剣で杖に勝てるわけないだろ!(マジ)(当たり前)(いい加減にしろ)   作:愛してるゲームしようぜ!

1 / 2
ひ、評価ください 


あるーひ もりのなか 

 

「剣が杖に勝てるわけないだろ」

 それは、俺の父であるゲイル・ヴェルナーが、六年務めの前夜に台所のテーブルで放った一言だった。

 怒鳴り声ではない。

 いつもの低くて平坦な声だ。

 ただ、いつもよりほんの少しだけ箸の進みが遅くなっていた。

「分かってるよ」

「分かっていないだろう」

「分かってるって。杖のほうが強いし、速いし、遠くから撃てる」

「そこまで分かっていて、なぜ持っていかない」

「いや、持ってはいくよ。荷物の底に」

「底」

「底」

 父は、静かに箸を置いた。

 それから、深く、長く息を吐いた。

 その顔には、はっきりと『頭が痛い』と書いてあった。

 俺はカイル・ヴェルナー。

 明日、十四歳の務めに出る。

 ■

 ここで少しだけ、この国の話をしておきたい。

 この国の名はマドリア。

 というか、この世界にはマドリアしか存在しない。

 六十年前の『統一戦争』で、世界中の国が全てマドリアに併合されたからだ。

 教科書では一年生の最初に習う。

 戦う相手が人間の中からいなくなったので、それ以降国の知恵と金は全部まとめて魔法の研究に注ぎ込まれた。

 その結果が、今のこの国である。

 朝は、魔力式の目覚まし灯で起きる。

 蛇口を捻れば、魔石で温めた湯が出る。

 洗濯物は、風の魔法陣を刻んだ籠に突っ込めば乾く。

 町を走る乗合馬車は、馬ではなく浮遊石で浮いている。

 便利すぎて、むしろちょっと怖い。

 そんな国だから、昔の戦争で使われていた武器は、もう誰も使わない。

 槍も、弓も、斧も、そして剣も。

 みんな、博物館のガラスの向こうに行った。

 あるいは物置の奥に。

 あるいは台所に。

「剣って、つまりすごく長い包丁でしょ?」

 というのが、今のこの国の常識である。

 なので、俺が腰に剣を差して外を歩くと、大体の人は「あら、大きな包丁ね」という顔をする。

 違う。

 いや、確かに肉も野菜も切れる。

 切れるけど、違う。

話を戻そう。

 そんな魔法まみれのこの国には一つだけ、やたらと古風な慣習がある。

 六年務め。

 十四歳になる年の春、国中の子供は全員務め所に呼び出される。

 そこから六年間、冒険に駆り出されるのだ。

 森へ。海へ。洞窟へ。ダンジョンへ。

 魔物を倒し、素材を集め、生きて帰る。

 それだけの、極めてシンプルな制度。

 ただし、生きて帰れるのは大体半分である。

 ……シンプルなだけで、全く優しくない。

 ■

 台所のテーブルの向かいで、父が眉間を揉んでいた。

「……カイル」

「うん」

「お前の魔力は、平均程度だ」

「知ってる」

「水と風の適性があって、どちらもそこそこだ」

「知ってる」

「杖を持てば、並の務め人としてはやっていける」

「知ってる」

「なら、なぜ」

「だって、剣のほうが好きだから」

「…………」

 父がまた黙った。

 この人は、元々口数の少ない人だ。

 大工の棟梁で、腕っぷしは村で一番。

 そして、務めを生き延びた一人前の大人でもある。

 そんな父がこういう顔をする時は、大体怒っているのではなく、困っている。

「理由には、なってないな」

「うん。でもそれしか理由がないんだ」

 これは本当だった。

 俺は、剣のこと以外はごくごく普通の人間だと思う。

 朝は弱いし、嫌いな食べ物は人参だし、今日の夕飯の煮込みの味付けにも、ちょっと自信がない。

 でも、剣のことだけは、どうしても譲れない。

 その理由を、自分でも上手く説明できないのだから、父に伝わるはずもない。

