TCG未経験の36歳無職、TCG能力《因果祭典》で異能バトル世界を駆け抜ける 作:パラレル・ゲーマー
日曜日。
和真は自宅のソファに深く沈み込み、テレビ画面に映し出される海外ドラマの銃撃戦をぼんやりと眺めていた。
時刻は午後二時を回ったところ。手元のローテーブルには、飲みかけのブラックコーヒーと、スーパーで買ってきた総菜パンの空き袋が転がっている。
「……やっと、まともな休日だな」
希望退職して自由の身になったはずなのに、ここ数日の自分のスケジュールはどう考えても異常だった。
謎の文字列が視界に浮かんだと思えば眼科へ駆け込み、公的機関を名乗る『八咫烏』に連行され、カードショップで専門用語の洗礼を受け、秘密の地下施設『鳥籠』で治癒実験を行い、さらにはカードゲームの初心者体験会でボランティアスタッフまでこなした。
「これじゃあ、働いてた時より忙しいじゃないか」
自嘲気味に呟きながら、和真は背伸びをした。今日は完全に予定をオフにしてある。誰にも会わず、どこにも出かけず、夕方からビールを開けてダラダラ過ごす。それこそが、三十六歳の正しい無職の休日の姿だ。
ブブッ、と手元のスマートフォンが短く震えた。
和真は怪訝な顔で画面を覗き込む。休日に連絡してくるような相手は、今の和真にはほとんどいないはずだ。
メッセージアプリの通知欄には『久保田大地』の名前があった。
『今日こそ鳥籠来ない?』
「……あいつ、俺がどんだけ暇を持て余してると思ってるんだ」
和真はスマホを手に取り、深いため息をついた。
昨日も、一昨日も誘われている。鳥籠の模擬戦場でガルドと殴り合ったあの常連の戦闘狂は、どうやら和真の召喚体と戦うのが楽しくて仕方ないらしい。
『今日は休みます。また今度お願いします』
大人の対応で、当たり障りのない返信を送る。これで今日はもう連絡してこないだろう。
数秒後。
『了解! じゃあ明日は?』
和真は画面を見つめたままフリーズした。
「……あいつの頭の中には、休日という概念が存在しないのか?」
あるいは、戦闘狂すぎて人間関係の距離感がバグっているのかもしれない。和真はスマホを伏せてテーブルに置き、それ以上の返信を放棄した。
他人のためにばかり動き回ってはいられない。今は自分の時間を優先すべきだ。
和真は再びテレビに目を向け、海外ドラマの続きに没頭した。
その日の夜。午後七時過ぎ。
デリバリーで頼んだピザを食べ終え、缶ビールを片手にくつろいでいた和真のスマホが、再び震えた。
「また大地か? いい加減にしとかないとブロックするぞ……」
だが、画面に表示された送り主の名前は『瀬川真琴』だった。
昨日の初心者体験会で、共に奮闘したカードショップ『ドローフェイズ』の店長代理だ。
『三浦さん、昨日は本当にありがとうございました。突然すみません。もしよければ、少しお仕事のことで相談したいことがあるんですが、お時間ありますか?』
和真はピザの油がついた指をウェットティッシュで拭きながら、少し意外に思った。
昨日の体験会は、和真の目から見ても大成功と言ってよかった。初心者の参加者たちは楽しそうに帰っていったし、構築済みデッキも売れた。アンケートの結果も上々だったはずだ。
それなのに、何を相談したいというのだろうか。
「……俺、いつからカードショップの経営相談役になったんだ?」
苦笑しながらも、和真の指は自然と返信を打ち始めていた。
『明日なら時間ありますよ。午後でも大丈夫ですか?』
すぐに既読がつき、返信が返ってくる。
『ありがとうございます! では明日の午後三時頃、お店の方でお願いできますか?』
『了解しました。向かいます』
和真はスマホをテーブルに置き、残りのビールを煽った。
瀬川は和真のスケジュールをきちんと確認した上で、店舗での相談を提案してきた。勝手に都合を押し付けてくる大地とは大違いだ。
「仕事の相談、か……」
和真は、昨日帰り際に見せた瀬川の少し曇った表情を思い出しながら、小さく息を吐いた。
翌日、月曜日。
午後三時。和真は秋葉原の雑居ビルにある『ドローフェイズ』のドアを開けた。
土曜日の初心者体験会の時のような熱気はない。平日午後のカードショップは、学生の授業が終わる夕方前ということもあり、比較的静かだった。
ショーケースの前でカードの値段を見つめている常連客が数人と、奥の対戦スペースで静かにカードを弾いている二人組がいるだけだ。
レジカウンターの中にいた瀬川が、和真の姿に気づいて小走りで近づいてきた。
「三浦さん、わざわざありがとうございます」
「大丈夫ですよ。めちゃくちゃ暇なんで」
和真はお決まりのセリフを返しつつ、瀬川の表情を窺った。
疲労感はないが、どこか思い詰めたような、もどかしそうな顔をしている。
「今日は、何かトラブルでもあったんですか? 土曜日の体験会で何かクレームでも」
和真が尋ねると、瀬川は慌てて首を振った。
「いえ、そういうトラブルというほどのことではないんですけど……」
