TS女神の地球救済政策 ~26年かけて異世界を救った元勇者、絶世の女神になって帰還したら地球が滅びかけていたので、ダンジョン災害で救います~ 作:TS女神
「美羽、今日の昼って暇か?」
「暇だけど?」
昼食を終えたあと、リビングのソファでスマートフォンを眺めていた美羽へ声をかけると、返ってきたのは何でもないような返事だった。
ちょうどいい。
「じゃあ、ちょっと昼寝してみてくれ」
「…………」
美羽がスマートフォンから顔を上げ、怪訝そうにこちらを見る。
「お兄ちゃん、十六歳の妹に昼間から寝ろって言う兄、なかなかいないと思う」
「そういう意味じゃねえよ」
「分かってるけど」
美羽はくすくす笑ってから、スマートフォンを膝の上へ置いた。
「できたの? この前言ってたやつ」
「ああ。一応、試作品だけどな」
以前話した、神託の仕組みを応用した戦闘訓練用の夢空間。本物のダンジョンが発生する前に、人類へ魔物との戦闘を経験してもらうためのシミュレーションで、まだ世界中へ公開できる完成度ではないものの、一通り動くところまでは作ることができた。
「最初にやらせてって言っただろ?」
「言った! じゃあ私が第一号?」
途端に美羽の表情が明るくなる。
「第一号。まだ他人に使わせていい出来かも分からないから、お前で試す」
「妹を実験台にする気満々じゃん」
「安全性は確認してあるよ」
「その言い方、ちょっと怖いんだけど」
心配そうな顔をする美羽へ、向こうで怪我をしても死んでも現実の身体には影響しないこと、痛覚も一割程度まで落としてあり、精神的に危険な状態になりそうなら強制的に終了することを改めて説明する。
「一割でも痛いの?」
「ゼロにしたら訓練にならないだろ。それに、怖さまでは消してない。本番で魔物を前にして初めて怖くなって動けませんでした、じゃ意味ないからな」
「そうだけど……無理だと思ったらどうするの?」
「最初は俺も中にいる。必要なら止めるよ」
そこは以前話した通りだ。安全な場所で失敗してもらうための訓練なのだから、危険そのものを完全に消してしまうわけにはいかない。
「それなら大丈夫かな……」
美羽は少し考えたあと、ソファの背もたれへ身体を預けた。
「それで、寝ればいいの?」
「ああ。深く眠り始めたらこっちから接続する」
「昼寝なんて普段しないから、すぐ寝られるかな」
「まあ適当に目閉じてろ。急ぐ必要はないし」
「女神様が妹の昼寝待ち……なんか面白いね」
そう言いながら、美羽はソファへ横になる。
「じゃ、おやすみ。……起きたら死んでたとかないよね?」
「現実の身体には何も起きないって言っただろ」
「それなら、おやすみ」
「おやすみ」
数分ほど待ってみたものの、美羽は一向に眠る気配を見せない。そのままさらに十分ほど経ったところで、俺は小声で様子を窺った。
「……寝たか?」
「まだ」
「起きてるじゃねえか」
「お兄ちゃんが近くにいるから気になるんだって」
「じゃあ俺、神域行ってるから。寝たらこっちから繋ぐよ」
「うん」
結局、美羽が眠りについたのは、それから二十分ほど経ってからだった。
◇ ◇ ◇
「……ん?」
美羽が目を開け、しばらく無言で周囲を見回した。
床も壁も天井も、すべて真っ白。窓も家具も装飾もなく、ただ広いだけの直方体の空間で、その中央に俺が立っている。
「おはよう」
「…………何ここ」
「試作訓練空間」
「いや、そうじゃなくて」
美羽が両手を広げ、呆れたように辺りを見回した。
「殺風景すぎない? もうちょっとこう……洞窟とか、ダンジョンっぽい場所かと思ってた」
「まだ試作だからな。背景作る意味ないだろ。本番用なら洞窟とか遺跡とか森林とか、実際のダンジョンに近い環境を何種類か用意するつもり」
「じゃあ今は?」
「動作確認用の白い部屋」
「デバッグルームじゃん」
「そうとも言う」
「女神様が作った異世界みたいな夢空間なのに、すごく開発途中感ある……」
とはいえ、言われてみれば確かに味気ない。機能さえ動けばいいと思っていたので、見た目については完全に後回しにしていた。
「これって、本当に夢なの?」
「夢っていうより、神託と同じ仕組みで精神だけこっちの空間に接続してる感じかな。実際の脳が普通に見る夢とはちょっと違う」
