TCG未経験の36歳無職、TCG能力《因果祭典》で異能バトル世界を駆け抜ける 作:パラレル・ゲーマー
土曜日の午後零時五十分。
秋葉原のメインストリートから少し外れた雑居ビル。その三階にあるカードショップ『ドローフェイズ』の前に、和真は立っていた。
約束の時間は午後一時だ。
十五年間、営業職として染み付いた「十分前行動」の癖は、無職になってまだ一週間も経たない身には抜け切っていなかった。
店の前の立て看板には、昨日和真が見た手書きのポスターが貼られている。
『初心者体験会 14:00~16:00』
『構築済みデッキ無料貸し出し! ルールを知らない方大歓迎!』
和真はそのポスターを見上げながら、思わず苦笑いを漏らした。
「……まさか俺が、カードゲームを教えるイベントの手伝いをするとはな」
つい数日前まで、TCG(トレーディングカードゲーム)のルールどころか、カードゲームの専門ショップにすら足を踏み入れたことがなかった。
今でも和真は、ルールブックを読み始めたばかりの正真正銘の初心者だ。カードの細かい裁定や、専門用語の意味は半分も分かっていない。
しかし、今日はルールの先生として来たわけではない。
「まあ、パイプ椅子並べて、アンケート配るくらいなら俺にもできるだろ」
和真は小さく肩をすくめ、自動ドアを潜った。
今はただのボランティアスタッフだ。自身の《因果祭典》のデッキ構築や、マナの運用といったややこしい能力のことは、一旦頭の隅に追いやることにした。
入店すると、すぐに瀬川の姿が見えた。
普段はフリーの対戦スペースとして使われているエリアの長机を、一人でせっせと動かしてレイアウトを変更しているところだった。
テーブルの上には、初心者向けの貸出用デッキ、プレイマット、ルール説明の紙、そしてアンケート用のクリップボードとボールペンが無造作に積まれている。
和真が近づくと、瀬川は荷物を抱えたままパッと顔を輝かせた。
「三浦さん! 本当に来てくれたんですね!」
「約束しましたから。遅れてすみません、ちょっと早すぎましたか」
「いえいえ! むしろ助かります。……あの、昨日はちょっと勢いで手伝いをお願いしちゃって、後からすごく申し訳なく思ってたんです。せっかくの休日に、お客さんに仕事を押し付けちゃったんじゃないかって……」
瀬川は申し訳なさそうに身を縮めた。
和真は笑って手を振った。
「別にいいですよ。どうせ家で寝てるか、海外ドラマ見てるかくらいの暇人ですから。何からやればいいですか?」
瀬川はほっとしたように表情を緩めた。
「ありがとうございます。じゃあ、まずはこのテーブルと椅子の配置をお願いしてもいいですか?」
和真は上着を脱ぎ、早速裏方作業に回った。
最初は長机と椅子の配置。次にプレイマットを敷く作業。
瀬川が、参加人数分の貸出デッキの束をテーブルに置こうとした時、和真が声をかけた。
「瀬川さん。貸出デッキは、ルール説明が終わってから渡した方がいいんじゃないですか?」
「えっ? 最初から席に置いておくつもりだったんですけど……ダメですか?」
「初めての人って、目の前に見慣れないカードがあると、説明の途中でも気になって勝手に触り始めちゃうんですよ。俺がそうだったんで」
和真は、営業時代の展示会やセミナーでの経験を重ね合わせていた。
「先に手元に資料やサンプルがあると、人は話を聞かなくなるんです。最初はプレイマットとアンケート用紙だけにしておいて、実演が始まる直前に『じゃあ、これから配ります』ってやった方が、メリハリがついて集中してくれますよ」
瀬川は目を見張った。
「……なるほど。確かにその通りですね」
瀬川は感心したようにデッキの束を回収した。
「三浦さん、こういうイベントの運営とか誘導、すごく慣れてません? 本当にお仕事何されてたんですか?」
