TS女神の地球救済政策 ~26年かけて異世界を救った元勇者、絶世の女神になって帰還したら地球が滅びかけていたので、ダンジョン災害で救います~ 作:TS女神
光の裂け目を抜けた先には、これまで見たどの世界とも違う景色が広がっていた。
「……ここが神域?」
最初に目へ入ったのは、どこまでも続く淡い光だった。
空があるのかすら分からない。頭上には青空も太陽も存在せず、白とも銀ともつかない柔らかな光が空間そのものを満たし、その中には大小様々な建造物が浮かぶように点在している。
巨大な白い神殿らしきものがあるかと思えば、その隣には俺の知る高層ビルによく似た建物が立ち、さらに離れた場所には巨大な樹木そのものを建物へ変えたような構造物まで見えた。建物同士を繋ぐ道にしても、普通の石畳から光で作られた橋、何もない空間へ伸びる透明な通路まであり、統一感というものがまるでない。
異なる文明どころか、まったく異なる世界で生まれたものを、一つの場所へ無理やり集めたような光景だった。
「正確には中央神域の一つだよ。神々が世界管理や情報交換、各種手続きをするために共同で利用している領域だね」
「思ってたより……普通に街っぽいな」
「何を想像していたんだい?」
「もっとこう、雲の上に神殿があって、偉そうな神様がずらっと並んでる感じ」
「そういう神域も探せばあると思うよ。ただ、ここは実務目的だからね。見た目より使いやすさの方が優先されている」
「神秘性がどんどん減っていくな……」
そう言いながら周囲へ視線を巡らせると、通路らしき場所には何人もの人影が行き交っていた。
人間とほとんど変わらない姿をした者もいれば、背中に翼を生やした者や、青い肌をした者、明らかに人間ではない獣の頭を持つ者までいる。遠くには全身が光で構成されているようにしか見えない存在もいて、どうやら神というものに決まった姿はないらしい。
そんな光景を眺めながら隣を歩いていたところで、ふと重大なことに気づいた。
「……そういえばさ」
「何だい?」
「お前の名前、まだ聞いてなかった」
我ながら今さらだった。
神になったことを説明され、地球へ帰る方法を教えてもらい、そのまま担当神にまでされ、ついには地球の危機まで一緒に確認している。それなのに、この神が何者なのか、名前すら知らないままだった。
「本当に今さらだね」
「仕方ないだろ。こっちは魔王倒した直後から邪神と戦って、気づいたら女になって神になって、それから地球が危ないって言われてるんだぞ。自己紹介を要求する余裕なんかなかったんだよ」
「それもそうか」
特に気を悪くした様子もなく、目の前の神は小さく笑った。
「私はセレイス。神格は《調律》だよ」
「セレイス……」
口に出してみると、男の名前と言われても女の名前と言われても納得できそうな、中性的な響きだった。
「そういえば、私も君の名前を聞いていなかったね」
「……今さらお互い様かよ」
「それもそうだね」
思えば、こいつとまともに自己紹介をする余裕など今まで一度もなかった。
神になった直後から説明を受け、そのまま地球へ戻り、今度は世界そのものが危ないと分かってここまで来たのだから、名前の確認が後回しになったのも仕方がない。
「高瀬悠真。地球じゃ、そういう名前だ」
「高瀬悠真だね。分かった」
「……何だよ」
「いや。今の姿とは随分印象の違う名前だと思って」
「ほっとけ」
自分でも分かっている。
銀白色の長い髪に青い瞳、どう見ても若い女にしか見えない今の姿で「悠真」と名乗れば、違和感を覚える人間は多いだろう。
だからといって、名前まで変える理由はなかった。身体がどうなろうと、俺は俺なのだから。
そこで改めて、俺はセレイスの姿を観察する。
背丈は俺より少し高い程度で、身体つきは細身。淡い銀灰色の髪は肩より少し下まで伸びているものの、今の俺ほど極端に長くはない。顔立ちも整っているが、男らしいと言うには線が細く、かといって女らしいと言うにはどこか違う。
声も同じだった。落ち着いていて柔らかな声ではあるのだが、意識して聞いてみても男性とも女性とも断言しづらい。
「……ついでに、もう一つ変なこと聞いていい?」
「名前より後に聞くことなら、大抵は構わないよ」
「お前って、男と女どっちなの?」
