TCG未経験の36歳無職、TCG能力《因果祭典》で異能バトル世界を駆け抜ける 作:パラレル・ゲーマー
新宿の雑居ビルの地下に広がる能力者専用施設『鳥籠』から帰宅した頃には、すっかり日が落ちていた。
初旬の夜風は、火照った身体を冷ますにはちょうどいい温度だったが、和真の頭の中はまだ奇妙な熱を帯びていた。
帰宅するなりスーツのジャケットを脱ぎ捨て、シャワーを浴びて汗と疲労を洗い流す。冷蔵庫から取り出した缶ビールを片手に、リビングのソファへ深く腰を下ろした。
プシュッ、と小気味良い音を立ててプルタブを引き、冷たい液体を喉へ流し込む。
「……疲れたな」
大きく息を吐き出す。
十四年あまり勤めた専門商社での激務とは、また種類の違う疲労感だった。理不尽な上司の要求や、取引先の無茶な納期調整からくる精神的な摩耗ではない。
未知の概念、規格外の常識、そして『異能の戦闘』という圧倒的な非日常を短時間で過剰摂取したことによる、脳の処理落ちに近い感覚だ。
ふと、ローテーブルに放り出していたスマートフォンが短く震えた。
画面をタップすると、メッセージアプリに通知が来ている。送り主は『久保田大地』。鳥籠の模擬戦場で、ガルドと殴り合ったあの常連の戦闘狂だ。
帰り際に半ば強引に連絡先を交換させられたのだが、通知は一件だけではなかった。
『明日無理?』
『じゃあ明後日?』
『速い奴もいるって言ってただろ? 今度そいつ出してよ。俺、速い奴とやり合うの好きなんだわ』
「なんであいつ、俺より俺のカードに詳しくなろうとしてるんだ……」
和真は呆れ半分、感心半分で画面を見つめた。
彼の中の『超能力者』というイメージは、もっとこう、闇に潜み、孤独を愛し、互いの命を削り合うようなシビアな存在だった。少なくとも、出会って数時間で「次の休みに遊ぼうぜ」と小学生のようなテンションで誘ってくる相手だとは思っていなかった。
とりあえず、適当に躱しておくか。
和真はフリック入力で返信を打つ。
『予定はまだ決めてません。また行く時にでも連絡します』
送信ボタンを押す。
これなら、相手も「じゃあまた今度」と引いてくれるだろう。そう思ってスマホをテーブルに置こうとした、その三秒後。
スマホが再び震えた。
『了解!』
『じゃあ明後日な! 午後ならいつでもいるから!』
「いや、了解してないだろ。なんで明後日行くことになってるんだよ」
和真はスマホの画面に一人でツッコミを入れ、それ以上の返信を諦めて画面を伏せた。
まあ、悪い奴ではないのは分かる。ただ、距離の詰め方がバグっているだけだ。
気を取り直して、和真は今日一日の総括をすることにした。
目を閉じ、意識を自分の内側――視界の端に常に存在している《因果祭典》のシステムへと向ける。
右上のHUDへ意識を向ける。
時間経過分のマナ回復や、ドロー権の蓄積処理があれば、ここでまとめて表示されるはずだ。
だが、今回はいつもの地味な文字列の更新とは違った。
視界の中央に、ファンファーレのような派手なエフェクトと共に、一枚の巨大なパネルがポップアップしたのだ。
『Basic Tutorial Requirements Satisfied』
「……ん?」
和真が怪訝な顔をした直後、パネルの下部に、これまで達成してきた項目が次々とリストアップされていった。
『《First Play》 ―― Complete』
『《Stored Draw》 ―― Complete』
『《Know Your Deck》 ―― Complete』
『《Recovery Test》 ―― Complete』
『《Summon Combat》 ―― Complete』
《First Play》や《Know Your Deck》のように達成時に通知が出たものもあれば、《Stored Draw》や《Recovery Test》《Summon Combat》のように、知らないうちに基礎操作として記録されていたものもある。
それらの項目に次々と緑色のチェックマークが入り、最後に画面全体が眩い光に包まれた。そして、極太のフォントでこう表示された。
『BASIC TUTORIAL COMPLETE』
「…………」
和真は、手に持っていたビールの缶をゆっくりとテーブルに置いた。
「今まで経験したこと、全部チュートリアルだったのかよ……」
