TS女神の地球救済政策 ~26年かけて異世界を救った元勇者、絶世の女神になって帰還したら地球が滅びかけていたので、ダンジョン災害で救います~ 作:TS女神
二度目の神託を終えた翌朝。
昨日の今頃なら、美羽が学校へ行くために慌ただしく準備をしている時間だったが、今日は祝日である。そして昨日、美羽と約束した通り、俺は地球へ帰ってから初めてまともに街へ出かけることになっていた。
「……これは違うな」
自室の姿見の前で神衣へ意識を向けると、身体を淡い光が一瞬だけ包み、それまで着ていた白いブラウスとパンツが淡い色合いのワンピースへ変わった。
「…………なんか違う」
もう一度神力を流し、今度はロングスカートに薄手のカーディガン。その次は少し大人っぽいシャツとパンツスタイルへ変え、さらに女性向けファッション誌で見かけた服装を思い出しながら、何種類か試してみる。
神衣はこういう時、非常に便利だった。普通の服のように一度脱いで別の服へ着替える必要はなく、大まかな形を思い浮かべて神力を流せば、数秒もかからず外見を変えられる。
「うーん……」
せっかく変装して出かけるのだから、できるだけ普通の格好にしたい。
しかし、二十六年間も異世界で暮らしてきた俺に、現代日本の女性が休日にどんな服を着て出歩いているのかなんて詳しく分かるはずもない。男だった頃なら、なおさらである。
「お兄ちゃん、何してるの?」
「うわっ!?」
振り返ると、いつの間にか開いていた扉のところに美羽が立っていた。
「いつからいた?」
「今来たところだけど」
「ノックしろよ」
「したよ。お兄ちゃんが鏡に夢中で気づかなかっただけ」
美羽は部屋へ入ってくると、現在の俺の格好を上から下まで眺めた。
「それで?」
「服決めてる」
「さっきから?」
「女物の服なんて分からないんだよ。雑誌見ながら色々試してる」
「ふーん」
試しに美羽の前でも神衣へ意識を向けると、白い光が一瞬だけ走り、ワンピースだった服装がブラウスとロングスカートへ変わった。
「……便利だね、その早着替え」
「神衣だからな」
「一人ファッションショーできるじゃん」
「やらねえよ」
「もうやってるじゃん」
「…………」
言われてみればその通りだった。さっきから一人で何着試したのか分からない。
「じゃあ、これどう?」
もう一度神衣を変える。
白いブラウスの上から淡いベージュのロングカーディガンを羽織り、下は落ち着いたくすみ色のラップスカート。足元も派手すぎないパンプスへ整える。
続いて髪を銀白色から黒へ変え、蒼かった瞳も黒に近い濃い茶色へ。腰よりさらに下まで伸びている髪は、そのまま垂らすのではなくハーフアップにまとめ、最後に伊達眼鏡を追加した。
「おお」
美羽が少し感心したような声を上げたあと、鏡の中の俺を上から下まで眺める。
「服は結構いいんじゃない?」
「だろ?」
「そこで自信満々なのちょっと腹立つ」
「いや、鏡見ても普通に似合ってるし」
「ナルシストになってない?」
「それ、俺も最近ちょっと心配してる」
改めて鏡を見ると、黒髪のハーフアップに眼鏡という組み合わせは、神託の中にいるルミエラとは随分印象が違っていた。服装そのものも落ち着いた色合いで統一されていて、変装としては悪くないと思う。
ただし――。
「……こうして見ると、やっぱりすごいな」
「何が?」
鏡へ映る自分の胸元を見る。
今さらではあるが、普通の服を着て全身を確認すると、その存在感は嫌でも目についた。細い腰に対して胸だけが明らかに大きく、カーディガンを羽織ったところで根本的な体型までは隠せない。
しかも邪神が俺の好みを参考にして作った身体らしいと知ってしまった今では、余計に何とも言えない気分になる。
「これで外歩くのか……」
「今さら?」
「いや、今までは家の中か神域だったからさ」
幸い、神体だからなのか見た目ほど重量そのものを感じるわけではない。神衣も身体へ自然に合わせて支えてくれているらしく、肩が凝るとか、立っているだけで疲れるとかいうこともなかった。
