TCG未経験の36歳無職、TCG能力《因果祭典》で異能バトル世界を駆け抜ける 作:パラレル・ゲーマー
月曜日の午後七時過ぎ。
秋葉原の雑居ビルにあるカードショップ『ドローフェイズ』から帰還した和真は、手早く夕食を済ませると、自室のローテーブルの前にあぐらをかいて座っていた。
テーブルの上には、先日購入したばかりの初心者用構築済みデッキと、折り目のついた簡素なルールブック。その隣には、金曜日に店長代理の瀬川から教わったデッキ構築のセオリーを殴り書きしたメモ帳が広げられている。
さらに今夜は、商社マン時代から愛用している薄型のノートパソコンまで引っ張り出し、起動していた。画面の白い光が、少しばかり真剣な和真の顔を照らし出している。
今夜の目的は、ただ一つ。
夕方の帰り道、瀬川との『BOND』成立によって新たに獲得した31枚目のカード――《因果の選別》を、自分のデッキへ組み込むことだ。
「さて……誰にリストラ宣告してやろうかな」
帰り道で口にした軽口を、もう一度誰に聞かせるでもなく呟いてみる。
しかし、その声色に楽観的な響きはなかった。腕を組み、パソコンの画面とメモ帳を交互に睨みつけながら、和真は小さく唸った。
「……たかが三十枚の中から一枚抜くだけなのに、なんでこんなに悩むんだ?」
数日前の和真なら、そもそも何に悩めばいいのかすら分からなかっただろう。新しいカードが手に入ったなら、適当に一番弱そうなカードと入れ替えればいい、くらいにしか考えなかったはずだ。
だが、今の和真は違う。瀬川から『マナカーブ』や『カードアドバンテージ』、そして『デッキの役割』という概念を教わってしまった。知ってしまったからこそ、たった一枚の入れ替えがデッキ全体のバランスに及ぼす影響が気になって仕方がないのだ。
まずは現状の正確な把握からだ。作業を始める前の基本である。
和真はパソコンのキーボードから手を離し、自身の内側――視界の右上に常駐している《因果祭典》のHUD(ヘッドアップディスプレイ)へと意識を集中させた。
夕方、秋葉原の路上で新カードの獲得を確認してから数時間が経過している。
意識を向けた瞬間、視界の中央に時間経過の処理を示すポップアップが静かに表示された。
『Elapsed Time Processing』
『Hourly Cycle ×2』
『MANA 3/3 → 3/3』
『STORED DRAW 7/7 → 7/7』
マナは前回の確認時から満タンで、ドロー権もすでに上限まで溜まっているため、数字の変動はない。
処理が完了し、現在のステータスが明確に表示される。
『DECK 21』
『HAND 4/7』
『MANA 3/3』
『STORED DRAW 7/7』
『DISCARD 5』
「山札が二十一枚、手札が四枚、捨て札が五枚。合計三十枚、か」
和真は左手を軽く開き、現在の手札四枚を実体化させた。
光の粒子が収束し、指先に硬質なカードの感触が伝わる。
《天輪の標章》 Cost:0
《天輪の拘束鎖》 Cost:3
《天輪総騎-アルシオン》 Cost:6
《天輪の補給》 Cost:2
これが、今すぐ使える(あるいは抱えている)手元の選択肢だ。
そして『DISCARD 5』に送られているのは、これまでに使用した五枚のカード。最初の試験で召喚した《初陣のレオ》、鳥籠の医務室で軽症の能力者に使った《天輪の手当》。そして、久保田大地との模擬戦の切り札となった《城壁のガルド》《天輪の転進》《天輪の護壁》の三枚だ。
和真は表示を閉じ、まだ引いていない山札の方へ意識を戻した。
残る山札がどんな順番で並んでいるかは、まだ分からない。
「よし。じゃあ、編集画面を開くか」
手札の四枚を一旦光の粒子へと戻して収納し、和真はシステムメニューから『DECK EDIT』の項目を選択した。
視界の中央に、左右に分割された半透明のウィンドウが展開される。
『DECK EDIT』
『CURRENT DECK:30 CARDS』
『AVAILABLE COLLECTION:31 CARDS』
『DECK SIZE:30』
木曜日の夜、初めてこの画面を開いた時は、右側の『AVAILABLE COLLECTION』も30枚だった。デッキのサイズが30枚固定である以上、予備のカードがなければ1枚の抜き差しもできないという、完全な詰み状態だったのだ。
しかし、今は違う。
右側のコレクション一覧の最下部に、見慣れない31枚目のカードが確かに存在している。
「……本当に増えたんだな」
和真はしみじみと呟き、その31枚目のカード《因果の選別》の詳細ウィンドウを拡大表示させた。
『《因果の選別》』
『Cost:1』
『Type:Action』
『山札の上から3枚を確認する。その中から1枚を手札へ加え、残り2枚を好きな順番で山札の一番下へ戻す。』
帰り道にも効果は確認した。今夜は、その一枚を実際に採用する価値があるかを考えたい。
「一マナ使って、三枚から一枚選ぶ……」
