TCG未経験の36歳無職、TCG能力《因果祭典》で異能バトル世界を駆け抜ける 作:パラレル・ゲーマー
火曜日の午前九時。
トーストと目玉焼きという簡素な朝食を済ませた和真は、淹れたてのコーヒーを片手にスマートフォンを操作し、昨夜届いていた高梨からのメールに返信を打ち込んだ。
すぐに既読がつくのにも、もはや驚かなくなった。面談の時間は本日午前十一時、場所は最初に行った霞が関の八咫烏の庁舎で確定した。
スマートフォンをテーブルに置き、和真は壁掛け時計を見上げた。
長年勤めた専門商社を希望退職してから、まだ日が浅い。退職届が受理されたあの日は、少なくとも半年は平日の午前中から外出することなどないだろうと思っていた。昼過ぎまで惰眠を貪り、気が向いたら散歩に出かけるような生活を思い描いていたのだ。
「……無職のはずなのに、営業時代みたいな予定の入り方してるな」
思わず苦笑いが漏れる。
もっとも、会社員時代と決定的に違う点が一つある。今日の面談は上司からの強制命令ではなく、あくまで『業務委託の打診』だということだ。話を聞いてみて、危険すぎたり条件が合わなかったりすれば、その場で断って昼からビールを飲んで帰ればいい。その絶対的な気楽さが、和真の足取りを軽くしていた。
出かける支度を始める前に、和真はソファに腰を下ろし、視界の右上に浮かぶ《因果祭典》のHUDへ意識を向けた。
『DECK 21』
『HAND 4/7』
『MANA 3/3』
『STORED DRAW 7/7』
『DISCARD 5』
昨夜、初めてのデッキ編集を終えた時から数字は変わっていない。
和真は左手を軽く開き、現在保持している四枚の手札を実体化させた。
《天輪の標章》 Cost:0
《天輪の拘束鎖》 Cost:3
《天輪総騎-アルシオン》 Cost:6
《天輪の補給》 Cost:2
指先に並ぶ四枚のカードを眺め、和真は少し考え込んだ。
今日の面談は、能力者向けの単発協力――つまり『仕事』の相談と、能力の追加確認を兼ねている。もし話がまとまって、その場で「実際に能力を見せてほしい」という流れになったらどうなるか。
今の和真の手札には、相手を縛る《拘束鎖》と、目印をつける《標章》、カードを引く《補給》しかなく、肝心の召喚騎士はコスト6の《アルシオン》しかいない。現在のマナ上限『3』では、騎士を一体も呼び出せない状態なのだ。
「……一応、すぐに動かせる騎士を手元に準備しておいた方がいいか」
以前なら、手札に使えるカードがないことにただ困惑するだけだっただろう。
だが今の和真には、時間経過で最大まで蓄積された七回分の『STORED DRAW』がある。さらに手札には、山札から二枚引ける《天輪の補給》もある。出かける前にこれらを使って手札を整えておけば、現地に着く頃には消費したマナも回復しているはずだ。
和真はまず、『STORED DRAW』を二回分消費する意思を示した。
『STORED DRAW 7/7 → 6/7』
『DRAW 1』
山札から一枚目のカードが光の粒子となって左手へ滑り込む。
確認すると、軽装の鎧を纏った女性騎士のイラストが描かれていた。
《天輪騎士-疾駆のミラ》 Cost:1
「おっ、騎士だ。しかも一コスト」
まだ一度も召喚したことのない、機動型の騎士だ。これならいつでも出せる。
続けて二回目のドローを行う。
『STORED DRAW 6/7 → 5/7』
『DRAW 1』
二枚目に現れたのは、《天輪の光矢》 Cost:1。単発の遠距離攻撃カードだった。
「……今度は光矢か。まあ、攻撃手段があるに越したことはないな」
この時点で、ステータスは以下のようになった。
『DECK 19』
『HAND 6/7』
『MANA 3/3』
『STORED DRAW 5/7』
『DISCARD 5』
手札は六枚。上限の七枚まであと一枠だ。
ここで和真は、手札にある《天輪の補給》(Cost:2 / Draw 2)に目を留めた。
普通に見れば、手札が六枚の状態で二枚引けば八枚になり、上限の七枚をオーバーしてしまうように思える。だが、先日カードショップで瀬川に教わったルールを思い出せば、計算は簡単だった。
《補給》を使えば、まずその《補給》自身が手札から消えて捨て札へ行く。手札が一時的に五枚に減り、そこへ二枚が追加されるため、合計はぴったり上限の七枚に収まるのだ。
「……よし、これなら枠を無駄にせず引けるな」
和真は《天輪の補給》を抜き出し、「使う」と念じた。
『MANA 3/3 → 1/3』
『HAND 6/7 → 5/7』
『DISCARD 5 → 6』
カードが光となって霧散し、直後に山札から二枚の新たなカードが左手へと補充された。
『DECK 19 → 17』
『HAND 5/7 → 7/7』
追加された三枚目と四枚目のカードの表面を確認する。
一枚目は、大きな弓を構えた凛々しい騎士のイラスト。
《天輪騎士-遠弓のセレス》 Cost:2
「……おお! 弓兵の騎士か!」
そしてもう一枚は、分厚い鉄塊のような鎧を着込んだ巨漢の騎士。
《天輪騎士-重鎧のバルガ》 Cost:4
「……こっちは四コストだから、まだ無理か」
《バルガ》は現在の3マナでは使えない死に札だが、今回のドローは大成功と言ってよかった。
なぜなら、手札にコスト1の《疾駆のミラ》と、コスト2の《遠弓のセレス》という、すぐに使える二種類の召喚騎士が揃ったからだ。
和真は左手に並んだ《ミラ》と《セレス》の二枚を見比べ、ふとある可能性に思い至った。
「……そういえば、これって二体同時に出せるんじゃないか?」
ミラのコストは1。セレスのコストは2。
二つを足せば『3』になり、和真の最大マナにちょうど収まる。
これまでは試験室での《レオ》も、鳥籠での《ガルド》も、一体ずつしか召喚してこなかった。だが、《因果祭典》のルールをいくら思い返しても、「召喚体は場に一体までしか出せない」という制限はどこにも書かれていなかったはずだ。
もちろん、実際にやってみなければ本当に同時維持ができるかは分からない。
しかし、もし可能だとしたらどうなるか。素早く動き回る近接型の《ミラ》と、後方から狙い撃つ遠距離型の《セレス》。役割の異なる二体の騎士を同時に展開できることになる。
「……まあ、できるかどうかも含めて、向こうで試してみればいいか。この組み合わせ、結構よさそうだな」
最終的なステータスを確認する。
『DECK 17』
『HAND 7/7』
『MANA 1/3』
『STORED DRAW 5/7』
『DISCARD 6』
《補給》を使ったことでマナは1に減ったが、八咫烏での面談は十一時からだ。移動時間を考えれば、向こうに着いて実技の話になる頃には一時間周期の処理が二度走り、マナもドロー権も完全に全回復している計算になる。
