TS女神の地球救済政策 ~26年かけて異世界を救った元勇者、絶世の女神になって帰還したら地球が滅びかけていたので、ダンジョン災害で救います~ 作:TS女神
空を覆い尽くすほどの魔物の群れを見上げながら、俺は剣についた血を振り払った。
黒々とした城壁の向こうからは翼を持つ魔物が次々と飛び立ち、地上では角の生えた巨人たちが城門前を埋め尽くしている。その足元を、ゴブリンやオークと呼ぶにはあまりにも禍々しく変異した異形どもが這うように進み、こちらの軍勢へ押し寄せていた。
二十数年前の俺なら、それだけで足が竦んでいたかもしれない。けれど今となっては、嫌になるほど見慣れた光景だった。
「右翼、前に出すぎるな! 城門の確保は後回しでいい、目標は中央神殿だ! 領域核さえ奪えば、こっちの勝ちになる!」
喉が裂けそうな声で怒鳴りながら剣を振るえば、刃から放たれた光が半月状に広がり、こちらへ突進してきた三体の巨人をまとめて両断した。巨大な身体から噴き上がった血が雨のように降ってくるが、身体を包む魔力障壁がそれを弾き、赤い飛沫だけが足元へ散っていく。
直後、頭上が昼間のように明るくなった。見上げれば、城壁の上に並んだ魔族の術者たちが巨大な火球を完成させている。
「またそれかよ……!」
左手を掲げると同時に幾重もの魔法陣を展開し、落下してきた炎を真正面から受け止めた。激突の瞬間には凄まじい熱風が周囲へ吹き荒れ、後方にいた兵士たちが思わず身を伏せるほどだったが、こちらの障壁までは抜かれていない。
ならば、返してやればいい。
「持って帰れ!」
魔法陣を反転させ、受け止めた火球へさらに自分の魔力を叩き込む。倍近くまで膨れ上がった炎塊は来た道を逆に駆け上がり、城壁上の術者どころか、その上空を旋回していた飛行魔族までまとめて巻き込んで爆発した。
「勇者殿! 東側第二結界塔、制圧完了しました!」
「よし! 術者はそのまま結界を維持しろ。動ける兵は中央へ合流、一時間以内に領域核まで抜くぞ!」
「はっ!」
返事をした伝令が駆け去っていくのを横目に、俺は城塞の最奥にそびえる黒い神殿へ視線を向けた。あそこに、この土地を支配する領域核がある。
この世界では、ただ敵軍を倒しただけでは領土を奪ったことにはならない。
遥かな神代に作られた神造魔道具――後世の人間が『領域核』と呼んでいるものが世界各地に埋め込まれており、大地そのものへ支配者を登録し、周囲一帯を勢力圏として固定しているからだ。
人間も使えば、魔族も使う。かつて人類領だった土地を魔族が奪えば支配者を書き換え、俺たちが取り戻したなら再び人類側へ登録する。それでようやく、正式な奪還となる。
支配下にある領域では、敵対勢力は強い圧力を受ける。少数で侵入するだけなら可能でも、大規模な転移は阻害され、魔力回復は鈍り、軍勢が大きければ大きいほど土地そのものから拒絶される。
だからこそ、人類は滅びずに済んだ。そして同時に、その仕組みがあったからこそ、長い年月をかけて一つずつ領土を削り取られ、最後の一国まで追い詰められていた。
「……二十三年か」
誰に聞かせるでもなく呟いた声は、戦場の喧騒に呑まれて消えた。
二十三年前まで、俺はこんな世界が実在することすら知らなかった。魔法も、魔族も、勇者も、神も、全部漫画やゲームの中だけのものだと思っていた。
――あの日までは。
◇ ◇ ◇
「ねえ、君。世界を一つ救ってみない?」
「嫌です」
即答すると、目の前の女はきょとんとしたようだった。
高校からの帰り道だったはずなのに、気がつけば俺は上下も左右も分からない真っ白な空間に立っていて、その中央には一人の女だけがいた。
そして、恐ろしいほど美しい――それだけは、一目見ただけでなぜか理解できた。けれど、それ以外のことがまるで分からない。
顔は見えている。髪も、その色も、身体の輪郭も、身につけている衣服も視界に入っているはずなのに、いざ言葉にしようとした途端、それらすべてが指の隙間から零れ落ちるように曖昧になった。
