

 

確かに、それは嫌になるだろう。

 

「悪かった。次からは気をつける」

 

そう言うと、信康は少し意外そうな顔をした。

 

「……いえ。私も、少々言い過ぎました」

 

「いや、お前の言うとおりだ」

 

俺は書付を返した。

 

「仕事は任せる。何か困ったことがあれば知らせてくれ」

 

「承知いたしました」

 

信康が頭を下げる。

 

以前ほど冷たい態度ではなかった。

 

かといって、昔のように親しげに話してくれるわけでもない。

 

それでも、三年前と比べれば随分とましになったと思う。

 

部屋を出ようとしたところで、背後から声がした。

 

「……父上」

 

「何だ?」

 

「母上は、お元気でいらっしゃいますか」

 

俺は振り返った。

 

「元気だぞ。お前に会いたがっていた」

 

「……そうですか」

 

信康は少し目を伏せた。

 

謹慎の条件は以前より緩めているが、瀬名との面会も自由というわけではない。

 

「次に会える日を、考えておこう」

 

そう告げると、信康は深く頭を下げた。

 

「ありがたく存じます」

 

……まったく。

 

親子で会うだけのことが、こんなにも難しくなるとは思わなかった。

 

◇

 

「で、今日はどうだった?」

 

浜松へ戻ると、かぐやが早速尋ねてきた。

 

「まあ、悪くなかったよ」

 

「喧嘩しなかった?」

 

「しなかった」

 

「怒鳴られなかった?」

 

「怒鳴られてないよ」

 

「じゃあ、よかったじゃん!」

 

かぐやは嬉しそうに身体を揺らした。

 

「……いや、息子と喧嘩しなかっただけで喜ばれる父親って、どうなんだろうな」

 

「えー、でも前は喧嘩してたじゃん!」

 

「それはそうだけどさ」

 

「だったら進歩だよ!」

 

進歩、か。

 

何とも便利な言葉である。

 

俺は苦笑しながら、文箱の隣に腰を下ろした。

 

「瀬名ちゃんにも教えてあげなよ! きっと喜ぶよ!」

 

「うん。そうする」

 

瀬名は信康のことを、今でも気にかけている。

 

当然だろう。

 

俺が信康を処分したことで、親子は長く離れて暮らすことになったのだ。

 

瀬名とは何度も話し合ってきた。

 

今では以前のように笑ってくれることも増えたが、信康のこととなると、やはり表情が曇る。

 

だからこそ、少しでもよい知らせを伝えたかった。

 

「そういえば竹千代、お腹空いてない?」

 

「ん? まあ、少し」

 

「じゃあ、お菓子食べよう!」

 

「……またお前はそれか」

 

「だって、瀬名ちゃんが持ってきてくれたんだよ!」

 

見ると、文箱の横に小さな皿が置かれている。

 

菓子がいくつか載っていた。

 

「私、竹千代が帰ってくるまで我慢してたんだから!」

 

「へえ。偉いじゃん」

 

「でしょ!」

 

俺は皿を引き寄せた。

 

かぐやが一番大きな菓子を指し示す。

 

「私、それ!」

 

「……遠慮って言葉、知ってる?」

 

「知ってるよ! 竹千代に譲ってあげるってことでしょ?」

 

「おい」

 

かぐやが笑った。

 

俺もつられて笑ってしまった。

 

信康と話すのは、今でも緊張する。

 

家臣たちへの説明も必要だし、織田との約束も守らなければならない。

 

けれど、浜松へ帰ってかぐやとくだらない話をしていると、そうした気疲れが少しずつ抜けていく。

 

本人に言えば、また調子に乗りそうなので黙っておいた。

 

◇

 

天正十年、二月。

 

ついに、武田家を討つための大規模な戦が始まった。

 

織田軍は信濃方面から進み、俺たち徳川軍は駿河へ兵を進める。

 

すでに前年には、長く武田方の拠点となっていた高天神城も奪い返していた。

 

今度こそ、決着をつけるつもりだった。

 

「殿。田中城の守りは、なお堅固にございます」

 

忠次の報告を聞き、俺は絵図へ目を落とした。

 

「……やはり、簡単には落ちぬか」

 

田中城には、依田信蕃という武将が籠もっている。

 

二俣城を守っていた頃から、何度もこちらを苦しめてきた男だ。

 

力攻めを続ければ、相当な損害が出るだろう。

 

「周囲の道を押さえよ。城への兵糧の運び込みも妨げたい。ただし、無理に攻め寄せるな」

 

「はっ」

 

「それと、降伏を促す使者も送ろう。勝頼を助けるために命を捨てるつもりならともかく、城兵全員がそう考えておるとは限らぬ」

 

忠次が頷いた。

 

俺は再び絵図を見た。

 

これまで何年も、武田との戦を続けてきた。

 

三方ヶ原では信玄に大敗し、長篠では勝頼を破った。

 

その後も城を奪い合い、多くの兵を失った。

 

だからこそ、ここで終わらせたい。

 

もっとも、武田家の滅亡を知っているからといって、今回の戦が楽になるわけではなかった。

 

「殿! 織田方より知らせにございます!」

 

新たな使者が駆け込んできた。

 

信濃では、武田方の城が次々と織田軍へ降っているという。

 

「……随分と早いな」

 

「武田方の諸将にも、離反する者が出ております」

 

俺は腕を組んだ。

 

信玄が生きていた頃には、考えられなかったことである。

 

あの武田家が、これほど急速に崩れていくとは。

 

しかし、こちらも手を緩めるわけにはいかない。

 

「駿河の武田方にも使者を送れ。降る者は受け入れる。敵の城を一つでも減らせれば、それだけ味方の犠牲を抑えられる」

 

俺が命じると、家臣たちは早速動き始めた。

 

◇

 

戦況は、日を追うごとに変わっていった。

 

武田家の重臣である穴山信君が、こちらに通じるという話が持ち込まれたのである。

 

正直、最初は罠を疑った。

 

信君は武田の一門であり、駿河の重要な土地を預かっている武将だ。

 

そんな男が、簡単に主家を見捨てるとは思えなかった。

 

