TS女神の地球救済政策 ~26年かけて異世界を救った元勇者、絶世の女神になって帰還したら地球が滅びかけていたので、ダンジョン災害で救います~ 作:TS女神
【Side:内閣総理大臣 久世隆一】
「総理。政府は昨日、地球担当神ルミエラとの正式な対話を希望すると発表しました」
「はい」
「しかし現在まで、政府がルミエラと直接連絡を取る手段は確認されていません。これは、声明を発表したものの、相手へ届いたかどうかすら分からないという認識でよろしいのでしょうか」
衆議院の委員会室に質問者の声が響く。
正面には何台ものカメラが並び、今日の審議はテレビでも生中継されていた。久世隆一は手元の資料へ一度視線を落としたあと、ゆっくりと顔を上げる。
「現時点において、我が国側からルミエラへ直接連絡を取る手段は確認されておりません」
それは昨日の声明を出す前から分かっていたことだ。
これまでルミエラと人類の接触は、すべて彼女の側から行われてきた。世界規模で発生した夢の中で、一年後のダンジョン発生を告げ、魔物や魔力について説明し、やがて魔法と身体強化を教え、昨日からは睡眠中に利用できる戦闘訓練まで開放している。
人類は彼女から与えられる情報を受け取ることはできても、こちらから話しかけることはできない。
「では政府は、具体的な連絡手段もない相手へ向けて、一方的に対話を求める声明を出したということでしょうか」
「そうなります」
委員会室に小さなどよめきが広がった。久世自身、それが奇妙な行為であることは理解している。だが、他に方法がなかった。
一年後に世界中へ現れるというダンジョンについて、政府として確認したいことはあまりにも多い。発生場所や規模、数だけではなく、魔物が外部へ出る可能性、一般人の立ち入り、魔法の危険性、そしてここ数日、全国各地で断続的に観測されている小規模な地震。
神託で与えられる情報だけを待ち続ける段階は、もう過ぎつつあった。
「ただし、これまでの神託から、ルミエラが地球上の状況を何らかの形で把握している可能性は高いと考えています。今回の声明についても認識される可能性があると判断し――」
久世がそこまで言った時、視界の端で何かが光った。
「……?」
最初は撮影用の照明か、カメラのフラッシュだと思った。しかし違う。委員会室の一角、何もなかったはずの空間に、細い青白い光の線が浮かび上がっている。
「何だ?」
「照明ではありません!」
ざわめきが一気に大きくなり、衛視や警護担当者が動く。久世の周囲にもすぐに人が集まり始めたが、光は誰かを襲うでも爆発するでもなく、ただ静かに広がっていった。
縦に走った一本の線が左右へ開き、その向こう側に、この場所とはまるで異なる光景が姿を現す。
久世は息を呑んだ。
淡い青白色の空の下には雲海が広がり、その向こうには巨大な白い柱が遥か遠くまで並んでいる。足元には鏡のように光を反射する白い床。
見間違えるはずがなかった。久世自身、すでに何度もそこへ立っている。
「……神託の場所だ」
誰かの呟きが聞こえた。
同じものを見た人間は、この場にも大勢いるのだろう。委員会室を満たしていた騒めきが、波が引くように小さくなっていく。
開かれた空間の向こう、白い床の上には一人の女性が立っていた。
膝よりさらに下まで流れ落ちる銀白色の髪に、澄み切った蒼い瞳。身に纏っているのは白と銀を基調とし、青と金の装飾が施された神秘的な衣。
夢の中で何度も目にした姿だった。
映像でも、写真でもない。現実に存在する国会議事堂の中から見える空間の向こうに、その女性は確かに立っている。
「ルミエラ……」
久世の口から、無意識にその名が漏れた。
彼女が歩き始める。銀白色の長い髪を静かに揺らしながら白い床の上を進み、やがて二つの空間の境界を越えた。
そして――女神ルミエラは、現実の国会へ足を踏み入れた。
夢の中では分からなかったことがある。