セレイスは意外そうに一度瞬きをしたものの、特に気を悪くした様子もなく答えた。
「どちらでもないよ」
「どちらでもない?」
「私は君のように人間から神へ変化したわけではなく、最初から神として生じた存在だからね。生物としての性別は持っていない」
「じゃあ、その身体は?」
「活動するために取っている神体だよ。特に理由がなければ、この形が一番馴染んでいるから使っているだけだね」
「男にも女にもなれるのか?」
「必要なら。ただ、わざわざ変える理由もないから、ここ数千万年くらいはこの姿だったと思うよ」
「数千万年……」
何気なく口にされた時間の単位が重い。
二十六年過ごしただけで人生をもう一度やり直したような気分になっている俺とは、存在してきた時間の桁が違いすぎた。
「俺よりよっぽど性別が自由だな」
「君の場合は、性別の変化以前に経緯が特殊すぎると思うけれどね」
「それは否定できない」
俺自身、どうしてこの身体になったのかまだ分かっていないのだから、そこについては何とも言えなかった。
そのまま並んで歩きながら、もう一つ気になっていたことを聞いてみる。
「セレイスは、ここで何してる神なんだ?」
「役職?」
「ああ。結構偉いんだろ?」
「雑用係かな」
「…………は?」
あまりにも自然に返されたせいで、一瞬そのまま聞き流しかけた。
「雑用係?」
「そう。上から決まったことを各所へ伝えたり、神同士で権限がぶつかれば調整したり、担当のいない世界で問題が起きれば確認に行ったり。中級や下級の神では手に負えない案件を持ち込まれることもあるね」
「それを雑用係って言うのか?」
「私自身はそう思っているよ。上と下の間を行ったり来たりすることも多いから、中間管理職と言ってもいいかもしれない」
「絶対、俺が知ってる中間管理職と規模が違うだろ……」
世界単位の問題を処理している時点で、少なくとも俺の知っている会社員の中間管理職とは別物である。そんなことを考えていると、ちょうど向こうから歩いてきた青年姿の神が、俺たちに気づいて足を止めた。
「セレイス様」
「お疲れさま。どうしたんだい?」
「先日ご相談した第五十四世界群の境界振動ですが、先ほど完全に収束を確認しました。教えていただいた方法で固定したところ、その後は異常も出ていません」
「それならよかった。しばらくは経過観測だけ続けておいて。再発したらまた呼んでくれればいいよ」
「ありがとうございます」
青年神は深々と頭を下げて去っていった。その背中を見送った俺は、無言のまま隣へ視線を向ける。
「……雑用係?」
「雑用の一つだね」
「今の、世界群とか言ってなかった?」
「言っていたね」
何でもないことのように答えているが、俺としてはまったく何でもなくない。しかも、その後も似たようなことが何度か続いた。
通りすがった女神からは担当世界で発生した神力汚染を解決してもらった礼を言われ、別の神からは権能の使用範囲について相談される。若そうな神に至っては、セレイスを見つけた途端に明らかに安心した顔をして駆け寄ってきた。
当の本人は、その一つ一つへ特別偉ぶることもなく、ごく普通のことのように応対している。
「……お前、めちゃくちゃ頼られてない?」
「長くやっているからね。知っていることが多いだけだよ」
「それを普通は経験豊富な偉い人って言うんじゃないのか?」
「本人が偉いと思っているかどうかとは別の話だろう?」
「そういうものかな……」
どうにも納得できない。
本人は本気で自分を雑用係だと思っているらしいが、少なくとも周囲の反応を見る限り、その自己評価だけをそのまま信用するのはやめた方がよさそうだった。
しばらく歩いた末に辿り着いたのは、周囲と比べれば随分と簡素な建物だった。白い壁に大きな扉が一つあるだけで、神殿らしい装飾もなければ、人間の役所にあるような看板もない。
「ここで何するんだ?」
「まず君を正式に神として登録する。その後、地球担当として必要な権限を付与してから、詳しい世界解析を始めよう」
「やっぱり登録とかあるんだな」
「誰がどの世界を担当していて、どんな権限を持っているのか分からない状態では困るからね。神だからといって、何でも自由にやっていいわけではないよ」
「その辺は思ったよりしっかりしてるんだな」