髪は長かったのか、短かったのか。瞳は何色だったのか。背は高かったのか低かったのか、華奢だったのか、それとも豊かな身体つきだったのか。
確かに見ているはずなのに、何一つ答えられない。
ただ、人間離れした――いや、人間という尺度そのものを当てはめることが間違っているような美しさを持つ女がそこにいて、休日に友人でも誘うような気軽さで、世界を一つ救ってみないかと尋ねてきたのだ。
「えー。普通、もうちょっと話を聞かない?」
「世界を一つ救えなんて言われて、『はい、分かりました』って答える高校生の方がおかしいでしょう」
「そうかなあ。異世界だよ? 剣と魔法があって、魔物もいて、君は勇者になるの。人間ってそういうの好きじゃない?」
「好きですけど、自分が命懸けでやりたいとは一言も言ってません」
「あはは。それはそうかも」
女は楽しそうに笑った。
笑い方だけを見れば悪意など欠片も感じられず、むしろ無邪気とさえ言えたのだが、後になって考えてみれば、それこそが一番質の悪いところだった。
「ちなみに、その世界ってどんなところなんです?」
「もう人類の国が一つしか残ってないよ」
「帰ります」
「周りはぜーんぶ魔族と魔物の土地。魔王が世界のほとんどを支配し終わってて、最後の国が落ちれば人類もおしまいかな」
「だから帰りますって!」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと勇者っぽい力はあげるから」
「人の話を聞け!」
高校生だった俺が、神に向かって怒鳴った人生最初の瞬間だった。
もっとも、その時点ではまだ目の前の女を本物の神だとは思っていなかった。夢なのか、幻覚なのか、あるいは知らないうちに死んでしまったのか、自分でも何一つ状況を理解できていなかったからだ。
「そもそも、なんで俺なんですか」
「ん?」
「世界を救わせたいなら、もっと適任がいるでしょう。軍人とか、格闘家とか、天才とか。どうして普通の高校生なんです?」
そう尋ねると、女は少しだけ首を傾げ、それから本当に不思議そうな声で答えた。
「たまたま目についたから?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
けれど、冗談ではないらしい。俺だから選んだのではない。特別な運命を見いだしたわけでもなければ、救世の素質を見抜いたわけでもない。
本当に、ただ目についただけ。道端で面白そうな石を見つけて拾い上げるような感覚で、この女は一人の人間の人生を選んだのだ。
「……あなた、何なんですか」
「神様」
「何の?」
「君たちの感覚なら、邪神って呼ぶのが一番近いかな」
「最悪じゃねえか!」
「あはははは!」
心底楽しそうに笑った邪神が、こちらへ指を一本向けた。
その瞬間、身体の奥へ熱い何かが流れ込んできた。骨の中へ溶け込み、血管を駆け巡り、心臓のさらに奥に、今まで存在しなかった新しい器官を作られていくような奇妙な感覚に息を呑む。
「はい。これで向こうの人間よりずっと強いよ。魔力も多めにしておいたし、成長もしやすくしてあるから頑張ってね」
「ちょっと待て、まだ行くなんて――」
「じゃあ、楽しませてね」
「おい、返事くらい――!」
こちらの言葉を最後まで聞く気すらなかったらしい。
足元が消えた。
次の瞬間には真っ白な空間から放り出され、冷たい夜空の中を真っ逆さまに落下していた。遥か下には炎上する街が見える。城壁を無数の魔物がよじ登り、人々が逃げ惑い、けたたましい警鐘と、何か巨大な獣の咆哮が夜の空気を震わせていた。
何百メートルあるのかも分からない上空から落ちながら、俺はようやく一つだけ状況を理解した。
「あの邪神ーーーっ!」
あいつ、ほとんど何の説明もせずに俺を異世界へ拉致しやがったらしい。しかも、こちらは行くことに了承した覚えすらない。俺の返事を聞こうともせず、勝手に力だけを押しつけて、この滅びかけた世界へ放り込んだのだ。
◇ ◇ ◇
それから二十三年が経った。
結論から言えば、俺は死ななかった。何度死にかけたかについては、途中から数えるのをやめた。