だが、使者を通じて条件を詰めるうちに、本気であることが分かってきた。

 

俺は降伏後の待遇についても協議し、信君を味方に迎えることにした。

 

その後、彼の案内を得て甲斐へ兵を進める。

 

「……まさか、武田の一門と一緒に甲斐へ向かうことになるとはな」

 

馬上でそう呟いた。

 

数年前なら、信じられない話だった。

 

しかし、戦国時代では珍しいことでもないのだろう。

 

今川を離れた俺自身が、そうだったのだから。

 

やがて、武田勝頼が新府城を捨てたという知らせが届いた。

 

そして、三月。

 

勝頼が天目山の麓で自害したとの報告が入った。

 

「……勝頼が、死んだのか」

 

「はっ。嫡男の信勝も、最期を共にしたとのことにございます」

 

俺はしばらく黙っていた。

 

勝った。

 

俺たちは、武田家との戦に勝ったのだ。

 

だが、その報告を聞いても、すぐには喜べなかった。

 

長篠で戦った勝頼が、今度は自分の子供と共に死んだ。

 

数年前、信康を助けるために信長へ頭を下げたときのことを、ふと思い出す。

 

勝頼にも、守りたいものがあったのだろう。

 

もちろん、だからといって同情だけで済ませるつもりはなかった。

 

武田を倒すために兵を進めたのは俺自身だ。

 

城を攻め、家臣を調略し、勝頼が逃げ込める場所を減らしてきた。

 

その結果が、今の勝利なのである。

 

「……殿?」

 

忠次に声をかけられ、顔を上げた。

 

「ああ、すまぬ。武田の残兵がまだ各地におるはずだ。武具を捨てて降る者まで、むやみに討つ必要はない。城の明け渡しと、土地の支配を整えよう」

 

「承知いたしました」

 

「それから、戦で荒れた村々の様子も確かめてくれ。これからは、我らが治める土地になるのだからな」

 

忠次が頭を下げた。

 

俺は絵図を畳んだ。

 

ようやく武田との戦が終わった。

 

だが、当主としての仕事は、ここからまた増えることになる。

 

◇

 

その後、俺は信長から駿河一国を与えられた。

 

これで三河、遠江、駿河の三国を治めることになる。

 

かつて駿府で人質として暮らしていた子供が、今ではその土地を治める立場になったのだ。

 

何とも不思議な気分だった。

 

「竹千代、すごいじゃん!」

 

浜松でかぐやに話すと、案の定、喜んでくれた。

 

「三つも国を持ってるんでしょ?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、竹千代って結構偉い人になったんだね!」

 

「……今さら?」

 

「えへへ!」

 

かぐやは楽しそうに笑った。

 

「でも、これで武田との戦は終わったんでしょ?」

 

「そうだな。少なくとも、今までみたいに攻め合うことはなくなるよ」

 

「じゃあ、少しはゆっくりできる?」

 

「……どうかな。今度は駿河のことも考えないといけないし」

 

「えー! 国が増えたのに、お休みは増えないの?」

 

「むしろ仕事が増えたよ」

 

「そんなぁ!」

 

かぐやが大げさに嘆いた。

 

俺は笑ってしまった。

 

三国を治める大名になっても、こいつの前では昔と何も変わらない。

 

「でも、落ち着いたら駿府にも行きたいな」

 

「駿府! 懐かしいね!」

 

「ああ。昔、俺たちが暮らしてたところだからな」

 

「行こうよ! 私、またあの辺を歩いてみたい!」

 

「時間ができたらな」

 

「約束ね!」

 

「……今のは約束になるのか?」

 

「なる!」

 

かぐやが笑った。

 

俺も笑いながら、久しぶりに駿府の町並みを思い出していた。

 

◇

 

武田家が滅んでから、俺には一つ、気になって仕方のないことがあった。

 

本能寺の変。

 

織田信長が、明智光秀の謀反によって命を落とす事件である。

 

天正十年という年は覚えていた。武田家が滅んでから、そう長くはなかったはずだ。

 

……どうする。

 

俺は机に肘をついた。

 

桶狭間のとき、俺は義元に警告した。

 

あの頃はまだ若かったし、今ほど多くのことを考えられなかった。

 

知っている人が死ぬ。

 

それが嫌で、何とかしようとした。

 

結局、義元を救うことはできなかったが、警告したこと自体を後悔したことはない。

 

では、信長はどうする?

 

知らせればいい。

 

口で言うだけなら、簡単だ。

 

しかし、相手は織田信長だった。

 

今や天下の大半に勢力を広げ、その一声で何万もの兵が動く男である。

 

信長が死ぬ。

 

それは、一人の武将が命を落とすというだけの話ではない。

 

織田家の行く末が変わる。

 

各地の大名の動きも変わる。

 

誰が天下を治めるのかさえ、違ってくるかもしれない。

 

逆に言えば、信長が生き残った場合、その先に何が起きるのか、俺にはまるで分からない。

 

織田家はどうなる?

 

徳川は?

 

信康や瀬名、亀は?

 

俺が知っている歴史では、最後に徳川家康が天下を取る。

 

だが、それも信長が本能寺で死んだからこそ、巡ってきた機会だったのではないか。

 

……いや。

 

信長が死ねば、自分に都合がいい。

 

そんな考えが頭をよぎったことに、ひどく嫌な気分になった。

 

「……くそ」

 

俺は額に手を当てた。

 

信長には何度も助けられた。

 

信康と瀬名のことだって、最後には俺の願いを聞いてくれた。

 

その相手が死ぬと知りながら、俺はこれから先の損得まで考えている。

 

だからといって、警告すればそれでいいとも思えなかった。

 

今ここで明智光秀の名を出せば、何が起きる?

