徳川家康になったら喋るウミウシと出会った 作:しそ
六月五日。
目を覚ましたとき、最初に感じたのは足の裏の痛みだった。
布団の中で身体を伸ばそうとして、思わず顔をしかめる。ふくらはぎも腰も痛い。伊賀の山道を歩き通した疲れが、一晩寝たくらいで取れるはずもなかった。しかも、昨夜は浜松から届いた報告を確かめてから寝たので、眠れた時間もたいして長くない。
本当なら、あと半日くらい布団にくるまっていたいところである。
しかし、そういうわけにはいかない。
織田信長が死んだ。
この事実が意味するところを、俺はまだ十分に把握できていなかった。
「……殿。お目覚めでございますか」
襖の向こうから声がした。
「起きておる。何かあったか?」
「酒井様がお見えにございます。甲斐のことで、ご相談があると」
俺は天井を見上げた。
……もう来たか。
「分かった。支度をする」
返事をしてから、しばらく動けなかった。
別に忠次が悪いわけではない。あいつだって昨日は俺と一緒に山を越えてきたのだ。疲れていないはずがない。
それでも働かなければならないのだから、戦国大名という仕事はなかなか過酷である。
「竹千代ー。起きた?」
文箱から、聞き慣れた声がした。
「うん。今起きたところ」
「足、まだ痛い?」
「痛いよ。できれば今日は歩きたくない」
「じゃあ、抱っこしてもらえば?」
「……誰に?」
「忠次!」
思わず笑ってしまった。
「それはさすがに嫌だなあ」
「えー、何で? 忠次って力持ちそうじゃん!」
「そういう問題じゃないんだよ」
忠次に抱えられて城内を移動する自分の姿を想像した。
……駄目だ。
家臣たちがどんな顔をすればいいのか分からなくなる。
「とにかく、ちょっと仕事してくる」
「うん! いってらっしゃい!」
かぐやの声に送り出され、俺は重い身体を起こした。
◇
「殿。甲斐が騒がしくなっております」
忠次の第一声は、それだった。
広げられた絵図には、三河、遠江、駿河、そして甲斐と信濃が描かれている。
その甲斐を指しながら、忠次は続けた。
「信長公のご最期が知れ渡れば、武田の旧臣たちが動き出すことも考えられます。河尻秀隆殿が甲斐を預かっておりますが、領内はまだ落ち着いておりませぬ」
「……そうであろうな」
何しろ、武田家が滅んだのは三か月ほど前だ。
昨日まで武田に仕えていた武士たちが、今日から何の不満もなく織田に従うはずがない。ましてや、その織田家の当主が突然死んだのである。
俺は絵図に目を落とした。
駿河と甲斐の境は、すぐそこだ。
ここで甲斐が乱れれば、駿河にも影響が出る。
「北条はどう動いておる?」
「まだ確かな知らせはございませぬ。ただ、黙って見ておるとも思えませぬ」
小田原の北条家。
あちらにしてみれば、武田家の滅亡によって織田の勢力が関東近くまで伸びてきたところで、その信長が死んだのである。
これほどの好機を見逃すだろうか。
おまけに、北には上杉もいる。
俺が知っている歴史では、確かこのあたりで甲斐や信濃を巡る争いが起きたはずだった。
誰と誰が戦って、どの城を取ったのか。
そこまでは覚えていない。
……肝心なところが、相変わらず役に立たないな。
「殿。いかがいたしましょう」
忠次が尋ねてきた。
俺は少し考えた。
本能寺の変が起きる前から、帰り道の備えはしていた。そのおかげで、どうにか三河へ帰ってこられた。
だが、今回の問題はそう簡単ではない。
兵を動かせば、他国との戦になる。
動かなければ、甲斐を他家に奪われるかもしれない。
「まず、甲斐の様子を確かめたい。武田の旧臣にも、我らに通じる者がおるだろう」
「はっ」
「折井次昌や米倉忠継にも働いてもらおう。甲斐の土地や人のつながりを知っておる者の力が必要だ」
武田家が滅んだ後、徳川に仕えるようになった者たちである。
戦のときには敵だった。
だが、今では頼るべき家臣になっている。
「それから、岡部正綱を呼んでくれ。甲斐へ入る道と、現地の者との交渉について相談したい」
「承知いたしました」
忠次が頭を下げた。
俺は絵図を指で押さえた。
甲斐を取れれば、徳川の領地は大きく広がる。
だが、今はまだ織田家の支配する土地だ。
信長が死んだからといって、勝手に自分のものにしていいわけではない。
それに、河尻秀隆は信長から甲斐を任された武将である。まずは彼がどう動くのか、確かめる必要があった。
「……忠次」
「はっ」
「河尻殿にも使者を送ろう。必要であれば兵を出して協力する、と伝えてくれ」
「織田方をお助けするのでございますな」
「今すぐ敵に回る理由はない。それに、甲斐で戦が起きれば困るのは我らも同じだ」
忠次が頷いた。
「では、早速手配いたしまする」
「ああ。頼む」
◇
昼過ぎになって、ようやくひと息つけた。
部屋へ戻ると、かぐやが文箱から身体を乗り出していた。
「竹千代! おかえり!」
「ただいま」
「今日は長かったねー!」
「まあ、いろいろあってさ」
俺は座り込み、傍らに置かれていた水を飲んだ。
かぐやがこちらを覗き込む。
「何のお話だったの?」
「甲斐のこと。信長殿が死んだから、あっちの国も大変なことになりそうなんだ」
「甲斐って、この前行ったところ?」
「そう。武田勝頼と戦ったところだよ」
「あー! 山がいっぱいあるところ!」
「まあ、山は多いな」
かぐやは少し考えた。
「じゃあ、また戦争するの?」
「……そうなるかもしれない」
「そっかぁ」
珍しく声が小さくなった。
しかし、次の瞬間には顔を上げた。
「ねえ、竹千代。武田の人たちって、今は竹千代の仲間なんでしょ?」
「全員じゃないけどね。うちに仕えてくれている人もいるよ」
「じゃあ、前は敵だったのに、今は仲間なんだ!」
「ああ」
「忙しいねえ」
何とも率直な感想だった。
俺は苦笑した。
「そうだな。俺も時々、誰が味方だったか分からなくなるよ」
「間違えたら大変じゃん!」
「本当にね」
かぐやが笑った。
俺もつられて笑ったが、少しして絵図を取り出した。
「……またお仕事?」
「うん。ちょっとだけ」
「むー。竹千代、帰ってきてからずっと働いてる!」
「俺も休みたいんだけどさ」
「海に行く約束、忘れてない?」
「忘れてないって」
すると、かぐやは絵図の上を這い始めた。
「じゃあ、海はどこ?」
「……そこ、駿河」
「えっ、ここ?」
「うん。その下が海だよ」
「じゃあ、ここで遊ぼ!」
かぐやは、駿河湾を描いたあたりにちょこんと乗った。
俺はその姿を眺めた。
何だか、妙に可笑しい。
甲斐と信濃の争いを考えていたはずなのに、絵図の上では小さなウミウシが海水浴の場所を決めている。
「……分かったよ。落ち着いたらな」
「約束!」
「はいはい」
かぐやは満足そうに笑った。
俺は絵図を畳もうとして、少しだけ手を止めた。
この小さな生き物は、何千年も生きてきた。
国ができたり、滅んだりするところも、きっと何度も見てきたのだろう。
それでも、こいつは新しい場所へ行くことを楽しみにしている。
……俺なんか、ちょっと領地が増えただけで、もう面倒になっているというのに。
「竹千代?」
「ん?」
「早く畳んでよ。私、降りられないじゃん!」
「……ああ、ごめん」
絵図の端で、かぐやが困っていた。
結局、俺は笑いながら手を差し出した。
◇
それから数日間、各地への使者が行き来した。
甲斐へ入る者。
信濃の情勢を探る者。
駿河の守りを確かめる者。
当然、費用も人手もかかる。
つい先日まで武田との戦をしていたというのに、今度はその土地を治めるための仕事が始まっているのだから、たまったものではない。
そんな中、俺は信康にも書状を送った。
今の信康に兵を預けることはできない。
だが、だからといって、何も任せられないわけではなかった。
俺がこれから甲斐へ兵を出すなら、三河や遠江から兵糧や武具を運ばなければならない。
その手配について、信康に一部を任せようと思ったのである。
書状を書き終えると、俺は少し迷った。
以前の俺なら、細かな指示を何枚も添えていたはずだ。
だが、信康はそれを嫌がっていた。
俺の言うことを聞くだけでは、いつまでも一人前にはなれない。
「……まあ、やらせてみるか」
必要な数量と期限だけを記し、具体的な進め方は信康に任せることにした。
もし問題が起きれば、そのとき相談すればいい。
……などと考えている時点で、まだまだ過保護なのかもしれないが。
◇
六月も半ばを過ぎた頃だった。
「殿! 京より知らせにございます!」
家臣が駆け込んできた。
俺は筆を置いた。
「何事だ?」
「羽柴筑前守秀吉殿が、明智光秀を破ったとのことにございます!」
「……秀吉殿が?」
「はっ! 山崎にて明智勢と戦い、勝利した由にございます!」
俺は思わず息を吐いた。
羽柴秀吉。
後に天下を取る男である。
そのことだけは、俺もよく覚えていた。
信長が死んだ後、秀吉が勢力を伸ばし、やがて天下人になる。
そういう歴史だったはずだ。
……もう動いたのか。
本能寺の変から、まだ半月も経っていない。
俺が伊賀の山道を歩き、三河へ帰ってくるのに苦労していた間に、秀吉は遠くから軍勢を引き返し、光秀を破ったことになる。
何という行動の早さだろう。
「殿?」
家臣がこちらを見ていた。
「ああ、ご苦労。引き続き京の様子を調べてくれ。織田家の諸将がどう動くかも知りたい」