最初の一年など、生き残るだけで精一杯だった。邪神から押しつけられた力は確かに強力で、魔力は現地の人間より遥かに多く、身体能力にも恵まれ、剣や魔法を習得する速度も異常なほど速かったが、それだけで滅亡寸前の世界をひっくり返せるほど現実は甘くない。
魔王軍の将軍にはまるで歯が立たず、上位魔族と遭遇すれば逃げるしかなく、ダンジョンに潜れば罠一つで死にかけた。毒を受ければ普通に熱も出たし、骨を折れば治るまでは満足に戦えず、腹を裂かれた時など仲間に担がれて逃げ帰るのが精一杯だった。
つまり、俺が与えられたのは『世界を救える力』ではない。せいぜい、努力次第ではそこまで辿り着けるかもしれない『素質』だけだった。
だから、この世界の人間たちから必死に学んだ。
剣士から剣を、魔術師から魔法を、騎士から戦争を、冒険者からダンジョンで生き残る方法を教わった。何人もの仲間と出会い、その中には生涯付き合うことになった者もいれば、次の年を迎えられなかった者もいた。
人類最後の国から外へ出て、最初の領域核を奪還するまでに五年を費やした。
二つ目を取り返す頃には、その半分ほどの期間で済むようになり、三つ目の領域核を奪い返した頃には、生き残っていた人類のほとんどが俺のことを『勇者』と呼ぶようになっていた。
まだ、かつて人類が支配していた土地の半分すら取り戻せていなかった。それでも、滅びる一方だった戦況を初めて押し返した存在というだけで、人々にとっては十分だったらしい。
人類の希望、異界から現れた救世の勇者、人類を救うため神によって遣わされた者――そんな大仰な呼び名まで、いつの間にか広まっていた。
まあ、男として悪い気がしなかったのは認める。勇者だの英雄だのと呼ばれて何も感じないほど枯れていたわけでもないし、頼られれば嬉しかった。自分の働きによって、明日には滅ぶかもしれないと思っていた人たちが未来を語れるようになったのなら、それは素直に誇らしかった。
ただし、一つだけ盛大に間違っている。俺は、人類を救うために神から遣わされたわけではない。あの邪神が、たまたま目についた高校生を面白半分で攫い、この世界へ放り込んだだけだ。
今使っている特別な力だって、その邪神から勝手に押しつけられたものだった。だから、熱狂する人々から「神に遣わされた勇者様」と呼ばれるたび、何とも言えない気分になった。
もしあいつがこの光景を見ていたら、どんな顔をするのだろうか。おそらくだが、腹を抱えて笑うに違いない。そう考えると、無性に腹が立った。
いつか地球へ帰ることができたなら、その前に一発くらいは殴ってやりたい。もっとも、今の俺の力は、その殴りたい本人から与えられたものでもある。借り物だけを振り回して本人に喧嘩を売るというのは明らかに無謀だろう。
ならば、剣を磨けばいい。魔法を磨き、この世界に存在する力を学び、自分自身のものにしていけばいい。それでも足りないのなら、今の自分にはない力を新しく手に入れればいい。
世界を救うために。そして、いつかあの邪神の顔面へ、自分自身の拳を叩き込むために。
◇ ◇ ◇
十年を過ぎた頃には、この世界で最も神に近い存在の一つと謳われる古龍と、山脈の奥で出会った。
最初から友好的だったわけではない。何がどうしてそうなったのか、最終的には山をいくつか削る勢いで殴り合う羽目になり、それでも互いに倒れないまま、気がつけば妙な友誼が芽生えていた。
古龍は俺を「面白い人間だ」と笑い、自らの力の一部を分けてくれた。邪神から押しつけられた勇者の力とは違う。この世界へ来てから、俺自身の生き方によって手に入れた新しい力だった。
そして十五年目。
俺がこの世界へ放り込まれた時には最後の一国とその周辺まで追い詰められていた人類は、かつて自分たちが支配していた領域の半分以上を奪い返すまでになっていた。
失われた都市には再び人が住み、荒れ果てていた畑には作物が植えられ、奪還した領域核を中心として新しい防衛線が築かれていく。
もう人類は、滅亡の日を怯えて待つだけの種族ではなかった。