手札のカードを光の粒子へと戻し、和真はクローゼットからジャケットを取り出しながら、自分自身の行動に思わず噴き出した。
「……出勤前に自宅でカードを引いて、戦力を揃えてから家を出る。なんか、本当にカードゲームの世界の住人になってきたな」
少し前までは想像もつかなかった奇妙なルーチンに苦笑しつつ、和真は玄関のドアを開けた。
午前十一時。
霞が関の端にある古びた合同庁舎『独立行政法人 環境統計センター』――通称・八咫烏の二階面談室に入ると、すでに担当官の高梨紗季がノートパソコンを開いて待っていた。
「三浦さん! お待ちしてました!」
「どうも。今日はよろしくお願いします」
対面のパイプ椅子に腰を下ろすなり、高梨は普段のクールな事務員の仮面をかなぐり捨てたような、キラキラとした目で身を乗り出してきた。
「それにしても、昨夜のメールの報告には本当に驚きました! 『BOND』の成立で初期デッキ以外のカードが生成されるなんて、まさに成長型TCGの理想的な拡張システムじゃないですか!」
「……高梨さん、今日は仕事の案件の話ですよね?」
「もちろんです! ただ、その前に一つだけ、新しく獲得した《因果の選別》について詳しく聞いても……」
「一つだけですよ?」
釘を刺すと、高梨は「はい!」と勢いよく頷いた。
和真は昨夜確認した《因果の選別》のテキスト――1コストで山札の上から三枚を確認し、一枚を手札に加えて残りを山札の底へ送る効果――を口頭で説明した。ただし、カード自体は昨夜のデッキ編集で山札の21枚(今朝のドローで残り17枚)の中に混ざっているため、今この場で実物を見せることはできないと付け加える。
「なるほど……1マナで3枚見て1枚加える、しかも残りはボトム(山札の下)送りですか! 不要な高コストカードを底に沈めつつ必要な回答を探せるなんて、めちゃくちゃ優秀なドロースペルじゃないですか……実物が見られないのは残念ですけど、今度引いたら絶対に見せてくださいね!」
「はいはい、引けたらですね」
ひとしきりカード談義の欲求を満たしたところで、高梨はコホンと咳払いをし、いつもの端正な担当官の顔つきに戻った。パソコンの画面を回転させ、和真の方へ向ける。
「では本題に入ります。今回三浦さんにご紹介したい単発協力の案件は、八咫烏と提携している『能力者訓練施設』からの依頼です」
「訓練施設? 先日行った『鳥籠』とは別の場所ですか?」
「はい。鳥籠はあくまで自主訓練や交流の場ですが、こちらは能力の安全な制御や、実戦形式の対処訓練を体系的に行う研修機関です。そこで行われる模擬訓練に、『召喚体』を出して協力してほしいという内容になります」
高梨の説明によれば、理由は極めて実務的なものだった。
施設には機械仕掛けの移動標的や訓練用の人形はあるものの、それらはプログラムされた単純な動きしかできない。かといって、能力の制御が未熟な訓練生や、逆に威力の高すぎる能力者同士を最初から生身で戦わせるのは怪我のリスクが高すぎるのだという。
「その点、三浦さんの召喚騎士は、三浦さんが細かく操作しなくても自分で状況を判断して戦闘行動をとってくれますよね?」
「ええ。先日の模擬戦でも、俺が指示を出すよりガルドに任せた方がよっぽど上手く戦ってました」
「そこが今回の依頼の決め手なんです」
高梨は画面の資料を指差した。
木曜日に鳥籠で行った久保田大地との模擬戦の記録が、すでに八咫烏の内部データとして共有されていたらしい。召喚主である和真自身には格闘経験が全くないにもかかわらず、召喚された《城壁のガルド》は単独で熟練者の打撃を防ぎ、的確なカウンターを決めてみせた。
「壊しても人間のように大怪我にはならず、それでいて熟練の戦闘員のように自律判断して動く相手」。訓練施設にとって、これほど理想的なスパーリングパートナーは存在しないというわけだ。
「ちなみに三浦さん、今日この後、実際に召喚できそうな騎士は手札にいますか?」
「二体いますよ」
「二体?」
和真が頷くと、高梨が興味深そうに首を傾げた。
「朝、出かける前にドローしておいたんです。コスト1の《疾駆のミラ》と、コスト2の《遠弓のセレス》が今の手札にあります」
「ミラとセレス……軽装の高速型と、遠距離の弓兵でしたっけ! えっ、ちょっと待ってください。1コストと2コストということは、今の三浦さんの最大マナ3で、二体とも使えるじゃないですか!」
「計算上はそうなりますね。ただ、二体を同時に召喚して維持できるかどうかは、まだ試したことがありません」
和真が正直に答えると、高梨の瞳が再び輝きを増した。
「……じゃあ、今日その施設で確認してみましょう! 複数展開ができるかどうかは、能力の査定においてもすごく重要なデータになります!」
「そうですね。俺も本当に二体並ぶのか気になってたところです」
そこからは、具体的な契約条件と報酬の確認に移った。
高梨が提示した仮条件のシートには、明確な数字が並んでいた。
・業務内容:能力者訓練施設における召喚騎士の実演および模擬訓練協力
・基本報酬:30,000円(能力の開示・基本動作確認)
・実技加算:20,000円(模擬訓練への実戦投入)
・合計報酬:最大50,000円(別途、往復交通費支給)
「……半日の協力で、五万円ですか?」
和真は思わず数字を見直した。
会社員時代、一日中頭を下げて駆け回っても、日当換算でここまでの金額にはならなかった。
「はい。希少な召喚系能力の専門的な提供に対する対価ですから、妥当な相場です。もちろん、毎日こうした依頼があるわけではありませんし、三浦さんのカードやマナというリソースを消費していただくわけですから」
「いや、まあ、理由は分かりますけど……なかなか夢のある金額ですね」
とはいえ、金額が良いからといって二つ返事で飛びつくほど、和真は世間知らずではなかった。
元商社マンの目で契約書の控えを隅々まで読み込み、責任範囲や安全措置について確認を入れる。
「もし訓練中に俺の召喚騎士が施設職員や訓練生に怪我をさせた場合、責任はどうなりますか? 逆に俺自身に危険が及ぶ訓練は含まれていますか? それから、事前に合意した以外のカードを使う義務はありませんよね?」
和真の矢継ぎ早だが的確な質問に対し、高梨は少し感心したように頷きながら、一つずつ丁寧に回答した。訓練中の事故責任はすべて施設側の安全管理責任となること、和真本人は安全圏から指示を出すのみで直接戦闘には一切参加しないこと、使用するカードは《ミラ》と《セレス》、および補助カード数枚の範囲に限定し、無理な消費は強制しないこと。
「……なるほど。それだけ条件が明確なら、悪くないどころか大歓迎ですね」
「よかったです! 実は施設側の主任の方も、今日の午後なら時間を空けられるそうなんですが……このまま午後から向かってもよろしいでしょうか?」