「メーカーの営業です。展示会とか新製品のセミナーとかで、こういう会場設営や客の誘導は散々やらされたんで。まあ、カードゲームのイベントとは客層も雰囲気も全然違いますけどね」
「いえ、めちゃくちゃ頼りになります。バイトリーダーどころか、イベントディレクターじゃないですか」
和真は社会人としての基礎能力を、思わぬ場所で発揮していた。
午後一時二十分。
会場の設営がほぼ終わり、二人はレジカウンターで進行表の最終確認を行っていた。
昨日、和真の意見を取り入れて修正したスケジュールだ。
14:00 挨拶・最低限のルール(手札とマナ)説明
14:10 実際にカードを使ってみる体験
14:25 初心者同士での練習対戦
15:00 質問・小休憩
15:15 自由対戦
15:50 アンケート記入・次回案内
「とりあえず、昨日の三浦さんの『最初に全部説明せず、まずはカードを使わせる』という意見をベースに組んでみました」
「俺の意見なんて、単に『専門用語並べられても分からん』って愚痴っただけですよ」
「その初心者の生の声が、一番大事なんです」
瀬川は真剣な顔で進行表にペンでチェックを入れた。
午後一時四十分。体験会の開始二十分前。
瀬川は手元の受付名簿を確認し、少しだけ溜息をついた。
「……やっぱり、事前予約は二人のままですね」
和真は名簿を覗き込んだ。
「二人なら、逆にマンツーマンでじっくり教えられるんじゃないですか?」
「そうなんですけど……お店としては、やっぱりもっと新しい人に来てほしいんですよね」
瀬川の言葉には、イベント主催者としてのリアルな切実さが滲んでいた。
それから十分後。
「あのー、初心者体験会って、まだ参加できますか?」
入り口から、学生服を着た高校生の男子二人が恐る恐る声をかけてきた。
瀬川の顔がパッと明るくなる。
「はい! もちろんです! すぐにご案内しますね!」
その直後だった。
「すみません、小学生でも参加できますか?」と、母親に手を引かれた男の子が来店。
さらに、店の前に貼られたポスターをじっと見ていたスーツ姿の男性が、意を決したように入店してきた。
終了間際にもう一人の若い男性が滑り込み、結果として――。
「事前予約二人、飛び入り六人……合計、八人!?」
瀬川はカウンターの裏で、嬉しい悲鳴を殺しながら小声で叫んだ。
「昨日、あれだけ飛び入り参加に期待してたじゃないですか」
「そうですけど! こんなに一気に来るとは思わなくて! やばい、貸出デッキの準備が……!」
「俺が受付と席の誘導やりますから、瀬川さんはデッキとプレイマットの追加準備を」
「お願いします!」
和真の冷静なフォローのおかげで、イベントは定刻通りにスタートすることができた。
午後二時。
八人の参加者が対戦スペースの席に着いた。
年齢層はバラバラだ。小学生の親子連れ、高校生の二人組、そして三十代の会社員風の男性が数名。
瀬川が前に立ち、マイクなしのよく通る声で挨拶を始めた。
「本日は初心者体験会へお越しいただき、ありがとうございます。担当の瀬川真琴です」
(真琴っていうのか)
和真は、ここで初めて瀬川のフルネームを知った。
「今日は、カードゲームを全く知らない方でも楽しめるように、難しいルールの説明は後回しにします。まずは、実際にカードに触って、遊んでみましょう!」
瀬川は、隣に立つ和真を手で示した。
「こちらは、本日お手伝いしてくださるスタッフの三浦さんです」
和真は一歩前に出て、軽く頭を下げた。
「三浦です。よろしくお願いします。ちなみに俺も、カードゲームを始めてまだ数日の素人なんで、ルールの難しい質問は全部瀬川さんへ聞いてください」
参加者たちから、ドッと軽い笑いが起きた。
「三浦さんは、皆さんと同じ初心者目線でサポートしてくださいますので、分からないことがあれば気軽に声をかけてくださいね」
(俺、聞いてた雑用の仕事よりハードル上がってないか?)