もし見た目通りの重さがそのまま身体へ掛かっていたなら、この姿になった初日からもっと大騒ぎしていただろう。
「別に重くはないんだよ。神体だからだと思うけど。ただ、身体そのものが変わった感覚までなくなるわけじゃないからな」
美羽が俺の身体をちらりと見て、納得したように頷いた。
「ああ、そういうこと。まあ、お兄ちゃん男だったもんね」
「今までなかったものが急についてるんだから、慣れろって方が無理あるだろ」
「しかもそれだしね」
「それって言うな」
美羽が笑う。
俺は鏡の前で身体を少し横へ向けてみた。服は派手ではないし、髪や瞳も日本人として不自然ではない色へ変えてある。それでも元々の顔立ちと体型のせいで、雑誌からそのまま出てきたモデルのように見えた。
「……二十六年前の俺が街でこんな女の人見かけたら、絶対振り返ってるな」
「自分で言う?」
「事実なんだから仕方ないだろ」
そこまで言ったところで、この身体がそもそも俺の好みを元に形成されたという事実を思い出してしまった。
「…………」
「どうしたの?」
「いや……服はこれでいい?」
「いいと思うよ。普通に似合ってる」
「普通に、ねえ……」
「褒めてるんだけど」
美羽はそう言うと、机の上に置かれていた俺のスマートフォンを指差した。
「バッグは?」
「バッグ?」
「スマホとか財布、どうするの?」
「ああ。それなら異空間収納に――」
言いかけたところで、その光景を想像して止まった。
「……駄目か」
「街中で何もないところからスマホ出したら、すっごく目立つと思う」
「だよな」
家の中なら必要な物は異空間収納へ放り込んでおけば済むが、お忍びで街を歩いている最中に何もない空間から財布やスマートフォンを取り出せば、どう考えても怪しい。
「私の貸そうか?」
「あるの?」
「使ってないのなら」
美羽が自分の部屋へ戻り、少しして白を基調にした小さめのショルダーバッグを持って戻ってきた。
「これなら服にも合うと思う」
「助かる」
財布とスマートフォンを入れ、肩へ掛ける。
姿見へ向き直れば、黒髪に眼鏡、白いブラウスと淡い色のカーディガン、落ち着いたスカートに小さなバッグ。見た目だけなら、ようやく休日に出かける普通の女性らしくなった。
……普通の女性と呼ぶには、多少目立ちすぎる部分もある気はするが。
「……よし」
「じゃあ行く?」
「ああ」
部屋を出てリビングへ向かうと、母さんが俺たちの姿を見て目を細めた。
「あら、よく似合ってるじゃない」
「美羽にも同じこと言われた」
「ちゃんと女の子に見えるわよ」
母さんまで楽しそうに笑っている。
「帰りにスーパー寄るなら、少し買ってきてもらってもいい?」
「いいよ」
美羽が答えると、母さんはスマートフォンへ買い物の内容を送った。
「気をつけてね」
「駅前行くだけだぞ」
「世界中に顔を知られてる女神様に言ってるの」
「……はい」
それを言われると弱い。こうして俺と美羽は、二人並んで家を出た。
◇ ◇ ◇
玄関を出て少し歩いただけで、二十六年ぶりの街に対する懐かしさと同時に、別の意味で落ち着かない感覚が込み上げてきた。
「……やっぱ歩くと気になるな」
「何が?」
「いや、こっちの話」
今の身体になってから、実家の中を移動する時には、神力制御の練習も兼ねて身体を床から数センチだけ浮かせたまま滑るように移動することが増えていた。
大出力ならいくらでも出せるくせに、小さな力を一定に保つのはまだ難しいため、ほんの少しだけ身体を浮かせ、その高さを維持したまま移動するのは意外といい訓練になる。
最初こそ美羽に「歩きなよ」と言われていたものの、今では家族もすっかり見慣れてしまったし、俺自身も普通に歩くより楽なので、つい浮いたまま移動してしまうことが増えている。
だが、さすがに街中で浮きながら移動すれば目立つどころの話ではない。そのため今日は普通に地面へ足をつけて歩いているのだが、そうすると今までの身体には存在しなかった部分が歩くたびに揺れ、重くも痛くもない代わりに、身体の感覚としてやたらと強く存在を主張してくる。
多少落ち着かない感覚を無視しながら歩調を整え、改めて周囲へ目を向けると、今度は別の懐かしさが込み上げてきた。