 

信長が信じてくれるとは限らない。

 

証拠もないのに重臣を裏切り者だと訴えれば、俺自身が疑われるかもしれない。

 

仮に信長が信じたとしても、その後はどうなるのだろう。

 

光秀が処罰されるかもしれない。

 

織田家中で争いが起きるかもしれない。

 

本能寺の変は防げても、もっと大きな戦が起こる可能性だってある。

 

何より、信長が生き続ければ、その後の日本がどうなるのか、俺には想像もつかなかった。

 

信康と瀬名を助けると決めたときは、迷わなかった。

 

家族を守りたい。

 

それだけは、はっきりしていた。

 

だが今は、何を守るべきなのかさえ分からなくなっていた。

 

俺は長いこと絵図を見つめていた。

 

「竹千代ー!」

 

不意に、文箱から声がした。

 

「何してるの? さっきから全然お話ししてくれないじゃん!」

 

「……ああ、ごめん」

 

「またお仕事?」

 

「ちょっと考え事」

 

「えー! まだ終わらないの?」

 

かぐやが箱の縁から身体を乗り出した。

 

俺は、その顔を見た。

 

かぐやに相談してみようか。

 

そう考えた。

 

義元のことも、未来のことも、俺がこの時代の人間ではないことも。

 

かぐやは知っている。

 

昔から、何でも話してきた。

 

他の誰にも言えないことを話せる、たった一人の相手だった。

 

だから、今回も話せばいい。

 

……本当に?

 

かぐやに話して、俺は何を求めるつもりなのだろう。

 

信長を助けるべきだと言ってほしいのか。

 

それとも、何もしなくていいと言ってほしいのか。

 

どちらにしても、最後に決めるのは俺だ。

 

それなのに、誰かに答えを決めてもらいたがっている。

 

そんな気がして、口を閉じた。

 

「……竹千代?」

 

「ん?」

 

「お腹空いた?」

 

「……何で?」

 

「難しい顔してるから!」

 

思わず笑った。

 

「お腹空いてると難しい顔になるのか?」

 

「なるよ! 私なんてすっごくなる!」

 

「普段から騒いでるじゃん」

 

「むー! ひどい!」

 

かぐやが抗議する。

 

俺は笑いながら、文箱の隣に置かれていた菓子を一つ取った。

 

「ほら、食べるか?」

 

「食べる!」

 

菓子を小さく分けて渡すと、かぐやは嬉しそうに食べ始めた。

 

俺はしばらく、その様子を眺めていた。

 

……今回は、話さないでおこう。

 

少なくとも、今は。

 

◇

 

それから間もなく、信長から正式な使者が来た。

 

武田家を滅ぼした戦勝を祝うため、安土へ招きたいという。

 

その後は、京や堺を見物してはどうかとも勧められた。

 

……堺。

 

俺は使者の言葉を聞きながら、別の記憶を探っていた。

 

確か、本能寺の変が起きたとき、徳川家康は堺にいたはずだ。

 

そして、命からがら三河へ帰った。

 

伊賀越え。

 

その名前は覚えている。

 

だが、具体的にどの道を通ったのかまでは知らない。

 

京。

 

堺。

 

伊賀。

 

伊勢。

 

どこも地名なら分かるが、戦乱の中で安全に通れる道となると、話は別だった。

 

「……忠次」

 

使者を見送った後、俺は家臣を呼んだ。

 

「旅の供について相談したい」

 

「はっ。いかほどの人数をお連れになりますか」

 

「多くは連れていけまい。だが、道案内に詳しい者がほしい」

 

「案内役にございますか?」

 

「ああ。京や堺の道だけでなく、伊賀や伊勢へ抜ける道を知る者がいれば、なおよい」

 

忠次が少し不思議そうな顔をした。

 

「帰路は京を通られるご予定では?」

 

「予定はそうだ。しかし、道が塞がれることもあろう」

 

「……なるほど」

 

「それと、銭は余裕を持って用意しておきたい。旅先で何が必要になるか分からぬからな」

 

忠次は頷いた。

 

「承知いたしました」

 

俺は続けた。

 

「服部半蔵にも話を通してくれ。伊賀や甲賀の道について、知っていることを聞いておきたい」

 

「はっ」

 

忠次が下がった後、俺は絵図を広げた。

 

陸路が塞がれても、伊勢まで出られれば船で三河へ戻れるかもしれない。

 

もちろん、船を用意できるかどうかという問題はある。

 

堺で手配の伝手を探しておくのもいいだろう。

 

そこまで考えてから、ふと手が止まった。

 

俺は今、信長が死んだ後の準備をしている。

 

信長に知らせるかどうかは、まだ決められないというのに。

 

……嫌なものだな。

 

俺は絵図を畳んだ。

 

それでも、準備をやめるつもりはなかった。

 

何も起きなければ、それでいい。

 

だが、もし本能寺の変が起こるなら、俺には連れて帰らねばならない者たちがいる。

 

◇

 

出立前、瀬名にも旅の予定を伝えた。

 

「安土へ参られるのですね」

 

「ああ。その後は京や堺にも立ち寄ることになる」

 

「随分と長い旅になりそうでございますね」

 

「そうだな」

 

瀬名は俺の荷を確かめ、文箱を手に取った。

 

「かぐや殿も、お連れになるのですか?」

 

「うん!」

 

中から返事がした。

 

「京も堺も、すっごく楽しみ!」

 

瀬名が微笑んだ。

 

「では、珍しいものをたくさんご覧になれますね」

 

「そうなの! 竹千代においしいものも買ってもらうんだ!」

 

「……まだ買うとは言ってないぞ」

 

「えー!」

 

瀬名が笑った。

 

「殿。かぐや殿を、よろしくお願いいたします」

 

「承知した」

 

「それから、かぐや殿」

 

「なーに、瀬名ちゃん?」

 

「殿が無理をなさるようでしたら、止めてくださいませ」

 

「任せて!」

 

二人は満足そうだった。

 

……俺の意見は聞いてくれないらしい。

 

◇

 

五月十五日。

 

安土城へ到着すると、盛大な歓待を受けた。

 

料理も酒も、見たことのない品まで用意されている。京や堺から取り寄せたものも多いという。

 

そのもてなしを取り仕切っていたのが、明智光秀だった。

 

「徳川殿。何かご不自由はございませぬか」

 

「いえ。結構なおもてなし、痛み入ります」

 

俺は礼を述べた。

 

光秀は丁寧に頭を下げる。

 

物腰は柔らかく、気配りも行き届いている。

 

……この人が、信長を殺すのか。

 

前世の歴史では、そうだった。

 