能力に目覚め、わけもわからず眼科に行き、八咫烏で能力を調べられ、カードショップで右往左往し、自分のデッキの構成をメモ帳に書き出し、鳥籠で初めて召喚体を戦わせた。
和真にとっては怒涛の二日間であり、人生観がひっくり返るような大冒険だった。
だが、《因果祭典》というこのシステムにとっては、ただの「基礎操作の習得(チュートリアル)」に過ぎなかったらしい。
「まあ、ゲームってそういうもんだけどな……」
和真は少しだけ虚しさを感じながらも、次の通知を待った。
(これだけ派手な演出が入ったんだ。きっと、また大きな報酬があるはずだ)
第一回のクエストクリアでは、マナの最大値が1から2へ増えた。
デッキ内容をすべて確認した《Know Your Deck》では、2から3へと増えた。
ならば今回、チュートリアルを完全制覇したのだから、マナの最大値が4になるのではないか。和真はそう期待して、視界の右上に輝く数字を見つめた。
しかし。
『MANA CAPACITY 3』
数字は、3のままピクリとも動かなかった。
「……増えないのかよ」
和真は肩を落とした。
しかし、すぐに思考を切り替える。
「なるほどな。3マナまでは、あくまで初心者への補助輪みたいなものだったってことか」
ここから先の領域――4マナ、5マナと容量を増やしていくのは、ただ指示された行動をこなすだけではダメなのだろう。本当の意味でこの能力を使いこなし、因果を改変していく実績が必要になる。そんなシステムの意志を感じた。
マナ上限が増えない代わりに、新たな通知が中央のパネルに表示された。
『New Functions Unlocked』
『《COLLECTION》』
『《DECK EDIT》』
『《BOND》』
「……急に項目が増えたな」
和真は腕を組み、三つの新しいメニューを見比べた。
とりあえず、一つずつ確認していくしかない。
まずは、一番名前の意味が分かりやすい『COLLECTION(コレクション)』からだ。
和真がその項目に意識を向けると、新しいウィンドウが展開された。
『COLLECTION』
『Registered Cards:30』
『Theme:《天輪》』
画面には、デジタルカードゲームのバインダーのような形式で、カードの画像がずらりと並んでいた。
だが、そこに表示されているのは、現在和真が所持している初期デッキの十五種類、各二枚ずつのカードだけだった。
《天輪騎士-初陣のレオ》から始まり、《天輪総騎-アルシオン》、そして《天輪の護壁》や《天輪の補給》といった補助カードまで。
未入手のカードが「???」というシルエットで何百枚も並んでいるような、ソシャゲの図鑑画面を想像していた和真は、少し拍子抜けした。
「……なんだ。俺が知ってる奴しかいないじゃないか」
総数が何枚あるのか、そもそも《天輪》以外のテーマが存在するのかどうかも、この画面からは全く読み取れない。あくまで「現在獲得済みのカードをリスト化して管理する場所」らしい。
気を取り直して、次の項目『DECK EDIT(デッキエディット)』を開く。
これは昨日のカードショップでの勉強のおかげで、何を意味する機能なのかは痛いほどよく分かる。
画面が左右に分割された。
左側には『CURRENT DECK:30 CARDS』と表示され、現在のデッキリストが並んでいる。
右側には『AVAILABLE COLLECTION』と表示されていたが……当然のことながら、そこに並んでいるのも、現在使っている三十枚のカードだけだった。
「……これ、何をどうやって編集するんだ?」
和真は試しに、左側の現在のデッキから《初陣のレオ》を一枚選択し、デッキから外す操作を念じてみた。
すると、エラー音のような不快な電子音と共に、警告文がポップアップした。
『29/30』
『Deck cannot be registered.』
『Minimum / Maximum Deck Size:30』
「ああ、なるほど。完全に三十枚固定なのか」
ここで初めて、和真は自分のデッキのルールを一つ確定させた。
二十九枚以下でも、三十一枚以上でもダメ。必ず三十枚きっかりで組まなければならない。
さらに、同じカードを三枚入れようとしてみたが、そもそも《レオ》を二枚しか所有していないため、操作自体が弾かれた。「同名カードはデッキに何枚まで入れられるのか」という上限ルールは、新しいカードを手に入れるまで検証できそうになかった。