「はっ!」
家臣が下がった。
俺はしばらく考え込んだ。
秀吉が天下を取る。
俺の記憶が正しければ、そうなる。
だが、今の徳川がどう関わっていくべきなのかまでは分からなかった。
少なくとも、今の時点で秀吉と戦う理由はない。
……まあ、今は甲斐の方が先か。
そう考え、再び書付へ目を落とした。
その直後だった。
「殿! 甲斐より急報にございます!」
今度は別の家臣が駆け込んできた。
顔色が悪い。
「……何があった?」
「甲斐にて一揆が起こり、河尻秀隆殿が討たれたとのこと!」
俺は立ち上がった。
「……河尻殿が?」
「はっ! 現地は大いに乱れております!」
さらに、上野からも知らせが届き始めていた。
北条勢が動いたという。
織田方の滝川一益が、北条軍と戦っているらしい。
俺は絵図を広げた。
甲斐。
信濃。
上野。
信長が死んでから、まだひと月も経っていない。
それなのに、東国の情勢はもう大きく変わり始めていた。
「……忠次を呼んでくれ」
「はっ!」
家臣が走り去る。
俺は絵図を押さえた。
武田家が滅んで、ようやく戦が終わったと思っていた。
ところが、今度はその武田家が残した土地を巡って、新しい戦が始まろうとしている。
しかも、相手は北条だけではない。
上杉もいる。
信濃には、それぞれの土地を守ろうとする国衆たちがいる。
そして西では、羽柴秀吉が明智光秀を破った。
……忙しくなりそうだ。
いや、もう十分忙しいんだけど。
廊下から忠次の足音が聞こえてきた。
俺は絵図から目を離さなかった。
今度は誰かが決めてくれるのを待つわけにはいかない。
甲斐へ兵を進めるか。
進めるなら、どの道を使い、誰を味方につけるか。
そして、北条と戦うことになった場合、どこまで戦うつもりなのか。
決めなければならないことは、山ほどあった。
「殿。お呼びにございますか」
忠次が入ってきた。
「ああ。甲斐のことだ」
俺は絵図の上に手を置いた。
「……軍勢を動かす準備を始めよう」
◇
「甲斐へ兵を進めるにあたり、一つ決めておきたいことがある」
軍議に集まった家臣たちを見回した。
忠次、数正、忠勝、そして今回の出兵に加わる諸将。皆、北条の動向を気にしているのだろう。絵図の上には、甲斐から信濃にかけて幾つもの駒が置かれていた。
「甲斐へ入った後、土地を荒らすことは許さぬ。降った者の所領は、働きとこれまでの経緯を確かめたうえで安堵する。勝手に村から兵糧を奪う者は、我らの兵であっても処罰する」
家臣たちが頷く。
「ただし」
俺は絵図の上に置かれた、北条方を示す駒を指で押さえた。
「こちらの使者を斬った者、降伏を装って兵を引き入れた者まで許すつもりはない。敵に回るなら、それ相応の覚悟をしてもらう」
忠勝が口元を引き締めた。
「では、敵が兵を挙げれば」
「叩く。二度と同じ場所で兵を挙げられぬよう、城も道も押さえる。向こうが降るつもりなら受け入れるが、刀を抜いたままでは話にならぬ」
言い終えると、部屋が静かになった。
俺も少し前までは、戦などできれば避けたいと思っていた。
いや、今だってそうだ。
戦えば人が死ぬ。兵も減るし、金もかかる。田畑が荒れれば、その年だけでなく翌年の収穫にも響く。いいことなど、そう多くはない。
だが、必要なときに躊躇すれば、その分だけ被害が増えることも知っていた。
三方ヶ原から、十年。
俺だって、ずっと同じ場所に立ち止まっていたわけではない。
「それから、甲斐の者へ出す書状を増やす」
俺は数正へ向き直った。
「旧武田家臣の中には、北条へ通じるか迷っておる者もいるはずだ。所領の安堵だけでなく、徳川に仕えた後の役目についても示してやれ。武田の家中でどのような働きをしていたのか、分かる範囲で調べたい」
「……随分と手厚くなさいますな」
「使える者を放っておく理由がないだろう。武田を支えてきた連中だぞ」
忠次が苦笑した。
「敵としては、散々苦しめられましたからな」
「まったくだ。だからこそ、今度はこっちに働いてもらう」
俺は筆を手に取った。
「ただし、こちらへ来ると約束しただけで、城も兵も好きにさせるわけではない。人質、起請文、所領の確認。必要なものはきっちり取る」
数正が頷いた。
「では、先に降った者と最後まで抗った者で、待遇に差をつけまするか」
「無論だ。早く決めた者ほど得をするようにしろ。迷っている間に隣の者がこちらにつけば、自分の立場が悪くなると分かるようにな」
俺が言うと、忠勝が小さく笑った。
「殿も、なかなかお人が悪い」
「平八郎。褒め言葉として受け取っておくぞ」
「褒めております」
それはどうも。
俺は広げた書状に目を落とした。
敵を一人斬るより、城一つを降らせた方が安く済む。
だが、相手が刀を抜くなら、こちらも容赦はしない。
甲斐にいる者たちには、その両方を知ってもらう必要があった。
◇
七月。
俺は軍勢を率いて甲斐へ入った。
山々に囲まれた土地は、思っていた以上に落ち着きを失っていた。主を失った城では、誰の命令に従えばよいのか分からず、国衆同士が勝手に争っているところもある。織田方の役人が逃げた後、蔵を開いて兵糧を奪おうとした者まで出たという。
「殿。こちらの者たちは、徳川に従うと申しております」
土地の武士を引き合わせた家臣が言った。
俺は相手の顔を見た。
まだ若い。
しかし、甲冑には古い傷があり、随分と疲れた顔をしていた。
「名は?」
男は名乗り、深く頭を下げた。
「……武田が滅び、織田に従いました。その織田までこの有様。もはや、我らには何を頼ればよいのか分かりませぬ」
「家を残したいか」
男が顔を上げた。
「……はっ」
「ならば、俺に仕えよ。土地も家臣も、これまでどおりとは約束できぬ。だが、働く場所は与える。戦場で役に立つなら相応に取り立てるし、城を守る方が得意なら、それを任せる」
「……ありがたき幸せ」
「ただし、今日から徳川の家臣だ。明日、北条が来たからといって旗を替えるなよ」
俺が言うと、男は強く頷いた。
「決して!」
「その言葉は覚えておこう」
俺は傍らの家臣へ目を向けた。
「起請文を取れ。人質のことも話し合っておけ。それと、あの者の家中に武田の頃からの争いがないか、別に調べさせろ」
「はっ」
若い武士が退いた後、忠次が近づいてきた。
「殿。あの者をお疑いで?」
「今は信じておるよ」
「では、なぜ」
「明日も信じられるようにしておくためだ」
忠次は少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました」
信用と無防備は違う。
信康の一件以来、嫌というほど思い知らされたことだった。
◇
甲府へ入ってから間もなく、厄介な報告が届いた。
「殿。北条勢が信濃へ進んでおります」
「どの程度だ?」
「数万の軍勢を率いているとの話にございます。上杉方とも対陣しておる由」
俺は絵図を睨んだ。
北条氏直。
小田原の北条家を率いる、若い当主である。
こちらが旧武田領へ手を伸ばしたのと同じように、北条も領土を広げようとしている。しかも、あちらの動きは早い。上野では滝川一益が敗れ、信濃でも北条方へなびく者が出ているという。
当然だろう。
北条だって、この機会を逃すほど甘くない。
「……このまま甲斐まで来るな」
「その恐れがございます」
「ならば迎える支度をしよう。勝頼が築いた新府の跡を使いたい。使える郭を確かめ、柵と堀を整えさせよ」
俺が命じると、忠次が頷いた。
「御意」
「それから、北条へ通じる道を調べよ。特に大軍が通れる道と、兵糧を運べる道だ。山の中で何万もの兵を動かすなら、食わせるだけでも一苦労だろう」
敵の数は、こちらより多い。
正面からぶつかれば、当然こちらが不利になる。
しかし、大軍というものは便利なばかりではない。
人数が多ければ、それだけ食糧が必要になる。馬も餌を食うし、兵が増えれば道も混雑する。城を攻めるにも、周囲を囲むだけで相当な兵を割かなければならない。
何より、長く戦えば金がかかる。
……こちらだって、金が余っているわけではないけど。
「殿。北条と戦うおつもりで?」
忠勝が尋ねてきた。
「向こうが甲斐を諦めるなら、戦わずに済む」
「諦めぬ場合は?」
「ここまで来て、ただで帰してやる必要はないな」
俺が答えると、忠勝は嬉しそうに笑った。
「そのお言葉を、お待ちしておりました」
……こいつ、本当に戦が好きだな。
もっとも、今は頼もしい。
「平八郎。敵が進んできたら、前に出てもらうぞ」
「お任せくだされ」
「ただし、勝手に突っ込むなよ。お前が討たれたら、俺が困る」
「心得ております」
本当に分かっているのだろうか。
少し心配になったが、それ以上は言わなかった。
◇
八月。
北条氏直の軍勢が甲斐へ入り、若神子に陣を構えた。
俺も新府へ兵を進める。
双方が陣を構え、睨み合うことになった。
北条勢の方が、はるかに多い。
報告によって数は違うが、少なくとも簡単に打ち破れる相手ではなかった。
「殿。北条方より使者が参っております」
「通せ」
使者は丁寧に礼をした。
しかし、持ってきた話は随分と強気だった。
甲斐から手を引け。
信濃への進出も控えよ。
そうすれば、徳川との争いは避けられるという。
俺は最後まで黙って聞いた。
それから尋ねた。
「……それは、氏直殿のお考えか?」
「はっ」