「……最初に、あれを見つけたのはいつだったか」

「七歳」

「そうか、もう七年か」

「うん」

 父は窓の外を見た。

 夕暮れの空が、薄く朱に染まっている。

 ■

 七歳の夏だった。

 俺はその日、台所で芋を魔法で茹でようとして鍋を丸ごと焦がし、父にこっぴどく叱られた。

 それで、家の裏の物置に逃げ込んだのだ。

 物置は、暗くて、埃っぽかった。

 積まれた木箱の隙間から、細い光が差している。

 その光の先にそれは立てかけてあった。

 布に包まれた長い何か。

 近づいて、布をめくった。

 鞘に収まった一本の剣だった。

 ……いや、七歳の俺に、それが『剣』だなんて分かるはずがない。

 ただ、長いと思った。

 包丁にしては長すぎる、と。

 両手で柄を握って、引いた。

 シャリン、と。

 小さく澄んだ音がした。

 刃が、光を拾った。

 それだけだった。

 本当に、たったそれだけ。

 でも、その瞬間俺は思ったのだ。

 あ、これだ、と。

 何が『これ』なのかは、今でも上手く説明できない。

 ただ、自分の中の何かがぴたっとはまった。

 鍵穴に、鍵が入ったみたいに。

「……何を、している」

 背後から低い声がした。

 振り向けば、父が立っていた。

 叱りに来たはずの顔が、俺の手の中の剣を見て固まっている。

「それは、玩具じゃない」

「……ごめんなさい」

「怒っていない」

 父は、俺の手から剣をそっと取り上げた。

 そして、布で包み直した。

 その手つきが、驚くほど丁寧だったのを覚えている。

「父さん、それ、なに」

「剣だ」

「けん」

「俺が生まれる前からこの家にあった。誰のものかは分からん」

「……なんで物置に?」

「使い道がなくなったからだ」

 それ以上のことを、父は話さなかった。

 ただ、物置の外に出る時に、ぽつりと言った。

「……持ちたいなら、持て」

「いいの?」

「ただし、手入れは毎日やれ。一日でも怠ったらそいつは錆びる」

「さびる」

「錆びたら二度と元には戻らん。いいな」

 それから七年、毎日欠かさず手入れをしている。

 朝起きたら、まず布で刃を拭く。

 夜寝る前に、もう一度拭く。

 雨の日は油を引く。

 それから素振りだ。

 最初は薪を割るところから始めた。

 次に、藁束を斬った。

 やがて、野菜を斬るようになり、肉を斬るようになり、気付いたら台所の包丁の出番がなくなっていた。

 ……まぁ、その辺の事情は父には黙っている。

 多分、バレているけど。

 ■

 その夜。

 俺は旅の荷物を土間に広げていた。

 着替え。毛布。携行食。

 小さな鍋と、塩の包みと、火打ち石。

 務め所から届いた、召集の木札。

 父が、台所から何かを持ってきた。

 布に包まれた小さな瓶。

「香草だ」

「え?」

「干して、砕いてある。肉に使え」

「……ありがとう」

「あと、これも」

 もう一つ、布包みが差し出される。

 中には、使い込まれた小さな木の匙が入っていた。

「俺が、務めの頃に使っていたやつだ」

「え、これ」

「……飯を作る時に、使え」

 父は、それだけ言ってそっぽを向いた。

 耳の先が、ほんの少し赤い。

 ……なるほど。

 これは、アレだ。

 不器用な父さんの、精一杯の餞別だ。

「父さん」

「なんだ」

「務めの間、飯ってどうしてた?」

「…………」

 父は、しばらく黙ってそれから静かに言った。

「飯が、食えなくなった奴から死んだ」

「…………」

「魔物に殺された奴より、飢えて動けなくなって死んだ奴のほうが、よっぽど多かった」

「……そう、なんだ」

