容疑者は、ブラスフェミィに乗っている天使、全員。
グランギニョルは名簿の行方を密かに追うため、独自に調査を始める。
アンジェリカアスター完結記念
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【登場人物】
・グランギニョル
:帝国の暗部をつかさどっている一族の出身。
・エキドナ
:グランギニョルの手助けで帝都から脱出した元・皇女。
・フォビドゥン
:元・機密管理局員。ブラスフェミィの書類を管理している。
・インヴィジブル
:元・帝国軍士官。本人にしか見えないユニコーンと会話する特技がある。
・エメス
:元・土偶。
・アルケイン
:元・お嬢様。オーパーツが大好きな自称冒険家。
・R
:元・陸軍兵士。前線でピアノを弾いていたら撃たれたことがある。
・モノクローム
:元・画家。天使になった際、色覚を失っている。
【1】
「無い!」
グランギニョルは思わず声を上げた。
彼女がいる部屋の扉には、「機密保管庫」と書かれたプレートがかけられている。
大げさな名前がつけられているが、かいつまんで言えば資料室だ。
所狭しと並べられた書類棚は、中の書類が零れ落ちないように補強されている。空中戦艦ブラスフェミィは一般的な事務所よりはるかに揺れるからだ。
とりわけ強固に、ガチガチに、これでもかというほど頑強に固定されているのが
グランギニョルが叫んだのは、その金庫の中を覗き込んだ直後だった。
「無い……無い! 天使の名簿がない!」
天使隊における最高機密。それが、天使名簿だった。
ストリートの孤児から皇族まで、ありとあらゆる階層から天使はあらわれる。どんな少女でも、《グレゴールの林檎》をかじれば天使になる可能性がある。
逆に言えば、天使たちがどこの誰なのかを、決して外に漏らしてはならない。
もし帝国のほかの組織や、あるいは敵対している『王国』に天使たちの素性が漏れるようなことがあればどうなるか。
故郷にいる家族を人質に取られるかもしれない。家族を守りたければ、神獣との戦いをやめろ……そう告げられたとき、すべての天使が脅しをはねのけることができるだろうか。
神獣に対抗できる戦力は天使だけ。その天使を運用できるのは天使隊だけ……その前提が崩れれば、どれほど大きな混乱が起きるか。
グランギニョルは情報操作の専門家として、個人情報がいかに強力な武器になるかをよく知っていた。
(落ち着きなさい。このことに気づいているのは私だけ……)
鍛え抜かれた自制心で流れ出す冷や汗を止めて、グランギニョルは自分に言い聞かせた。
眉目秀麗、氷のような美女。
自他ともに認める天使隊随一の才女。自認がエリート。
それがグランギニョルだ。
(誰かが保管庫から持ち出した……?)
グランギニョルは、新たな天使の
(まずは冷静に。私が持っている情報を整理しないと)
グランギニョルは略歴書を保管庫へ収納する命令を受けた。その命令を出したのは、天使隊の執務を取り仕切るユノ少尉だ。
命令を受けたのが十時ごろ。
現在時刻は正午の少し前。
同じ艦内にある保管庫に向かうだけでなぜ二時間もかかったのか?
それはのっぴきならない事情があった。
司令部から保管庫に向かう途中、グランギニョルはエキドナを見かけた。
エキドナはかつてグランギニョルが一族を離脱する原因となった少女で、命を狙われた彼女を助けたことがグランギニョルが天使となった事情にも関係している。
そして、グランギニョルはエキドナが大好きだった。今でも陰に日向にぷりちー触手を生やした少女のことを見守っている。陰気なことこの上ない。
照れ屋で恥ずかしがりや、生まれついての秘密工作員であるために直接話しかけるよりも自然と視界の外からエキドナを見つめ、その行動を記録したり関連する物品を集めるという、ストーキングに近い行動をとりがちだった。九割九分九厘はストーキングである。
「ああ、今日もエキドナちゃんはかわいい……神獣を触手でボコボコにしているときとのギャップがまたイイ……!」
などとひとしきりエキドナの花のごときかんばせを堪能したのち、ふと自分が機密書類を持っていたことを思い出し、任務に復帰した。こうしてやってきたのが機密保管庫である。
(あまり思い出す必要はなかったかもしれないわね……)
今のところわかっていることは二つ。
天使名簿がなくなっていること。
グランギニョルがエキドナをストーキングしていること。
二つ目は関係ないのでわかっていることはひとつだった。
(なぜ? 誰が名簿を持ち出した?)