これまで久世は、あの姿が異様なほど美しく見えるのは、夢という環境そのものがそう感じさせている可能性すら考えていた。
だが、違った。
普通の人間たちが並ぶ現実の空間に立ったことで、むしろその異質さが際立っている。
人間と同じ姿をしている。表情もあり、呼吸しているようにも見える。それなのに、どこか根本的な部分で自分たちとは違うのだと、理屈ではなく感覚が訴えていた。
ルミエラは周囲を一度見渡した。
突然の事態へ身構えている警護担当者。席を立った議員たち。そして正面から自分を見つめている久世。その全員へ向けて、女神は穏やかに微笑んだ。
「皆さん、こうして現実でお会いするのは初めてですね」
その声を聞いた瞬間、最後に残っていた疑念まで消えた。神託で何度も聞いた声と同じだった。
「地球担当神のルミエラです。突然の訪問となってしまい、申し訳ありません」
そう言って僅かに頭を下げた彼女は、そのまま落ち着いた口調で続ける。
「皆さんが私との対話を望んでいると知り、こうして伺いました」
久世は一瞬、何を返すべきなのか分からなかった。
昨日、日本政府は確かに世界へ向けて声明を出した。話をしたい。何らかの形で応じてもらいたい。しかし、まさか翌日の国会審議中に本人が現れるなど、誰が予想できただろう。
「……お越しいただき、ありがとうございます。ルミエラ様。内閣総理大臣の久世隆一です」
「はい。存じています」
「……私を?」
「地球の現状を把握する上で、主要な国々の代表者については確認していますから」
あまりにも自然に返され、久世は改めて目の前の存在が人間とは違うのだと実感する。その時、少し離れたところから声が上がった。
「一つ、よろしいでしょうか」
委員長が制止するより早く、先ほどまで質問をしていた議員が口を開いていた。この状況で平静を保てという方が難しい。
「なぜ、日本なのでしょうか。世界各国がルミエラ様との対話を希望していると承知しています。その中で、最初に日本へ来られた理由を伺っても?」
久世も知りたかった。
自分たちから呼びかけておいて言うことでもないが、日本だけが特別に選ばれた理由があるのなら、その意味は小さくない。ルミエラは少しだけ考えるような間を置いたあと、穏やかに答えた。
「現時点で、戦闘訓練への参加率が最も高かったのが日本だったためです」
「……参加率?」
「はい。単純な人数ではありません。すでに戦闘訓練を利用できる状態になった方のうち、実際に利用された方の割合です」
委員会室が再びざわつく。
「今回の訓練は強制しているものではありません。それでも自ら参加し、一年後へ向けた準備を始めている方が多かった。でしたら、最初にお話をする相手として選ぶ理由には十分だと考えました」
「なるほど……」
「もちろん、日本だけと対話するつもりはありません。他の国々とも、必要に応じて順番にお話しするつもりです」
その言葉を聞いて、久世は内心で僅かに息を吐いた。少なくとも、日本だけへ特別な権利を与えるという意味ではないらしい。
同時に、このやり取りが今も全国へ生中継されていることを思い出す。
いや、今頃は国内だけでは済んでいないだろう。この映像が本物だと確認されれば、数分もしないうちに世界中へ広がる。もはや今日という日は、日本だけの出来事ではない。
「皆さんから確認したいことが多くあることは承知しています。私も、可能な限りお答えするつもりです。ただ、長時間こうして皆さんの前で応対を続けるのは、私にも少々負荷があります」
「負荷……?」
久世の眉が僅かに動いた。
世界中の人間へ大規模な神託を送り、魔法を教え、睡眠中に利用できる訓練空間まで構築している存在。それほどの力を持つ神であっても、現実世界へ姿を現し続けることには何らかの制限があるのだろうか。
「今回は、一時間ほどを目安にしていただけると助かります。ですので、ご質問には色々とお答えしたいのですが、まずは重要なものをまとめていただけますか?」
「承知しました」
久世は即座に答えた。