「だからお前は、どんなに疲れても、どんなに怖くても、まず飯を作れ」

「うん」

「食って寝ろ。それが一番大事だ」

 重い。

 重いけど、きっと真理だ。

 俺は、木の匙を荷物の一番上に入れた。

 父は、剣の方をちらりと見た。

「……カイル」

「うん」

「剣は、杖に勝てん」

「分かってる」

「だが、お前が勝てないとは言っていない」

「…………え?」

 聞き返したが、父はもう、背を向けていた。

 その背中が、いつもより少しだけ小さく見えた。

「六年後に、帰ってこい」

「うん」

「飯は、作って待っている」

「…………うん」

 ■

 翌朝。

 村の外れの停留所に、務め専用の浮遊馬車が来た。

 乗る人間は、俺ひとりだ。

 務めの出発日は、誕生日の翌日と決められている。

 だから、同い年の子供たちは、それぞれ別の日に別々に出ていく。

 寂しいような、気楽なような、そんな出発だった。

「じゃあ、行ってくる」

「ああ」

「ちゃんと、食べるから」

「ああ」

「手入れも、毎日する」

「ああ」

「…………」

「…………」

 会話が、続かない。

 まぁ、父さんとは昔からこうだ。

 俺は馬車に乗り込んだ。

 扉が閉まり、ふわりと地面から体が浮き上がる。

 窓の外で、父は立ったまま動かなかった。

 手も、振らなかった。

 ただ、じっとこちらを見ていた。

 ……やがて、その姿が小さく見えなくなる。

「…………」

 なんだか、急に一人になった気がした。

 物理的な問題でなく、心の問題だ。

 ■

 務め所は、ラスタという町にあった。

 人口三万。

 六年務めの出発点であり、帰還点でもある。

 その中心に聳える、白い石造りの建物が務め所だ。

 役所と、ギルドと、病院と、墓地が全部くっついたような、すごく縁起の悪い建築物である。

 正面の扉をくぐると、だだっ広いホールが広がっていた。

 天井が高い。

 床が磨かれている。

 そして、誰もいない。

 ……いや、本当に誰もいない。

 出発日が人によってバラバラだからだろう。

 数百人が入れそうなホールに、俺ひとり。

 足音がやたらと反響する。

「…………すいませーん」

 返事はない。

 かわりに、ホールの中央にある背の高い石柱がぼんやりと光った。

『いらっしゃいませ。務め受付盤です』

 声がした。

 石柱の表面に、文字のような光の筋が走っている。

 どうやら魔法式の自動受付らしい。

「あ、どうも。カイル・ヴェルナーです。召集の木札を──」

『木札を右の窪みにお置きください』

 言われた通りに置く。

 木札が、淡く光った。

『確認しました。カイル・ヴェルナー様、十四歳男性。ご出身はミルト村。間違いありませんか』

「はい」

『ありがとうございます。続いて、得意属性の測定を行います。杖を左の窪みにお置きください』

「……杖」

『杖です』

「あー……」

 荷物をごそごそと探る。

 底のほうから、父が買ってくれた杖を引っ張り出した。

 ……うん、新品だ。

 全然使っていない。

『確認しました。魔力測定を開始します』

 杖が、ぼうっと光る。

『水属性、中。風属性、中。その他、微小。総合評価、標準です』

「まぁ、そうでしょうね」

『おめでとうございます。標準的な務め人として、十分な資質です』

「ありがとうございます」

『それでは、装備の登録に移ります。ご携行の武器・調理器具・その他の道具を全てお見せください』

 来たな。

 俺は、腰から、剣を、鞘ごと外した。

 そして、石柱の前に、そっと掲げた。

『…………』

 石柱の光が、ちかちかと瞬く。

『…………識別中』

「はい」

『…………識別中』

「はい」

『…………該当、なし』