欲しいカードを探せるのはありがたい。だが、山札の上から三枚に目当てのカードがあるとは限らない。
そして《因果の選別》自体を手札から使う以上、カードの総枚数が増えるわけでもない。
二枚引ける《天輪の補給》とは、役割が違う。
目的はカードを増やすことではなく、その場で必要な一枚に近づくことだ。
「……手札の枚数より、欲しいカードを引けるかどうかってことか」
山札の上三枚しか見られず、残り二枚は下へ回る。必要なカードが含まれていなければ、当然外れる。
しかも、使うためには一マナを払わなければならない。
「カードを探すためだけにマナを払うっていうのも、素人感覚だとまだちょっと不思議な感じはするけどな」
それでも、選択肢を絞れるというだけで、使う価値がある場面は多そうだ。
瀬川に教わったカードの選び方も、少しずつ理解できてきた。まずはデッキに組み込んで試してみたい。
「問題は……この優秀な中途採用を入れるために、既存の三十人の中から誰に退職してもらうか、だな」
和真は視線をノートパソコンの画面へと落とした。
画面には、表計算ソフトで作成した現在の初期デッキ30枚のリストが表示されている。先ほど夕食の前に、手書きのメモから打ち直したものだ。
コスト別の枚数分布――マナカーブの数値を確認する。
・コスト0:4枚
・コスト1:10枚
・コスト2:6枚
・コスト3:4枚
・コスト4:2枚
・コスト5:2枚
・コスト6:2枚
合計:30枚
「……こうして数字で並べると、やっぱり低コストが多いな」
0~2コストだけで20枚。ここまでは、すでに確認した通りだ。
和真の目が止まったのは、むしろ一番下の三行だった。
コスト4、5、6。それぞれ二枚ずつ登録されている。
そして現在のマナ上限は3だ。
「……いや、待てよ。今の俺には『絶対に使えないカード』が六枚も入ってるってことじゃないか?」
チュートリアルでマナ上限は3まで増えたが、そこから先の成長条件はまだ分からない。
前に高梨が言っていた通り、将来の伸び代はあるとしても、いつ使えるようになるかは不明だ。
つまり、コスト4の《重鎧のバルガ》二枚、コスト5の《天輪竜騎-レグルス》二枚、そしてコスト6の《天輪総騎-アルシオン》二枚。
時間をかけてマナを回復させても、上限を超えるコストは支払えない。現状では六枚すべてが『死に札』だった。
「三十枚のうちの六枚って、全体の五分の一だぞ。……そりゃ、手札も詰まるわけだ」
和真は、先ほど確認した自分の手札の内容を思い浮かべた。
能力に目覚めた最初の日の朝、引き込んだ初期手札七枚。その中にいたコスト6の《天輪総騎-アルシオン》は、使われることも捨てられることもなく、五日が経った今もずっと和真の手札の一枠を占領し続けている。
「最初からずっと手札にいるんだよな、こいつ……」
和真は再び左手に《アルシオン》のカードを一枚だけ実体化させ、デスクライトの光に透かして見た。
白馬に跨り、輝く槍を天に掲げる壮年の重装騎士。金と白の装飾枠は他のどのカードよりも豪奢で、素人目にも「このデッキの主役です」と言わんばかりの圧倒的な存在感を放っている。
効果テキストには『存在中、他の《天輪騎士》の連携精度を上昇させる』とある。もし召喚できれば、並み居る騎士たちを統率する最強の指揮官として無類の強さを発揮するに違いない。
「最強の騎士が手元にいるのに、マナが足りなくて召喚できないって……なかなかもどかしいな」
会社で言えば、年収数千万クラスの超凄腕エグゼクティブを雇ったのはいいが、会社の予算規模が小さすぎて動かすためのプロジェクト費用が捻出できず、ずっと社内の窓際でコーヒーを飲ませているような状態だ。
この時点で、和真の頭の中には「しばらく使えない高コスト帯から一枚減らすのが最も合理的ではないか」という考えが浮かんでいた。
だが、元商社マンの慎重な性格が、即決に待ったをかける。
本当に高コストを抜くのが正解なのか。まずは全てのカードを公平に査定し、他のリストラ候補と比較検討するべきだ。
和真はパソコンのリストの一番上、コスト0の項目に目を向けた。
最初に目についたのは、《天輪の標章》×2。
効果は『対象へ目印を付与』。ただそれだけのサポートカードだ。
「……これ、一枚抜いてもいいんじゃないか?」
木曜日、久保田大地と模擬戦をした時も、このカードは最初から手札にあったにもかかわらず、最後まで使わなかった。0マナだからいつでも使えたのに、使う場面そのものが存在しなかったのだ。
和真はボールペンを指の間でクルクルと回しながら、少し考え込んだ。
あの模擬戦で、なぜこれを使わなかったのか。
理由は明白だ。あのケージには遮蔽物がなく、敵は目の前の大地ただ一人だった。ガルドも最初から大地を完全に視認しており、わざわざ『目印』をつけて敵の位置を教える必要がなかった。
しかし、今後の実戦が常にそんなクリーンなリングの上で行われるとは限らない。
もし、夜間の入り組んだ路地裏で逃走する犯人を追跡することになったら?