和真は内心で冷や汗をかいた。
瀬川の説明は、極めてシンプルだった。
参加者全員に五枚のカードが配られる。
「まず、皆さんが今持っているそのカードが『手札』です」
次に、コストの払い方。
「カードの左上に書かれている数字が『コスト』です。手元にある『マナ』を支払うことで、そのカードを使うことができます。今はマナが『1』だと思ってください」
説明は、本当にこれだけだった。
フェイズの進行も、複雑な効果処理も、専門用語も一切口にしない。
参加者の一人、高校生が手を挙げた。
「じゃあ、このコスト『6』って書いてあるデカいドラゴンのカードは、最初からは使えないんですか?」
「はい。今のマナでは使えません。ゲームが進んで、マナが貯まってからのお楽しみです」
和真は、自分が最初に《アルシオン》のカードを見た時のことを思い出していた。
(やっぱり、初心者は最初、その一番デカい数字のカードが気になるよな)
「それでは、手札の中から、今使える『コスト1』のカードを一枚選んで、前に出してみてください」
瀬川の促しに、参加者たちが一斉に自分の手札を見つめる。
どれを出せばいいのか迷う者。
イラストの格好良さですぐに決める小学生。
カードのテキストを真剣に読み込む会社員の男性。
「あの、これでいいですか?」
一人の参加者が、恐る恐るカードをプレイマットに置いた。
「はい! 正解です! これであなたはカードを一枚『使った』ことになります」
瀬川が笑顔で肯定すると、それを皮切りに周囲の参加者も次々とカードを出し始めた。
「あ、こういう感じなんだ」
「じゃあ、こっちのカードも使える?」
「マナの範囲内なら使えますよ」
会場の空気が、少しずつ解れていく。
初心者が自分の手でカードを選び、プレイし、それがルール的に「正解」だと認められる。その小さな成功体験が、長々としたルール説明よりも何倍も彼らの理解を早めていた。
十分ほど基本的な操作を練習した後、瀬川の合図で四組に分かれての『練習対戦』が始まった。
まだ勝敗にはこだわらず、お互いにカードを出してルールを確認し合う時間だ。
和真はテーブルの間をゆっくりと歩き回り、手が止まっている参加者に声をかけた。
もちろん、和真はまだ専門的な質問には答えられない。
「このカード、今出せますか?」という質問には「コストが足りてるから出せますね」と答えられる。
しかし、「これとこれの効果が同時に発動したら、どっちの処理が先ですか?」と聞かれれば、素直に頭を下げる。
「すみません、その複雑な裁定は俺にはまだ早いです。瀬川さんに確認しましょう」
知ったかぶりをせず、適切な担当者へエスカレーションする。これも社会人としての基本スキルだ。
体験会が盛り上がる中、少し離れた席から対戦を眺めていた常連らしき男性客が、高校生二人のテーブルに近づき、善意でアドバイスを始めた。
「あー、そこはテンポ損ですよ。こっちのカードを先に使った方がアドが取れるし、次のターンのリーサルも見えてますから」
高校生は、手札を持ったまま完全にフリーズした。
「……テンポそん? アド?」
「えっと……リーサル?」
常連客は、初心者が止まってしまったのを見て、さらに詳しく説明しようと身を乗り出した。
「だから、今そのカードを切っちゃうと、相手のボードに対する回答がなくなって、アドバンテージ差が開くでしょう?」
高校生二人の顔に、「このゲーム、難しすぎる」という明らかな拒絶反応が浮かび始めた。
和真はすかさず横から割って入った。
「すみません、お兄さん」
「え?」
「俺も初心者なんで教えてほしいんですけど、今の言葉、普通の日本語に翻訳するとどういう意味ですか?」
常連客は虚を突かれた顔をした。
和真は一つずつ噛み砕いて確認する。
「『テンポ損』とか『アドが取れる』っていうのは……つまり、今このカードを使うと、次に出せるカードが減って動きづらくなる。だから、先に別のカードを使った方が後々有利になる、ってことですか?」
「あ、ああ、そうそう! そういうことです!」
和真は高校生たちに向き直った。
