TS女神の地球救済政策 ~26年かけて異世界を救った元勇者、絶世の女神になって帰還したら地球が滅びかけていたので、ダンジョン災害で救います~ 作:TS女神
「……四十二、になるのかな」
そう答えた瞬間、それまでとは種類の違う沈黙が玄関へ落ちた。
俺の姿が女になっていることも、異世界へ行っていたという話も、家族からすれば十分すぎるほど現実離れしている。それでも「二十六年間向こうで生きていた」という事実は、それらとはまた別の意味を持っていたらしい。
母さんは何か言おうとして口を開きかけ、そのまま言葉を失っている。美羽もさっきまでの勢いが嘘のように黙り込み、父さんだけが俺の顔を見たまま、しばらく何かを考えていた。
「……とりあえず、座って話そう。さすがに、これ以上玄関でする話じゃない」
「……うん」
最初に口を開いた父さんへ、さっきまでなら「ああ」と返していたはずなのに、何となく今はそう答えた。
靴を揃えて家へ上がり、廊下へ一歩踏み込む。それだけのことなのに、胸の奥が妙に騒がしくなった。
懐かしい。
当然ながら、二十六年前の記憶とすべてが同じというわけではない。壁紙の一部は変わっているし、棚の上には知らない小物が増えている。昔置かれていた家具がなくなり、代わりに見覚えのない収納棚が置かれている場所もあった。
それでも、ここは間違いなく俺の家だった。廊下の角を曲がる時に身体が勝手に内側へ寄る癖も、居間へ続く扉へ自然と手を伸ばす感覚も、二十六年離れていたとは思えないほど残っている。今の身体そのものは今日できたばかりなのだから、正確には魂に染みついていると言うべきなのかもしれない。
「……そこ座って」
美羽に促され、居間のソファへ腰を下ろしたところで、昔とは少し違う目線の高さに気づいた。
そもそも今の身体は、男子高校生だった頃の俺より背が高い。脚の長さも腰の位置も何もかも違っていて、自分の家の家具を基準にすると、改めてこの身体が別物になったことを思い知らされる。
そんな俺の正面へ父さんが座り、母さんは少し迷ってからその隣へ腰を下ろした。美羽はテーブルを挟んだ斜め前へ座り、先ほどまで俺の足元を歩いていた猫は、当然のような顔で居間までついてきている。
家族三人分の視線が集まり、魔王軍の幹部に囲まれた時より居心地が悪い気がした。さすがに大袈裟かもしれないが、今の俺にとってはこちらの方が遥かに緊張する。
「それで」
父さんが口を開いた。
「二十六年というのは、本当なのか」
「本当だよ。俺が向こうへ行った時が十六で、そこから二十六年だから……四十二。たぶん計算は合ってる」
「たぶんって」
美羽が思わず突っ込んでくる。
「いや、途中から自分の誕生日なんてまともに祝ってなかった時期も長かったんだよ。向こうの暦も、地球と一年の長さが完全に同じってわけじゃなかったし」
「じゃあ四十二っていうのも?」
「地球基準に直して大体そのくらいってこと。向こうで過ごした時間が二十六年なのは間違いない」
そこまで答えると、母さんが俺の顔をじっと見つめながら、まだ理解が追いつかないというように呟いた。
「四十二歳……」
「見えないよな」
「そういう問題じゃなくて」
「はい」
反射的に返事をした俺を見て、母さんが複雑そうな顔をする。その表情があまりにも昔のままで、少しだけ笑いそうになった。
「……悠真」
「ん?」
「最初から話してくれる?」
今度は、はっきり名前を呼ばれた。玄関で初めて聞いた時ほどではないにしても、それだけで胸の奥が少し詰まる。
「二年半前、何があったのか。どこへ行って、そこで何をしていたのか。それから……どうして今、そんな姿になっているのか」
「……分かった」
どこから説明するべきか少し考える。
セレイスや神格の話まで最初から全部盛り込めば、余計に分からなくなるだろう。まずは、あの日に何が起きたのかから話すのが一番いい。
「俺がいなくなった日、高校から帰る途中だったのは覚えてる?」
