TCG未経験の36歳無職、TCG能力《因果祭典》で異能バトル世界を駆け抜ける   作:パラレル・ゲーマー

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第7話 36歳無職、初心者なのに初心者体験会を手伝う

 土曜日の午後零時五十分。

 秋葉原のメインストリートから少し外れた雑居ビル。その三階にあるカードショップ『ドローフェイズ』の前に、和真は立っていた。

 

 約束の時間は午後一時だ。

 十五年間、営業職として染み付いた「十分前行動」の癖は、無職になってまだ一週間も経たない身には抜け切っていなかった。

 

 店の前の立て看板には、昨日和真が見た手書きのポスターが貼られている。

『初心者体験会 14:00~16:00』

『構築済みデッキ無料貸し出し! ルールを知らない方大歓迎!』

 

 和真はそのポスターを見上げながら、思わず苦笑いを漏らした。

「……まさか俺が、カードゲームを教えるイベントの手伝いをするとはな」

 

 つい数日前まで、TCG(トレーディングカードゲーム)のルールどころか、カードゲームの専門ショップにすら足を踏み入れたことがなかった。

 今でも和真は、ルールブックを読み始めたばかりの正真正銘の初心者だ。カードの細かい裁定や、専門用語の意味は半分も分かっていない。

 

 しかし、今日はルールの先生として来たわけではない。

「まあ、パイプ椅子並べて、アンケート配るくらいなら俺にもできるだろ」

 和真は小さく肩をすくめ、自動ドアを潜った。

 

 今はただのボランティアスタッフだ。自身の《因果祭典》のデッキ構築や、マナの運用といったややこしい能力のことは、一旦頭の隅に追いやることにした。

 

 入店すると、すぐに瀬川の姿が見えた。

 普段はフリーの対戦スペースとして使われているエリアの長机を、一人でせっせと動かしてレイアウトを変更しているところだった。

 テーブルの上には、初心者向けの貸出用デッキ、プレイマット、ルール説明の紙、そしてアンケート用のクリップボードとボールペンが無造作に積まれている。

 

 和真が近づくと、瀬川は荷物を抱えたままパッと顔を輝かせた。

「三浦さん! 本当に来てくれたんですね!」

「約束しましたから。遅れてすみません、ちょっと早すぎましたか」

「いえいえ! むしろ助かります。……あの、昨日はちょっと勢いで手伝いをお願いしちゃって、後からすごく申し訳なく思ってたんです。せっかくの休日に、お客さんに仕事を押し付けちゃったんじゃないかって……」

 瀬川は申し訳なさそうに身を縮めた。

 

 和真は笑って手を振った。

「別にいいですよ。どうせ家で寝てるか、海外ドラマ見てるかくらいの暇人ですから。何からやればいいですか?」

 瀬川はほっとしたように表情を緩めた。

「ありがとうございます。じゃあ、まずはこのテーブルと椅子の配置をお願いしてもいいですか?」

 

 和真は上着を脱ぎ、早速裏方作業に回った。

 最初は長机と椅子の配置。次にプレイマットを敷く作業。

 瀬川が、参加人数分の貸出デッキの束をテーブルに置こうとした時、和真が声をかけた。

 

「瀬川さん。貸出デッキは、ルール説明が終わってから渡した方がいいんじゃないですか?」

「えっ? 最初から席に置いておくつもりだったんですけど……ダメですか?」

「初めての人って、目の前に見慣れないカードがあると、説明の途中でも気になって勝手に触り始めちゃうんですよ。俺がそうだったんで」

 

 和真は、営業時代の展示会やセミナーでの経験を重ね合わせていた。

「先に手元に資料やサンプルがあると、人は話を聞かなくなるんです。最初はプレイマットとアンケート用紙だけにしておいて、実演が始まる直前に『じゃあ、これから配ります』ってやった方が、メリハリがついて集中してくれますよ」

 

 瀬川は目を見張った。

「……なるほど。確かにその通りですね」

 瀬川は感心したようにデッキの束を回収した。

「三浦さん、こういうイベントの運営とか誘導、すごく慣れてません? 本当にお仕事何されてたんですか?」

 

「メーカーの営業です。展示会とか新製品のセミナーとかで、こういう会場設営や客の誘導は散々やらされたんで。まあ、カードゲームのイベントとは客層も雰囲気も全然違いますけどね」

