TS女神の地球救済政策 ~26年かけて異世界を救った元勇者、絶世の女神になって帰還したら地球が滅びかけていたので、ダンジョン災害で救います~ 作:TS女神
【Side:一般会社員 佐藤直人】
「……疲れた」
誰に聞かせるでもなく呟きながら玄関の扉を閉め、佐藤直人は肩から下げていた鞄を床へ置いた。
時刻は午後九時を少し回ったところ。二十八歳、独身、一人暮らし。都内の会社に勤め始めて六年目になる、ごく普通の会社員である。
別に今日だけ特別忙しかったわけではない。朝から働き、昼休みには同僚と飯を食い、午後もいつも通り仕事をこなしていた。ただ、終業間際に飛んできた修正依頼のせいで少しだけ帰るのが遅くなった。それだけの一日だった。
だからこそ疲れるのかもしれない。毎日死ぬほど忙しいわけではないが、かといって元気いっぱいで帰宅できるほど暇でもない。社会人になって数年も経てば、そんな何とも言えない疲労感には嫌でも慣れていた。
「飯……風呂……いや、先に飯か」
上着を脱いでハンガーへ掛け、ネクタイを緩めながら冷蔵庫を開ける。昨日買っておいた総菜と冷凍ご飯を見つけると、それで夕食を済ませることにした。そもそも平日の夜に毎日きっちり料理をするほど、直人は生活力の高い人間ではないし、今日は自炊する気力も残っていなかった。
電子レンジが働いている間にスマートフォンを取り出し、惰性でSNSを眺める。友人の投稿、知らない人の炎上、ゲームのアップデート告知、今期アニメの感想。いくつか流し読みした限りでは、世の中は今日もいつも通り動いているらしい。
夕食を終え、風呂へ入り、髪を乾かしてからパソコンの前へ座る。
「十一時まで……いや、十一時半まで」
明日も仕事なのだから早く寝るべきだと自分へ言い聞かせながらゲームを起動したものの、結局終了したのは日付が変わる少し前だった。
デイリーだけ終わらせるつもりだったのだが、途中でフレンドから誘われれば断る理由もなく、そのまま何戦か付き合ってしまったのだ。
しかもゲームを終えたからといって、すぐ眠るわけでもない。今度はベッドへ転がりながら配信サイトを開き、昨日途中まで見ていたアニメの続きを一本だけ再生する。そのまま次回予告までしっかり見終え、ようやくスマートフォンを枕元へ置いた頃には、かなりいい時間になっていた。
「……十二時半か」
明日の朝も七時には起きなければならない。
もっと早く寝ればいいと毎日のように思うのだが、仕事から帰って飯を食い、風呂へ入っただけで一日が終わるのも、それはそれで負けたような気がする。だから少しくらいゲームをしたいし、アニメだって見たい。その結果として睡眠時間が削られるのは、社会人になってから何度繰り返したか分からない習慣だった。
「明日も仕事か……」
最後にもう一度だけスマートフォンを確認し、アラームが設定されていることを確かめてから目を閉じる。
少しだけ開いたカーテンの隙間から街の明かりが薄く差し込み、静かな部屋にはエアコンの動作音と、遠くを走る車の音だけが聞こえていた。
そんな、いつもと何一つ変わらない夜の中で、直人の意識はゆっくりと眠りへ沈んでいった。
◇ ◇ ◇
「…………?」
気がつくと、直人は見知らぬ場所に立っていた。
「……どこだ、ここ?」
ベッドへ入って眠ったところまでは覚えている。だというのに、目の前に広がっているのは見慣れた自室の天井ではなかった。
足元には白い床がどこまでも続いている。ただし石とも金属とも違い、磨き上げられた水面のように淡い光を反射していた。頭上を見上げても天井らしいものはなく、代わりに夜とも昼ともつかない蒼白い空が果てしなく広がっている。
さらに遠くには巨大な白い柱のようなものが何本も立ち並び、その向こうには雲海らしきものまで見えた。
「……夢?」
当然、最初に浮かんだのはそれだった。
自分は間違いなくベッドで眠ったのだから、これは夢なのだろう。ただ、それにしては妙に感覚がはっきりしている。
試しに両手を握ってみれば、指が掌へ食い込む感触がある。しゃがんで床へ触れてみても、冷たいというほどではないものの、滑らかな手触りがきちんと指先へ返ってきた。視界も夢とは思えないほど鮮明で、遠くの柱に刻まれた細かな模様まで見える。
「明晰夢ってやつか……?」
そういうものがあることくらいは知っている。自分が夢を見ていると理解したまま、夢の中を自由に動ける状態。これもその一種だと考えれば、一応は説明がつく。