「へえ……」
感心したように自分の手を眺めた美羽は、何度か指を曲げ伸ばししてから、床を踏んだり触ったりし始めた。
「神託の時より、触った感じもずっと現実っぽい。フルダイブゲームとかあったら、こんな感じなのかな」
「そこはかなり調整した」
「背景は真っ白なのに」
「そこは後でいいだろ」
俺は気を取り直して空間の隅へ意識を向け、淡い光を集めて一本の木剣を作り出した。
「ほら」
差し出した木剣を受け取った美羽が、不思議そうに眺める。
「……剣? これで戦うの?」
「ああ。訓練用の木剣」
美羽は両手で持ち、試しに軽く振ってみたものの、見るからにぎこちない。
「…………」
「…………」
しばらく無言で木剣を見つめていた美羽が、やがて呆れたようにこちらを向いた。
「お兄ちゃん。私というか、普通の人は剣なんて振ったことないと思うんだけど」
「……そういやそうだな」
「今気づいたの!? さっきから普通に持って振ればいいみたいな顔してたけど、その『普通』が分からないんだよ!」
言われてみれば、完全に俺の感覚がおかしい。二十六年間も剣を振っていたせいで、武器を持ったことのない人間が何を分からないのかという感覚そのものが抜け落ちていたらしい。
「まあ今日は、とりあえず動作確認だから。出す相手もかなり弱くしてある」
「もうすごく不安になってきたんだけど……何が出るの?」
「コボルド」
「…………コボルド?」
「知らない?」
「名前だけなら聞いたことある気がするけど、よく知らない」
「犬とか狼に近い頭をした、小型の人型魔物だな。俺がいた世界じゃゴブリンより弱い。単体ならかなり弱い部類だけど、群れるから数が増えると初心者には面倒だった」
「ゴブリンより弱いんだ。じゃあ大丈夫かな」
「しかも向こうにいたやつをそのまま出すわけじゃないぞ。地球人向けにかなり弱くしてある」
「どれくらい?」
「身体強化を使えれば、戦ったことのない人でも、一対一で落ち着いて動けば十分勝てるくらい。体格も力もかなり落としてある」
美羽は木剣へ視線を落とし、不安そうに柄を握り直した。
「……それ、かなり弱い?」
「弱いぞ。今のお前でも、身体強化をちゃんと使って落ち着いて動けば十分勝てる。今回はちゃんと、お前くらいの初心者を基準に弱くしてある」
「本当に?」
「本当に」
「なら、まあ……一匹だけなんだよね? 武器は?」
「一匹だけだし、武器は粗末な棍棒だな」
「剣とかじゃないんだ」
「初心者向けだからな。最初から刃物は怖いだろ」
そこでようやく美羽が小さく息を吐いたので、俺は一応補足しておく。
「まあ、現実なら頭にまともに食らえば普通に重傷だと思うけど」
「全然安心できないんだけど!?」
「だから訓練するんだよ。痛みは軽減してあるし、殴られても現実の身体は無傷だって。じゃあ始めるぞー」
「ちょっと待って、構えとか――」
美羽が言い終わるより先に、白い部屋の奥へ光が集まり、一体の魔物が姿を現した。
「…………」
美羽の表情が固まる。
身長は一メートル少々。灰褐色の毛に覆われた身体に犬を思わせる頭部を持ち、手には粗末な木製の棍棒、腰には簡素な布を巻いている。
異世界にいた頃の俺なら、戦闘と呼ぶことすら躊躇う程度の相手であり、しかも今回の個体は本物のコボルドよりさらに身体能力を落としてある。
「これがコボルド? ……思ってたより怖い顔してる」
「まあ、魔物だからな」
コボルドが美羽へ顔を向け、喉の奥から低い唸り声を漏らす。
「グルルル……」
美羽の木剣を握る手に力が入った。
「美羽、身体強化を忘れるなよ」
「あ、う、うん」
慌てて魔力を身体へ巡らせる美羽へ、俺は落ち着くよう声をかける。
「ちゃんと相手を見ろ。動き自体は速くないから、慌てなければ大丈夫だ」
「分かってる……分かってるけど」
コボルドが棍棒を構えた瞬間、美羽の表情からそれまでの軽さが消えた。
「……ねえ、お兄ちゃん。これ、本当に私に攻撃してくる?」
「ちゃんと殺す気で攻撃してくるよ」
「…………」
次の瞬間、コボルドが床を蹴った。
「っ!」
美羽の肩が大きく跳ねる。