瀬川は周囲の客に配慮し、和真をカウンターの端の少し入り組んだスペースへと案内した。
「昨日、ちょっとショックなことがあって」
「ショック?」
瀬川は少し声を潜め、悔しそうな表情で語り始めた。
「昨日の午後、三十代くらいの男性のお客様がいらっしゃったんです」
「ああ……」
和真の脳裏に、体験会でルールに戸惑っていた、あの自分と境遇の似た会社員風の男性の顔が浮かんだ。
「土曜日にデッキを買っていった、あの人ですか?」
「はい。前日に買っていただいた構築済みデッキを手にして、すごく嬉しそうにお店に入ってきてくれたんです」
「それは喜ばしいことじゃないですか。リピーターになってくれたんでしょう?」
「そうなんです。私もすごく嬉しくて。きっと、もう一度誰かと対戦したくて来てくれたんだと思います」
瀬川は言葉を区切り、伏し目がちになった。
「でも……そのお客様、一度も対戦できずに、そのまま帰ってしまったんです」
和真は眉をひそめた。
「対戦できなかった? 誰も相手がいなかったんですか?」
「人はたくさんいました。日曜日の午後は、うちの店は大会の参加者や、常連さんのフリープレイで席がいっぱいになるんです」
「……なるほど。そういうことですか」
瀬川の言わんとしていることが、和真にも理解できた。
「私も接客に入りたかったんですけど、レジの対応や大会の進行管理が重なってしまって、どうしてもカウンターから離れられなくて」
瀬川の言葉には、強い無念さが滲んでいた。
「お客様は、店内を少し見て回って、対戦している常連さんたちの輪に入ろうと何度か立ち止まっていたんです。でも、どうしても声をかける勇気が出なかったみたいで……。私がやっと手が空いて声をかけようとした時には、『今日はちょっと見に来ただけなので。また来ます』って言って、足早にお店を出ていってしまって」
和真は、静かに頷いた。
その男性が悪いわけではない。彼は勇気を出して再来店したのだ。
常連客が悪いわけでもない。彼らは仲間内でいつも通り遊んでいただけだ。
そして、瀬川が悪いわけでもない。店舗運営の責任者として、目の前の業務を放棄することはできない。
誰も悪くない。
だが結果として、せっかく勇気を出して新しい趣味を始めようとした初心者が、遊ぶ場所を見つけられずに帰ってしまった。
「『また来ます』とは言ってくれましたけど……本当に来てくれるかどうか」
瀬川の声は沈んでいた。
和真は、土曜日の体験会で、その男性が「もう一回やってみようかな」と笑顔を見せてくれた瞬間を思い出していた。
あれだけ頑張ってルールを覚え、自分の手でカードをプレイする喜びを知ったのに。せっかく買ったデッキが、ただの紙切れの束になってしまうのは、あまりにももったいない。
「……なるほど。土曜日に瀬川さんが『初心者の居場所をどう作るか』と悩んでいたのは、こういうことだったんですね」
和真は腕を組み、ビジネスの視点から状況の分析を始めた。
「瀬川さん。あの初心者体験会って、普段からどれくらいの頻度で開催してるんですか?」
「えっと……不定期です。スタッフのシフトの状況や、大きな大会の日程を見ながら、余裕がある月に一回か二回やるくらいで」
「じゃあ、今回参加した人が『来週も遊びたいな』と思ったら、どうなるんです?」
「……通常のフリープレイスペースに来て、遊んでもらうことになります」
「でも、そこに初心者同士で集まって遊ぶような機会や、専用の時間は?」
瀬川は、言葉に詰まった。
「……ない、ですね」
和真は一つ頷き、少し考えた。
「……ちょっと整理してみましょうか。お客さんが最初に遊びに来てから、その後どうなるのか」
「整理、ですか?」
瀬川は首を傾げながらも頷いた。和真は使えそうな紙がないか、カウンターを見回した。
「前の会社でも、似たようなケースは腐るほどありましたよ」
和真は、長年の商社営業の経験を引き出しから引っ張り出した。
「商社のお仕事で、ですか?」
「ええ。新規のクライアントに初めて商品を買ってもらう、契約を取る。それはもちろん大変ですけど、それで終わりじゃないんです。実際に商品を使い始めて困っていないか、次にどんなサポートが必要になるか。そこまでアフターケアを見据えないと、継続した取引……つまり『リピーター』には繋がらないんですよ」
瀬川は真剣な眼差しで和真の言葉に聞き入っている。
「今回だってそうです。せっかくデッキを買ってもらったのに、それを使う場所がなければ、結局カードを使わなくなって、タンスの肥やしになって終わる。それはお店にとっても、お客様にとっても不幸なことでしょう?」
「……おっしゃる通りです」
和真は、カウンターの隅に置いてあった裏紙とボールペンを少し借りた。
そこに、簡単なフローチャートのような三段階の図を書き込む。
① 初心者体験会
(カードゲームを知る・最初の一戦を楽しむ)
↓
② ???