「なし、ですか」

『登録区分を、検索します』

 数秒の、沈黙。

『候補一。調理器具(大型)』

「違います」

『候補二。骨董品』

「違います」

『候補三。工具』

「違います」

『候補四。旧式戦闘具』

「それです!」

『確認します。旧式戦闘具に分類してよろしいですか』

「はい!」

『登録しました。なお、旧式戦闘具は現行の務め基準において推奨装備ではありません』

「知ってます」

『死亡率が、杖使用者の一・八倍に達するという統計があります』

「……そうですか」

『ご注意ください』

「ご親切に、どうも……」

 機械にまで心配されるとは。

 俺は、ちょっとだけ遠い目をした。

『以上で登録は完了です。カイル・ヴェルナー様。最初の任務をお伝えします』

「はい」

『ラスタ近郊の森にて、角兎を一体討伐してください。討伐の証として、額の角を持ち帰ること。期限は三日以内です』

「角兎、ですか」

『はい、新人の定番の獲物です。杖で遠くから撃てば、まず負けません』

「……杖なら、ね」

『はい。杖なら』

 念を押された。

 俺は、剣を腰に戻して務め所を出た。

 ■

 森は、ラスタの北にあった。

 昼の光が、木々の葉の隙間から斑に差している。

 空気がしっとりと湿っていて、土の匂いがした。

 俺は、腰の剣の柄に手を添えながら、慎重に進んでいた。

 ──怖い。

 正直に言う。

 めちゃくちゃ怖い。

 十四歳だ。

 つい最近まで、村の学校で算術のテストに頭を抱えていた子供だ。

 それが今、一人で魔物のいる森を歩いている。

「……大丈夫、大丈夫」

 小声で自分に言い聞かせる。

 十年近く毎日素振りをしてきた。

 体は覚えている。

 しばらく歩いた、その時だった。

 ガサッ。

 十歩ほど先の茂みが、揺れた。

 足が止まる。

 息を、殺す。

 茂みの隙間から、茶色い毛玉がのそりと現れた。

 犬ほどの大きさ。

 額には、小さな、しかし鋭い角。

 赤い目が、まっすぐに俺を見ていた。

 角兎だ。

「…………」

 向こうは動かない。

 俺も動かない。

 風が、木々を揺らす音だけが聞こえる。

 鞘から、剣を抜いた。

 シャリン、と。

 あの夏の物置と同じ音がした。

 その音で、少しだけ気持ちが落ち着いた。

「……よし」

 角兎の鼻が、ひくひくと動いた。

 次の瞬間。

 地面を蹴る音がした。

 速い。

 思っていたよりずっと。

 角が、俺の腹を狙って一直線に突っ込んでくる。

 ──避けろ。

 頭では、そう思った。

 でも、足が動かない。

 竦んでいる。

 完全に、固まっている。

 ……あ、これ、死ぬ。

 そう思った瞬間。

 手が、勝手に動いた。

 ほとんど反射だった。

 半歩右へ。

 剣を下から振り上げる。

 ──ザッ。

 軽い手応え。

 視界の端を、茶色い塊が横切った。

 その後ろで、ごろんと何かが転がる。

 恐る恐る、振り返った。

 角兎が地面に倒れていた。

 首が、離れている。

「…………」

 俺は、しばらく突っ立っていた。

 剣は未だ握られたまま。

 頭が真っ白だった。

 やがて、膝ががくがくと震え始める。

「…………うわ」

 その場にへたり込んだ。

「うわ、うわ、うわ……」

 情けない声が口から漏れる。

 手が、小刻みに震えている。

 額から冷たい汗がぼたぼた落ちる。

 倒した。

 倒した、のだ。

 ……いや、ちょっと待て。

 今のは、運が良かっただけでは?

 兎がたまたままっすぐ突っ込んできて。

 たまたま俺の剣がその軌道に入って。

 たまたま体が勝手に動いて。

 偶然が三つ重なっただけでは?