ようやく本来の冷静さを取り戻したグランギニョルは思考する。
機密書類の持ち出しは、重大な違反行為。天使隊に対する裏切り行為だ。同じ艦の中に裏切者がいるかもしれない。グランギニョルはすべての天使の経歴を暗記している。怪しいものがいないか瞬間的に考えたが、思い当たる顔は浮かばない。
(もし誰かがやったとして、本意ではないはず。誰かが天使を脅迫し、あるいは騙して操っている……そう考えるべきでしょう)
持ち出したものもまた、被害者なのかもしれない。そう考えたほうがつじつまがあう。
だがそれは、帝国の別勢力、最悪の場合は敵対する王国から天使隊に付け入るスキを与えてしまったことになる。
グランギニョルは考えた。この数日、ブラスフェミィは地上に降下していない。つまり、艦から名簿を持ち出したとすればその誰かは艦外活動に出た可能性が高い。その記録はすぐに追える。その線で「犯人」が見つからなければ、まだ名簿は艦内にあるはずだ。
「このことに気づいているのは私だけ……」
天使隊の最高機密の紛失。本来ならばユノ少尉に真っ先に報告すべきだが、それを「犯人」に気づかれれば証拠隠滅に走る可能性もある。ならば……
グランギニョルの怜悧な瞳が光った。
「まずは徹底的に状況を確かめ、迅速に証拠を集めてから報告しなければ」
【2】
グランギニョルは「機密保管庫」の扉を開けた。
保管庫のそばには小さなカウンターが設置されており、そこに一人の天使が座っていた。厚い眼鏡をかけた彼女の
グランギニョルの頭の中には、もちろん彼女の経歴も刻まれている。元・帝国機密管理局司書。世界で最も多くの禁書を読んでいる女。今はこの「機密保管庫」の管理を行っている。
「……何かありました?」
フォビドゥンが問いかける。グランギニョルはつとめて平静に首を振った。
「何も」
グランギニョルが閉めた扉に、フォビドゥンがカギをかける。彼女の監視下で、保管庫に一度に入れるのは一人だけ。それが原則だった。
つまり、この扉をくぐった天使全員をフォビドゥンは見ているはずだ。
(そもそも、機密の持ち出しを彼女が見過ごすとは思えないけど……)
グランギニョルは
「本当に、何も?」
鍵をしまうフォビドゥンが重ねて問いかける。
(まさかとは思うけど……)
フォビドゥンは禁書を読みたいがために閲覧権のある管理官になったほどの人物だ。まさか、彼女が犯人とは思えない。
(でも、万が一はある)
疑うことこそ工作員の才能だ。グランギニョルは自分の手札を明かさずに相手から情報を聞き出す術を心得ていた。
「最近、保管庫に来た天使は?」
「昨日は多かったみたいです。確か記録が……」
「みたい?」
この保管庫を管理しているフォビドゥンが、そのように口にしたことが気にかかった。
「昨日、私は出撃していましたから。ほら」
背後の棚から取り出したファイルを、フォビドゥンが開く。そこには、「機密保管庫 入室記録」と書かれた紙が閉じられている。
最後に記録されているのは、グランギニョルの名だ。たった今、保管庫に入ったとき、コールサインと目的を答えさせられた。それをフォビドゥンが記帳したのだろう。
日付:6月17日
入室者:グランギニョル
入室理由:天使名簿の更新のため
その前日、数名の天使が入室している記録がある。ふだんは数週間に一人入るかどうか、という場所だ。一日に何人も訪ねてくるとは、めったにあることではない。
「なるほど。……いつもここを見張っているあなたがいないときを狙って、天使が何人もやってきたと」
「そんなに私、話しかけにくいですか?」
眼鏡の奥のフォビドゥンの目が曇っていた。
「嫌われているわけではないと思うわよ」
「そうですか……」
恐れられているのだ、たぶん。