「無秩序に力を振るえば世界そのものが壊れる存在が大勢いるんだ。むしろ人間社会より厳しく管理しなければ危ない」
言われてみれば当然だった。俺ですら、人間だった頃と同じ感覚で探索魔法を使っただけで、とんでもない範囲まで感知できてしまったのだ。これより遥かに格上の神々が好き勝手に力を使えば、どうなるのか想像もしたくない。
建物の中へ足を踏み入れると、外から見た以上に広い空間が広がっていた。
受付らしき場所はいくつかあるものの、人間の役所のような長蛇の列はなく、それぞれの前で神々が空中へ文字や光の図形を浮かべながら手続きを進めている。
セレイスに案内され、そのうちの一つへ向かった。
「新規神格の登録をお願いしたい」
受付にいた女性らしい姿の神が顔を上げた。
「新規ですか?」
「ついさっき生まれたばかりだよ」
「では生成元と――」
そこまで言ったところで、受付の神が俺を見たまま数秒ほど固まった。
「……セレイス様」
「何だい?」
「この方、人間由来の魂ですよね?」
「そうだね」
「神格量がおかしくありませんか?」
「そこは事情があるんだ」
「事情で済ませていい量には見えないのですが……」
「詳しく説明すると長くなるよ」
受付の神は何とも言えない顔をしたものの、セレイスがそう言うならと諦めたらしい。
「では、神格構成を確認します」
「どうすればいい?」
「何もしなくて大丈夫です。こちらで読み取れる範囲のみ確認しますので」
言われた直後、俺の周囲を淡い光が包んだ。何かを探られている感覚はあるものの、不快さはなく、しばらくすると目の前へいくつもの情報が浮かび上がる。
【種別:昇神個体】
【起源:人間】
【推定神位:中級上位】
【継承神格:《変転》――部分継承】
【固有神格:《運命打破》】
【固有神格:《救済》】
「……何か増えてる」
「増えたというより、今まで形になっていなかったものが神格として定着したんだろうね」
「運命打破と救済?」
随分と大仰な名前だった。
「これ、俺の?」
「そうだよ」
セレイスは表示を確認しながら頷く。
「《変転》は、あの邪神から受け取った神格の一部だろう。ただし完全な同一神格ではない。君はあれ自身になったわけではないからね」
「それはよかった」
「残り二つは君自身のものだ。《運命打破》と《救済》。二十六年間、人間として何をしてきたのかが、そのまま神格へ反映されたと考えていい」
「人間の時から神格なんて持ってたのか?」
「人間のままでは持っていないよ。ただ、魂にはその者がどう生きてきたのかが積み重なる。神へ昇華するほど強い魂であれば、それまでの在り方が一つの概念として結晶化することがあるんだ」
そう説明しながら、セレイスは《運命打破》の文字へ視線を向けた。
「絶望的な状況でも勝ち筋を探し、決められたように見える結末を何度も覆してきた。そして救えるものを見捨てず、最後には一つの世界そのものを救った。その生き方が、君の場合は二つの神格として定着したんだろうね」
「……名前が大袈裟じゃない?」
「魔王を倒した後に格上の神まで倒した人が言っても説得力がないよ」
「俺だって好きで神を倒したわけじゃないんだけど」
「神格は本人の自己評価で決まるわけではないからね」
何とも居心地が悪かった。勇者と呼ばれるようになった時もそうだったが、自分のやってきたことへ大層な名前を付けられると、どうにもむず痒くなる。それでも今さら名前を変えてくれと言ったところで、どうにかなるものでもなさそうだった。
「珍しいんですけどね」
受付の神が表示を見ながら呟く。
「何が?」
「昇神と同時に、明確な固有神格が二つも成立していることです。一つだけでも、その人物の生き方がかなり強く定まっていなければ成立しませんから」
「……そうなの?」
「君の場合、人間だった期間が長い上に、その間の経験が極端だったからだろうね」
セレイスは特に驚いている様子もなかったが、これまでの反応を見るに、驚いていても表情へ出にくいだけなのかもしれない。
そのまま登録は滞りなく進み、地球担当神としての権限まで正式に付与された。
「これで登録は完了です」
「思ったより早かったな」
「セレイス様が必要情報を先に仮登録してくださっていましたから」
「……やっぱり雑用係じゃないだろ」
「その話、まだ続ける?」
「そのうち絶対正体暴いてやるからな」