「今日ですか? ……ええ、構いませんよ。どうせ今日も予定はないですし、マナもちょうど全回復してるところですから」
朝の十時前と十一時前の二回分、すでに時間経過の処理は完了しており、視界の右上の表示は『MANA 3/3』『STORED DRAW 7/7』に戻っている。準備してきたカードを試すには絶好のタイミングだった。
「決まりですね! では、昼食を済ませたら現地へ向かいましょう!」
嬉しそうに書類をまとめる高梨を見ながら、和真は契約書にサインを走らせた。
「……なんか、本当に能力者としての初仕事が始まってしまったな」
覚醒七日目にして舞い込んだ日給五万円のアルバイトに、和真は少しばかりの緊張と好奇心を覚えながら席を立った。
午後一時過ぎ。
高梨の先導で電車を乗り継ぎ、都内の少し外れにある建物へと到着した。
外観は、周囲のオフィス街に溶け込むような、ごく普通の五階建ての企業向け研修センターだった。しかし、セキュリティゲートを通って内部へ足を踏み入れると、分厚い防音・防護扉や、壁一面に衝撃吸収材が張り巡らされた廊下など、ただの貸し会議室ではない物々しい構造が顔を覗かせた。
「……外から見たら、本当に普通の企業の研修所ですね」
「一般の方の目に触れる以上、そう見える方が都合がいいですからね」
先日訪れた新宿地下の『鳥籠』とは、空気感がまるで違った。
鳥籠がカフェや漫画喫茶を備えた「能力者たちの自由な溜まり場」だとするなら、こちらは規律と安全管理が徹底された「公的な教習所」だ。すれ違う職員たちも皆、落ち着いたスーツや機能的なトレーニングウェアを着用しており、和真が商社時代に何度か訪れたことのあるメーカーの研究開発施設を彷彿とさせた。
二階の事務室へ通されると、一人の男性が立ち上がって二人を出迎えた。
年齢は四十代前半くらいだろうか。短く刈り込んだ黒髪に、鍛え上げられた体躯を包むシンプルな黒のジャージ。鋭い眼光を持っているが、威圧的というよりは、現場を長く仕切ってきた実務家特有の落ち着きを感じさせる人物だった。
「三浦和真さんですね。当施設で訓練主任を務めております、真壁圭吾(まかべけいご)です。本日は急な打診にもかかわらずお越しいただき、ありがとうございます」
「三浦です。こちらこそ、よろしくお願いします。まだ能力に目覚めて日が浅い素人でして、ご迷惑をおかけするかもしれませんが」
「高梨さんから概要は伺っております。複数の異なる特性を持った騎士を召喚できるそうですね」
「はい。今日はとりあえず二種類、すぐに呼び出せる状態にしてきました」
和真が答えると、真壁の眉がわずかに動き、興味深そうな色が瞳に宿った。
「それは助かります。まずは単体での基本的な動作と安全性を確認させていただき、問題がなければ複数召喚の検証へと進みましょう」
非常に段取りが良く、無駄のない進行だった。隣にいる高梨は「早く二体並ぶところが見たいです」と言わんばかりにソワソワしているが、現場の主導権は完全に真壁が握っているようだった。
実技を行う大型訓練室の準備が整うまでの間、真壁の案内で施設内の他の訓練区画をガラス越しに見学することになった。
強化ガラスの向こう側では、数名の若い能力者たちが基礎訓練を行っていた。
そのうちの一人、二十代くらいの男性が床を強く蹴った瞬間、和真は思わず目を剥いた。まるで早送りの映像を見ているかのような猛烈な初速で十数メートルを一気に駆け抜け、訓練室の奥に設置された分厚い特殊樹脂製の打撃用ターゲットへ拳を叩き込んだのだ。
ズシン、と強化ガラス越しにも空気の振動が伝わってくるほどの重い衝撃音が響き、ターゲットが大きく軋んだ。
「……あれ、本当に生身の人間なんですか?」
「もちろん人間ですよ。私と同じ、身体能力強化系の『Tier4』の能力者です」
「いや、頭では分かるんですけど……あんなのに殴られたら、普通の人間は一発で病院送りどころかお陀仏じゃないですか」
真壁の説明によれば、最も人数の多い『Tier4』の中位程度であっても、鍛錬を積めば一般成人男性の数倍の脚力や打撃力を発揮する者は珍しくないという。能力を任意でオン・オフして瞬間的に出力を上げるタイプもいれば、常時肉体の基礎スペックが底上げされているタイプもいるらしい。
「……やっぱり、俺が自分自身で前線に出て戦うなんて絶対に無理ですね」
「三浦さんは純粋な召喚型の能力者なのでしょう? ご自身で殴り合う必要はどこにもないと思いますが」
「まあ、それはそうなんですけどね」
改めて能力者たちの基礎スペックの高さを目の当たりにし、和真は自分の初期デッキに前衛の騎士たちが豊富に入っていることのありがたみを噛み締めた。
真壁はガラスの向こうの訓練生たちを見つめながら、今回の依頼の背景を静かな口調で補足した。
「先ほどご覧いただいた通り、能力者の身体能力や攻撃の威力には大きな個人差があります。出力だけは高くても対人戦の技術が未熟な者もいれば、能力自体は地味でも格闘技術に長けた者もいる。ですから、最初から人間同士で本気の実戦訓練を行わせるのは、事故のリスクが高すぎるのです」
「なるほど。それで機械の標的を使っているわけですか」
「ええ。ですが、機械の標的や人形は、あらかじめ決められた軌道しか動けません。こちらのフェイントに引っかかることもなければ、隙を見て回り込んでくることもない。私たちが本当に欲しかったのは、『相手の動きを見てその場で判断し、適切な間合いや防御行動をとってくれる安全な訓練相手』なのです」
真壁が向き直り、和真の目を真っ直ぐに見た。
「だからこそ、三浦さんの自律行動可能な召喚騎士には、非常に大きな期待を寄せています」
真壁は手元の資料へ『自律判断』『安全性』と書き込み、和真にも安全確認の書類を差し出した。
その後、別室で実技前の最終的な安全確認とルールの擦り合わせが行われた。
最初は無人の移動標的を相手に《ミラ》と《セレス》の性能を確認すること。
安全性が確認できれば、真壁自身が訓練相手としてフィールドに入り、模擬的な攻防を行うこと。
対人訓練においては、召喚騎士が真壁の生身の肉体へ直接刃を当てたり、矢を射ち込んだりすることは厳禁とし、寸止めや攻撃姿勢の成立、あるいは近傍のダミー標的への命中をもって観察員が「有効打」と判定すること。少しでも制御に異常が見られれば即座に中止し、和真が任意解除を行うこと。
「三浦さんの騎士が優秀であることは大歓迎ですが、訓練で怪我人を出しては本末転倒ですからね」
「そこは俺も全く同感です。安全第一でいきましょう」
すべての確認と書類の手続きを終えた頃には、時刻は午後三時を少し回っていた。
午後三時十五分。