「もちろんよ。学校は普通に終わってた。友達と途中まで一緒だったことも警察から聞いてる」
「ああ。そこまでは俺の記憶とも同じ。で、一人になって家へ帰ろうとしてたら……気づいた時には、真っ白な場所にいた」
「真っ白な場所?」
美羽が聞く。
「上下も左右もよく分からない、何もない空間。そこに女が一人いてさ」
「女?」
「……神様」
言った瞬間、三人の顔が揃って何とも言えないものになった。
「そこでもう信じられないと思うけど、本当に神だった。正確には、本人が邪神って名乗ってた」
「邪神って自称する神様いるの?」
「いたんだよ。それもめちゃくちゃ楽しそうに」
「最悪じゃん」
「そうなんだよ」
思わず即答すると、美羽が少しだけ顔を引きつらせる。美羽だけは「異世界へ飛ばされた」という話そのものには妙に理解が早いが、両親はまだどこまで現実として受け止めればいいのか分からないらしい。
「その邪神が、俺に『世界を一つ救ってみない?』って言ってきた」
「……お兄ちゃん、行くって言ったの?」
「言うわけないだろ。即断ったよ」
「だよね」
「普通の高校生に、いきなり世界を救えって言って『はい分かりました』ってなるわけないだろ?」
「それはそう」
「でも、その神は俺の返事なんか聞いてなかった。勝手に力を押しつけて、そのまま異世界に放り込んだ」
「……誘拐じゃない」
母さんが低い声で言う。
「まあ、そうなるな」
「そうなるな、じゃないでしょう」
「いや、俺も当時めちゃくちゃ怒ったよ」
「当たり前です」
その返しまで昔と同じだった。
俺が何かやらかした時、母さんはよくこういう言い方をしていた。二十六年ぶりに怒られているのに、妙なところで懐かしさを覚えてしまう。
「落とされた先は、剣と魔法がある世界だった。魔物もいたし、人間以外の種族もいた。それで……その時にはもう、人類がかなり負けてた」
「どのくらい?」
「国が一つしか残ってなかった」
今度は美羽も黙った。
「世界のほとんどを魔王って呼ばれてる奴の勢力に取られてて、人間は最後の国に押し込まれてた。俺が落とされた時も、その国の街が魔物に襲われてる最中だった」
「そこに高校生を一人で?」
父さんの声が低くなる。
「一応、普通の人より強くなる力はもらってた。でも、いきなり何でも倒せるようになったわけじゃない」
「……怪我は?」
母さんが間を置かずに聞いた。
「したよ。普通に」
「どのくらい」
「母さん」
「どのくらい?」
声が少し強くなり、誤魔化せそうにもなかった。
「骨折とか、毒とか、腹を裂かれたりとか……」
「腹を?」
「あ、いや、死んでないから。見れば分かると思うけど」
「そういう問題じゃないでしょう!」
「ごめん」
反射的に謝ってから、自分でも少し疑問に思う。
いや、俺が悪いのだろうか。たぶん悪くない。それでも母親に怒られると、とりあえず謝ってしまうのは昔から変わっていなかった。
「お母さん」
美羽が母さんの腕へ触れる。
「今は最後まで聞こう」
「……分かってるけど」
母さんはそう言いながらも、俺の身体をもう一度見た。怪我の痕など、今の神体には何一つ残っていない。それが安心材料になるのか、それとも余計に現実味をなくすのかは分からなかった。
「最初の数年は、生き残るだけで必死だった。剣も魔法も現地の人に教えてもらったし、戦い方も、魔物から逃げる方法も、全部向こうで覚えた」
「それで二十六年?」
「いや。五年くらい経った頃に、初めて魔王側に取られてた土地を一つ取り返した」
「五年……」
「そこから少しずつ取り戻していった。十年、十五年、二十年って続けて、最後に魔王を倒したのが二十六年目」
言葉にしてしまえば、本当に短い。二十六年もあったはずなのに、こうして説明すればほんの数分で終わってしまう。
けれど、その間に何人と出会い、何人と別れ、どれほどの土地を歩いたのか。戦った回数など途中から数えていないし、死にかけた回数も覚えていない。