もし、霧や煙幕で視界を奪うような能力者と遭遇したら?
あるいは、複数の《天輪騎士》を同時に召喚し、「あいつを集中攻撃しろ」と明確なターゲットを指定したくなったら?
「……いや、ダメだな。これは弱いんじゃなくて、まだ試す環境が来てないだけだ」
金曜日の昼間、瀬川と交わした会話が蘇る。
『一回使わなかったからといって、単純に弱いカード、抜いていいカードとは限らないんですね』
『その通りです! 対戦相手のデッキタイプや、戦う環境によって、カードの価値は全く変わります』
まさにその通りだった。しかも、このカードはコスト0だ。いざという時にマナを消費せずに打てる牽制やマーキングの手段を、自分から減らすのは得策ではない。
「《標章》は保留だな」
次に視線を移したのは、コスト1の帯域。全10枚と、デッキの中で最も層が厚い部分だ。
新たに編入する《因果の選別》がコスト1であるため、マナカーブの美しい階段を維持するなら、同じコスト1の中から1枚を抜くのがセオリー通りではある。
コスト1の内訳は、《初陣のレオ》《疾駆のミラ》《天輪の光矢》《天輪の護壁》《天輪の手当》の五種類が各二枚ずつ。
前衛の要である《レオ》や《ミラ》、貴重な遠距離攻撃手段の《光矢》を抜く選択肢は最初からなかった。特にこのデッキは騎士を展開して戦うアグロ寄りの構築だ。初動の要である1コストの召喚体を減らせば、デッキのコンセプトそのものが鈍ってしまう。
では、残る補助カード二種――《護壁》か《手当》はどうか。
和真の視線が、《天輪の手当》の文字の上で止まった。
対象一人の軽症を治療する、純粋な回復カード。直接戦闘の勝敗に関わるカードではない。カードゲームとしての効率だけを考えるなら、攻撃や展開を優先して回復カードの枠を削るというのは、よくある構築手段だ。
しかし、和真は即座に首を横に振った。
「こいつは……さすがに抜けないな」
木曜日、鳥籠の医務室で見た光景を思い出す。
擦過傷、打撲、そして軽度の足首の捻挫。訓練で負傷した一人の能力者が抱えた三つの症状を、このカードはたった一枚で治療した。医療上の『軽症』を参照している可能性もあるが、病気や体調不良への効果はまだ未検証だ。
これはテーブルの上のゲームではない。生身の人間が生きる現実世界なのだ。
和真自身が転んで怪我をすることもあるだろうし、目の前で誰かが怪我をする場面に出くわすかもしれない。そんな時、1マナで痛みを消し去ることができる『魔法の救急箱』がデッキに入っているかどうかは、カードゲームの勝敗以上に重い意味を持つ。
「現実で怪我を治せるカードを減らすなんて、怖くてできるわけがない」
ゲーム上の理論値と、現実世界での有用性のズレ。それを肌で理解している和真にとって、《手当》の二枚体制は絶対に崩せない生命線だった。
そうなると、他の補助カードはどうだ。
コスト1の《天輪の護壁》、コスト0の《天輪の転進》、コスト2の《天輪の補給》。
和真はリストを眺めながら、木曜日の模擬戦の手応えを反芻した。
《転進》がなければ、大地の見事なフェイントで背後を取られたガルドは、無防備な背中に一撃をもらっていた。
《護壁》がなければ、盾を弾き飛ばされた最後の局面で、ガルドはまともに大地の拳を受けていた。
そして《補給》は、減った手札を一気に二枚補充できる、このデッキ唯一の純粋なドローソースだ。
「……こうして見直すと、やっぱり使えるカードばっかりじゃないか」
和真は背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。
金曜日、瀬川に「何を基準にしてカードを抜けばいいんですか」と質問した時、彼女は少し笑ってこう言ったのだ。
『新しいカードを入れる理由を探すより、既存のカードを抜く理由を決める方が、精神的にも戦術的にも何倍も難しいんです』
その言葉の意味が、今になって痛いほど骨身に染みていた。
「強いカード、必要なカードばかりで組まれているからこそ、そこから一枚を抜くのがこれほど難しいのか……」
初期デッキの30枚は、決して適当なガラクタの寄せ集めではなかった。《天輪》というテーマに沿って、攻撃、防御、機動、回復、補充が極めて高い次元で噛み合うようにデザインされた、完成度の高い構築済みデッキだったのだ。
だが、それでも和真は一枚を抜かなければならない。
自分の意志でデッキを再構築し、チュートリアルのその先へ進むために。
和真はゆっくりと上体を起こし、パソコンのリストの最下部――コスト6の項目へと、再び視線を戻した。
『《天輪総騎-アルシオン》 ×2』
初期デッキに二枚投入されている、最高コストのカード。
先ほど手札から実体化させて眺めた、あの白馬の重装騎士だ。
カード単体のスペックは間違いなく最強クラスだ。いずれマナの上限が6まで成長した暁には、デッキの主役として大暴れしてくれるだろう。和真としても、いつかは必ずこの手で召喚してみたいという憧れがある。
だが、冷静な現状分析を優先するなら、答えは最初から出ていた。
現在のマナ上限は3。
コスト6のこのカードを使えるようになるには、ここからさらにマナ上限を3段階も引き上げなければならない。それが明日達成できるのか、一ヶ月後になるのか、あるいは一年後になるのかすら分からないのだ。
「……今の段階で、使えないカードを二枚ともデッキに入れておく必要、あるか?」
同じカードを二枚入れる理由は、瀬川に教わった通り「試合中にそのカードを引き込む確率を上げ、戦術の安定性を高めるため」だ。