コボルドの動きは決して速くなく、身体強化を使っている美羽なら、落ち着いて動けば十分に対応できる程度の速度だ。
「美羽、動け!」
「わ、分かって――」
だが、美羽の足は動かなかった。
犬に似た魔物が唸り声を上げ、棍棒を振り上げて自分へ向かってくる。ゲーム画面の向こうでも、映像でもない。同じ空間の中で、本気で自分を殴ろうとしている存在が迫ってくる。
「――っ!」
美羽がようやく木剣を持ち上げたが、遅かった。
コボルドの棍棒が振り下ろされ、ゴッ、と鈍い音が響く。
「あっ――」
美羽の身体が傾いた瞬間、俺はシミュレーション側で死亡判定を出した。これ以上殴らせる意味はないため、そのまま美羽を淡い光で包んで強制的に退場させ、残されたコボルドも消す。
真っ白な空間へ、再び静寂が戻った。
「……うん」
一人残された俺は、今の一連の流れを思い返しながら小さく頷く。
「これは改善点多いな」
◇ ◇ ◇
「ひゃあああああっ!?」
美羽がソファの上で勢いよく跳ね起きた。
「おかえり。強制覚醒も正常。身体に異常なし。精神保護も――」
「お兄ちゃん!」
「なんだよ」
「妹が頭殴られて死んだ直後に、最初に言うことそれ!? 普通は大丈夫かとか聞かない?」
「いや、システムとして正常に動いたか確認しないと……。大丈夫か?」
「遅い!」
怒られた。
「それで、どこか痛い?」
「……今は痛くない」
美羽は自分の頭へ手を当て、さっき殴られた辺りを恐る恐る確かめる。
「殴られた時は?」
「痛かった! すごく痛いってほどじゃないけど、ゴンって来た!」
「痛覚一割なんだけどな」
「一割であれなの!?」
「現実で頭を棍棒で殴られたら、あんなもんじゃ済まないってことだな」
「実感したくなかった……」
頭を押さえたままソファへ沈み込んだ美羽は、しばらくしてから大きく息を吐いた。
「…………怖かった」
「怖さの再現具合も確認したかったからな。そこはちゃんと再現できてたみたいだ」
「できすぎだよ!」
だが、実際かなり重要な結果だった。
相手が弱いことも、一体しかいないことも、こちらには武器と身体強化があることも、死んでも現実の身体には何の影響もないことも事前に伝えてある。それでも、美羽は最初の一撃に反応できなかった。
「でも、これで分かっただろ? あいつ、本当に弱かったんだぞ」
「全然そう見えなかったんだけど」
「動き自体は遅かった。身体強化したお前なら、横に避けるだけでも間に合ってたよ」
美羽が少し悔しそうに黙り込む。
「でも、実際には動けなかった。この前言っただろ。剣の振り方を知ってることと、本気で殺そうとしてくる相手を前にして動けることは別だって」
「……うん。今日ので、すごくよく分かった」
「まさにそれを経験してもらうための訓練だからな」
別に責めるつもりはないし、むしろ普通の反応だと思う。
現代日本で普通に暮らしてきた十六歳の女子高校生が、初めて見る魔物に棍棒を振り上げられて、即座に冷静な戦闘行動を取れる方がおかしい。
「だから本物のダンジョンに入る前に、こういう訓練が必要なんだよ」
「……それは分かった。本当にすごくよく分かった」
美羽はソファへ座り直すと、何度か頷いたあと、人差し指を立てる。
「でも改善点いっぱいあるからね。まず、敵が出る前に一部屋、チュートリアルとか欲しい」
「いきなり真っ白な部屋に立たされて、木剣一本渡されて、『はい敵です』は雑すぎるってことか」
「そういうこと。私、木剣の持ち方すらよく分かってなかったのに、いきなり殺す気の魔物出てきたからね?」
「それは確かにそうだな」
もっともなので、最初にチュートリアル用の部屋を用意し、本番では見た目もダンジョンらしくすることにする。
「あと何がいる?」
「武器かな。木剣だけじゃなくて、いくつか選べた方がいいと思う」
「剣、槍、棍棒、盾……その辺か」
「弓とかは?」
「初見で弓は難しいぞ。矢を番えるところから覚えないといけないし」
「じゃあ初心者向けの武器を何種類か並べて、その中から選ぶ感じ」
「分かった。最初の部屋を武器庫みたいにしておくか」
「それいいね」
そこまで決めたところで、今度は別の問題に気づいた。
「でも一般人がいきなり武器持っても、使い方分からないよな」