「甲斐は、武田家が滅んだ後に織田家が治めていた土地だ。それを北条が取ろうとするのは、どういう理屈によるものかな」
使者が言葉を探した。
「……信長公亡き今、甲斐の支配も改めて定めねばならぬかと」
「なるほど。では、徳川が治めても構わぬわけだ」
使者が顔を上げた。
「それは――」
「俺は信長殿から駿河をいただいた。今は、その駿河を守るために甲斐へ来ておる。甲斐の者たちにも、すでに徳川へ従うと誓った者がおる」
俺は使者を見た。
「その者たちを見捨てて帰れと?」
「……」
「北条が大軍を率いておることは承知している。だが、数が多いからといって、こちらが言うことを聞くと思われては困るな」
使者の表情が強張った。
俺は声を和らげた。
「もっとも、無用な戦を望んでいるわけではない。氏直殿が甲斐から退かれるなら、こちらも追い討ちをかけるつもりはないとお伝えしてくれ」
使者は深く頭を下げた。
その背中を見送ってから、俺は忠次へ向き直った。
「物見を増やせ。使者が帰った後、北条の陣に動きがないか確かめたい」
「御意」
「それから、こちらが和議を望んでいるという噂は流して構わぬ」
忠次が眉を上げた。
「よろしいので?」
「ああ。北条が俺を臆病者と思うなら、都合がいい」
俺は絵図の端を押さえた。
「ただし、夜襲への備えは怠るな。敵がこちらを侮って兵を出してきたら、痛い目を見せてやろう」
◇
北条は、正面から攻めてこなかった。
代わりに、別働隊を動かし始めた。
御坂峠を越え、甲府盆地へ入ろうとしているという。
俺は報告を聞き、すぐに鳥居元忠を呼んだ。
「元忠。敵の動きは確かか?」
「はっ。北条勢が峠を下り始めております」
「数は?」
元忠が答えた。
こちらで迎え撃つ兵より、はるかに多い。
忠次が険しい顔をした。
「殿。新府への備えもございます。あちらへ大軍を割けば、若神子の北条本隊が動くやもしれませぬ」
「分かっている」
俺は絵図に目を落とした。
北条本隊を睨みながら、背後から来る別働隊も防がなければならない。
いちばん厄介な形だった。
だが、敵も山道を越えてきたばかりだ。
大軍が一度に広い場所へ出られるわけではない。
「元忠」
「はっ」
「敵が隊列を整える前に叩けるか?」
元忠は少し考えた。
「……兵を急がせれば」
「ならば、やれ」
俺は顔を上げた。
「こちらから仕掛けろ。向こうが兵を揃えるのを待つ必要はない。先に進んできた者を潰し、後続を峠へ押し戻せ」
「御意!」
「ただし、深追いするな。峠の先で伏兵に囲まれては何にもならぬ」
元忠が頷いた。
俺は続けた。
「敵が崩れたなら、その機を逃すな。旗を倒し、将を狙え。北条には、こちらが少数だからといって簡単に踏み潰せる相手ではないと教えてやれ」
元忠は力強く頭を下げた。
「必ずや!」
◇
黒駒で戦が起きた。
知らせが届いたのは、元忠を送り出して間もなくのことだった。
「殿! 鳥居勢、北条の先陣を押し返しております!」
「敵の後続は?」
「まだ峠から下りております!」
俺は立ち上がった。
「ならば好機だ。元忠に伝えよ。敵が立ち直る前に押し込め!」
「はっ!」
次の知らせが届くまでが、やけに長かった。
俺は新府から動けない。
若神子には、北条の本隊がいる。
ここで俺まで動けば、何が起こるか分からなかった。
ようやく報告が入った。
「殿! 鳥居勢、勝ちました!」
「……本当か!」
「はっ! 北条方は崩れ、峠の方へ退いております!」
俺は思わず拳を握った。
「よし!」
声が大きくなった。
近くにいた家臣たちが驚いてこちらを見る。
構わなかった。
「よくやった! 元忠には戦功を賞すると伝えろ。それから、敵が退いた道を確かめよ。使える道があればこちらが押さえる!」
「はっ!」
「逃げ遅れた敵兵を追わせるな。今は峠と道を確保する方が先だ」
勝った。
北条の大軍を相手に、こちらが一撃を加えた。
腹の底から、熱いものが込み上げてきた。
今すぐ馬に乗って、敵の陣を見に行きたいほどだった。
三方ヶ原で武田に追われたときの俺なら、こんなことは考えなかっただろう。
あの頃は、自分が死なずに済むことばかり考えていた。
今だって死にたくはない。
だが、敵が崩れたと聞けば、そこへもう一撃加えたくなる。
相手が退くなら追い込みたい。
逃げ道を塞げるなら塞ぎたい。
……何とも、嫌な性格になったものだ。
しかし、俺は徳川家康なのだ。
今さら戦を知らない顔で生きていくわけにもいかなかった。
◇
勝利の知らせを受けた翌日、俺は元忠から詳しい報告を聞いた。
味方にも死傷者が出ていた。
当然だった。
こちらが勝ったとしても、敵が抵抗しなかったわけではない。
「……元忠。よく働いてくれた」
「ありがたき幸せ」
「討ち取った敵については、名前の分かる者を記しておけ。遺骸の扱いも、できる限り手配したい」
「はっ」
「それから、捕らえた者のうち、降伏して武具を捨てた者まで斬る必要はない。使える者は調べてみろ」
忠次が横から尋ねた。
「北条方へ戻すのでございますか?」
「戻す者もいる」
俺は答えた。
「今回の戦で何を見たか、向こうで話してもらえばよい。徳川は数で劣っていても戦える。それを北条の家中に広めてもらおう」
忠次が、わずかに笑った。
「……なるほど」
「もちろん、こちらの兵の数や陣の様子まで教えてやる必要はないぞ。戻す相手は選べ」
「承知しております」
俺は頷いた。
北条に勝つには、敵兵を斬るだけでは足りない。
こちらと戦えば損をする。
だが、和睦すれば得るものもある。
そう思わせる必要があった。
◇
その後も、甲斐を巡る争いは続いた。
北条と正面からぶつかるより、相手の補給路を脅かし、こちらへ味方する国衆を増やすことに力を注いだ。
信濃でも、武田の旧臣たちがそれぞれの思惑で動いていた。
北条に従っていた者が、徳川へ使者を送ってくることもあった。
「殿。真田昌幸より、話が持ち込まれております」
ある日、忠次がそう報告してきた。
「真田か」
武田家に仕えていた武将である。
なかなか油断のならない男だと聞いていた。
「北条から離れ、我らに従いたいとのことにございます」
俺は笑った。
「忙しい男だな」
「いかがいたしましょう」
「会おう。向こうの条件も聞きたい」
「信用なさるので?」
「信用するかどうかは、話してから決める」
俺は少し考え、付け加えた。
「ただし、真田が押さえている城と道は、よく調べておけ。味方になれば頼もしいが、敵になれば厄介だからな」
忠次が頷いた。
「御意」
戦国時代とは、つくづく面倒なものである。
昨日の敵が今日の味方になる。
そして今日の味方が、明日も味方とは限らない。
だから、味方にしておく理由を与える。
恩も、土地も、仕事も。
それで足りなければ、敵に回るより味方でいた方がましだと思わせる。
何とも世知辛い。
だが、そうやって人を集めなければ、国は治まらなかった。
◇
十月。
北条との和議が、ようやくまとまり始めた。
俺たちが甲斐を押さえ、北条は上野方面の領有を認められる。
信濃についても、双方の勢力関係を踏まえ、調整することになった。
さらに、両家の縁を深めるため、婚姻の話まで出てきた。
俺の娘、督を北条氏直へ嫁がせるというのである。
「……婚姻にございますか」
瀬名に話すと、少し考え込んだ。
「北条と争わずに済むなら、それは喜ばしいことにございます」
「ああ」
「ですが、督にもよく話してやってくださいませ」
「分かっておる」
亀を嫁がせたときのことを思い出した。
あのときは、信昌の人柄も知っていたし、奥平家との縁組にも納得していた。
しかし、北条はつい先日まで戦っていた相手である。
そこへ娘を嫁がせるというのだから、親としては複雑だった。
「……殿」
瀬名が声をかけてきた。
「また、難しいお顔をなさっておりますよ」
「……そうか?」
「ええ」
瀬名は小さく笑った。
「亀のときも、そのようなお顔でした」
「……覚えていたか」
「忘れられるものではございません」
俺も笑った。
だが、今度の縁組は、より重い意味を持っていた。
北条と戦えば、さらに多くの兵が死ぬ。
和睦すれば、その犠牲を避けられる。
そのために、娘の婚姻を条件にする。
俺は、そうした話を当たり前のように進めている。
娘が何を思うか、考えないわけではない。
それでも、和議を結ぶことを優先している。
……随分と、戦国大名らしくなったものだ。
◇
天正十一年。
秀吉が柴田勝家を破った。
賤ヶ岳の戦いである。
その後、織田家の中でも羽柴秀吉の力が急速に大きくなっていった。
俺は甲斐と信濃の統治を進めながら、その知らせを聞いていた。
「殿。羽柴筑前守殿の勢いは、留まるところを知りませぬな」
数正が言った。
「そうだな」
「このままでは、織田家の諸将も、筑前守殿に従うこととなりましょう」
「……そうなるだろうな」
俺は書付を閉じた。
秀吉が天下を取る。
そのことは知っている。
しかし、どの順序で誰を従えていったのかまでは分からない。
少なくとも、今の時点で秀吉と戦う理由はない。
甲斐と信濃も、まだ落ち着いたとは言い難かった。
「今は東国のことを固める。甲斐を手に入れたはいいが、すぐ失うようでは話にならぬ」
「御意」
俺は数正へ尋ねた。