口の中でのみつぶやいて、グランギニョルは記録された天使の名前を覚えた。
「昨日の入室者は理由が書かれていないわ」
「入室理由ですか。聞き出して記録するように言ったはずなんですが……」
グランギニョルはあきれつつも、これはチャンスだと考えた。
「空にしておくわけにはいきません。私が聞き出してきます」
「いえ、しかし……」
「ちょっとした調査ですから、すぐに終わります。調査が終わるまで、だれも入れないように見張りを立たせます」
有無を言わせずに告げて、グランギニョルは入室記録の最終ページを見つめる。
名簿を持ち出した「犯人」は、入室記録に名前が残っている天使のうちの誰かだろう。
記録に空欄があるのが気になるから……という言い訳があれば、本当の目的を隠したまま調査ができる。
目的の偽装は工作の基本。何やら工作員時代に戻ったような心持ちで、テンションが上がってくる。
仲間の告発のためにテンションを上げるというのはいかがなものか、と突っ込む理性がないでもなかったが、無視した。
「昨日、あなたがいない間は誰が入室記録をつけていたのですか?」
まずは記録者をあたるべきだろう。グランギニョルの問いかけに、フォビドゥンは歯切れ悪く答えた。
「……インヴィジブルです」
【3】
「品田ぁー!」
「ぴいいいいっ!?」
激しい足音とともに迫りくるグランギニョルの姿に、品田ゆにこ、ことインヴィジブルは恐怖した。
「なぜ保管庫の入室記録には理由が書かれていないのか!?」
キレのあまり新書タイトルのように叫ぶグランギニョルが壁際にインヴィジブルを追いやる。
「そ、それはぁ……」
インヴィジブルの瞳がうるんで泳ぐ。水を得た魚のように。それだけ落ち着きがないということである。
「必要ないかと思って」
(嘘をついている)と、グランギニョルは直観した。
「正直に言いなさい」
グランギニョルとインヴィジブルの身長差は20センチ以上あるだろう。氷のような美女にすごまれて、幼児体型のインヴィジブルはつま先立ちしながら震え上がった。
「じ、実は……アルケインが」
インヴィジブルが指をつつきあわせながら語りだした。
アルケインの名は、入室記録にも残っている。昨日、インヴィジブルがフォビドゥンの代理として保管庫に立っていたとき、最初に訪れた天使がアルケインだ。
「アルケインが来て、オーパーツの目録を見たいって。記録しなきゃいけないから理由を聞こうとしたら長々とオーパーツへの気持ちを語られて……10分くらいはしゃべってたよぉ」
「それで?」
「もういいから見ていいよって……通した」
グランギニョルはため息をついた。誰もが感嘆するほどのロングブレスだった。
「だったらあなたが要約して理由欄に記載しなさい」
「ボクだってそう思ったんだよ! でも、アルケインの長い話をまとめてるうちにRが来て」
R。それも天使の名前だ。入室記録の二人目である。
「『アルケインが理由を書かずに入れたんだから、ボクも入って構わないよね?』って」
「相変わらずルールの穴を突くことばかり考えてるわね。……それで?」
「……通した」
「これだから半年しか士官教育を受けていないやつは!」
グランギニョルはインヴィジブルを痛罵した。痛罵とは激しくののしることである。
「話は分かりました。私はこれで」
官僚主義のなんたるかを理解していないインヴィジブルこと品田ゆにこに背を向けて、グランギニョルは足早に歩きだした。
「ど、どうするの?」
問いかけに、手の中に持ったままの入室記録を示す。
「私が代わりに天使たちから入室理由を聞き出してきます」
むろん、彼女の目的は理由を聞き出すことではない。
天使名簿を持ち出した犯人を見つけることだ。
【4】
フォビドゥンは機密保管庫の前で本を読んでいた。
