TS女神の地球救済政策 ~26年かけて異世界を救った元勇者、絶世の女神になって帰還したら地球が滅びかけていたので、ダンジョン災害で救います~ 作:TS女神
【Side:高瀬美羽】
これは夢だ。
そう理解するまでに、ほとんど時間はかからなかった。
足元には、磨き上げられた水面のような白い床が果てまで続き、頭上には夜とも昼ともつかない蒼白い空が広がっている。遠くには巨大な白い柱が何本も立ち並び、そのさらに向こうには雲海まで見えていた。
普通なら、自分はいったいどこへ来てしまったのかと混乱していたかもしれない。けれど美羽は、この場所が何なのかをすでに知っている。
「……本当に来た」
思わずそう呟きながら、物珍しそうに周囲を見回す。
昨夜、お兄ちゃん本人から聞かされていたのだ。
世界中の人間へ神託を届けるため、一度だけ行った神託を世界そのものへ残し、対象となる人間が眠った時、その内容を夢の中で再現する。
だから自分にも届くだろうとは思っていたし、むしろ少し楽しみにしていたくらいだった。お兄ちゃんが「家族くらいは対象から外しておこうか」と言い出した時、せっかくなのだから見たいと主張したのも美羽自身である。
「お兄ちゃん、どこ――」
そこまで口にしたところで、美羽の声が止まった。
少し離れた白い空間の中央に、一人の女性が立っていたからだ。
「…………」
銀白色の長い髪に、白と銀を基調とした神衣。閉じられた瞼の下には、昨日から何度も見ている蒼い瞳があるはずだった。
「……お兄ちゃん?」
間違えるはずがない。
顔も身体も、昨日自宅で見た兄とまったく同じだ。それなのに美羽は一瞬だけ、本当に同じ人物なのかと疑ってしまった。
昨日だって、とんでもなく綺麗な姿になったとは思っていた。けれど家では、美羽にからかわれればすぐ言い返し、困った顔をして、女神になったばかりだというのに妙なところで普通だった。
外見がどれほど変わっていても、昔から知っている兄の延長にしか見えなかったのだ。
今、目の前にいる存在は違う。
まだ目すら開いていない。それなのに、ただそこへ立っているだけで、広大な空間の中心が自然とその人へ定まってしまったように見えた。
「……何これ」
美羽自身、事情をすべて知っているからこそ余計に混乱する。
お兄ちゃんは神託へ向けて、神域側の時間で一年間も「女神らしく振る舞うための練習」をしてきたのだという。立ち方や歩き方から、視線、表情、声の出し方、話す速度、言葉と言葉の間に至るまで、人前へ立つための振る舞いを徹底的に叩き込まれたらしい。
その話を聞いた時は、そんなものに一年も必要なのだろうかと思っていた。
けれど、今なら分かる。
「……必要だったんだ」
ぽつりと零したところで、目の前の女性がゆっくりと瞼を開いた。
現れたのは、澄み切った蒼い瞳。
ただそれだけなのに、美羽は先生に見られた時のように、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
「初めまして。この星に生きる皆さん」
「…………」
知っている声のはずなのに、知っている声には聞こえない。
音そのものは、昨日から聞いている現在のお兄ちゃんの声と同じだった。それでも、柔らかく落ち着いた響きと、聞く側の意識を自然に自分へ向けさせる話し方が加わっただけで、受ける印象がまるで違う。
優しそうなのに軽くは見えず、威厳があるのに威圧的ではない。
「私は――ルミエラ」
昨日、家族みんなで決めたばかりの名前だった。
美羽が候補をいくつも書き、母が響きを気にし、父が世界中で呼びやすいかどうかを考え、最後には本人まで加わって決めた名前。その過程を全部知っている。
それなのに、こうして本人が名乗る姿を目の前にすると、美羽の口から自然と言葉が零れた。
「……ルミエラ様だ」
言った本人が一番驚いた。
「このたび、地球という星を管理する担当神として就任しました」
ものすごく悔しいけれど、普通に格好いい。
昨日、自宅で「女神様らしくなる練習って何するの?」と笑っていた自分を少し殴りたくなるくらいには、目の前の兄は完全に女神様だった。
その後も、ルミエラは穏やかな声で神託を続けていく。