しかし、今の和真にとって、《アルシオン》を引き込む確率が上がることは、イコール「手札に絶対使えないカードが溜まる確率が上がる」というデメリットでしかない。事実、すでに一枚は初期手札に来てしまい、枠を圧迫している。もし次のドローでもう一枚の《アルシオン》を引いてしまったら、手札上限7枚のうち2枚が完全に機能停止することになる。
将来的に6マナが使えるようになったら、その時にまた二枚に戻せばいい。
今は、山札の中に眠っているもう一枚の《アルシオン》に一時的にベンチへ下がってもらい、その空いた一枠に、今すぐ1マナで使えてデッキの回転を劇的に良くしてくれる《因果の選別》を入れる。
マナカーブの観点から見ても、重すぎる6コストが減り、使いやすい1コストが増えることで、現在の最大3マナという環境に最適化されるはずだ。
論理的な思考のパズルが、カチリと音を立てて組み上がった。
和真はデスクの上に置いたままだった実体化の《アルシオン》のカードを指先で軽く弾き、苦笑いまじりに語りかけた。
「そういうわけだ。今回はお前だ、アルシオン」
黄金の枠の中で、白馬の騎士が静かにこちらを見返しているような気がした。
もちろん、二枚ともクビにするわけではない。今ここにある手札の一枚は、そのままデッキに残る。
「一枚はちゃんと残してやるからな。俺が頑張って六マナ使えるようになったら、その時は真っ先に出してやるよ」
そこまで言ってから、和真はハッと我に返り、静まり返った自室を見渡した。
三十六歳の独身男性が、夜中に一人でプラスチックのようなカードのイラストに向かって、リストラ面談のような優しい声かけをしている。
「……誰に言ってんだ、俺」
自分で自分に呆れ果て、乾いた笑いが漏れた。
手元の《アルシオン》を光の粒子に戻して収納し、和真は改めて視界中央の『DECK EDIT』画面へと向き合った。
ここで、和真はシステム上の重要な仕様に直面することになる。
現在、和真のデッキには《アルシオン》が二枚登録されている。
そのうちの一枚は、現在『HAND(手札)』の4枚の中に実在している。そしてもう一枚は、まだ引いていない『DECK(山札)』の21枚の中に眠っている状態だ。
もしここで、手札にある方の《アルシオン》をデッキから外して《因果の選別》と入れ替えることができたらどうなるか。手札の使えないカードがいきなり新カードに化けるという、都合のいい無料の手札交換(イカサマ)が成立してしまう。
だが、《因果祭典》のシステムはそこまで甘くはなかった。
左側の『CURRENT DECK』のリストにある《天輪総騎-アルシオン ×2》の項目に意識を向けると、二つのうち片方には『In Hand(手札内)』という小さなロック表示がついており、選択できないようになっていた。編集対象として選択できるのは、現在『In Deck(山札内)』にあるもう一枚の方だけだ。
同じく、すでに使用して『DISCARD(捨て札)』に送られている5枚のカード(《レオ》一枚や《ガルド》一枚など)にもロックがかかっており、現時点では編集対象として触れないようになっているらしい。
「なるほどな。今まさに進行形で動いている手札や捨て札を誤魔化すような編集はできない、と。あくまで『まだ引いていない山札の中身』だけを差し替えられるわけか」
至極真っ当で、抜け道のない厳格なルール設計だった。
和真はロックのかかっていない、山札内の《天輪総騎-アルシオン》を一枚選択し、デッキから外す操作を念じた。
左側のデッキ枚数表示が一瞬だけ『29/30』に減る。
続けて、右側の『AVAILABLE COLLECTION』で淡く発光している31枚目のカード、《因果の選別》を選択し、左側のデッキリストへとスライドさせるイメージを強く描いた。
ピッ、と脳内に澄んだ電子音が響き、画面の表示が切り替わる。
『《天輪総騎-アルシオン》 2 → 1』
『《因果の選別》 0 → 1』
『CURRENT DECK:30 CARDS』
リストの枚数が再び30枚で満たされ、エラー表示が消えた。
まだ仮変更の段階だ。画面の下部に、最終確認を求めるボタンがポップアップしている。
『Register Deck Changes?(デッキの変更を登録しますか?)』
『[CONFIRM]』
和真は一度だけ深く息を吸い込み、変更後のリストに間違いがないか目を通した。
記念すべき、人生で初めてのデッキ構築(カスタマイズ)だ。
「……よし」
和真は『CONFIRM』のボタンへ強く意識を押し込んだ。
瞬間、視界のウィンドウが眩い光の枠で囲まれ、確定の通知が中央に大きく表示された。
『DECK EDIT COMPLETE』
『CURRENT DECK:30 CARDS』
『Card Removed:《天輪総騎-アルシオン》×1』
『Card Added:《因果の選別》×1』
「……できた」
思わず、安堵と達成感の入り混じった声が漏れた。
たった一枚。30枚の束の中から、たった一枚のカードを入れ替えただけに過ぎない。
しかし、和真にとっては決定的な一歩だった。
つい先ほどまでのデッキは、《因果祭典》という得体の知れないシステムが最初から用意した「借り物のセット」だった。だが、今ここにある30枚は違う。和真自身がルールを学び、実戦を経験し、自分の頭で考えて一枚を抜き、自らの築いた人間関係(縁)から生まれたカードを組み込んだ、紛れもない『自分のデッキ』だ。