そう思いながら直人が立ち上がり、改めて周囲を見回した時だった。
「…………え?」
先ほどまで誰もいなかったはずの場所に、一人の女性が立っていた。
もっとも、それを単純に「人」と呼んでいいのか、直人は一瞬迷った。
十メートルほど先、白く輝く空間の中央に佇む女性は、現実に存在する人間とはどこか決定的に違って見えたからだ。
銀白色の髪は腰どころか、それより遥か下まで流れ、風などないはずなのにゆったりと揺れている。閉じられた瞼の下にどんな瞳があるのかはまだ分からないが、白と銀を基調とした衣装には細かな金と蒼の装飾が施され、見たことのない意匠でありながら、一目でそれが特別なものだと分かった。
年齢は二十代前半くらいだろうか。どこか幼さを残した柔らかな顔立ちなのに、不思議と子供っぽさは感じない。それどころか、直人がこれまで現実でも映像でも見たどんな女性とも比べられないほど整っていて、ただ立っているだけなのに目を奪われる。
体つきも同じだった。
細い腰に対して胸や腰回りの曲線は明らかに大きく、現実の人間であれば不自然に感じそうな比率なのに、目の前の女性には奇妙なほど馴染んでいる。むしろ顔立ちや髪、身に纏う衣装まで含めて見れば、人間とは違う存在なのだと納得させられそうな完成された姿だった。
「……すげえな」
思わず声が漏れた。
アニメやゲームの中ならともかく、こんな人間が現実にいるとは到底思えない。もっとも、ここが夢なのだとすれば、それも当然なのかもしれない。
「俺、昨日こんなキャラ出るアニメ見たっけ……?」
銀髪のキャラクターならいたような気もするが、目の前の女性とはまるで違う。
妙に気になった直人は、その姿をもう少し近くで見ようと一歩前へ進んだ。女性はまだこちらを見ておらず、目を閉じたまま両手を身体の前で静かに重ねている。
もう一歩、さらに一歩と近づいても何も起こらない。
「夢なら、近くで見ても別に――」
そう呟きながら、あと数歩というところまで近づいた瞬間だった。
「うおっ!?」
突然、額が何かにぶつかった。
反射的に一歩下がり、恐る恐る目の前へ手を伸ばしてみる。
「……壁?」
何も見えない。それなのに、確かにそこには何かが存在していた。
手のひらを押しつけると、柔らかな反発が返ってくる。ガラスのように硬いわけではないが、力を込めてもそれ以上先へ進める気配はなかった。
試しに横へ移動してみても同じで、少し大きく回り込もうとしても、女性から一定の距離まで近づいたところで見えない何かに遮られる。
「なんだこれ……」
直人が透明な壁らしきものをぺたぺたと触っていると、不意にその場の雰囲気が変わった。
空気が変わった、と表現するのが一番近いのだろうが、そもそもこの場所に普通の意味で空気があるのかさえ分からない。
それでも直人は自然と手を止め、正面へ視線を戻した。
銀白色の髪を持つ女性が、ゆっくりと目を開いている。
現れたのは、澄み切った蒼い瞳だった。
その視線がこちらを向いた瞬間、自分だけをまっすぐ見つめられたような錯覚を覚え、直人は無意識のうちに姿勢を正していた。
女性はそんな彼へ――いや、まるで自分以外にも大勢の誰かがいるかのように、穏やかな微笑みを浮かべる。
柔らかく、親しみを感じさせる笑みだった。
それでいて、先ほどまでアニメのキャラクターを見るような感覚で眺めていた自分が急に恥ずかしくなるほど、その姿には自然な威厳が備わっていた。
「初めまして。この星に生きる皆さん」
やがて響いた声は、決して大きくない。
それなのに、不思議なくらい明瞭に聞こえた。遠くから届いているはずなのに、まるで耳元で穏やかに語りかけられているようだった。
「私は――ルミエラ」
女性――ルミエラは、ほんの僅かに間を置いてから続けた。
「このたび、地球という星を管理する担当神として就任しました」
「…………は?」
直人の口から、小さな声が漏れた。
今、担当神と言ったのか。
新作ゲームのオープニングでも始まったのかと思うような単語だったが、ルミエラは直人の反応など存在しないかのように、穏やかな表情のまま言葉を続ける。
「突然このような形でお会いすることになり、驚かれている方も多いでしょう」
「そりゃ驚くけど……」
思わず返してしまったが、やはり反応はない。
「聞こえて……ないのか?」