「……変わってないな」
見覚えのある住宅が並び、昔と変わらない公園もある。通学時に何度も渡った交差点も、俺の記憶とほとんど同じ場所に残っている。
俺にとっては二十六年ぶりの景色だが、この街に流れた時間は二年半ほどしかないのだから、大きく様変わりしていないのも当然だった。とはいえ、まったく同じというわけでもない。
「あれ……ここ、コンビニだったっけ?」
「前からだよ」
「俺がいた頃は違った気がする」
「ああ。じゃあ、お兄ちゃんがいなくなってから変わったのかも」
その少し先にあったはずの飲食店もなくなり、見覚えのない建物に変わっている。看板もいくつか新しくなり、知らない店が増えていた。
そんな昔との違いを探しながら歩いているうちに、別の変化も少しずつ目につき始めた。信号待ちをしていた二人の男性が、スマートフォンを見ながら話している。
「昨日の夢、やっぱり同じだった?」
「ああ。魔物がどうとか言ってたやつだろ?」
すぐ近くだったため、その会話が自然と耳へ入ってきた。
少し先のコンビニでは、店頭に置かれた新聞の一面へ『二度目の世界規模夢現象』という大きな文字が躍っている。
「……もう普通に話題になってるんだな」
「そりゃそうでしょ。また世界中で順番に見られてるんだから」
美羽に言われて、俺は何とも言えない気分になる。
神託そのものは、一度世界へ定着させれば対象となる人間の睡眠に合わせて自動的に再現される。それでも、内容を考えて世界へ伝える時はそれだけで精一杯だった。
終わった後もネットや報道は確認していたが、こうして普通の住宅街で自分の言葉が日常会話の中へ混ざっているのを聞くと、画面越しに眺めるのとはまるで感覚が違う。
「昨日まで普通だった街なんだけどな」
「今日も普通だよ。女神様が世界中の夢に出てきただけで」
「それを普通とは言わないだろ」
美羽が笑い、俺もつられて口元を緩める。
「……二年半でも、意外と変わるもんだな」
「二十六年に比べれば全然だけどね」
「それを言われると何も言えない」
昔から変わったものと、昨日から急に変わり始めたもの。その両方を眺めながら、美羽と並んで駅前へ向かう。
「……お兄ちゃん、何か楽しそうだね」
「そう見えるか?」
「うん」
「まあ……楽しいよ。こうやってお前と歩くの、俺からすると二十六年ぶりだからな」
「あ……そっか」
「美羽からしても二年以上ぶりだろ」
「そうだね」
ほんの少しだけ会話が途切れた。
別に特別な場所へ向かっているわけではなく、祝日に妹と駅前へ出かけているだけだ。それでも異世界にいた頃の俺にとっては、そんな何でもない日常こそ、もう二度と手に入らないものだと思っていた。
「まあ、これからはいくらでも行けるけどな」
「うん」
美羽が笑う。
「今日はいっぱい付き合ってもらうからね」
「お手柔らかに頼む」
駅前へ近づくにつれて人通りも増え、昨夜の神託について話している声も珍しくなくなっていった。
大型ビジョンではニュース番組が流れており、画面の端には『女神ルミエラ 二度目の神託』『“魔物”とはファンタジーの魔物と同じなのかを考察』という文字が映っている。
立ち止まって見る人こそ多くないものの、スマートフォンでは同じ話題が流れているらしく、あちこちから「魔法」「ダンジョン」「地震」といった単語が聞こえてきた。
昨日、俺が神託の中で口にした言葉が、そのまま地球の日常へ入り込み始めている。そのことを改めて実感しながら歩いていたところで、不意に背後から声が飛んできた。
「あれ? 美羽?」
「え?」
美羽が振り返る。そこには同年代らしい女の子が二人立っていた。
「あ、二人とも」
「やっぱり美羽じゃん。何してるの?」
「ちょっと買い物」
「へえ――」
一人の視線が自然と俺へ向き、もう一人も釣られるようにこちらを見る。
「…………」
「…………」
なぜか二人とも黙った。
「美羽、その人誰?」
「あ」
美羽が一瞬固まる。その顔を見て、俺も自分のことを何と説明するのか何も決めていなかったことに気づいた。