「向こうでは、何ていうか……勇者って呼ばれてた」
「勇者」
美羽の目が少しだけ変わる。
「本当に?」
「そこだけ急に食いつくな」
「だって勇者でしょ?」
「まあ、そう呼ばれてたのは本当」
「魔王倒した?」
「倒した」
「剣と魔法使える?」
「使える」
「ドラゴンは?」
「友達にいる」
「待って待って待って」
美羽が両手を上げた。
「情報量おかしくない?」
「さっき俺が言われたやつだな、それ」
「二十六年ってそういう二十六年なの!?」
「どういう二十六年想像してたんだよ」
「いや、もっとこう……異世界の普通の町で暮らしてましたとか」
「それならどれだけ楽だったか」
思わず苦笑したが、母さんは笑わなかった。
「……仲間は?」
「いたよ」
「今も?」
「生きてる奴もいる」
「亡くなった人もいるのね」
「…………うん」
そこだけは軽く返せなかった。
最初の頃に剣を教えてくれた人間も、領域核を取り返す戦いで死んだ奴も、魔王城まで一緒に来られなかった仲間もいる。二十六年は俺一人だけの時間ではなく、思い返せばいくらでも顔が浮かんでくる。
「俺が地球に帰りたいって言ってたのは、向こうの仲間も知ってた。だから魔王を倒して、ようやく帰れると思ったんだ」
「……それで帰ってきたの?」
美羽に聞かれ、俺は首を振った。
「その前に、最初の邪神がまた出てきた」
「嫌な予感しかしないんだけど」
「正しい」
「何されたの?」
「戦わされた」
「何で!?」
「俺が聞きたいよ!」
二十六年経っても、そこについては納得していない。
「向こうは面白そうだから。俺は地球へ帰せって言った。でも話を聞かない。それで、勝ったら褒美をやるとか言い出して……結局戦うことになった」
父さんが眉を寄せる。
「神と?」
「ああ」
「勝ったのか」
「……勝った」
三人が揃って黙る。
何となく分かる。俺自身だって、改めて口にすると意味が分からない。
十六歳で異世界へ飛ばされ、二十六年後に魔王を倒し、その数日後に神まで倒した。自分でもよく生きていたものだと思う。
「もちろん、向こうは滅茶苦茶手加減してたけどな。神としてできることを大量に禁止して、自分の力にも制限かけてた。それでも本来なら、百万回戦って一回勝てるかどうかって言われた」
「……それで一回目で勝ったの?」
美羽が恐る恐る聞く。
「結果だけ言えば」
「お兄ちゃん、実は頭おかしい?」
「何でだよ」
「だって百万分の一でしょ?」
「俺だって好きでそんな確率に突っ込んだわけじゃない」
とはいえ、今になって考えれば《運命打破》という神格まで生えてきた以上、あの勝利そのものが俺の性質を表していたのかもしれない。そこまで説明するとさらにややこしくなるので、今は黙っておく。
「それで勝った後、その邪神が……自分の力と神格を半分、俺に押しつけてきた」
美羽が固まった。
「神格?」
「神を神にしてるもの、くらいに思ってくれればいい。それで俺の身体が作り替えられて、人間じゃなくなった」
母さんの視線が、今の俺の身体へ向かう。
「それで……女の人に?」
「ああ。そこは俺も聞きたい」
「分からないの?」
「分からない。普通に神になるだけなら、本人の理想の姿に近い身体になるらしいんだけど」
「じゃあ、お兄ちゃんの理想がそれ?」
美羽が真顔で言った。
「違う!」
「でもそういう仕組みなんでしょ?」
「だから、俺の場合だけ何かおかしいんだって!」
「その邪神が何かしたんじゃないの?」
「……俺も最近そう思ってる」
俺だけ神体の出来方がおかしい以上、あいつが何か余計なことをした可能性はある。ただ、今のところ確証はなかった。
「まあ、その辺もそのうち調べるよ」
「つまり」
父さんが話を整理するように口を開いた。
「二年半前、お前は神を名乗る何者かに別世界へ連れ去られた。そこで二十六年間過ごし、その世界の魔王を倒した。その後、最初にお前を連れ去った神と戦って勝ち、その力を受け継いだ結果……今のお前になった」