だが、目の前の光秀からは、そんな気配は感じられない。

 

むしろ、有能で礼儀正しい武将という印象だった。

 

何が人を裏切りへ向かわせるのか。

 

俺には、今も分からない。

 

光秀が何かを命じると、給仕の者たちが手際よく動いた。

 

その様子を眺めていると、自分の記憶の方を疑いたくなる。

 

本当に、この人なのか。

 

本当に、あの事件が起きるのか。

 

……分からない。

 

俺は光秀に礼を述べ、その場を離れた。

 

◇

 

「家康。駿河はどうだ」

 

宴の合間、信長が声をかけてきた。

 

「はっ。まだ手を入れねばならぬところもございますが、おかげさまで落ち着きつつあります」

 

「そうか。ならば、しっかり治めよ」

 

「承知いたしました」

 

信長は満足そうに頷いた。

 

「それにしても、信玄の子があれほど早く滅ぶとはな」

 

「……勝頼も、最後まで抵抗いたしました」

 

「うむ。大きな家を継ぐのは難しいものよ」

 

信長は酒を口にした。

 

それから、ふと思い出したように俺を見た。

 

「そういえば、家康」

 

「はっ」

 

「信康はどうしておる?」

 

思わず背筋が伸びた。

 

「……以前より落ち着きまして、今は領内の仕事を少しずつ任せております」

 

「兵は?」

 

「まだ預けておりませぬ」

 

「そうか」

 

信長は、しばらく俺を見ていた。

 

「お主も、なかなか頑固よな」

 

「……恐れ入ります」

 

「褒めておらぬぞ」

 

「承知しております」

 

信長が笑った。

 

「三年前は、儂の前で随分と威勢のよいことを申したではないか」

 

「……あの折は、ご無礼をいたしました」

 

「儂が斬れと命じても、斬らぬと言ったな」

 

「はっ」

 

「今でも同じか?」

 

俺は一度、息を整えた。

 

「同じにございます」

 

信長は目を細めた。

 

「ほう」

 

「信康には、いまだ至らぬところも多うございます。ですが、少しずつ改めております」

 

「なるほどな」

 

信長は盃を置いた。

 

「では、儂との約束も忘れるなよ」

 

「無論にございます」

 

「徳がまた不満を訴えてきたなら、今度は儂も容赦せぬぞ」

 

「承知しております」

 

徳姫は、今も岡崎で暮らしている。

 

信康とは離れているものの、夫婦の関係が完全に断たれたわけではない。俺も何度か様子を確かめ、手紙のやり取りを続けていた。

 

ただ、元どおりになるには、まだ時間がかかるだろう。

 

「……信長殿」

 

「何だ」

 

「その節は、ありがとうございました」

 

信長の眉が動いた。

 

「何のことだ?」

 

「妻と息子のことでございます」

 

少しの間があった。

 

信長は鼻を鳴らした。

 

「儂は、お主のために許したわけではない」

 

「存じております」

 

「徳川が乱れれば、儂も困る。それだけのことよ」

 

「……はっ」

 

信長は盃を手に取った。

 

「まあ、あの二人を生かしたことを後悔せぬようにな」

 

「はい」

 

俺は頭を下げた。

 

それから、顔を上げた。

 

目の前には、織田信長がいる。

 

かつては敵だった。

 

同盟を結んでからも、何度もその機嫌を気にしてきた。

 

三年前には、妻と息子の命を巡って真正面から対立した。

 

それでも、今こうして酒を酌み交わしている。

 

信長は、こちらの内心など知らずに話を続けていた。

 

俺も、いつもどおり受け答えをした。

 

だが、どうしても信長の顔を見てしまう。

 

「……何だ、家康」

 

不意に尋ねられた。

 

「いえ」

 

「儂の顔に何かついておるか?」

 

「滅相もございませぬ」

 

信長は怪訝そうだったが、それ以上は追及しなかった。

 

俺は盃を手に取った。

 

今なら、まだ間に合う。

 

京へ入るときは兵を増やしてほしいと頼むだけでもいい。

 

それだけなら、光秀を疑っているとは思われないだろう。

 

「……信長殿」

 

「何だ?」

 

俺は口を開いた。

 

だが、続く言葉が出てこなかった。

 

この男が生き続けた先に、何が待っているのか。

 

俺は知らない。

 

自分の家族がどうなるかさえ分からない。

 

信長は、俺の返事を待っている。

 

「……此度は、まことに見事なおもてなしをいただきました」

 

結局、そんな言葉しか出なかった。

 

「ふん。光秀が張り切っておるからな」

 

信長は笑った。

 

「堺にも寄るのであろう。楽しんでまいれ」

 

「……はっ」

 

俺は頭を下げた。

 

これでよかったのか。

 

帰り際になっても、答えは出なかった。

 

◇

 

安土での滞在を終えた後、俺たちは京を経て堺へ向かった。

 

供回りは三十余人ほど。

 

忠次や本多忠勝、服部半蔵らも同行していた。

 

出立前に、俺は半蔵へ声をかけた。

 

「伊賀へ抜ける道について、調べはついたか?」

 

「はっ。甲賀から伊賀へ通じる道を、いくつか確かめております」

 

「案内を頼める者は?」

 

「伝手がございます。ただ、急に大勢で通ることになれば、話をつけるのに時間がかかるやもしれませぬ」

 

「構わぬ。万一に備えて、話だけでも通しておいてくれ」

 

半蔵が頷く。

 

「承知いたしました」

 

次に、茶屋四郎次郎へ声をかけた。

 

「伊勢から三河へ船を出すことはできるか?」

 

「無論、船を手配する伝手はございます。ただ、風向きや船の都合もございますので、すぐに出せるとは限りませぬ」

 

「それで構わぬ。急ぎの際に頼める相手を確かめておいてくれ」

 

「承知いたしました」

 

忠次が、少し不思議そうに尋ねてきた。

 

「殿。随分と帰路を気になさいますな」

 

「知らぬ土地では、何が起きるか分からぬからな」

 

「……左様にございますな」

 

忠次は、それ以上尋ねなかった。

 

俺は少し安心した。

 

