TCG未経験の36歳無職、TCG能力《因果祭典》で異能バトル世界を駆け抜ける   作:パラレル・ゲーマー

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第1話 36歳無職、目覚めた能力がカードゲームらしい

 秋の冷気が、薄手のカーテンの隙間からそっと忍び込んでくる十月初旬の朝。

 午前八時四十分。三浦和真(みうらかずま)、三十六歳は、アラームの電子音に急かされることなく、深い微睡みからゆっくりと意識を浮上させた。

 

 目を覚まして真っ先に感じたのは、一種の違和感だった。

 大学を卒業して中堅の専門商社に就職して以来、十四年あまり。平日の朝というのは「戦場へ向かうための準備期間」でしかなかった。胃に流し込む熱いコーヒー、窮屈なネクタイの結び目、満員電車の息苦しい熱気。それらが一切存在しない朝の静寂に、和真の身体はまだ適応しきれていない。

 枕元のスマートフォンを手探りで引き寄せる。画面が放つ青白い光が、見慣れた日付と時刻を告げている。間違いなく平日の、世間の歯車が最も激しく回転している時間帯だ。

 

 会社員だった頃なら、とっくに家を出て駅のホームに並んでいる時間。

 その事実を脳内で反芻し、和真は口角が自然と緩むのを感じた。

 

「……素晴らしいな、無職」

 

 無意識に漏れた独り言は、驚くほど晴れやかな響きを持っていた。

 数日前、長年勤めた会社を希望退職という形で去った。業績悪化に伴う人員整理の波に乗った形だが、和真自身に未練はなかった。割増しされた退職金と、これまでの貯金。贅沢をしなければ、数年は遊んで暮らせるだけの蓄えはある。再就職のことは、少なくとも半年は頭の片隅に追いやるつもりだった。

 

 もう一度目を閉じてもいい。昼過ぎまでベッドの中で海外ドラマを消化するのもいい。誰にも予定を縛られないという事実が、極上の快感となって全身を満たしていく。

 

「よし、とりあえず起きてコーヒーでも淹れるか」

 

 体を起こそうと、和真がぼんやりと天井へ視線を向けた、その時だった。

 視界の中央に、見慣れない『何か』が浮かんでいることに気がついた。

 

『貴方は《因果祭典》を入手しました。』

『DECK 23』

『HAND 7/7』

『MANA 1/1』

 

「……ん?」

 

 寝ぼけているのだろうか。

 和真は一度きつく目を閉じ、もう一度見開いた。

 しかし、白みを帯びた半透明の文字は消えない。フォントは無機質なゴシック体。ゲームのユーザーインターフェースや、最新のARグラス越しの視界によく似ていた。

 

 数秒ほどすると、中央に表示されていた《因果祭典》の取得通知だけが消え、残った三つの項目が滑るように視界の右上へ移動した。

 

「なんだ、これ」

 

 声に出しても、文字は消えない。

 首を左右に振ってみる。表示は現実空間の一点に残るのではなく、和真の視界そのものへ追従し、常に右上の同じ位置へ収まっていた。

 手で目をこする。変化なし。

 両手で顔を覆い、完全に光を遮断してみる。

 

「……嘘だろ」

 

 真っ暗な視界の中にも、その文字だけがくっきりと発光するように残っていた。網膜に焼き付いている残像というわけでもない。文字の輪郭は鋭く、明滅すらしていない。

 

 最初に和真の胸をよぎったのは、SFやファンタジーの主人公になったような高揚感では決してなかった。

 圧倒的な『不安』と『恐怖』である。

 三十六歳、独身。健康診断では血圧で何度か再検査になったくらいで、大病の経験はない。しかし、日々のストレスや過労が蓄積し、ある日突然脳の血管が詰まったり、神経に異常が出たりするという話は、同年代の飲み会で幾度となく耳にしてきた。

 

(昨日、そんなに飲んだか? いや、缶ビール一本だけだ。変な薬なんてやってないし、持病もない。じゃあ、なんだ? 脳の血管が破れたとか? 視神経の異常か?)