「今日の私みたいにね」
「ああ。じゃあ持った瞬間、一週間くらい練習したような記憶を入れるとか――」
「待って」
美羽の表情が一瞬で変わった。
「今、何て言った?」
「一週間くらい練習した記憶を入れる」
「…………それは嫌」
「なんで?」
「記憶インストールは怖すぎるって。自分が実際にはやってない一週間分の記憶を、いきなり頭の中に入れられるんでしょ?」
「神託だって似たようなことしてるぞ?」
「全然違うから! 夢を見せられるのと、自分が経験してない記憶を『自分の記憶』みたいに入れられるのは全然違うよ!」
「……なるほど」
俺からすれば、技術を覚えるための便利な方法くらいにしか思っていなかったが、人間側からすると相当な抵抗があるらしい。
考えてみれば、俺自身も異世界へ放り込まれた時、最低限戦えるよう邪神に必要な知識を植え付けられている。その経験があるせいで、記憶や知識を直接与えることへの感覚も少しおかしくなっているのかもしれない。
「じゃあ、武器を持ったら目の前に使い方の動画を出すとか?」
「それ!」
美羽がすぐに食いついた。
「構え方とか振り方を、目の前で誰かがお手本見せてくれる感じならかなり変わると思う。知らない記憶を頭に入れられるより、そっちの方が絶対いい」
「半透明の人型でも出すか。足の位置とか、剣を振る軌道とか表示して」
「うんうん。それで練習する時間も欲しい」
「練習用の人形を置いて、何回か実際に振らせるようにするか」
「それならかなりいいと思う」
チュートリアル用の部屋に初心者向けの武器を並べ、選んだ武器に応じた説明とお手本の映像を表示する。さらに練習用の標的も用意して、最低限の扱いを試してから実戦訓練へ進む形にすればいい。
「あと、敵をいきなり出すのやめて」
「じゃあ三秒くらいカウント入れる?」
「三秒じゃ短いって! そもそも、自分で『開始』って選べるようにしたらいいじゃん」
「なるほど。それなら、チュートリアル終わったら扉を出して、それを開けたら戦闘開始とかにするか」
「それがいい。あと敵との距離も、もう少し離して」
「そこまで近かったか?」
「初めて魔物見る人間からしたら近いの!」
「分かった分かった。そこも直す」
想像以上に注文は多かったが、テスターを頼んだ意味は十分にあった。
俺一人で考えていたら、おそらく「安全に死ねるならそれでいいだろ」くらいの感覚で公開していた可能性がある。
「……人間目線って大事だな」
「お兄ちゃんも元人間でしょ」
「そうなんだけどな……」
言われて考えてみれば、俺は異世界へ放り込まれたその日から、普通とは程遠い環境にいた。
オーガやワイバーンが暴れ回り、周囲では街が壊され、人が死んでいた。何が起きているのかもろくに分からないまま、元の世界へ帰りたいという気持ちと、俺をそんな場所へ放り込んだ邪神への恨みだけで必死に戦った。その後も二十六年間、魔物と戦うことが当たり前の世界で生きてきたのだ。
「……俺、異世界に拉致された初日から、街が壊されて人も死んでる戦場のど真ん中に落とされてたんだよな」
「…………」
「オーガとかワイバーンとか普通に暴れてたし、あの時は邪神への恨みだけで結構無茶して戦い抜いたからなあ。その後も二十六年ずっとあっち基準だったし……普通の人が初めて魔物を見る時の感覚とか、かなりズレてるかもしれん」
美羽は何も言わず、しばらく俺の顔を見つめていた。
「なんだよ?」
答える代わりに、おもむろに手を伸ばしてくる。そのまま、ぽん、と俺の頭へ手を置くと、子供をあやすようにゆっくりと何度か撫で始めた。
「……何してんの?」
「いや……お兄ちゃんも大変だったんだなって」
「急にしみじみするなよ」
「だって今、さらっと言ったけど普通に酷い話だからね?」
「まあ……今となっては昔の話だし」
「そうやって軽く言うところもズレてると思う」
「……そうか?」
「そう」
もう一度頭を撫でられる。
主観年齢ではすっかり年下になった妹に頭を撫でられているというのは、何とも言えない気分だった。
「だから、普通の人の感覚はちゃんと私に聞いて」
「はい」
「よろしい」
美羽は満足そうに手を離す。
「……なんか立場逆じゃない?」