二十年目にはついに、『生き残るための防衛戦』ではなく、『世界を取り戻すための戦争』を始めた。
◇ ◇ ◇
「勇者殿!」
叫び声に、二十三年目の戦場へ意識を引き戻される。神殿へ続く正面階段を駆け上がってきた騎士が、顔を血まみれにしながらも笑っていた。
「中央防衛陣、突破しました! 領域核まで道が開いています!」
「了解! 動ける奴は俺についてこい!」
俺も走り出す。
神殿内部へ雪崩れ込む兵士たちの間を抜け、最深部を目指した。途中で立ちはだかった魔族を斬り伏せ、魔法で扉を吹き飛ばし、最後の守護者として現れた巨大な甲冑の魔物を、その大剣ごと壁へ叩き込む。
そして辿り着いた最奥の部屋、その中央には、巨大な水晶にも似た神造の領域核が浮かんでいた。表面を流れる幾何学模様は、人類にも魔族にも完全には理解できない神代の術式だ。
「これで……!」
現在刻まれている魔族側の支配印へ剣を突き立てると、凄まじい反発が腕を襲った。床全体が揺れ、赤黒い稲妻が皮膚を焼く。それでも構わず剣を押し込み、自分の魔力を神造の術式へ叩きつけた。
「ようやくここまで来たんだ。今さら、この程度で止まれるか!」
軋むような音とともに支配印へ亀裂が走り、さらに魔力を流し込むと、魔族の紋章が砕け散った。
「王国印を!」
「ここに!」
後ろから駆け込んできた神官が、人類側の支配紋を刻んだ金属板を差し出す。それを受け取り、領域核へ接触させた瞬間、世界から音が消えたような静寂が訪れた。
直後、神殿中央から青白い光の柱が天へ伸びる。光は雲を貫き、そこから波紋となって大地へ広がっていった。城塞を包んでいた赤黒い結界が端から崩れ落ち、代わって淡い青色の光が空と大地を覆っていく。
城外で戦っていた魔物たちが苦しみ始め、魔族軍が一斉に撤退へ転じた。
「……取った」
誰かの呟きが聞こえた。
「取ったぞ!」
次の瞬間には、神殿そのものを揺らすほどの歓声が沸き起こった。兵士たちは剣を掲げ、神官は人目も憚らず泣き、血まみれになった仲間同士が互いを抱き締めている。
俺はしばらくその光景を眺めていたが、急に全身から力が抜け、近くの壁へ背中を預けるようにして腰を下ろした。
「……疲れた」
隣へ腰を下ろした顔なじみの神官が、珍しいものでも見たようにこちらを見た。
「ようやく人間らしいことを仰いましたね」
「俺を何だと思ってるんだ」
「もう随分と長い付き合いになりますけど、あなたが疲れたなんて言うの初めて聞きましたよ。ゴーレムだって、もう少し休むんじゃありません?」
「お前、俺のこと人間だと思ってなかったのかよ」
思わず笑うと、神官も釣られたように笑った。けれど、まだ終わりではない。今回奪還した領域によって、ようやく魔王領の中枢へ軍を進めるための道が開いたにすぎない。ここから先にも、まだ複数の領域核が残っている。
それでも、俺がこの世界へ落とされた頃、人類は明日の朝を迎えられるかどうかすら分からなかった。それが今では、魔王を倒した後の未来を語っている。
「……もう少しだな」
自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
◇ ◇ ◇
そこから先も、決して簡単ではなかった。
次の領域核を奪うまでに半年を費やし、その次の戦場では古龍に迫るほどの魔物が現れて軍の三割を失った。さらに別の戦場では俺自身も片腕を失いかけ、最後の領域核を巡る戦いでは七日七晩、満足に眠ることすらできなかった。
それでも、人類は前へ進んだ。
領域を一つ取り返すたびに街が蘇り、畑が作られ、人々が帰ってくる。俺がこの世界へ来た時には赤ん坊だった子供が成長して兵士となり、さらにその子供を連れて解放された故郷へ帰っていく姿を見た時には、さすがに自分が長くここに居すぎたことを思い知らされた。
高校生だった頃の顔は、もう鏡の中には残っていない。
そして二十六年目。俺たちは、ついに魔王城へ辿り着いた。
◇ ◇ ◇
魔王は強かった。
当然だ。人類を最後の一国まで追い詰め、この世界のほとんどをその支配下へ置いた存在が、弱いはずもない。