施設の最奥にある大型訓練室へと移動した。体育館を思わせる広大な空間で、床には適度なクッション性のある特殊なマットが敷き詰められ、各所にレール式の高速移動標的や遮蔽物用のブロックが配置されている。
和真と真壁は訓練室の端の安全エリアに立ち、高梨と数名の施設観察員は、二階のガラス張りのモニタリングルームからマイク越しに状況を見守る配置についた。
和真は視界の右上を確認する。
午後二時前、三時前の時間経過処理を経て、ステータスは万全の状態だ。
『DECK 17』
『HAND 7/7』
『MANA 3/3』
『STORED DRAW 7/7』
『DISCARD 6』
「では真壁さん、まずは一体目を召喚します」
「お願いします」
和真は左手に手札を実体化させ、その中から一枚――《天輪騎士-疾駆のミラ》(Cost:1)を抜き出し、前方のフロアへ向けて「使う」と念じた。
『MANA 3/3 → 2/3』
『HAND 7/7 → 6/7』
『DISCARD 6 → 7』
カードが眩い光の粒子となって弾け、訓練室の中央に白銀の幾何学模様が描かれる。
光の柱が収束すると同時に、一人の騎士が静かに姿を現した。
初日に呼び出した少年騎士《レオ》や、重装甲の《ガルド》とは明らかにシルエットが違う。可動域を広く取った白と銀の軽装鎧に身を包み、腰から背中にかけてのラインはしなやかな女性型の体躯を思わせる。右手には細身で取り回しの良さそうな片手剣を逆手に近い角度で携え、兜の奥の鋭い瞳が素早く周囲の空間を把握した。
「……おお、ミラってこういう姿なのか」
自分のカードながら、実体化した姿を見るのはこれが初めてだ。
隣に立つ真壁も、ミラの立ち姿を一目見るなり、小さく息を呑んで目を細めた。重心の置き方ひとつで、ただの飾りではないことが分かるらしい。
「では、まず移動標的を起動します。低速からいきます」
真壁が手元のリモコンを操作すると、十メートルほど離れた床のレールから、人型のダミー標的が起き上がり、左右へ滑るように移動を始めた。
「ミラ、あの動いている標的を攻撃してくれ。破壊しなくていい、刃を当てるだけでいいぞ」
和真が声をかけると、ミラは短く頷き、次の瞬間に床を蹴った。
タッ、と軽やかな足音が一つ響いたかと思うと、その姿はすでに標的の懐へと滑り込んでいた。
速い。しかも、ただ直線的に突っ込んだのではない。標的がレールの端で折り返して方向転換する瞬間をあらかじめ予測していたかのように、最小限の歩数で斜め前方へと回り込み、すれ違いざまに流れるような一閃を標的の胴体へと走らせた。
カン、と峰打ちに近い乾いた音が響き、ミラは一切体勢を崩すことなく数歩先でピタリと足を止めた。
「……なるほど」
「……すごいな。レオやガルドより全然足が速い」
真壁は無言でリモコンのダイヤルを回し、標的の移動速度を一気に最高段階まで引き上げた。さらに不規則なストップ&ゴーのパターンを混ぜる。
しかし、ミラの対応は全く揺らがなかった。
標的が急停止すれば自分の踏み込みも瞬時に殺し、逆方向へ急加速すれば、重心だけを滑らかに移してぴたりと並走する。正面から力任せに斬りつけるのではなく、常に標的の側面や死角にあたる「自分が最も攻撃しやすく、相手から反撃を受けにくい角度」へと自動的に位置取りを修正し続けているのだ。
数合の剣撃ののち、真壁が標的を停止させた。
真壁は腕を組み、呆れたような、それでいて感嘆を隠せない声で和真に尋ねた。
「……三浦さん。確認ですが、今の一連の回り込みや、標的の進路を先に塞ぐような足運びは、三浦さんが念話か何かで指示を出したのですか?」
「いえ、まさか。俺が言ったのは最初の『あれを攻撃してくれ』の一言だけです」
「細かいステップや間合いの調整は?」
「全部、ミラが自分で判断してやってます。俺にそんな剣術の知識はありませんから」
真壁は数秒間、言葉を探るように黙り込んだ。
二階のモニタリングルームから、高梨の弾んだ声がスピーカー越しに降ってくる。
『真壁主任、いかがですか!?』
「……正直に申し上げて、想像していたより遥かに完成度が高いですね。ただ命令通りに動くだけの人形ではありません。間合いの詰め方、死角への入り方、どれをとっても長年実戦を潜り抜けてきた熟練の剣士の動きです」
現場の指導員だからこそ、ミラの無駄のない体捌きの異常さが誰よりも正確に理解できるのだろう。召喚主である和真が何一つ技術を教えなくても、召喚された時点ですでに完成された戦闘技術を身につけているのだ。
「ちなみに三浦さん、この優秀な騎士を一体召喚するのに、ご自身の能力のリソースはどれほど消費するのですか?」
「ええと、一マナですね」
「……一マナ?」
真壁が怪訝そうに眉を寄せる。すかさず高梨がマイク越しに補足した。
『三浦さんの現在の最大マナ容量は「3」です! つまり、全体の三分の一の消費ですね!』
「……ということは、まだ三分の二も余力が残っていると?」
「はい。あと二マナ残ってます」
真壁の表情が、この日初めて明確に変わった。
「これほどの戦闘精度を持つ召喚体が、全リソースのわずか三分の一で出てくるのか」という驚愕。そして同時に、指導員としての強い関心。
真壁は深く頷き、一歩後ろへ下がってスペースを空けた。
「……よく分かりました。では、先ほどおっしゃっていた二体目の召喚をお願いできますか」
午後三時二十分。
和真は左手に残る手札の中から、二枚目の召喚カード――《天輪騎士-遠弓のセレス》(Cost:2)を引き抜いた。
現在、訓練室の中央には《ミラ》が待機している。
ここで《セレス》を使って、もし《ミラ》が消えてしまうなら、同時召喚は不可能という仕様になる。
和真は少しだけ緊張しながら、ミラの少し後方にあたる空間を見つめ、《セレス》のカードを使用した。
『MANA 2/3 → 0/3』
『HAND 6/7 → 5/7』
『DISCARD 7 → 8』
手元のカードが光の粒子となって消え、ミラの斜め後ろ、数メートル離れた床に新たな魔法陣が展開された。
せり上がってきたのは、深緑と銀を基調とした機能的な軽鎧を纏い、身の丈ほどもある長弓を携えた騎士だった。背中には矢筒を背負い、兜のバイザーは視野を広く確保するためか特殊な形状をしている。
そして――前方に立つ《ミラ》の姿は、光の粒子になることもなく、そのままはっきりと実在し続けていた。
広い訓練室の中に、二体の《天輪騎士》が並んで立っている。
「……おお、消えない。本当に二体同時に出せたぞ」
『同時召喚および複数維持、成功ですね!!』
モニタリングルームの高梨が歓声を上げ、ガラスの向こうでスタッフたちが慌ただしく数値を記録し始める。
真壁も腕を組んだまま、二体の騎士を鋭い目で見比べていた。
「……なるほど。マナがゼロになっても、すでに召喚された個体の維持には影響しない、と。では、そちらの弓兵の性能も確認させてください」
