ポケットモンスターAGE 英雄のいない物語 作:natsuki
ガラル地方の南に位置するハロンタウンは、町という呼び方が少し大袈裟に思えるほど小さな場所で、石造りの家々を囲むように牧草地が広がり、その向こうにはなだらかな丘と森が続いている。朝になればウールーたちが柵の向こうで鳴き始め、昼には風車が風を受けてゆっくりと回り、夜になれば遠くを走る列車の音さえ聞こえてくるような静かな土地で生まれ育ったユウリにとって、世界というものは長いあいだ、その丘の向こう側にある何かだった。
もちろん、外の世界を知らないわけではない。
『さあ、いよいよ追い詰められたチャンピオン・ダンデ! 残るポケモンはリザードン一匹! しかし皆さんもご存じの通り、ここからがこの男の真骨頂だ!』
居間のテレビから響いてきた実況に、ソファへ寝転がっていたユウリは読みかけの雑誌を顔の上に載せたまま、小さく息を吐いた。
「またダンデさん?」
「またとはなんだ、またとは!」
返事をしたのは母親ではなかった。
玄関の扉が勢いよく開いたかと思えば、聞き慣れた声とともに少年が飛び込んできて、ユウリは顔に載せていた雑誌を少しだけ持ち上げると、その隙間から幼馴染の姿を見た。
ホップだった。
「人んちに入ってくるなら、せめてノックくらいしなよ」
「そんなことより見てるか、ユウリ! 兄貴の試合!」
「見てない」
「テレビついてるじゃん!」
「お母さんが見てる」
「だったら今からでも見ろよ! この試合、絶対すごいことになるぞ!」
興奮を隠そうともしないホップは、そのまま当然のようにソファの前までやってくると、テレビへ食い入るように視線を向けた。ユウリは仕方なく身体を起こし、顔の上から雑誌を退けると、画面の中ではちょうどダンデのリザードンが巨大な姿へ変わったところだった。
スタジアムを埋め尽くす歓声がテレビのスピーカー越しにも伝わり、真紅の光をまとったリザードンが翼を広げるたびに観客席が揺れているように見える。何度見ても現実離れした光景だとユウリは思う一方で、隣にいるホップは自分までスタジアムに立っているかのように拳を握っていた。
「やっぱりすげえよな、兄貴は。どんなに追い詰められても最後には絶対勝つんだからさ」
「まだ勝ってないじゃん」
「勝つんだよ。兄貴だぞ?」
「そういうところ、ちょっと面倒くさいよね、ホップって」
「なんだよ、それ!」
ホップが抗議しているあいだに画面の中で巨大な炎が炸裂し、ほどなく勝負は決した。
チャンピオン、ダンデの勝利。
観客の歓声に応えるように片腕を突き上げたダンデを見ながら、ユウリは隣で自分のことのように喜んでいるホップへ視線を移した。
ホップがダンデに憧れていることは、ずっと昔から知っている。
兄のようなトレーナーになりたい。
いつか兄と同じ舞台に立ちたい。
そして最後には、自分が兄を倒してチャンピオンになるのだと、ホップは子供の頃から何度も口にしてきた。
それを笑ったことはない。
ただユウリ自身には、そこまで強く望めるものがなかった。
ポケモンは好きだったし、トレーナーにも興味はある。テレビで見るガラル地方の各地には行ってみたいと思うし、ジムチャレンジだって面白そうだとは思っている。
けれど、自分がその真ん中に立っている姿だけは、どうにも想像できなかった。
「それでさ!」
試合が終わるや否やホップが振り返ったので、ユウリは少し身体を引いた。
「なに?」
「兄貴が帰ってくる!」
「……今日?」
「今日! だから迎えに行こうぜ!」
話についていけず瞬きをしたユウリに構うことなく、ホップはすでに玄関へ向かっている。
「ブラッシータウンの駅に着くんだってさ。早くしないと間に合わないぞ!」
「私も行くことになってるの?」
「当たり前だろ!」
「なんで?」
「兄貴もユウリに会いたがってるから!」
そこまで言われてしまえば断る理由もなく、ユウリは母親に出掛けることを伝えてから、ホップを追って外へ出た。
家を出た途端、草の匂いを含んだ風が頬を撫でていった。
