「はぁぁあ……どうしようかなぁ……」
アビドス砂漠を焼き尽くす乾いた熱気の中、少女の細いため息がぽつりと零れ、熱風の中に虚しく溶けて消えていく
がっくりと肩を落とし、普段の太陽のように眩しく朗らかな笑顔はすっかり陰りを帯びていた。灼熱の砂を踏みしめ、重い足取りでトボトボと歩くのは、アビドス高等学校生徒会の生徒会長――梔子ユメ
たった二人きりの学校で、世界で一番大切でかけがえのない後輩である小鳥遊ホシノと共に、押し寄せる砂に埋もれゆくアビドスを再建しようと毎日奔走してきた
これまでに数え切れないほどの失敗を繰り返し、頭を抱えるようなトラブルを起こしては怒られてきたけれど、それでも二人は手を取り合い、笑い合いながら前を向いて頑張ってきたはずだった
しかし――
『奇跡なんてもの、あるわけないじゃないですか!』
脳裏に不意に蘇る、今朝起きたばかりの胸を刺すような出来事
たまたま校内の古い倉庫の片隅で、埃をかぶっていた「砂まつり」の古びたポスターを見つけたのだ。そこに書かれた懐かしくも楽しげな文字に一瞬で心が躍り、あの日のみんなの笑顔に想いを馳せてホシノに無邪気に話したところ、なぜかホシノの逆鱗に触れてしまったのだった
あの時の、氷のように冷たく鋭い視線
これまでも自分の軽率なトラブルのせいで呆れられることは多々あったけれど、あそこまで苛立ちと感情を露わにして自分を拒絶したホシノを見たのは、出会ってから初めてのことだった
ユメは心の底から動揺し、どう言葉を返せばいいのか分からなくなってしまったのだ
いつホシノが静まり返った校舎へ戻ってきてもいいように、せめてもの日頃の感謝を込めた短い書き置きだけを生徒会の机の上に残し、彼女は逃げるようにして校舎を飛び出したのだった
(ううー……確かに、今の私たちにそんなお祭りを手放しで楽しむ余裕なんてこれっぽっちもないって分かっているし、ちょっと夢見がちで脳天気なことを言った自覚はあるんだけど……。でも、普段のホシノちゃんなら、あそこまで酷く怒ったり冷たく突き放したりしないよね……)
いつもよりピリピリとした、どこか触れれば切れる刃物のような雰囲気を纏っていたホシノ
その痛々しい異変に、ユメ自身が気づいていなかったわけではない
むしろ、最近のホシノが小さな身体で一人背負い込んでいる途方もない重圧や焦燥感を感じ取っていたからこそ、少しでも大好きな後輩を元気づけようと、自分がいつも以上に明るく底抜けに振る舞わなければいけないと思い込んでの行動だった
それが裏目に出て結果としてホシノの逆鱗に触れてしまい、どう接するのが正解だったのか、ユメの胸中は深い不安と後悔でぐしゃぐしゃにかき乱されていた
それでも、いつまでもこうして塞ぎ込んでいては先輩失格だ
何か、アビドスを救うための奇跡のヒントや、ホシノをもう一度笑顔にできる素晴らしいお宝がこの砂のどこかに眠っていないだろうか――そんな淡い現実逃避と切実な祈りが入り交じり、彼女は気づけば校舎から遠く離れた荒涼とした危険な砂漠地帯にまで足を伸ばしていた
「ん……」
そんなユメのぐるぐると渦巻く思考を遮るように、砂漠特有の乾いた生ぬるい風が不気味に頬を撫でて吹き抜ける
ゴーッ……と地響きにも似た微かな重低音が地表を揺らし、風に激しく巻き上げられた細かい黄色い砂粒が、みるみるうちに視界を白く染めていく
『こういう風の変化があった時は大抵、大きな砂嵐が来る前兆だから気をつけてくださいね』
不意に脳裏に蘇ったのは、いつも自分の後をついて回りながら口を酸っぱくして言っていたホシノの忠告
現に、さっきまで広がっていた抜けるような青空が、みるみるうちに薄暗く濁った黄褐色へと変貌を遂げ始めている
「……そろそろ、学校へ帰らなきゃだよね。きっと、ホシノちゃんも教室に戻ってきてくれてる頃だし……」
ユメは小さく、しかし決意を込めたため息をつき終えると、両手でパチン! と自分の頬を強く叩いた
自分に喝を入れるための乾いた高い音が、静寂の砂漠に虚しく響く
もし、今アビドスへ帰ってホシノが待っていてくれたとき、自分がこんな辛気臭くてなさけない顔をしていたら、また余計な心配や負担をかけてしまう