「大体それで合ってる」
「……大体で済ませる話か?」
「俺もそう思う」
父さんは額へ手を当て、その隣では母さんが静かに俺を見ている。
「じゃあ、悠真は……」
「うん」
「人間じゃ、ないの?」
一瞬、答えに迷った。
セレイスには、もう完全に神だと言われている。身体も魂も人間とは違い、老いることもなければ、食事も睡眠も生きるためには必要ない。
「……今は、神らしい」
「らしい?」
「俺も今日知ったばっかりなんだよ」
「今日なったって、さっき言ってたもんね」
美羽が呟き、それから思い出したように俺を見る。
「じゃあ本当に、今日まで男だったの?」
「そうだよ」
「四十二歳のおじさん?」
「おじ……」
一瞬、言葉に詰まった。
「四十二ならおじさんでしょ」
「いや、まあ……そう言われると否定しづらいけど」
「中身四十二歳のおじさんが、今はその見た目?」
「やめろ。改めて言われると俺も混乱する」
美羽が俺の姿をじっと見つめてくるので、何となく視線を逸らした。
「……人生って分かんないね」
「俺の人生を基準にするな」
少しだけ空気が緩んだところで、足元をうろついていた猫が突然ソファへ飛び乗った。
「おっと」
反射的に両手を出したが、猫はそのまま俺の太腿の上へ当然のように乗り、二、三度身体を回してから丸くなる。
「…………」
「…………」
俺と美羽の視線が重なった。
「何だよ」
「いや……完全に寛いでるなって」
「俺が知るか」
「そこ、昔もよく乗ってたよね」
「乗ってたな」
当時は制服のズボンの上だったが、今は身体つきそのものが違うせいか、同じ猫が膝の上に乗っているだけなのに妙に感覚が違う。
「重くなったな、お前」
背中を撫でると、猫は気にした様子もなく目を細める。
「神様なのに猫に乗られてる」
「神様だって猫くらい乗るだろ」
「知らないよ」
「俺も知らない」
どうでもいい会話をした後、ふと母さんへ目を向けると、その頬を涙が伝っていた。
「……母さん?」
声をかけると、母さんは慌てたように目元を押さえる。
「ごめん。違うの。何て言えばいいか、分からなくて……」
その声が震えていた。
「まだ全部信じられたわけじゃないの。本当にそんな世界があるとか、神様がいるとか、悠真が四十二歳だとか……何を聞いても、頭では全然追いついてない」
「うん」
「でもね、あなたがいなくなってから、ずっと考えてたの」
何を、と聞くことはできなかった。
「事故なのか、事件なのか。どこかで生きているのか。それとも、もう……」
そこで声が詰まる。
俺がいなかった二年半。
俺にとっては二十六年だったけれど、家族にとっては「突然消えた息子を探し続けた二年半」だった。
警察にも行っただろう。学校にも、友人にも話を聞いたはずだ。見つかるかもしれないと思った日も、もう無理なのかもしれないと思った日もあったのだろう。
「何度も、せめて生きてるのかどうかだけでも知りたいって思った。どこかで元気にしてるなら、それだけでもいいって」
「…………」
「だから……」
母さんは立ち上がり、テーブルを回り込んで俺のすぐ前まで来ると、そこで一度足を止めた。
今の俺の方が背が高い。座っているから見上げているだけで、立てばたぶん母さんを見下ろすことになる。それも、昔とは違っている。
「触っても、いい?」
「え?」
「……悠真なら」
答えるより先に、胸の奥が詰まった。
「うん」
母さんの手が、恐る恐る俺の頬へ触れる。
温かい。
神になった今の俺にも、ちゃんとそう感じる。指先は頬から耳元へ動き、銀白色の髪を少しだけ撫でた。
「全然違うわね」
「……うん」
「私の知ってる悠真じゃない。こんなに綺麗な顔じゃなかったし」
「そこは言わなくてよくない?」
思わず返すと、母さんの口元が僅かに歪んだ。
泣きながら、笑っていた。
「でも、本当に……そういうところは何にも変わってない」