一時間は決して長くない。だが、これまで一度も成立しなかった対話が、初めて成立したのだ。無駄にはできない。
「ここでは落ち着いてお話しするのも難しいでしょう。もしよろしければ、場所を移して――」
「はい。私もその方がよいと思います」
ルミエラは素直に頷いた。
こうして、後に世界中で繰り返し映像が再生されることになる地球担当神ルミエラの初降臨は、あまりにも突然始まった。
◇ ◇ ◇
場所を移したあとも、久世には目の前の光景がどこか現実離れして見えていた。
政府側から参加しているのは久世をはじめ、関係閣僚と数名の官僚。必要な記録は残しているが、先ほどまでのような生中継は行っていない。
その会議用の長机の向こう側では、世界中の人間が夢の中でしか会ったことのなかった女神が、現実の椅子へ腰掛け、自分たちが質問するのを待っている。
「では、時間も限られていますので、早速質問させていただきます」
「はい」
久世が最初に選んだのは、やはり今この瞬間にも国民の不安へ直結している問題だった。
「現在、日本各地で小規模な地震が増えています。これは以前の神託でお話しされていた、地球の魔力環境の変化によるものなのでしょうか」
「すべてではありません。地球では元々、自然現象として地震が発生しています。それについては今後も変わりません」
「では……」
「通常の地殻活動によって起きる地震と、以前お伝えした環境変化に伴って発生するもの。その両方が存在すると考えてください」
久世はペンを握る手へ僅かに力を込めた。
「見分けることは可能でしょうか」
「一般的な観測だけで明確に判別するのは、現時点では難しいと思います」
「環境変化によって生じる方については?」
「大きな被害へ繋がらないよう、可能な限りこちらで抑えています。ただし、誤解しないでください」
ルミエラの表情が、それまでより少しだけ真剣なものへ変わる。
「私が抑えているからといって、地球で通常発生する地震までなくなったわけではありません。明日、自然の地震が発生しないと私が保証することはできませんので、これまで通り防災への備えは続けてください」
「承知しました」
安心材料ではあるが、安全宣言ではない。久世としても、その線引きはありがたかった。少なくとも「女神がいるから、今後日本では大地震が起きない」などと誤った認識が広がる事態は避けなければならない。
「次に、ダンジョンについて伺います。一年後、具体的にどこへ、どの程度の数が発生するのでしょうか」
「正確な位置までは、まだ分かりません。ただ、少なくとも一つや二つではなく、世界各地へ複数発生します」
「日本国内にも?」
「発生する可能性は高いです」
「都市部にもでしょうか」
「はい。山奥や無人地域だけに発生するわけではありません。人の生活圏に近い場所へ現れる可能性もあります」
室内の空気が僅かに張り詰めた。
「住宅地や道路の近くへ現れることも?」
「あり得ます。ただし、出現した瞬間に大規模な事故へ直結するような場所への出現は、可能な限りこちらでも抑えています」
完全な無秩序ではないらしい。そのことに久世は僅かに安堵する。
「そして、内部の魔物についてですが」
今度は別の閣僚が口を開いた。
「ダンジョン内部で発生する魔物が、外へ出てくる可能性はありますか」
「あります。ただし、ダンジョンが発生した直後から無制限に魔物が溢れ出すわけではありません」
「条件があると?」
「ダンジョンは内部で継続的に魔物を生み出します。人が入り、魔物を討伐するなどの活動が続いている間は比較的安定しますが、長期間ほとんど手を加えず放置すれば、内部の魔物が外へ出てくる可能性が高くなります」
「つまり、入口を閉鎖して放置するという方法では……」
「おすすめしません」
ルミエラは静かに首を横へ振った。
「ダンジョンについては、基本的な生態や危険性、管理する上で注意していただきたい点をまとめた資料を別途お渡しします。すべてをここで説明していると、それだけで一時間が終わってしまいますから」