↓
③ 通常のフリープレイ・大会参加
(常連との交流・継続的な趣味として定着する)
和真は、図の真ん中の『???』の部分をペン先でトントンと叩いた。
「今、この真ん中のステップが完全に抜け落ちてるんじゃないですか? 手取り足取り教える『体験会』と、いきなり猛獣の檻に放り込まれる『通常営業』の間に、クッションとなる場所がない」
瀬川は、和真の書いた図を食い入るように見つめた。
「……確かに。昨日のあのお客様は、①からいきなり③に飛ぼうとして、壁にぶつかって帰ってしまったんですね」
これが、瀬川が漠然と感じていた悩みの正体だった。
「だったら、初心者だけで遊べる時間や場所を、定期的に用意してあげることはできませんか?」
和真が提案すると、瀬川は少し困ったように眉を下げた。
「場所を作ってあげたいのは山々なんです。でも……」
瀬川の口から出てきたのは、店舗運営者としての現実的な制約だった。
「うちの店には、昔から通ってくださっている既存の常連さんたちがいます。大会の日や休日は、対戦卓が常に埋まっている状態なんです」
「なるほど」
「それに、スタッフの人数にも限りがあります。つきっきりで初心者の面倒を見るのは、業務的に難しいです。……正直な話、初心者向けのイベント自体は、お店の直接的な利益(売上)には大きく貢献しないんです。高額なシングルカードを買ってくださるのは、やっぱり常連のガチ勢の方々ですから」
瀬川は申し訳なさそうに視線を落とした。
「初心者のための場所を作るために、いつも支えてくれている常連さんが遊ぶ席を減らしたり、制限をかけたりしてしまうのは……店長代理として、何か違うような気がして」
和真は深く頷いた。
「瀬川さんの懸念はもっともです。既存の常連さんを犠牲にするようなやり方は、絶対に避けるべきですね」
和真は少し考え込み、再び口を開いた。
「瀬川さん。このお店、毎週必ず全席が満席になるんですか?」
「いえ、平日の午後や、大きな大会がない休日の午前中なんかは、比較的席が空いている時間帯もありますよ」
「じゃあ、その空いている時間に、対戦卓を『一卓だけ』使うのはどうですか?」
「一卓……ですか?」
和真は図の②の部分にペンで書き込みを入れた。
「新しいイベントを丸ごと大々的に立ち上げる必要はないんです。まずは『初心者が集まりやすい時間』をあらかじめ決めておいて、その時間だけ、四人が座れる一卓分の場所を確保する」
瀬川の目が少し見開かれた。
「もちろん、既存の大会や常連さんの予約が最優先です。空いている隙間の時間を活用して、小さく試してみる。もし誰も来なかったり、運営が回らなかったりしたら、すぐにやめればいい」
和真は、紙の余白に新しい企画の名前を書き込んだ。
『ビギナーズテーブル』
「初心者専用の対戦卓、みたいなものです。これなら、常連さんの邪魔にもならないし、初心者も『ここなら座っていいんだな』って分かりやすいんじゃないですか?」
瀬川は、和真が書いた『ビギナーズテーブル』という文字をじっと見つめ、パッと顔を輝かせた。
「ビギナーズテーブル……! すごくいい名前ですね! それなら、リスクを最小限に抑えて始められそうです!」
二人はカウンターの端で、さらに具体的な運営の条件を詰め始めた。
最初から毎日開催するような無茶はしない。まずは一ヶ月限定の「試験運用」という形をとる。
和真がヒアリングしながら、条件をリストアップしていく。
・開催:週1回、1時間から1時間半程度。
・場所:既存の対戦スペースのうち、1卓(4人分)を確保。
・参加対象:初心者、または久しぶりに復帰した人限定。
・参加方法:事前予約を優先しつつ、空きがあれば当日飛び入り参加も歓迎。
・費用:試験運用期間中は無料(席料などは取らない)。
・期間:まずは1ヶ月間。
「開催時間は、どうしましょうか」
瀬川が悩む。
「例えば、土曜日の午後一時から二時とか。大会が始まる前の、少し空いている時間帯を狙うとかはどうです?」
「あ、それいいですね! 土曜の昼下がりなら、社会人の方も来やすいですし、その後の大会の盛り上がりも見てもらえるかもしれない」
「よし、場所と時間の確保はこれでいけそうですね」
和真がペンを置こうとした時、瀬川が再び不安そうな顔をした。
「でも、三浦さん。誰が教えるんですか?」
「教える?」