「…………」
次の瞬間、抱き締められた。
「母さん?」
身体が固まる。
二十六年前なら、たぶん恥ずかしくてすぐ離れようとした。高校二年生の男子が母親に抱き締められるなど、当時の俺なら絶対に嫌がったと思う。
けれど今は、腕が動かなかった。
「生きてた……」
耳元で、母さんの震える声が聞こえる。
「生きてたのね……」
「…………うん」
ようやく、それだけ返した。
「ごめん」
「何で悠真が謝るの」
「だって、二年半……」
「あなたが好きでいなくなったんじゃないんでしょう?」
「……そうだけど」
「だったら、謝らなくていい」
そう言われても、何も言えなかった。
俺にとっては二十六年間。その間ずっと、家へ帰りたいと思っていたけれど、帰ることはできなかった。
家族からすれば、ある日突然消えて二年半音沙汰もなかった息子だ。その時間をなかったことにはできない。
「……おかえり」
耳元で聞こえた言葉に、息が止まった。
二十六年間、何度も聞きたいと思った言葉だった。異世界へ落とされたばかりの頃も、死にかけて眠れない夜も、魔王を倒した後も、ずっと。
帰ったら、きっと誰かが言ってくれると思っていた。
もしかすると、その言葉を聞くために帰りたかったのかもしれない。
「…………」
喉が動かない。
今の身体に涙が必要なのかどうかも知らない。それでも視界が滲み、頬を何かが流れていく。
神様でも、泣くらしい。
「……ただいま」
やっと、それだけ言えた。
母さんの腕に少しだけ力が入り、横を見ると、美羽まで目元を擦っている。
「お前も泣いてる?」
「泣いてない」
「いや泣いてるだろ」
「うるさい!」
声が完全に泣いていた。
父さんは何も言わず、しばらく黙って俺たちを見ていたが、やがて深く息を吐いた。
「……まだ聞きたいことは山ほどある。正直、今の話を全部信じろと言われても無理だ」
「分かってる」
「だが、少なくとも、お前が悠真じゃないと考える方が、だんだん難しくなってきた」
「……それ、褒められてる?」
「知らん」
「父さんまでそれかよ」
久しぶりに聞いた気がする。
父さんとの、こういうどうでもいいやり取り。
「それに、四十二歳なら、もう子供扱いしていい歳でもないんだろうが……」
「そこは俺もどうしたらいいか分かんないんだよ」
精神年齢だけなら、もう父さんたちと同じ大人の側にいる。少なくとも、親に子供扱いされて当然だった十六歳の俺ではない。けれど俺からすれば、父さんは父さんだし、母さんは母さんだ。
「まあ、その辺は後で考えればいい」
「適当だな」
「今日だけで考えることが多すぎる」
「それは本当にそう」
全員が同意できるのは、そこだけかもしれない。
母さんがようやく身体を離すと、俺の膝の上では、その間も猫が一度たりとも移動せずに寝ていた。
「お前、図太いな……」
背中を撫でると、猫は尻尾だけを動かす。
「それで、お兄ちゃん」
「ん?」
美羽が鼻をすすりながらこちらを見る。
「まだ聞いてないことあるんだけど」
「何だよ」
「神様になったって言ったよね」
「言ったな」
「証拠、何かある?」
「…………」
そこで初めて気づいた。
ここまで俺は、ほとんど言葉だけで説明している。家族側からすれば、俺が本人らしいということと、異世界や神の話が事実であることは別問題だ。
「あるにはあるけど……」
「見せられる?」
「たぶん」
証拠らしいものなら、魔法を見せるのが一番手っ取り早い。ただし、自宅の居間で適当に魔法を使って家を吹き飛ばすわけにはいかない。少し考えた末に、俺は自分の掌を上へ向けた。
「危なくないやつにするから、ちょっと待って」
「その言い方がもう怖いんだけど」
「大丈夫だって」
人間だった頃なら、最低限の術式を組んで魔力を調整する必要があった。
だが今は、それすら必要ない。
ただ、光を生み出そうと思う。
それだけで掌の上へ、直径十センチほどの淡い光の球が現れた。
「…………」