ホシノを笑顔にするための生徒会長が、これでは完全に本末転倒だ
「よしっ……帰ろ!」
大きく深呼吸をひとつ。肺腑に満ちた乾いた空気を押し出すと同時に、ユメは自慢のトレードマークであるびっきりと明るい太陽のような笑顔を無理やり作り出し、アビドス高校の方角へと言葉通り踵を返した
その刹那――
「――見つけた」
「へ……?」
背後から、風を切り裂くように冷たく透き通るような声が静かに降ってきた
驚いて弾かれたように振り返ると、そこにはいつの間にか、砂を踏みしめる気配すら感じさせずに一人の人物がぽつりと佇んでいた。ホシノと同じくらいの、小柄で華奢な体躯をすっぽりと包み込むような、大きなフードを深く被った謎の人物
「えっと……どちら様かな? さっきまで誰もいなかったはずだけど……いったいどこから来たの?」
「……梔子ユメ、よね」
少女はユメの問いかけには一切答えず、ただじっと、フードの奥から冷ややかな視線を向け続けている
ユメは戸惑いながらも、いつもの柔らかな苦笑いを浮かべて相手を観察した
先ほど耳にした声のトーンからして、どうやら歳の頃は自分より少し下、女の子のようだった
身長差があるため表情まではよく見えないが、フードの隙間から覗く横顔や生え際には、中等部生のようなあどけなさを残した柔らかいラインがあり、その隙間から覗く瞳の近くには鮮やかなピンク色の髪の毛が揺れていた
「ねえ、聞いてるの?」
「わっ! ご、ごめんね? 急に話しかけられちゃったから、びっくりしちゃって」
可愛らしく、どこか拗ねたようにぷぅと頬を膨らませるフードの少女の姿に、ユメは慌てて両手を振って謝罪した
なんだろう、この子は。発している雰囲気こそどこか底知れない異様さを纏っているものの、その仕草や言葉の端々には年相応の幼さと可愛らしさが隠しきれずに漏れ出ている。もしかしたらアビドスの近くに迷い込んだ、どこかの学校の生徒なのだろうか
きっと悪い子なんかじゃなくて、ただ方向を間違えてしまっただけの、ただの迷子に違いない
そう自分を納得させながらも、ユメの胸のうっすらとした違和感は消えなかった
――それなら、どうしてこの子はわざわざ私を探していたのだろう?
「えーとね……」
ユメがもう一度優しく声をかけようとした、その瞬間
「あ、そうだよね……! ちゃんと私の名前を先に教えないと、不公平だもんね!」
「へ……?」
少女はパンと小気味よい音を立てて自分の手を叩くと、どこか誇らしげに胸を張った
「私の名前はテット! いつか必ず、私のことをバカにしてきたアイツらをすべて滅ぼし、この世界で最強になりしもの!」
「…………」
テットと名乗った少女は、大きなフードを深く被ったまま、砂漠の真ん中でわざわざ両手を広げた謎の決めポーズをキメてみせた
普段のユメであれば、こういったユーモアやノリの良い悪ふざけには喜んで全力で乗っかるところなのだが――あいにく今のユメは、ホシノとの喧嘩のショックと将来への不安で精神的余裕が削り取られている
流石にこの初対面かつ中二病全開の少女のノリについていくことができず、ユメは盛大に顔を引きつらせたまま、ただ無言で固まってしまった
「な、何よその目は! 私がわざわざ名乗ってあげたんだから、貴方の名前もちゃんと名乗りなさいよ!」
(この子……なんだかんだで、すごく可愛いところがあるなぁ……)
まるで自分の思い通りにならず地団駄を踏む小さな子供(アビドスの基準からしても、ユメから見ればすっかり年下の可愛い後輩サイズにしか見えないのだが)のようなテットの様子を見て、これ以上彼女を怒らせては面倒なことになると察したユメは、慌てて両手を前で振って名乗った
「わ、私が梔子ユメだけど……もしかして、私とどこかで以前に出会ったことあったりするかな?」
「――!」
その名前を耳にした瞬間
テットから、先ほどまでの子供っぽい気恥ずかしさや愛嬌が嘘のように綺麗に消え去り、周囲の空気が一瞬にして凍りついた
ピリピリと肌を刺すような殺気が立ち込め、ユメの背筋を冷たい汗がサーッと流れ落ちる
(えっ……ふ、雰囲気が、さっきと完全に変わった……?)
