TS女神の地球救済政策 ~26年かけて異世界を救った元勇者、絶世の女神になって帰還したら地球が滅びかけていたので、ダンジョン災害で救います~ 作:TS女神
光の裂け目を越えた瞬間、頬を撫でたのは少し冷たい風だった。
「…………」
どこか懐かしい空気に目を細めながら一歩を踏み出し、そのまま足を下ろそうとして――そこに何もないことに気づいた。
「……は?」
反射的に視線を落とせば、地面は遥か下にある。自分がいるのはビルの屋上どころではなく、街並みを広く見渡せるほどの上空だった。
「うおっ!?」
咄嗟に身体を強張らせたものの、落下する気配はなかった。足の裏には何の感触もないというのに、身体は何事もなかったように空中へ留まり、慌てて両腕を広げる必要すらなく、まるでそこに見えない床でも存在するかのように姿勢まで安定している。
「何だこれ……」
「神体なら、その程度の空中静止は意識しなくてもできるよ」
背後から聞こえてきた声に振り返ると、先ほどまで一緒にいた上位神も、当然のように何もない空中へ立っていた。
「先に言ってくれ。普通に落ちたと思ったぞ」
「君ほどの神格が、この程度の高さから落ちたくらいでどうにかなることはないけれどね」
「そういう問題じゃないんだよ。こっちはついさっきまで、足場がなかったら落ちる生き物だったんだぞ」
「なるほど。そこは慣れるまで時間がかかりそうだ」
他人事のように言われて少し腹が立ったが、それよりも今は、眼下に広がっている景色の方が遥かに重要だった。
改めて前を向けば、そこには見覚えのある街が広がっている。
何本もの道路が建物の間を縫い、その上を車が小さく行き交っていた。線路の上を電車が走り、遠くには学校らしき建物やマンションが並び、そのさらに向こうまで住宅街が続いている。高い場所からこうして見下ろすのは初めてだったが、それでも分からないはずがなかった。
「……帰ってきたんだな」
口から漏れた声は、思っていたよりもずっと小さかった。
二十六年間、何度思い出したか分からない景色だった。
異世界にも都市はあった。巨大な城塞都市も見たし、魔法技術によって地球以上に発展しているように見える場所だってあった。それでも、アスファルトで舗装された道路も、規則正しく並ぶ信号機も、屋上に看板を掲げた商業施設も、俺にとっては何より懐かしい。
少し目を凝らせば、道路脇の看板に書かれた日本語まで読めた。
「日本語だ……」
そんな当たり前のことに、思わず口元が緩む。
頭の中ではずっと使っていたし、忘れたつもりもなかった。それでも、自分以外の人間が当たり前のように日本語を使い、日本語の看板が並び、日本の街が自分の記憶とほとんど変わらない姿で存在している。それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
しばらく眼下の街並みを眺めていたところで、ふと別のことに気づく。
「……というか、この高さなら下から見えるんじゃないか?」
空を見上げた人間からすれば、銀白色の髪を腰より遥か下まで伸ばした女子制服姿の女が、何もない空中に立っていることになる。しかも、右手には見るからに物騒な剣まで握っていた。
どう考えても大騒ぎになる。
「心配しなくていい。今は周囲から認識されないようにしてある」
「認識されない?」
「初めて担当世界へ降りる新任の神を、いきなり人間社会へ剥き出しのまま放り出すわけにもいかないだろう? 光学的にも霊的にも、こちらから許可しない限り、地上の人間には私たちの姿も声も認識できないようにしてある」
「……そういう便利なこともできるのか」
「君にもできるようになるよ。担当世界へ直接姿を現す神にとっては、かなり基本的な技術だからね。何も考えずに降臨するたび大騒ぎを起こしていたら、世界管理どころではなくなる」
「それは確かに」