「えっと……親戚の人!」
「おい」
反射的に口を挟んでしまった。
「親戚?」
「う、うん。最近こっちに来たの」
「へえー……」
二人の視線が改めて俺へ向く。
「こんにちは」
とりあえず笑顔で挨拶すると、二人はまた一瞬固まってから、少し遅れて頭を下げた。
「こ、こんにちは」
「こんにちは……」
なぜか急に大人しくなった。一人が美羽へ少し近づき、声を潜める。
「すっごい綺麗な人だね」
「モデルとか?」
「違うから」
「お姉さん?」
「親戚!」
美羽が強引に押し通す。
「そうなんだ……」
少なくとも二人の反応を見る限り、ルミエラだとは気づかれていないようだった。それなら変装自体は成功しているのだろうと少し安心したところで、美羽がいきなり俺の腕を掴んだ。
「じゃ、私たち行くから! また学校で!」
「う、うん」
「ばいばーい」
そのまま引っ張られるように二人から離れていく。
「何で急に逃げるんだよ」
「お兄ちゃん、自分の顔と体型もうちょっと自覚して」
「正体はバレてなかっただろ?」
「だからそういう問題じゃないの!」
「?」
「その顔で首傾げるのやめて」
よく分からない。少なくとも女神ルミエラ本人だとは思われていないのだから、お忍びとしては成功しているはずだ。
「さっきから結構見られてるからね?」
「そうなの?」
「気づいてなかったの?」
そう言われて改めて周囲へ意識を向けると、確かにちらちらとこちらを見る人間がいる。ただ、今の俺は銀髪でも蒼い瞳でもなく、神としての気配も極力抑えているし、誰かが「ルミエラ」と口にしている様子もない。
「……変装、失敗してる?」
「ルミエラだとはバレてないから、そこは成功してる」
「じゃあいいだろ」
「目立たないことには完全に失敗してる」
「難しいな、変装……」
「髪と目変えただけで、その顔と体型なんだから当たり前でしょ」
◇ ◇ ◇
その後は駅前を歩き、ショッピングモールへ入って店をいくつか見て回った。美羽に連れられて服や雑貨を眺めたり、久しぶりの地球の外食に少し感動して笑われたりと、特別なことは何もしていないのに、それが妙に楽しい。
ただ、どこへ行っても昨夜の神託の影響が完全に消えることはなかった。
飲食店のテレビでは専門家が世界規模の夢について議論し、休憩スペースでは若者たちが「本当に魔法を教えてもらえるのか」と盛り上がっている。かと思えば、防災用品を扱う店の前では家族連れが非常食や懐中電灯を選んでいた。
世界が一夜で別物になったわけではない。電車は走り、店は開き、人々はいつも通り休日を過ごしている。
ただ、その日常の中へ、ほんの少しずつ『これから何かが変わる』という空気だけが混ざり始めていた。
「お兄ちゃん、さっきから全部珍しそうに見てるよね」
「二十六年ぶりなんだから仕方ないだろ」
「二年半しか変わってないけど」
「俺基準だと浦島太郎なんだよ」
そんな会話をしながら一通り見て回り、帰りに母さんから頼まれていた物を買うため、二人でスーパーへ立ち寄った。
「肉、野菜、牛乳、卵……あと豆腐と水だって」
美羽がスマートフォンへ送られてきた買い物メモを確認する。
「じゃあ順番に回るか」
スーパーそのものは、俺がいなくなった頃と大して変わっていない。いつものように食品が並び、家族連れがカートを押し、店内には特売を知らせる放送が流れている。
だからこそ、飲料コーナーまで来たところで、その一角だけ妙に棚が空いているのがすぐ目についた。
「……少ないな」
水がないわけではない。小さなペットボトルや炭酸水、一部の商品は普通に残っているものの、二リットルサイズのミネラルウォーターが並ぶ棚は明らかに歯抜けになっていた。
商品によっては完全に空になっており、その前には購入数を制限する紙まで貼られている。
『需要増加のため、お一人様二点までとさせていただきます』
「昨日こんなんじゃなかったよ」
美羽が言った。
「……昨夜の神託か」
今度は、美羽に言われるより先に気づいた。