「北条との約定について、改めて確かめたい。婚姻の件も含めて、向こうに不満が残っておらぬか調べてくれ」
「承知いたしました」
「それから信濃の国衆についても、所領を巡る争いがないか確認しておきたい。放っておけば、また北条や上杉が出てくる」
数正が頷いた。
秀吉が西で勢力を伸ばしているからといって、俺たちが何もしていないわけではない。
兵を集める。
城を整える。
土地を治め、家臣を増やす。
そして、戦えるだけの金と兵糧を蓄える。
……当たり前のことばかりだ。
ただ、その当たり前を続けるのが、案外難しいのである。
◇
天正十二年。
織田信雄から使者が来た。
信長の次男である。
その信雄が、秀吉との関係を悪化させているという。
「……それで、我らに助力を求めておられるのか」
「はっ」
忠次が頷いた。
俺は腕を組んだ。
信雄を助けるということは、秀吉と戦うということだ。
しかも、秀吉は今や西国で大きな勢力を持っている。
真正面から争えば、徳川だけでは到底太刀打ちできない。
「数正。どう思う?」
数正はしばらく考えた。
「秀吉殿と戦うことになれば、長い戦となりましょう。勝てるかどうかも分かりませぬ」
「……そうだな」
「しかし、信雄様を見捨てれば、今度は秀吉殿が尾張を押さえることになります」
俺は頷いた。
それが問題だった。
尾張を押さえられれば、次は三河である。
秀吉が徳川と争うつもりなら、国境はすぐそこになる。
何もせずに待っていれば、安全というわけではない。
「……信雄様にお伝えしよう」
俺は口を開いた。
「徳川は助力を惜しまぬ、と」
数正が顔を上げた。
「殿」
「ただし、条件がある。信雄様の領内で兵を動かす以上、軍の指揮についてはこちらの意見を聞いていただきたい。こちらが出した兵を、勝手に使われては困る」
「……なるほど」
「それと、尾張の城々の守りを確かめたい。どの城が味方で、どこが秀吉方へ通じているか。曖昧なままでは戦えぬ」
忠次が頷いた。
「では、使者を送りまする」
「ああ。急いでくれ」
俺は絵図へ目を落とした。
正直、気が進まない。
秀吉が天下を取ると知っているのに、その秀吉と戦うのだから。
だが、今の徳川には、戦わなければならない理由がある。
それに。
「……一度くらい、秀吉殿にも痛い目を見てもらおうか」
思わず呟いた。
忠勝が笑った。
「殿。そのお言葉、実によろしゅうございます」
……いや、そんなに嬉しそうにされても困るんだけど。
◇
小牧山へ入った俺は、まず陣地を整えた。
秀吉の軍勢は、こちらより多い。
ならば、こちらから平地へ出て戦う必要はない。
小牧山の地形を利用し、堀を掘り、土塁を築く。
敵が攻めてくれば、こちらが有利な場所で迎え撃つ。
「殿。秀吉方が楽田に陣を構えたとのことにございます」
「そうか」
忠次の報告を聞き、俺は頷いた。
「ならば、こちらも守りを固めよう。敵に攻めさせる」
「攻めてこぬ場合は?」
「そのときは、向こうも困るだろう。大軍を集めて何もできぬのでは、兵糧ばかり減るからな」
忠次が笑った。
「殿らしいお考えにございます」
……そうだろうか。
俺としては、できるだけ損をしたくないだけなのだが。
しかし、敵が動かなければ、こちらも動かない。
いつまでも睨み合っているわけにはいかないが、焦って兵を出す必要もなかった。
「殿。森長可が羽黒に陣を構えたとのこと!」
新たな知らせが届いた。
俺は顔を上げた。
「……羽黒か」
敵が近づいてきた。
しかも、こちらの陣を窺うには、随分と大胆な位置である。
「忠次」
「はっ」
「兵を出せるか?」
「お任せくだされ」
俺は絵図を指した。
「森勢が陣を固める前に叩きたい。康政や康高とも相談し、夜明け前に動けるようにしてくれ」
「御意!」
忠次が立ち上がった。
俺は続けた。
「森長可は勇猛な男と聞く。だが、だからこそ前に出たがるだろう。敵が攻めてくるのを待つ必要はない。こちらから仕掛けて、出鼻を挫け」
忠次の目が鋭くなった。
「承知いたしました」
◇
羽黒で、忠次たちが森長可の軍勢を破った。
報告を聞いた俺は、思わず笑った。
「……やってくれたな!」
「はっ! 敵は退却しております!」
「よし。だが深追いはするな。森勢を退けたなら十分だ」
俺は絵図の上の駒を動かした。
この勝利で、秀吉方も簡単には攻めてこられなくなるだろう。
もっとも、それで戦が終わるわけではない。
秀吉の軍勢は、まだ健在である。
「……さて、次は何をしてくるかな」
俺は小牧山の方へ目を向けた。
◇
四月。
秀吉方が、妙な動きを見せ始めた。
「殿。池田恒興、森長可らの軍勢が、密かに移動しております」
物見からの報告を聞き、俺は顔を上げた。
「どちらへ?」
「南東へ向かっております」
「……三河か?」
俺は絵図を広げた。
秀吉方の別働隊が、こちらの背後を狙っている。
おそらく、岡崎を目指しているのだろう。
俺の留守に三河を荒らし、こちらを動揺させるつもりか。
「……なるほど」
思わず笑みが浮かんだ。
敵が動いた。
それも、大軍を分けている。
「忠勝。康政を呼べ」
「はっ!」
「数正にも知らせよ。こちらも兵を動かす」
忠次が尋ねた。
「殿。小牧山の守りはいかがなさいます?」
「忠次に任せる。秀吉の本隊が動いたら、ここで食い止めてくれ」
「承知いたしました」
俺は立ち上がった。
「向こうが三河へ向かうなら、その背を追う。敵がこちらの領地へ入る前に、別働隊を叩きたい」
「……殿」
数正が少し躊躇った。
「秀吉方は、我らを小牧山から誘い出そうとしているのやもしれませぬ」
「その可能性はある」
俺は頷いた。
「だから、全軍は動かさぬ。守りを残し、足の速い兵で先へ進む」
「……」
「それに、敵が岡崎へ向かっているなら、放っておけぬ」
岡崎には、信康がいる。
今はまだ兵を預ける立場には戻していないが、領内の物資や兵糧の手配を任せていた。
今回の戦でも、信康はよく働いてくれている。
そこを襲われるわけにはいかない。
「……信康にも使者を送れ。岡崎の兵糧を守り、城下の者を退避させる準備をさせよ。ただし、こちらから敵を追って城を離れることは許さぬ」
「承知いたしました」
俺は兜を手に取った。
「行くぞ」
◇
夜の道を、軍勢が進んだ。
松明の明かりを頼りに進む兵たちは、皆、疲れた顔をしている。
当然だ。
昼間から陣を整え、夜になって突然出陣することになったのだから。
俺だって眠い。
しかし、今は休めない。
「殿。敵の別働隊は、なお東へ進んでおります」
「よし。こちらも急ぐぞ」
俺は馬を進めた。
敵の後ろを追い続ければ、やがて追いつく。
ただし、そこで正面から戦うつもりはなかった。
敵は複数の隊に分かれている。
先頭と後尾では、距離がある。
ならば、その間を突けばよい。
「康政。先に進む敵を追い越す必要はない。まず後方の隊を叩く」
「はっ!」
「敵が混乱したところへ、次の兵を当てる。こちらが何人いるか、分からぬうちに崩してしまおう」
康政が頷いた。
「お任せくだされ」
俺は続けた。
「ただし、堀秀政の隊には気をつけろ。こちらの動きを見て引き返してくるかもしれぬ」
「承知いたしました」
◇
夜が明けた。
戦が始まった。
先に動いた徳川勢が、秀吉方の別働隊へ襲いかかる。
敵は突然の攻撃に混乱した。
「殿! 敵の後方が崩れております!」
「よし!」
俺は馬上で声を張った。
「そのまま押せ! 敵に隊列を立て直す暇を与えるな!」
兵たちが駆けていく。
遠くで鉄砲が鳴った。
槍と槍がぶつかり、怒号が響く。
敵の旗が倒れた。
「……今だ!」
俺は刀を抜いた。
「押し潰せ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
周囲の家臣たちが応じ、兵が前へ進む。
俺は馬を走らせた。
三方ヶ原で敗れてから、何度も戦場を経験してきた。
勝つときは、勝てる瞬間を逃してはならない。
敵が崩れたなら、そこで躊躇うな。
立ち直る前に叩く。
それが、どれほど多くの人間を死なせる命令なのか、分かっている。
それでも、今は命じた。
「逃がすな! ただし、追いすぎるな! 前の隊と離れるぞ!」
敵が混乱する中、こちらも次々と命令を飛ばす。
やがて、森長可と池田恒興の軍勢が、長久手で迎え撃つ形になった。
激しい戦となった。
忠勝が前線を支え、井伊直政の兵もよく戦った。
味方にも被害が出た。
それでも、敵の勢いは次第に弱くなっていった。
「殿! 森長可、討死!」
「……何!」
「池田恒興も、討ち取られたとのこと!」
俺は一瞬、言葉を失った。
そして、拳を握った。
「……勝った!」
家臣たちが歓声を上げた。
俺も声を張った。
「よくやった! 皆、よく働いた!」
だが、すぐに周囲を見回した。
「負傷者を運べ! 戦える者はまだ隊列を崩すな! 秀吉の本隊が来るぞ!」
戦に勝ったからといって、ここで油断するわけにはいかない。
秀吉は、まだ健在なのだ。
「……引くぞ」
俺は命じた。
「敵の大将を討ち取った。今はこれ以上の戦果を求めぬ。隊列を整え、小牧へ戻る!」
忠勝が頷いた。
「御意!」
俺は馬を返した。
勝った。
だが、ここから先まで欲張れば、せっかくの勝利を失うかもしれない。
だから退く。
勝てるところでは徹底して勝ち、危なくなる前に引く。
戦場では、それくらいでちょうどいい。