「隠しているつもりはないんだけどね」
どこまで本気なのか分からない。
登録を終えると、今度は同じ建物の奥にある別室へ案内された。室内には机も椅子もなく、その代わりに中央へ巨大な球体が浮かんでいる。
「地球?」
青い海と大陸、その上を覆う雲まで再現されており、見た目だけなら宇宙から見た地球そのものだった。
「地球を基にした世界構造の投影だよ。見た目だけなら惑星模型だけれど、実際には世界境界や法則構造まで含めて表示している」
「これで調べるのか?」
「そう。さっき君が見た世界管理情報より、遥かに細かいところまで確認できる」
セレイスが球体へ手を向けると、地球の周囲へ幾重もの光の層が浮かび上がった。そのほとんどは綺麗な球状を保っているにもかかわらず、一部だけが明らかに歪んでいる。
「……これか?」
「おそらくね」
地球を覆う薄い膜の一角に、本来なら存在しないはずの穴が開いていた。
穴といっても物理的なものではなく、何も知らずに見れば、光の層が僅かに乱れている程度にしか見えないだろう。しかし今の俺には、それが別の世界へ繋がっていることが何となく理解できた。
「接続先を確認するよ」
セレイスがさらに何かを操作すると、穴から伸びた細い光が何もない空間の先へ走り、その先へもう一つの球体が現れた。
見覚えがあるわけではない。
俺は異世界を宇宙から眺めたことなど一度もないのだから当然だ。それでも、その球体を見た瞬間、間違えようもない感覚が胸の奥へ走った。
「俺がいた世界だ」
「魂の反応があるなら、間違いないだろうね」
嫌な予感が、ほとんど確信へ変わっていく。
「発生時期は?」
「地球時間で約二年半前。接続時に使われた神力の痕跡も、まだかなり残っている」
セレイスがそこで一瞬だけ黙った。その顔を見ただけで、答えが分かった気がした。
「……あいつ?」
「うん」
「邪神?」
「間違いないね」
思わず言葉を失う。
二十六年前、俺の前へ突然現れ、面白そうだからという理由だけで異世界へ放り込み、その後は好き勝手にさせた張本人。
「次元孔を開けたままにしたのか、あの女」
「そういうことになる」
「閉じ忘れた?」
「おそらくは」
「…………あの女ァ……!」
思わず声が低くなった。
俺を拉致しただけなら、まだ俺個人の話だった。いや、もちろんそれだけでも十分に許し難いのだが、その時に開けた穴を放置したせいで地球へ魔力が流れ込み続け、今では世界そのものが危険な状態にまでなっている。
「帰してくれなかっただけじゃなくて、地球にまで迷惑かけてるじゃねえか!」
「そこについては私も擁護するつもりはないよ。次元孔を開けたのなら、使い終わった時点で閉じるべきだった」
「一応あいつも神なんだろ!? そういう基本的なことくらいしろよ!」
「本来ならするんだけどね……」
セレイスが珍しく、僅かに疲れたような表情を見せた。
「何だよ、その顔」
「長い付き合いだからね。あれに迷惑をかけられた回数なら、君より私の方が遥かに多いと思う」
「お前でも迷惑だと思ってるのかよ」
「もちろんだよ。本人の性格にはかなり問題がある」
そこだけは一切迷わず即答された。どうやら、長年付き合っている側から見ても評価は同じらしい。
「ただ、一応フォローしておくと、神としての仕事までしていないわけではないんだ」
「……仕事?」
「彼女の本来の神格は《変転》だよ」
その名前には見覚えがあった。先ほど、自分の神格一覧にも継承神格として表示されていたものだ。
「変転……」
「世界は安定していれば、それだけで永遠に存続できるわけではない。文明も生命も、あまりに長く同じ状態が続けば少しずつ硬直していく。新しいものが生まれず、既存の仕組みだけが固定され、最終的には世界全体の循環まで澱むことがあるんだ」
「それを動かすのが、あいつ?」
「彼女だけではないけれどね。《変転》や《変革》、《混沌》に近い性質を持つ神は何柱かいる。停滞した世界へ新しい要素を入れたり、固定された流れへ揺らぎを与えたりして、世界が完全に凝り固まるのを防ぐ。それも、長い時間で世界を維持するためには必要な役割の一つなんだ」
「……あの女が必要な神?」
「残念ながら」
「残念って言ったぞ」
「必要であることと、性格が面倒なことは両立するからね」