「良かった……。時空を超えることには、ちゃんと成功していたのね」
混乱のあまり完全に状況を飲み込めないユメを他所に、テットはゆっくりとフードの懐から、見慣れない不気味な輝きを放つ古めかしい杖のような物体を取り出した
「ごめんね。私の野望のためにも……あなたの命、いいえ――その『神秘』を、ここで私にちょうだい」
…………
「はぁ……はぁ……っ……!!」
激しい爆発音と、耳をつんざくような雷鳴が荒涼たる砂漠に轟く
突然の襲撃から辛うじて逃れたユメは、偶然見つけた風化した古い遺跡の分厚い石柱の影に身体を滑り込ませ、荒い息を必死に整えていた
テットと名乗ったあの少女は、名前を告げた直後、恐ろしいほどの殺気を纏ってユメへと杖を突きつけ、その先端から何の前触れもなく眩い火の玉が凄まじい勢いで飛んできたのだ
直感的に危険を察知したユメが驚異的な反射神経でどうにか最初の攻撃を避けると、テットはまるで詠唱するかのように呪文のような言葉を叫び、今度は容赦なく雷を落とし、巨大な火の玉を連射し、挙句の果てにはこの水分の一滴もない乾燥しきった砂漠の地では絶対にありえないほどの高圧な水を信じられないほどの高速で撃ち出してきたのだった
常軌を逸した超常の攻撃の嵐
どうにか致命傷を避けてここまで隠れることに成功したものの、ユメの脳裏には、先ほどからの現実離れした光景によって無数の疑問がぐるぐると渦巻いていた
(なんなの、一体今の攻撃は……!? 雷に、水にって……まるでSF映画か、それこそ魔法みたいだよ……! それに、なんなのあの威力……!)
キヴォトスで暮らす生徒たちは総じて常人離れした身体能力と頑丈さを誇っているが、テットが繰り出したどの攻撃も、一発でもまともに当たればどれほど頑丈なアビドスの生徒であっても一撃で意識を完全に刈り取られるほどの、過剰なまでの破壊力を秘めていた
現に、ユメが咄嗟に構えた愛用の頑丈な盾すらも火球で簡単に遠くへ吹き飛ばされてしまい、逃げることに精一杯で回収することすら叶わなかったのだ
それに加えて、死の恐怖を必死に押し殺してユメが意を決し、懐から愛用のハンドガンを抜き放って反撃しようと引き金を引いたときのことだ――
不思議なことに、ユメが放ったはずの銃弾は、まるで意思を持っているかのようにテットの直前で不自然に軌道を歪め、掠りもしないまま虚しく砂漠の彼方へと飛んでいってしまったのだ。あんな不可解で常識外れな弾の避け方、これまで見たことがない
今こうして奇跡的に五体満足で石柱の陰に身を隠せていること自体が、運以外の何物でもないほどの圧倒的な格上の脅威
この灼熱と静寂が支配する砂漠の果てで、ユメはかつてないほどの激しい恐怖と、凍りつくような冷たい孤独感に苛まれながら、震える手で自分の身体を抱きしめ、小さく息を潜めていた
(な、なんで私、いきなりあの子に命を狙われなきゃいけないの……!?)