真壁がリモコンを操作し、今度は訓練室の奥の壁際や中距離のレーンにある複数の射撃用ターゲットを一斉に起動させた。それぞれが全く異なる速度とタイミングで左右に動き始める。
「セレス、あの動いている標的を射抜いてくれ」
和真が指示を出した瞬間、セレスは流れるような動作で背中の矢筒から光の矢をつがえ、長弓を満月に引き絞った。
ヒュンッ! と空気を切り裂く鋭い弦音が響く。
放たれた矢は、二十メートル以上離れた場所で不規則に動いていた標的のど真ん中――心臓部を示す赤いマーカーの中心を寸分の狂いもなく貫いた。
しかも、それで終わりではなかった。一射目が命中するよりも早く、セレスの指はすでに二本目の矢をつがえており、間髪入れずに別方向へ高速移動していた二つ目の標的をも正確に射抜いてみせたのだ。
『……すごい精度です!』
高梨の感嘆の声が響く。和真自身も、自分が呼び出した騎士ながら舌を巻いていた。
動いている標的をただ目で追って撃っているのではない。標的の移動速度と軌道を瞬時に計算し、「零点数秒後に標的が到達する未来の位置」へ正確に矢を置いているのだ。
「……遠距離型でありながら、発射までの動作が極めて速く、しかも偏差射撃の精度が完璧ですね」
真壁が感心したように呟き、そしてふと、ある事実に気づいて目を細めた。
「三浦さん。今、前方の剣士の騎士が、自然に半歩だけ横へ動いたのにお気づきですか?」
「え? ああ、言われてみれば……」
セレスが二つ目の標的を狙って身体の向きをわずかに変えた瞬間、前方に立っていたミラが、セレスの射線を一切遮らない位置へと、誰に言われるでもなくスッと立ち位置をずらしていたのだ。
「この配置や射線の確保も、三浦さんは指示していないのですね?」
「はい。俺はセレスに『標的を頼む』としか言ってません」
「……二体の召喚体が、互いの位置と役割を認識して動いている?」
「そうみたいですね。同じ《天輪騎士》っていうシリーズのカードだからかもしれません」
もちろん、二体がテレパシーで会話しているのかどうかまでは和真にも分からない。だが、前衛のミラは後方のセレスの射線を邪魔しないように立ち回り、後方のセレスはミラの背中越しでも確実に狙える角度を自然に取っている。
単体で優秀なだけでなく、複数並べることで互いの動きを阻害しない高度な空間認識能力を持っていることは間違いなかった。
午後三時三十分。
単体性能と複数維持の確認を終えたところで、真壁がジャージの肩を軽く回しながら和真へ歩み寄ってきた。
「三浦さん。基本的な性能と安全性は十分に確認できました。そこで……もしよろしければ、もう一段階だけ実践的な訓練を試してみてもよろしいでしょうか?」
「実践的な訓練、ですか?」
「はい。『拠点防衛訓練』です」
真壁は訓練室のこちら側――和真が立っている安全エリアのすぐ前に、人間大の白いポール型のダミー人形を一本設置した。
「このポールを『護衛対象の要人』と見立てます。攻撃側は私と、室内にある複数の自動移動標的です。防衛側は三浦さんの二体の騎士。制限時間は九十秒。私が二体の防衛網を突破し、このポールの半径一メートル以内に到達して手で触れれば攻撃側の勝利。九十秒間、私を触れさせずに守り切れば防衛側の勝利です」
もちろん安全規定に基づき、ミラとセレスは真壁の肉体を直接傷つけてはならない。
ミラの剣が真壁の身体のすぐ寸前(有効間合い)で防御不能な形で振るわれるか、あるいはセレスが真壁の進路上のダミー標的に矢を突き立てて射線による足止めを成立させれば、二階の観察員がブザーを鳴らして真壁に「足止め・迂回」を強制するルールだ。
「要するに、俺はミラとセレスに『あのポールを守れ』と指示を出して、真壁さんを九十秒間通さなければいいんですね?」
「その通りです。私が本気で突破を試みた場合、二体の自律判断がどこまで通用するのか。ぜひ体感させてください」
ベテラン指導員である真壁の瞳に、静かな闘志が宿っていた。
和真はミラとセレスを呼び寄せ、後ろの白いポールを指差した。
「聞いた通りだ、二人とも。あの向こうから真壁さんが突っ込んでくる。怪我はさせないように寸止めで、でも絶対にこのポールには触れさせないでくれ。周りの動く標的にも気をつけろよ」
ミラが剣を構え直し、セレスが静かに弓を下ろして頷く。
真壁は三十メートルほど離れた訓練室の反対側のスタートラインへと歩き、足を肩幅に開いて深く息を吐いた。
その瞬間、真壁の全身から放たれる空気の圧が、ふっと変わったのを和真は肌で感じた。筋肉が肥大化するような派手な変化はない。だが、先ほどガラス越しに見たどの訓練生よりも洗練された、一切の無駄がない「強者」の佇まいだった。
「そちらの準備はよろしいですか、三浦さん?」
「ええ、いつでも大丈夫です!」
二階のモニタリングルームから、開始を告げる電子ブザーが鳴り響いた。
同時に、フロアの各所に配置された五体の自動移動標的が一斉に起き上がり、ランダムな軌道で防衛ラインへと接近を開始する。
そして――真壁が動いた。
ドン、と床のマットが沈み込む音と共に、真壁の姿が弾丸のように前方へと射出された。
「……速っ!?」
和真が思わず声を上げるほどの猛スピードだった。一般人の視界では目で追うことすら難しいほどの踏み込み。
だが、前衛に立つ《ミラ》は、その超人的な初速に完璧に反応していた。
真壁が直線コースで抜こうとする進路へ、ミラもまた疾風のようなステップで先回りし、鋭い牽制の剣筋を下段から突き上げる。
真壁は一切速度を落とすことなく、空中で身体を捻るようにして剣筋をかわし、即座に左サイドへと進路を変えた。だが、ミラもまた着地と同時に床を蹴り、真壁の横移動にピタリと追従して立ち塞がる。
「……おお! ついていけてるぞ!」
自分なら最初の踏み込みの時点で真壁の背中を見送ることしかできなかっただろう。しかしコスト1のミラは、Tier4の熟練指導員である真壁の高速機動に一歩も遅れをとっていなかった。
だが、真壁もまた百戦錬磨のプロフェッショナルだった。
二合、三合と剣の間合いを探り合っただけで、「単純なスピード勝負ではこの軽装騎士を振り切るのは難しい」と瞬時に判断したらしい。
真壁は一度大きく右へ踏み込むフェイントをかけた。
ミラがそれに対応して重心を右へ移した、その刹那。真壁はつま先を軸にして鋭角に折り返し、移動標的の一体を盾にするようにして逆側の左ルートへと一気に加速したのだ。
さすがのミラも、物理的な移動標的が間に挟まったことで一瞬だけ追撃の足が止まった。真壁との距離が数メートル開く。
「……あ、まずい、抜かれる!」
和真が焦りの声を上げた、まさにその瞬間だった。
後方に控えていた《セレス》が、すでに弓を引き絞っていた。
ヒュンッ! ヒュンッ!