本能寺のことを知っているなどとは、誰にも言えない。

 

そして、言わずに済むのなら、その方がいい。

 

◇

 

堺は、たいそう賑やかな町だった。

 

大きな商家が並び、港には様々な船が集まっている。商人たちの声が飛び交い、見慣れない品々が店先に積まれていた。

 

かぐやは、もう大喜びである。

 

「竹千代! あっちのお店も見たい!」

 

「声が大きいって」

 

「じゃあ、こっち!」

 

「だから……」

 

文箱を抱え直し、人の少ない路地へ入る。

 

そこでようやく蓋を開けた。

 

「ふう。堺って賑やかだなあ」

 

「そうだね! それに海も近いし!」

 

「そっちの方が気になる?」

 

「もちろん!」

 

かぐやが胸を張るように身体を揺らす。

 

「だって、私、ウミウシだよ!」

 

「知ってるよ。何十年一緒にいると思ってるんだ」

 

「えへへ!」

 

俺は笑った。

 

店先には、見慣れない菓子や、南蛮から渡ってきた品々も並んでいる。

 

かぐやは一つ一つに興味を示した。

 

「竹千代、あれ何?」

 

「さあ。俺も初めて見るな」

 

「えー! 竹千代でも知らないの?」

 

「知らないものくらいあるよ」

 

「じゃあ、あとで調べよう!」

 

「はいはい」

 

しばらく町を歩いた後、俺は宿へ戻った。

 

そして、半蔵や四郎次郎と改めて帰路について相談した。

 

京を経由する通常の道。

 

甲賀から伊賀へ抜ける道。

 

伊勢から船で三河へ戻る方法。

 

使えそうな道は、できる限り確かめた。

 

忠次には、余分に持ってきた銭をまとめさせた。

 

……使わずに済むなら、それでいい。

 

そう考えながらも、俺は翌朝の出立に備えて荷の中身を何度も確認していた。

 

◇

 

天正十年、六月二日。

 

朝から蒸し暑かった。

 

港の方から潮の匂いが流れてきて、宿の庭では鳥が鳴いている。

 

俺は帰国までの日程を忠次と相談していた。

 

「殿。京へ戻られるのであれば、明日の朝がよろしいかと」

 

「そうだな。ただ、その前に――」

 

廊下を走る足音がした。

 

「徳川様!」

 

声の主は茶屋四郎次郎だった。

 

案内も待たずに部屋へ入り、膝をつく。

 

顔色が悪い。

 

「……どうした?」

 

俺が尋ねると、四郎次郎は一度息を整えた。

 

「京にて、一大事が起こりましてございます!」

 

忠次が身を乗り出した。

 

「何事だ!」

 

「織田信長公が、本能寺にて討たれました!」

 

部屋が静まり返った。

 

「……本能寺?」

 

忠次が立ち上がる。

 

「誰が、そのようなことを!」

 

「明智日向守光秀、謀反にございます!」

 

部屋が騒然となった。

 

誰かが京の様子を尋ね、別の者が信長の安否を確かめようとする。

 

俺だけが、口を閉じていた。

 

……起きた。

 

本当に、起きてしまった。

 

頭では知っていた。

 

それでも、実際に知らせを聞くと、すぐには受け止められなかった。

 

つい先日、安土で話したばかりなのだ。

 

あの声も、笑い方も、まだ覚えている。

 

もう二度と会えない。

 

あのとき、俺は何も言わなかった。

 

何かを言いかけて、結局やめた。

 

信長が死んだという事実を聞かされて、真っ先にそのことが浮かんだ。

 

だが、今は立ち止まっている場合ではなかった。

 

俺は堺にいる。

 

供回りは三十余人。

 

ここは織田の領国であり、俺の領地ではない。

 

信長が死んだと分かれば、周囲の武将たちがどう動くのかさえ分からなかった。

 

「……殿!」

 

忠次の声で我に返った。

 

「ご指示を!」

 

「……ああ」

 

俺は立ち上がった。

 

「まず全員を集めよ。誰も勝手に動くな」

 

「はっ!」

 

「四郎次郎。今、京への道はどうなっておる?」

 

「まだ詳しいことは分かりませぬ。ただ、明智勢が動いているとの話も……」

 

「ならば京へは向かわぬ」

 

家臣たちが顔を見合わせた。

 

俺は続けた。

 

「急ぎ三河へ戻る。伊賀から伊勢へ抜ける道を使いたい」

 

すると、半蔵が顔を上げた。

 

「殿。その道であれば、先日お話しした者たちに案内を頼めるかと」

 

「すぐに連絡を取れるか?」

 

「はっ。ただし、道中の安全までは保証できませぬ」

 

「承知しておる」

 

俺は忠次に向き直った。

 

「持参した銭を確かめよ。道案内をしてくれる者には十分な礼を払う。それから、食糧と水も必要だ」

 

「承知いたしました」

 

「馬に乗れる者だけで先へ進むことはせぬ。全員を連れて帰る」

 

忠次が深く頷いた。

 

「はっ!」

 

俺は荷物をまとめ始めた。

 

手が震えている。

 

落ち着いているつもりだったが、まるで落ち着いていなかった。

 

本能寺の変を知っていたからといって、怖くないわけではない。

 

むしろ、ここから先に何が起きるか分からないことが、ひどく恐ろしかった。

 

◇

 

「殿! 京へ兵を進めるべきではございませぬか!」

 

家臣の一人が言った。

 

「信長公の仇を討たねば!」

 

俺も、そうしたい気持ちがないわけではなかった。

 

安土で交わした最後の会話が浮かぶ。

 

信康と瀬名の命を助けてくれたこと。

 

武田との戦で、何度も援軍を送ってくれたこと。

 

恩はある。

 

しかし、今ここにいるのは三十余人ほど。

 

明智光秀が京を押さえたというなら、その兵力は比較にならない。

 

「……京へ向かっても、我らだけではどうにもならぬ」

 

「しかし!」

 

「ここで皆が討たれれば、三河も遠江も誰が守る!」

 

俺は声を強めた。

 

「信長公の仇を討つためにも、まず帰らねばならぬ。兵を集め、何が起きたのか確かめるのだ」

 