「だそうです。今使えるカードを適当に全部出すんじゃなくて、次の順番で自分が何を出したいか、相手が何をしてくるかも考えながら選んだ方がいいみたいですよ」
「ああー! そういうことか!」
「なるほど、じゃあこっちは温存しとくか」
高校生たちの顔に、再び理解の光が戻った。
常連客は、少しバツが悪そうに頭を掻いた。
「……悪い。普通に通じると思って、無意識に使ってたわ」
「いや、言ってる戦術自体はすごく勉強になりますよ。ただ、俺ら初心者は、まだその専門用語の辞書を頭にインストールしてないんで」
そこに瀬川が小走りでやってきた。
「三浦さん、ありがとうございます。フォロー助かりました」
瀬川は常連客にも頭を下げた。
「アドバイスありがとうございます。でも、こういう体験会では、できるだけ専門用語を使わずに『効果』そのものを説明してあげると、伝わりやすいんです」
「なるほどな。俺、ずっとこのゲームやってるから、どの言葉が専門用語で、どの言葉が一般名詞なのか、完全に麻痺してたわ。気をつける」
常連客を悪役にすることなく、初心者に教えるための『翻訳』の重要性を共有する。
和真の介入によって、店内の空気が少しだけ良い方向へアップデートされた瞬間だった。
イベントが進む中、和真は一人の参加者の様子が気になっていた。
飛び入りで参加した、三十代の会社員風の男性だ。
周囲の高校生や親子連れがワイワイと楽しそうにカードを出している中、彼は一人、配られたルール説明のプリントを何度も読み直し、手札をじっと睨みつけていた。
対戦相手(手が空いていた瀬川が代わりに入っていた)に向かって何か質問しようと口を開きかけるが、すぐに飲み込んでしまう。
カードを出そうとしては、また引っ込める。
「……すみません。ちょっと難しくて」
男性は、申し訳なさそうに瀬川に謝った。
和真は男性の横へ近づいた。
「どこか、分かりづらいところありますか?」
「いや……基本的なことだと思うんですけど。こんな簡単なことを何度も聞くのは、対戦相手にも申し訳なくて」
和真は、痛いほどその気持ちが分かった。
子供なら、分からないことを「分からない!」と素直に何度でも聞ける。
しかし、大人になると「こんな初歩的なことを聞いたら馬鹿にされるのではないか」「相手の時間を奪ってしまうのではないか」という、妙な遠慮とプライドが邪魔をする。
「カードゲームって、向いてないのかもしれませんね」
自嘲気味に笑う男性に、和真はあえて自分から失敗談を切り出した。
「俺なんて、数日前まで『ハンド』が手札のことだって分かってませんでしたよ」
男性が驚いた顔で和真を見た。
「え?」
「ハンドって言うから、リアルな人間の『手』のことかと思って、一人で混乱してたんですよ」
「……本当に?」
「本当に。昨日、瀬川さんに一から幼稚園児みたいに教えてもらって、ようやく今、ここに立ってるんです」
男性が、思わずといった様子で小さく吹き出した。
「カードゲームを始めるのに、年齢制限はないでしょう。最初から全部詳しくなくていいんです。分からなかったら、何度でも聞けばいい。俺だって昨日、同じことを三回くらい瀬川さんに聞きましたから」
男性の表情から、強張っていた緊張がスッと抜けた。
「……じゃあ、もう一回だけ、やってみようかな」
「それがいいと思います。俺も一緒に手札見ますから」
和真は男性の隣に椅子を引き寄せ、同じ目線で手札を覗き込んだ。
「今、一番何がしたいですか?」
「この、イラストがカッコよくて強そうなカードを使いたいんですけど……」
「コストはいくつですか?」
「4です」
「今のマナは?」
「ええと……2ですね」
「じゃあ、まだ出せませんね。今の手札の中で、出せるカードはどれでしょう?」
和真は、正解を直接教えなかった。あくまで質問を投げかけ、相手に考えさせる。
男性は手札を確認し、一枚のカードを抜き出した。
「あ、これならコスト2だから、出せますよね」
「そうです。じゃあ、まずはそれを場に出してみましょう。効果はどう書かれてます?」
「えっと……山札からカードを一枚引く。これでいいんですか?」