二度目の神託で、俺は今後一年の間に地震や異常気象が増える可能性があることを伝えた。大きな被害へ繋がらないよう俺の方でも抑えるとは言ったものの、同時に防災への備えは続けてほしいとも話している。
道ですれ違った人たちの会話やニュースだけなら、まだどこか遠い出来事のようにも感じられた。
だが、目の前の空いた商品棚は違う。昨夜の俺の言葉を聞いて、実際に水を買いに来た人がそれだけいたということだ。
「……こういう形で出るんだな」
「そりゃ出るよ。世界中の人に順番に届いてるんだから」
「分かってはいたけどさ」
自分が神託で数分話しただけで、翌日には近所のスーパーの商品棚まで変わっている。
神域から数字やネットの書き込みを眺めるのとは違い、目の前の現実が自分の言葉によって動いているのだと、否応なく実感させられた。
「一応一本は残ってるね」
「母さんに頼まれた分だけ買おう。必要以上に買うこともないだろ」
「うん」
水を一本カゴへ入れてそのまま店内を回っていると、今度は防災用品の特設コーナーが目に入った。
「こっちもか」
長期保存水はほぼ売り切れ。非常食用のご飯や保存期間の長い食品もかなり数を減らしており、乾電池や懐中電灯、簡易トイレといった商品にも品切れの札が目立っている。
『防災関連商品は現在、需要の急増により一部品薄となっております』
そんな案内まで掲示されていた。
「みんな考えることは同じなんだな」
「そりゃそうでしょ。女神様本人から備えておいてって言われたんだから」
美羽がスマートフォンを取り出し、何かを検索する。
「あ、やっぱり。ポータブル電源とかモバイルバッテリーも売り切れ増えてるみたい」
「マジで?」
「ほら」
見せられた画面には、人気の商品が在庫切れになった通販サイトの情報が並んでいた。
「女神様のせいで」
「言い方」
「でも間違ってないでしょ?」
「……まあな」
否定はできない。その時、近くで商品を見ていた夫婦らしき男女の会話が耳へ入った。
「やっぱりもう少し買っておいた方がいいかな」
「女神様も、過度に怖がる必要はないって言ってただろ。最低限でいいんじゃないか?」
「でも地震が増えるかもしれないんでしょう?」
「だから普段の備えを見直すくらいでいいって」
「そうね……」
俺は思わず二人の方を見た。
パニックになって棚の商品を根こそぎ買おうとしているわけではなく、ただ自分たちの生活を守るために、少しだけ備えを増やそうとしている。
俺が神託で伝えたかったのは、まさにそういうことだった。
「……ちゃんと伝わってるんだな」
「何が?」
「いや、何でもない」
少し安心した。
もちろん、世界中の全員が冷静に受け止めているわけではないだろう。ネットには「明日にでも大地震が来る」と騒いでいる人間もいれば、「女神が地震を起こしている」と決めつけている者もいる。
それでも、こうして普通に暮らしながら必要な範囲で備えを始めている人も大勢いる。
神託によって世界が動いているという事実は少し怖い。それでも、伝えたかったことがきちんと届いているのだと分かるのは素直に嬉しかった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「さっきからちょっと女神様っぽい顔してる」
「どんな顔だよ、それ」
「なんか遠くを見る感じ」
「気のせいだ」
誤魔化しながら歩き出したところで、今度は若い男たちの会話が聞こえてきた。
「でもさ、昨日言ってた『術』って絶対魔法じゃね?」
「いや、ないだろ」
「ダンジョンと魔物がありなら魔法もあるだろ!」
「それはそうだけどさ」
「俺、火出したい」
「お前には絶対覚えさせたくない」
美羽が俺を見る。俺も美羽を見る。数秒間、無言で視線を交わしたあと、先に吹き出したのは美羽だった。
「次、それ?」
「まだ火を出すところまでは教えない」
「じゃあ魔法ではあるんだ」
「まず簡単なものからだな。その後に身体強化とか、もっと本格的な術を教えるつもりだ」
「この人たち、絶対大騒ぎするよ」
「……だろうなあ」
俺自身、人類が魔法というものをどこまで喜ぶのかは大体想像できている。少なくとも、俺が高校生だった頃に「明日から魔法が使えます」と言われたら、一晩眠れなくなるくらいには興奮したはずだ。