 

 ズキズキとした頭痛はない。手足の痺れもない。吐き気もない。

 ただ、視界に存在しないはずのステータス画面のようなものが表示されているだけだ。

 

 和真はベッドから跳ね起きると、スマホのカメラを起動した。

 部屋の空間に向け、文字が浮かんでいるあたりを画面越しに覗き込む。当然ながら、スマホの画面には見慣れた自室の白い壁紙が映るだけで、謎の文字群は一切認識されていなかった。画面のスクリーンショットを撮ってみたが、無意味だった。

 

 次に、洗面所へ向かい鏡を覗き込んだ。

 充血しているわけでも、瞳孔が異常に開いているわけでもない。ごく普通の、少し疲れたような三十代の男の顔があるだけだ。

 右目を手で覆う。文字は見える。

 左目を覆う。やはり見える。

 

「眼球自体の問題じゃない……のか?」

 

 心臓の鼓動が不快なほど早くなるのを感じながら、和真はスマホのブラウザを開いた。

 検索窓に震える指で入力する。

『視界 文字 見える』

『存在しない文字が見える』

『目を閉じても 文字』

『幻視 病気』

 

 検索結果には、統合失調症、レビー小体型認知症、脳腫瘍、てんかん、極度の睡眠不足による複合的な幻覚など、背筋が寒くなるような医療記事がずらりと並んだ。

 どれも今の和真にはピンとこないが、決してあり得ない話ではない。

 

「勘弁してくれよ。やっと自由になった途端に、脳の病気発症とか笑えないぞ……」

 

 ため息をつきながら、和真は再び視界の右上にある文字列へ意識を向けた。

 

『DECK 23』

『HAND 7/7』

『MANA 1/1』

 

 見慣れない単語ではない。

『デッキ』。テレビのCMや、コンビニのお菓子売り場で売られているカードゲームの束のことをそう呼ぶのは知っている。

『マナ』。ファンタジー映画やRPGで、魔法を使うためのエネルギーみたいなものだという認識はある。

 

「けど、『ハンド』って何だよ。手か?」

 

 全く意味がわからない。和真は学生時代から部活のサッカーや車に興味が向き、カードゲームやボードゲームの類には一切触れてこなかった。

 試しに、その『HAND 7/7』という文字に対して、強く意識を向けてみた。

 見つめる、というよりは、頭の中でその項目を「開く」ようなイメージ。

 

 すると、視界のUIが微かに明滅した。

 直後。

 

「うおっ!?」

 

 和真は思わず叫び声を上げ、後ずさった。

 左手。何も握っていなかったはずの左手の中に、突如として『束』が現れたのだ。

 反射的に振り払おうとしたが、その物体は和真の手にしっかりと収まっていた。

 

 それは、七枚のカードだった。

 

 厚手の紙のような、しかしどこかプラスチックにも似た硬質な手触り。一般的な名刺より一回り大きく、裏面には複雑な幾何学模様と、月と剣をモチーフにしたような豪奢な紋章が描かれている。

 

 和真は息を呑み、洗面所の明かりの下でそのカードを凝視した。

 幻ではない。

 指先には確かな重みと厚みを感じる。カード同士が擦れ合う微かな摩擦音も聞こえる。洗面台の上に手をかざせば、カードの形をした影がしっかりと落ちた。

 

「……なんだこれ。手品か?」

 

 スマホを取り出し、左手に握られたカードを撮影してみる。

 今度は、画面の中にしっかりと七枚のカードが映り込んでいた。

 視界に浮かぶ文字はカメラには映らないが、このカードは物理的な実体としてこの世界に存在している。

 

「……病気で、こんな物が出るか?」

 