◇
小牧へ戻った後、秀吉からの使者が来るようになった。
和議の話である。
もっとも、秀吉は簡単に頭を下げるような男ではなかった。
こちらが長久手で勝ったからといって、あちらの軍勢がなくなったわけではない。
むしろ、秀吉は別の場所で兵を動かし、信雄の領地へ圧力をかけていた。
「……厄介だな」
俺は絵図を眺めながら呟いた。
「殿。秀吉殿は、信雄様へ和議を持ちかけておられるとのことにございます」
数正の報告を聞き、俺は眉を寄せた。
「……我らを通さずにか?」
「はっ」
「そうか」
俺は腕を組んだ。
嫌な予感がした。
信雄は、秀吉と争うために俺たちを頼った。
だが、秀吉が信雄だけに有利な条件を示せば、どうなるだろう。
……考えるまでもない。
俺は書状を取り出した。
「数正。信雄様に使者を送ってくれ。和議について話が進んでいるなら、こちらにも知らせていただきたい」
「承知いたしました」
「それと、秀吉殿にも使者を送ろう」
数正が顔を上げた。
「秀吉殿へ?」
「ああ。戦場で勝ったからといって、いつまでも戦を続けたいわけではない。条件によっては話し合うつもりだと伝えてくれ」
「……御意」
俺は絵図を畳んだ。
秀吉は強い。
その強さは、単に戦がうまいというだけではなかった。
敵を戦場で倒せないなら、別の場所を攻める。
大軍で押し切れないなら、相手の味方を切り崩す。
そういう男なのだ。
長久手で勝った俺たちと、秀吉に追い詰められた信雄では、置かれている状況が違っていた。
……さて、どうなることやら。
◇
十一月。
信雄が、秀吉と和睦した。
報告を聞いた俺は、机の上に置かれた書状をしばらく眺めていた。
「……我らに、何の相談もなく?」
「はっ」
忠次の声も重かった。
信雄が秀吉と和議を結んだ以上、徳川が戦い続ける大義名分は失われる。
こちらは兵を出し、長久手では森長可や池田恒興を討ち取った。味方にも相応の犠牲が出ている。それなのに、助けを求めてきた本人が先に和睦してしまったのである。
……一言くらい、相談してくれてもよかっただろう。
腹が立った。
かなり腹が立った。
だが、信雄を責め立てたところで、和議が取り消されるわけでもない。
「……兵を引こう」
俺が言うと、忠勝が顔を上げた。
「殿。このまま秀吉方を退かせるのでございますか」
「退かせるも何も、信雄様が和睦してしまったからな」
「しかし、我らは長久手で勝っております!」
「分かっておる。だが、秀吉殿の本隊を破ったわけではない。それに、戦を続ければ向こうも黙っておらぬ」
忠勝は口を閉じた。
その顔には、納得しきれないものが残っていた。
俺だって、勝った戦の後に兵を退くのは面白くない。
だが、ここで欲を出せば、秀吉の大軍と改めて戦うことになる。甲斐や信濃の支配も落ち着いていない今、そんなことをしている余裕はなかった。
「数正」
「はっ」
「秀吉殿との交渉を頼めるか」
数正が顔を上げた。
「……私に、でございますか」
「ああ。以前から秀吉殿と話をしておるだろう。向こうが何を求めているのか、お前が一番よく知っている」
「しかし、家中には戦を続けるべきとの声もございます」
「それも承知しておる」
俺は数正を見た。
「戦を続けるべきか、和議を結ぶべきか。意見が分かれるのは構わぬ。だが、交渉の役目を任せた者が、相手の話を聞いてきただけで責められては困る」
数正は黙った。
「秀吉殿の言い分を聞いてこい。そのうえで、徳川にとって何が得で、何が損なのか報告してくれ。決めるのは俺だ」
「……承知いたしました」
「それと、あまり無理をするなよ」
「は?」
「小牧にいる間も、何度も使者の相手をしておっただろう。顔色がよくないぞ」
数正は少し驚いたようだった。
「……お気遣い、痛み入ります」
俺は頷いた。
数正は働き者だ。
織田との交渉を任せていた頃から、何かと苦労をかけている。
秀吉との交渉も、こいつがいなければ随分と面倒になるだろう。
……もっとも、だからこそ、簡単に手放すつもりもなかった。
◇
戦が終わっても、徳川家中の意見はなかなかまとまらなかった。
秀吉に従うべきだという者がいる。
いや、長久手で勝った以上、こちらが頭を下げる必要はないという者もいる。
どちらも、言い分は分かる。
数正は前者に近かった。
「殿。秀吉殿の勢いは、今後ますます強くなりましょう」
ある日、数正はそう切り出した。
「西国の諸将も、次々と従っております。我らだけで抗い続けるのは、いずれ難しくなりまする」
「そうだろうな」
「……殿は、どうお考えにございますか」
俺は書付を伏せた。
「秀吉殿と戦わずに済むなら、それに越したことはない」
数正が少し安堵したようだった。
しかし、俺は続けた。
「ただし、向こうの言いなりになるつもりもない。甲斐と信濃は、家臣たちが血を流して手に入れた土地だ。簡単に差し出すわけにはいかぬ」
「無論にございます」
「だから、お前に交渉を任せておる」
数正は頭を下げた。
そのとき、俺は以前から気になっていたことを尋ねた。
「……数正。家中で何か言われておらぬか?」
「……」
返事がなかった。
俺は眉を寄せた。
「やはり、何かあるのか」
「……秀吉殿に近づきすぎているのではないかと、そのように申す者もおります」
「誰だ」
「殿」
「構わぬ。名を言え」
数正は躊躇った。
俺はため息をついた。
「……いや、今ここで聞いても仕方ないか」
考えてみれば、戦場で秀吉方と槍を交えたばかりなのだ。
その秀吉と毎日のように交渉している数正を、快く思わない者がいても不思議ではない。
だが、俺が命じた仕事である。
それで数正が疑われるのは、さすがに気の毒だった。
「次の評定で、俺から話そう」
「……殿」
「交渉役が相手の言い分を聞くのは当然だ。こちらの要求を通すためには、向こうの考えも知らなければならぬ。それを咎めるなら、最初から交渉などできぬだろう」
数正は、しばらく俺を見つめていた。
「……ありがたき幸せ」
その声は、普段より少し低かった。
◇
次の評定では、案の定、秀吉への対応を巡って意見が割れた。
忠勝は、安易な譲歩を嫌った。
数正は、戦を避けるためにも早く条件を整えるべきだと主張した。
双方の言い分を聞き終えたところで、俺は口を開いた。
「数正に秀吉殿との交渉を命じたのは俺だ」
家臣たちが静かになった。
「数正が持ち帰った話に不満があるなら、俺に申せ。向こうの言葉を伝えた者を責めても、何も変わらぬ」
「……はっ」
「それから、戦の備えは続ける。和議を望んでおるからといって、兵を減らしたり、城の守りを緩めたりするつもりはない」
俺は忠勝へ目を向けた。
「平八郎。お前には、引き続き軍の備えを頼む」
「御意!」
「数正は交渉を進めよ。双方の仕事が必要だ。どちらが正しいかを、家中で争う暇があったら働いてくれ」
少し乱暴な言い方だったかもしれない。
だが、いつまでも議論ばかりしているわけにもいかなかった。
秀吉の軍勢は、今も健在なのだから。
評定が終わると、忠勝が数正に声をかけていた。
「数正殿。戦となれば、我らにお任せくだされ」
「……頼りにしております」
「ただ、交渉はお任せいたす。拙者には向きませぬゆえ」
数正が笑った。
「それは、よく存じております」
……余計なことを言わずに済んだらしい。
俺は二人を見ながら、ひとまず安心した。
◇
天正十三年。
秀吉は、いよいよ朝廷から関白に任じられた。
その知らせを聞いたとき、俺は思わず数正の顔を見た。
「……関白?」
「はっ。七月十一日、従一位関白に任じられたとのことにございます」
「……本当に、そこまで上り詰めたのか」
関白といえば、天皇を補佐し、朝廷の政務に深く関わる最高位の官職である。
もはや、ただの羽柴筑前守ではない。
天下の諸大名に対しても、これまで以上に大きな権威を持つことになる。
……信長殿でさえ、関白にはならなかったというのに。
いや、信長殿が望めばなれたのかどうか、その辺りはよく知らないが。
ともかく、秀吉が並の武将ではなくなったことだけは確かだった。
「殿。今後は、関白殿下のご意向を無視することも難しくなりましょう」
「……そうだな」
俺は書状を置いた。
秀吉は、戦で勝つだけでは満足しないらしい。
朝廷の権威まで手に入れて、大名たちを従わせようとしている。
なかなか、抜け目のない男である。
「……数正」
「はっ」
「こちらからも祝いの使者を送ろう。関白就任を祝うことと、徳川は今後も話し合いを続けるつもりだということを伝えてくれ」
「承知いたしました」
「ただし、領地に関する要求があれば、持ち帰って相談すると答えるように。お前一人で約束する必要はない」
「……はっ」
数正が頭を下げた。
秀吉が偉くなったからといって、こちらが何もかも差し出す理由にはならない。
だが、無用に機嫌を損ねる必要もない。
……面倒だなあ。
こういうことは、戦場で槍を振るう方がよほど分かりやすいのかもしれない。
もっとも、俺は槍を振るうのも遠慮したいが。
◇
秋になると、秀吉方から新たな要求が届いた。
人質である。
「……またか」
俺は書状を読み終え、机に置いた。
「殿。関白殿下としては、徳川との和睦を確かなものにしたいのでございましょう」
数正が言った。
「それは分かる。しかし、こちらばかり人を差し出すのでは話にならぬ」