忠勝が頷いた。

 

「殿の仰せのとおりにございます」

 

俺は家臣たちを見回した。

 

「急ぐぞ。日が高いうちに、少しでも先へ進みたい」

 

皆が動き始めた。

 

俺は、胸元に抱えた文箱をそっと押さえた。

 

◇

 

出立の支度が進むなか、俺は人目を避けて文箱を開けた。

 

「……かぐや」

 

「竹千代! 何があったの!?」

 

かぐやは箱から身を乗り出した。

 

「外、すっごく騒がしいよ!」

 

「……信長殿が死んだんだ」

 

「えっ……」

 

かぐやは文箱の縁から身を乗り出したまま、動きを止めた。

 

「明智光秀が裏切ったらしい。京の本能寺で討たれたそうだ」

 

「……そんな」

 

かぐやはしばらく黙っていた。

 

「ついこの前、安土に行ったばっかりなのに……」

 

「ああ」

 

俺も、それ以上は何も言えなかった。

 

かぐやは知らない。

 

俺が信長の死を、前から知っていたことを。

 

安土で何も言えなかったことも。

 

今になって、その決断をどう受け止めればいいのか分からなくなっていることも。

 

「……竹千代」

 

「何?」

 

「これから、どうするの?」

 

「三河へ帰る。できるだけ急いで、皆を連れて帰りたい」

 

「……そっか」

 

かぐやは小さく頷いた。

 

それから、いつもの明るさを少し取り戻した声で言った。

 

「じゃあ、帰ろう! 瀬名ちゃんも待ってるよ!」

 

「……うん。そうだな」

 

俺は文箱を持ち上げた。

 

「しばらく揺れると思うけど、我慢してくれ」

 

「大丈夫! 竹千代こそ、転ばないようにね!」

 

「分かった」

 

外から忠次の声が聞こえた。

 

「殿! 出立の支度が整いましてございます!」

 

「すぐに行く!」

 

俺は文箱を懐へ収めた。

 

結局、かぐやには何も話さなかった。

 

この旅を終えて三河に戻れば、またいつものように話せるだろう。

 

だが、信長のことだけは。

 

しばらく、自分の胸にしまっておこうと思った。

 

◇

 

逃避行は、想像していた以上に厳しかった。

 

いつものように大名行列を組んで進むわけにはいかない。

 

目立つ旗も立てず、案内役について細い道を急ぐ。

 

事前に道を調べておいたことは役に立った。

 

半蔵が連絡を取った者たちが、途中の道案内を引き受けてくれたのである。

 

しかし、道を知っていることと、安全に通れることは別だった。

 

村へ近づくたび、武装した者がいないか確かめる。

 

遠くに人影が見えれば、半蔵が先に様子を探る。

 

通行を妨げる者たちとは、四郎次郎が用意した銭を使って交渉した。

 

「……殿」

 

ある場所では、忠勝が槍を握り直した。

 

道を塞ぐ男たちが、こちらの荷を見ていたのである。

 

俺は忠勝を制した。

 

「待て。まず話を聞こう」

 

案内役を通じて事情を説明し、必要な礼を払うと、男たちは道を空けた。

 

こちらの人数が少ないと見て、強引に通行料を取ろうとしたらしい。

 

「……あれだけの銭を渡してよろしかったのでございますか」

 

忠勝が尋ねた。

 

「槍を交えずに済んだのなら、安いものだ」

 

俺は答えた。

 

もっとも、そう言いながらも、手の震えはなかなか収まらなかった。

 

あの男たちが気を変えていたら。

 

こちらの身分に気づいていたら。

 

考え始めると、きりがない。

 

だが、今は先へ進むしかなかった。

 

◇

 

山道は狭く、ところどころぬかるんでいた。

 

草鞋の底に泥がつく。

 

裾をからげて歩いても、足が重い。

 

何より、眠かった。

 

一睡もできていないのに、歩くことだけはやめられない。

 

三方ヶ原から逃げたときのことを思い出した。

 

あのときは、追ってくる武田兵が怖かった。

 

今は、どこに敵がいるのか分からない。

 

その違いが、ひどく嫌だった。

 

「殿、少しお休みくだされ」

 

忠勝が言った。

 

俺は木の根元に腰を下ろした。

 

足が痛い。

 

普段から馬に乗ることは多いが、こんな山道を歩き続けることには慣れていなかった。

 

「……皆は?」

 

「交代で休ませております」

 

「そうか」

 

俺は水を飲んだ。

 

喉を通る冷たさが、ありがたかった。

 

近くで家臣たちが小声で話している。

 

少し離れた場所では、半蔵が案内役と道を確かめていた。

 

俺は胸元の荷を触った。

 

文箱は無事だった。

 

「……かぐや」

 

誰にも聞こえないよう、口を動かす。

 

「起きてる?」

 

すぐには返事がなかった。

 

眠っているのかと思ったとき、小さな声がした。

 

「……起きてるよ」

 

「よかった」

 

「竹千代、大丈夫?」

 

「足が痛い」

 

「えー、大丈夫じゃないじゃん!」

 

危うく笑いそうになった。

 

「まだ歩けるよ」

 

「ほんと?」

 

「うん」

 

かぐやはしばらく黙っていた。

 

「……ねえ、竹千代」

 

「何?」

 

「私、外に出られないから、何もしてあげられないね」

 

俺は胸元を見下ろした。

 

「そんなことないよ」

 

「でも、ずっと箱の中にいるだけだし……」

 

「今はそれでいいんだ。お前が無事なら、俺も安心できるから」

 

かぐやは何も言わなかった。

 

少しして、ぼそりと返ってきた。

 

「……じゃあ、ちゃんと無事でいる」

 

「頼むよ」

 

「竹千代もね!」

 

「ああ」

 

立ち上がろうとすると、また声がした。

 

「あとさ!」

 

「何?」

 

「帰ったら、おいしいもの食べようね!」

 

俺は顔を伏せた。

 

笑い声が漏れそうになったからだ。

 

「……お前、それ好きだなあ」

 

「だって、お腹空いたら元気出ないじゃん!」

 

「確かに」

 

「でしょ!」

 