神が空へ現れるたび世界中で宗教騒ぎになっていては、仕事にならないだろう。今の俺にとっても、その処置はありがたかった。家族に会う前から「謎の銀髪女が空を飛んでいる」と動画でも撮られ、それがネットに拡散でもされたら、ただでさえ難しい説明がさらに面倒なことになる。
そこで周囲を見回し、ようやく一人足りないことに気づいた。
「そういえば、さっきの神は?」
「彼ならもう神域へ戻ってもらったよ。もともとあの場所の調査と報告のために派遣した神だから、私が来た時点で現地に残る必要はなくなった」
「いつの間に……」
「君が地球へ帰る方法に気を取られている間にね」
まったく気づかなかった。
もっとも、邪神との戦いが終わった場所を調べに来ただけなのに、そこで正体不明の女神と遭遇し、「少し前まで人間の男でした」「邪神に勝ちました」などという話を聞かされたのだから、あの神にとっても相当濃い一日だっただろう。今頃どんな報告をしているのか、少しだけ気になった。
「それより、その剣は一度しまった方がいいんじゃないかな」
上位神に言われて右手を見ると、邪神との戦いでぼろぼろになった愛剣を、まだしっかりと握ったままだった。
「確かに。このまま地上へ降りるわけにもいかないか」
「君が姿を隠している間は問題ないけれど、家族へ会う時まで持っている必要はないだろう?」
「でも、どこに置けばいいんだ?」
「神域収納くらいなら、今の君でも使えると思うよ。自分専用の小規模な保管空間だと思えばいい」
「また知らない機能が出てきたな……」
「今の君は、高性能な道具を説明書なしで渡されたような状態だからね。使える機能そのものは多いけれど、本人が知らない」
「それ、結構危なくないか?」
「だから私がついてきているんだよ」
ようやく、上位神がわざわざ同行してきた理由に強い説得力を感じた。言われた通り、剣をしまうことを意識しながら神力を僅かに流してみる。すると、手の中にあったはずの重みがふっと消え、愛剣は何の抵抗もなく空間のどこかへ吸い込まれた。
「……おお。便利だな、これ」
「取り出したいと思えば戻せるよ」
試しにそう意識すると、本当に次の瞬間には柄が手の中へ収まった。思わず感心してもう一度収納すると、上位神が少し可笑しそうにこちらを見る。
「気に入った?」
「世界を越えるより、こういう機能の方が便利さを実感しやすいな」
「随分と生活感のある感想だね」
自分でもそう思うが、長年、荷物を背負って旅をした経験があれば、容量を気にせず物をしまえる空間がどれほど便利なのか嫌でも分かる。
そんなことを考えながら再び眼下へ目を向けると、高い場所から見渡せるおかげで、今度は現在地も何となく掴めてきた。
「あっちが駅だから……」
線路を目で追い、学校らしき建物と大きな道路の位置を照らし合わせる。多少建物は変わっているものの、二年半程度では街そのものの形までは大きく変わっていない。
そして、その先にあるはずの場所を思い出した途端、胸の奥が急に落ち着かなくなった。
「……家」
「場所が分かった?」
「ああ。ここからならそんなに遠くない」
飛べるのなら、ほんの数分もかからないだろう。
地球では二年半しか経っていない。もちろん、それを「しか」と言っていいのかは分からないし、突然息子が消えた家族にとって、その二年半がどれほど長かったのか想像もつかなかった。
それでも、また会える。そう思った途端、じっとしていることが急に難しくなった。
「……行ってくる」
「待った」
「何だよ」
地上へ降りようとしたところで背後から呼び止められ、思わず不満を込めて振り返る。上位神は、俺が反発することまで予想していたのか、急かすつもりはないと示すように片手を上げた。
「家族へ会うなと言っているわけじゃない。ただ、その前に少し落ち着いた方がいいと思う」
「……落ち着いてるぞ」
「本当に?」
「…………」
そう聞き返されると、自信はなかった。