「編集機能が開いたのはいいけど、肝心の入れ替えるための予備カードを一枚も持ってないじゃないか」
これでは宝の持ち腐れだ。
最後に残った項目。和真にとって、これが一番意味不明だった。
『BOND(ボンド)』。
直訳すれば「絆」や「結びつき」。
おそるおそるその項目を開いてみる。
画面は、ほとんど空白だった。中央にぽつんと、一行のテキストだけが浮かんでいる。
『Established Bonds:0』
そして、その下に小さな文字でシステムの説明文が添えられていた。
『他者との因果的結びつきを記録します。』
『一定以上の相互認識および、因果的関係が成立した場合、Bondとして登録されます。』
『Bondの進行度は、Card Acquisition(カードの獲得)に影響を与える場合があります。』
「…………」
和真は眉間に皺を寄せ、その説明文を三回ほど読み直した。
「Card Acquisition……カードの獲得、だよな」
和真は一人ごちた。
「要するに、人間関係を作れば、新しいカードが増えるってことか?」
ここで初めて、和真は《因果祭典》が人間関係そのものを成長要素として扱っていることを理解した。
和真はソファの背もたれに体重を預け、天井を仰ぎ見た。
自分の身の回りで、昨日から今日にかけて知り合った人間を頭の中に思い浮かべてみる。
最初に診てもらった眼科医。
八咫烏の専任担当になった、クールだがカードゲームの話になると早口になる高梨紗季。
秋葉原のカードショップで、見ず知らずの初心者に一から丁寧にルールを教えてくれた瀬川。
そして今日、鳥籠で模擬戦に付き合ってくれた、戦闘狂の久保田大地。
鳥籠の医務室にいた医師や、治癒能力者たち。
そこそこ密度の濃い時間を過ごした人間は、何人かいる。
それでも、システムの表示は『Established Bonds:0』のままだ。
「まあ、そりゃそうか。一回や二回会って話したくらいで『絆が結ばれました!』なんて、安っぽいギャルゲーじゃあるまいし」
和真は、このシステムが要求している「因果的な関係」というものが、単なる顔見知りや連絡先の交換程度では成立しないことを悟った。互いの人生に何かしらの影響を与え合うような、本物の関係性が必要なのだろう。
和真の脳裏に、一瞬だけ邪(よこしま)な考えがよぎった。
(人と仲良くして、関係を深めれば新しいカードが手に入る。……なら、カード目当てで高梨さんや瀬川さん、あの大地とかいう奴に媚を売って近づくか?)
商社で営業や交渉を長年やってきた和真にとって、「目的のために人間関係を構築し、笑顔で懐に入り込む」ことなど造作もないことだ。接待ゴルフや、興味もない取引先の社長の趣味の釣りに付き合うようなものだと思えばいい。
だが、和真はすぐに首を横に振った。
「……いや、ないな。絶対にない」
三十六歳にもなって、仕事を辞めて自由になったというのに、「超能力のカードが欲しいので、僕と仲良くしてください、友達になってください」などと計算高く他人に擦り寄るなど、自分の美学が許さない。あまりにも惨めすぎる。
「カードは確かに欲しいが、人間関係をポイント稼ぎの道具にするのは嫌だ。普通に生きて、誰かと関わって、それで結果的にカードが増えたらラッキー。……そのくらいのスタンスでいいだろ」
和真はそう結論づけ、自分の中の倫理的な境界線をしっかりと引いた。
これ以上、この項目を見ていても仕方がない。和真が『BOND』の画面を閉じようとした、まさにその瞬間だった。
視界の中央に、ひときわ大きな通知が割り込んできた。
『Final Tutorial Quest』
『《Build Your Own Deck》』
『初期構築以外のカードを新たに獲得し、CURRENT DECKを一度以上変更する。』
『Progress:』
『New Card Acquisition 0/1』
『Deck Modification 0/1』
和真は、その通知画面をじっと見つめた。
数秒の沈黙の後、和真は誰もいないリビングで声を荒げた。
「いや、だから!」
和真は虚空を指差した。
「COLLECTIONを見ても三十枚! DECK EDITを見ても三十枚! どうやって入れ替えるんだよ! 入れ替えるためのカードがないんだよ!」