忠勝がこちらを振り返った。

 

「殿?」

 

「……いや、何でもない」

 

慌てて立ち上がる。

 

かぐやの声が聞こえないよう、文箱を抱え直した。

 

命の危険があるときくらい、もう少し静かにしてくれてもいいと思う。

 

しかし、こいつが普段どおりに話しかけてくれることを、俺は嬉しく思っていた。

 

◇

 

甲賀から伊賀へ抜ける道でも、気の抜けない時間が続いた。

 

半蔵や案内役の働きがなければ、どこで道を誤っていたか分からない。

 

途中、穴山信君が一行から離れたという知らせが入った。

 

信君は別の道を選び、後から合流するつもりらしい。

 

「……分かった。こちらの行く先を知らせてくれ」

 

俺はそう命じた。

 

だが、信君は合流しなかった。

 

後になって、道中で討たれたと知ることになる。

 

つい数か月前、武田家を離れて俺たちに従った男だった。

 

甲斐へも共に兵を進めた。

 

その信君が、こんなところで命を落とすとは。

 

戦場でもない道端で、誰が誰を殺すか分からない。

 

俺は周囲を見回した。

 

この一行の中からも、誰かがいなくなるかもしれない。

 

そう考えると、歩いている家臣たちの顔を、一人ずつ確かめずにはいられなかった。

 

◇

 

伊勢へ抜けたときには、足が棒のようになっていた。

 

「殿! 船の支度が整っております!」

 

その知らせを聞いたとき、膝から崩れ落ちそうになった。

 

「……船か」

 

「はっ。海を渡れば、三河にございます!」

 

俺は港へ向かった。

 

潮の匂いがする。

 

波の音が聞こえる。

 

それを聞いて、胸元のかぐやが小さく動いた。

 

「……海?」

 

「ああ。海だよ」

 

人目がないのを確かめ、小声で答えた。

 

「ここから船に乗るんだ」

 

「やった!」

 

かぐやは嬉しそうだった。

 

「久しぶりに海に来た!」

 

「遊びに来たわけじゃないけどな」

 

「あっ、そっか!」

 

こんな状況でも、こいつは海が好きらしい。

 

俺は少し笑った。

 

◇

 

船が岸を離れた。

 

風が強く、時折、水しぶきがかかる。

 

山道を歩き続けた後だけに、座っていられるのはありがたかった。

 

しかし、船が揺れるたびに文箱のことが気になった。

 

「……かぐや、大丈夫か?」

 

「うん!」

 

「揺れてない?」

 

「すっごく揺れてる!」

 

「……ごめん」

 

「でも平気!」

 

俺は文箱を両手で支えた。

 

波の向こうには、三河がある。

 

もう少しだ。

 

もう少しで帰れる。

 

そう思うと、急に疲れが押し寄せてきた。

 

俺は目を閉じた。

 

安土で見た信長の顔が浮かぶ。

 

『あの二人を生かしたことを後悔せぬようにな』

 

最後に交わした会話だった。

 

あのとき、俺は本能寺のことを言いかけた。

 

結局、言えなかった。

 

……これでよかったのか。

 

そんなことは、今さら誰にも分からない。

 

信長が生きていたなら、この先どうなったのだろう。

 

考えたところで、答えは出なかった。

 

「……信長殿」

 

小さく呟いた。

 

かぐやは何も言わなかった。

 

波の音だけが続いた。

 

◇

 

六月四日。

 

俺たちは、ようやく三河へ帰り着いた。

 

岡崎へ入ると、家臣たちが慌ただしく迎えに出てきた。

 

「殿! よくぞご無事で!」

 

「……ああ。皆にも心配をかけたな」

 

「ご無事で何よりにございます!」

 

久しぶりに、安心して息ができた。

 

しかし、休んでいる暇はない。

 

「浜松へ知らせを送れ。俺が無事に帰ったことを、瀬名にも伝えてくれ」

 

「はっ!」

 

「それから、旧武田領の様子を確かめたい。織田方の諸将がどう動くかによっては、甲斐や信濃も乱れるぞ」

 

忠次が頷いた。

 

「承知いたしました」

 

信長が死んだ。

 

その影響は、これから各地へ広がっていく。

 

俺たちも、ただ帰ってきたからといって安心してはいられない。

 

それでも、今は少し休ませてほしかった。

 

◇

 

人払いを済ませた部屋で、俺は文箱を開けた。

 

「かぐや。もう出てきていいぞ」

 

「はーい!」

 

元気な声が返ってくる。

 

小さな身体が、いつものように顔を出した。

 

「竹千代! 帰ってきたね!」

 

「ああ。やっとな」

 

「お疲れさま!」

 

「お前もお疲れ」

 

俺はその場に寝転がった。

 

身体が痛い。

 

足も、腰も、背中も。

 

しばらく動きたくなかった。

 

「……竹千代?」

 

「何?」

 

「お腹空いた?」

 

「……めちゃくちゃ空いた」

 

「じゃあ、ご飯食べよう!」

 

「その前に、少し寝たいかな」

 

「えー!」

 

かぐやが不満そうに声を上げた。

 

「せっかく帰ってきたのに!」

 

「帰ってきたから寝られるんだよ」

 

「……あっ、そっか!」

 

納得するのが早い。

 

俺は笑った。

 

「そうだ、かぐや」

 

「何?」

 

「帰ったら、海に行こうって言ってたよな」

 

「うん!」

 

「落ち着いたら、連れていくよ」

 

「本当!?」

 

「ああ。約束する」

 

「やったー!」

 

かぐやは嬉しそうに身体を揺らした。

 

俺は天井を見上げた。

 

今後、甲斐や信濃では大きな動きが起きるだろう。

 

織田信長が死んだことで、今までの勢力関係も変わる。

 

徳川としても、これからどう動くか考えなければならない。

 

だが、今は少しだけ眠りたかった。

 

「……じゃあ、おやすみ」

 

「うん! おやすみ、竹千代!」

 

俺が目を閉じかけた、そのとき。

 

廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。

 

「殿! 浜松より早馬が到着いたしました!」

 

……早速、仕事か。

 

俺は起き上がった。

 