管理を任されているとはいえ、必要な時以外はほとんど人が寄り付かない場所だ。本を愛する彼女にとっては、かっこうの読書時間であり、読書空間であった。
「こんにちわぁ」
その読書空間に、のしのしと女が歩いてきた。
その女はマイクロビキニの上に土偶のパーツを張り付けたような姿をしていた。どんな姿だと思われるだろうが、本当にそういう姿をしているのだから仕方ない。
「エメス……さん」
「はい、ドグ子です」
突然の来訪者に目をしばたかせるフォビドゥンの前で、エメス――一人称が「ドグ子」の人造魔道生物(ゴーレム)――が機密保管庫の扉に近づいていく。
まさか扉をぶち破るつもりかとひやりとしたが、エメスはくるっと振り返り、扉に背を向けてただ立っている。
「何をしているんですか?」
「ドグ子はグランギニョルさんから命令を受けました」
「どんな?」
「誰もこの部屋に入れるなと」
「……いつまで?」
「次の命令が出るまでです」
奇妙な沈黙がその場を否定した。
(私も仕事できないんですけど)
そう思ったが、フォビドゥンは黙っていた。
エメスを説得するには長い時間をかけてたくさんしゃべらなければならないだろう。それが面倒だったからだ。
どちらかと言えば、グランギニョルが戻ってくるのを待ったほうが早そうだ。
こうして、フォビドゥンはマイクロビキニの土偶女の隣で読書をする羽目になった。
【6】
アルケインは庭園にいた。
空中戦艦ブラスフェミィには大きなリンゴの木を備えた庭園があり、天使たちの癒しのスポットになっている。
3人の天使が質素だが作りの良いテーブルを囲んでいた。没落お嬢様であるアルケイン、没落お嬢様であるアナテマ、没落お姫様であるエイプリルだ。
没落トリオが何やら談笑しているところに、グランギニョルはまっすぐに向かい、こう言った。
「お二人は席を外してください」
「どうしてですの?」
「秘密のお話なら聞いていたいですわ」
「このお茶を飲んでからでも構いませんこと?」
「口調がややこしいからだよ!」
アナテマとエイプリルは納得して花壇のほうに行った。
「アルケイン。あなたは昨日、機密保管庫に入りましたね?」
「ええ。それが何か?」
「理由の欄が空のままです」
懐から取り出した入室者リストを突き付ける。
「あら……」
目の前に突き付けられたせいで寄り目気味になった目を閉じて、アルケインはしばし回想にふけった。
「でも、あの時はインヴィジブルさんが入っていいとおっしゃいましたわ」
「あなたが長話をするからだと彼女は言っていました。何を閲覧したのか言ってください」
「天使隊が把握しているオーパーツの目録ですわ! 未調査のオーパーツがあったら調べに行こうと思っていましたの」
ものによっては壊滅的な被害をもたらすこともあるオーパーツを、休暇にわざわざ探しに行くという奇特な趣味がアルケインにはあった。
「オーパーツの目録ですね。まったく……」
それだけ記入すればいいものを、と漏らして、グランギニョルは本来ならインヴィジブルがやるべき代筆を代筆した。
(この人は常日頃からオーパーツのことばかり考えているようだし……)
アルケインのしぐさから、嘘をついているような様子はない。
(目録には関係なさそうですね)
「よろしい。次からは必ず理由も書くようにしてください」
「お話は終わりましたの?」
「おヌンを再開してもよろしくて?」
「ヌンでもニンでもお好きにどうぞ」
「どうしましょう。ヌンと同じ規則性で略すとモーニングとイブニングを区別できませんわ!」
もはや発話者を区別する必要もない。グランギニョルは次の天使のもとに向かった。
R(コールサイン)はグランギニョルから聞かれて、こう答えた。
「ボクが読んだのは歴史書さ!」