「……はい」
俺は数正の表情を確かめた。
いつもより口数が少ない。
「どうした?」
「……いえ」
「何か気になることがあるなら言ってくれ」
数正は、少し迷ってから口を開いた。
「秀吉方には、私の身内を預かれば、徳川の誠意を示せるのではないかと申す者もおります」
「……お前の身内を?」
「はっ」
俺は書状をもう一度見た。
そこには、直接そう書かれているわけではない。
おそらく、交渉の席で持ち出された話なのだろう。
「……断れ」
数正が顔を上げた。
「殿?」
「お前の家の者を差し出せば済むという話ではない。俺が和議を結ぶかどうか決めかねているから、お前に苦労をかけておるのだ」
「しかし……」
「数正。お前は徳川の家臣だ。秀吉方との交渉役でもある。だが、人質を出すために働いてもらっているわけではない」
数正は黙った。
俺は続けた。
「和議の条件が整えば、俺が責任を持って決める。お前は、お前の仕事を続けてくれ」
長い沈黙があった。
やがて、数正が深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
俺は頷いた。
数正のように、織田や秀吉との交渉を任せられる者は多くない。
そんな家臣を失えば、徳川の損失は大きい。
何より、俺が命じた仕事のせいで、本人の居場所がなくなるようでは困る。
もっとも、数正が何を考えているのか、すべて分かるわけではなかった。
あいつにも、あいつなりの事情がある。
だからこそ、話せるうちに話しておきたいと思った。
◇
結局、数正は徳川を離れなかった。
秀吉方からの誘いや、家中の不満が完全になくなったわけではない。
それでも数正は、俺の命を受けて交渉を続けていた。
時には、こちらの耳に痛い話も持ち帰ってくる。
「殿。このままでは、いずれ戦となりましょう」
そう言われ、俺は顔をしかめた。
「……嫌なことを言うなあ」
「申し訳ございませぬ」
「いや、謝るな。知っておいた方がいい話だ」
俺は腕を組んだ。
数正が秀吉との和睦を望んでいることは、よく分かっている。
だが、俺が納得できない条件まで受け入れるわけにはいかない。
そのあたりは、今も意見が違っていた。
それでも、数正が徳川に残っていることは大きかった。
秀吉方の考えを知ることができる。
家中の意見も、一方に偏らずに済む。
そして、いざ和議を結ぶとなれば、交渉を進める役目を任せられる。
……大切にしないとな。
俺は数正が持ってきた書付を広げた。
「それで、関白殿下は今度は何を求めておられる?」
数正は、いつもの調子で説明を始めた。
◇
天正十四年。
秀吉から、新たな縁組の話が持ち込まれた。
今度は、秀吉の妹である朝日姫を、俺に嫁がせたいという。
「……は?」
思わず声が出た。
使者は、至って真面目な顔だった。
「関白殿下は、徳川殿との縁を深めたいとお考えにございます」
「……そうか」
俺は何とか返事をした。
その後、使者を下がらせ、頭を抱えた。
……いや、待ってくれ。
俺には瀬名がいる。
しかも、数年前にはその瀬名を助けるために、信長と命懸けの交渉をしたばかりである。
その妻が生きているのに、今度は秀吉の妹を迎えろと?
「……困ったな」
隣にいた数正が、少し気まずそうな顔をした。
「殿。これは、関白殿下がそれだけ徳川との縁を重く見ておられるということにございます」
「それは分かる」
「しかし、お方様のこともございますな」
「……ああ」
俺は息を吐いた。
だが、単に断れば済む話でもなかった。
秀吉は、こちらを力だけで従わせるのが難しいと判断したのだろう。
だから、縁組を持ちかけてきた。
しかも、実の妹である。
秀吉にしてみれば、ここまで譲歩したのだから、そちらも応じろと言いたいのだろう。
……本当に、嫌なところを突いてくる。
「まず、瀬名に話そう」
俺は立ち上がった。
◇
「……殿は、お引き受けになるおつもりなのですか」
瀬名は、最後まで黙って話を聞いていた。
「まだ決めたわけではない」
「ですが、お断りするのも難しいのでございましょう」
「……ああ」
瀬名は膝の上で手を重ねた。
少しの間、何も言わなかった。
「……私は、殿のお考えを妨げるつもりはございません」
「瀬名」
「ですが、正直に申し上げれば、心穏やかではございません」
俺は口を閉じた。
瀬名は続けた。
「朝日姫様をお迎えすることになれば、私はどのような立場になるのでございましょう。お方様が二人というわけにもまいりますまい」
……そうだよな。
秀吉の妹を迎えるのだから、当然、相応の待遇が必要になる。
だが、だからといって瀬名の立場を奪うつもりはなかった。
「俺は、お前を退かせるつもりはない」
瀬名が顔を上げた。
「……殿」
「そこは、先に秀吉方へ伝えておく。朝日姫を迎えるとしても、お前の居所も、家中での扱いも変えるつもりはない」
「……先方がお認めになるでしょうか」
「交渉する」
「……」
「それに、朝日姫にも事情があるだろう。本人がどう考えているのかも、確かめたい」
瀬名は少し驚いたようだった。
「朝日姫様のお気持ちを、でございますか」
「ああ。政略結婚だというのは分かっているが、だからといって何も聞かずに進めるのもな」
瀬名は小さく息を吐いた。
「……殿は、随分と変わられましたね」
「そうか?」
「以前なら、もっと一人でお決めになっていたと思います」
俺は苦笑した。
「それで散々失敗したからな」
瀬名も、ほんの少し笑った。
だが、すぐに真面目な顔へ戻った。
「……お話を進めるのであれば、どうか私にも知らせてくださいませ」
「ああ。必ず」
俺は頷いた。
これで瀬名が納得したわけではない。
ただ、以前のように何も知らせず話を進めてしまえば、また同じ失敗を繰り返すことになる。
それだけは避けたかった。
◇
秀吉方との交渉は、思っていた以上に面倒だった。
朝日姫を迎える。
だが、瀬名の待遇は変えない。
朝日姫も、秀吉の妹にふさわしい礼遇を受ける。
そのうえで、徳川の家中のことについては、俺が引き続き責任を持つ。
……言葉にすれば簡単だが、相手が納得するかどうかは別の話である。
「殿。関白殿下は、朝日姫様を厚く遇していただけるなら、瀬名様のことについても協議に応じるとのことにございます」
数正が報告してきた。
「……そうか」
「ただし、縁組を結ぶ以上、徳川殿には上洛をお考えいただきたいと」
「……やっぱりそこか」
数正が苦笑した。
「殿下としては、徳川殿が直接お越しになることに、大きな意味がございますゆえ」
俺は腕を組んだ。
秀吉は、妹を嫁がせたいだけではない。
俺を自分のもとへ来させたいのだ。
そして、天下の大名たちに見せつけたいのだろう。
小牧・長久手で自分と戦った徳川家康が、今では関白に従っている、と。
……分かりやすい。
分かりやすいのだが、厄介だった。
◇
縁組がまとまった後も、俺はすぐには大坂へ向かわなかった。
秀吉からは、何度も上洛を促す使者が来た。
そのたびに、こちらも条件を確かめる。
甲斐と信濃の所領。
徳川家臣たちの待遇。
北条との関係。
そして、家中のことをどこまで俺の判断に任せてもらえるのか。
一つずつ確認していった。
そのうち、秀吉の母である大政所まで、岡崎へ送られてくるという話になった。
「……母君を?」
報告を聞いて、俺はしばらく黙った。
「はっ。関白殿下は、徳川殿に安心してお越しいただきたいとのことにございます」
数正が答えた。
安心、か。
秀吉の母親がこちらにいれば、俺が大坂へ行っても簡単には討たれないだろう。
つまり、それほど警戒しているということでもある。
……この人、本当に何でも使うな。
妹を嫁がせる。
母親を預ける。
こちらが何を心配しているのか、一つずつ潰してくる。
戦場で秀吉の軍勢を破ったときよりも、ずっと厄介な相手に思えてきた。
「……数正」
「はっ」
「俺は、大坂へ行こうと思う」
数正が顔を上げた。
「……殿」
「向こうがここまでしている以上、いつまでも断り続けるわけにもいかぬ。それに、秀吉殿が何を考えているのか、一度直接会って確かめたい」
「……承知いたしました」
数正は、深く頭を下げた。
俺はその様子を見てから、付け加えた。
「お前も一緒に来てくれ」
「私も、でございますか」
「当然だろう。ここまで交渉してきたのは、お前だぞ。最後まで付き合ってもらう」
数正は少し驚いたようだった。
やがて、静かに笑った。
「……喜んで、お供いたします」
◇
天正十四年、十月。
俺は大坂へ向かった。
大坂城の近くへ到着したとき、最初に驚いたのは、その規模だった。
城も大きい。
町も大きい。
人の数も、浜松や駿府とは比べものにならない。
しかも、まだ各地で工事が続けられている。材木を運ぶ人夫、石を曳く者、普請を監督する武士たちが、ひっきりなしに行き来していた。
「……随分と賑やかだな」
馬上で呟くと、数正が頷いた。
「関白殿下は、大坂を天下の中心となさるお考えにございましょう」
「……なるほど」
俺は城を見上げた。
信長は、安土城を築いた。
あの城も大きく立派だったが、秀吉の大坂城はまた違う。
城だけではない。
人も、物も、銭も、ここへ集まってくる。
それを見せつけるために、町全体を造り替えているように思えた。
