TS女神の地球救済政策 ~26年かけて異世界を救った元勇者、絶世の女神になって帰還したら地球が滅びかけていたので、ダンジョン災害で救います~ 作:TS女神
【Side:一般大学生 山田太郎】
戦闘訓練が開放されてからというもの、俺の日課には一つ、新しいものが加わっていた。
朝になれば大学へ行き、講義を受け、友人と昼飯を食べる。帰宅してからはゲームをしたりネットを眺めたりして、適当な時間になればベッドへ潜り込む。そこまでは以前とほとんど変わらない、ごく普通の大学生活だ。
変わったのは、そのあとだった。眠りに落ちれば、今はまだ現実では経験できない時間が始まる。
「今日もやるか」
先ほどまで見ていた女神ルミエラの神託を思い返していると、目の前へ見慣れた文字が浮かび上がった。
【戦闘訓練へ参加しますか?】
【はい/いいえ】
ここで迷ったことは、最初の日以外ほとんどない。
「はい」
答えた瞬間、周囲を淡い光が満たし、見慣れた自室の景色がゆっくりと塗り替えられていった。
◇ ◇ ◇
「……ん?」
降り立ったのは、ここ数日ですっかり見慣れた訓練空間だった。
武器の収められた箱が並び、その扱い方を教えてくれる半透明の人型が立っている。少し離れた奥には、実戦訓練へ続く重厚な扉も見えていた。
ところが今日は、いつもなら存在しない文字が視界の中央へ表示されている。
【訓練内容が更新されました】
「更新?」
戦闘訓練が始まってから、それほど日数が経ったわけではない。それでも毎日欠かさず参加してきた俺には、この場所に何があって、何がなかったのかくらいは分かる。
視線を動かすと、予想通り今まで見たことのない項目が追加されていた。
【基礎戦闘訓練 ※更新あり】
【探索訓練【チュートリアル】 ※NEW】
「探索訓練……!」
思わず声が漏れた。
正確には、まだチュートリアルらしい。
そういえば最初の説明でも、今までの戦闘訓練は一対一で魔物と戦うことに慣れるための、あくまで初歩的なものだと言っていた。本物のダンジョンでは魔物が一体ずつ順番に襲ってきてくれるわけではなく、そのための訓練もいずれ追加する予定だと聞いている。
いつ来るのかとは思っていたが、想像していたよりずっと早い。
「もう追加されたのか……」
気持ちは完全に探索訓練へ傾いていたものの、すぐにそちらを選ぶことはできなかった。基礎戦闘訓練の横にも、小さく【更新あり】という表示が出ていることに気づいてしまったからだ。
一度見つけてしまえば、放っておけない。
「……先にこっちだけ見るか」
基礎戦闘訓練へ意識を向けると、これまでにはなかった選択肢が表示された。
【対戦する魔物を選択してください】
【コボルド(訓練用・弱体化)】
【コボルド】
【ゴブリン】
【スライム】
【すべての討伐訓練に成功すると、次段階の訓練対象が解放されます】
「増えてる……!」
昨日まで戦えたのは、初心者向けに弱体化されたコボルドだけだった。それが今日は、本来の強さのコボルドにゴブリン、それどころかスライムまで選べるようになっているらしい。
「しかも全部倒したら、まだ増えるのか……」
正直、かなり試したい。
最初の頃こそ、コボルドが目の前に現れるだけで身体が緊張したものだが、毎日戦っているうちに、さすがに多少は慣れてきた。攻撃してくる時の癖や、自分の棍棒が届く距離も、最初の頃よりは分かるようになっている。
もちろん、俺自身が急に達人になったわけではない。
剣道経験も格闘技経験もなく、運動神経だって人並みだ。そもそも今まで相手にしていたのは初心者向けに能力を落とされた訓練用のコボルドなのだから、それを倒せるようになった程度で調子に乗るのは早い。それでも、同じことを何度も繰り返していれば、少しくらいは身体も頭も覚えていく。
「普通のコボルドも気になるけど……」
昨日までなら、そのまま選んでいただろう。けれど今日は、それ以上に興味を引かれる項目があった。
【武器への魔力伝達・基礎】