立て続けに放たれた二本の光の矢が、真壁が駆け抜けようとしていた左ルートのすぐ前方にあるダミー標的の頭部を、完璧なタイミングで連続して射抜いたのだ。
ピピッ! と二階の観察員から『射線成立・進路封鎖』を告げる判定ブザーが鳴る。
生身の人間であれば、今そこへ踏み込めば確実に矢の餌食になっていたという判定だ。真壁は舌打ち一つせず、即座に急ブレーキをかけて横へと跳び退き、射線を回避した。
そのわずかな足止めの間に、体勢を立て直したミラが再び疾駆し、真壁の正面へとピタリと張り付いた。
「……なるほど。前を抜いても、後ろからその精度で射線を置かれますか」
真壁の口元が、初めて楽しそうに弧を描いた。
そこからの四十秒間は、息を呑むような高度な攻防の連続だった。
真壁がミラの剣の間合いを嫌って距離を取れば、すかさずセレスの正確な狙撃が飛んでくる。かといって遮蔽物や移動標的を利用してセレスの射線を切ろうとすれば、その死角からミラが猛烈なスピードで懐へ飛び込んでくる。
真壁が真っすぐ踏み込んだかと思えば、次の瞬間には横へ飛ぶ。ミラの剣がその先を塞ぎ、セレスの矢が側方の標的を叩いた。
短い判定ブザーが鳴るたび、真壁は足を止めずに進路を変え、次の隙を探して速度を上げた。
和真は、目まぐるしく変わる三者の位置関係を追いかけるだけで精いっぱいだった。
しかも、安全エリアにいる和真自身は、開始前の「ポールを守れ」という一言以来、何一つ指示を出していない。ただ固唾を呑んで見守っているだけなのだ。
「……こいつら、俺が何も言わなくても、勝手に役割分担して完璧に連携してるぞ」
二階のモニタリングルームでも、観察員のスタッフたちが信じられないといった様子でざわめいていた。
『高梨さん、召喚主の三浦さんは本当に操作していないんですか!?』
『はい! 脳波や因果介入の追加波形は出ていません。完全に召喚体自身の自律判断による連携です!』
『……一人で、熟練の前衛と後衛の二人分の働きを同時に成立させているというのか……』
残り時間はあと三十秒を切っていた。
しかし、ここで真壁がただ押し切られて終わるような男ではなかった。
真壁はわざと後退し、フロア内を巡回していた五体の自動移動標的が、左右と中央の三方向から同時に防衛ラインへと雪崩れ込むタイミングを待っていたのだ。
五体の移動標的が、一斉にポールの周囲へと殺到する。
前衛のミラは、右側から迫る二体の標的を切り払うためにそちらへステップを踏んだ。
後衛のセレスは、左奥から接近する標的に向けて弓を構え、射線を左へと向けた。
二体の騎士の判断は、防衛行動として決して間違ってはいない。迫り来る脅威をそれぞれ分担して処理しようとしたのだ。
だが――その一瞬だけ、二体の意識と視線が「別々の標的」へと分散した。
真壁が狙っていたのは、そのコンマ数秒の隙だった。
中央の移動標的のすぐ背後に身を隠すようにして並走していた真壁が、標的の陰から一気に飛び出し、これまでで最大の加速をもって無人の中央突破を図ったのだ。
「……あっ!?」
和真の目が大きく見開かれた。
ミラは右側の標的に剣を振るった直後で、体勢が逆を向いている。セレスも左側へ矢を放ったばかりだ。
多数の目標が同時に押し寄せたことで、「今この瞬間に何を最優先で潰すべきか」という二体のタゲ(目標)の優先順位が、ほんのわずかにズレたのだ。
このままでは、真壁が中央を駆け抜けて後ろのポールに到達してしまう。残り時間はあと十五秒。
自律行動する騎士たちの限界。その最後の隙間を埋めるには、指揮官である和真自身の判断による介入が絶対に必要だった。
(何かないか!? 今すぐ使えるカードは――!)
和真は左手に握りしめた五枚の手札と、視界右上のステータスを瞬時に走らせた。
現在のマナは『0/3』。ミラとセレスの召喚で使い切っている。
手札にあるコスト1の《天輪の光矢》も、コスト3の《拘束鎖》も、マナがなくて使えない。
だが――五枚の手札の中に、ただ一枚だけ、マナがゼロでも発動できるカードが残っていた。
《天輪の標章》。Cost:0。
昨夜のカードリストラ会議で、「模擬戦で使わなかったから抜こうか」と真っ先に候補に挙げ、そして「いや、複数の騎士にターゲットを伝える時に使えるかもしれない」と思い直してデッキに残した、あの一枚だ。
(……そうだ、これがある!!)