R(コールサインである。くれぐれも)は喫茶「鳩」の奥まった区画になぜか置かれているDJブースにいた。
「歴史書? なぜそんなものが機密保管庫に」
「知らないのかい? フォビドゥンがひそかに集めているのさ。帝国が認めていない歴史書は発禁にされるから、Chace the Chanceして燃やされる前に入手しているんだよ」
なぜ急にタイトルのようなものを差し込んできたのかを気にしていたらRとは話していられない。
「ユノ少尉は知っているのですか?」
「少尉が反帝国活動を止めると思うかい?」
なるほど、とグランギニョルはうなずいた。彼女自身が帝国に叛意を持つ危険人物だ。
「では、なぜそんなものを読みに?」
「もちろん、作曲のためさ! 帝国が隠している不都合な真実は、様々なインスピレーションを与えてくれたよ」
感きわまったRはその場で鍵盤をたたき、短いフレーズを鳴らしてみせた。
「偽史と見分けがつかないのでは?」
「偽史や陰謀論と不都合な真実の間にどれだけの違いがあるのか、君はよく知ってるんじゃないかい?」
グランギニョルは黙り込み、言われた通りのことを入室記録に書き写した。
Rには高度な陰謀を完遂する能力があることを、グランギニョルは知っている。だが、それ以上に音楽に対する情熱を抱いていることもよく理解していた。
陰謀への言い訳に音楽を使うようなことは決してしない。
(彼女もやっていない)
記録に書かれていた中で最も怪しい容疑者ではあったが、 その可能性は否定すべきだろう。
「ああ、そうだ」
別れ際、Rはわざとらしく指を立てて言った。
「昨日は保管庫の近くにモノクロームがいたよ」
モノクローム。色覚のない天使。
「彼女も何かを見に来たのですか?」
リストにモノクロームの名前はなかったはずだ。
「中には入らずに、絵を描いていたみたいだよ」
【7】
その後もグランギニョルは幾人かの天使のもとをたどった。
オラクルは「まだ誰も知らない神獣」を予知したという。その神獣に合致する姿が過去の記録にないか確かめに来た。
動機が未来にあるという彼女の言葉はグランギニョルには信じがたかったが、オラクルは本気のようだった。
スーパーギャラクシーは過去に開催されたデスゲームの資料を見に来たらしい。
探してみたがそんな資料はなかったそうだ。当たり前だろとグランギニョルは思った。
リリエルがフォビドゥンが秘蔵している小説を読みに来ていた。
フォビドゥンによる保管庫の私物化をのちのち追及することを、グランギニョルは決めた。
そして……
「誰も名簿を持ち出していない」
と、結論づけた。
「私が嘘を見抜けなかった? いや、そんなはずはない」
グランギニョルは一流の工作員だ。自分でもそう思っているし、その自認は実績が裏付けられている。
他人の嘘を見破ったことは一度や二度ではない。逆に、他者を信じて失敗したこともない……彼女と同じ一族のものに騙された場合を除いて、だが。
つまり、グランギニョルを欺けるのは彼女以上のスパイ能力を持ったものぐらいだ、ということだ。
天使隊にそんな人物はいない。いればもっと仕事させている。
「つまり、何かを見落としているはず」
機密保管庫の入室記録を見下ろし、グランギニョルはつぶやく。名前が載っている天使全員に会い、話を聞いたはずだ。
「……?」
その時、違和感が脳裏を走った。リストの上に指を走らせ……
「加工されている」
アルケインの名前が書いてある欄。そこに、不自然なインクの跡がある。書き損じではない。
そこには誰か別の名前が書かれていて、誰かがそれを消した。そのあと、アルケインが上から名前を書いたのだ。
入室した誰かの名前を、誰かが消した。
消したのは誰か? 候補者は多くない。記録を管理していたインヴィジブルにとがめられずに加工することができるものは?