激しく荒い呼吸を繰り返す胸を必死に押さえながら、ユメは混乱する頭を必死に回転させ、バラバラに散らばる思考のピースをなんとか手繰り寄せようとする
先ほどまで平穏だった日常の砂漠に突如として現れた、小柄でフードを深く被った謎の少女――テット。彼女は、自身の「野望」とやらを叶えるためだと言い放ち、一切の躊躇や容赦もなくユメの命を奪おうと襲いかかってきた
いくら自分の過去の記憶の糸をたぐり寄せても、脳裏に思い浮かぶのはアビドスを再建するための泥臭い苦労や、日々のくだらない生活のいざこざばかりだ
どう考えても、こんな異次元の攻撃を繰り出す少女と因縁や恨みを買った覚えなど、どこを探してもあるはずもなかった
(こ、こんな時……ホシノちゃんが一緒にいてくれたら、もう少しどうにか……)
ユメが過酷を極めるアビドスの砂漠でこれまでどうにか生き延びてこられたのは、ひとえに持ち前の運の良さと、キヴォトス人特有の驚異的な身体の頑丈さがあったからに他ならない
純粋な戦闘力や荒事の処理能力において、ユメはアビドスどころかキヴォトス全体で見ても決して高くはなかった
だからこそ、日々の冷酷な現実から降りかかる危険や荒事を、その小さな身体で一手に引き受けてくれていたのは他ならぬ、かけがえのない後輩であるホシノだったのだ
(……でも、待ってよ。もしホシノちゃんなら、あのテットちゃんの恐ろしい攻撃を真っ向から受けたらどうなるだろ……うーん、いや、でもあの子なら、むしろ「この程度ですか」って言って、あのレーザーも激しい雷も全部盾で真っ向から弾き返しちゃいそう……うん、きっとホシノちゃんなら大丈夫そう!)
死の危険と隣り合わせの極限状態であるにもかかわらず、脳裏に浮かんだ頼もしすぎる後輩の姿を想像して、ユメは思わずこの場違いなタイミングでふっと乾いた苦笑いを零してしまう
ユメ自身の頑丈さですら常軌を逸しているというのに、ホシノはその上をいく異常なまでのタフネスと戦闘センスの持ち主だ
ユメの愛用している盾さえあれば、どんな謎の攻撃だろうとすべて無傷で受け流してしまうだろう――そんな根拠のない、しかし確信に近い予感が、冷え切っていた胸の奥をほんの少しだけ温めてくれた
「ねー! ここに隠れてるのはお見通しなんだから、さっさと大人しく出てきなさいよ!」
遠くの瓦礫の向こうから響いてきたテットの苛立ち混じりの高圧的な声にハッと現実に引き戻され、ユメは恐る恐る、身を潜めていた風化した石柱の陰からそっと顔を覗かせた
そこには、まるで近所の公園ではしゃぐ小学生が、道端で見つけた手頃な木の枝をブンブンと無意味に振り回すような足取りで、キョロキョロと辺りを見回しているテットの姿があった
(……あの子、繰り出してくる攻撃の威力や魔法みたいな現象は冗談抜きでめちゃくちゃ怖いんだけど……それ以外の立ち居振る舞いや歩き方は、なんだか拍子抜けしちゃうくらい子供っぽいのよね……)
先ほどまで全身を恐ろしいほどに支配していた冷たい恐怖が、少女のどこかアンバランスでおかしな挙動によって、少しずつ和らいでいくのを肌で感じる
「うわぁぁぁっ!? な、なんだこいつ、サソリ……!? 寄るな、あっちいけーっ!」
先ほどまでの圧倒的な威厳や不気味な雰囲気を完全にかなぐり捨てて、足元をのこのこと横切った小さな野生のサソリに向かって杖を必死に振り回し、情けない悲鳴を上げながらドタバタと飛び跳ねるテット
およそ、命を狙う凄腕の刺客から発せられるべき威圧感や恐怖などは、その一瞬のドジっ子じみた無邪気なリアクションのせいで完全にどこかへ吹き飛んでしまっていたのだった
(……今だ。このドジっ子ちゃんがサソリと格闘してる隙に、一気にここから逃げちゃおう!)