「…………」
「…………」
三人揃って黙った。
熱もなければ、触れても害はない。ただ明るく光っているだけの、小さな魔力球だ。
「こんな感じ」
「こんな感じ、じゃないよ!」
美羽が一番早く復活した。
「何それ!?」
「魔法」
「本物!?」
「本物」
「触れる?」
「大丈夫」
美羽が恐る恐る指を伸ばし、光球へ触れる。指先がそのまま光の中へ沈み込み、美羽が目を見開いた。
「熱くない……しかも浮いてる」
「明かり用だからな」
「いや説明になってない!」
その通りだった。
母さんも恐る恐る触れてみて、父さんは少し離れた位置からじっと観察している。
「これで異世界の証明になるかは分からないけど、少なくとも普通の人間じゃない証拠にはなるだろ」
「普通じゃないどころの話じゃないと思う」
美羽の声が少し震えている。
「他にもできるの?」
「色々。ただ、家の中で見せるようなものじゃない」
「例えば?」
「この家ごと吹き飛ばすようなのとか」
「絶対やるな」
父さんから即座に止められた。
「やらないよ!」
「今のお前がどの程度常識を持ってるのか、まだ判断できない」
「二十六年生きて常識なくなったと思われてる?」
否定しきれないのが少し悲しい。
「じゃあ本当に……」
美羽が光球と俺を交互に見比べる。
「お兄ちゃん、勇者だったんだ」
「そこ?」
「だって魔法使えるし」
「神になった方じゃなく?」
「神様ってまだよく分かんない。でも魔法は分かる」
「ラノベ基準だろ、それ」
「いいじゃん」
美羽はそう言いながらも、先ほどまでとは明らかに違う目で俺を見ていた。
信じたというより、信じざるを得ないものを一つ目の前で見た、という方が近いのだろう。
「……でもさ」
「ん?」
「そんなに強いなら、もう危ないことしなくていいんでしょ?」
何気なく聞かれた言葉に、返事が止まった。
「…………」
「お兄ちゃん?」
家族に会うことばかり考えていて、一つ忘れかけていた。
俺が今、地球でやらなければならないことは、家族へ帰ることだけではない。この世界そのものが、あと一年ほどで蓄積した負荷を大規模な自然災害として排出しようとしている。そして俺は、その地球を救うための担当神になった。
「……どうしたの?」
美羽が不思議そうにこちらを見る。
「いや」
言うべきか迷った。
今すぐ話せば、ようやく息子が帰ってきた家族へ、続けて「実は地球が滅びかけています」と告げることになる。さすがに酷いし、今日だけでも十分すぎるほどの情報を浴びせている。
「その話は……もう少し後でいい」
「何それ。絶対何かあるじゃん」
「あるけど、本当に今じゃなくていい」
「危ないこと?」
「…………」
「黙るのやめてよ」
「大丈夫」
今度は、はっきり答えた。
「少なくとも、何もできない状況じゃない」
まだ一年ある。セレイスもいるし、方法だって見つけ始めている。
「だから今日は、それより……」
居間を見回す。
二十六年ぶりの家。
泣いた母さんと、まだ目元が赤い美羽。難しい顔をしながらも、もう俺を玄関から追い返そうとはしていない父さん。そして膝の上には、昔より随分重くなった猫がいる。
「俺、家に帰ってきたってことでいいんだよな?」
口にしてから、思っていた以上に不安な声になった。
母さんが少し目を見開き、美羽も俺を見る。最後に父さんが、呆れたような顔で息を吐いた。
「さっきから何のために家へ上げたと思ってるんだ」
「いや、だって完全には信じてないって」
「今も分からないことは山ほどある」
「じゃあ」
「それでも」
父さんは俺の言葉を遮った。
「お前が悠真なら、ここはお前の家だろ」
「…………」
今度は泣かなかった。
危なかったけれど。
「そっか」
「ああ」
「……そっか」
同じ言葉をもう一度繰り返す。
それだけで、二十六年間ずっと胸の奥へ引っかかっていたものが、少しだけほどけた気がした。
俺はようやく、本当の意味で地球へ帰ってきた。