家の場所が分かった瞬間から、頭の中の大半を父さんたちのことで占められている。自分では普通に考えているつもりでも、今すぐ飛んでいかなければという気持ちが、理屈より先に立っていることくらいは認めざるを得なかった。
「君が今すぐ家族へ会いたいという感情を、私が君とまったく同じ意味で理解しているとは言わないよ。私は君のように人間として生まれ、人間の家族を持って生きた経験がないからね。ただ、君にとって彼らが非常に大切な相手だということくらいは分かる」
そう前置きすると、上位神は俺の頭から足元まで一度ゆっくりと視線を走らせた。
「だからこそ、勢いのまま会いに行くのは勧めない」
「……何で?」
「二年半前に行方不明になった息子が、突然まったく別人に見える女性の姿で現れるんだろう?」
「うっ」
言葉にされると、改めて状況の酷さが分かる。
「顔も違う。身体も違う。声も違うし、見た目の年齢すら家族が記憶している君とは一致しない。その上、今の君は人間ですらなく神になっている」
「最後のは言わなきゃ分からないだろ」
「だから隠すのかい?」
「…………」
それも違う気がした。そもそも、どこからどこまで説明すればいいのかすら考えていない。
「玄関へ現れて、いきなり『自分が息子です』と言えば受け入れてもらえると思う?」
「……思わない」
それについては、自分でもすでに分かっていた。
今の俺と同じ姿の女が突然目の前へ現れ、「実は二年半前に行方不明になった息子です」などと言い始めたら、まず疑うだろう。変身や精神操作を疑う以前に、普通なら頭のおかしい女が来たと思うはずだ。
「記憶を話せば証明できると思ってる」
「有効な方法ではあるね。ただ、家族しか知らない記憶を語ったからといって、相手が必ず納得できるとは限らない。君自身、他人の記憶へ干渉する魔法や、姿を変える存在を知っているだろう?」
「……まあ」
「今の地球にそういう能力を持つ者がいるかどうかとは別の話だよ。君の家族からすれば、二年半も行方不明だった人間が、想像もしていなかった姿で突然帰ってくる。それだけでも十分に混乱する」
反論できなかった。
むしろ家族の立場で考えれば考えるほど、今の自分がそのまま玄関先へ現れる光景が酷いものに思えてくる。
「それに、もう一つある。今の君は、神として生まれたばかりだ」
「それは分かってる」
「本当に分かっているなら、家族との再会で感情が大きく動いた時、自分の神力がどう反応するか説明できる?」
「…………できない」
探索魔法を少し使っただけで、あれだけの範囲を一瞬で捉えた。剣に至っては怖くてまともに振ることすらできなかった。
そんな状態の俺が、二十六年ぶりに家族と再会する。何も起こらないと言い切れる自信はなかった。
「別に、君が感情的になっただけで街が吹き飛ぶと言っているわけではないよ。ただ、自分の力が感情へどう反応するのかも分からない状態で、君にとって最も感情が揺さぶられる相手へ会いに行く必要はないと思う」
「……正論だな」
「大切な再会なんだろう?」
「ああ」
「なら、失敗しない方がいい。どう説明するのか、どうやって本人だと納得してもらうのか、自分の力をどこまで抑えるのか。それくらいは考えてからでも遅くない」
家族のもとへ帰るなと言われているわけではない。むしろ逆で、俺にとって大切な再会だからこそ、一度落ち着いて準備した方がいいと言われている。そう理解してしまえば、これ以上意地を張る理由もなかった。
「……分かったよ。納得したくはないけど、言ってることは分かる」
ここまで待ったのだ。家族に会うまでの時間が少し延びるくらいなら我慢できるし、何も考えずに押しかけて大騒ぎになり、後から「もう少し準備しておけばよかった」と後悔するよりは遥かにましだった。
「それと、もう一つ確認しておきたいことがある」
「まだあるのかよ」