――インヴィジブル本人だ。
卑屈な癖に能天気なインヴィジブルの顔を思い浮かべるグランギニョルの額に青筋が浮かぶ。
だが、怒りに任せてインヴィジブルを問い詰めるのは悪手だ。もし彼女が名簿の盗難に関わっているなら、疑われた時の対策も考えているはずだ。
問い詰めるなら、証拠を見つけてからだ。
モノクロームの個室には墨のにおいが充満していた。
モノクロームは水墨画家だ。
出撃していない時間の大部分で筆を走らせて過ごしている。
天使化の代償に色覚を失い、色のある絵を描くことができなくなっても、それでも彼女は単色で絵を描いている。
「失礼」
物音で人が入ってきたことに気づいているはずだが、グランギニョルが声をかけるまでモノクロームは筆を走らせている紙から目を離さなかった。
赤い瞳。角の生えた頭部。鬼と呼ばれる種族の特徴だ。
「紙に触れないで。まだ乾いていないから」
「もちろん。話を聞きたいだけです」
モノクロームは床の上に和紙を敷き、跪くように絵を描いていた。グランギニョルからすると、かなり変わったスタイルだ。
鬼の天使は寡黙で、グランギニョルが言葉を続けるのを待っていた。
「昨日、機密保管庫にいましたね?」
「私は中に入っていないよ。珍しい場所に天使たちが集まっていたから、その様子を絵に描いていたんだ」
「その絵はどこに?」
モノクロームは視線だけで部屋の一角を示した。そこにはヒモが渡され、何枚かの絵が吊るされていた。墨を乾かしているのだろう。
グランギニョルは無造作に積まれている紙束に触れないよう、吊るされている絵を見た。
何人もの天使たちの姿が、素早くも精緻な筆触で描かれている。緊張した様子のインヴィジブル。朗々と何かをまくしたてるアルケイン。妖しく瞳を輝かせるR。ほかに、訪ねてまわった天使たちの姿もあった。
だがその中に一人、記録に名前が記されていない天使の姿があった。
「まさか……」
グランギニョルの声が震える。感情を表に出さない訓練を積んでいるはずなのに。
そこに描かれているのは、小柄で、背中に触手を持った天使。
エキドナだった。
【7】
「理由を聞き出してきました」
機密保管庫に戻り、グランギニョルはフォビドゥンに入室記録を差し出した。
「……ご苦労様です」
紙を受け取ったフォビドゥンは、怜悧な美女の顔を見上げて瞬きしていた。
「何か?」
「いえ……雰囲気がピリピリしている、というか。何かありましたか?」
「何も」
グランギニョルは自制心を利かせ、つとめて平静に返事をした。
「先ほども言おうと思ったのですが……」
「あのー」
フォビドゥンの言葉をさえぎって、ビキニアーマー土偶お姉さんが声を上げた。
「まだ見張っていないとだめでしょうか?」
ふたりはそろってエメスを見た。彼女は今もまだ保管庫の前にボッ立ちしていた。
「続けてください」
「りょーかいです」
人間味を描いたアンドロイドキャラのように応えるエメスに(土偶なのに…)と思いながら、グランギニョルはすたすたと歩き去っていった。
「また……言いそびれてしまった」
その背を眺めながら、フォビドゥンはひとりごちた。(エメスはリアクションしてくれなかった)
甲板に夕日が差し込んでいる。
小さな体から長い影が伸び、触手を生やしたシルエットを形作っていた。
エキドナは黄金色の雲を見ていた。
(考えたくはないけど……)
グランギニョルは甲板に踏み出した。
エキドナは帝国の皇女として生まれ、複雑な経緯で命を狙われる立場になった。
その彼女を天使隊のもとへ連れ出したのは、だれあろうグランギニョルだ。
かつてグランギニョルはエキドナのために命を
それ以来、グランギニョルはエキドナの幸せを第一に考え、執着ともいえる視線を向けている。
(もしエキドナが名簿を持ち出していたら……)