異世界から地球へ魔力が流れ込んでいること。その影響で世界そのものに負担が蓄積していること。そして、自分が地球の担当神として対処を進めていること。
そこまでは、美羽も昨夜のうちに聞かされていた。
ただし、具体的に何をするつもりなのかまでは教えてもらっていない。
『まだ調整する可能性があるから、正式に神託するまで待ってくれ』
そう言われていたからだ。
だからこそ、次に告げられた言葉には、美羽も普通に驚かされた。
「そして、その影響によって――およそ一年後、地球各地に『ダンジョン』と呼ばれる領域が発生します」
「……ダンジョン?」
思わず声が出た。
ダンジョンという言葉そのものなら、ゲームや漫画でいくらでも聞き慣れている。けれど、それを本当に現実へ出現させるつもりだとは思っていなかった。
「お兄ちゃん、何作ろうとしてるの……?」
当然ながら、返事はない。
神託の中のルミエラは、美羽が何を言っても反応せず、世界中へ向けて用意された言葉を穏やかに語り続けている。
ならば近づけばどうだろう。
そんなことを考えて数歩進み、手を伸ばしたところで、指先が何もない空間へ触れた。
「わっ」
目には見えないが、確かに壁のようなものがある。押せば僅かに沈むものの、それ以上先へは進めなかった。
「これが言ってた壁か」
受信者側は夢の中を自由に動けるが、神託を行っているルミエラ本人へ触れたり、邪魔をしたりすることはできないらしい。
本当に本人なら、肩でも叩いて「何格好つけてるの」と言ってやりたいところだったのだが、それもできそうになかった。
「……ちょっと残念」
そう呟いてから、自分が何を残念がっているのか分からなくなり、美羽は小さく首を振った。
正面では、ルミエラが変わらず穏やかに語り続けている。
「今、皆さんが見ているものは、ただの夢ではありません。これは、私が地球に生きる皆さんへ届けている――神託です」
「…………」
格好いい。
やっぱり格好いいし、ものすごく綺麗だ。
事情を全部知っている自分ですらこうなのだから、何も知らない人たちは今頃どうなっているのだろう。
突然夢の中へこんな女神様が現れて、地球の危機だのダンジョンだのを告げられたら、内容より先に本人へ目を奪われる人間だっているに違いない。
「明日以降も、私は皆さんへ必要なことを順番にお伝えします。一年という時間を、決して無駄にはしません」
そこでルミエラは一度言葉を止め、最後に柔らかな微笑みを浮かべた。
「今夜は、まず私のことと、この地球に起ころうとしている変化だけを覚えておいてください」
長い銀白色の髪が静かに揺れる。
「それでは、またお会いしましょう」
「……うん。またね、お兄ちゃん」
思わずそう返した瞬間、白い光が世界を包み込んだ。
◇ ◇ ◇
「…………ん」
次に目を開けた時、そこには見慣れた自分の部屋があった。
いつもの天井に、いつものカーテン。枕元へ置いていたスマートフォンを確認すると、設定していたアラームが鳴るまでにはまだ少し時間が残っている。
美羽は布団の中で仰向けになったまま、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。
夢の内容は、驚くほど鮮明に記憶へ残っている。銀白色の髪も、澄んだ蒼い瞳も、神衣の装飾も、柔らかな声も、あの微笑みも。
普通の夢なら目が覚めれば少しずつ曖昧になっていきそうなものなのに、昨日現実で兄を見た時と同じくらい、はっきりと思い出すことができた。
「……あれ、お兄ちゃんなんだよね」
昨日から何度も見ている姿なのに、受けた印象はまるで違った。
というか。
「ちょっと見惚れてたんだけど、私……」
それを自覚した途端、妙に悔しくなってきた。
実の兄である。身体が女神になってしまったとはいえ、中身は昔から知っている兄だ。その兄を見て、普通に「綺麗」だと思ってしまった。しかも途中からは、かなり格好いいとまで思っていた。
「……絶対言わない」
本人に知られたら、何を言われるか分からない。
昨日の時点では神託を上手くできるか多少気にしていたので、「美羽でもそう思ったなら成功だな」とでも言って喜びそうなのが、また腹立たしかった。
そう心へ決め、美羽は布団から抜け出して着替えを済ませた。