 少なくとも、単純な幻視や眼病だけでは説明がつかない。

 どんな重篤な精神疾患であろうと、虚空から物理的な物体を生成し、それをスマホのカメラへ映すことはできない。

 

 恐る恐る、和真は一番手前にあるカードの表面を見た。

 枠の装飾は金と白を基調としており、中央には緻密なイラストが描かれている。

 

『《天輪騎士(てんりんきし)-初陣のレオ》』

 

 イラストには、まだあどけなさの残る少年の騎士が、身の丈に合わない大きな盾と剣を構えている姿が描かれていた。

 左上には、青い水晶のようなアイコンと共に『1』という数字。

 中央下部には『Type:Summon』。

 そして一番下には、細かい文字でこう書かれている。

 

『《天輪騎士-初陣のレオ》を召喚する。

 召喚体は使用者の指示に従う。

 最大存在時間:60分。』

 

「……召喚?」

 

 意味は分かる。だが、現実感が全く追いつかない。

 和真は残りの六枚も確認した。

 

《天輪の標章》 左上の数字:0

《天輪の護壁》 左上の数字:1

《天輪の手当》 左上の数字:1

《天輪騎士-城壁のガルド》 左上の数字:2

《天輪の拘束鎖》 左上の数字:3

《天輪総騎-アルシオン》 左上の数字:6

 

 アルシオンというカードのイラストには、白馬に跨り、輝く槍を掲げる壮年の騎士が描かれていた。素人目に見ても、強烈な威圧感を放っている。

 和真は、それぞれのカードの左上にある数字と、視界のUIを見比べた。

 

『MANA 1/1』

 

 アルシオンの左上には『6』。

 ガルドは『2』。

 拘束鎖は『3』。

 

「……使えないだろ、これ」

 

 左上の数字と『MANA』の数字が関係していることくらいは、カードゲームを知らない和真でも察することができた。

 今の表示が『1』である以上、少なくとも数字が2や3、まして6のカードを今すぐ使えるとは思えない。

 

「じゃあ、この『1』か『0』のやつなら……」

 

 和真は《天輪騎士-初陣のレオ》のカードを指で弾いた。

 使ってみれば、何かが起こるかもしれない。この現象の正体が掴めるかもしれない。

 

 だが、和真は三十六歳の分別ある大人だ。

 得体の知れない現象に直面して、「面白そうだから使ってみよう」などと軽挙妄動に走るほど愚かではない。

 

「召喚って何をだよ。部屋の中で騎士が出てきて暴れでもしたら、賃貸の敷金が全額吹っ飛ぶどころの話じゃないぞ。下手すりゃ器物破損だ」

 

 和真は小さくため息をつき、「カードを消す」と強く念じた。

 すると、七枚のカードは淡い光の粒子となって左手からフッと消失した。

 視界のUIを確認する。

 

『DECK 23』

『HAND 7/7』

 

 数字は変わっていない。つまり、カードが消滅したわけではなく、何処か見えない場所に収納されただけらしい。

 

「……とりあえず、医者だな」

 

 和真は洗面所の鏡に向かって、一人ごちた。

 少なくとも、ただの幻覚では説明できないところまで来ている。だからといって「超能力に目覚めた」と勝手に結論づけるほど、和真は楽観的でもなかった。原因が分からないなら、なおさら一度専門家に見てもらうべきだ。

 

 スマートフォンを開き、近所にある大きめの眼科クリニックを検索する。

 幸い、当日の午前中の予約枠に空きがあった。

 

「午前休の申請も、上司への嫌な根回しもいらない。……無職で良かった、のか?」

 

 複雑な心境で苦笑しながら、和真はクローゼットから当たり障りのないジャケットを引っ張り出した。

 

 午前九時四十分。

 駅前のメディカルビルに入っている『さくらアイクリニック』の待合室は、白内障の手術相談に来たらしい高齢者や、学校を休んで親に連れられてきた結膜炎らしき子供たちで混み合っていた。