グランギニョルはわざと足音を立てて歩いた。エキドナは気づいているに違いないが、振り返ることはなかった。誰の足音かわかっているのだ。
(私はエキドナを……)
天使隊を滅ぼさなければエキドナを守れないなら、グランギニョルはそうする。
だけど、もう一つの思いがある。
エキドナを排除しなければ天使隊を守れないなら、やはりグランギニョルはためらわない。
それは理性であり、感情でもあった。
右腕と左腕、どちらかも失いたくはない。だが、毒蛇に嚙まれた部位を除く決断ができるよう、グランギニョルは生きてきた。
どちらも失うよりは、どちらかのほうがいい。
気づけばエキドナまで数歩の距離まで迫っていた。
美しい白い髪に、夕日の橙が反射している。
「エキドナ」
声をかけると、エキドナの肩が小さく跳ねた。振り返った表情には、隠しきれない動揺がにじんでいる。
(何かがある)
直感がそう告げていた。きしんだ音を立てて歯車がかみ合うような気がした。
「……どうしたの」
小さく、かすれたエキドナの声。彼女がまともに人と話すようになったのは、天使隊に来てからだ。
「昨日、保管庫の近くにいたでしょう。中には入らなかったようだけど」
「そ、それは……」
触手の先端が、意味もなく宙をなぞる。
「名簿について、何か知っている?」
ここまで接近した以上は、もはや遠回しな質問は必要ない。少女が飛んで逃げようとすれば、女は取り押さえることができる。エキドナの触手が持つ力を考えれば、そのあとどうなるかは想像がつくが、それでもほかの天使に名簿のことを知られるわけにはいかなかった。
「……」
エキドナはただ口をつぐんだ。
「正直に答えて」
自分でも驚くほど硬い声。自らの言葉が氷の刃になって自分の肌の上を滑り落ちたようだった。
「私は……」
グランギニョルの手がこわばる。指を鳴らせば、女の意のままに動くドローンたちが現れる。
エキドナが不安げに唇を震わせ……
「待って!」
ピンクの頭にツノを生やしたヤバい女が甲板に飛び出してきた、インヴィジブルだ。息を切らしている。
「グランギニョル! エキドナを責めないで!」
「インヴィジブル……? なぜここに」
「見てたから! グランギニョルが怖い顔して甲板に向かうの見て、フォビドゥンのところに走ったんだよぉ!」
(しまった……)
インヴィジブルには姿を消す力があった。グランギニョル相手に尾行をする勇気があったとは。
ピンクのユニコーン女の後ろからフォビドゥンが進み出た。
「グランギニョル。あなたに言わなければならないことがあります」
眼鏡の奥の目に、これまで見たことのない覚悟のようなものが宿っている。
「名簿は、
甲板に沈黙が落ちた。
「……は?」
今度は間抜けな声が出た。自分の声がトンボになって飛んでいきそうなほどだった。
「昨日は出撃していたでしょう。その間、インヴィジブルに保管庫の代理を任せることになっていました」
「それで?」
「……彼女の管理能力を、信用していませんでした」
インヴィジブルが「ええっ!?」と声を上げたが、フォビドゥンは構わずに続けた。
「ほかの書類はまだしも、天使名簿だけは話が別です。万が一、誰かに中身を見られでもしたら――取り返しがつかない。だから、私が戻るまでの間、名簿だけは別の場所に移していたんです」
「ボクには『名簿は指揮官に渡した』って言ったよね!?」
「『インヴィジブルでは不安だから』だと、角が立つと思ったので」
ツノを振り上げて不満を表すインヴィジブルに対して、フォビドゥンはあっさりと言った。
「つまり、二人とも昨日から今日まで、名簿が保管庫にないことを知っていた?」
「はい」
「うん」
「なぜ私が来たときに言わなかったんですか」
「あなたを部屋に入れてから、名簿のことを思い出したんです! 出てきたときに言おうと思ったら、あなたが出てくるなり話を進めて、エメスまで……」