城は戦いの余波で崩れ、俺の剣も途中で大きく刃こぼれし、意識を失いかけた回数など覚えていない。それでも、邪神から与えられた勇者としての力も、古龍から分けてもらった力も、この世界へ来てから二十六年かけて磨き上げた剣も魔法も、持っているものすべてを限界まで引き出した。
そして最後には、仲間たちが命懸けで作ってくれた一瞬の隙へ、残された全てを叩き込んだ。何が最後の勝敗を分けたのかは、今でもよく分からない。ただ一つ覚えているのは、胸を貫かれた魔王が、
「……見事、だ」
と小さく呟き、その巨体を崩れ落としたことだけだった。
長かった戦争が終わった。しばらくは歓声も聞こえなかった。俺は瓦礫だらけになった玉座の間へ座り込み、傷だらけになった剣を傍らへ放り出したまま、ただ天井を見上げていた。
「……終わった」
二十六年だった。
地球が今どうなっているのかは分からない。父さんや母さんはまだ生きているのか、友人たちはどうしているのか、突然失踪した俺が向こうではどう扱われたのか、それすら知らない。
それでも。
ようやく帰れるかもしれない。あの邪神を見つけて、地球へ帰せと要求しよう。ついでに二十六年分の文句も言って、一発くらいは殴ってやる。そんなことを考えていた時だった。
『……へえ』
声が響いた。
耳から聞こえたものではない。もっと深い、魂そのものへ直接触れてくるような声だった。
『本当に倒したんだね』
「……誰だ」
『今は気にしなくていいよ。君をここへ放り込んだ神とは昔からの付き合いでね。相変わらず、随分と勝手なことをしているらしい』
「神って……」
心当たりは一柱しかいない。
『君がここまで来るとは、あの神も思っていなかっただろうね。彼女の勝手に巻き込まれた君へ、せめてもの補償だ。少しだけ、力を貸そう』
「待て、何の――」
問い返すより早く、身体の奥へ新しい何かが入り込んだ。二十六年前に邪神から力を押しつけられた時と似ているようで、その実まったく違う。神聖でありながら鋭く、ただ一つの目的――神という存在へ刃を届かせることに特化したような力だった。
『この世界が滅びずに済んだ以上、君をここへ放り込んだ本人も、そう遠くないうちに思い出すはずだよ』
「……あいつ、俺のこと忘れてるのか?」
『可能性は高いね』
「最悪だな……」
『まあ、会えば分かるよ。せいぜい驚かせてやるといい』
声はそれだけ言い残して消えた。俺はしばらく黙ったまま自分の掌を眺め、それから深々と息を吐いた。
「……神様って、まともなのいないのか?」
そして数日後。二十六年前に聞いた、忘れようにも忘れられない声が響いた。
「やっほー。久しぶり」
振り返った俺は、一瞬だけ言葉を失った。
二十六年前、確かに見ていたはずなのに、美しいということ以外は何一つ理解できなかった女が、今度ははっきりと見えている。
髪の色も、瞳も、顔立ちも、その身を包む衣装も、楽しそうに細められた目も。あの日の俺には「美しい女」としか認識できなかった存在を、今の俺はようやく、一柱の女神として正しく見ることができていた。
邪神はそんな俺の変化にも気づいたらしく、少しだけ目を丸くした後、嬉しそうに笑った。
「あれ。今はちゃんと私が見えるんだ」
「……お前」
「すごいねえ。本当に世界救っちゃったんだ」
「お前えええええええええっ!」
二十六年分の恨みを込めて、俺は迷わず殴りかかった。
◇ ◇ ◇
もちろん、そんな衝動任せの一撃がまともに通るはずもなかった。
全力で振り抜いた拳は邪神の顔へ届く寸前、何かに阻まれたようにぴたりと止まる。普通なら突然殴りかかられて怒るところだろうが、こいつの場合は正反対だった。
むしろ、嬉しそうに笑った。
「いいね。やっぱり今の君、面白そう」
「こっちは二十六年分、本気で腹立ってるんだが」
「うんうん。それで?」
「それで、じゃねえよ。地球に帰せ」
「じゃあ私と戦おうか」
「なんでそうなる!?」
「君が勝ったら、ご褒美あげる」
「いらん!」
「えー」