 待合室に流れるオルゴール調のBGMと、消毒液の匂いが、和真の神経を妙に逆撫でする。

 

 受付で渡された問診票にペンを走らせていた和真の手が止まった。

『本日の症状について、具体的にお書きください』

 という欄。

 

 ここに「視界にDECKとかMANAという文字が浮かんでいて、念じると手からカードが出ます」などと書けば、間違いなく眼科ではなく精神科へ回される。いや、最悪の場合は救急車か警察沙汰だ。

 和真は少し悩んだ末、

『今朝から、視界の右上に文字のようなものが継続して見えている。目を閉じても消えない』

 とだけ記入して受付へ提出した。

 

 三十分ほど待たされ、名前を呼ばれた。

 診察室に入ると、五十代半ばくらいの、温和そうな男性医師がカルテのモニターを見ながら和真を迎えた。

 

「三浦さんですね。今日は……視界に文字が見える、と。飛蚊症の強いものか、あるいは光視症の可能性もありますが……いつからですか?」

「今朝、起きたら突然です」

「なるほど。その文字というのは、動きますか? それとも一箇所に固定されていますか?」

 

 和真は、視界の右上に居座る『MANA 1/1』という表示を見ながら答えた。

「視界に対して固定されています。頭を動かしても右上についてくるんです。ただ……操作はできます」

「操作?」

 医師のタイピングする手が止まった。

「ええ。こう……意識を向けると、表示が反応するというか」

 

 医師はゆっくりと椅子を回転させ、和真と正面から向き合った。

 その瞬間、医師の目つきから「町医者特有のルーチンワーク」の空気がわずかに消え、鋭い観察者のそれに変わったのを和真は見逃さなかった。

 

「……もう少し、具体的に教えていただけますか?」

 医師の声のトーンが、一段階下がった。

 

 和真は躊躇した。しかし、ここまで来て隠しても仕方がない。

「アルファベットで、デッキとか、ハンドとか、マナとか表示されていて……数字もついてます」

「……」

 医師は無言で和真の顔を見つめた。その視線は、和真が精神を病んでいるかどうかを値踏みしているようにも見えたが、どこか別の可能性を確認しているようにも感じられた。

 

「物が見えるだけですか?」

 医師の問いかけは、ひどく慎重だった。

 

 和真は周囲を見回した。診察室には医師と和真しかおらず、看護師は席を外している。

「いや……実体のあるカードも出ます」

「カード、ですか」

 

「見せた方が早いですよね」

 和真は左手に意識を集中した。

 光の粒子が集束し、七枚のカードが実体化する。和真はその中から一枚、《天輪の標章》を抜き出し、医師のデスクの上にそっと置いた。

 

 コツ、と軽い音が鳴る。

 医師は目を丸くするわけでも、悲鳴を上げるわけでもなかった。

 ただ、そのカードを数秒見つめたあと、静かに息を吐いた。

 

「……分かりました」

 医師の態度が、完全に「通常の患者への対応」から切り替わった。

 驚いていないわけではない。だが、それ以上に、研修で教えられた手順へ入った者特有の落ち着きがあった。

 

「あの、先生。これは一体……」

「三浦さん。念のため、通常とは少し違う検査をしてもよろしいですか?」

 医師は和真の問いに直接答えず、デスクの引き出しから小さな黒いケースを取り出した。

 

「目の検査ですか?」

「……広い意味では、原因を切り分けるための検査です。痛みはありません」

 

 ケースの中から出てきたのは、分厚いスマートフォンのような機械だった。中央にはガラス張りのセンサー部分がある。

 医療現場用の最新機器には見えない。どちらかと言えば、工業用の計測器に近い無骨なデザインだ。

 

「このガラス部分に、親指を当ててください。そして、先ほどのようにカードを出す……いえ、その現象を発生させてみてください」

 