思考と行動が完全に直結した。
和真は左手の《天輪の標章》を引き抜き、中央を猛然と疾走してくる真壁の姿を視界に捉え、カードを発動させた。
『《天輪の標章》 Cost:0』
『MANA 0/3 → 0/3』
『HAND 5/7 → 4/7』
『DISCARD 8 → 9』
マナは消費しない。しかしカードは確かな手応えと共に光の粒子となって消滅し、直後、疾走する真壁の胸元の空間に、淡く輝く白銀の紋章――『目印』がパッと浮かび上がった。
和真は腹の底から声を張り上げた。
「ミラ! セレス! 他の標的は無視しろ! 『標章』のついた相手だけを最優先で止めろ!!」
その指示と《標章》の視覚効果が、二体の騎士の迷いを完全に断ち切った。
《標章》自体に、騎士のスピードを上げたり攻撃力を強化したりする効果はない。ただ目印がついたことで、和真は二体へ優先対象を迷いなく示すことができた。
だが、今の状況において、それはどんな強化魔法よりも劇的な効果を生んだ。
右側にいたミラが、目の前の移動標的を完全に無視し、靴底を鳴らして最短距離で中央へと割り込んだ。
後方のセレスもまた、左側の標的から即座に狙いを切り替え、真壁が進もうとしたルートに設置されたダミー標的を立て続けに射抜いた。観察員が『射線成立』の判定ブザーを鳴らす。
「……っ、ここでタゲを統一してきますか!」
真壁が目を見開く。
保護対象のポールまでは、もうあと五メートルもなかった。
真壁は判定を受けたルートを捨て、最後のフェイントでミラの脇をすり抜けようと深く身を沈めた。
しかし、目標を真壁一人に完全にロックした二体の連携に、もはや一ミリの隙間もなかった。
真壁がフェイントで動いた先でも、セレスの矢がダミー標的を射抜き、射線成立の判定が重なる。真壁が一瞬足を止めたその懐へ、ミラが完璧なタイミングで滑り込み、白銀の剣の峰を真壁の喉元の数センチ手前へとピタリと突きつけた。
そのすぐ真横のダミー標的にも、セレスの放ったダメ押しの矢が深々と突き刺さる。
真壁の伸ばしかけた手が、白いポールのわずか二メートル手前で完全に止まった。
その直後――。
ピピピピピッ!! と、九十秒の制限時間終了を告げる長いブザーが、訓練室全体に高らかに鳴り響いた。
「…………」
和真は安全エリアに立ったまま、しばらく瞬きするのも忘れて目の前の光景を見つめていた。
開始からわずか九十秒。あまりにも目まぐるしく、ハイレベルな攻防だった。自分自身の動体視力では、真壁とミラの動きの半分も追えていなかったかもしれない。
すると、喉元に剣を突きつけられたままだった真壁が、ふっと肩の力を抜き、爽快な笑顔を浮かべて両手を上げた。
「……参りました。お見事です、三浦さん。完全に突破を封じられました」
「……え? 勝った……んですか?」
「ええ、時間切れです。そちらの完全な防衛成功ですよ」
真壁がミラとセレスに一礼しながら歩み寄ってくるのを見て、和真はようやく実感が湧いてきた。
自分の前へと静かに戻ってきたミラとセレスの二体を見つめる。ミラは何事もなかったかのように剣を収め、セレスは静かに弓を下ろして待機姿勢をとっている。息一つ乱していない。
「……お前ら、優秀すぎないか?」
素直すぎる感想が、ぽろりと口をついて出た。
午後三時四十五分。
二階のモニタリングルームから高梨たちも降りてきて、訓練室の端でそのまま簡単な講評会となった。
「三浦さん。正直に申し上げて、私の想像を遥かに上回る結果でした」
「……そんなに凄かったですか?」
「ええ。一体ずつの基礎性能の高さもさることながら、最も驚かされたのは二体並んだ際の空間制圧力と連携の精度です」
真壁は手元のタブレットに記録された動きの軌跡を示しながら、具体的に評価を述べた。
コスト1のミラは、Tier4の身体強化能力者に引けを取らない高速機動で前線を引っ掻き回し、接近戦を挑む相手の自由を奪う。
コスト2のセレスは、後方から極めて正確な偏差射撃を行い、相手の移動ルートそのものを制限する。
この「前衛の足止め」と「後衛の射線管理」が同時に成立しているため、突破を図る側からすれば常に二択を強いられ続け、強引な突破が極めて難しくなるのだという。
「しかも、これほど高度な連携を、召喚主である三浦さんが細かくラジコンのように操作しているわけではない。召喚体自身が状況を見て自律的に判断している。訓練相手として、これ以上質の高い能力はそうそうありません」
「はあ……まあ、本当に俺は何もしてないんですけどね」
「いえ。最後の最後、私が移動標的を使って二体の注意を分散させた場面です」
真壁の視線が鋭く和真を捉えた。
「あのまま二体の判断だけに任せていたら、私は間違いなく中央を抜けてポールに触れていました。あそこで瞬時に状況の不利を悟り、対象を指定するカードを使って二体の優先目標を私一人に統一させたのは、紛れもなく三浦さんご自身の判断でしょう?」
「ああ……あれは、《天輪の標章》っていう0コストのカードです。昨日、デッキから抜こうかどうか迷って残しておいたやつで、実戦で使うのは今日が初めてだったんですけど」
「……ぶっつけ本番で、あのタイミングで切ったのですか?」
「マナがゼロだったので、それしか使えるカードがなかったというのもありますけどね」
和真が苦笑しながら正直に答えると、真壁は呆れたように息を吐き、それから深く感心したように頷いた。
今日初めて召喚した二体の騎士。今日初めて試した同時召喚。そして今日初めて実戦で使った《標章》のカード。
そのすべてが初見の組み合わせであったにもかかわらず、熟練の訓練主任の突破を完全に防ぎ切ってみせたのだ。
「……ご自身ではカードゲームの初心者だとおっしゃっていましたが、戦況を見る目とカードを切る判断力は、すでに立派な指揮官のものだと思います。今後さらに能力の理解が進めば、どれほど伸びるか底が知れませんね」
「いやいや、買いかぶりすぎですよ」
謙遜しつつも、和真は自分自身の左手を見つめ、静かな感慨を覚えていた。
ガルド一体でも十分に強いことは、木曜日の模擬戦で知っていた。だが、役割の異なる騎士を二体並べると、戦い方そのものが変わった。
しかもミラとセレスに使ったマナは合わせて3。真壁の最後の突破を止めた《標章》は、たった0マナだ。そんなカードの組み合わせで、熟練の訓練主任を九十秒間足止めできたことが、今さらながら信じられなかった。
「……これ、俺が思ってた以上に、相当強い能力なのかもしれませんね」
「だから最初からそう言ったじゃないですか!」
隣で聞いていた高梨が、我が意を得たりとばかりに胸を張った。
和真はジト目で高梨を見返す。
「高梨さんは、単に『都市伝説のカードゲーム型能力者だ!』ってシステムに興奮してただけじゃないですか」
「そ、それは否定しませんけど! でも、強いと思ったのも本当ですよ!」
高梨が顔を赤くして反論し、真壁や周囲の観察員たちから穏やかな笑いが漏れた。
高梨や真壁によれば、今回の実演で和真の公式な能力階位が『Tier4』から変更されるわけではない。Tierは本人の『魂の定数』によって定まる区分であり、戦闘訓練の勝敗や召喚体の性能で上下するものではなかった。
「Tier4として登録された能力者で、ここまで戦術的な多機能性と複数展開を実現できる例は珍しいですね。素晴らしいデータが集まりました」