「今は私の方がお姉ちゃんみたいじゃない?」
美羽が笑い、俺もつられて笑う。。
自分が元人間だったからといって、今も普通の人間の感覚を正確に想像できるとは限らない。特に戦闘については、美羽のように今まで魔物とも戦争とも無縁だった人間へ試してもらう方が、よほど参考になりそうだ。
「あとね。コボルドって本当に弱いの?」
「最弱とは言ってない。ゴブリンより弱いって言っただけだ。それに、一体なら雑魚だぞ」
「私、その雑魚に殺されたんだけど」
「初見だったからな」
「……なんか悔しい。もう一回やりたい」
さっきまで怖かったと言っていたくせに、今度は負けたことの方が気になってきたらしい。美羽はむすっとした顔のまま、こちらを見上げてくる。
「今日はやめとけ」
「なんで? 次は勝てると思うんだけど」
「昼寝で一回死んで起きた直後に、また寝ようとしても眠れないだろ」
「神様の力で寝かせられないの?」
「できるけど、そんなところで神力使うの嫌だよ」
「そこは普通なんだ……」
「それに試作品のまま何回やっても仕方ない。今出た改善点を直してから、もう一回やった方がいい」
美羽は少しだけ不満そうだったが、さすがにそこは納得したらしく、小さく息を吐いた。
「じゃあ次は勝つ」
「おう。コボルド一匹にそこまで闘志燃やすとは思わなかった」
「誰のせいだと思ってるの」
「コボルド?」
「お兄ちゃんだよ!」
怒られた。
◇ ◇ ◇
その日の夜、俺は神域へ戻り、昼間の試験で出てきた改善点を一つずつ訓練空間へ反映していた。
真っ白だった空間は、まだ正式なダンジョンそのものではないものの、石造りの訓練施設らしい見た目へ変更する。最初に現れる安全なチュートリアル部屋には初心者向けの片手剣や槍、棍棒、盾などを並べ、それぞれを手に取れば目の前へ半透明の人型が現れ、基本的な扱い方を実演する仕組みにした。
練習用の標的も用意し、自分が選んだ武器を何度か実際に振ってから先へ進める。美羽が嫌がったため、記憶を直接与える案は当然ながら却下だ。
「……確かに、知らない記憶を勝手に入れられるのは嫌か」
二十六年間の異世界生活に加え、神になってできることまで増えすぎたせいで、「できるなら使えばいい」という考え方が知らないうちに混ざり始めていたらしい。
できることと、やっていいことは違う。その辺りは、これからも忘れないようにした方がよさそうだ。
チュートリアルを終えれば次の部屋へ続く扉が現れ、本人が開けるまでは敵を出さない。開けた先でも、最初の魔物は十分な距離を取った場所へ出現させる。
相手は昼間と同じ、弱体化したコボルド一体。武器は木製の棍棒で、訓練空間では痛覚を大幅に抑え、致命傷判定が出れば即座に終了する。精神的な負荷が設定した基準を超えた場合も強制終了し、本人が準備できるまでは戦闘そのものを始めない。
「……こんなところか」
昼に美羽へ試してもらった時とは、かなり違うものになった。
それでも一般公開する前には、説明が分かりやすいか、武器の種類は十分か、痛覚の強さは適切か、恐怖を残しながら必要以上に精神へ負担を掛けずに済むかなど、まだ確認したいことはいくつもある。
そして何より、初めて魔物を目にする普通の人間が、この環境で本当に少しずつ戦えるようになるのか。それを確かめなければならない。
「……美羽にやらせて正解だったな」
一人で作っていた時には気づかなかった問題が、たった一度試してもらっただけで山ほど出てきた。
人類が本物のダンジョンへ足を踏み入れるまで、まだ一年近くある。いきなり全世界へ開放するのではなく、もう少し動作と安全性を確認してから、神託で正式に説明すればいい。
その前に、安全な場所で怖がり、失敗し、たとえ死んでも何度でもやり直しながら経験を積んでもらう。本番で少しでも多くの人間が生き残るための訓練なのだから。
「……よし」
俺は修正した訓練空間を眺めながら、小さく頷いた。
「次はもうちょっと、ちゃんとしたのを遊ばせてやるか。いや……遊ばせる、じゃないな」
訓練してもらう。ダンジョンが現れた時、少しでも死者を減らすために。
どうやら俺自身もまだ、その辺りの感覚を少しずつ修正していく必要がありそうだった。