「俺も詳しくないですけど、少なくともルール上は間違ってないはずです」
男性は意を決して、カードをプレイマットに置いた。
「じゃあ、これで!」
対戦相手として回っていた瀬川が、パッと明るい声を出した。
「はい、大丈夫です! 完璧なタイミングでのドローですね!」
男性の顔が、今日一番の輝きを見せた。
午後三時を過ぎた頃には、会場の空気はすっかり和やかなものに変わっていた。
最初は黙々とカードを見つめていただけの参加者たちが、自分から対戦相手に声をかけ、会話を楽しんでいる。
高校生の二人は「お前、そんなカード隠し持ってたのかよ!」「さっき引いたんだよ!」と大声で笑い合っている。
親子連れは、小学生の息子が父親に「次、俺のターンでこれ出すから! そしたら勝てるから!」と得意げに説明している。
先ほどまで戸惑っていた三十代の男性も、別の参加者に「もう一戦、お願いしてもいいですか?」と自分から対戦を申し込んでいた。
和真は少し離れた場所から、その光景を満足げに眺めていた。
(……ああ、みんな楽しそうだな)
昨日、瀬川が抱えていた悩み。
『初心者が専門用語やルールについていけなくて、途中で帰ってしまう』
その問題は、少なくとも今日のこのイベントに限って言えば、和真の介入によってかなり改善されていた。
午後四時。
二時間にわたる初心者体験会が終了した。
参加者八人のうち、七人は最後まで残って対戦を楽しんだ。一人は家庭の都合で途中退出したが、帰り際に「また来ます」と笑顔で言い残していった。
結果として、イベントは大成功だった。
二人の参加者が、その場で初心者用の構築済みデッキを購入した。
三人が「次回の初心者会はいつですか?」と熱心に質問してきた。
「常連さんの輪に混ざる前に、もう少し同じレベルの人と練習したい」という具体的な要望も複数寄せられた。
例の三十代の男性も、構築済みデッキを一つレジへ持ってきた。
「今日はありがとうございました。また、遊びに来てもいいですか?」
「もちろんです! いつでもお待ちしてます!」
瀬川が満面の笑みで対応する。
和真も横から声をかけた。
「次に会う時は、俺よりルールに詳しくなってるかもしれませんね」
「いやいや、まだまだですよ」
男性は照れくさそうに笑い、店を出て行った。
参加者全員を見送った後、瀬川はレジカウンターで受付名簿とアンケート結果をじっと眺めていた。
「……よかった」
瀬川の口から、安堵の混じった小さな呟きが漏れた。
和真が後片付けをしながら声をかける。
「大成功じゃないですか?」
「はい。かなり……大成功だと思います」
瀬川は嬉しそうに名簿を胸に抱きしめた。
「前にやった時は、ルール説明の途中で帰ってしまう人が何人もいたので、本当に不安だったんです」
でも、今回は違った。初心者が自分の手でカードをプレイし、楽しさを理解し、自ら「次はいつですか」と聞いてくれた。
店舗の運営者として、これほど嬉しいことはない。
二人で手分けして、イベントの片付けを始める。
長机を元の対戦スペースの配置に戻し、貸出デッキの枚数を確認し、ゴミをまとめる。
和真が黙々とパイプ椅子を畳んでいると、瀬川が正面に立って、深々と頭を下げた。
「今日は、本当にありがとうございました」
「いや、俺は受付と雑用しかしてないですよ。ルール教えたのは全部瀬川さんですし」
「それだけじゃないです。三浦さんのサポートのおかげで、初心者の皆さんが途中で投げ出さずに済んだんです」
「俺、ルールの説明なんて一つもしてませんよ」
「そこなんです」
和真はパイプ椅子を持ったまま首を傾げた。
「……そこ?」
瀬川は、今日の気づきを語り始めた。
「私、初心者の方には『ルールを最初から完璧に教えなきゃいけない』って思い込んでたんです。正しいフェイズの進め方とか、効率のいいカードの使い方とか」
「まあ、教える側としてはそうなりますよね」
「でも、三浦さんは違いました。分からないところだけ一緒に考えて、答えを教えるんじゃなくて、本人に選ばせてカードを使わせてた」
瀬川の真っ直ぐな視線に、和真は少し照れくさくなった。