急激に冷静さを取り戻したユメは、再び古い遺跡の巨大な岩陰に身を隠しながら、息を殺し、足音を極限まで殺してそっと歩き始めた
一歩、また一歩
このままあの勘違い少女に見つからないよう、砂丘の陰へと滑り込めれば勝ちだ
しかし――
(カラッ……)
静まり返った灼熱の砂漠の空間に、あまりにも不吉で、あまりにも乾いた小さな石の転がる音が虚しく響いた
「そこだっ!! 逃がすかぁぁ――『バインド』!!」
「きゃっ……!?」
運悪く、ユメが慎重に踏み出した足の先で、長年の風化に耐えかねた古い瓦礫の破片が崩れ落ちてしまったのだ
そのわずかな音を、野生の獣のような鋭さでテットの耳が捉えていた
振り返る間もなく、テットが勢いよく振りかざした不可解な杖の先端から、目に見えない輝きの軌跡が蛇のように走り、瞬時にユメの身体を絡め取る
それは瞬く間に強靭で半透明な輪状の光の縄となって、ユメの上半身を腕ごとガチガチに縛り上げたのだった
「ふー……やーっと捕まえたわ……! ちょこまかと逃げ回りやがって……!」
「っ……ね、ねぇってば! 一体どうして私にこんなひどいことするの!? 私、あなたのことなんて全然知らないし、何か恨まれるようなことした覚えも絶対にないよ!?」
「…………」
足元こそ自由に動くものの、両腕ごと上半身をすっぽりと固定され、このまま力任せに逃げ出そうとしてもすぐに追いつかれて撃ち抜かれてしまうと直感したユメは、必死に声を張り上げて抗議した
しかし、テットはトコトコと幼い足音を立ててユメの目の前まで歩み寄ると、なぜか急にピタリと動きを止め、じーっとユメの身体の特定の部位……それも胸元を食い入るように凝視したまま、恐ろしい沈黙を守り始めた
「ね、ねぇ……沈黙されると余計に怖いんだけど……何か答えて……?」
「……か、身体のボリュームが……なによこれ……」
「へ?」
「ここにも、私をバカにして見下してきたアイツらと同じ……無駄な脂肪の塊がつきやがって……!! こいつを徹底的に狩り尽くして、私も肉体も精神も一気に最強になってやるんだ……! これもすべて、私に定められた過酷で偉大な運命なのだからね……!」
(な、何を一人でブツブツ言い出すのこの子……!? 理由が怖すぎるし、っていうか、今私に対してすごーーーく失礼なこと考えてなかった!?)
ユメの豊かな胸元を、言い知れない憎しみと、底知れない妬みがドロドロと入り交じったようなじっとりとした視線で見据えるテット
そのあまりにも斜め上すぎる凶行の動機と狂気に満ちた眼差しに、先ほどの死の恐怖とは全く異なる、女としての言い知れない精神的恐怖を感じ取ったユメは、思わず反射的に悲鳴を上げた
「ちょっ、ちょっと待って――! 私は脂肪の塊じゃないよー!?」
「逃がすかーー! 私の貴重なレベルアップ用強化アイテムめ……! 食らえ、『ファイアーボール』! 『ファイアーボール』連射よ!!」
光のワイヤーで上半身がガッチリと縛られているせいで、両腕を振って走る際のバランスを取ることができず、ユメの逃走する姿は極めて滑稽かつ、制限されたものになっていた
ドカン! ドカン! と背後で砂煙とともに激しい熱風と爆炎が弾ける
先ほど最初に放たれた特大の火の玉に比べれば、純粋な密度や破壊力こそ幾分か落ちているものの、至近距離で容赦なく連射される爆発の脅威は凄まじい
背中を焼き焦がす熱気を必死にかわすため、ユメは砂埃を派手に舞い上げながらウサギのように跳び回り、文字通り死に物狂いで逃走を続けた
「くうーーっ、ちょこまかと逃げ回って鬱陶しいやつめ……! こうなったらこれで一気にトドメを決める、『ファイアーボール』!!」
(あ、あと少し……もう少し走ったら……! 来たっ……!)