「褒美じゃなくて、まず地球に帰せ!」
「それはそれとして、久しぶりに面白そうだから戦おうよ」
「人の話を聞け!」
相変わらずだった。ただし、二十六年前とは一つだけ決定的に違う。あの頃、俺とこいつの間には、人間と神というどうしようもない壁があった。今も、その壁が消えたわけではない。けれど俺は、この世界で二十六年間戦ってきた。
古龍と殴り合ってその力を受け継ぎ、魔王を倒し、この世界で学んだ剣と魔法を極限まで磨き上げ、ついには別の神から神へ対抗するための力まで与えられた。邪神はそんな俺を上から下まで眺めると、まるで新しい玩具を見つけた子供のように目を輝かせた。
「うん。今の君なら、ちょっとくらい遊べそう」
「だから、遊ぶ気はないって言ってるだろ」
「大丈夫。ちゃんと制限するから。神として使える力はここまで。世界そのものを直接弄るのは禁止。未来を見るのもなし。存在を直接消すようなのも一瞬で終わっちゃうから無し。それから――」
指を折りながら次々と自分へ制約を課していき、最後に邪神は楽しそうに笑った。
「これなら、百万回くらいやれば一回くらい勝てるんじゃない?」
「戦わなくていいし、褒美もいらない。魔王倒したんだから地球へ帰らせろって!」
相変わらず人の話をまったく聞く気がないらしく、邪神が楽しそうに戦闘態勢を取ったため、俺も諦めて剣を構えた。
◇ ◇ ◇
それから、どれくらい長く戦っていたのか。正直なところ、今となっては俺自身にもよく分からない。
一時間や二時間ではなかった。それだけは確かだ。何度か空の色が変わった記憶があるから、少なくとも数日は経っていたのかもしれない。けれど途中からは、そんなことを数える余裕など完全になくなっていた。
そもそも戦っていた場所が最後まで同じ世界だったのかすら怪しい。大地の上に立っていたはずが、気づけば星空のような場所で斬り合っていたこともあるし、その次の瞬間には見覚えのない荒野へ叩き落とされていたこともある。
あれが数日だったのか。数ヶ月だったのか。あるいは神の力によって時間そのものがおかしくなり、下手をすれば何年にも等しい時間を戦い続けていたのか。
もう覚えていない。
山だったはずのものが途中で一つ消えていたことだけは覚えているが、俺が壊したのか邪神が吹き飛ばしたのか、それすら曖昧だった。
邪神は約束通り、自分自身へ大量の制限を課していた。それでも、強かった。本当に、どうしようもないほど強かった。
俺は邪神から与えられた勇者の力を使い、古龍から受け継いだ力を重ね、二十六年間磨き続けた剣と魔法を振るい、さらに名も知らない神から与えられた対神の力まで使った。
それでも何度死にかけたか分からない。後から思い返しても、どうやって防いだのか説明できない攻撃すらいくつもあった。本来なら、勝てなかったのだと思う。
百万回戦えば一回くらい――邪神が最初に笑いながら言った確率ですら、もしかすると甘かったのかもしれない。
それでも最後の最後。絶対に存在しないはずだった隙が、ほんの一瞬だけ生まれた。なぜ見えたのか、自分でも分からない。ただ、二十六年間、どんな絶望的な状況でも突破口を探し続けてきた俺には、それが確かに見えた。
気づいた時には、身体が動いていた。
剣を振るう。邪神が初めて目を見開く。そして、その刃が彼女の身体を貫いた。
「あ――」
世界が止まったような気がした。俺自身も、しばらく何が起きたのか理解できなかった。その沈黙を破ったのは、邪神だった。
「あは」
小さく笑う。そして次の瞬間には、心底楽しそうな笑い声を響かせた。
「あははははははは! 負けた! 本当に負けた!」
「……何笑ってるんだよ」
「だって私、人間に負けたんだよ? すごい! 本当に勝っちゃったんだ!」
「こっちは……死にそうなんだが……」
「楽しかったあ」
身体が淡い光へ変わり始めているというのに、それでも邪神は満足そうだった。
「こんなに楽しかったの、本当に久しぶり」
「……そうかよ」
「うん。だから、ご褒美あげるね」
「だから、いらないって……」
「私の半分」