「こちらは担当神としての仕事だよ。せっかく自分の世界へ来たんだから、家族へ会う前に状態だけ確認しておこう。何も問題がなければ数分で終わる」
「…………」
今度こそ、そんなものは後でもいいと言いたくなった。
それでも先ほどまでとは違い、すぐ家族のもとへ飛んでいくつもりはなくなっている。どう説明するか考える必要もあるのなら、その間に世界の状態を確認してしまった方がいいだろう。
「本当に数分なんだろうな?」
「何も問題がなければね」
最後の一言だけ妙に引っかかったが、ここで気にしていても仕方がない。
「……分かったよ。どうすればいい?」
「まずは世界管理情報を開こう。担当神が、自分の世界の状態を確認するための基本機能だ」
「世界管理情報?」
「地球を管理対象として認識したまま、状態を知りたいと意識してみて。必要な情報を神格側が整理して見せてくれる」
「相変わらず感覚任せだな」
「魔法と違って術式を一から組む必要はないからね。神格そのものに備わっている機能は、基本的に意思へ反応する」
そういうものなのだと納得するしかなさそうだった。俺は眼下に広がる地球を意識しながら、身体の奥に存在する神力へ慎重に触れる。この世界の状態を知りたい。ただそう思っただけで、目の前の空間が僅かに揺らぎ、視界の正面へ半透明の板のようなものが現れた。
「……何だ、これ」
青白い光を帯びた長方形の画面には、日本語の文字や数字、棒グラフのようなものまで整然と並んでいる。その見た目は神秘的というより、どう見てもパソコンの管理画面に近かった。
「世界管理情報だよ」
「いや、それは聞いたけど……何でこんな見た目なんだ?」
「こんな?」
「完全にパソコンの画面なんだけど」
上位神が興味深そうに表示へ目を向ける。
「なるほど。君にはそう見えるんだね」
「違うのか?」
「本来、これは物理的な画面ではないよ。神格へ直接流れてくる情報を、君自身が理解しやすい形へ変換して認識しているだけだ。別の文化圏で生まれた神なら、巻物や書物として認識することもある」
「俺がパソコンに慣れてるから、こうなったのか」
「おそらくね。情報量が多いから、君にはその形式が一番扱いやすいと判断されたのだろう」
「神の力なのに妙に現代的だな……」
「神秘的な見た目にしたせいで使いにくくなったら本末転倒だろう?」
それは確かにそうだった。意味不明な神代文字や立体魔法陣として表示されるより、ウィンドウと数値で出された方が圧倒的に分かりやすい。
改めて正面の情報へ目を向けると、一番上には【管理対象世界:地球】と表示されていた。
「……本当に担当になってる」
「まだ仮登録だけれど、閲覧権限は付与されている」
その下に並んでいる項目を順番に確認する。
【世界法則安定度:正常】
【文明活動:正常】
【生態系循環:概ね正常】
少なくとも、そこまでは特に問題があるようには見えなかった。
「何だ。普通じゃないか」
「まだ上の方しか見ていないよ」
「そうなのか?」
言われて意識を下へ向けると、画面が自然にスクロールしていき、その途中で視線が止まった。
【魔力濃度:上昇中】
「…………魔力?」
一度瞬きをしてから、もう一度読む。
文字は変わらない。
地球に、そんなものが存在していた覚えはなかった。少なくとも俺が暮らしていた頃、この世界は魔法など物語の中にしか存在しない、普通の地球だったはずだ。
「さっき帰ってきた時、魔力なんてほとんど感じなかったぞ」
「それは君の比較対象が極端だからだよ。長い間、魔力の豊富な世界で暮らした上に、今は神格まで持っている。そんな君からすれば、現在の地球に存在する魔力も希薄に感じるだろうね」
「でも、前より増えてるのか?」
「かなりね」
上位神も先ほどまでより真面目な表情で表示を確認していた。
「君が地球で暮らしていた頃、この世界には自然発生する微弱な霊的エネルギーこそあったものの、魔力と呼べるものはほとんど存在しなかった。それが現在は、明確に世界全体へ蓄積し始めている」