右側の『AVAILABLE COLLECTION』の欄を見ると、今デッキから外したばかりの《アルシオン》が一枚、予備のカードとして綺麗に保管されているのが見えた。消滅してしまったわけではない。
「……現実の会社のリストラと違って、クビにしても消えないし、必要になったらまたいつでも戻せるのは精神衛生上いいな」
そんなサラリーマン染みた感想を抱きながら、和真は手元のノートパソコンの表計算シートの数値を書き換えた。
・コスト0:4枚
・コスト1:10枚 → 11枚
・コスト2:6枚
・コスト3:4枚
・コスト4:2枚
・コスト5:2枚
・コスト6:2枚 → 1枚
合計:30枚(コレクション総数:31枚)
高コストの死に札が一枚減り、1マナで小回りの利く《因果の選別》が加わったことで、現在の3マナ環境でより滑らかに回る構成になったはずだ。
念のため、視界右上のHUDのステータスにも目を向ける。
『DECK 21』
『HAND 4/7』
『MANA 3/3』
『STORED DRAW 7/7』
『DISCARD 5』
数字は先ほどから一切変わっていない。
手札の4枚も、捨て札の5枚もそのまま。そして山札の残り枚数も『21』のままだ。
あの21枚の山札の中で《アルシオン》一枚が《因果の選別》へと差し替わった。山札の順番まで変わったかどうかは表示されておらず、新カードが上から何番目にあるのかも、今の和真には分からない。
「……まあ、せっかくデッキに入れたところで、結局はドローして手札に引かないと使えないんだけどな」
デッキに入れたからといって、今すぐ手元に現れてくれるわけではない。次にドロー権を使った時に引けるかもしれないし、21枚の最後の1枚まで底に眠っているかもしれない。
そんな「カードゲーマーなら誰もが抱えるもどかしさ」を、和真もまた、ごく自然に共有し始めていた。
さて、これで今夜の目的は達成した。
和真が満足して『DECK EDIT』のウィンドウを閉じようとした、まさにその直後だった。
視界の中央に、これまで何度も見てきたクエスト達成のパネルが、ひときわ強い光を放ちながら割り込んできた。
『FINAL TUTORIAL QUEST COMPLETE』
『《Build Your Own Deck》』
『New Card Acquisition:1/1』
『Deck Modification:1/1』
『ALL REQUIREMENTS COMPLETE』
「……お?」
和真の目が大きく見開かれた。
木曜日の夜、基礎チュートリアルを終えた直後に突きつけられた、あの不親切極まりない最終課題。『初期構築以外のカードを新たに獲得し、CURRENT DECKを一度以上変更する』。
その二つの条件が、今のデッキ登録によって完全に満たされたのだ。
パネルの文字が弾けるように消え去り、代わりに画面全体を覆い尽くすような荘厳な黄金色のエフェクトが走った。
そして、視界のど真ん中に、決定的な文字列が刻まれる。
『TUTORIAL COMPLETE』
「……終わった?」
誰もいない部屋の中で、和真の呟きだけが静かに響いた。
数秒間、奇妙な静寂が部屋を満たす。
水曜日の朝、視界に突然《因果祭典》が現れてから、まだ五日しか経っていない。
あの時は『HAND』も『MANA』も意味が分からず、ただ戸惑っていた。
今は、誰かとの縁から得たカードを自分でデッキに組み込めた。それだけでも、ずいぶん遠くまで来たような気がする。
「……長いチュートリアルだったな」
心の底からの実感が、深いため息と共にこぼれ落ちた。
しかし、感傷に浸っている暇はない。チュートリアルが完全に終了したということは、当然、相応の『達成報酬』があるはずだ。
(……最後のチュートリアルだ。今度こそマナ上限が増えるかもしれない)
4マナになれば、コスト4の《重鎧のバルガ》を試せる。それだけに、少し期待してしまう。
和真はわずかな期待を胸に、視界右上のステータス表示を食い入るように見つめた。
『MANA 3/3』
「…………」
数字は、3のまま微動だにしなかった。
和真は眉間を指で揉みほぐしながら、小さく肩を落とした。
「……今回もマナは増えないのか。本当にシビアなゲームだな」
木曜日の夜にも肩透かしを食らったばかりだ。少なくとも、チュートリアルを終えるだけでマナ上限が上がるわけではないらしい。
マナ上限が増えない代わりに、画面の中央には新たなシステム解放を告げるポップアップが表示された。
『NEW FUNCTION UNLOCKED』
『《QUEST》』
「……クエスト?」
和真は首を傾げた。
今までも『Tutorial Quest』という名称で課題は出されていた。しかし今回解放されたのは、メインメニューに常設される独立した機能としての『QUEST』アイコンだった。
「チュートリアルが終わった後にクエスト機能が解放されるって……普通のゲームとしては順番が逆じゃないか? いや、チュートリアルを終えて初めて本編のサブクエストが受注できるようになった、って解釈すればいいのか」
和真はぶつぶつと独り言を言いながら、新しく追加された『QUEST』の項目へ意識を向けて展開した。
すると、これまでのようにシステムから一方的に一つの課題を押し付けられる形式ではなく、複数の項目がリストアップされた一覧画面が表示された。
『QUEST / AVAILABLE』
・《実践と応用》
条件:新たに編入したカードを、別のカードと組み合わせて使用する。
Reward:???