「これ、さっきの神託でやってたやつじゃん」
先ほど見たばかりの光景が頭に蘇る。
女神様の身体を巡っていた青白い光が、肩から腕、掌へと流れ、そのまま握っていた武器へ移っていった。武器そのものへ魔力を流し込み、攻撃へ乗せるという話だ。
銃についての説明もかなり面白かったが、自分で今すぐ試せるという意味では、こちらの方がずっと身近だった。
「せっかくだし、やってみるか」
俺は武器箱の前へ歩いていく。
戦闘訓練を始めたばかりの頃は、やっぱり剣が一番それらしく見えた。ゲームでも漫画でも主人公が持っているのはだいたい剣だし、掲示板を見ている限りでも、戦闘訓練が開放された直後は剣を選んだ人がかなり多かったらしい。
ただ、何度か色々な武器を試してみて、今の俺が一番使いやすいと感じたものは別にあった。
右手で木製の棍棒を取り上げ、左手には小型盾を持つ。
「結局、これが一番安定するんだよな」
見た目の格好良さでいえば、剣や槍には明らかに負ける。
けれど、剣のように刃の向きを合わせる必要はなく、相手の身体へきちんと当てればそれなりの威力が出る。槍ほど長い間合いは取れないものの、今の俺でも片手で扱いやすく、左手に盾を持てるのは大きい。
コボルドの攻撃を盾で受け止め、その動きが止まったところを棍棒で殴る。結局、今の俺にはそのくらい単純な戦い方の方が合っていた。
棍棒を手に取ったのを確認したのか、武器箱の傍にいた半透明の人型が俺の目の前へ進み出た。その右手にも、俺と同じ木製の棍棒が握られている。
『武器へ魔力を流す場合も、基本となるのは自身の魔力を安定して操作することです』
聞き慣れてきたルミエラの声が、静かな訓練空間へ響く。
『身体強化で魔力を巡らせる感覚を基礎として、まずは掌へ流れる魔力を意識してください。そのうえで、握っている武器を自分の身体の延長として捉え、触れている部分から少量ずつ魔力を流していきます』
説明に合わせるように、半透明の人型の身体へ青白い光が浮かび上がった。
胸元から肩、腕、掌へと続いた光は、そのまま棍棒の柄へ入り込む。そこで止まることなく木の内部を伝い、先端へ向かってゆっくりと伸びていった。
「木でも流れるんだ」
『魔力は木材を含む多くの素材へ流すことができます。ただし、魔力の伝わりやすさは素材によって異なります』
「やっぱ違うのか」
相変わらず俺個人へ返事をしているわけではないのだろうが、妙に会話が成立しているように感じる。
『一般的な木材は、金属などと比較すると魔力が通りにくく、流した魔力の一部が拡散しやすい性質を持ちます。そのため、同じ量の魔力を使用しても、素材によって武器へ伝わる効率には差が生じます』
「なるほど……」
改めて、手の中にある木製棍棒を見る。木だから魔力を使えないというわけではない。ただ、魔力を流した時の効率があまり良くないらしい。
「だったら、鉄の棍棒の方が強いのか?」
口にしてから、すぐに別の問題へ思い至る。
「……いや、重そうだな」
木製の棍棒ですら、これだけの太さがあれば決して軽くはない。
仮に同じ大きさのものを丸ごと鉄で作れば、当たった時の威力も頑丈さも上がりそうだが、振り回すだけで相当大変だろう。身体強化があるとはいえ、武器そのものが重くなれば疲労も増えるだろうし、大きく振った後に構え直すまでの時間だって長くなる。
単純に頑丈な素材へ替えれば全部解決、というわけではなさそうだ。
『また、木製武器は扱いやすい一方、刃物などによる攻撃を直接受け続ければ破損する可能性があります』
「……ああ、そりゃそうか」
木製の棍棒で剣を受ければ、刃が食い込んで傷や欠けが生じるだろう。一度受けただけで折れるとは限らなくても、何度も斬りつけられれば、いずれ破損する可能性は高い。
『盾を併用する場合、防御は可能な限り盾で行ってください。武器で受ける必要がある場合にも、装備の素材や相手の武器を確認し、破損の危険を考慮する必要があります』