……本当に、金がかかってそうだなあ。
俺だったら、普請の費用を考えただけで胃が痛くなりそうである。
だが、秀吉はそれをやっている。
そして、おそらく、この城を見る者が何を感じるかまで計算しているのだろう。
俺は少し嫌な気分になった。
まだ本人に会ってもいないのに、もう気圧されている。
◇
大坂城へ登城する前夜。
俺が宿所で翌日のことを考えていると、思いがけない客が訪ねてきた。
秀吉本人である。
「徳川殿! よう参られた!」
声を聞いた瞬間、俺は思わず立ち上がった。
「……殿下!」
秀吉は笑っていた。
それも、随分と楽しそうに。
「いやいや、そう畏まらずともよい。明日は大勢の前で堅苦しいことをせねばならぬからな。今宵くらい、気楽に話そうではないか」
そう言いながら、こちらが勧めるより先に腰を下ろした。
……待て待て。
気楽に話そうと言われても、相手は関白である。
しかも、俺が長久手で散々苦しめた相手だ。
どうして、こうも楽しそうにしていられるのだろう。
「徳川殿。長旅でお疲れであろう」
「いえ。お気遣いいただき、ありがたく存じます」
「それはよかった。儂も、ようやくお主とゆっくり話せると思って楽しみにしておったのだ」
秀吉は、何でもないことのように言った。
その笑顔が、どうにも気になった。
信長は、こちらを威圧してくる男だった。
相手を睨みつけ、言葉一つで黙らせる。
怒らせれば何をされるか分からないという恐ろしさがあった。
しかし、秀吉は違う。
にこにこと笑いながら、こちらとの距離を縮めてくる。
相手が恐縮していることなど、承知のうえである。
それでいて、こちらが返事に困るような言葉を、実に自然に口にする。
「徳川殿。小牧では、随分と苦しめられましたぞ」
……ほら、来た。
俺は頭を下げた。
「その節は、失礼いたしました」
「いやいや! 戦でござるからな。勝った負けたは仕方あるまい」
秀吉は笑った。
「それにしても、あの長久手の戦は見事であった。池田も森も、そう簡単に討ち取られる男ではなかったのだが」
「……恐れ入ります」
「儂の甥も、随分と手痛い目に遭わされ申した」
そこまで言って、秀吉はふっと笑みを薄くした。
俺は顔を上げた。
「……殿下」
「何、昔のことでござる」
秀吉はすぐに笑顔へ戻った。
「今となっては、徳川殿ほど頼もしいお方が味方になってくださるのだから、悪い話ではない」
……なるほど。
この人は、笑っている間にも相手の反応を見ている。
俺がどの言葉に困り、どこで頭を下げ、何を聞かれたくないと思っているのか。
それを、会話の中で確かめているのだ。
しかも、こちらが不快になるほど強くは踏み込まない。
嫌な話をしたかと思えば、すぐに笑って別の話題へ移る。
……信長殿とは、違う意味で恐ろしいな。
◇
「ところで、徳川殿」
秀吉が盃を置いた。
「石川数正は、よう働いてくれましたな」
俺は少し驚いた。
「……数正にございますか」
「うむ。儂の使者が何を申しても、簡単には頷かぬ。かといって、話を打ち切ることもせぬ。実に骨の折れる相手でござった」
秀吉は楽しそうに笑った。
「よい家臣をお持ちだ」
「……ありがたきお言葉にございます」
「儂も、あのような者が欲しいものよ」
何気ない言葉だった。
だが、俺はすぐに返事をしなかった。
秀吉は、こちらの沈黙を見ている。
……ああ。
この人は、俺が数正をどう扱うかまで気にしているのか。
「数正は、長年徳川を支えてくれた者にございます」
俺は答えた。
「此度の交渉でも、随分と苦労をかけました。殿下とのお話がまとまったのも、あの者の働きがあればこそと存じます」
秀吉は目を細めた。
「……ほう」
「私には、なくてはならぬ家臣にございます」
しばらくの間があった。
やがて、秀吉が笑った。
「ははは! それは大切になさらねばなりませぬな!」
「はっ」
「儂も、よい家臣を得ることの難しさは存じておりますゆえ」
秀吉は楽しそうに酒を飲んだ。
俺も盃を取った。
……油断ならない。
冗談のように言いながら、こちらが譲れないものを確かめてくる。
今のやり取りだって、俺が数正を疎んじていたなら、どんな話になっていたのか分からない。
もっとも、秀吉が本当に数正を欲しがっていたのかも分からなかった。
この人の話は、どこまでが本心なのだろう。
◇
「徳川殿」
秀吉は、今度は少し声を落とした。
「儂は、これ以上、お主と戦をしたくない」
俺は盃を置いた。
「……私も、同じにございます」
「それはよかった」
秀吉は頷いた。
「しかし、天下を治めるとなれば、皆が勝手に兵を動かしておっては困る。お主ほどの大名が、儂と争うとなればなおさらだ」
「……ごもっともにございます」
「儂は、お主に天下のために働いていただきたい」
言い方は柔らかい。
だが、その意味は明白だった。
秀吉は、徳川を自分の下に置こうとしている。
兵を差し出せ。
必要なときには戦え。
天下の大名として、関白の命に従え。
そういうことである。
「……殿下」
「何でござる?」
「徳川の領地と家臣について、一つお願いがございます」
秀吉は笑った。
「申されよ」
「甲斐や信濃には、武田の旧臣が多くおります。彼らは私を頼って従ってまいりました。ここで所領を奪えば、再び乱れましょう」
秀吉が頷く。
「なるほど」
「私が責任を持って治めます。どうか、その点はお任せいただきたく」
秀吉は、すぐには答えなかった。
盃を持ち上げ、少しだけ酒を口にする。
それから尋ねた。
「……徳川殿。甲斐や信濃を治めるには、随分と苦労されたのであろう?」
「はっ」
「武田の旧臣を集め、北条と戦い、ようやく落ち着かせた土地だ。手放したくないという気持ちは、儂にも分かる」
俺は頭を下げた。
秀吉は続けた。
「では、その土地をお主が治めることに、儂は異存なしといたそう」
「……ありがたき幸せ」
「ただし」
そこで、声が変わった。
俺は顔を上げた。
秀吉は笑っている。
だが、先ほどまでの陽気さは薄れていた。
「天下のこととなれば、儂の命に従っていただく。徳川の兵が必要になれば、出してもらう。領内で争いが起きれば、責任を持って収めてもらう」
「承知しております」
「……本当に?」
秀吉が身を乗り出した。
「小牧では、お主の怖さを十分に思い知らされましたからな。儂の命を聞くと申して、気に入らぬことがあれば、また兵を挙げられては困るのでござる」
俺は、すぐには答えなかった。
秀吉は笑顔のまま待っている。
この男は、信長のように怒鳴らない。
だが、相手が逃げられないところまで話を進めてから、最後の答えを求めてくる。
しかも、その答えを拒めば、こちらが悪いように見えてしまう。
……参ったな。
俺は息を整えた。
「殿下。私は、いたずらに戦を望んでおりませぬ」
「うむ」
「徳川の土地と家臣を守れるのであれば、殿下のもとで働くことに異存はございません」
秀吉の目が細くなった。
「……なるほど」
「ただし、家臣たちの暮らしが立ち行かなくなるようなことがあれば、まずはお話し合いを願いたく存じます」
短い沈黙があった。
秀吉は、やがて声を上げて笑った。
「ははは! さすが徳川殿よ!」
俺は少し驚いた。
「……殿下?」
「儂の命に従うと言いながら、家臣のことだけは忘れぬ。まことに、よい当主でござるな」
秀吉は盃を掲げた。
「よろしい。これからは共に天下を治めてまいろうではないか!」
「……ありがたき幸せ」
俺は頭を下げた。
笑顔のまま、秀吉は酒を飲んでいる。
……怖いな。
信長は、目の前で刀を抜かれるような恐ろしさがあった。
だが、秀吉は違う。
こちらが気づいたときには、もう周囲に人が集まり、逃げ道がなくなっている。
そんな怖さだった。
しかも、本人は終始楽しそうなのである。
これでは、どこまで警戒すればいいのか分からない。
◇
翌日。
大坂城で、正式に秀吉と対面した。
前夜とは違い、多くの諸将が居並ぶ中での謁見である。
俺も、改めて関白殿下に臣従する立場を明らかにした。
秀吉は、昨夜と同じように笑っていた。
だが、その振る舞いは随分と違っていた。
声をかける順番。
家臣への命令。
座る位置。
誰にどのような言葉をかけるか。
すべてが、関白としての威厳を示すために整えられているようだった。
……昨日の夜は、あんなに気安く話しかけてきたのにな。
俺は少し感心した。
秀吉は、相手によって振る舞いを変える。
それも、ただ媚びたり威張ったりするわけではない。
相手が何を望んでいるか。
何を恐れているか。
何を与えれば動くのか。
それを考えたうえで、自分の望む方向へ話を進めていく。
信長とは、まるで違う。
しかし、天下を治めるという点では、同じくらい恐ろしい男だった。
……いや。
もしかすると、俺には秀吉の方が厄介かもしれない。
信長なら、怒っているときは分かった。
秀吉は、笑っているときほど何を考えているのか分からないのだから。
◇
大坂から帰る道中。
数正が、少し不思議そうに尋ねてきた。
「殿。関白殿下とのお話は、思いのほか穏やかに進みましたな」
「そうだな」
「しかし、最後まで徳川の所領について念を押されました」
「当然だろう。ここまで苦労して治めた土地だぞ」
俺は笑った。
「秀吉殿に従うことと、何もかも差し出すことは違う。こちらの立場を守れるなら、守っておきたい」