「いえ、めちゃくちゃ頼りになります。バイトリーダーどころか、イベントディレクターじゃないですか」

 和真は社会人としての基礎能力を、思わぬ場所で発揮していた。

 

 午後一時二十分。

 会場の設営がほぼ終わり、二人はレジカウンターで進行表の最終確認を行っていた。

 

 昨日、和真の意見を取り入れて修正したスケジュールだ。

 14:00 挨拶・最低限のルール(手札とマナ)説明

 14:10 実際にカードを使ってみる体験

 14:25 初心者同士での練習対戦

 15:00 質問・小休憩

 15:15 自由対戦

 15:50 アンケート記入・次回案内

 

「とりあえず、昨日の三浦さんの『最初に全部説明せず、まずはカードを使わせる』という意見をベースに組んでみました」

「俺の意見なんて、単に『専門用語並べられても分からん』って愚痴っただけですよ」

「その初心者の生の声が、一番大事なんです」

 瀬川は真剣な顔で進行表にペンでチェックを入れた。

 

 午後一時四十分。体験会の開始二十分前。

 瀬川は手元の受付名簿を確認し、少しだけ溜息をついた。

「……やっぱり、事前予約は二人のままですね」

 和真は名簿を覗き込んだ。

「二人なら、逆にマンツーマンでじっくり教えられるんじゃないですか?」

「そうなんですけど……お店としては、やっぱりもっと新しい人に来てほしいんですよね」

 瀬川の言葉には、イベント主催者としてのリアルな切実さが滲んでいた。

 

 それから十分後。

「あのー、初心者体験会って、まだ参加できますか?」

 入り口から、学生服を着た高校生の男子二人が恐る恐る声をかけてきた。

 瀬川の顔がパッと明るくなる。

「はい! もちろんです! すぐにご案内しますね!」

 

 その直後だった。

「すみません、小学生でも参加できますか?」と、母親に手を引かれた男の子が来店。

 さらに、店の前に貼られたポスターをじっと見ていたスーツ姿の男性が、意を決したように入店してきた。

 終了間際にもう一人の若い男性が滑り込み、結果として――。

 

「事前予約二人、飛び入り六人……合計、八人!?」

 瀬川はカウンターの裏で、嬉しい悲鳴を殺しながら小声で叫んだ。

「昨日、あれだけ飛び入り参加に期待してたじゃないですか」

「そうですけど! こんなに一気に来るとは思わなくて! やばい、貸出デッキの準備が……!」

「俺が受付と席の誘導やりますから、瀬川さんはデッキとプレイマットの追加準備を」

「お願いします!」

 和真の冷静なフォローのおかげで、イベントは定刻通りにスタートすることができた。

 

 午後二時。

 八人の参加者が対戦スペースの席に着いた。

 年齢層はバラバラだ。小学生の親子連れ、高校生の二人組、そして三十代の会社員風の男性が数名。

 

 瀬川が前に立ち、マイクなしのよく通る声で挨拶を始めた。

「本日は初心者体験会へお越しいただき、ありがとうございます。担当の瀬川真琴です」

(真琴っていうのか)

 和真は、ここで初めて瀬川のフルネームを知った。

 

「今日は、カードゲームを全く知らない方でも楽しめるように、難しいルールの説明は後回しにします。まずは、実際にカードに触って、遊んでみましょう!」

 瀬川は、隣に立つ和真を手で示した。

「こちらは、本日お手伝いしてくださるスタッフの三浦さんです」

 

 和真は一歩前に出て、軽く頭を下げた。

「三浦です。よろしくお願いします。ちなみに俺も、カードゲームを始めてまだ数日の素人なんで、ルールの難しい質問は全部瀬川さんへ聞いてください」

 参加者たちから、ドッと軽い笑いが起きた。

「三浦さんは、皆さんと同じ初心者目線でサポートしてくださいますので、分からないことがあれば気軽に声をかけてくださいね」

(俺、聞いてた雑用の仕事よりハードル上がってないか?)