父も母も、もう起きている頃だろう。何より、あれほど完璧に女神様を演じてみせた当の本人が今どうしているのか、少し気になる。
昨夜から、神託は世界中へ届けられ始めている。本人だって、それなりに感慨深い朝を迎えているのではないだろうか。もしかすると、神託がきちんと成功したのか、真剣な顔で確認作業でもしているのかもしれない。
そんなことを考えながら廊下を歩き、美羽は居間の扉を開けた。
「おはよ――」
声が途中で止まった。
「…………」
ソファに、一人の女が寝転がっていた。
銀白色の長い髪が背もたれから溢れ、一部はそのまま床へ届きそうなほど垂れている。顔も身体も、つい先ほど夢の中で見た女神ルミエラそのものだった。
ただし、神衣は着ていない。
身につけているのは、丈の長い、ゆったりとしたTシャツ一枚。その格好のまま横向きにソファへ寝転がり、片肘で頭を支えている。
目の前には半透明の青白い板が何枚も空中へ浮かび、細かな文字や数字、グラフのようなものが大量に表示されていた。指先を軽く動かすたびに画面が切り替わっていく様子だけ見れば、未来のコンピューターを操作しているようで、いかにも神様らしい。
そして、その反対の手には――せんべいが握られていた。
ぱりっ、と軽い音が響く。
「…………」
美羽は無言で立ち尽くした。
「ん?」
こちらに気づいた女神様が、顔だけを上げる。
「おはよ、美羽」
「…………」
「何だよ」
ぱりっ。
もう一口、せんべいを齧る。
美羽の頭の中に、つい先ほどまで見ていた光景が鮮明に蘇った。
『初めまして。この星に生きる皆さん』
ぱりっ。
『私は――ルミエラ』
ぼりぼり。
『このたび、地球という星を管理する担当神として就任しました』
「これ美味いな。母さんどこで買ったんだろ」
「…………」
耐えられなかった。
「さっきの女神様返してよー!」
「はあ!?」
突然叫ばれ、お兄ちゃんが目を丸くする。
「何だよいきなり!」
「何だよじゃないよ! 私さっき見てきたんだから!」
「ああ、神託?」
「そうだよ! 何あれ! めちゃくちゃ女神様だったんだけど!」
「そりゃ女神なんだから女神様だろ」
「そういうことじゃない!」
美羽はずかずかとソファへ近づくと、寝転がったままの兄を勢いよく指差した。
「さっきまであんなに綺麗で、格好よくて、神々しくて、見るからに『女神様です』って感じだったのに! 何で起きたらTシャツ一枚でせんべい食べながら寝転がってるの!」
「家なんだからいいだろ!」
「切り替え激しすぎるよ!」
「仕事中と家で同じ格好してる奴の方が嫌だわ!」
「そういう問題じゃない!」
もっと余韻に浸らせてほしかった。
あれほど神々しい夢を見た直後に、これを見せられる身にもなってほしい。世界中の人たちは、今頃きっと「ルミエラ様とはいったい何者なのか」と真剣に考えていることだろう。
なのに、その本人はこれである。
美羽はしばらく兄を睨んでいたが、ふと夢の中で見た姿を思い出し、半分は冗談、けれどもう半分くらいは本気で口を開いた。
「もうさっきの女神様返してよー! お兄ちゃんじゃなくて、お姉ちゃんって呼ぶから!」
「は?」
「いや……お姉ちゃんじゃ足りない。お姉様って呼ぶから!」
「…………」
その瞬間、お兄ちゃんの動きが止まった。
せんべいを口元まで持ち上げた姿勢のまま、何とも言えない顔でこちらを見つめている。
「……何?」
「いや……」
「うん」
「俺、せっかく二十六年ぶりに帰ってきたのに……兄より姉の方がいいのか……?」
「えっ」
思っていたより効いた。
「いや、違う違う! そういう意味じゃないから!」
「でも今、お姉様って」
「神託の時だけ!」
「時だけ?」
「そう! 普段はお兄ちゃん! 女神様モードの時だけルミエラお姉様!」
「何だよその使い分け!」
「だって全然違うんだもん!」
「同一人物だよ!」
「分かってるよ!」
しばらく言い合ったところで、美羽は改めて今の兄を上から下まで眺めた。
Tシャツ一枚。ソファに寝転がっている。片手にはせんべい。そして周囲には、どう考えても人類の技術では存在しない半透明の画面が何枚も浮かんでいる。
「数十分前まで『この星に生きる皆さん』とか言ってた人がする格好じゃないよ……」