「何事だ?」

 

「信長公のご最期を受け、遠江・駿河の守りについて、急ぎご判断を仰ぎたいとのことにございます!」

 

「……分かった。すぐに通してくれ」

 

家臣が下がる。

 

俺は額を押さえた。

 

眠い。

 

足も痛い。

 

できることなら、今すぐ布団に潜り込みたい。

 

しかし、早馬を走らせるほどの急報である。聞かないわけにはいかなかった。

 

「竹千代、またお仕事?」

 

かぐやが尋ねた。

 

「うん。ちょっと大事な話みたいだ」

 

「えー! 帰ってきたばっかりなのに!」

 

「俺もそう思うよ」

 

苦笑しながら立ち上がった。

 

「でも、これだけは聞いておかないと」

 

「……そっかぁ」

 

かぐやは残念そうだったが、すぐに声を弾ませた。

 

「じゃあ、早く終わらせてこよう!」

 

「そうだな」

 

「終わったら、ちゃんと寝るんだよ!」

 

「分かったよ」

 

◇

 

使者は、随分と急いできたらしい。

 

衣服は乱れ、額には汗が滲んでいた。

 

「殿。浜松より参りました!」

 

「ご苦労。まず水を飲め。それから話してくれ」

 

「はっ!」

 

使者が息を整えるのを待ち、報告を聞いた。

 

信長の死は、すでに遠江や駿河にも伝わり始めているという。

 

特に駿河では、旧武田家臣たちの動向を警戒する必要があった。

 

武田が滅んでから、まだ三か月ほどしか経っていない。

 

領内の支配が完全に落ち着いたとは、とても言えなかった。

 

「駿河の諸将からも、今後の備えについて問い合わせが相次いでおります」

 

「……そうか」

 

俺は絵図を広げた。

 

三河、遠江、駿河。

 

さらにその先には、甲斐と信濃がある。

 

武田が滅んだ後、これらの土地には織田の家臣たちが入っていた。

 

しかし、信長が死んだ今、その支配がどうなるかは分からない。

 

場合によっては、各地で争いが起きるだろう。

 

「まず、遠江と駿河の城々には守りを固めるよう伝えよ。特に甲斐へ通じる道には物見を増やす」

 

「はっ!」

 

「ただし、勝手に兵を動かすことは禁じる。国境で小競り合いでも起こせば、余計に話がややこしくなる」

 

使者が頷いた。

 

俺は続けた。

 

「それから、旧武田家臣たちの動きも探らせよう。今のところ従っておる者まで、むやみに疑って騒ぎを大きくする必要はない」

 

「承知いたしました!」

 

「浜松の留守居には、俺が無事に帰ったことを伝えてくれ。詳しい話は、改めて書状を送る」

 

俺は筆を取った。

 

必要な指示を書き留め、使者に持たせる。

 

その間にも、次々と考えるべきことが浮かんできた。

 

甲斐の織田方はどう動くのか。

 

信濃の国衆は誰に従うのか。

 

そして、明智光秀は今後どうするつもりなのか。

 

本能寺の変が起きることは知っていた。

 

しかし、その後に何がどのような順序で起きたのか、俺の記憶は相変わらず曖昧だった。

 

……やれやれ。

 

せっかく三国を治めるようになったと思ったら、今度はこれか。

 

「殿。ほかにご指示はございますか?」

 

使者に尋ねられ、俺は顔を上げた。

 

「ああ。国境で何か動きがあれば、昼夜を問わず知らせよ。ただし、何も起きておらぬうちから兵を動かしてはならぬ。そこだけは徹底させてくれ」

 

「はっ!」

 

使者が下がった。

 

俺は絵図を畳んだ。

 

これで、今すぐ必要な指示は出せたはずだ。

 

もっと細かく決めるべきこともあるが、それは各地からの報告が揃ってからでいい。

 

今ここで考え続けても、分からないものは分からない。

 

「……よし」

 

俺は立ち上がった。

 

今度こそ、休もう。

 

◇

 

部屋へ戻ると、かぐやが文箱の縁から顔を出した。

 

「竹千代! 終わった!?」

 

「ああ。ひとまずな」

 

「お疲れさまー!」

 

「ありがとう」

 

俺はその場に腰を下ろした。

 

すると、かぐやが尋ねてきた。

 

「じゃあ、もう寝られる?」

 

「うん。今のところ、急ぎの仕事は片づいたよ」

 

「やった!」

 

随分と嬉しそうである。

 

「……何でお前がそんなに喜ぶんだよ」

 

「だって、竹千代、ずっと寝てないじゃん!」

 

「まあ、そうだけど」

 

「伊賀の山道でも、あんまり休めなかったでしょ?」

 

「よく覚えてるな」

 

「そりゃ覚えてるよ!」

 

かぐやは得意げに身体を揺らした。

 

「竹千代、ずっと疲れたーって言ってたもん!」

 

「……そんなに言ってた?」

 

「言ってた!」

 

それは少々恥ずかしい。

 

俺は笑いながら横になった。

 

「じゃあ、今度こそ寝るよ」

 

「うん! おやすみ!」

 

「おやすみ、かぐや」

 

目を閉じた。

 

しばらくして、文箱の方から小さな声が聞こえてきた。

 

「……竹千代?」

 

「……何?」

 

「海に行く約束、忘れてないよね?」

 

俺は目を閉じたまま答えた。

 

「忘れてないよ」

 

「本当?」

 

「うん。落ち着いたら、一緒に行こう」

 

「やった!」

 

……元気だなあ。

 

俺は小さく笑った。

 

信長が死んだ。

 

これから、織田家も旧武田領も大きく揺れることになるだろう。

 

徳川としても、ただ様子を見ているわけにはいかない。

 

しかし、今はまだ分からないことが多すぎる。

 

まずは各地からの知らせを集め、それから動こう。

 

そう考えているうちに、身体の力が抜けていった。

 

「……おやすみ、竹千代」

 

かぐやの声が聞こえた。

 

今度は返事をする前に、眠りに落ちていた。

 

こうして、俺たちの伊賀越えは終わった。

 

だが、織田信長の死によって始まった新たな争いは、これからだった。

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