当然、システムからの返事はない。無機質な通知画面が、ただそこに浮かんでいるだけだ。
「新しいカードを獲得しろって言うけど、具体的にどうやって手に入れるんだ? クエストの報酬か? Bondを深めるのか? それともどっかのダンジョンに潜って宝箱から見つけるのか? ソシャゲみたいにガチャ石でも配ってくれるのか?」
ため息をつき、和真は髪をガシガシと掻き毟った。
「チュートリアルって名乗るなら、一番肝心な『カードの取得方法』の手順くらい教えろよ……不親切なゲームだな、おい」
結局、和真がその夜に得られた答えは何一つなかった。
ただ、「自分のデッキを自分の意志で構築しなければならない」という最終課題だけが、重くのしかかっていた。
翌朝。
アラームをかけずに自然に目を覚ますという、無職ならではの贅沢な朝。
和真はキッチンでコーヒーを淹れながら、今日一日にやるべきことを整理していた。
現在の最大の問題は「新しいカードが必要だが、その取得方法が全く不明である」ということだ。
そしてもう一つの問題は、「仮に奇跡的に新しいカードが一枚手に入ったとして、現在の完成された三十枚のデッキから、一体どのカードを抜けばいいのか全く分からない」ということだった。
「……こういう実践的な悩みを相談するなら、あの人に聞くのが一番早いな」
和真の頭に思い浮かんだのは、秋葉原のカードショップの店長代理、瀬川の顔だった。
もちろん、自分の異能についての事実を打ち明けるわけにはいかない。
またしても、「俺が考えている仮のカードゲームの話なんですけど」という、苦しい言い訳を使うことになる。
「あの人、絶対に俺のこと『ヤバい未発表ゲームの開発者』だと勘違いしてるよな……」
苦笑しながら、和真はマグカップのコーヒーを飲み干し、外出の準備を始めた。
午後一時前。
秋葉原の雑居ビルにあるカードショップ『ドローフェイズ』のドアを開けると、前回来た時と同じように、清潔で明るい店内が広がっていた。
平日の昼間ということもあり、対戦スペースには数人の客がパラパラと座っているだけで、店内は静かだった。
レジカウンターの奥で、大量のカードの仕分け作業をしていた瀬川が、入店を告げるチャイムの音に顔を上げた。
「いらっしゃいま――あ」
瀬川の目が丸くなる。
「どうも」和真は軽く片手を上げた。
「三浦さん。また来てくれたんですね。早かったですけど、どうしました?」
「まあ……前回の続きみたいなもので」
和真がカウンターに近づくと、瀬川は仕分けの手を止めて、少し楽しそうな顔をした。
「例の『仮のゲーム』のルールの話ですか?」
「はい。そういうことになります」
完全に覚えられているし、面白がられている。和真は少し恥ずかしくなったが、背に腹は代えられない。
「前回聞き忘れた、というか、新しい疑問が湧いたんですけど」
「はい、何でしょう?」
「例えば、三十枚で完成しているデッキがあって、そこへ新しいカードが一枚手に入ったとしますよね」
「はい」
「その新しいカードをデッキに入れたい時、元々あった三十枚の中から、一体『何を基準にしてカードを抜けばいい』んですか?」
あまりにも初心者らしい、しかしデッキ構築の根本に触れる本質的な質問だった。
瀬川は、ふふっと少しだけ吹き出した。
「三浦さん。それが『デッキ構築』という作業の一番難しくて、一番面白いところなんですよ」
「ですよね」和真は苦笑した。「なんとなく、そんな気はしてました」
瀬川はカウンターの上に、いくつかのカードの束を並べながら説明を始めた。
「カードゲーマーって、新しいカードが手に入ると、どうしても『入れたく』なるんです。効果が強そうだから。イラストがカッコいいから。せっかく高いお金を出して買ったから。理由は様々です」
和真は頷いた。
「でも、デッキの枚数上限が決まっている以上、何かを入れるためには、何かを抜かなければならない」
「実際は、新しいカードを『入れる』理由を探すより、既存のカードを『抜く』理由を決める方が、精神的にも戦術的にも何倍も難しいんです」
瀬川の言葉に、和真は自分の社会人経験を照らし合わせた。
「なんだか、会社の人員整理や部署の統廃合みたいですね。優秀な中途採用を一人入れるために、既存の社員の誰に肩を叩くか決めるような……」
瀬川がドン引きした顔で和真を見た。
「三浦さん、急に生々しくて嫌な例えするのやめてもらえます? カードゲームのファンタジー感が一瞬で消え失せたんですけど」