「それは仕事中!」
「女神って仕事だったんだ……」
「地球担当神なんだから仕事だろ」
「嫌なところだけ急に現実的!」
美羽は思わず頭を抱えた。
そこでようやく、兄の周囲へ浮かんでいる画面が気になった。
「……というか、それ何見てるの?」
「ああ、これ?」
お兄ちゃんが指先を軽く動かすと、何枚も浮かんでいた画面の一つが横へ滑り、新しい表示が現れた。
「神託の状況。ちゃんと世界中に定着してるかとか、現時点でどれくらい受け取ったかとか、地域ごとの偏りがないかとか、その辺確認してる」
「……仕事してたんだ」
「してるよ」
「寝転がってせんべい食べながら?」
「別に姿勢で処理能力変わらないし」
「神様ってずるい」
「あと俺、寝なくても平気だし」
「それは昨日聞いた」
言われてみれば、お兄ちゃんは自分たちが眠っている間もずっと起きていたのだろう。世界へ神託を仕込み、その後も正常に届いているのか確認し続けていた。
やっていること自体は、かなり真面目である。ただ、見た目があまりにも真面目ではない。
「順調なの?」
「ああ。今のところ問題なし。寝てない人間にはまだ届いてないけど、それも予定通り。眠った奴から順番に受け取ってる」
「へえ……」
美羽も隣から空中の画面を覗き込んでみる。
文字らしきものが大量に並んでいるのは分かるが、一部は知らない言語どころか、そもそも文字なのか記号なのかすら判別できなかった。
「これ、人間でも読めるようにできないの?」
「できるぞ」
「できるんだ」
「ほら」
お兄ちゃんが指を動かした途端、表示されていた内容が一斉に日本語へ切り替わる。
「便利すぎない?」
「神様だからな」
「そういう時だけ神様アピールするのやめて」
美羽が呆れていると、お兄ちゃんはこちらを見て少しだけ笑った。
「で、そんなに良かった?」
「…………」
嫌な質問が来た。
「何が?」
「神託」
「普通だった!」
「嘘つけ。さっき『めちゃくちゃ女神様だった』って叫んでただろ」
「忘れて!」
「しかもお姉様って呼ぶって」
「それも忘れて!」
お兄ちゃんの口元が完全に緩んでいる。絶対に楽しんでいる。
「……まあ、美羽が見てもそう思えたなら、一年練習した甲斐はあったな」
「ほら! やっぱり喜んでる!」
「そりゃ喜ぶだろ。家族は全部知ってるんだから、一番誤魔化しが利かない相手だぞ?」
「誤魔化してたの?」
「言い方。演出だよ、演出」
「夢の中のお姉様返して」
「まだ言うのかよ!」
美羽はとうとう堪えきれず笑った。
夢の中で見た女神ルミエラと、目の前でせんべいを齧っているお兄ちゃん。姿はまったく同じなのに、こうも違って見えるのだから不思議なものだ。
けれど、どちらがいいかと聞かれれば――。
「まあ、普段はこっちでいいけど」
「何だその上から目線」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだし」
「…………」
美羽としては、何気なく口にしただけだった。
けれど、お兄ちゃんは一瞬だけ目を丸くしたあと、どこか安心したように表情を緩める。
「……そっか」
「何?」
「いや。何でもない」
それ以上は何も言わず、再び空中に浮かぶ画面へ視線を戻す。そして、またせんべいを齧った。
ぱりっ、と小気味いい音が居間へ響く。
「…………」
美羽はしばらくその姿を見つめたあと、やはり我慢できずに声を上げた。
「でもさっきの女神様と落差ありすぎ!」
「まだ引っ張るのかよ!」
たぶん今頃、世界中では大騒ぎになっている。
銀白色の長い髪を持つ、美しい女神。地球の担当神として突然現れ、一年後に訪れる大きな変化を告げた謎の存在――ルミエラ。
きっと大勢の人間が、その正体について真剣に考えていることだろう。
けれど、その当人が今、大きなTシャツ一枚で実家のソファへ寝転がり、せんべいを食べながら神託の受信状況を確認しているなど、世界中の誰一人として想像していないはずだ。
「……これ、世界中の人には絶対見せられないね」
「何が?」
「何でもない」
少なくとも、しばらくの間くらいは。
人類には、夢の中で見たあの女神様のままでいさせてあげようと、美羽は心の中でそっと決めた。