 和真は言われるがままにセンサーへ指を置き、再びカードを実体化させた。

 機械が短く「ピピッ」と電子音を鳴らし、小さな液晶画面に赤い文字が表示された。

 

『CAUSAL REACTION:POSITIVE』

 

 医師はそれを確認すると、もう一度指を離させ、同じ手順を繰り返した。

 結果は同じだった。

 

「……眼球そのものの病気である可能性は、限りなくゼロに近いと思います」

 医師は機械をケースにしまい、深くうなずいた。

 

「じゃあ、脳の異常ですか? それとも神経?」

 和真の不安が再燃する。

 

「いえ。少なくとも、医学的な病変を疑う状況ではありません。三浦さんの身体は、現時点の検査では健康です」

「じゃあ何が原因なんです?」

 

 医師はカルテのモニターを消し、和真の目を真っ直ぐに見た。

「私から具体的なことを説明できる範囲には制限があります。ですが、こうした事象を専門に扱う機関があります。こちらから照会をかけてもよろしいですか? おそらく、そちらで詳しい説明が受けられるはずです」

 

 和真は完全に困惑していた。

 眼科に来たはずが、謎の検査を受けさせられ、専門機関への照会を提案されている。しかし、自分の左手からカードが出現している以上、これを「何でもない」で済ませることはできない。

 

「……分かりました。お願いします」

 

 和真が了承すると、医師は「少し待合室でお待ちください」と告げた。

 

 待合室に戻ってから、三十分も経たないうちだった。

 和真のスマートフォンが振動した。見知らぬ番号からの着信。

 電話に出ると、落ち着いた女性の声が耳に届いた。

 

『三浦和真さんでお間違いありませんね』

「はい」

『先ほど受診された医療機関から、特殊事象の発生について連絡を受けております。国の特殊事象対応窓口です。関係者の間では《八咫烏(やたがらす)》と呼ばれています』

 

「……はあ。特殊事象って何です?」

 和真は声を潜めた。待合室の隅とはいえ、あまり聞かれたくない会話だ。

 

 電話越しの女性は、わずかに間を置いてから、極めて淡々とした事務的な口調で告げた。

『直接お会いして確認する前に断言はできませんが、三浦さんに発生している現象は、病気や幻覚ではありません。《因果律改変能力》の新規発現である可能性が極めて高いと思われます』

 

「……因果律、改変? つまり……超能力ってことですか?」

 三十六歳の男が口にするには、あまりにも現実味のない単語だった。

 

『非常に平たく申し上げれば、そういうことになります』

 

 あっさりとした肯定。

 和真の世界の認識が、音を立ててひっくり返った瞬間だった。

 映画や漫画の中だけの話だと思っていた超常能力が、現実に存在する。しかも、それを把握し、対応する公的な窓口まであるという事実。

 

『詳細な説明と、能力の査定を行いたいのですが、本日のご予定はいかがでしょうか。お仕事などのご都合は?』

 

 和真は、今朝ベッドの中で感じた解放感を思い出した。

「……数日前に、会社を辞めました」

『では、本日でもお時間は取れますか?』

「ええ。暇です」

 

『承知いたしました。指定する場所へお越しください。交通費は支給されます』

 事務的なやり取りの末、和真は指定された都内の住所へと向かうことになった。

 

 午前十一時十五分。

 指定された場所は、霞が関の端にある、古びた合同庁舎のような建物だった。

 看板には『独立行政法人 環境統計センター』とある。少なくとも受付から見える範囲には、秘密機関らしい隠し扉も厳重な武装警備員もいない。受付の初老の男性に名前を告げると、ごく普通のゲストパスを渡され、二階の会議室へ案内された。

 

 パイプ椅子と長机しかない無機質な個室で待っていると、ノックの音と共に一人の女性が入ってきた。

 年齢は三十代前半くらい。黒髪をタイトにまとめ、グレーのパンツスーツを隙なく着こなしている。知的な顔立ちだが、目はどこか寝不足のように据わっていた。

 