テットの執拗な追撃を紙一重でかわし、死に物狂いで足を動かすユメの視界が、次の瞬間にガラリと変化した
乾いた黄褐色の砂漠の世界が、急速に不気味で重苦しい黄色い濁りへと染まっていく
それはアビドス砂漠の住民なら誰しもが恐れる、街の全域をも飲み込むほどの大規模な局地型砂嵐の到来だった
「こ、これじゃあ砂が目に入って視界が……っ! 魔法のターゲットが絞れない……っ!?」
激しく吹き荒れる密度の濃い砂のカーテンの中で、先ほどまでしつこく背後に張り付いていたはずのテットの姿や不気味な気配が完全に掻き消え、ただ荒れ狂う風の唸り声と、少女の苛立ち混じりの叫び声だけが遠くから虚しく響いてくる
どんな原理で未知の超常現象を引き起こしているのかは謎のままだが、あのような不可解な遠距離攻撃を繰り出すには、ターゲットの姿を目視し、しっかりと狙いを定めなくてはならないはずだ
ならば、周囲数メートルの視界すら完全に奪い去るこの猛烈な砂嵐こそ、彼女の追撃から逃れるための天が与え給うた最適解に他ならない
(今のうちなら……!)
砂嵐による激しい気流の摩擦か、あるいは攻撃の手を緩めたテットの集中力が途切れたためか、先ほどまでピクリとも動かなかった光のワイヤー状の拘束が、急に効力を失ったように解け、スルスルと地面へと滑り落ちた
(やった……! これで両手が自由に動く……!)
今度こそ後ろを振り返らずに、全速力でこの場から逃げ出さなければならない
きっとすぐにテットも嵐を抜けて探し出して追いかけてくるだろうが、なんとかアビドス高校の敷地まで戻り、ホシノと合流さえできればもう何も怖くないのだから
そう自分に強く言い聞かせ、視界が完全に遮られた猛烈な砂嵐の中を、ユメは必死に脚を前へと進めた
その刹那
「きゃ……っ!?」
視界が悪化したことでかえって追手から逃げやすくなったという一瞬の安堵と、気の緩み。その足元に隠れていた、アビドス砂漠特有の急勾配な砂丘の崖の存在に、ユメは直前まで気づくことができなかった
一気に足元の砂が崩れ、身体が完全にバランスを失う。そのまま斜面を激しく回転しながら転げ落ちていく
(と、止めないと……こんなところで転がり落ちたら……っ……!?)
回転しながらどんどん加速していく身体をどうにか止めようと、砂を掻きむしり、必死に足を踏ん張ろうとする
しかし運悪く、その転落の軌道の真ん中に、砂利に埋もれていた硬質な古いコンクリートの構造物の突起が角を立てて突き出していたのだった
「っ……!?」
ゴツン、と鈍く重い、聞き離れた衝撃音が静寂に響く
勢いよくその硬い角に頭部を強かに打ちつけてしまった凄まじい衝撃で、ユメの身体の転がりは強制的に止められたものの、それと引き換えに額の生え際あたりから、鮮血がツーと熱い感触とともに溢れ出し、砂漠の砂を赤く染めていく
「っ……いたたた……頭がグラグラする……」
それでも、キヴォトス人特有の驚異的な頑丈さとタフネスのおかげで、脳震盪を起こしてその場で即座に意識を失うことだけは免れた
ユメは視界を血で滲ませながら、フラフラと不安定な足取りで立ち上がり、再び歩き出す
早くアビドスに戻らなければならない。このままだと、追撃してきたテットに再び見つかってしまうか、あるいはこの激しい砂嵐の中で完全に方向を見失って遭難してしまう
(……そうだ……無我夢中で、逃げることだけに必死になってたから……気づいたら、この砂嵐の中で自分が今どこに向かって歩いてるのか、全然分からないよ……)