「盾を持ってるなら、そっちで受けろってことね」
言われてみれば分かりやすい。
木製の棍棒は、基本的には殴るためのもの。相手の攻撃を受けるなら、左手に持っている盾を使えばいい。今までも何となくそうしていたが、きちんと理由を説明されると納得できた。
『初めから武器全体へ魔力を行き渡らせる必要はありません。まずは、自分が直接触れている柄から始めてください。感覚を掴んだ後、少しずつ範囲を広げていきましょう』
「了解」
棍棒を握り直し、身体の内側へ意識を向ける。
身体強化なら、ここ数日の訓練で多少は慣れてきた。全身へ薄く魔力を巡らせ、その流れを意識しながら右腕へ集めていく。腕から掌までなら問題ない。だが、その先へ魔力を流そうとした瞬間、急に感覚が曖昧になった。
「……むず」
身体の中を流れている間なら、自分の一部として何となく位置が分かる。ところが棍棒は、当然ながら自分の身体ではない。掌まで届いた魔力を、その外側にある別の物体へどうやって流せばいいのかが分からなかった。
「流れろ……って思うだけじゃ駄目か」
念じてみるものの、棍棒には何の変化も起こらない。
先ほどの神託では女神様があまりにも自然にやっていたから簡単そうに見えたが、よく考えれば比較対象が間違っている。相手は神様で、こちらはつい最近まで魔力の存在すら知らなかった普通の大学生なのだ。
「じゃあ、もう一回」
今度は棍棒全体を意識するのをやめ、握っている柄だけへ集中する。掌まで来ている魔力を、身体の境目で止めない。ほんの少しだけ、その先へ染み出させるような感覚を思い浮かべてみる。
すると、右手の中で何かが僅かに抜けていくような、不思議な感触があった。
「……お?」
目を落とすと、握っている柄の一部へ淡い光が灯っていた。
「おお、できた!」
思わず声を上げたせいで集中が切れ、せっかく灯った光はすぐに消えてしまう。それでも、今のは見間違いではない。
もう一度同じ感覚を探し、今度はさっきより少し長く維持することを意識する。何度か試しているうちに、柄へ入った光は手のすぐ先まで伸びるようになってきた。ただし、人型が見せていたように先端まで滑らかに流れてはいかない。木の中を進むにつれて光は薄くなり、周囲へ広がるようにして途中で消えてしまう。
「これが、通りにくいってことか」
それでも、できないわけではなかった。
少しずつ流す量を調整し、途中で消えればもう一度試す。さっきより少し先へ、その次はさらに少し先へと繰り返しているうちに、気づけば同じことを何度も試していた。
「……これ、普通に楽しいな」
一度できるようになると、今度はどこまで伸ばせるのか確かめたくなる。
昔からこうなのだ。一度面白いと思うと、きりのいいところまで何度でも試したくなる。勝てないゲームのボスがいれば勝つまで挑戦するし、よく分からないシステムがあれば、自分なりに色々試して仕組みを確かめる。
そのまま続けていれば、本当に魔力伝達の練習だけで今日の時間を使い切りかねなかった。
「……いや、違う違う。今日は探索訓練を見に来たんだった」
そこでようやく本来の目的を思い出し、名残惜しく棍棒を下ろした。
◇ ◇ ◇
【探索訓練【チュートリアル】】
項目を選択すると、すぐに説明が始まった。
『探索訓練【チュートリアル】は、実際のダンジョン内部で行動するための基礎を学ぶ訓練です』
声と同時に、目の前へいくつもの映像が浮かび上がる。
石造りの細い通路に、複数の分かれ道。先の見えない曲がり角や、暗がりへ続く階段。さらに映像が切り替わると、一見何もいないように見える曲がり角の向こう側に、複数の魔物が身を潜めていた。
『これまでの基礎戦闘訓練とは異なり、探索中の魔物が正面から一体ずつ現れるとは限りません』
今度は、一人の人間が前方の魔物と戦っている映像へ切り替わる。本人は目の前の敵に集中しているが、その背後では、別の曲がり角からもう一体の魔物がゆっくりと近づいていた。