「はい。いくら初心者専用の席を用意しても、初心者同士だとルールが分からなくなって対戦が止まってしまうことがありますよね。その時、毎回スタッフがつきっきりで教える余裕は……」
和真は、土曜日の初心者体験会の光景を思い出していた。
「教えられる人が、一人でもついていてくれた方が安心ですよね」
「はい。でも、人手が……」
「じゃあ、常連さんに協力をお願いするのはどうですか?」
和真の提案に、瀬川は目を丸くした。
「常連さんにですか?」
「ええ。土曜日の体験会で、高校生相手に専門用語を連発してフリーズさせてた常連さんがいたじゃないですか」
「あー……はい、いらっしゃいましたね」
「あの人、悪い人じゃなかったですよね。初心者に色々教えたくて、善意でアドバイスしようとしてただけで」
「ええ。普段からうちのお店によく来てくれる、すごく親切で面倒見のいい方ですよ」
和真はニヤリと笑った。
「なら、ああいう『教えたがりの親切な常連さん』に、サポーターとして協力してもらうのも一つの方法じゃないですか?」
「なるほど……!」
「もちろん、無給で強制するわけじゃありません。都合が合う時だけでいいし、初心者へ声をかけたり、人数が足りない時の対戦相手になってもらったりするだけです。複雑なカードの裁定とか、運営上のトラブル対応は、店員である瀬川さんたちが引き受ける」
瀬川は紙の余白に『店員』『サポーター』と書き、それぞれに任せる仕事を整理した。
「これなら、全部をスタッフだけで抱え込まずに済みそうですね」
「ええ。あとは協力してくれる人がいるか、ですね」
「そしてもう一つ、重要なルールがあります」
和真は真剣なトーンで付け加えた。
「サポーターをやってくれる常連さんには、『最初から高度な戦術やコンボを教えようとしなくていい』と事前にしっかり伝えておいてください」
「戦術を教えなくていい?」
「ええ。初心者がカードを一枚使ったら、とりあえず『出せましたね!』って褒めてあげる。で、次に何をしたいか聞いてあげるだけで十分です。専門用語は禁止。これが守れる人だけにお願いするべきです」
瀬川はその注意点も、忘れないようにメモへ書き足した。
午後四時を過ぎた頃。
ちょうど、話題に上がっていたその『親切な常連の男性』が、カードを買いに店にやってきた。
瀬川がすかさず声をかける。
「あ、すみません! 少しだけご相談してもいいですか?」
「ん? どうしたの店長代理。俺でよければ」
常連の男性はカウンターに近づき、隣にいる和真を見て「あれ? この前の初心者スタッフさんじゃん」と軽く手を挙げた。和真も「どうも」と会釈する。
瀬川と和真から、『ビギナーズテーブル』の構想と、常連サポーターのお願いについて説明を受けた男性は、興味深そうに顎をさすった。
「へえ、初心者だけで遊ぶ時間を作るの? めっちゃいいじゃん、それ」
「協力してもらえそうですか?」と和真が尋ねる。
「俺の都合が合う時でいいなら、全然構わないよ。俺、初心者とワイワイ遊ぶの嫌いじゃないし。あの体験会の雰囲気、結構楽しかったからさ」
「ありがとうございます!」瀬川が頭を下げる。
しかし、常連の男性は少しだけ不安そうな顔を見せた。
「ただ、俺でちゃんと教えられるかな? この前みたいに、また無意識に専門用語使ってポカンとさせちゃいそうで怖いんだけど」
和真が笑って口を挟んだ。
「じゃあ、一つだけお願いがあります」
「何?」
「初心者に難しい用語を使ったら、その場ですぐに普通の言葉に翻訳して言い直してもらえます?」
「うわ、監視役付きかよ!」
常連が笑いながらツッコミを入れる。
「俺もまだ専門用語が全然分からないんで、容赦無く突っ込みますよ」
「分かった分かった。テンポロスとかアド損とかリーサルとかは、最初から絶対言わないように気をつけるわ」
「その『テンポロス』が分からないんですが」
「あ、今のは独り言! 独り言だから!」
三人は顔を見合わせて笑った。
常連の男性は、真剣な顔に戻って一つ提案を出してきた。
「俺からも一つ意見いいかな。初心者同士だけで対戦させてると、ルールの解釈で二人とも分からなくなって、ゲームが完全にストップしちゃうことってよくあるだろ?」
和真が頷く。
「ありますね。この前の体験会でも、ルールが分からなくて手が止まる人がいましたし」