問題は、魔法が遊び道具ではなく、あくまでダンジョンへ備えるための力であることも同時に教えなければならない点だった。
「でも、お兄ちゃん。魔法使えるようになったら、ダンジョン関係なく使おうとする人絶対いるよね」
「いるだろうな」
「大丈夫?」
少し心配そうに尋ねてくる美羽へ、俺は考えながら答える。
「……そこも考えはしたけど、人間がどう使うかまで全部俺が決めるのは違うだろ」
「ふーん」
美羽は少し考えてから頷いた。
「神様も大変だね」
「今さら気づいたか」
「家ではせんべい食べながらゴロゴロして、移動する時まで浮いてるから」
「最後のは訓練だよ!」
「半分は楽だからでしょ?」
「……それとこれとは別だろ」
◇ ◇ ◇
買い物を終えて二人で店を出た頃には、日もかなり傾いていた。
俺が大きめの袋を持ち、美羽が軽い方を持って並んで歩く。朝からずっと見てきた街は、俺の記憶にある二十六年前――地球にとっては二年半前の姿と、大きくは変わっていなかった。
けれど、その中で交わされる言葉だけは確実に変わり始めている。つい数日前までなら、現実の街中で当たり前に耳へ入ってくるはずのなかった言葉ばかりだ。
「……責任重いな」
思わず漏れた言葉に、美羽がこちらを見る。
「お兄ちゃん?」
「いや。ちゃんとやらないとなって思っただけ」
買い物袋を持ち直す。
これから俺が教えていく魔力や身体強化、魔法といった知識の一つ一つが人類の行動を変え、その先にはいずれ本物のダンジョンが待っている。
世界を一つ救った経験があるからといって、それだけで気楽に構えていい話ではない。
そんなことを考えている俺の横で、美羽が少しだけ笑った。
「まあ、お兄ちゃんなら大丈夫でしょ」
「ずいぶん簡単に言うな」
「だって、一回世界救ってるんでしょ?」
「一回成功したから次も成功するとは限らないんだぞ」
「でも今度は一人じゃないじゃん」
「…………」
思わず美羽を見る。本人は特に深いことを言ったつもりもないのか、そのまま前を向いて歩いている。
「お父さんもお母さんもいるし、セレイスさんもいるし。それに今回は、地球のみんなにも準備してもらうんでしょ?」
「……そうだな」
確かにその通りだった。
俺が全部一人で解決しなければならないわけではなく、むしろ今回の目的は、人類自身がダンジョンへ対処できるようにすることなのだから。
「というか、次の神託では魔力の話するんでしょ?」
美羽がこちらを向く。
「ああ。まずは魔力がどういうものなのかと、人間にも扱えるってことを説明する予定だ」
「その次は?」
「身体強化。その後にもっと色々な魔法かな」
美羽が何とも言えない顔で黙ったので、俺は首を傾げる。
「なんだよ」
「世界中、今よりもっと大騒ぎするね」
「……だろうなあ」
想像するだけで少し頭が痛くなる。
二回目の神託で『術』という単語を出しただけでも、すでに魔法なのではないかと予想されているのだ。
それが本当に『皆さんも魔力を使えるようになります』と明言されたらどうなるのか。考えるまでもない。
「掲示板とか絶対すごいことになるよ」
「見るの怖くなってきた」
「女神様がそんな弱気でどうするの」
「女神だってネットは怖いんだよ」
美羽が笑い、俺もつられて笑いながら懐かしい道を並んで歩いていく。
今日はただ、二十六年ぶりに妹と休日の街を歩いてみたかっただけだった。それなのに実際に外へ出てみれば、自分が世界へ投げかけた言葉がニュースや会話だけでなく、人々の買い物や行動にまで影響を与え始めている。
神域から眺めているだけでは分からないものが、確かにそこにはあった。
「……外に出てみて良かったな」
「ただ遊びに来ただけだけどね」
「それでもだよ」
「じゃあ、また一緒に行こうよ」
「ああ」
今度はどこへ行くのか。そんな話をしながら、二人で家への道を歩いていく。
こうして女神ルミエラによる初めてのお忍び下界視察は、少し目立ちはしたものの、正体を知られることなく無事に終わったのだった。