『複数個体との遭遇、奇襲、死角、地形による視界の制限など、実際の探索では戦闘以外にも様々な危険が存在します』
「うわ……」
頭では分かっていたはずなのに、実際の状況として映像を見せられると印象がまるで違った。
これまでの戦闘訓練なら、扉を開ければ相手は一体だけだった。敵がどこにいるのかも分かっているし、こちらが準備を整えてから戦うこともできる。けれど探索では、そんな都合のいい条件は何一つ保証されないらしい。
『また、探索訓練では遭遇した魔物をすべて討伐する必要はありません』
「え?」
『周囲の状況を確認し、不要な戦闘は可能な限り避けてください。危険だと判断した場合には、目的の達成よりも撤退を優先することを推奨します』
その説明を聞き、少しだけ意外に感じる。
ゲームなら、目の前に敵がいれば倒して先へ進むのが普通だ。経験値やアイテムが手に入るなら、なおさら戦わない理由はない。けれど、この訓練には経験値もアイテムも存在しない。そもそも女神様は、これまで何度も「これは遊びではない」と言っていた。
「倒さなくていいなら、戦わなくていい……か」
口にしてみれば、当たり前の話だった。敵を倒すことそのものが目的でないなら、危険を冒してまで、わざわざ戦う理由はない。
『今回のチュートリアルでは、ダンジョン内部に設定された指定地点まで到達した後、開始地点へ帰還することで訓練成功となります』
「行って、帰ってくればいいのか」
『はい』
「…………」
一瞬、本当に俺へ返事をされたのかと思って周囲を見回してしまった。もちろん女神様本人が姿を現したわけではない。どうやら、ただ説明の続きが絶妙なタイミングで流れただけらしい。
「びっくりした……」
『なお、今回のチュートリアルは探索の基本を体験するための短い訓練です。今後追加される訓練では、より複雑な地形や、複数人での連携を前提とした内容などを扱う予定です』
「やっぱりこれ、まだ入門編なんだな」
だから名前にも、わざわざチュートリアルと付いているのだろう。
『単独でも参加可能ですが、実際のダンジョン探索では複数人での行動を推奨します』
続いて、参加方法を選ぶための表示が現れる。
【単独で参加】
【知人と参加】
【参加者を探す】
「知らない人とも組めるのか」
どうやら知り合い同士だけでなく、その場で他の参加者を探して、一緒に探索訓練へ挑むこともできるらしい。さらに表示の下へ、小さな説明が追加された。
『他の参加者から参加申請を受けた場合、相手が公開している情報を確認したうえで、参加するかどうかを選択できます。また、検索対象や参加申請の受付範囲については、任意に変更することが可能です』
「へえ……」
『設定を変更する場合は、この空間で希望する内容を発言してください。知人以外からの申請を受け付けない、検索対象から外れるなどの設定も可能です』
「なるほど。嫌なら切れるわけね」
知らない相手と組める機能がある以上、誰からでも無制限に誘われる仕組みだったら面倒そうだと思ったが、そのあたりは最初から対策されているらしい。もちろん、俺は今のところそこまで設定を弄るつもりはない。
少し迷った。
他人と一緒にやる方が、実戦を考えるなら正しいのだろう。とはいえ今日は初めてなのだから、何も分からない状態で知らない人間と組むより、一度自分だけで中を見ておきたい。
「最初は単独で」
そう決めて選択すると、今度は武器を選ぶよう促された。俺は迷わず先ほどと同じ木製棍棒を右手に取り、左手にはここ数日ですっかり頼るようになった小型盾を持つ。
「これでいい」
剣や槍にも興味はある。
けれど初めての場所へ一人で入るなら、今一番使い慣れている組み合わせの方がいい。しかも探索となれば、敵がどこから現れるかも分からないのだから、避けられない攻撃を一度受け止められるだけでも盾がある意味は大きいはずだ。
『準備ができましたら、扉を開けてください』
目の前へ現れたのは、これまでの戦闘訓練で使っていたものよりも古びた木製の扉だった。