「すみません、つい職業病で」
無職のくせに職業病とはこれいかに、と自分にツッコミを入れつつ、和真は話を促した。
「抜く基準、ですよね」
瀬川は気を取り直して、真剣なトーンに戻った。
「いくつか基本的な考え方があります。一つ目は『役割が被っているか』。例えば、相手を攻撃するだけのカードがデッキに多すぎるなら、新しい攻撃カードを入れる代わりに、古い攻撃カードを一枚抜く。これでデッキのバランスは保たれます」
「なるほど」
「二つ目は『マナカーブが崩れないか』。前に説明しましたよね? コストの分布です」
「はい。低い方から高い方への階段みたいなやつ」
「そうです。例えば、ものすごく強いコスト6のカードを手に入れたからといって、コスト1のカードを抜いてしまうと、序盤に動けなくなるリスクが高まります。高コストを入れるなら、同じ高コスト帯から抜くのがセオリーです」
和真は、自分の《因果祭典》のデッキリストを思い浮かべた。
(俺のデッキは0マナと1マナに極端に寄ったアグロ構成だ。もし新しい3マナのカードを入れるなら、適当に1マナを抜くのは危険ってことだな)
「三つ目は『デッキの目的に合っているか』。カード単体の能力がどれだけ強くても、デッキ全体の戦術(テーマ)と噛み合っていなければ、それはただのノイズになります」
(俺のデッキは《天輪》テーマだ。もし《天輪》以外のカードが手に入った時、単体の強さだけで判断してはいけないわけか)
「そして最後、これが一番実践的です」
瀬川は和真の目を真っ直ぐに見た。
「『実際に何度か戦ってみて、手札で腐っていた(使わなかった)カードは何か』を思い返すことです」
和真の脳裏に、昨日の鳥籠での模擬戦の記憶がフラッシュバックした。
大地の猛攻を凌ぐ中で、和真が最後まで手札に抱えたまま、一度も使わなかったカードがある。
《天輪の標章》。Cost 0。
対象へ目印を付与するだけのサポートカードだ。
(じゃあ、あの《標章》がいらないカードなのか?)
和真は自問自答した。
いや、そう単純ではない。昨日は一対一の、視界が完全に開けたケージ内での戦闘だった。もしこれが、複雑な市街地での追跡劇や、姿を消すような敵が相手だったなら、《標章》は必須のキーカードになっていたはずだ。
「……一回使わなかったからといって、単純に弱いカード、抜いていいカードとは限らないんですね」
和真の呟きに、瀬川は嬉しそうに頷いた。
「その通りです! 対戦相手のデッキタイプや、戦う環境(メタゲーム)によって、カードの価値は全く変わります。だからデッキ構築に正解はないんです」
「……難しいな、デッキを作るのって」
和真は深く息を吐いた。三十枚という限られた枠の中で、これほど高度な取捨選択が求められるとは思っていなかった。
一通りのレクチャーが終わった後、瀬川がふと探るような視線を和真に向けてきた。
「ところで、三浦さん」
「はい?」
「その『仮のゲーム』、どんどん仕様が具体的になってきてません?」
「気のせいです」
和真は即座に目を逸らした。
「前回はマナのシステムとドローの話でしたよね。今日は三十枚固定のデッキ編集の話」
瀬川はカウンターから身を乗り出してきた。
「三浦さん、本当はどこかのメーカーの、発売前のテストプレイヤーか何かやってるんじゃないですか?」
「違います」
「じゃあ何なんですか? 新作TCGのプロデューサー?」
「ただの素人です」
「素人が、こんなに具体的なシステムの話を持ち込んできます?」
「仮の話ですから」
和真が頑なにシラを切り通すと、瀬川は「まあ、いいですけど」と少し不満そうに引き下がった。
相談が一段落し、和真が帰ろうとした時のことだ。
ふと、和真は店内の様子の『違和感』に気がついた。
瀬川が先ほどから、しきりにカウンターの奥の時計を見上げたり、手元のスマートフォンを確認したりして、落ち着かない様子を見せているのだ。
さらに、和真の視界の端に、前回来た時にはなかった手書きのポスターが壁に貼られているのが見えた。
『初心者体験会 開催!』
『明日 土曜日 14:00~16:00』
『構築済みデッキ無料貸し出し! ルールを知らない方大歓迎!』
そのポスターの下には、参加者の予約リストらしき表が貼られていたが、見事に真っ白だった。名前が書かれているのは、せいぜい一人か二人だけだ。