「……何で?」
「それを調べるのも担当神の仕事だ」
嫌な予感を覚えながらさらに表示を進めると、次に現れた項目がその予感を裏付けた。
【外部魔力流入:継続中】
「…………おい」
「私も見えているよ」
「さっき、外から余計なものが入り込んでないか見るのも担当神の仕事だって言ってたよな」
「言ったね」
「これ、どう見ても入ってきてるだろ」
「そうだね」
上位神の声から、先ほどまで残っていた軽さが少し消えた。
さらに詳しい項目を開いていく。
【世界境界:異常あり】
【外部接続反応:継続】
【異常発生時期推定:約二年半前】
「……え?」
表示された時期を見て、思わず眉を寄せた。
正確な日時までは出ていない。それでも、およそ二年半前――俺が地球から消えた時期と、ほとんど一致している。
「これ……俺が異世界へ飛ばされた頃じゃないか?」
口にした瞬間、頭の中へ一人の女の姿が浮かび、その楽しそうな声まで鮮明に蘇ってきた。
『世界、救ってみない?』
「時期だけを見れば、ほぼ一致している」
「…………あいつじゃないのか?」
「可能性はある。ただ、今見えている情報だけで断定するべきではないよ。偶然同時期に別の異常が発生した可能性も、完全にゼロではないからね」
「いや、あいつなら普通にやりそうなんだよ……」
むしろ邪神が関係していない方が驚くかもしれない。
そう思いながら、さらに情報を確認しようとした時だった。
画面の一角が突然赤く変化する。
【警告】
【世界負荷:危険域】
【自然排出機構:活性化兆候】
「……世界負荷? これ、何だ?」
今度はまったく聞き覚えのない言葉だったが、すぐに返事は来なかった。隣を見ると、上位神が先ほどとは明らかに違う表情で赤い表示を見つめている。
「……少し待って」
「そんなにまずいのか?」
「確認してから答える」
そう告げると、上位神は片手を表示へ向けた。
俺の前に出ている管理画面とは違い、その周囲へ幾重もの光の線と立体的な図形が浮かび上がる。何をしているのかはまったく分からなかったが、遊び半分ではないことだけは表情を見れば分かった。
ほんの十数秒ほどの沈黙だったはずなのに妙に長く感じ、やがて複雑な光が消えると、上位神は小さく息を吐いた。
「……思っていたより、かなり良くない状態だ」
「その言い方で安心できる要素、一つもないんだけど」
「安心させるために曖昧なことを言う方が危険だからね」
先ほどまでとは違い、その声音は完全に真剣だった。
「まず、この世界負荷というのは?」
「世界が内部へ抱え込んでいる、処理しきれない余剰エネルギーや法則上の歪みをまとめた概念だと思えばいい。生命活動でも増えるし、高度な文明活動でも少しずつ発生するけれど、通常なら世界自身が持つ循環機構によって処理されるから、急激に溜まるものではない」
「でも地球は溜まってる」
「それも、かなり速い速度でね。もともと魔力を前提として形成された世界ではないところへ、外部から継続的に別系統のエネルギーが流れ込んでいる。その影響で地球側も少しずつ変化し始めているけれど、肝心の循環機構がまだ十分に形成されていない」
「つまり、入ってくる量に処理が追いついてないのか」
「概ねその理解でいい」
嫌な話だったが、まだ赤いまま残っているもう一つの項目は、それ以上に嫌な予感を覚えさせた。
「じゃあ、この自然排出機構っていうのは?」
上位神は少しだけ考えるように間を置いてから答える。
「世界自身が存続するために、溜まりすぎた負荷を強制的に外へ逃がす仕組みだよ。穏やかな形で処理できる段階を越えると、世界は自分の構造を大きく動かしてでも負荷を減らそうとする」
「……具体的には?」
返答の代わりに、管理情報の一部が展開された。
【大規模地殻変動】
【超巨大噴火】
【大規模海洋変動】
【天体軌道干渉】
そこへ並んだ項目を見た瞬間、背筋が冷えた。