今度はわざと少し大きな声で呼びかけてみたが、それでもルミエラはこちらを見たまま言葉を止めなかった。
そこで直人はようやく、この女性と会話ができるわけではないのかもしれないと気づいた。
こちらは自由に動けるし、声を出すこともできる。だがルミエラは、最初から決められていた言葉を誰かへ伝えるように、一定の調子で話し続けていた。
「ですが、今日は皆さんへ、どうしてもお伝えしなければならないことがあります」
その言葉とともに、穏やかだった微笑みが僅かに薄れる。
恐怖を煽るような表情ではない。それでも声と眼差しに少しだけ真剣さが加わったことで、それまでとは空気そのものが変わったように感じられた。
「現在、この地球には危機が迫っています」
「危機?」
さすがに直人も、透明な壁を調べるのをやめた。
「ある異世界から、この地球へ『魔力』と呼ばれる力が流れ込み続けています。これまで地球には存在しなかったその力は、すでに世界そのものへ影響を与え始めました」
「異世界……魔力……?」
聞けば聞くほど完全なファンタジーだった。
さっきまでゲームをして、アニメを見てから寝た人間がこんな夢を見る理由としては、むしろ分かりやすすぎる。
「いやいや。やっぱり夢だろ、これ……」
直人が小声でそう呟いた直後、ルミエラはまっすぐ前を見つめたまま、先ほどよりも少しゆっくりと言葉を続けた。
「そして、その影響によって――およそ一年後、地球各地に『ダンジョン』と呼ばれる領域が発生します」
「…………」
直人は何も言えなくなった。
女神を名乗る銀髪の美女が現れ、自分は地球の担当神だと言い、異世界から魔力が流れ込んでいると告げた挙げ句、一年後には世界各地にダンジョンが発生するという。
「……アニメの見すぎだろ、俺」
そう考えるのが一番自然だった。
昨日自分が触れたゲームやアニメの単語でも適当に寄せ集めれば、もっともらしい夢診断くらいはできそうな内容である。
それでも妙に現実感があるのは、この空間の感覚があまりにも鮮明だからなのだろう。自分の足で立っている感覚も、先ほど触れた透明な壁の感触も、目の前のルミエラの存在感も、普段見る夢とは比べものにならないほど生々しい。
そんなふうに内心で馬鹿馬鹿しいと切り捨てようとしたところで、ルミエラがほんの僅かに表情を和らげた。
「……信じられないと思います」
「まあな」
直人は思わず頷く。
「当然でしょう。これまで魔法も、魔物も、神の存在すら確認されていなかった世界なのですから」
「そこまで分かってるなら、もうちょい信じやすい話から始めてくれよ……」
返事がないと分かっていても、思わず口を挟んでしまう。
しかし、次に告げられた言葉には少し意表を突かれた。
「今すぐ、私の言葉を信じていただく必要はありません」
「……え?」
神を名乗るのだから、もっと「信じなさい」とでも言うのかと思っていた。
宗教について詳しいわけではないが、夢の中へ突然現れた自称女神なのだから、少しくらい信仰を求めてきてもおかしくない。ところがルミエラの声には、信仰も服従も強制するような響きがまったくなかった。
「ですが、どうか今日の言葉だけは覚えておいてください」
蒼い瞳がこちらへ向けられる。
実際には自分一人だけを見ているわけではないのだろう。それでも、なぜか自分へ直接語りかけられているように感じてしまう。
「今、皆さんが見ているものは、ただの夢ではありません。これは、私が地球に生きる皆さんへ届けている――神託です」
「神託……」
直人は小さくその言葉を繰り返した。
ただの夢ではない。
そんなことを言われても、信じられるはずがない。
なのに妙に耳へ残る。
「明日以降も、私は皆さんへ必要なことを順番にお伝えします。一年という時間を、決して無駄にはしません」
そこでルミエラは一度言葉を止め、最初と同じような穏やかな微笑みを浮かべた。
「今夜は、まず私のことと、この地球に起ころうとしている変化だけを覚えておいてください」
長い銀白色の髪が、静かに揺れる。
「それでは、またお会いしましょう」
「え、ちょっと待て。明日もこれ見るのか?」
反射的に問いかけた直後、世界が白く染まった。
「ちょっ――」
直人は手を伸ばしたが、透明な壁も、白い床も、遠くに見えていた柱も、そしてルミエラの姿さえも、一瞬のうちに光の中へ溶けていった。
◇ ◇ ◇
けたたましい電子音が耳へ飛び込み、直人は眉を寄せながら布団の中から手を伸ばした。