「だったら、最初のうちは完全に放置するんじゃなくて、対戦が止まった時にすぐに質問できる人が、テーブルのすぐ横に一人立ってた方がいいと思う。俺か、店員さんがさ」
「それなら、サポーターの方にテーブルについていただければ解決しますね」
瀬川がメモを取る。
「あとさ」と常連が続ける。
「初心者向けの卓なんだから、当然だけど『ガチの環境デッキ』を持ち込んで、初心者を一方的にボコボコにして悦に入るような奴は、出禁にした方がいいぜ」
瀬川も表情を引き締めた。
「もちろん、それは運営側でしっかりお断りします」
和真は、常連客も自然に企画の内容を考えてくれていることが嬉しかった。瀬川も何度か頷きながら、彼の提案をメモしていた。
瀬川は、和真と常連客の意見をまとめ、カウンター脇の小さな作業テーブルへノートPCを置いて簡単な企画書を作成し始めた。
和真は隣の椅子から画面を見ながら声をかける。
「開催条件とルールはそれでいいとして……『試験期間中に何を確認するか(評価基準)』も明記しておいた方がいいですね」
「評価基準、ですか?」
「ええ。例えば、毎回何人が参加したか。前回の参加者が再来店してくれたか。利用者がルールで困ったことはなかったか。通常営業や大会の進行に悪影響が出なかったか。そして、商品の購入や継続利用に繋がったか……とかですね」
和真は画面を指差した。
「一番大事なのは、『一回あたりの参加人数だけで成功か失敗かを判断しないこと』です。人数が少なくても、毎週必ず来てくれる『定着した初心者』が一人でもできたら、この企画には意味があったと言えますよね」
瀬川のタイピングする手が止まった。
「……そうですね」
瀬川は企画書に『再来店した人数』『次回参加の希望』『通常営業への影響』という欄を追加した。
「これなら、続ける価値があるかどうかも後から確認できますね」
企画書の作成がひと段落し、二人はカウンター脇で自販機の缶コーヒーを飲みながら短い休憩を取った。
常連の男性は「じゃあ、企画が通ったらまた教えてよ」と手を振ってフリースペースへ戻っていった。
缶コーヒーの温かさに息を吐きながら、瀬川がふと、ぽつりと口を開いた。
「私……最初、一人でカードショップに入るのが、ものすごく怖かったんですよ」
和真は意外そうに瀬川を見た。
「瀬川さんがですか?」
「はい。高校生の頃ですけど。昔は、カードゲームのルールも全然分からなくて、完全に素人でしたから」
瀬川は、遠い目をして学生時代の思い出を語り始めた。
初めて勇気を出してカードショップの重い扉を開けた時のこと。
店内には詳しい人たちばかりがいて、飛び交う専門用語は呪文のようだった。何を買えば自分のデッキが強くなるのかも分からない。誰に声をかければいいのかも分からない。圧倒的なアウェイ感に押し潰されそうになった。
「でも、その時に……当時の店長さんや、親切な常連のお客さんたちが、私にルールを一から優しく教えてくれたんです」
瀬川の横顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「『このカードを入れるといいよ』とか、『今のプレイング上手かったね』とか。それで、初めてカードゲームが『楽しい』って心底思えたんです」
次の週も、またその次の週も、瀬川は店へ遊びに行った。
少しずつルールを覚え、顔見知りが増えていき、店へ行けば必ず一緒に遊んでくれる相手がいるようになった。
「私にとって、カードショップって……ただ物を買う場所じゃなくて、『自分を受け入れてくれる居場所』だったんです」
和真は、静かに瀬川の話に耳を傾けていた。
「カードを買っても、一緒に遊ぶ相手がいなかったら、なかなか続かないじゃないですか」
「まあ、そうですね。対人ゲームの宿命ですから」
「だから、私、店長代理になってからずっと『初心者体験会』をやりたかったんです。昔の私みたいに、勇気を出して来てくれた人に、このゲームの楽しさを教えたくて」
瀬川は缶コーヒーを両手で包み込み、少しだけ悔しそうに俯いた。
「でも……体験会をやるだけじゃ、足りなかったんですね。楽しさを教えるだけじゃなくて、その後に『遊べる場所』まで用意してあげないと、彼らは昔の私みたいにはなれない」
「入り口だけじゃなく、その先にある『居場所』が必要だったってことですね」