「……冗談だろ」
「まだ、どれかが発生すると決定したわけではない」
「そういう問題じゃないだろ。どれも普通に洒落にならないぞ」
大規模地殻変動なら巨大地震が起きるだろうし、海洋変動まで伴えば津波被害も避けられない。超巨大噴火に至っては、規模によっては一つの国どころの話では済まない。
「もし本格的に自然排出が始まったら、どれくらいの被害になる?」
「現在の蓄積量から見る限り、局所災害だけで終わる保証はできない。複数の排出現象が連鎖した場合、現代文明そのものが深刻な損傷を受ける可能性もある」
「……人類が滅びるのか?」
「そこまではまだ断定できない。ただ、今の文明を今の形のまま維持できなくなる可能性は十分にある」
ほんの少し前まで、家へ帰って何と言えばいいのかを考えていた。
二年半ぶりに現れた息子が、銀髪の女になっている。どう説明すれば父さんや母さんや妹に信じてもらえるのか、そんなことを悩んでいたはずだった。
それなのに今は、その家族が暮らしている世界そのものが危険だと言われている。
「自然排出が始まるまで、あとどれくらいある?」
「今見えている情報だけでは、正確な予測はできない。負荷の増加速度だけでなく、地球側が今後どこまで魔力環境へ適応するかによっても変わるからね」
「もっと詳しく調べられないのか?」
「調べられる。ただ、ここで簡易情報だけを追い続けるより、一度神域へ移動した方がいい。神域には世界構造を詳しく解析するための設備もあるし、必要なら専門知識を持つ神へ意見を求めることもできる」
「……今から?」
思わず眼下の街へ目を向けた。
ここまで帰ってきたのだ。自宅だって、もう遠くないし、父さんと母さんと妹は、あの街のどこかにいるはずだった。さっき自分でも納得したばかりとはいえ、やはり目の前まで来ている家族から再び離れることには抵抗がある。
そんな俺の視線を追った上位神は、事情を察したらしく少し声音を和らげた。
「君の家族に会うことを先延ばしにしたいわけではないよ。むしろ、神域へ行けばさっき話した再会の準備もできる」
「本人だって証明する方法とか?」
「それも含めてね。今の姿のまま会うのか、神としての気配をどこまで抑えるのか、家族へ何をどこまで話すのか。君自身が納得できる形を考えた方がいいだろう」
「でも、調査には時間がかかるんだろ?」
「地球側では、ほとんど経たせずに済む」
「……どういうことだ?」
「神域は特定の世界の時間軸へ完全には属していない。利用する領域を調整すれば、地球との時間比を大きく変えることができる。向こうで数日かけて調査や基礎教育をしても、地球では数分程度しか経過していないようにすることも可能だよ」
「そんなに差をつけて大丈夫なのか?」
「通常世界そのものの時間を弄るわけではないからね。神域側の時間密度を調整しているだけだ。それに、世界ごとに時間の流れが違う以上、そうした調整ができなければ複数世界の管理など成り立たない」
「……なるほど」
今度の説明なら、素直に納得できた。
考えてみれば、複数の世界を担当する神までいると言っていたのだ。それぞれの世界で時間の流れが違う以上、神側にそうした調整手段がなければまともに管理などできない。
「それに君の場合、まだ正式な神としての登録も済んでいない。詳しい解析をするなら、最低限必要な権限も追加した方がいいだろうね」
「他の神にも会うんだっけ」
「必要な相手だけね。新人が来るたび神々全員を集めて歓迎会をするような暇な組織ではないよ。担当登録に関係する神と、この地球の異常について知識を持つ神へ話を通す程度だ」
「それならいい」
地球が危険だと言われた直後に大人数の前で新人挨拶を始めるのかと少し心配していたが、さすがにそこまで悠長ではないらしい。
もう一度、赤い警告へ視線を向ける。
家には行きたいし、今すぐにでも家族の顔を見たいという気持ちは何一つ変わっていない。