・《広がる縁》
条件:新たなBondを成立させる。
Reward:???
・《新たな一歩》
条件:これまでに観測していない異能現象を確認する。
Reward:???
画面に並んでいたのは、この三つのクエストだった。
チュートリアルの時とは違い、『Reward(報酬)』の欄がすべて『???』と伏せられている。達成してみなければ、マナが増えるのか、新しいカードが手に入るのか、あるいは全く別の機能が解放されるのかすら分からない仕様らしい。
和真は三つの条件を上から順番に読み返し、腕を組んだ。
「……新しいBondを作れ、か」
二番目の《広がる縁》に目が留まる。
今日、瀬川真琴との間に初めてのBond『Rank I《縁》』が成立した。だが、和真にはまだ「どうすれば意図的にBondを成立させられるのか」という明確な基準が分かっていない。
ただ挨拶をして名刺を交換しただけの人や、模擬戦で一度戦って連絡先を交換しただけの大地とは成立しなかった。瀬川のように、相手が抱えている本質的な悩みに踏み込み、共に時間を過ごして解決へ導くような、深い「因果の交わり」が必要なのだとすれば――。
「これ、狙って効率よく達成するのは難しくないか?」
そもそも、クエスト達成のためだけに他人の悩みに首を突っ込むのは、木曜日の夜に決めた自分のポリシーにも反する。こればかりは、日々の生活の中で自然なご縁があれば、くらいに構えておくしかないだろう。
三番目の《新たな一歩》。『これまでに観測していない異能現象を確認する』。
これは非常に分かりやすい。これまでに和真が目にした他者の異能は、鳥籠の医務室で見た治癒能力や、カフェで見た発火・念動力の小技、そして模擬戦場で見た身体強化や風圧、大地の《鋼皮》くらいだ。今後、能力者たちの世界に少しずつ関わっていけば、未知の能力を目の当たりにする機会はいくらでもあるだろう。
そして一番目の《実践と応用》。『新たに編入したカードを、別のカードと組み合わせて使用する』。
先ほどデッキに入れたばかりの《因果の選別》を使ってカードを引き、その引いたカードを連続して使うような動きをすれば達成になるのだろうか。
「……まあ、これはせっかくデッキに入れたんだし、そのうち機会があれば試してみたいな」
全体を見渡して和真が理解したのは、この『QUEST』という機能が、八咫烏から出される業務依頼や、RPGのギルドの掲示板のような「他者からの頼まれごと」ではない、ということだった。
あくまで《因果祭典》という能力システムが、和真自身の行動の幅――戦闘技術、人間関係、未知の経験――を広げさせるために提示している『成長の道標』なのだ。おそらく、和真が今後新しい体験をすれば、それに応じてまた別のクエストが自動的に追加されていくのだろう。
「なるほどな。別に期限があるわけでもないし、全部を慌ててクリアする必要もない。……とりあえず、普段通り生活しながら、出来そうなことから気長にやればいいか」
システムの奴隷になってクエスト消化のために走り回るのではなく、自分の無職生活を楽しみながら、ついでにこなしていく。和真の中で、この能力とのちょうどいい付き合い方が定まった瞬間だった。
すべての画面を閉じた和真は、ふとテーブルの上のスマートフォンに目をやり、手を伸ばした。
「……これ、高梨さんに報告しないといけないよな」
八咫烏の担当官である彼女からは、「能力に新しい変化があれば連絡するように」と言われている。
前回メールを送った時は、デッキの内容をすべて確認してマナ上限が2から3に増えたというだけの報告だった。
しかし、今回の変化は次元が違う。
・他者との『BOND』を通じて、初期デッキ外の新しいカードを獲得したこと。
・『DECK EDIT』によって、実際にデッキの構成を変更できたこと。
・最終チュートリアルが完了し、新たに『QUEST』機能が解放されたこと。
木曜日の鳥籠で、高梨は「この能力は伸び代が全く読めない」と目を輝かせていた。こんな報告を送ったら、あの隠れカードゲームオタクの担当官がどれほど食いついてくるか、想像するだけでも少し恐ろしい。
「……また、送った瞬間に電話が掛かってきそうだな」
最初の報告メールを送った夜、数分後には弾んだ声で電話をかけてきて『アグロデッキみたいですね!!!』と叫んだ高梨を思い出し、和真は苦笑した。
スマートフォンのメールアプリを開き、高梨の専用アドレスを宛先に設定する。
商社マン時代の手癖で『お世話になっております。三浦です』と打ち込み、今回の能力の変化を箇条書きで整理し始めたところで――ふと、和真の親指が画面の上で止まった。
1項目目。『BOND機能による新カードの獲得』についてだ。
システムの『BOND』画面には、対象者として『瀬川真琴』というフルネームがはっきりと刻まれている。獲得した《因果の選別》のカード詳細にも、その名前が明記されていた。
これをそのまま、国の機関である八咫烏に報告するべきだろうか?