セレイスは少しだけ肩を竦めた。
「人間から見れば、彼女が邪神なのは何も間違っていないよ。平穏に暮らしている人々からすれば、それまで存在しなかった変化を勝手に持ち込む神なんて、災厄と大差ない場合もある。彼女自身もそれを理解している」
「自覚あったのか?」
「あるよ。だから自分から邪神と名乗っている」
「自覚あるなら少しは直せよ……」
「自覚があることと、反省することは別だからね」
「最悪じゃねえか」
思わず頭を抱えそうになる。しかしセレイスは、あくまで事実を説明するような調子で続けた。
「ただし、《変転》の女神としての仕事だけを見れば、彼女はかなり優秀なんだ。停滞している世界を見つけるのも、その世界が致命的に壊れない程度の変化を与えるのも上手い」
「今、地球が壊れかけてるんだけど」
「だからこれは仕事ではなく、本人の私的な行動だろうね」
「……俺を攫ったこと?」
「そう。少なくとも、君を異世界へ放り込んだことについて、神々の側から正式な依頼や役割があった記録はない。面白そうだったからやった、という君の話が恐らく正しい」
「やっぱり完全にあいつ個人の問題じゃねえか!」
「そこは最初から否定していないよ」
セレイスの説明で邪神への理解は多少深まったものの、個人的な評価は一ミリも上がらなかった。世界に必要な役割を持っていることと、俺が受けた被害はまったく別の話である。
「お前とあいつって、昔から知り合いなのか?」
「ほぼ同期だね。生じた時期も近いし、《変転》と《調律》は仕事上関わる機会も多い」
「……嫌な予感するけど、具体的には?」
「あれが世界へ変化を入れて、それが予想以上に大きく動いた時に私が調整する」
「後始末係じゃん」
「その仕事だけを見れば、そうとも言えるね」
「雑用係って、あいつの後始末まで入ってたのかよ」
「割合としては無視できないかな」
数千万年単位でそんな関係を続けてきたのだとすれば、セレイスが邪神を「あの馬鹿」と呼ぶ理由もよく分かる。それでも完全に縁を切らないのは、邪神本人の性格はともかく、《変転》という役割そのものは世界に必要だからなのだろう。
「……まあ、あいつの話は後でいい。それより、この穴を閉じれば地球は元に戻るんだよな?」
今はそちらの方が重要だった。
原因が分かったなら対処すればいい。次元孔を邪神が開けたのなら、それを閉じて魔力の流入を止める。あとは地球に残っている魔力を少しずつ処理していけば、時間はかかっても元の状態へ戻せるはずだ。
そう考えた俺に対し、セレイスはすぐには答えなかった。
「……何だよ」
「先に詳しく調べよう」
「閉じたら駄目なのか?」
「今すぐは勧めない」
「何で?」
嫌な予感が、再び胸の奥へ戻ってくる。セレイスが地球の投影へ手を向けると、今度は惑星全体を覆うように淡い光の粒が浮かび上がった。
「二年半という時間は、世界にとって極端に長いわけではない。でも、継続的に外部から魔力が流れ込み続けるには十分な時間だった」
「……まさか」
「地球はもう、魔力が存在する環境へ適応を始めている」
セレイスの言葉に合わせるように、光の粒の一部が大地や海、さらに生物らしき反応の中へ溶け込んでいく。
「世界法則そのものにも、ごく僅かだけれど魔力を前提とした変化が生じ始めている。生命の中にも蓄積があるし、大気や地殻にも馴染み始めているね」
「じゃあ、穴を閉じたら?」
「流入だけを突然完全停止させると、外部からの供給を前提に形成され始めた地球側の循環に、今度は急激な不均衡が生じる。必ず壊れるとは言わないけれど、今の段階で何の調整もせず遮断するのは危険だ」
「……開けっぱなしでも駄目で、閉じても危ない?」
「その認識でいい」
「最悪じゃねえか……」
原因さえ分かればすぐ片づけられると思ったのに、話はそんなに単純ではなかった。
「ただ、何もできないわけではないよ。流入量を段階的に絞りながら地球側へ安定した循環を形成する方法もあるし、既に溜まった世界負荷を別の形で排出する方法も考えられる」
「じゃあ助かるのか?」
「方法を見つけられればね」
「時間は?」
地球で見た赤い警告が、嫌でも頭へ浮かぶ。世界負荷は既に危険域へ入り、自然排出機構も活性化の兆候を示していた。方法を考える時間がいくらでもあるとは、とても思えない。