和真が静かに言葉を添えると、瀬川はこくりと頷いた。
「はい。……三浦さんに言われるまで、私、そのことに全く気づいてませんでした。目の前のイベントを回すことばかりに必死で」
「いや、俺だって、昨日の男性の話を聞いて何となく思いついただけですよ。商社時代の経験と結びつけただけで」
「でも、その『何となく』の視点が、私には欠けていたんです」
和真は、初めてこの店を訪れた時の瀬川の丁寧な説明を思い出した。あれほど親切に接してくれた理由が、少し分かった気がした。
「……ただ」
瀬川が顔を上げ、少し自嘲気味に笑った。
「『自分が好きだから』『初心者を助けたいから』っていう感情的な理由だけじゃ、お店の仕事として継続するのは難しいんですよね。売上やコストのことも考えなきゃいけないし」
和真は頷いた。
「それはそうでしょうね。ボランティアじゃないんですから」
「ですよね……」
「でも」と和真は瀬川の目を見た。
「自分が『好きだから続けたい』と思うことを、ちゃんと利益と折り合いをつけて『続けられる形』にデザインするのが、仕事ってやつなんじゃないですか?」
瀬川がハッとして和真を見た。
「今回だってそうです」
和真は続ける。
「一昨日の体験会には参加者が八人。そのうち二人がデッキを買って、三人が次回の予定を聞いてくれた。そして昨日、実際に再来店した人がいた。人数はまだ少ないかもしれないけど、確実に『需要』は存在している」
和真は、PCの画面に表示された企画書を指差した。
「だから、まずは一ヶ月だけやってみる。具体的な数字と反響を見て判断する。ダメなら改善するか、撤退する。いきなり大掛かりな改装をするわけでも、大きな予算を使うわけでもない。リスクは最小限です」
「……確かに」
「まあ、最終的にこの企画にゴーサインを出すのは、瀬川さんの上の店長さんでしょうけど。少なくとも、ただ『やりたいです』と言うよりは、遥かに説得力のある『試してみるべき理由』にはなると思いますよ」
瀬川はもう一度企画書へ目を通した。開催時間や必要な人手も、無理のない範囲に収まっている。
「……これなら、店長に説明できそうです」
和真は「まずは話してみましょう」と応じた。
瀬川は大きく深呼吸をし、PCの前に座り直した。
「……店長に、この企画書をメールで送ります」
「頑張ってください」
瀬川の指がキーボードを叩き、送信ボタンが押された。
新たな定期イベントを丸ごと作るのではなく、空き時間の一卓を一定時間だけ初心者向けにするという、ローリスクな提案。常連の有志からの協力の申し出もある。試験期間は一ヶ月。既存の大会や通常営業を優先するという条件付き。
「……送信しました」
瀬川が緊張の面持ちで画面から目を離す。
「お疲れ様です」
「結果が出るまで、胃が痛くなりそうです……」
「まあ、仕事の企画書を出した後の待ち時間なんて、そんなものですよ」
本来なら、店長の判断が下るまでに数日はかかるだろう。
しかし、十分後。瀬川の業務用端末に、一件のメール通知が飛び込んできた。
「……店長からです。早っ」
瀬川が恐る恐るメールを開く。和真も横から少しだけ画面を覗き込んだ。
『一ヶ月間のビギナーズテーブル試験運用を許可します。
開催時間は既存の大会や予約状況と慎重に調整すること。
通常営業への影響や、既存顧客からのクレームが出る場合は即座に見直すこと。
一ヶ月後に、参加状況と継続利用(商品購入等)の相関について報告を行うこと。』
簡潔だが、全ての条件をクリアした上での明確な『承認』だった。
「……通りました!」
瀬川が歓喜の声を上げ、両手でガッツポーズを作った。
「おお。よかったじゃないですか」
和真も安堵の笑みを浮かべる。
「これで、初心者の方が次に遊べる場所を作れます! 本当に、三浦さんのおかげです!」
「まだこれからですよ。実際に人が来て、定着してくれるかどうかが本番ですからね」
「はい! 頑張ります!」
瀬川の顔は、昨日の夜から抱えていた重圧から完全に解放され、希望に満ちて輝いていた。
午後五時を回った頃。和真は帰り支度を整え、上着を羽織った。
「じゃあ、俺はそろそろ帰りますね。長時間お邪魔しました」
「三浦さん」
カウンターから出てきた瀬川が、和真の前に立って深く頭を下げた。
「今日は、お忙しいところわざわざ来ていただいて、本当にありがとうございました」