「…………ん」
何度か枕元を探り、ようやくスマートフォンを掴む。画面に表示されていたアラームを止めると、そのまま数秒ぼんやりと天井を眺めた。
見慣れたいつもの部屋だった。
カーテンの隙間から朝の光が入り、昨夜脱いだ部屋着が椅子の背もたれに引っかかっている。何一つおかしなところはない。
「夢……だよな」
口に出した瞬間、昨夜の光景が一気に蘇った。
腰より遥か下まで伸びた銀白色の髪。澄んだ蒼い瞳。現実の人間とは思えないほど整った顔と体つき。そして、ルミエラという名前。
地球の担当神。
異世界から流れ込んでいる魔力。
一年後に発生するダンジョン。
「……何だったんだ、あれ」
やけに鮮明だった。
普通の夢なら、起きた直後から細かな部分が少しずつぼやけていくことも多い。それなのに、ルミエラが何を言ったのかは妙にはっきり覚えているし、透明な壁へ手を押しつけた時の感触まで思い出せる。
それどころか、衣装に付いていた青い宝石の位置や、髪が揺れた時の光の反射まで思い出せそうな気がした。
「昨日アニメ見てたせいか……?」
あり得ない話ではない。ゲームもしていたし、ファンタジー作品にも慣れている。脳が適当にそれらを混ぜ合わせ、それらしい夢を作ったとしても不思議ではなかった。
「担当神って何だよ……」
自分で呟いて少し笑いながら起き上がる。
時間を確認すれば、夢についてじっくり考えていられるほど余裕のある時刻でもなかった。顔を洗い、着替え、適当に朝食を済ませる。
夢の内容はまだ頭から離れなかったが、だからといって会社へ行かなくていい理由にはならない。神様が現れようが、一年後にダンジョンができようが、少なくとも今日の始業時間は変わらないのだ。
「行くか……」
鞄を持って家を出て、いつもの道を歩き、いつもの駅から電車へ乗り込む。
朝の車内は普段と変わらず混雑していた。眠そうな会社員や制服姿の学生、イヤホンを耳へ差した人、スマートフォンを眺めている人たちが、それぞれ何事もなかったように朝の時間を過ごしている。
そんな光景を見ているうちに、昨夜の出来事がますます馬鹿らしく思えてきた。
やはり、ただ妙にリアルな夢を見ただけなのだろう。
そう思いかけた時だった。
「ねえ、昨日さ」
すぐ近くに立っていた二人組の若い女性のうち、一人が妙に周囲を気にするような小声で話し始めた。
「変な夢見なかった?」
何となく耳へ入った言葉に、直人は僅かに反応する。
「変な夢って?」
「なんか……女神様みたいな人が出てくるやつ」
「…………え?」
今度は直人ではなく、話を聞いていた女性が驚いた声を漏らした。
「銀色の髪?」
「そう!」
「嘘、私も見たんだけど!」
「やっぱり!?」
直人の視線が、思わず二人へ向いた。
女性たちはこちらには気づいていない。
「なんか地球がどうとか言ってたよね?」
「言ってた。ダンジョンができるとか」
「名前……なんだっけ」
「ル……なんとか」
心臓が一度、大きく鳴った。
偶然。
そう思いたかった。
同じ電車に乗っている二人が、たまたま似た夢を見ただけ。あるいは昨夜どこかで同じ番組でも見ていて、その影響を受けたのかもしれない。
けれど。
「ルミエラじゃなかった?」
「あ、それ!」
「…………」
直人は完全に固まった。
聞き間違いではない。
ルミエラ。
昨夜、夢の中で初めて聞いたはずの名前だ。
慌てて別の方向へ顔を向けると、少し離れたところでは学生らしき二人組も何やら話している。
「俺のやつ、夢の中なのに普通に歩けたんだけど」
「え、俺も」
「女神に近づこうとしたら壁みたいなのなかった?」
「…………」
今度こそ背中に冷たいものが走った。
直人は反射的にスマートフォンを取り出した。
手元が僅かに震えている。
「いや……待てよ」
自分だけではない。
少なくとも、この車両だけで何人も同じような話をしている。
そんな偶然があるのか。
吊り革へ掴まったまま、直人は普段通りの癖でXを開いた。
「…………ん?」
表示された画面を見て、最初は自分が何を見ているのか理解できなかった。
トレンド欄の上位に、妙に見覚えのある単語がいくつも並んでいる。
『同じ夢』
『銀髪の女神』
『ダンジョン』
『神託』
そして、その一番上。
『ルミエラ』
「…………は?」
昨夜、夢の中で初めて聞いたはずの女神の名前が、世界中の人間が見る場所に表示されていた。