何故だかは分からないが、私は"月見ヤチヨ"に惹かれていた。
その現実離れした声でもって、世界を魅了するから。幻想的な姿を翻し、キラキラ輝いているから。この世のものとは思えない、異世界の様な演出を見たから。長いまつ毛と藤色の瞳が、吸い込まれそうに綺麗だからか。
そのどれもが正解だった。その全てが私を魅了していた。
けど、けれど。
私が彼女を好きになるきっかけは、確かに"Remember"だった。
指先が白鍵に触れる。少しひんやりとした硬質感がほのかに伝わってくる。息をいつもよりも深く吸う。胸いっぱいに吸って、少しだけ目を閉じて、ゆっくり吐き出した。
白鍵を静かに押す。何にも飾られない、低くも高くもならない自然な音が、私の中から緩やかに流れ出す。内から外へ、外から世界へと飛び出していく。
白鍵から黒鍵へ。自然音を装飾し、1つの音とする。音は集まって1つの音楽となり、遠く、広く響いていく。広がって、拡がって、線になって1つの輪になっていく、そんな感覚がする。
私が音楽を辞められなかった理由が、ここにはあった。
自分の中の好きとか、嫌いとかの感情とか、私はこう思うっていう感性とか。どうしても伝えたい事とか、ああなりたい、なって欲しいと言う願いとか。そんな、祈りみたいなものを表現できる。言葉にはし辛い事を、伝えることができる。
踊るように弾く。主旋律を、副旋律を、伴奏を両手で奏でる。減衰し、反響する。また音が鳴って、消滅へと向かっていく。
けど、それは明日への道標だった。星が確かに巡るように、音楽もまた廻っていく。
───大切なメロディは流れてるよ。
私に響いている鼓動が聞こえる。トクン、トクンという、星の瞬きのような鼓動が、途絶えず溢れている。私の心に、流れている。
言葉が口から盛れる。"月見ヤチヨ"というライバー言葉が、私にスっと入ってきて、浸透して私の言葉としてもまた出ていく。
熱が入る。指が流れる。感情が入り込む。弾いて、弾いて、奏でて、演奏して。言葉を紡いで。"Remember"はエンディングを迎える。
☆
最後の音は儚く散っていった。それと同時に、自分が現実に帰ってきたような気がした。
熱を孕んだ息を吐く。私はよく、演奏に入り込むとこうなってしまうのだった。
椅子から立ち上がって、真実、芦花に向き直る。あの小さな頃のコンクール以来の人前での演奏。2人からの言葉を、少しばかり期待しながら私は見る。
2人は、惚けていた。
口を半開きにして、唖然とした表情だった。何かに撃ち抜かれてしまったような。全身にガツンと衝撃を受けたような。そんな感じ。
というか、2人以外の人も物音1つ立てていない。カフェの料理をする音も、ホールのスタッフがドリンクを用意している音も。私達以外のまばらなお客さん達も、皆。
一体、どうしたんだろう。つい熱も入っちゃったし、少し歌っちゃったりもしたから、そのせいだろうか。
「え、えっと。……ありがとうございました?」
演奏終わりには、挨拶をする。礼儀正しく、模範的行動だった。
ただ、その言葉は彼女達の硬直を解く鍵となったようで。
「い、彩葉~~っ!!」
「すっごい! すっっごい! 凄かったよ!!」
私に駆け寄ってくる芦花と真実。その勢いに気圧され、少しだけ身体を逸らしてしまう。
「演奏マジやばかった!」
「良すぎちゃってた!」
『めっちゃ感動した~!!』
周りを置いていくようにテンションが上がっている2人。振り切って、上がりきっているのか、私の手を握りぶんぶんと上下に降ってくる。
2人の瞳が、キラキラと輝いているのが分かる。手に伝わる熱が、心地よい熱として私に伝わってきていた。直接的な感動を伝えられるのは、こんなにも穏やかな気持ちになれるものなのかと。改めてそう感じた。
タジタジになりながらも、素直に「ありがとう」と感謝を伝える。自らの興奮を抑えようと静かにする私と対象的に、2人は興奮冷めやらぬ様子で、今の演奏の感想を言い合って、私を褒めてくる。
ふと、他のお客さんやスタッフの声も聞こえてくる。ちょっとだけ気になって、少しだけ。ほんの少しだけ、耳を傾けてみる。
「ねぇ、今のヤチヨの"Remember"だよね?」
「凄かったよね! なんかこう、胸がじーんとしちゃった!」
「ちょっと歌ってたけど、歌も上手くなかった?」
若干のざわめきと共に、そんな声が聞こえる。このお店の中で、若干の話題を掻っ攫うような、そんな結果になっているようだった。
親友2人からの絶賛の声と、周りからの称賛の声。伸びないはずの鼻が、伸びていくような気がする。自己肯定感がグングンと上がっていく気がした。
照れ隠しに頭を掻きながら、皆とソファへと戻る。座っても話は止まらず、何の曲弾けるだとか、今度作曲したの聞いてみたいだとか。今度みんなでカラオケ行こうとか、そんな話をした。
温かった珈琲がもっと冷めてしまうまで、3人のおしゃべりは続いていく。
結局あの後1時間も話通していた。
夕暮れで紅い日が差していた筈だったが、既に夜の帳が降り始めている。流石にもう帰る時間だ。
「お会計お願いします」
「はーい。少々お待ちくださーい」
レジでお会計を待つ。私は払う気満々だったが、2人による『友達記念日だから! あと、演奏感動代!』ということで奢りになった。ありがとう、2人とも……。
真実が代表して、ふじゅ~payで支払う。FUSHIの声で、「ふじゅ~!」という声が上がると共に、決済が完了する。
……ふと、レジの奥に張り紙があるのを見つけた。誰かが手書きで書いたのか、非常に可愛らしいPOPで"バイト募集中!"と書かれている。
……へぇ。お給料も良さそうだし、賄いもあると。深夜帯までは業務もない。しかも、バイトに入れるだけ入れる人募集とも端っこに書いてある……。
「ね、彩葉。ここいいんじゃない?」
「そうだよ~。賄いあるの凄くいいと思うよ?」
お会計が終わって、お店の外に出る。少しだけひんやりとした空気感、該当に照らされながら、芦花と真実が言う。
私も凄くありだと思う。賄いで食費も浮くだろうし、バイトに沢山入れるなら学費も生活費も稼ぎやすくなるし。私が求める条件に非常に見合っている。
後は……その。あのピアノを、たまにでいいから、弾かせて欲しい。そんな思いも、多少、結構、ちょっとだけ、そこそこあった。
「……私も、かなりいいと思った。ちょっと話聞いてみようかな……?」
そう言って、再びお店のドアに手をかける。脳裏にピアノの事がチラつきつつも、私は店員さんに声をかけた。