「お待たせしました。本日から三浦さんの担当となります、高梨紗季(たかなしさき)と申します」

 名刺を差し出しながら、高梨は対面の席に座った。

 

「三浦です。あの、俺はどうなるんですか? 隔離されたり、実験体にされたり……」

 高梨は小さく息を吐き、ノートパソコンを開いた。

 

「映画の見すぎです、三浦さん。まず大前提として、能力者であること自体は違法ではありません。当方への登録手続きは必要ですが、八咫烏への就職を強制することもありませんし、明日から通常通りの生活を続けていただいて構いません」

「……本当に?」

「はい。我々の主な仕事は、能力者の登録と支援、能力の安全管理、特殊事象への対応などです。能力を使った犯罪行為は当然裁かれますが、登録済みの能力者が普通に生活している限り、必要以上に介入することはありません」

 

 和真は、肩の力が抜けるのを感じた。

「能力者になった瞬間、秘密組織の暗殺者にされるとかじゃないんですね」

「ですから、映画の見すぎです。そもそも、そんな人材運用をしていたら何人職員がいても足りません」

 

 妙に現実的な返答だった。

 それがかえって和真を安心させた。

 

「では、能力について確認させてください。三浦さん、ご自身の能力の名称や、見えている情報を教えてください」

「名前は、《因果祭典》らしいです」

 高梨が手元の端末に入力する。

 

「視界に表示されているものはありますか?」

「ええと……『デッキ二十三』、『ハンド七』、『マナ一』です」

 

 ピタッ、と。

 高梨のタイピング音が止まった。

 彼女はゆっくりと顔を上げ、和真を凝視した。その目は、先ほどまでの事務的な冷静さとは明らかに違っていた。

 

「……今、何と?」

「だから、デッキ二十三、ハンド七、マナ一です」

 

 一拍の沈黙。

 高梨の目が見開かれた。

 

「初期手札が七枚で、デッキ残数が二十三……三十枚構築!? しかもマナ制!?」

「……何です?」

 

 高梨は机に身を乗り出し、早口でまくしたて始めた。

「いや、待ってください。デッキ型能力者って本当に実在したんですか!? 内部のアーカイブには昔から噂程度の記述はあるんですよ。カードを媒介にして因果律の改変処理をデッキ・手札・コストというリソース管理へ落とし込む、極めて特異な顕現形式の能力者! 記録が古すぎてまともな一次データが残っていなくて、内部でも半ば都市伝説扱いなんですけど……」

「はあ……」

「三十枚構築、初期手札七枚、マナ制……じゃあドローは!? 捨て札の扱いは!? 同名カードの採用制限は!? 相手の行動に割り込めるカードはあります!? それからデッキ圧縮のギミックは――」

 

 和真は、完全に置いてけぼりにされていた。

 目の前のクールなスーツ姿の女性が、突然未知の言語を喋り出し、興奮のあまり身を乗り出している。

 

「…………」

「三浦さん!? 聞いてます!?」

 

「すみません。さっきから、何の話をしてるんですか?」

 高梨が、ハッとして口を閉ざした。

 

「え?」

 

「だから、俺、カードゲームなんて人生で一回もやったことないんです」

「…………一回も?」

「子供の頃も、です。スポーツしかしてこなかったので」

 

 高梨は、絶望的なものを見るような目で和真を見た。

 そして、その場に崩れ落ちるように椅子へ座り直した。

 

「あー……」

 

 深い、深い落胆の息。

 

「なるほど。TCGを知らない人だと、デッキとかハンドとか言われても、根本的な意味から分からないのか……」

「今朝からずっと、その状態で困ってるんです」

 

 高梨は額を押さえた。

 

「……とりあえず、手札を出せます?」

 和真は左手に七枚のカードを実体化させた。

 

「おお……」

 

 高梨の目が再び輝きを取り戻した。机の上に設置された小型の計測器が、淡い光を放って反応している。

 