「ルールを完璧に覚える前でも、カードゲームって十分楽しめるんですよね。それを、三浦さんの教え方を見て思い出しました」
和真は少し考えてから、頷いた。
「まあ、俺もまだこのゲームのルールの半分も分かってない素人ですけど、それでも『面白い』とは思ってますからね」
「それ、すごく嬉しいです」
瀬川は、今日一番の柔らかい笑顔を見せた。
片付けが完全に終わり、和真が上着を羽織って帰ろうとした時、瀬川が少しだけためらいがちに声をかけてきた。
「あの、三浦さん」
「はい?」
「次も……もし、本当にお時間があったらでいいんですけど。また、手伝っていただけませんか?」
和真は苦笑した。
「もう次のイベントの話ですか? 俺、まだ初心者ですよ?」
「そこがいいんです。三浦さんのその『初心者視点』が、うちの店には絶対に必要なんで」
「……その評価、喜んでいいのか複雑なんですけど」
瀬川は少し悪戯っぽく笑った。
「じゃあ……次回もよろしくお願いしますね、三浦スタッフ」
「完全に俺が暇なの前提でシフト組もうとしてますね」
「違うんですか?」
「……否定できないのが悔しいところです」
二人はカウンター越しに軽く笑い合った。
「まあ、予定が合えば、また手伝いに来ますよ」
和真は無条件の確約は避けつつも、前向きな返事をした。
和真が帰り支度を整えている間、瀬川は今日のアンケート結果を店舗の管理端末に入力していた。
参加人数、デッキの売上、次回の参加希望。
そこまでは嬉しそうにタイピングしていた瀬川だが、カレンダーアプリで『店舗の通常営業スケジュール』を開いた瞬間、その表情がスッと曇った。
和真は、その小さな変化を見逃さなかった。
「……何か問題でもありましたか?」
瀬川はハッとして顔を上げ、慌てて首を振った。
「いえ! 今日のイベント自体は、本当に大成功だったんです」
「じゃあ、いいじゃないですか」
「そうなんですけど……」
瀬川は視線を端末に落とし、少しだけ言葉を濁した。
「今日みたいに、初心者の方が楽しめる会を……どうやったら、このお店で『続けられる』かなって」
「……?」
「今日来てくれた人たちが、常連さんに混ざって遊べるようになるまでの『居場所』を、どうやって作ればいいのか……」
そこまで言って、瀬川は自嘲気味に笑った。
「あ、すみません。せっかく三浦さんに手伝ってもらって大成功したのに、また仕事の愚痴みたいなこと言っちゃいましたね」
「別に、愚痴くらい聞きますよ。商社マン時代は散々聞いてきましたから」
「ありがとうございます。でも、今日はもう十分すぎるほど助けてもらったので。この悩みは、店長代理の私の仕事です」
瀬川は無理に明るい笑顔を作った。
「今日は本当にありがとうございました、三浦さん。気をつけて帰ってくださいね」
午後四時半過ぎ。
和真は店を出て、秋葉原の雑踏の中を歩いていた。
土曜日の夕方ということもあり、すれ違う人々の顔はどこか楽しげだ。
スマートフォンがポケットで震えた。
画面を開くと、久保田大地からのメッセージ。
『明日は鳥籠来られる?』
「……あいつ、まだ諦めてなかったのか」
和真は小さく溜息をつき、スマホをポケットに戻した。即座に返信はしない。
今は、今日の初心者体験会のことを考えていた。
自分はつい数日前まで、カードゲームのルールすら知らなかった、ただの疲れた会社員だった。
その自分が、今日は別の初心者たちに寄り添い、彼らが新しい趣味を見つける手助けを少しだけすることができた。
そのうえ、瀬川から「また手伝ってほしい」と頼まれた。
(……無職になってからの休日も、意外と悪くないな)
和真はふと、帰り際に見た瀬川の少し曇った表情を思い出した。
初心者会は成功した。アンケート結果も良かった。
だが、瀬川は「これをどうやって続けるか」「初心者の居場所をどう作るか」という、もっと根本的な問題に直面しているらしかった。
「……まあ、今度店に行った時にでも、詳しく聞いてみるか」
和真は秋の冷たい風を心地よく感じながら、駅へと向かう足取りを少しだけ速めた。