脳裏に『遭難』という最悪の二文字がはっきりと浮かび上がった瞬間、これまで張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れるように、ユメの身体からすべての力が一気に抜け落ちていった
彼女はその場に膝から崩れ落ちるようにして倒れ込んだ
(……あ、あはは……もう、足に全然力が入らないや……)
激しい疲労感と失血による眩暈、そして自分が広大な砂漠のどこにいるのかすら分からないという途方もない絶望感が、ユメの意識の底からじわじわと這い上がってくる
身体はその暗闇を拒絶する気力すら失い、目の前の激しく渦巻く黄色い砂嵐の景色すらも、急速に暗い深淵へと溶けていくように霞んでいく
(このまま……私、ここで死んじゃうのかなぁ……)
意識が遠のいていく深い脳裏に、走馬灯のようにこれまでのアビドスでの記憶が次々と巡っていく
しかし不思議なことに、そのどの思い出の光景の中にも、必ず大切な後輩であるホシノの姿があった
出会ったばかりの頃の、あの世の中のすべてを諦めたような気だるげな、けれどどこか周囲を拒絶するかのような寂しげだった横顔。そして、自分の強引な誘いに渋々といった様子で乗ってくれ、いつの間にか生徒会の一員として一番近くに立ってくれるようになった日
あの頃の不器用で温かい思い出が、冷え切っていく身体に痛いほど染み込んでいく
(……最後に、ちゃんと喧嘩の仲直り、したかったなぁ……ごめんね、ホシノちゃん……)
ユメの意識が、完全に暗い闇の中へと落ちていくまさにその瞬間
途切れかけた視界の隅で、荒涼とした足元の砂漠の地表が、突如として不思議な、ありえないほどの鮮やかな虹色の光を帯びて眩しく輝いたような気がした
(……まほう……じん……?)
それが一体何であったのか、思考を巡らせる余裕すらない。何かを考えるより早く、ユメはすべての力を手放し、深い眠りへと落ちていったのだった
♢
「……て」
誰かが自分の肩を懸命に揺すっている気がした
「……てるのか……? 目を覚まさないけど」
「……よ……この子が……助かったのが信じられないの!?」
「…駄女神のお前を……け……ないだろ」
微かに耳を打つ、やたらと騒がしく不調和な声の数々
頭の奥を鋭い刃物でかきむしられるような激しい偏頭痛と、全身を包み込む心地よい微睡みの狭間で、少女はゆっくりと、鉛のように重やまぶたを押し上げ
「カズマカズマ! 起きましたよ! この子、目を開けましたよ!」
「おー流石は回復魔法にだけは信頼が置けるアクアだな」
「なによその超上から目線の言い方は!? その私の完璧な回復魔法のお陰で、今まで何度カズマさんが無駄に命を拾ったと思ってるのよ! 崇めなさい! 感謝の言葉とともに、今すぐ高級シュワシュワを捧げなさい!」
「……?」
ゆっくりと焦点を結び始めた視界の端で、眩い水色の髪が激しく左右に揺れ、その隣で緑のジャージの上に黒いパーカーを羽織った髪の短い男が、やれやれと盛大に肩をすくめている
ここは一体どこなのだろうか
うっすらと周囲を見渡せば、湿った岩肌が露出した見知らぬ洞窟の影。そして、どこか異国情緒を通り越して、ファンタジーの絵本から飛び出してきたかのような奇抜で色鮮やかな衣装に身を包んだ男女四人が、心配そうに――あるいは勝手に言い合いをしながら、自分を取り囲むように覗き込んでいた
「まぁいいや。……おい、お前、身体のどこか痛むところはないか? 気分は悪くないか? 大丈夫か?」
そう言って親身に手を差し伸べてくれたのは、どこか死んだ魚のような、やる気のない目を手持ち無沙汰に泳がせている少年だった
「えっと……あの……ここは……私……?」