「触っても?」

「俺に聞かれても分かりませんよ。俺も今日初めて出したんですから」

 

 高梨は慎重に指を伸ばし、和真の持つカードの端へ触れた。

 

「……触れますね。第三者にも視認できるし、カメラにも映る。少なくとも、三浦さんだけに見えているUIとは違って、このカード自体は現実側へ実体化しています」

「はあ」

「左上の数字がコスト……カード名、種別、効果テキスト。本当にTCGそのものですね」

 

 高梨はしげしげとカードを眺めている。

 

「だから、そのTCGが分からないって言ってるじゃないですか」

 

 高梨はコホンと咳払いをして姿勢を正した。

 

「失礼しました。では、最低限だけ説明します。まず、三浦さんの表示にある『デッキ二十三』は、まだ引いていないカードの残り枚数だと思われます」

「残り?」

「はい。今、手元に七枚ありますよね。二十三足す七で三十。おそらく、この能力では三十枚で一つのデッキを構築していて、その中から最初に七枚が手札へ来たんでしょう」

「なるほど。じゃあ、デッキって表示されてる二十三枚と、今持ってる七枚を合わせて三十枚なのか」

「そう考えるのが自然です。『ハンド』は、そのうち今すぐ使える状態になっているカード。つまり、今持っている七枚ですね」

「やっと数字の意味が分かりました」

「そして『マナ』はカードを使うためのコストです。今の三浦さんは1ですから、少なくともコスト1以下のカードしか使えない、と考えるのが自然ですね」

 

 和真は手札を確認した。

 

「じゃあ、この《天輪総騎-アルシオン》ってやつはコスト6なので、一生使えないってことですか?」

「普通のカードゲームなら、何らかの方法で最大マナが増える仕組みがあります。ただし、三浦さんの能力も同じ仕様かどうかは、まだ分かりません」

「結局、使って調べるしかない?」

「そういうことです」

 

 高梨は七枚のカードをもう一度見回した。

 

「ただ……これ、私が説明するより、一度ちゃんとカードゲームを遊んでみた方が早いかもしれませんね」

「カードゲームを?」

「はい。デッキとか手札とかコストとか、基本的な考え方を知っていた方が、ご自身の能力も理解しやすいと思います」

「カードショップとか行けば教えてもらえるんですかね」

「初心者対応している店なら、たぶん」

「じゃあ、帰りにでも調べてみます」

 

 まさか三十六歳になって、人生で初めてカードショップへ行くことになるとは思わなかった。

 

 その後、登録に必要な確認と簡単な測定を終えた和真は、高梨に案内されて会議室を出た。

 普通の事務室が並ぶ廊下の奥。職員証がなければ動かないエレベーターへ乗ると、高梨が地下一階よりさらに下のボタンを押した。

 

「……ちゃんと地下あるんですね」

「ありますよ」

「さっきまで普通の庁舎だったのに」

「普通に見えるようにしてますから」

 

 到着したのは、安全試験用の地下区画だった。

 壁も床も特殊な衝撃吸収材で覆われた、体育館ほどの広さがある空間だ。部屋の隅には、プロテクターを着込んだ実働部隊らしき男性が一人、無言で待機している。

 

「現在観測できている三浦さんの因果改変反応は、『Tier4』相当です」

 ガラス越しのコントロールルームから、マイクを通じて高梨の声が響く。

 

「Tier4?」

 

「覚醒済み能力者の実階位としては一番下で、同時に最も人数の多い層です。ただし、Tier4だから何でも弱いという意味ではありません。能力の内容や条件によって危険性は大きく変わります」

 

「じゃあ、俺はとりあえず普通くらい?」

 

「現時点で確認できている出力については、そう考えて構いません。ただ、能力そのものの評価は保留です。少なくとも手札の七枚だけでも、召喚、防御、治療、拘束と複数の効果が確認されていますから」