俺は一度深く息を吐いてから身体強化を使い、左手の盾を軽く持ち上げる。右手の棍棒も、いつでも振れる位置で握り直した。
「……よし、行くか」
そのまま扉へ近づき、慎重に押し開く。
◇ ◇ ◇
「おお……」
扉の先に広がっていたのは、今までのような四角い戦闘部屋ではなかった。
ごつごつとした石壁に挟まれた通路が、薄暗い奥へ向かって伸びている。天井もそれほど高くなく、通路の幅は大人が二、三人並んで歩けるくらいだった。普通に歩く分には困らないが、何人かで武器を振り回すとなれば狭そうだ。
壁には所々、淡く光る石のようなものが埋め込まれていた。おかげで足元が見えないほど暗くはないものの、少し先へ進めば何がいるのか分からなくなる程度には薄暗い。
「これ、本当にダンジョンっぽいな」
もちろん訓練なのは分かっている。
それでも、最初から目の前に敵が立っている戦闘訓練とは空気がまるで違った。今のところ目に見える範囲には何もいないのに、だからこそ次に何が起こるのか予想できず、何もない通路そのものが妙に不気味に感じられる。
盾を身体の前へ出し、棍棒をすぐに振れる位置で構えながら歩き始めると、十メートルほど進んだところで通路が左右へ分かれていた。
「どっちだ?」
右を覗いても、左を見ても、違いらしい違いは見つからない。当然のように、「こちらが正解です」と教えてくれる矢印も存在しなかった。
「探索訓練なんだから、自分で探せってことか」
少し考えた末、何となく右を選ぶ。
壁沿いにしばらく進み、次の角へ近づいたところで、自然と足が止まった。
戦闘訓練なら、こんなことを考える必要はなかった。扉の向こうに敵がいることは最初から分かっていたし、こちらも戦うつもりで構えてから入ればよかったからだ。
今は違う。角の向こうに何がいるのか、それすら分からない。盾を身体の前へ出したまま、できるだけ姿を晒さないようにして、そっと向こう側を覗き込む。
「……いないか」
少なくとも、目に入る範囲に魔物はいなかった。そのまま進もうとしたところで、ぺた、ぺた、と何かが裸足で石の床を踏んでいるような微かな音が耳に届いた。
「……!」
反射的に足を止め、盾を少し持ち上げる。右手の棍棒を握り直して待っていると、足音はゆっくりと近づいてきた。
やがて通路の奥から、小柄な影が姿を現す。
「グルルル……」
「コボルド……!」
灰褐色の毛に覆われた身体に、犬や狼を思わせる頭部。右手には、見慣れた粗末な木製の棍棒を握っている。何度も戦ってきた相手のはずだった。それなのに、何かがおかしい。
「……あれ?」
大きさは今までの訓練用とそれほど変わらないが、立ち方が違う。こちらを見据える目にも力があり、棍棒を構える動作一つ取っても、いつもの相手より明らかに力強かった。
違和感の正体を考えるより先に、コボルドが床を蹴った。
「速っ!」
反射的に盾を前へ出した次の瞬間、ゴンッ! と重い音が通路へ響き、振り下ろされた棍棒が盾へ叩きつけられた。
「うおっ……!」
衝撃で左腕ごと身体の内側へ押し込まれる。いつもの弱体化個体より明らかに一撃が重かったが、盾で受け止めたおかげで、どうにか踏ん張ることができた。
「盾あってよかった……!」
コボルドの棍棒が盾に弾かれ、ほんの一瞬だけ動きが止まる。ここ数日、何度も繰り返してきた流れだ。相手の攻撃を盾で受け止め、姿勢が崩れたところへこちらの攻撃を返す。
「そこ!」
右手の棍棒を横から振り抜くと、鈍い音とともにコボルドの肩へ命中し、小柄な身体が横へ大きくよろめいた。
しかし、倒れない。
「やっぱり、いつものより強い!」
どうやら初心者用に大幅な弱体化を施された基礎戦闘訓練の個体とは違うらしい。とはいえ、まだ動きを追えないほどではなかった。俺は盾を構え直しながら少し距離を取り、そこで先ほど練習したばかりのことを思い出す。
「魔力も使えば……!」
右手へ意識を向け、掌へ魔力を集めようとする。