「それは助かります」
久世としても、その方がありがたい。質問すべきことは、まだ山ほど残っている。
「先ほど、魔物を討伐すると仰いました。つまりルミエラ様は、人間がダンジョン内部へ入ることを前提としているのでしょうか」
「そのつもりです。私は、できる限り多くの方にダンジョンへ関わっていただきたいと考えています」
「多くの……」
「もちろん、強制するつもりはありません。危険な場所ですし、魔物は本気で人を襲います。実際に命を落とす可能性もありますから、その危険を理解した上で、それでも望む方が十分な訓練と装備を整えて入れる環境を作っていただきたいのです」
「一般市民にも、ですか?」
「はい」
久世は考え込む。
政府内では、ダンジョン発生後の立ち入りを警察や自衛隊などへ限定する案も当然検討されていた。だが、ルミエラ本人はそれとは違う考えを持っているらしい。
「理由を伺っても?」
「ダンジョンは、危険しか存在しない場所ではないからです。内部では、様々な資源が得られます」
その言葉を聞いた瞬間、久世だけではなく、その場にいた何人もの表情が変わった。
「資源、ですか」
「はい。魔物の身体から得られる素材や、地球には存在しない植物、鉱物、魔力を蓄えた石などがあります」
「それは、異世界の資源ということでしょうか」
「それだけではありません。地球にもともと存在する資源が、ダンジョン内部で形成されることもあります」
「具体的には?」
「鉄や銅、金、銀、希少金属などですね。条件が合えば、石油のような資源が形成される場合もあります」
「石油……?」
思わず聞き返したのは久世だけではなかった。
この話の意味は大きい。単に未知の魔物が住む空間が現れるというだけではない。新しい鉱山や資源地帯、場合によっては油田に相当するものまで、世界各地に生まれる可能性があるということだ。
「それは、地球の地下に存在する資源がダンジョンへ移動するということでしょうか」
「いいえ。既存の鉱床や油田から資源を奪っているわけではありません」
「では、なぜ……?」
「ダンジョンは形成される際、自らの基となった世界と、定着する世界の情報を読み取ります。今回であれば、異世界と地球、その両方ですね」
「世界の……情報」
「はい。物質そのものをどこかから移動させるのではなく、その世界に存在する物質や環境を参照し、内部環境を形成します」
「だから、異世界のものだけではなく、地球の資源も?」
「その通りです」
久世は手元のメモへ視線を落とした。
書き留めるべき情報が多すぎる。いや、書き留めるだけで済む話ではない。これは資源政策や産業政策だけではなく、外交や安全保障にまで影響する。
「一つ、よろしいでしょうか」
今度は別の閣僚だった。
「ルミエラ様は、ダンジョンを災害として説明されていました。その災害が、なぜ人間にとって価値のある資源を生み出すのでしょうか」
当然の疑問だった。その言葉にルミエラは少しだけ目を細める。
「ダンジョンは、皆さんが想像しているような単なる地下迷宮ではありません。正確には少し違いますが、生物に近い性質を持つ、一つの魔法的な生態系だと考えてください」
久世は僅かに眉を寄せた。どうやら、これまで想像していた単なる地下空間とは、根本から認識を改める必要があるらしい。
「ダンジョンにとって、外部の生物が内部へ入り、活動することには意味があります。そのため、人間にとって価値のある資源を形成するなど、外部の生物を内部へ誘う性質も持っています」
「つまり……餌、と言うと語弊があるかもしれませんが」
「かなり単純化すれば、間違ってはいません」
あまりにも穏やかな声で肯定され、室内の空気が微妙に変わった。
「では、長期間ほとんど誰も入らなければ?」
「分かりやすく言えば、ダンジョンも『飢える』と考えてください。内部の活動が不足した状態が長く続けば、外部との接触を求めるようになり、その結果として魔物が外へ出る可能性も高くなります」