だが、神域へ行けば地球の異常について詳しく調べられるだけでなく、家族とどう再会するかを考える時間まで取れる。それでいて地球側では数分しか経過しないというのなら、ここで意地を張る理由はなかった。
「……行こう」
「いいのかい?」
「ああ。地球側でほとんど時間が経たないなら、その間にできることは全部やっておきたい」
今、目の前に出ている情報が本当なら、これはもう他人事ではない。
俺の家族も、この街にいる人たちも、日本だけではなく地球上で暮らすすべての人間が、この世界に生きている。ようやく帰ってきた場所を、今度は世界ごと失うなど冗談ではなかった。
「まず詳しく調べる。それで本当に危ないなら、どうすれば防げるのか考える。それから、家族にどうやって帰ったって伝えるかも考える」
口にしてみると、そちらも地球を救うのとは別の意味で相当に難題な気がしてきた。
上位神はそんな俺を見て、少しだけ笑う。
「その方がいい。世界を救う方法と、家族へ自分が本人だと信じてもらう方法では、必要な知識が随分違いそうだからね」
「どっちも初心者なんだよ、俺は」
「なら、どちらもこれから覚えればいい」
神として何ができるのかも、まだろくに知らない。世界負荷という言葉を知ったのだって、ほんの数分前だ。
それでも、放っておくという選択肢だけは最初からなかった。
「ここは俺の故郷だからな」
上位神はその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
「君に担当を頼んだ判断は、間違っていなかったようだ」
「まだ担当になって数分しか経ってないぞ」
「時間の長さは関係ないさ。自分の管理する世界で異常を見つけた時、真っ先に『どうすれば守れるか』と考えられるなら、少なくとも資質は十分にある」
そんな大層なことを考えたつもりはなかった。ただ、自分の家族がいる世界を守りたいだけであり、それでも神という立場から見れば、その気持ちだけで十分なのかもしれない。
上位神が片手を上げると、少し離れた空間がゆっくりと歪み始めた。
地球へ戻ってきた時とは違い、開いた裂け目の向こうには街も荒野も見えない。白とも黒ともつかない淡い光が満ち、その奥には何か巨大な構造物らしき影まで浮かんでいるものの、距離感がまるで掴めなかった。
「その先が神域?」
「正確には、神々が共同で使用している中央神域の一つだよ。詳しいことは向こうで説明する」
「また覚えることが増えそうだな……」
「しばらくは諦めた方がいい。君は生まれたばかりの神なんだから」
思わず溜息をつき、それからもう一度だけ眼下へ視線を向ける。
車が道路を走り、電車が線路を進み、街の人々は何も知らないままいつも通りの日常を送っている。それは俺が消えてから二年半、その間もずっと続いてきた故郷の日常だった。
家族の顔を見るまで、あと少し。
帰ってきた瞬間は、そのまますぐ家へ向かえると思っていた。けれど今の姿のまま何も考えずに押しかけるより、一度落ち着いて準備をした方がいい。その上、地球そのものに放置できない異常まで見つかってしまった。
地球側ではほとんど時間が進まないというのなら、先にできることを全部やっておけばいい。
「……帰ってきたばかりなのにな」
「すぐ戻ってこられるよ。戻ってきた時に後悔しないために、今は準備をしに行くんだ」
「……そう考えれば、まあ」
少しだけ気持ちが軽くなった。
家族から逃げるわけでも、帰るのを諦めるわけでもない。むしろ、ちゃんと帰るために必要な時間を取るだけだ。
小さく息を吐いてから故郷の街へ背を向け、俺は上位神と共に光の向こうへ足を踏み出した。
二十六年ぶりに帰ってきた故郷で、家族へただいまと告げるより先に。
俺は、自分の世界を救う方法と、自分自身が本当に帰ってきたのだと家族へ伝える方法――その両方を探すため、神々の領域へ向かうことになった。