数正が頷いた。
「……なるほど」
「それに、あの人は簡単に敵に回していい相手ではない。今は従っておいた方が、徳川にとって得だ」
「今は、でございますか」
数正が繰り返した。
俺は顔を上げた。
「……ん?」
「いえ」
数正は、何かを考えるように黙った。
俺は少し考え、それから尋ねた。
「数正。お前は、秀吉殿をどう思う?」
「……関白殿下にございますか」
「ああ」
数正は少し考えた。
「人をよく見ておられる方にございます」
「……そうだな」
「相手の欲するものを示しながら、決してご自身の望みを忘れられませぬ。交渉の席でも、こちらが何を求めているかを、よくご存じでした」
俺は頷いた。
「しかも、向こうの要求を断っても、すぐには怒らぬ」
「はっ」
「代わりに、別の条件を持ち出してくる」
数正が笑った。
「……何度も苦労いたしました」
「そうだろうな」
俺も笑った。
「信長殿とは、随分と違うな」
「……左様にございますな」
数正は、少し懐かしそうな顔をした。
「殿。これからは、関白殿下との交渉も増えることでございましょう」
「そうだな。まだまだ働いてもらうぞ」
「……承知いたしました」
数正が頭を下げた。
その姿を見て、俺は少し安心した。
数正がいてくれて、本当によかった。
秀吉との交渉は、これからも続くだろう。
あの男を相手にするなら、数正のような家臣が何人いても足りないくらいだ。
◇
浜松へ戻った翌日。
「竹千代! 聞いて聞いて!」
朝から、かぐやが騒がしかった。
「何だよ、朝っぱらから」
「瀬名ちゃんがね、昨日すっごくおいしいお菓子を持ってきてくれたの!」
「へえ。よかったじゃん」
「うん! だから竹千代の分も残しておいたよ!」
かぐやが得意げに身体を揺らした。
俺は文箱の隣に置かれた皿を見た。
菓子が一つだけ残っている。
「……これ?」
「そう!」
「お前は何個食べたんだ?」
「えーっと……」
かぐやは少し考えた。
「いっぱい!」
「正直でよろしい」
俺は笑いながら菓子を取った。
久しぶりに帰ってきたというのに、こいつは相変わらずである。
もっとも、その方がありがたかった。
大坂では何を話すにも気を遣ったし、帰り道でも家臣たちと今後のことを相談していた。こうして何の役にも立たない話をしている方が、よほど気楽だった。
「ねえ、竹千代」
「今度は何?」
「今日は忙しい?」
「……どうだろうな。急ぎの仕事は片づけてきたけど」
「じゃあさ!」
かぐやが文箱から身を乗り出した。
「海に行こうよ!」
俺は菓子を食べる手を止めた。
「……海?」
「そう! ずっと約束してたでしょ!」
「ああ……」
言われてみれば、そのとおりだった。
本能寺の変が起き、伊賀の山を越え、甲斐で北条と戦い、秀吉とも戦った。
その間、かぐやには何度も海へ連れていくと約束していたのである。
しかも、そのたびに仕事を理由に先延ばしにしてきた。
「……そうだな」
「えっ?」
「今日は行くか」
かぐやが動きを止めた。
「……本当?」
「うん。浜松の近くなら、海までそう遠くないし」
「本当に本当!?」
「そんなに疑わなくてもいいだろ」
「だって竹千代、いっつも忙しいんだもん!」
……それは反論できない。
「じゃあ、瀬名ちゃんも誘おうよ!」
「そうだな。聞いてみるか」
「やったー!」
かぐやは文箱の中で大喜びだった。
俺はその様子を見ながら、久しぶりに仕事以外の予定を立てることになった。
◇
浜松から海へ向かう道は、思っていたより気持ちがよかった。
秋も深まり、夏の暑さはすっかりなくなっている。風は少し冷たかったが、日差しは暖かい。田畑では収穫を終えたところも多く、道端には刈り取られた稲藁が積まれていた。
瀬名も一緒だった。
「殿が自ら海へ行こうと仰るとは、珍しゅうございますね」
「……まあ、随分と待たせたからな」
「かぐや殿を、でございますか?」
「ああ」
瀬名が微笑んだ。
「それはようございました」
文箱から、かぐやが小さく声を上げた。
「瀬名ちゃん! 早く海に着かないかな!」
「もう少しでございますよ」
「楽しみー!」
俺は思わず笑った。
駿府で初めて会ったときから、かぐやはこんな調子だった。
何千年も生きているというのに、新しいものを見つければ大喜びするし、気に入ったことがあれば何度でもやりたがる。
それでも、俺が歳を取っていく間、こいつは少しも変わらなかった。
……いや。
変わっていないように見えるだけかもしれないが。
◇
人目のない海辺へ出ると、かぐやは早速、文箱から顔を出した。
「海だー!」
目の前には、波が広がっている。
遠州灘の海は、思っていたより荒々しかった。白い波が何度も砂浜へ押し寄せ、そのたびに大きな音を立てている。
「……あんまり波に近づくなよ」
「分かってるって!」
かぐやは元気よく答えた。
信用できる返事ではなかった。
俺は波の届かない場所へ腰を下ろし、文箱を傍らへ置いた。
かぐやが箱の縁に身体を乗せ、海を眺めている。
「……やっぱり海っていいなあ」
「そうか?」
「うん!」
普段の騒がしさとは少し違う、穏やかな声だった。
しばらくすると、かぐやは近くに落ちていた貝殻を見つけた。
「竹千代! あれ取って!」
「どれ?」
「そこ! 白いやつ!」
俺は立ち上がり、貝殻を拾ってきた。
「これか?」
「そうそう! 見せて!」
差し出すと、かぐやは興味深そうに眺め始めた。
「……何か、ちょっと欠けてるね」
「海に転がってたからな」
「でも、きれい!」
「じゃあ、持って帰るか?」
「うん!」
俺は貝殻を布に包んだ。
すると、かぐやがもう一つ指し示した。
「竹千代! あっちにもある!」
「……また?」
「うん!」
俺は立ち上がった。
今度は、少し遠い。
貝殻を拾って戻ると、かぐやは別のものを見つけていた。
「竹千代! 今度はあれ!」
「……お前、自分で拾う気ないだろ」
「だって遠いんだもん!」
瀬名が笑った。
俺も、仕方なく立ち上がった。
結局、しばらくの間、俺は砂浜を歩き回って貝殻を集めることになった。
……伊賀越えのときよりは、ずっとましだけどな。
◇
日が傾き始めた頃、ようやく浜松へ戻ることにした。
かぐやは集めた貝殻を一つずつ確かめていた。
「これ、瀬名ちゃんにあげる!」
「まあ。ありがとうございます、かぐや殿」
「こっちは竹千代!」
渡されたのは、端が少し欠けた、小さな貝殻だった。
「……何で俺のだけ欠けてるんだ?」
「えー! きれいじゃん!」
「いや、きれいだけどさ」
「私が選んだんだから、大事にしてよ!」
「はいはい」
俺は貝殻を懐へしまった。
瀬名が隣で笑っていた。
「殿。随分と楽しまれたようでございますね」
「……そう見えるか?」
「ええ」
俺は少し考えた。
確かに、楽しかった。
砂浜を歩き回って、かぐやに言われるがまま貝殻を拾っただけなのだが。
久しぶりに、何も考えずに過ごせた気がした。
「……また来るか」
何気なく口にすると、かぐやが勢いよく振り返った。
「本当!?」
「……今度はそんなに貝殻を拾わないぞ」
「えー!」
瀬名が笑い、かぐやが抗議する。
俺も笑った。
明日になれば、また仕事が待っている。
甲斐や信濃からの報告も届くだろうし、各地の城の守りについても考えなければならない。
それでも、今日くらいは。
こういう日があっても、いいだろう。
◇
大坂城。
徳川家康が帰った後、秀吉は家臣たちと話していた。
「……徳川殿は、いかがでございましたか」
尋ねられた秀吉は、少し笑った。
「厄介なお方よ」
「……と申されますと」
「儂に従うと申した。領地も守りたいと言う。戦も望まぬそうだ」
「それは、よろしいことではございませぬか」
秀吉は笑った。
「そうよな。まことに、よろしい」
しかし、すぐに笑みを薄くした。
「だが、あのお方は、こちらが何を欲しがっているのか、よく見ておる」
家臣が黙った。
「欲しいのは徳川の首ではない。徳川の兵と土地、そして家康殿の力よ。あのお方はそれを分かったうえで、儂に頭を下げた」
秀吉は盃を手に取った。
「……小牧で勝ったからといって、得意にならぬ。頭を下げるべきときには下げる。あれができる男は、そう多くない」
「……では、今後も警戒を?」
「無論よ」
秀吉は答えた。
「ただし、むやみに疑って敵に回す必要もない。よく働いていただけばよい」
「はっ」
「それにしても、石川数正は惜しいことをした」
家臣が顔を上げた。
「数正にございますか」
「うむ。なかなか使える男よ。こちらの話も聞くし、家康殿への忠義も厚い」
秀吉は少し笑った。
「儂のところへ来ても、よい働きをしたであろうにな」
「……お誘いになられますか」
「今さら無理に引き抜けば、家康殿も気分を害されよう。それに、徳川との話をまとめてくれた者を、ここで奪う必要もあるまい」
秀吉は盃を置いた。
「……家康殿は、家臣の扱いが上手くなったようだ」
「……と申されますと」
「数正がこちらへ来れば、徳川は大いに困る。家康殿も、それをよく分かっておられるのであろう」
秀吉は、ゆっくりと笑った。
「……あのお方は、なかなか手強いぞ」
その声には、どこか楽しそうな響きがあった。
「これから先も、大いに働いていただかねばならぬからな」
秀吉は、そう言って盃を掲げた。