そこでようやく、久世の中で話が一本に繋がった。なぜダンジョンには資源が存在するのか。なぜ人間が内部へ入る必要があり、放置すれば魔物が外へ出てくるのか。
「つまり我々は、ダンジョンを完全に封鎖するのではなく、継続的に管理しながら内部へ人を入れる必要がある」
「私は、それが最も安定すると考えています」
「なるほど……」
久世は深く息を吐いた。
政府が一年間で用意しなければならないものが、頭の中で急速に増えていく。
入場管理や訓練制度、救助と医療体制、装備基準。ダンジョン内部で取得した物品の所有権や売買、税制、武器規制。さらに警察、自衛隊、企業、研究機関との連携まで考えれば、現在存在する制度をそのまま当てはめるだけでは到底足りない。
もっとも、現時点で得られている情報だけを前提に制度を固定するのも危険だろう。これから明らかになるダンジョンや魔物の性質に応じ、何度も見直していく必要がある。
「武器についても、法整備が必要でしょうね」
久世がそう言うと、ルミエラは頷いた。
「はい。現在の日本では、一般の方が剣や槍を自由に持ち歩くことを前提とした制度にはなっていないと認識しています」
「当然ながら、そうです」
「ですが、ダンジョン内部では必要になります。銃刀法を含め、既存の法制度との調整はお願いしたいと思っています」
「具体的な制度について、何か希望はありますか」
「私から細部まで指定するつもりはありません。それは、人間社会で暮らす皆さんが決めるべきことです」
ルミエラは静かにそう答えた。
「ダンジョンについて必要な情報はお伝えしますし、こちらで対応すべき部分については対応します。ですが、誰に許可を与え、どのような資格制度を作り、取得した資源の所有権をどう定めるかまで、私が一方的に決めるべきではないでしょう。皆さんの社会なのですから」
その言葉に、久世は僅かに目を細めた。
圧倒的な力を持つ存在が突然現れ、「これからは私の言う通りにしなさい」と命令したなら、人類側に拒否する手段があるかどうかすら分からない。しかし少なくとも今のところ、ルミエラはそれを望んでいない。
「未成年者についてはいかがでしょうか。ダンジョンへの立ち入りを、成人に限定すべきでしょうか」
質問を受けたルミエラは僅かに首を傾げ、少し考えてから答えた。
「それについても、最終的な制度は皆さんへお任せします。ただ、十分な訓練と安全管理を前提とするのであれば、未成年であるという理由だけで、一律に選択肢から外す必要はないと私は考えています」
「年齢制限を設けること自体には?」
「反対しません。年齢区分や保護者の同意、訓練の修了、入れる階層の制限。そうした仕組みは必要になるでしょう」
そこまで言って、ルミエラは柔らかく微笑んだ。
「何より、本人が望んでいないのに入らせることはしないでください。それは成人でも同じです」
「承知しました」
戦闘訓練を任意としている存在らしい答えだった。
「続いて、魔法について伺います。現時点では《光球》と身体強化が広く知られていますが、魔法そのものに危険性はあるのでしょうか」
「あります。現在お教えしている《光球》については、人を傷つけるようなものではありません。ただし、魔法という技術全体が安全という意味ではありません」
「攻撃用の魔法が存在すると?」
「存在します」
室内に緊張が走る。だが、ルミエラは攻撃魔法そのものについて詳しく説明することなく、そのまま話を続けた。
「ただ、攻撃するために作られていない魔法でも、使い方によっては人を傷つけられます。例えば水を生み出すだけでも、使い方を誤れば人を溺れさせることはできますし、土の塊でも、人に強くぶつければ怪我をします」
「……確かに」
「包丁と同じです。料理をするために必要な道具でも、人へ向ければ凶器になります。魔法も同じように考えてください。便利だから安全なのではなく、扱う人間が責任を持つ必要があります」