「どれくらい猶予がある?」
「今、計算している」
セレイスの周囲へいくつもの情報が浮かび上がった。
魔力の流入量、世界負荷の増加率、地球自身が持つ処理能力、既に始まっている魔力環境への適応速度。俺には意味を理解できない数値まで含め、膨大な情報が次々と組み合わされていく。
先ほどまで俺と普通に話していた時とは違い、今のセレイスの表情は完全に仕事をする神のものだった。邪魔をしない方がいいだろうと黙って待ちながら、俺は静かに回り続ける地球の投影を見る。
父さんも、母さんも、妹も、あの星の上にいる。
地球では二年半。その間も俺の家族はそこで生き続け、俺の知らない時間を過ごしてきた。
それなのに、ようやく帰ってきたと思ったら、今度はその世界そのものが危険だと言われている。
冗談ではない。
二十六年かけて、ようやく帰ってきた場所だ。父さんも、母さんも、妹も、この世界にいる。それを今度は世界ごと失うなんて、そんなもの認められるか。
魔王軍に追い詰められた世界でさえ、最後には救えた。なら、今回だってまだ何かできるはずだ。
「……出たよ」
やがて聞こえてきたセレイスの声に顔を上げる。
「どうだった?」
「いくつか条件を仮定した上での推定になる。外部魔力の流入量が現在のまま、地球側の処理能力も今の増加率を大きく上回らないとした場合だけれど」
「それでいい。どれくらいある?」
セレイスが少しだけ間を置いた。その表情を見ただけで、決して安心できる数字ではないと分かった。
「自然排出機構が本格的な作動領域へ入るまで、およそ一年」
「…………一年?」
「前後する可能性はあるよ。半年で突然始まるほど切迫しているわけではないけれど、数年単位で様子を見る余裕もない。安全側に考えるなら、一年以内に何らかの安定化策を実行するべきだろうね」
一年。
思っていたより長いのか、それとも短いのか、すぐには判断できなかった。
魔王軍と戦っていた頃なら、一年もあればできることはいくらでもあった。けれど今度の相手は軍隊でも魔王でもなく、世界そのものに溜まった負荷である。剣で斬れるわけでもなければ、強力な魔法を撃ち込めば消えてくれるようなものでもない。
「自然排出が始まったら?」
「地球で確認した通りだよ。巨大地震、超巨大噴火、大規模な海洋変動。状況によっては天体への干渉まで起こり得る。どの現象が選ばれるかは、その時点で世界が最も効率的と判断した方法による」
「世界を守るために、人間の文明が壊れる」
「世界からすれば、人類文明も内部に存在する要素の一つだからね。地球そのものが存続するために必要なら、文明へ大きな被害が出ることまでは考慮されない」
そこに悪意があるわけではないし、ましてや天罰でもない。ただ世界が自分自身を守ろうとして、その結果として人類文明が巻き込まれるだけなのだ。
誰かを倒せば終わる話ではないからこそ、余計に厄介だった。
「……止める方法を探す」
気づけば、自然とそう口にしていた。
セレイスがこちらを見る。
「地球を?」
「ああ」
「簡単ではないよ」
「分かってる」
二十六年前だって同じだった。
最初に魔王軍を見た時、人類が勝てるとは到底思えなかった。最後の一国まで追い込まれ、土地を奪われ、敵には俺たちより遥かに強い存在がいくらでもいた。
それでも、一つずつ取り戻した。
最後には魔王を倒し、その後に現れた邪神にさえ勝った。
今度の問題が、それ以上に難しい可能性だってある。神になったばかりの俺には、世界管理の基礎知識すらない。
それでも、まだ何も終わってはいない。
「まだ一年あるんだろ?」
「そうだね」
「なら、終わってない」
そう答えると、セレイスが僅かに目を細めた。
俺の中にあるという神格、《運命打破》と《救済》が具体的に何を意味するのかは、まだよく分からない。けれど名前だけなら、今の状況には随分と似合っている気がした。
「一年で方法を見つける。それで地球を救う」
帰ってきたその日に、こんなことを決める羽目になるとは思ってもいなかった。
父さんたちへ何と説明するかすら決まっていないのに、その前に地球規模の問題まで抱えることになってしまった。
それでも、やるしかない。ようやく帰ってきた故郷なのだから。
二十六年かけて辿り着いたこの場所を、今度こそ失いたくなかった。