だが、安全な場所で立ったまま練習するのと、こちらへ本気で襲いかかってくる相手を前にして行うのとでは、難しさがまるで違った。右手へ魔力を集めようとしている間にも、コボルドはこちらの事情などお構いなしに距離を詰めてくる。
「ちょっと待てって!」
もちろん、待ってくれるはずもない。再び振り下ろされた棍棒を盾で受けると、ガンッ、と腕へ衝撃が走り、その拍子にせっかく魔力を集めかけていた右手から意識が逸れそうになった。
「くっ……!」
身体強化を維持し、盾で攻撃を防ぎながら相手の動きも見る。それだけでも戦い慣れていない俺の頭にはかなり負担がかかるのに、そこへ武器への魔力伝達まで同時にやろうとすると、途端に処理しなければならないことが増えたように感じた。
「女神様、あんなに簡単そうにやってたのにな……!」
今の俺には真似するだけでも一苦労だ。それでも、さっき何度も繰り返した感覚は手の中に残っていた。
盾の陰から相手の動きを見つめ、コボルドが三度目の攻撃を振りかぶった瞬間、右腕から掌へ魔力を流す。そこから先は無理に全体へ広げようとせず、まず握っている部分だけを意識した。
「……っ!」
柄へ淡い光が灯る。
先端までは届かず、途中で薄くなってかなりの部分が散っている。それでも、まったく流せていないわけではない。コボルドの攻撃を盾で受け止め、その棍棒を横へ弾く。
「今!」
生まれた隙へ踏み込み、魔力を流した棍棒を思いきり振り抜いた。
ドゴッ!
「ギャッ!」
先ほどよりも明らかに重い感触が右手へ返ってきた。棍棒はコボルドの脇腹へ深く食い込み、そのまま小柄な身体を石壁へ叩きつける。
「おお……!」
同じ木製の棍棒で殴ったはずなのに、先ほどより明らかに威力が上がっている。思わず感動しかけるが、相手はまだ完全には倒れていなかった。
「まだだ」
そこで油断せず、盾を前へ出したまま近づいていく。
立ち上がろうとしたコボルドが苦し紛れに棍棒を振るうが、今度は慌てず盾で受け止め、その隙にもう一度棍棒を叩き込んだ。ようやくコボルドの身体が床へ崩れ、淡い光となって空中へほどけていく。
「……ふう」
身体そのものが疲れているわけではないのに、思わず大きく息を吐いた。
いつもの訓練より強い相手だったが、それでも勝つことができた。実戦の最中に棍棒へ魔力を流すことにも成功した。
「これなら、意外といける――」
そう口にしかけた、その時だった。
「……グルルル」
進もうとしていた通路の先から、低い唸り声が聞こえた。
「……え?」
しかも、それだけではない。
背後からも、石床を踏む足音が近づいてくる。
「嘘だろ」
慌てて振り返ると、先ほど通り過ぎた分岐から一体のコボルドがこちらを覗いていた。さらに前方の曲がり角からも別の一体が姿を現す。
「二体……?」
そう思った直後、前方のコボルドが短く鳴いた。
「グァッ!」
その声に呼応するように、さらに奥からもう一つの影が姿を見せる。
「三体!?」
さっき倒した一体を含めれば、この辺りには少なくとも四体もいたことになる。
最初から近くを行動していたのか、それとも戦闘の音や仲間の鳴き声を聞いて集まってきたのか、正確なところは分からない。ただ、今の状況がまずいことだけはすぐに理解できた。
「これ、さっき女神様が言ってたやつか……!」
棍棒と盾がぶつかれば大きな音が出るし、コボルド自身だって戦っている間ずっと唸ったり叫んだりしていた。そもそも本物の魔物は、一体ずつ行儀よく順番に相手をしてくれるわけではない。そのことは、戦闘訓練が始まった時から何度も注意されていたはずだ。
「戦う理由ない。戻ろう!」
指定地点はまだ見つけていないが、三体をまとめて倒す必要なんてどこにもない。
俺の盾は一枚しかなく、正面から来る攻撃なら受けられても、前へ意識を向けている間に後ろから殴られれば、それだけで状況は一気に崩れる。
そう判断し、まず退路を確保しようと背後にいる一体へ向かって走った。ところが、そのコボルドは俺を見るなり襲いかかってくるのではなく、数歩だけ後ろへ下がった。