「……杖なら、もっと簡単だったんだろうなぁ」

 つい、そんな独り言が出た。

 杖なら、遠くから一発。

 震えることもなく、汗をかくこともなく。

 確かに、剣は杖に勝てない。

 父の言う通りだ。

 でも、

 倒れた角兎を見る。

 その額の角が、光を反射してきらりと光った。

 ……まぁ、倒せたことには変わりない。

「よし」

 俺は、深呼吸を一つした。

 それから立ち上がった。

 膝はまだ少し震えていたが、少しずつ元気が戻ってきた

「任務達成、か」

 角を剣の切っ先で慎重に切り取り、袋に入れる。

 残った兎の体はどうしようと考えた。

 ふと、父の言葉が頭をよぎった。

 ──飯が食えなくなった奴から死んだ。

「…………」

 そうか。

 俺は、にやりと笑った。

「今夜の飯は決まりだな」

 ■

 日が傾き始めた頃。

 俺は、森の外れの小さな空き地に野営地を構えていた。

 近くには細い小川が流れている。

 水の確保ができる。

 父が昔教えてくれた、野営の鉄則の一つだ。

 まず、小川で兎の血抜きをして、皮を剥ぐ。

 これが思っていたより大変だった。

 指が滑る。

 皮がなかなか剥がれない。

 そもそも、内臓の処理が予想の十倍くらい生々しい。

「うぇ…………」

 顔をしかめながら、なんとか肉の塊にした。

 それから、拾い集めた枯れ枝に、火打ち石で火をつける。

 火は魔法で起こせるのだが、魔力は温存しておきたい。

 何が起こるか分からないし

 ぱち、ぱち、と、小さな火が枝を舐め始めた。

 鍋に水を張る。

 荷物から、芋と玉ねぎを取り出した。

 それから。

「…………」

 腰の剣を見る。

 台所の包丁は持ってきていない。

 つまり、この旅で食材を切れる刃物はこれしかない。

「……すまん」

 誰にともなく、謝った。

 それから、平たい石の上に玉ねぎを置く。

 剣を抜いて、構えた。

 シュッ。

 ──スパッ。

 玉ねぎが、驚くほど薄く、綺麗にスライスされた。

 刃が長いので、一息で、根元から先までためらいなく通る。

 断面が、鏡みたいにつるつるだった。

「…………すっげ」

 思わず、感嘆の声が出る。

 これ、台所の包丁よりよっぽど切れるのでは?

 ……いや、まぁ当たり前か。

 こっちは毎日手入れをしているのだから。

 調子に乗って、芋も、肉も、次々と切っていく。

 鍋に放り込む。

 父にもらった香草をぱらりと振る。

 塩をひとつまみ。

 弱火でじっくり煮込む。

 やがて、鍋からいい匂いが立ち上り始めた。

 ……これは期待できる。

 木の匙で味見をした。

 父から貰ったあの匙だ。

「…………」

 口の中に、温かいスープが広がる。

 肉は柔らかく。

 野菜はほんのり甘く。

 香草の風味が鼻に抜ける。

 ……あ。

 これ、父さんが昔作ってくれた味に、似ている。

「……旨い」

 ぽつりと、声が漏れた。

 誰も聞いていない。

 けれど、言わずにはいられなかった。

 器によそって、ゆっくりと食べた。

 一口一口、噛みしめるように。

 体の芯が、じんわりと温まっていく。

 震えていた手が、いつの間にか止まっていた。

 ──ああ、そうか。

 父の言った通りだ。

 飯が食えれば、生きていける。

 怖くても、疲れても、飯さえ食えば、明日がある。

 食べ終わって、器を小川で洗い、剣の手入れをした。

 布で刃を丁寧に拭う。

 今日、初めて生き物を斬った刃。

 その上を、布がゆっくりと滑っていく。

 ……まだ、手は少しだけ震えていた。

 それでも、剣は昨日と変わらず静かに光を返している。

「……今日はありがとな」

 つい、そんな言葉が口をついた。

 剣に話しかける十四歳。

 我ながらちょっと危ない。

 けれど、誰も見ていないので構わないことにした。

 手入れを終えて、剣を鞘に収める。

 焚き火の火が、ぱちぱちと弾けた。

 夜の森は、静かで、冷たくて、暗い。

 梢の隙間から、星がいくつも見えた。

 六年。

 二千と百九十日。

 その最初の一日目が終わろうとしている。

「……長いなぁ」

 毛布にくるまって、空を見上げながら呟く。

 一人で過ごす夜は、思っていたよりずっと広かった。

 その時だった。

 ふと、視界の端で何かが光った。

「ん?」

 体を起こす。

 目を凝らす。

 谷を挟んだ、遥か向こうの、森の奥。

 小さな橙色の光が、ぽつんと灯っていた。

 ──焚き火、だ。

 間違いない。

 誰かがあそこで、火を焚いている。

 俺と同じ務めの人間だろうか。

 それとも別の何かだろうか。

 見えるのは、豆粒みたいな小さな光だけ。

 それなのに。

 その光を見ていると、胸の奥が少しだけ温かくなった。

「…………」

 世界に、自分以外の人間がいる。

 そんな当たり前のことが、今夜はやけに嬉しかった。

「……よし」

 俺は毛布に潜り込んだ。

 明日も飯を作って剣を拭いて歩こう。

 あの光のことは、また、明日、考えればいい。

 目を閉じる。

 焚き火の爆ぜる音を子守唄代わりに。

 ──こうして、俺の六年務めの最初の夜は更けていった。




評価くれ
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。