かすれた声で途切れ途切れに問いかける少女に、少年は己の胸を軽くポンと叩き、ふっと不敵で図々しい笑みを浮かべてみせる
「ああ、自己紹介が遅れたな。俺の名前は佐藤カズマ。見ての通り、この世界で細々と生きているただの冒険者だ」
「そしてね! 私はこの世界を司る、美しくも気高き水の女神様、アクア様よ! 泣いて崇めて感謝しなさい!」
「――自称な」
「なんですってカズマぁ!? 今の『自称』っていうトゲと悪意のある嫌味な言い方は一体何よ! 私は正真正銘、本物のアクシズ教団が祀る女神アクア様よ!?」
アクアと名乗った青髪の女性は、カズマという男性の冷ややかで容赦ない一言に激怒し、その場で子供のように胸ぐらを掴んで取っ組み合いの喧嘩を始めてしまった
初対面だというのに、あまりにも完成されたコントのようなドタバタ劇を目の当たりにして、少女は困惑と戸惑いを隠せない
「はぁ……全く、いつどこにいてもこうだな。あー、驚かせてすまないな。私の名前はダクネスだ。このパーティでクルセイダー……騎士をしている」
やれやれといった深い溜息を吐きながら、ずっしりと重そうな本格的な西洋の金色に輝く大鎧に身を包んだ金髪の美しい女性が、申し訳なさそうな苦笑混じりに名乗る
「そして! 我が名は――! 紅魔族一番の使い手にして、爆裂魔法を極めし者――!」
「あー、そこの頭のおかしい中二病の赤い奴はめぐみんだ。どうせまた無駄に長くてややこしい前口上を始めるから、こっちで勝手に端折ってやる」
「ぬおおおぉぉ、我が魂の叫びたる言霊を途中で遮るなど断じて許しがたい! うがぁぁ!!」
「うぉぉ!? なんだこいつ、急に飛びついてきやがった! おい、頭を噛むな、痛い痛い痛い! 髪が抜けるだろ!」
「その無神経で無礼千万な口を永遠に塞いでやります! ガブーッ!」
「ぎゃぁぁぁ!?!?」
せっかくの気高い決めポーズと名乗りを邪魔されたことに激怒しためぐみんは、アクアとは別の方向で胸ぐらを掴み合っていたカズマの背後へと弾丸のように飛びつき、その頭部にガブリと容赦なく噛みついた
カズマが情けない悲鳴を上げ、薄暗い洞窟の中はさらにカオスな怒号と暴動で満たされていく
あまりの騒がしさと、自分を取り巻く世界の圧倒的な非日常感とシュールさに、少女は思わず「あ、あはは……」と頬を引きつらせ、乾いた苦笑いを漏らすしかなかった
そんな彼女の困惑した様子にふと気づくと、ダクネスは優しく柔らかな笑みを浮かべ、重厚な鎧をカチャリと鳴らしながら少女の目の前へとそっと膝をつき、目線を同じ高さに合わせてくれた
「まぁ、見ての通り、こいつらは救いようがないほど騒がしいだけで、決して悪い連中じゃないんだ。……それで、さぞ怖かっただろうが……君の名前を教えてくれないか?」
その包み込むような温かな眼差しと優しい問いかけに、少女は静かにうんと頷き、素直に自分の名前を口にしようとして――ハッと息を呑んだ
「えっと……私の……名前……」
少女は深く、深く考え込む
だが、探ろうとすればするほど、頭の中の記憶の引き出しは空っぽで、目の前の景色が、まるで遠ざかるようにスッと引いていく
「……私、は……誰……?」
ぽつりと唇から零れ落ちた言葉は、カズマとめぐみんたちの見苦しい喧嘩の音にかき消されそうになるほど小さく、儚く、そしてあまりにも空虚だった
「………え?」
ダクネスの表情から柔らかな笑みがすっと消え失せ、周囲で繰り広げられていた大騒ぎの喧騒が、まるで奇跡でも起きたかのように一瞬で静まり返ったのだった
たまにはギャグを多めにした物を書きたくなったので……良かったら読んで感想を貰えると嬉しいです!
続きはゆっくりととうこうしていきます