真壁の言葉を受け、和真は待機していたミラとセレスに向き直り、「お疲れ様。ありがとう、戻っていいぞ」と声をかけて任意解除を念じた。
二体の騎士は揃って胸に手を当てる礼をとり、淡い光の粒子となって訓練室の空気の中へと静かに溶けていった。
光が消えると、先ほどまで聞こえていた鎧の音も、弓の弦を引く音も、すっかり途絶えた。
(……これだけ働いてくれたんだから文句は言えないが、一回出したら使い切りっていうのは、やっぱりちょっともったいない気はするな)
そんな貧乏性な感想を胸の内にしまいつつ、和真は実技訓練のすべてを無事に終えたのだった。
午後三時五十分。
二階の事務室へと戻ると、真壁が実技協力完了の確認書にサインをし、高梨から正式な報酬の支払いについての説明があった。
基本報酬三万円に、模擬防衛戦まで完遂した実技加算二万円が満額適用され、合計五万円(プラス往復交通費)。支払いは後日、八咫烏から和真の指定口座へと振り込まれる。
「本日は予定していた検証項目をすべて最高の結果で達成していただきましたので、文句なしの満額支給です!」
「……ありがとうございます。本当に五万円もらえるんですね」
「専門的で代替の効かない能力を提供していただいた正当な対価ですから、遠慮なく受け取ってください」
真壁が穏やかに微笑む。
十四年あまり、商社マンとして契約書と納期に追われながら給料をもらってきた。しかし今日初めて、自分の身に宿った『異能』を使って誰かの役に立ち、その報酬として五万円を稼ぎ出したのだ。
「……俺自身は安全地帯に立って、最後に一回カードを使っただけで、あとはほとんど見てただけなんですけどね」
「その『見ていられるほど優秀な騎士を安全に呼び出せること』自体に、五万円以上の価値があるのですよ」
真壁の言葉には、現場の人間ならではの強い説得力があった。
さらに真壁は、書類を揃えながら真剣な面持ちで和真に提案を切り出した。
「そこで三浦さん。もし差し支えなければ、今後もご都合の合う際に、単発で構いませんので当施設の訓練に協力していただけないでしょうか?」
「今後も、ですか?」
「はい。今回のような自律型の騎士が相手であれば、新人の基礎訓練からベテランの連携対処まで、非常に幅広いカリキュラムを組むことができます」
もちろん、真壁も先ほどの説明で《因果祭典》のカードが一度使うと捨て札へ送られ、すぐには再使用できない仕様であることは理解している。次回依頼を受けた時に、今日と同じ《ミラ》と《セレス》が手札にあるとは限らない。
そのため、今後は事前に和真の手札や引き込めるカードの状態を確認し、「その時に召喚可能な騎士の特性」に合わせて訓練メニューをオーダーメイドで組む形にしたいという。
そこまでの制約を把握した上で、なお継続して依頼したいと言ってくれているのだ。断る理由などあるはずがなかった。
「……毎日出勤しろと言われると無職の沽券に関わりますが、今日みたいな単発のスポット協力なら、喜んでお受けしますよ」
「ありがとうございます。助かります」
「よかったですね、三浦さん! 初仕事でいきなりリピート確定ですよ!」
高梨も自分のことのように嬉しそうに拍手した。
手続きを終えて施設のロビーへと向かう途中、先ほど二階のガラス越しに今回の模擬防衛戦を見学していたらしい二十代前半の若い男性訓練生が、緊張した面持ちで和真に駆け寄ってきた。
「あ、あの! 三浦さん、少しだけよろしいですか!?」
「はい? なんでしょう」
「さっきの訓練、上から見させていただきました! あの二体の騎士って、本当にどうやって動かしてるんですか!? 真壁主任のフェイントに完璧に反応してましたけど……!」
「いや、本当に基本的には騎士たちが自分で考えて動いてるんですよ。俺は最初に『ポールを守れ』って言ったのと、最後に狙う相手を指定しただけです」
「……え? あれだけ高度な連携を、全自動でですか!?」
若い訓練生は信じられないといった様子で目を丸くし、さらに恐る恐る尋ねてきた。
「あの……失礼ですけど、三浦さんって、能力者としてどれくらい実戦経験を積まれてるベテランの方なんですか?」
「俺ですか? いや、能力に目覚めてから、まだ一週間も経ってないですよ」
「……えっ!?」
訓練生だけでなく、後ろを歩いていた施設の職員たちからも「一週間!?」という驚きの声が漏れた。
和真はなんだか気恥ずかしくなり、ポリポリと頬を掻きながら軽く会釈をして施設を後にした。
午後四時過ぎ。
高梨と駅で別れ、秋の夕暮れが迫る街並みを一人で歩きながら、和真は視界の右上のステータスを確認した。
『DECK 17』
『HAND 4/7』
『MANA 3/3』
『STORED DRAW 7/7』
『DISCARD 9』
訓練で《ミラ》《セレス》《標章》の三枚を使ったため、捨て札は9枚に増え、手札は4枚に減っている。午後四時前の周期処理はすでに済み、マナは3/3に回復していた。
現在、手札に残っている四枚のカードはこれだ。
《天輪の拘束鎖》 Cost:3
《天輪の光矢》 Cost:1
《天輪騎士-重鎧のバルガ》 Cost:4
《天輪総騎-アルシオン》 Cost:6
和真は歩きながら、今日の訓練での《ミラ》と《セレス》の活躍を思い返していた。
ミラのコストは、たったの『1』。
セレスのコストは『2』。
デッキの中では最も軽い、初動用の下級騎士たちに過ぎない。それにもかかわらず、二体並んだだけで熟練の指導員である真壁を完封し、周囲の能力者たちをあれほど驚愕させてみせたのだ。
そこで必然的に、和真の思考は手札に眠る「まだ使えないカードたち」へと向かう。
コスト4の重装騎士《バルガ》。山札に眠るコスト5の翼竜騎士《レグルス》。
そして、最初の朝に引き込んで以来、ずっと手札の端に居座り続けているコスト6の最高峰――《天輪総騎-アルシオン》。
「……一マナと二マナの騎士だけで、あれだけ滅茶苦茶に強いんだよな」
和真は頭の中で、白馬に跨り輝く槍を掲げるあの壮年の騎士のイラストを思い浮かべた。
昨夜は《標章》や《手当》と散々比較した末に、今は使えないという理由で《アルシオン》を一枚だけデッキから外した。いつか召喚してみたいという気持ちは、最初から変わっていない。
むしろ今日のミラとセレスの戦いぶりを見て、その気持ちはますます強くなっていた。
「……六マナも使う《アルシオン》って、実際に召喚したら一体どれくらい強いんだ?」
その問いに対する答えは、まだ分からない。だが、いつかマナの上限が6に到達し、あの白馬の総騎士を現実の盤面へと解き放つ瞬間を想像すると、背筋がゾクゾクするような期待感が込み上げてくるのを止められなかった。
ポケットの中のスマートフォンに目を落とす。
今日の数時間の稼働で、五万円の臨時収入が確定した。銀行口座の残高が減る一方だった無職の身にとって、これほど心強いことはない。
「……まあ、美味しいもの食べて帰ってもお釣りが来るし、無職生活の資金稼ぎとしては悪くないな」
夕陽に染まる駅の改札へと向かいながら、三十六歳の無職は、自分の手札に眠るまだ見ぬ切り札の重みを心地よく噛み締めていた。
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