「……は?」
嫌な予感がした。この邪神と出会って以来、嫌な予感が外れた試しは一度もない。
「神力も、神格も。半分あげる」
「ちょっと待て。何を勝手に――」
「じゃあ、私が次に起きたらまた遊ぼうね」
「待て待て待て!」
「今度は先輩後輩だね。後輩ちゃん」
「誰が後輩だ!」
邪神の指先が俺の額へ触れた瞬間、二十六年前とは比べものにならないほどの何かが、魂の奥深くへ直接叩き込まれた。
あの時与えられた勇者の力が、俺という人間へ新しい力を付け加えるものだったとすれば、今度はまるで違う。流れ込んできたのは、単なる膨大な力ではなかった。
一柱の神を神たらしめているもの――その神力も、神格も、存在そのものを形作っている根幹までを、丸ごと半分押しつけられている。
人間として二十六年間使い続けてきた身体も魂も、そんなものを受け入れるようにはできていない。壊れる、と思った次の瞬間には、その予感さえ追いつかないまま、俺という存在そのものが内側から作り替えられ始めていた。
骨格が変わり、筋肉が組み直され、臓器さえ人間だった頃とは違うものへ変化していく感覚があった。いや、もはや肉体を改造しているのではない。人間という存在そのものを一度壊し、『神』と呼ばれる何かへ再構築しているのだと、本能的に理解できた。
どれほど時間が経ったのかは分からない。気がついた時には、俺は静まり返った空間の中で膝をついていた。
「……なん、だ……?」
自分の声を聞いて、思わず口を閉じる。
高い。
聞き慣れた自分の声とは、明らかに違っていた。
視界の端を、銀白色の何かがさらりと流れる。髪だった。肩どころか、その遥か下まで届くほど長い銀白の髪が、自分の身体から伸びている。
「…………」
嫌な予感がした。今日何度目になるか分からないが、やはり今回も外れなかった。
立ち上がろうとした瞬間、身体の重心が以前とはまるで違うことに気づく。胸元が妙に重く、腰の位置も、脚の感覚も、二十六年間使い続けてきた身体とは何もかもが違っていた。
恐る恐る視線を下へ向ける。
「………………」
制服だった。
高校時代に見慣れていたものによく似た制服。ただし男子用ではない。どう見ても女子制服である。そして、その胸元は制服の想定を明らかに超えるほど大きく膨らんでいた。
「………………は?」
細くなった腕。長い銀白の髪。明らかに女性のものへ変わった身体。近くに鏡など存在しないのに、神になった影響なのか、不思議と今の自分の姿が理解できた。
銀白色の長い髪に、澄んだ青い瞳。どこか若々しさを残した顔立ちでありながら、身体はそれと対照的なほど女性らしく、どう考えても普通の人間にはあり得ないほど整っている。
「……へぇ」
薄れかけた声が聞こえた。
振り返ると、先ほどまでそこにいた邪神は、もう身体の輪郭すら保てなくなりつつあった。その存在は端から淡い光へほどけ、長い眠りへ沈んでいくように少しずつ消えている。それでも最後まで、邪神は楽しそうだった。俺の新しい姿を上から下まで眺めると、何かとても面白いものを見つけたように目を細める。
「君、そういう子がタイプなんだ」
「……は?」
聞き返した時には、もう遅かった。
「じゃあね、女神ちゃん。また今度遊ぼうね」
「待て。女神ってどういう意味だ」
返事はない。邪神の姿は完全に光へ溶け、そのまま跡形もなく消えてしまった。
「おい」
静寂だけが返ってくる。
「おい! 説明してから消えろ!」
当然ながら、返事はなかった。俺はしばらく邪神が消えた場所を睨んでいたが、やがて恐る恐る、もう一度自分の身体へ視線を落とした。そこにあるのは銀白の髪と女子制服、そしてどこからどう見ても女性にしか見えない身体だった。
「…………」
数秒の沈黙の後。
「はああああああああああああああああっ!?」
二十六年間、魔王と戦った時も、国が滅びかけた時も、邪神と殴り合った時でさえ、ここまで情けない叫び声を上げた記憶はなかった。
こうして俺は、一つの世界を救った末に。
なぜか女神になったらしい。
評価・感想いただけると嬉しいです。