 和真は内心で冷や汗をかいた。

 

 瀬川の説明は、極めてシンプルだった。

 参加者全員に五枚のカードが配られる。

「まず、皆さんが今持っているそのカードが『手札』です」

 次に、コストの払い方。

「カードの左上に書かれている数字が『コスト』です。手元にある『マナ』を支払うことで、そのカードを使うことができます。今はマナが『1』だと思ってください」

 

 説明は、本当にこれだけだった。

 フェイズの進行も、複雑な効果処理も、専門用語も一切口にしない。

 

 参加者の一人、高校生が手を挙げた。

「じゃあ、このコスト『6』って書いてあるデカいドラゴンのカードは、最初からは使えないんですか?」

「はい。今のマナでは使えません。ゲームが進んで、マナが貯まってからのお楽しみです」

 和真は、自分が最初に《アルシオン》のカードを見た時のことを思い出していた。

(やっぱり、初心者は最初、その一番デカい数字のカードが気になるよな)

 

「それでは、手札の中から、今使える『コスト1』のカードを一枚選んで、前に出してみてください」

 瀬川の促しに、参加者たちが一斉に自分の手札を見つめる。

 

 どれを出せばいいのか迷う者。

 イラストの格好良さですぐに決める小学生。

 カードのテキストを真剣に読み込む会社員の男性。

 

「あの、これでいいですか?」

 一人の参加者が、恐る恐るカードをプレイマットに置いた。

「はい! 正解です! これであなたはカードを一枚『使った』ことになります」

 瀬川が笑顔で肯定すると、それを皮切りに周囲の参加者も次々とカードを出し始めた。

「あ、こういう感じなんだ」

「じゃあ、こっちのカードも使える?」

「マナの範囲内なら使えますよ」

 

 会場の空気が、少しずつ解れていく。

 初心者が自分の手でカードを選び、プレイし、それがルール的に「正解」だと認められる。その小さな成功体験が、長々としたルール説明よりも何倍も彼らの理解を早めていた。

 

 十分ほど基本的な操作を練習した後、瀬川の合図で四組に分かれての『練習対戦』が始まった。

 まだ勝敗にはこだわらず、お互いにカードを出してルールを確認し合う時間だ。

 

 和真はテーブルの間をゆっくりと歩き回り、手が止まっている参加者に声をかけた。

 もちろん、和真はまだ専門的な質問には答えられない。

「このカード、今出せますか?」という質問には「コストが足りてるから出せますね」と答えられる。

 しかし、「これとこれの効果が同時に発動したら、どっちの処理が先ですか?」と聞かれれば、素直に頭を下げる。

「すみません、その複雑な裁定は俺にはまだ早いです。瀬川さんに確認しましょう」

 知ったかぶりをせず、適切な担当者へエスカレーションする。これも社会人としての基本スキルだ。

 

 体験会が盛り上がる中、少し離れた席から対戦を眺めていた常連らしき男性客が、高校生二人のテーブルに近づき、善意でアドバイスを始めた。

 

「あー、そこはテンポ損ですよ。こっちのカードを先に使った方がアドが取れるし、次のターンのリーサルも見えてますから」

 高校生は、手札を持ったまま完全にフリーズした。

「……テンポそん? アド?」

「えっと……リーサル?」

 常連客は、初心者が止まってしまったのを見て、さらに詳しく説明しようと身を乗り出した。

「だから、今そのカードを切っちゃうと、相手のボードに対する回答がなくなって、アドバンテージ差が開くでしょう?」

 

 高校生二人の顔に、「このゲーム、難しすぎる」という明らかな拒絶反応が浮かび始めた。

 

 和真はすかさず横から割って入った。

「すみません、お兄さん」

「え?」

「俺も初心者なんで教えてほしいんですけど、今の言葉、普通の日本語に翻訳するとどういう意味ですか?」

 

 常連客は虚を突かれた顔をした。

 和真は一つずつ噛み砕いて確認する。

「『テンポ損』とか『アドが取れる』っていうのは……つまり、今このカードを使うと、次に出せるカードが減って動きづらくなる。だから、先に別のカードを使った方が後々有利になる、ってことですか?」

「あ、ああ、そうそう! そういうことです!」

 

 和真は高校生たちに向き直った。

「だそうです。今使えるカードを適当に全部出すんじゃなくて、次の順番で自分が何を出したいか、相手が何をしてくるかも考えながら選んだ方がいいみたいですよ」

「ああー! そういうことか!」

「なるほど、じゃあこっちは温存しとくか」

 高校生たちの顔に、再び理解の光が戻った。

 