「……いや、待てよ。瀬川さん本人は、俺の能力のことなんか何も知らない一般人なんだよな」
和真は冷静に考えた。
瀬川はただ、カードショップの店長代理として和真に親切にルールを教え、店舗運営の悩みを相談しただけだ。自分が国家機密レベルの『因果律改変能力』の成長トリガーになっていることなど、夢にも思っていない。
もちろん、高梨や八咫烏が無法な組織だとは思わない。いきなり瀬川を拉致して尋問するようなことはないだろう。
だが、一度でも公的機関のデータベースに『特殊能力者の能力発動に関与した重要参考人』として彼女の名前と勤務先が登録されてしまえば、今後何らかの形で身辺調査をされたり、監視の対象になったりするリスクはゼロではない。
自分の能力の都合で、世話になった善意の一般人を裏側の世界の面倒ごとに巻き込む。それは、三十六歳の大人の男として絶対にやってはいけないことだと思えた。
「よし。機能の概要だけ報告して、相手の個人情報は伏せよう。それで文句を言われたら、その時にまた考えればいい」
和真は一度打ちかけた文面を少し修正し、必要十分な事実だけをまとめたビジネスメールを作成した。
『件名:《因果祭典》の追加変化について
高梨様
お世話になっております。三浦です。
本日、能力に追加の変化がありましたのでご報告いたします。
1.解放されていた《BOND》機能を通じ、新規カード《因果の選別》(Cost 1 / Action)を1枚獲得しました。
2.《DECK EDIT》機能により、初期デッキから《アルシオン》を1枚外し、上記の新規カードを編入する初回のデッキ変更を行いました(デッキ総数30枚は維持)。
3.上記に伴い、最終チュートリアルが完了し、新たに《QUEST》機能が解放されました。
なお、現在のMana Capacityは「3」のまま変動はありません。
また、《BOND》の成立条件には他者との関係性が関与しておりますが、対象者は一般の方であり、第三者の個人情報保護の観点から、現時点では氏名等の共有は控えさせていただきます。
新カードの効果詳細や《QUEST》の内容等、口頭での説明が必要であれば別途共有いたします。
よろしくお願いいたします。
三浦和真』
入力し終えた画面を上から下まで読み返し、誤字脱字がないことを確認する。
「……なんか俺、会社辞めてからの方が、真面目に仕事の報告書書いてる気がするな」
無職の夜に書くにしてはあまりにも堅苦しい文面に苦笑しつつ、和真は送信ボタンをタップした。
時刻は午後八時半を回っている。いくら何でも、今回はすぐに電話が鳴るようなことはないだろう。そう思ってスマホをテーブルに置き、冷蔵庫へ新しいお茶を取りに行こうと腰を浮かせた、その数分後だった。
ブブッ、とテーブルの上のスマートフォンが短く震えた。
電話の着信ではなく、メールの受信通知だ。やはり夜分ということもあって、高梨もメールで返してくれたらしい。
和真はスマホを手に取り、届いたばかりの返信を開いた。
『三浦様
ご報告ありがとうございます。高梨です。
《BOND》によるカード獲得と人間関係の連動、ならびにデッキの任意編集機能の確認、非常に興味深いデータです。能力の拡張性が当初の想定を大きく上回っています。
《QUEST》機能の詳細も含め、ぜひ近日中に詳しく確認させてください。
なお、《BOND》対象者の個人情報につきましては、三浦さんのご判断を尊重いたします。犯罪や特殊事象に関与する人物でない限り、現段階で無理にご報告いただく必要はございません。』
「……ふぅ。まあ、そうだよな」
和真はホッと胸を撫で下ろした。
カードゲームの話になると暴走しがちな高梨だが、根っこの部分は極めて常識的で有能な行政官だ。一般人のプライバシーに関するこちらの配慮を、一言で汲み取ってくれたのは実にありがたい。
これで報告義務も果たした。そう思って画面を閉じようとした和真の目が、メールの最下部に添えられていた数行のテキストに吸い寄せられた。
『追伸:
そういえば、先日お電話でお話しした「能力者向けの単発協力(お仕事)」について、現在の三浦さんの能力特性に非常に合いそうな案件が一件入ってきております。
まだ内部で条件を調整中の段階ですが、概要だけでもご案内しましょうか?