「瀬川さん」和真はポスターを指差した。「これ、瀬川さんが企画してるんですか?」
「あ、はい。そうなんですよ。明日の午後なんですけど」
瀬川の顔に、明らかな疲労感と焦りが浮かんだ。
「予約、あんまり入ってないみたいですね」
「耳が痛いです……。まあ、当日の飛び入り参加に期待するしかないですね」
瀬川はため息をついた。
「それに、実はもう一つ問題があって。明日、この初心者会を一緒に回してくれる予定だったアルバイトのスタッフが、急に熱を出して休むことになっちゃって」
「えっ、じゃあ明日はどうするんですか?」
「まあ、一人でなんとかしますよ。受付して、ルール説明して、対戦相手して……ちょっと目は回ると思いますけど」
和真には、瀬川の顔が『明らかに何とかしようとしている顔』には見えなかった。
キャパシティオーバーになる未来が見え透いている。
「人手不足なのもキツいんですけど……実は、もっと根本的な悩みがあって」
瀬川はカウンターに両肘をつき、和真にだけ聞こえるような小さな声でこぼした。
「三浦さんみたいに、初心者の方がお店に定着してくれないのが一番の悩みなんですよ」
和真は首を傾げた。
「このお店、お客さん結構入ってますよね?」
「常連さんは多いんです。大会も盛んですし、いわゆる『ガチ勢』の方々にはご愛顧いただいてます。でも、だからこそ、新規の初心者が入りづらい空気が出来上がっちゃってて」
瀬川は少し困ったように眉を下げた。
「以前、初心者会を開いた時も失敗しちゃって。良かれと思って常連さんたちが手伝ってくれたんですけど、彼ら、親切心から初心者に『アドバンテージ』だの『テンポ』だの『マリガン』だの『リーサル』だの、専門用語を最初から機関銃みたいに連発しちゃったんです」
「ああ……」
「初心者の方、完全に『????』って顔になって、途中で帰っちゃったんですよ。みんな悪気はないんです。ただ、カードゲームを何年もやってると、『初心者が一体どこから分からないのか』が、分からなくなっちゃうんでしょうね」
その言葉は、和真の心に深く刺さった。
なぜなら和真自身が、ほんの二日前まで『ハンド(手札)』という言葉の意味すら知らなかった、正真正銘の、純度百パーセントの初心者だったからだ。
専門用語の壁。
それは、商社マン時代の和真もよく見てきた光景だった。
「コンセンサスを取れ」「アジェンダを確認しろ」「シナジーを生み出せ」と、新入社員に横文字を連発して悦に入る先輩社員。新入社員は分かったふりをして頷くが、実際には何も理解していない。あれと全く同じ構図だ。
和真は、自分の中に明確な『初心者視点』があることに気がついた。
「それなら……俺、まさにその『何も分からない初心者』のサンプルじゃないですか」
瀬川がハッとして和真を見た。
「そうなんですよ!」
瀬川はカウンターから身を乗り出した。
「前回、三浦さんにルールを説明していて、私自身すごく勉強になったんです。『ああ、カードゲームを知らない人は、ハンドを本当に物理的な手だと思ったり、コストの概念からつまずくんだ』って。新鮮な驚きでした」
「……褒められてる気が全くしないんですけど」
和真は苦笑した。
「実は、明日の説明の順番をまだ迷ってて」
瀬川はメモ帳を広げた。そこには初心者会の進行スケジュール案がびっしりと書かれている。
「最初にルールブック通りにフェイズの進行を全部説明するか。それとも、とりあえずカードを持たせて遊んでもらうか。用語はどこまで使うべきか。デッキ構築の楽しさまで伝えるべきか……」
「瀬川さん」和真はメモ帳を指差した。「前回の俺なら、最初からマナカーブとかフェイズ進行とか言われても、絶対に帰ってますね」
「ですよね……」瀬川は肩を落とした。
「まずカードを持たせて、一回使わせた方がいいんじゃないですか?」
和真自身が《因果祭典》の能力を理解できたのは、ルールブックを読んだからではない。実際にカードを使い、騎士を召喚し、マナを消費するという『体験』を経たからだ。
「最初に配る手札と、マナ(コスト)の支払い方だけ教えて、とりあえず最初のターンをやらせてみる。で、相手を攻撃したくなったり、防御したくなったり、困った状況になったところで、必要な追加ルールをその都度説明する。最後に、デッキの中身を入れ替える概念を少しだけ話す」
和真は、自分の経験則を元に提案した。