「いやいや、俺はただ話を聞いて、少し外側から意見を出しただけですよ。企画をまとめたのも、店長さんを説得したのも瀬川さんの力です」
「それが、ものすごく助かったんです」
瀬川は頭を上げ、照れくさそうに笑った。
「私、カードゲームのルールや戦術のことなら、三浦さんよりずっと詳しい自信があるんです。でも、お店をどうやって継続的に運営していくかとか、ビジネス的な問題解決については、まだまだ素人で……分からないことが多くて」
「まあ、店長代理って肩書きも大変ですよね。現場の仕事と管理職の仕事、両方やらされるわけですから」
「そうなんです! 本当にそうなんですよ!」
瀬川が激しく同意し、二人はまた少しだけ笑い合った。
そして、瀬川が真剣なトーンで言った。
「でも……今回みたいに、どうしようもなく悩んだ時に、三浦さんに相談できて本当によかったです」
「俺みたいな無職のおっさんの経験が役に立ったなら、何よりです」
「……あの、三浦さん」
瀬川が少しだけ上目遣いで、もじもじしながら聞いてきた。
「また何かお店のことで悩んだ時、三浦さんに相談してもいいですか?」
和真は少し意外に思った。
つい数日前、カードゲームの右も左も分からずに教えを乞うていた自分が、今度は彼女から『相談相手』として頼りにされている。
しかし、その事実は決して悪い気はしなかった。
「俺で分かる範囲のビジネスの知見でよければ、もちろん乗りますよ」
「ありがとうございます!」
「その代わり」和真はニヤリと笑った。
「俺も自分のデッキのこととか、カードゲームの複雑な裁定で分からないことがあったら、遠慮なく聞きに来ますからね」
「もちろんです! そこは私の専門分野ですから、どんとこいです!」
瀬川は胸を張り、得意げな顔を見せた。和真もつられて笑い、軽く会釈した。
「じゃあ、また」
「はい! 気をつけて帰ってくださいね!」
瀬川の明るい声に見送られながら、和真は『ドローフェイズ』を出た。
夕方の秋葉原の街は、仕事帰りの会社員や学生たちで賑わい始めていた。
和真が駅へ向かって歩き出した、その時だった。
突如、和真の視界の中央に、これまで見たこともないデザインの壮麗なエフェクトと共に、システム通知が割り込んできた。
『《因果祭典》』
『BOND Established』
『《瀬川真琴》』
『Bond Rank:I』
『《縁》』
『New Card Acquired』
和真は思わず足を止め、道のど真ん中で立ち尽くした。
「……え?」
急な通知。しかし、チュートリアル達成時の無機質なものとは明らかに違う、どこか温かみを感じるような演出だった。
『BOND』。数日前、意味も分からず開いていたあの機能。
それが今、初めて成立の通知を出したのだ。
「……瀬川さん?」
和真は表示された名前を見て、思わず呟いた。
そして、その下に輝く『New Card Acquired(新カード獲得)』の文字。
(本当に……人間関係の構築から、カードが生まれたのか)
和真は周囲を見回した。人通りの多い秋葉原の路上で、いきなり物理的なカードを実体化させるのは危険だ。
和真は意識だけをシステムに向け、『COLLECTION』の画面を展開した。
すると、これまで三十枚しかなかったリストの最後に、新しい一枚のカードのイラストが追加されていた。
『NEW CARD / ACTION』
Cost:1
《因果の選別》
カード効果:
『山札の上から3枚を確認する。その中から1枚を手札へ加え、残り2枚を好きな順番で山札の一番下へ戻す。』
『瀬川真琴とのBond Rank I成立による初回カード報酬』
和真は、そのテキストをじっと読み込んだ。
「……山札の上から三枚?」
三枚の未来を確認し、その中から自分に最も必要な一枚を『選別』して手札に加える。
欲しいカードを引き込める確率を高める、極めて戦略的なカード。
それはまるで、金曜日に瀬川から教わった「必要なカードを見極めて選ぶ」というデッキ構築の考え方が、そのまま形になったような効果だった。
「……選別、か」
和真は小さく笑みをこぼした。
「なんか、瀬川さんとの縁から生まれたカードらしいな」
和真はこの《因果の選別》の性能を、頭の中でシミュレーションしてみた。