 常連客は、少しバツが悪そうに頭を掻いた。

「……悪い。普通に通じると思って、無意識に使ってたわ」

「いや、言ってる戦術自体はすごく勉強になりますよ。ただ、俺ら初心者は、まだその専門用語の辞書を頭にインストールしてないんで」

 

 そこに瀬川が小走りでやってきた。

「三浦さん、ありがとうございます。フォロー助かりました」

 瀬川は常連客にも頭を下げた。

「アドバイスありがとうございます。でも、こういう体験会では、できるだけ専門用語を使わずに『効果』そのものを説明してあげると、伝わりやすいんです」

「なるほどな。俺、ずっとこのゲームやってるから、どの言葉が専門用語で、どの言葉が一般名詞なのか、完全に麻痺してたわ。気をつける」

 

 常連客を悪役にすることなく、初心者に教えるための『翻訳』の重要性を共有する。

 和真の介入によって、店内の空気が少しだけ良い方向へアップデートされた瞬間だった。

 

 イベントが進む中、和真は一人の参加者の様子が気になっていた。

 飛び入りで参加した、三十代の会社員風の男性だ。

 周囲の高校生や親子連れがワイワイと楽しそうにカードを出している中、彼は一人、配られたルール説明のプリントを何度も読み直し、手札をじっと睨みつけていた。

 対戦相手(手が空いていた瀬川が代わりに入っていた)に向かって何か質問しようと口を開きかけるが、すぐに飲み込んでしまう。

 カードを出そうとしては、また引っ込める。

 

「……すみません。ちょっと難しくて」

 男性は、申し訳なさそうに瀬川に謝った。

 

 和真は男性の横へ近づいた。

「どこか、分かりづらいところありますか?」

「いや……基本的なことだと思うんですけど。こんな簡単なことを何度も聞くのは、対戦相手にも申し訳なくて」

 

 和真は、痛いほどその気持ちが分かった。

 子供なら、分からないことを「分からない!」と素直に何度でも聞ける。

 しかし、大人になると「こんな初歩的なことを聞いたら馬鹿にされるのではないか」「相手の時間を奪ってしまうのではないか」という、妙な遠慮とプライドが邪魔をする。

 

「カードゲームって、向いてないのかもしれませんね」

 自嘲気味に笑う男性に、和真はあえて自分から失敗談を切り出した。

 

「俺なんて、数日前まで『ハンド』が手札のことだって分かってませんでしたよ」

 男性が驚いた顔で和真を見た。

「え?」

「ハンドって言うから、リアルな人間の『手』のことかと思って、一人で混乱してたんですよ」

「……本当に?」

「本当に。昨日、瀬川さんに一から幼稚園児みたいに教えてもらって、ようやく今、ここに立ってるんです」

 

 男性が、思わずといった様子で小さく吹き出した。

「カードゲームを始めるのに、年齢制限はないでしょう。最初から全部詳しくなくていいんです。分からなかったら、何度でも聞けばいい。俺だって昨日、同じことを三回くらい瀬川さんに聞きましたから」

 男性の表情から、強張っていた緊張がスッと抜けた。

 

「……じゃあ、もう一回だけ、やってみようかな」

「それがいいと思います。俺も一緒に手札見ますから」

 

 和真は男性の隣に椅子を引き寄せ、同じ目線で手札を覗き込んだ。

「今、一番何がしたいですか?」

「この、イラストがカッコよくて強そうなカードを使いたいんですけど……」

「コストはいくつですか?」

「4です」

「今のマナは?」

「ええと……2ですね」

「じゃあ、まだ出せませんね。今の手札の中で、出せるカードはどれでしょう?」

 

 和真は、正解を直接教えなかった。あくまで質問を投げかけ、相手に考えさせる。

 男性は手札を確認し、一枚のカードを抜き出した。

「あ、これならコスト2だから、出せますよね」

「そうです。じゃあ、まずはそれを場に出してみましょう。効果はどう書かれてます?」

 

「えっと……山札からカードを一枚引く。これでいいんですか?」

「俺も詳しくないですけど、少なくともルール上は間違ってないはずです」

 男性は意を決して、カードをプレイマットに置いた。

「じゃあ、これで!」

 