 

「で、何をすればいいんですか?」

 

「実際にカードを一枚、使ってみてください。直接的な攻撃より、指示に従うと書かれている召喚カードの方が、安全に検証できると思います」

 

 和真は手札から、《天輪騎士-初陣のレオ》を抜き出した。

 コスト1。召喚体は指示に従い、60分存在できる。

 

「これ、本当に何か出てくるんですか?」

『それを確認するための試験です。落ち着いて、カードを使うと念じてください』

 

 和真はカードを見つめた。

 人生で初めて、自らの意志で超常の力を行使する瞬間。

 深呼吸をし、「使う」と強く意識した。

 

 視界右上のUIが動く。

 

『MANA 1/1 → 0/1』

 

 直後、和真の手にあったカードが眩い光の粒子へと分解され、床に向かって流れ落ちた。

 床に光の幾何学模様――魔法陣のようなもの――が展開され、その中心から人影がせり上がってくる。

 

 白銀の軽装鎧。身の丈に合わない剣と小盾。兜の隙間から覗く、鋭い双眸。

 実体化した少年騎士レオは、和真の正面で静かに片膝をつき、首を垂れた。

 

「…………」

 

 和真は息を呑んだ。

 幻影ではない。鎧が擦れる微かな金属音。そして、微かな呼吸の気配まで感じる。

 

『……見事な顕現です。三浦さん、命令してみてください』

 

 マイク越しの高梨の声も、先ほどよりわずかに硬い。

 

「……立ってくれ」

 

 和真が恐る恐る声をかけると、レオは無言で立ち上がった。

 

「右へ三歩」

 

 ガチャ、ガチャ、ガチャ。

 正確に三歩移動する。

 

「止まれ」

 

 ピタリと静止。

 

 和真は、自分の手を見つめた。

 朝起きた時の不安。病気か、幻覚か。

 その全ての疑問が、目の前の絶対的な現実の前に吹き飛んだ。

 

 これは、紛れもなく自分の力だ。

 

 視界のUIに変化があった。

 

『DECK 23』

『HAND 6/7』

『DISCARD 1』

 

「ディスカード?」

 

『捨て札のことです。使ったカードがそこへ行くんです』

 

「最初からそう書いてくれませんかね」

 

 さらに、UIの表示が追加されている。

 

『MANA 0/1』

『Next Mana Refresh:59:59』

『Stored Draw:0/7』

 

「ネクストマナリフレッシュ……ストアドドロー?」

 

『一時間ごとにマナが回復して、ドローする権利も蓄積する形式みたいですね』

 

「日本語でお願いします」

 

『……一時間待てばマナが元に戻って、カードを一枚引ける回数も増える、ということです』

 

「それなら分かります」

 

 その時、視界の中央にファンファーレのような派手なエフェクトと共に、新しい文字列がポップアップした。

 

『Tutorial Quest Complete』

『《First Play》:カードを一枚使用する。』

『Reward:Mana Capacity +1』

 

「……また何か出ました」

 

『何が出たんです!?』

 

 コントロールルームの高梨が身を乗り出す。

 

「マナ・キャパシティ……プラス一」

 

 視界の表示が更新される。

 

『MANA CAPACITY 1 → 2』

『MANA 0/2』

 

「……増えました。上限が2になりましたよ」

 

『…………もう? 初日で成長要素まで確認できるんですか』

 

 高梨がしばらく言葉を失った。

 

 和真は、無言で待機し続ける騎士レオと、手元に残った六枚のカードを見比べた。

 その中には、先ほどまで今の自分には使えないと諦めていた、コスト2のカード《天輪騎士-城壁のガルド》がある。

 

 今すぐ使えるわけではない。

 だが、次にマナが回復すれば手が届く。

 

 長年勤めた会社を辞め、朝までただの無職だった男の人生は、たった数時間で完全に未知の領域へと足を踏み入れていた。




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