「前回の俺なら、この順番が一番ストレスなく理解できますね」
瀬川は目を見開き、和真の提案を夢中でメモ帳に書き込んだ。
「……それ、すごくいいかもしれません。実戦形式のチュートリアルですね」
瀬川は顔を上げ、嬉しそうに笑った。
「三浦さん、最高のテストケースですね!」
「もうちょっとマシな言い方ありませんか?」
二人で初心者会の流れを詰めている最中、瀬川のスマートフォンが再び鳴った。
画面を見た瀬川の顔が、サッと青ざめる。
「……あー」
「どうしました?」
「明日のヘルプに入ってくれるかもしれないって言ってた別のスタッフも、どうしても外せない用事が入ったみたいで……これで完全に、明日は私一人(ワンオペ)確定です」
瀬川は頭を抱え、カウンターに突っ伏した。
「どうしよう。これでもし、飛び入り参加で初心者が五人も六人も来たら、確実に対応がパンクします……」
深い沈黙が降りた。
和真は、店内の掛け時計に目をやった。
そして、自分の明日の予定を脳内で検索する。
『なし』。当然だ。無職なのだから。
和真は小さく息を吐き、静かに口を開いた。
「瀬川さん。俺でよければ、明日のイベント、受付とか雑用くらい手伝いましょうか?」
瀬川がガバッと顔を上げた。
「え?」
「ルール説明や対戦相手は、素人の俺にはまだ無理ですよ。でも、パイプ椅子を並べたり、参加者の受付名簿を書かせたり、お茶を出したり、初心者相手の話し相手になるくらいならできます」
瀬川は信じられないものを見るような目で和真を見た。
「い、いいんですか? 三浦さん、お客さんなのに。それに、お仕事は……」
「めちゃくちゃ暇なんで」
和真は自嘲気味に笑った。
瀬川は少し呆れたように、しかし安堵の表情を浮かべて言った。
「無職って、便利ですね」
「高梨さん……いや、別の人にもついこの間、全く同じこと言われましたよ」
「前回は俺も色々教えてもらいましたし、ちょうど予定もないので。気にしないでください」
和真はそう付け加えた。
カードのためでも、何か見返りが欲しいからでもない。前回世話になった相手が困っていて、自分には時間がある。それだけだった。
「……ありがとうございます」
瀬川は深く頭を下げた。ただの客に対する営業スマイルではなく、心からの感謝の言葉だった。
そして、少しだけ照れくさそうに本音をこぼした。
「私、この初心者会、ずっと続けたいんですよ」
瀬川はショーケースの中に並ぶ色鮮やかなカードたちに視線を向けた。
「カードゲームって、こんなに奥深くて面白いのに、最初の専門用語やルールの壁が高すぎて、中に入ってこられない人が本当に多いから。それが悔しくて」
「だから……」瀬川は和真を見た。「前回の三浦さんみたいな、本当に何も知らない人が来てくれるの、すごく嬉しかったんです」
「前回の俺みたいな、物覚えの悪いおっさんでもですか?」
和真の自虐に、瀬川は笑って首を振った。
「むしろ、三浦さんみたいな大人の方にこそ、この趣味の面白さを知ってほしいんです。明日はよろしくお願いしますね、三浦スタッフ」
「一日限りのバイトリーダーとして頑張りますよ」
店を出ると、午後三時を少し回ったところだった。
和真は駅へ向かいながら、スマートフォンを取り出した。
ポケットの中でスマホが震えた。瀬川からのメッセージだ。
『明日は13時にお店に来ていただけると助かります。本当にありがとうございます! よろしくお願いします!』
和真は立ち止まり、短い返信を打った。
『了解です。遅れないように行きます』
スマホのカレンダーアプリを開き、明日の日付の欄に予定を書き込む。
『13:00 カードショップ 初心者体験会手伝い』
和真は、少し前まで完全に真っ白だった自分のスケジュール帳を見つめた。
昨日は鳥籠での治癒実験と模擬戦。
明日はカードショップでイベントの手伝い。
そして、メッセージアプリには、久保田大地から新しいメッセージも届いていた。
『土曜どう? 無理なら日曜は?』
「……俺、会社辞めて半年くらいは、誰とも関わらずにゆっくり休む予定だったよな?」
和真はスマートフォンをポケットにしまい、自分の思い通りにならない無職生活に、呆れたような、しかしどこか悪くない笑みを浮かべた。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!