 対戦相手として回っていた瀬川が、パッと明るい声を出した。

「はい、大丈夫です! 完璧なタイミングでのドローですね!」

 男性の顔が、今日一番の輝きを見せた。

 

 午後三時を過ぎた頃には、会場の空気はすっかり和やかなものに変わっていた。

 最初は黙々とカードを見つめていただけの参加者たちが、自分から対戦相手に声をかけ、会話を楽しんでいる。

 

 高校生の二人は「お前、そんなカード隠し持ってたのかよ!」「さっき引いたんだよ!」と大声で笑い合っている。

 親子連れは、小学生の息子が父親に「次、俺のターンでこれ出すから! そしたら勝てるから!」と得意げに説明している。

 先ほどまで戸惑っていた三十代の男性も、別の参加者に「もう一戦、お願いしてもいいですか?」と自分から対戦を申し込んでいた。

 

 和真は少し離れた場所から、その光景を満足げに眺めていた。

(……ああ、みんな楽しそうだな)

 

 昨日、瀬川が抱えていた悩み。

『初心者が専門用語やルールについていけなくて、途中で帰ってしまう』

 その問題は、少なくとも今日のこのイベントに限って言えば、和真の介入によってかなり改善されていた。

 

 午後四時。

 二時間にわたる初心者体験会が終了した。

 参加者八人のうち、七人は最後まで残って対戦を楽しんだ。一人は家庭の都合で途中退出したが、帰り際に「また来ます」と笑顔で言い残していった。

 

 結果として、イベントは大成功だった。

 二人の参加者が、その場で初心者用の構築済みデッキを購入した。

 三人が「次回の初心者会はいつですか?」と熱心に質問してきた。

「常連さんの輪に混ざる前に、もう少し同じレベルの人と練習したい」という具体的な要望も複数寄せられた。

 

 例の三十代の男性も、構築済みデッキを一つレジへ持ってきた。

「今日はありがとうございました。また、遊びに来てもいいですか?」

「もちろんです! いつでもお待ちしてます!」

 瀬川が満面の笑みで対応する。

 和真も横から声をかけた。

「次に会う時は、俺よりルールに詳しくなってるかもしれませんね」

「いやいや、まだまだですよ」

 男性は照れくさそうに笑い、店を出て行った。

 

 参加者全員を見送った後、瀬川はレジカウンターで受付名簿とアンケート結果をじっと眺めていた。

 

「……よかった」

 瀬川の口から、安堵の混じった小さな呟きが漏れた。

 和真が後片付けをしながら声をかける。

「大成功じゃないですか?」

「はい。かなり……大成功だと思います」

 

 瀬川は嬉しそうに名簿を胸に抱きしめた。

「前にやった時は、ルール説明の途中で帰ってしまう人が何人もいたので、本当に不安だったんです」

 でも、今回は違った。初心者が自分の手でカードをプレイし、楽しさを理解し、自ら「次はいつですか」と聞いてくれた。

 店舗の運営者として、これほど嬉しいことはない。

 

 二人で手分けして、イベントの片付けを始める。

 長机を元の対戦スペースの配置に戻し、貸出デッキの枚数を確認し、ゴミをまとめる。

 和真が黙々とパイプ椅子を畳んでいると、瀬川が正面に立って、深々と頭を下げた。

 

「今日は、本当にありがとうございました」

「いや、俺は受付と雑用しかしてないですよ。ルール教えたのは全部瀬川さんですし」

「それだけじゃないです。三浦さんのサポートのおかげで、初心者の皆さんが途中で投げ出さずに済んだんです」

「俺、ルールの説明なんて一つもしてませんよ」

「そこなんです」

 

 和真はパイプ椅子を持ったまま首を傾げた。

「……そこ?」

 

 瀬川は、今日の気づきを語り始めた。

「私、初心者の方には『ルールを最初から完璧に教えなきゃいけない』って思い込んでたんです。正しいフェイズの進め方とか、効率のいいカードの使い方とか」

「まあ、教える側としてはそうなりますよね」

「でも、三浦さんは違いました。分からないところだけ一緒に考えて、答えを教えるんじゃなくて、本人に選ばせてカードを使わせてた」

 

 瀬川の真っ直ぐな視線に、和真は少し照れくさくなった。

「ルールを完璧に覚える前でも、カードゲームって十分楽しめるんですよね。それを、三浦さんの教え方を見て思い出しました」

 