高梨』
「…………」
和真はスマホを持ったまま、その追伸の文章を二回、三回と読み返した。
能力者向けの単発協力。
それは、覚醒した水曜日の夜に高梨から教えられた仕事の選択肢の一つだ。『召喚、防御、治療、拘束』と対応の幅が広い能力には需要があり、待遇も悪くないらしい。
和真はソファに座り直し、少しだけ考え込んだ。
正直に言えば、今すぐお金に困っているわけではない。十四年勤めた商社の割増退職金とこれまでの貯金がある。当初の計画通り、半年くらいは何もせず、無職の自由を謳歌するつもりだった。
だが――。
この数日間で、和真を取り巻く環境も、和真自身の心境も、少しずつ変化していた。
せっかく手に入れた《因果祭典》という規格外の力。そして今夜、自分の頭で考え抜いて組み上げたばかりの30枚のマイデッキ。
この力が、模擬戦のようなテスト環境ではなく、実際の現代社会の『仕事』の現場でどのように機能するのか。どんな人間が、どんな目的で能力者に依頼を出すのか。
さらに言えば、先ほど解放されたばかりのクエスト《新たな一歩(未知の異能現象の確認)》や、《実践と応用(新カードの組み合わせ使用)》を進める上でも、能力者絡みの案件に顔を出してみるのは悪くない選択肢に思えた。
「……まあ、いきなり引き受けるって決めたわけじゃないしな。話を聞くだけならタダか」
元営業マンの「とりあえず条件と見積もりだけは確認しておく」という習性が顔を出した。危険すぎる犯罪者の鎮圧や、命に関わるようなブラック案件なら、その場で丁重にお断りすればいいのだ。なにせ、今の和真には『無職』という最強の拒否権がある。
和真は返信画面を開き、簡潔な文章を打ち込んだ。
『高梨様
ご配慮ありがとうございます。
単発協力の案件につきまして、興味はありますので、ぜひ詳細を教えていただけると助かります。
ただ、まだ能力の扱いに不慣れな身ですので、具体的な内容や条件を確認してから受けさせていただくか判断させてください。
三浦』
送信ボタンを押す。これなら、過度に期待を持たせず、かつ前向きな姿勢だけは伝えられるはずだ。
スマートフォンをテーブルに置き、和真は大きく伸びをしてから、もう一度だけ《因果祭典》のシステム画面を展開した。
新たに並んだ『QUEST』の三文字。
『BOND』の欄に輝く、『瀬川真琴 / Rank I《縁》』の記録。
そして『COLLECTION』の31枚と、その中から自分が選び抜いた『CURRENT DECK』の30枚。
和真は新たに増えたメニューを見渡して、小さく笑った。まだ分からないことは多いが、今は少しだけ先が楽しみだった。
「……人間、環境が変われば案外なんとかなるもんだな」
そんなことを考えながら、和真はデッキリストに並ぶ《因果の選別》の文字列を眺めた。
今はまだ、初期から持っていた《天輪》テーマのカードが30枚中29枚を占めている。
しかし、人との縁が深まれば新しいカードが生まれることが分かった。クエストを達成することでも、何か新しい要素が手に入るかもしれない。
これから先、どんなカードが手に入り、この30枚の束がどんな風に姿を変えていくのか。
「……さて、次は何が増えるんだろうな」
まだ見ぬカードのテキストを想像し、胸の奥に小さな、しかし確かなワクワク感が灯るのを感じた、その時だった。
ピロン、とテーブルの上のスマートフォンが本日二度目の受信音を鳴らした。
画面を見ると、高梨からの即レスだった。
『三浦様
承知いたしました。もちろん、内容をご確認いただいた上でのご判断で構いません。
つきましては、明日もしお時間があれば、直接お会いして案件の概要と新カードの検証を兼ねてご説明できますが、ご都合いかがでしょうか?
高梨』
「……明日?」
和真は素っ頓狂な声を上げ、スマホのカレンダーアプリを開いた。
火曜日の欄を見る。当然のように真っ白だ。予定など何一つ入っていない。
水曜日に覚醒して以来、眼科、八咫烏、鳥籠、カードショップと出歩き、土曜日は初心者体験会。ようやく日曜に休めたと思えば、月曜は経営相談、そして明日の火曜日も八咫烏との面談になりそうだ。
会社に退職届を出したあの日、自分は確かに「少なくとも半年は誰にも縛られず、昼まで寝て海外ドラマを見てダラダラと過ごすんだ」と心に誓ったはずだった。
「……チュートリアルが終わったら、少しは暇になると思ってたんだけどな」
カレンダーの白い枠を見つめたまま、和真は遠い目をした。
視界の右上では、『MANA 3/3』『STORED DRAW 7/7』という白みを帯びた半透明の文字が、いつでも出撃できると言わんばかりに浮かんでいる。
チュートリアルが終わればゲームが落ち着くなどと、どうしてそんな甘い勘違いをしていたのだろうか。どのゲームだって、チュートリアルが終わった瞬間からが、一番忙しくてやることが増えるに決まっているのに。
「……これ、ここからが本番なのかよ」
三十六歳、無職。
彼の平穏で怠惰なはずだったセカンドライフは、本格的なデッキ構築の始まりと共に、ますます遠ざかっていくのだった。
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