久世はゆっくりと頷いた。
「その上で、今回の対話を機に、日本政府へ新しい基礎資料をお渡ししようと思っています」
「新しい……?」
「光、水、土。この三系統について、基礎的な魔法をまとめた魔導書です。現在お教えしている《光球》よりも、もう少し体系的な内容になります」
会議室の空気が明らかに変わった。
「魔導書……日本へ、ですか?」
「まずは。現時点で戦闘訓練への参加率が最も高く、最初に正式な対話を行った国ですから、先行して研究していただこうと思っています」
そこでルミエラは、誤解を防ぐように言葉を続けた。
「ただし、同程度の基礎知識については、今後ほかの国々にも順次共有する予定です」
「承知しました」
それでも、日本が最初に受け取るという事実は大きい。
昨日までなら、魔法という言葉を政策文書へ記載するだけでも冗談のように思えただろう。しかし今では、すでに国民の中に《光球》や身体強化を使える人間が存在し、その技術を人類へ教えた本人が目の前に座っている。
もはや魔法は、空想として扱えるものではない。
久世が次の質問へ移ろうとした時、向かいに座るルミエラがふと視線を動かした。その先にあるのは、会議室の壁に掛けられた時計だった。ほんの僅かな間だけ時刻を確認したあと、ルミエラは何事もなかったように視線を戻す。
久世もつられるように時計を見て、そこで初めて、会談を始めてから思っていた以上に時間が経っていることに気づいた。
「……そろそろ時間ですね」
ルミエラが穏やかに告げる。
「あといくつかでしたら、お答えできます」
「では、もう一つ重要なことを確認させてください」
「はい」
「今後、我々の側からルミエラ様へ連絡を取る方法を設けることは可能でしょうか」
その問いを受けた瞬間、本当に僅かな時間だけルミエラの動きが止まった。しかし、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
「……そうですね。確かに、これまでの神託はこちらからお伝えするだけのものでした。今後のことを考えれば、皆さんから私へ連絡できる方法も必要でしょう」
「可能なのですか」
「難しくはありません。各国政府へ一つずつ、簡単な連絡用の端末を用意しようと思います」
「端末……」
「文字情報をこちらへ送れるものです。常時会話できるものではありませんし、送られた瞬間に必ず私が確認できるとも限りませんが、少なくとも今回のようにテレビを通して呼びかける必要はなくなるでしょう」
冗談を言ったわけでもないのに、その説明を聞いた何人かの表情から僅かに力が抜けた。
確かに、今回の方法はあまりにも原始的だった。世界中へ向けて声明を発表し、女神が見ていることを祈るなど、通信と呼べるものではない。
「緊急時については?」
「それと分かるように送れる仕組みにはします。ただし、緊急ではないものまで緊急扱いにすることは、できれば避けてください」
「……各国へ徹底する必要がありそうですね」
「お願いします」
久世は時計を見る。残された時間は、もうほとんどない。
「ルミエラ様。最後に一つだけ」
「はい」
「我々人類へ、一番求めていることは何でしょうか」
この短い時間だけで、地震、ダンジョン、魔物、資源、魔法、そして法制度について、あまりにも多くの話を聞いた。そのすべてを踏まえた上で、目の前の存在が人類へ何を望んでいるのか。それだけは聞いておきたかった。
ルミエラはすぐには答えず、少しだけ視線を伏せて考えたあと、静かに口を開いた。
「準備してください」
「……準備」
「一年後、ダンジョンは現れます。私にできることはしますし、必要な知識も、できる限りお伝えします。大きすぎる被害についても、可能な範囲で抑えます」
穏やかな声でそう告げながら、蒼い瞳が久世をまっすぐに見つめる。