 和真は少し考えてから、頷いた。

「まあ、俺もまだこのゲームのルールの半分も分かってない素人ですけど、それでも『面白い』とは思ってますからね」

「それ、すごく嬉しいです」

 瀬川は、今日一番の柔らかい笑顔を見せた。

 

 片付けが完全に終わり、和真が上着を羽織って帰ろうとした時、瀬川が少しだけためらいがちに声をかけてきた。

 

「あの、三浦さん」

「はい?」

「次も……もし、本当にお時間があったらでいいんですけど。また、手伝っていただけませんか?」

 

 和真は苦笑した。

「もう次のイベントの話ですか? 俺、まだ初心者ですよ?」

「そこがいいんです。三浦さんのその『初心者視点』が、うちの店には絶対に必要なんで」

「……その評価、喜んでいいのか複雑なんですけど」

 

 瀬川は少し悪戯っぽく笑った。

「じゃあ……次回もよろしくお願いしますね、三浦スタッフ」

「完全に俺が暇なの前提でシフト組もうとしてますね」

「違うんですか?」

「……否定できないのが悔しいところです」

 

 二人はカウンター越しに軽く笑い合った。

「まあ、予定が合えば、また手伝いに来ますよ」

 和真は無条件の確約は避けつつも、前向きな返事をした。

 

 和真が帰り支度を整えている間、瀬川は今日のアンケート結果を店舗の管理端末に入力していた。

 参加人数、デッキの売上、次回の参加希望。

 そこまでは嬉しそうにタイピングしていた瀬川だが、カレンダーアプリで『店舗の通常営業スケジュール』を開いた瞬間、その表情がスッと曇った。

 

 和真は、その小さな変化を見逃さなかった。

「……何か問題でもありましたか?」

 瀬川はハッとして顔を上げ、慌てて首を振った。

「いえ! 今日のイベント自体は、本当に大成功だったんです」

「じゃあ、いいじゃないですか」

「そうなんですけど……」

 

 瀬川は視線を端末に落とし、少しだけ言葉を濁した。

「今日みたいに、初心者の方が楽しめる会を……どうやったら、このお店で『続けられる』かなって」

「……?」

「今日来てくれた人たちが、常連さんに混ざって遊べるようになるまでの『居場所』を、どうやって作ればいいのか……」

 

 そこまで言って、瀬川は自嘲気味に笑った。

「あ、すみません。せっかく三浦さんに手伝ってもらって大成功したのに、また仕事の愚痴みたいなこと言っちゃいましたね」

「別に、愚痴くらい聞きますよ。商社マン時代は散々聞いてきましたから」

「ありがとうございます。でも、今日はもう十分すぎるほど助けてもらったので。この悩みは、店長代理の私の仕事です」

 

 瀬川は無理に明るい笑顔を作った。

「今日は本当にありがとうございました、三浦さん。気をつけて帰ってくださいね」

 

 午後四時半過ぎ。

 和真は店を出て、秋葉原の雑踏の中を歩いていた。

 土曜日の夕方ということもあり、すれ違う人々の顔はどこか楽しげだ。

 

 スマートフォンがポケットで震えた。

 画面を開くと、久保田大地からのメッセージ。

『明日は鳥籠来られる?』

 

「……あいつ、まだ諦めてなかったのか」

 和真は小さく溜息をつき、スマホをポケットに戻した。即座に返信はしない。

 

 今は、今日の初心者体験会のことを考えていた。

 自分はつい数日前まで、カードゲームのルールすら知らなかった、ただの疲れた会社員だった。

 その自分が、今日は別の初心者たちに寄り添い、彼らが新しい趣味を見つける手助けを少しだけすることができた。

 そのうえ、瀬川から「また手伝ってほしい」と頼まれた。

 

(……無職になってからの休日も、意外と悪くないな)

 

 和真はふと、帰り際に見た瀬川の少し曇った表情を思い出した。

 初心者会は成功した。アンケート結果も良かった。

 だが、瀬川は「これをどうやって続けるか」「初心者の居場所をどう作るか」という、もっと根本的な問題に直面しているらしかった。

 

「……まあ、今度店に行った時にでも、詳しく聞いてみるか」

 

 和真は秋の冷たい風を心地よく感じながら、駅へと向かう足取りを少しだけ速めた。

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