直接敵を攻撃するカードでも、騎士を召喚するカードでもない。Cost 1を支払い、使ったカード自体は捨て札へ行くため、手札の総数が増えるわけではない。
だが、その価値は計り知れない。
例えば、敵の強烈な攻撃が迫っている時に《護壁》を探しに行ける。
マナが貯まった後半戦で、フィニッシャーである《アルシオン》を探しに行ける。
運任せのドローではなく、自らの意志で選択肢を確定させる力。
「……これ、めちゃくちゃ便利なんじゃないか?」
今までの和真の戦術の幅を、劇的に広げてくれる一枚になる予感がした。
そして、和真はもう一つの事実に気がついた。
「……あれ?」
カード名を見直す。
《因果の選別》。
これまで持っていた初期デッキの三十枚は、全て《天輪騎士》や《天輪の護壁》など、『天輪』というテーマ名を冠していた。
しかし、この新カードには『天輪』の文字がない。
「ということは……この《因果祭典》には、最初のテーマ以外のカードも存在するってことか」
世界が、また一段と広がった感覚があった。他にどんなテーマがあるのか、何種類のカードが眠っているのか。それはまだ分からないが、確かなワクワク感が胸の奥底で燻り始めた。
和真は視界のUIをメイン画面に戻した。
『COLLECTION』
『Registered Cards 30 → 31』
『Current Deck 30 Cards』
『New Bond 瀬川真琴 / Rank I』
新カードは確かにコレクションに登録された。
しかし、現在のデッキ枚数は三十枚のまま。当然、手札にも山札にも自動追加はされていない。
カードを獲得することと、それを実戦のデッキに組み込んで使えるようにすることは、全く別の作業なのだ。
ここで、数日前から止まっていた最終チュートリアルの表示が更新された。
『FINAL TUTORIAL QUEST』
『《Build Your Own Deck》』
『New Card Acquisition:1/1(達成)』
『Deck Modification:0/1(未達成)』
「……ああ、そういうことか」
和真は納得した。チュートリアルの最後の関門として要求されていたのは、『新カードを手に入れ、自らの意志でデッキを組み替えること』だったのだ。
これでようやく、前半の条件をクリアしたことになる。
和真は『DECK EDIT』の画面を開こうとした。
現在のデッキは三十枚。そこへ《因果の選別》を入れようとすれば、当然エラーが出る。
「一枚入れるなら、今ある三十枚の中から一枚、何かを抜かなければならない」
金曜日に瀬川から教わった言葉が脳裏に蘇る。
マナカーブのバランス。役割の重複。デッキの目的。そして、実際に使った時の評価。
「せっかく新しいカードが増えて喜んでたのに、今度は『どれをクビにするか』で頭を悩ませないといけないのか……」
和真は面倒くさそうに首を振った。
だが、最終クエストが出たばかりの時のように「手も足も出ない」わけではなかった。
瀬川から基本の考え方は学んでいる。鳥籠での実戦データもある。
和真は、駅へ向かう人波の中で、自分のデッキの構成を頭に思い描き始めた。
「まあ、せっかく先生に教わったんだし、家に帰ったらじっくり自分で考えてみるか」
和真は視界のUIを閉じ、前を向いて歩き出した。
つい先ほどまで、瀬川の仕事の相談に乗っていた。ただそれだけだ。怪異と戦ったわけでもない。クエストをクリアしようと意気込んで行動したわけでもない。
ただ、困っている人の話を真剣に聞き、一緒に解決策を考えた。
それだけのことで、新しい『因果の力』が手に入った。
「……本当に、人との縁が力(カード)になるシステムなんだな、これ」
和真の足取りは、不思議と軽かった。
手元には、まだ使ったことのない新しい戦略《因果の選別》。
そして、三十枚の完成された初期デッキ。
「さて……誰にリストラ宣告してやろうかな」
和真は不敵に笑い、しかしすぐに苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……カードゲーム、考えること多すぎるだろ」
三十六歳の無職の夜は、初めてのデッキ構築という知的な悩みに彩られようとしていた。
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