「ですが、すべてを私一人で代わりに行うつもりはありません。一年という時間を使って、皆さん自身が生き残れるようにしてください」
それは、これまでの神託から一貫している姿勢だった。必要な時間と手段は与えるが、人類の代わりにすべてを背負うつもりはないのだ。
「分かりました。政府として、できる限りの準備を進めます」
「お願いします」
ルミエラは柔らかく微笑んだ。そして、ほんの僅かに息を吐いたように見えたあと、申し訳なさそうに口を開く。
「申し訳ありませんが、そろそろ限界です」
その言葉に、室内の空気が再び張り詰めた。
「大丈夫なのですか。何か、こちらにできることは?」
「ご心配なく。少し休めば問題ありません」
ルミエラは穏やかな表情を崩さないまま立ち上がる。
「……そうですか」
久世はそれ以上踏み込まなかった。何に対する負荷なのかは分からないが、少なくとも本人が限界を口にした以上、これ以上引き留めるべきではない。ルミエラが立ち上がったのに合わせて、久世たちも席を立った。
「本日は、お越しいただきありがとうございました」
「こちらこそ。皆さんと直接お話しできてよかったです」
「今後とも、よろしくお願いいたします」
「はい。またお会いしましょう」
女神が柔らかく微笑んだ直後、その背後の空間に再び青白い光が走った。
静かに開いていく向こう側に、雲海と白い柱が現れる。ルミエラは一度だけこちらを振り返ったあと、そのまま白い空間へ歩いていった。長い銀白色の髪が境界の向こうへ消えると、開いていた空間も静かに閉じていく。
あとには、何事もなかったかのような会議室だけが残された。
「…………」
誰も、すぐには口を開かなかった。
先ほどまで地球担当神を名乗る存在が座っていた椅子を、何人もの人間が無言で見つめている。やがて一人の官僚が、手元の資料へ視線を落としたまま呟いた。
「……現実世界への顕現可能時間は、およそ一時間」
「いや、それはまだ推測だ」
久世が反射的に訂正すると、官僚が顔を上げた。
「総理?」
「彼女は一度も、『現実世界へ存在できる時間が一時間だ』とは言っていない」
思い返せば、ルミエラが言ったのは、長時間応対を続けることには負荷があり、一時間ほどを目安にしてほしいということ。そして最後に、そろそろ限界だと告げただけだ。
「事実と推測は分けて記録しろ。ただし、何らかの負荷があると本人が発言したことは事実だ。その点は残しておけ」
「……承知しました」
久世は一度大きく息を吐くと、視線を机の上へ戻した。
「それより、今日聞いた内容をすぐに整理する。ダンジョン対策についても前提から見直しだ。単なる災害対策では済まない」
これまでなら、魔物への対処と避難計画が中心だった。
しかし今聞いた話を前提とするなら、資源、探索制度、武器、魔法、産業、研究まで含めて考えなければならない。ダンジョンそのものが一つの生態系であり、封鎖して放置することすら適切ではないのだ。
一年という時間は、長いようでいて、この規模の変化へ備えるにはあまりにも短い。
その時、会議室の扉が開いた。
「総理」
入ってきた秘書官の表情には、明らかな動揺が残っている。
「何だ」
「先ほどの国会中継ですが……すでに国内だけではなく、海外でも映像が拡散しています。主要国からも問い合わせが殺到しています」
「そうだろうな」
予想通りだった。
「それと、テレビ各局が通常編成を切り替えています」
「……そうか」
久世は椅子の背へ身体を預けた。
昨日まで、地球担当神ルミエラは、世界中の人間が夢の中でしか会うことのできない存在だった。
本当に神と呼ぶべき存在なのか。その正体は何なのか。そもそも現実世界に実体を持っているのかさえ分からず、これまで世界中で様々な議論が交わされてきた。
そのすべてに答えが出たわけではない。むしろ、今日の会談によって新たに生まれた疑問の方が多いだろう。
それでも、一つだけはもう疑う余地がなかった。
夢の中にしかいなかった女神は、確かにこの現実へ足を踏み入れたのだ。