どこかで「はっくしょん!土偶」というくしゃみの音が聞こえた。
「では、インヴィジブル」
「ひゃい!」
水を向けられて、頭がピンクの女は飛び上がった。(飛べるから)
「なぜ入室記録を消したんです? アルケインを入れる前に、エキドナの名前が書いてあったのではないですか?」
「だって、エキドナは保管庫に入らなかったんだよ」
「確かですか?」
エキドナはこくりとうなずいた。
「私が、名前を書いてから理由を聞かれたから……」
「名簿を見たいって言ったから、今日は名簿はないよって言ったの」
「そういうときは取り消し線を引くんです」
「ぴぃ……ごめんなさい」
これだから士官教育を半年しか受けてないやつは……と心の中で毒づいてから、グランギニョルは残された謎に意識を向けた。
「エキドナ。……どうして、名簿なんか?」
「それは……」
言いにくそうに触手がうごめく。そのキュートな動作に吹き出しそうになる鼻血をグランギニョルは抑えた。
「グランギニョルの誕生日を知りたくて……」
「わ……私のために? 人に話しかけるのが苦手なエキドナが、書類にサインまでして……」
あまりの喜びに足元が崩れそうになり、グランギニョルは膝をついた。
すべてのピースが、音を立てて正しい場所に収まっていく。
名簿は紛失していない。フォビドゥンがほかの天使に見られないようにしていただけ。
記録からエキドナの名前が消えていたのは、インヴィジブルが正しい手続きを知らなかったから。
裏切者はいなかった。
グランギニョルの心の中にしか。
【8】
「……そう」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
諜報員として決まりはシンプルだ――疑え。裏切りの可能性を常に想定しろ。自分の目で見たもの以外は信じるな。
その教えを彼女は今も肝に銘じていた。だからこそ、最初に考えたことは『裏切者は誰か?』だった。
だが、その問いは間違っていた。
(本当の問題は「名簿はどこにあるのか」――それだけでよかった)
裏切者を探すグランギニョルにとって、すべての仲間が容疑者だった。疑いの目で見られれば、誰だって怯え、隠し事をする。名簿を保護したことを黙ったり、記録を消したことを隠したりする。
最初から、信じて尋ねていれば。
フォビドゥンは正直に答えただろう。インヴィジブルも、エキドナも。
「もちろん、私も」
きょとんとするエキドナに、グランギニョルはつとめて平静を装って言った。
「誕生日ぐらい、聞かれれば教えます」
だが安堵のあまり膝をついてへにょへにょになっていたのでまったく平静ではなかった。
「ごめんなさい、グランギニョル……勝手なことして」
しょげるエキドナに、グランギニョルは首を振った。
「いい……いいのよ」
グランギニョルは考えをめぐらせた。なんとかばつが悪い思いをせずにこの場を乗り切れないか。
工作員としての彼女なら、何か方策を見出していたかもしれない。皆が勝手な判断をしたことを糾弾し、自分には責任がないということが。
でも、彼女はもう工作員ではなかった。
「むやみに話をややこしくしてしまって……ごめんなさい」
「いいんだよぉ」
「インヴィジブルには事務の何たるかを叩きこみます」
「えぇ!?」
フォビドゥンがインヴィジブルの襟をつかんで艦内に引っ張り込んでいく。
その姿を見て、エキドナが笑っていた。
(この子を疑うなんて、私は何を考えていたんだろう)
工作員であれば……自分のやったことは何も間違っていない。
でも、真に仲間のことを思うのであれば、必要なのは疑うことではなかった。
「次は、信じます。何があろうと」
「何を……?」
エキドナは不思議そうな顔をしていた。
それでいい、とグランギニョルは思った。