「……なんだ?」
こちらとの距離を保ったまま、通路の中央から動こうとしない。追えば、その分だけ下がる。こちらが止まれば、睨みつけたままその場所へ居座る。
「まさか……」
その行動の意味を理解した瞬間、背中へ冷たいものが走った。
「こいつ、逃げ道を――」
最後まで言い切る前に、背後から駆ける足音が迫る。慌てて振り向いた時には、別のコボルドがすぐそこまで来ていた。
「うわっ!」
咄嗟に盾を向けると、直後に棍棒が激突し、左腕ごと身体を大きく押し込まれた。どうにか一体の攻撃は防げたものの、盾をそちらへ向けたことで反対側が空く。その瞬間には、もう別のコボルドがすぐそこまで迫っていた。
「え――」
左から来る攻撃を防げば右が空き、前方の相手へ注意を向ければ背後への反応が遅れる。その当たり前の事実を理解した時にはもう遅く、無防備になった脇腹へ棍棒が叩き込まれた。
「いっ……!」
痛み自体は現実より大幅に軽減されているが、衝撃まで消えているわけではない。身体が大きくよろめき、一体から攻撃を受けて姿勢を崩したその隙を、退路を塞いでいたコボルドも逃してくれなかった。
「くっ……!」
半ば反射的に棍棒を振るい、迫っていた一体へどうにか命中させる。しかし、それだけで倒れてくれるほど相手は弱くなく、こちらが盾を戻そうとするよりも早く別方向から次の攻撃が飛んできた。
「待っ――」
言葉が途切れた直後、頭へ鈍い衝撃が走る。足元から力が抜け、視界が大きく傾いた。その端で、さらに別のコボルドが棍棒を振り上げる姿が見えたところで、世界が一気に暗転した。
◇ ◇ ◇
「…………」
気がついた時には、元の訓練空間へ戻っていた。手に握っていたはずの棍棒も盾も、すでに消えている。
『死亡判定を確認しました。探索訓練【チュートリアル】を終了します』
「…………」
すぐには何も言えず、俺はその場で先ほどの光景を何度も思い返していた。
一体目には勝てた。いつもの訓練用より強い相手でも、盾を使えばそれなりに戦えたし、棍棒へ魔力を流すことにも成功した。だからこそ、ほんの少しだけ勘違いしてしまったのだ。
「全然違うじゃん……」
魔物と一対一で戦えることと、ダンジョンを探索できることはまったく別物だった。
戦闘訓練なら目の前の相手だけを見ていればいいし、盾を構えて攻撃を受け、相手が止まったところを殴り返すだけでも、今の俺なら何とかなる。
けれど探索では、目の前の敵へ集中している間にも周囲の状況は変わっていく。後ろから別の敵が近づいてくるかもしれないし、戦闘の音を聞いた他の魔物が集まってくる可能性もある。逃げようと思った時には、すでに退路そのものを塞がれていることだってある。
「ちゃんと言われてたのになあ……」
女神様は最初の戦闘訓練を始めた時点から、本物の魔物は複数で行動することがあり、実際のダンジョンで一対一の状況が保証されるわけではないと注意していた。
聞いた時には理解したつもりになっていたが、実際に前後から囲まれてみると、その言葉の意味がまるで違って感じられる。
盾だって万能ではない。一方向から飛んでくる攻撃を防ぐにはこれ以上なく頼もしいが、三方向から同時に襲われれば、一枚の盾だけで全部を防げるはずがなかった。
「……なるほどな」
負けたこと自体は当然悔しい。けれど、それ以上に頭へ浮かんだのは、どうすれば今の状況を避けられたのかという疑問だった。
「じゃあ、次は……」
一体目と戦わずに進む道はなかったのか。戦うとしても、周囲の敵へもっと早く気づくことはできなかったのか。そもそも戦闘を始める前に、近くの足音や鳴き声へ意識を向けていれば結果は違っていたのではないか。
考え始めると、次々に試したいことが浮かんでくる。
失敗した原因が少しでも分かったのなら、次はそこを変えたらどうなるのか確かめたい。昔からそういう性格だったからこそ、ここでやめようという気持ちにはならなかった。
「もう一回やろう」