見慣れたハロンタウンの景色は今日も変わらず、牧草地ではウールーたちがのんびりと草を食んでいる。少し離れた場所ではアーマーガアが空を横切っており、その姿を見上げながら、ユウリは先を急ぐホップの後ろを歩いた。
「もうちょっと急げよ、ユウリ!」
「そんなに急がなくても電車は逃げないでしょ」
「兄貴を待たせるだろ!」
「ダンデさんなら迷って駅から出られない可能性の方が高くない?」
「……それは否定できない」
チャンピオンとしての実力と方向感覚は必ずしも比例しないらしい。
そんな話をしながら道を進んでいたときだった。
どん、と鈍い音が響いた。
ユウリとホップが同時に足を止める。
「なんだ?」
「向こうじゃない?」
音がしたのは牧草地の端だった。
そこには古びた木の柵があり、その向こう側には鬱蒼と木々が生い茂っている。
まどろみの森。
ハロンタウンの住人なら誰でも知っている場所であり、同時に、誰も近づこうとはしない場所でもある。
深い霧が発生しやすく、一度迷えば出てこられなくなる。
子供の頃からそう教えられてきた。
その森を隔てる柵に、一匹のウールーが頭をぶつけていた。
「おいおい、何やってんだ、あいつ」
ホップが呆れたように言う。
ウールーは少し後ろへ下がると、勢いをつけて再び柵へ突進した。
どん、と先ほどより大きな音がする。
「森に入りたいのかな」
「まさか。ウールーがそんなこと考えるか?」
「じゃあ、何してるの?」
「……頭突きの練習?」
「柵で?」
「知らないよ!」
二人が近づいてもウールーはやめようとせず、何度も何度も柵へ身体をぶつけていた。
その様子を見ているうちに、ユウリは妙な違和感を覚えた。
森へ入りたがっているというより、何かに呼ばれているように見えたのだ。
しかし、それが何なのか考えるより先にホップがウールーへ近づき、柵から引き離そうとする。
「ほら、やめとけって。そこから先は入っちゃ駄目なんだぞ」
「メェー!」
「暴れるなって!」
ホップの腕からするりと抜けたウールーが再び助走をつけ、今までで一番激しく柵へ激突する。
木材が軋んだ。
「……まずくない?」
「まずいな」
さらに一度。
そしてもう一度。
古びた柵は耐えきれず、ついに一部が内側へ倒れた。
自由になったウールーは一瞬だけ二人を振り返ると、そのまま森の奥へ走っていった。
「ちょっと!」
ユウリが声を上げたときには、白い身体はすでに木々の向こうへ消えていた。
ホップと顔を見合わせる。
「どうする?」
「どうするって……」
ホップは森を見る。
ユウリも同じ方向を見た。
木々の隙間から白い霧が流れ出している。
入ってはいけない。
それは分かっている。
そもそも二人はまだ自分のポケモンさえ持っていないのだから、野生のポケモンが出てきたところで身を守る術さえない。
「大人を呼ぼう」
ユウリがそう言うと、ホップはしばらく迷ったあとで頷いた。
「……そうだな。兄貴を迎えに行って、そのあとで――」
その瞬間、森の奥から鳴き声が聞こえた。
「メェェェッ!」
二人の表情が変わる。
先ほどのウールーだった。
明らかに怯えている。
助けを求めている。
「……ホップ」
「分かってる」
大人を呼んでいる時間があるのか。
ホップは拳を握り、森の奥を睨んでいた。
「ちょっとだけだ。ウールーを見つけて、すぐ戻る」
「ポケモン持ってないよ、私たち」
「分かってる。でも、放っておけないだろ」
その言葉に、ユウリは反論できなかった。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、もう一度聞こえてきたウールーの鳴き声は、さっきよりも遠く、そして弱くなっていた。
「……見つけたら、すぐ帰るからね」
「ああ」
二人は壊れた柵を越えた。
足元の草が急に深くなり、数歩進んだだけなのに、背後にあったはずのハロンタウンの景色が木々に遮られて見えなくなる。
さらに進むと、霧が濃くなってきた。
「ウールー!」
ホップが叫ぶ。
返事はない。
「ウールー! いたら返事しろー!」
「それで返事するのかな……」
「鳴くだろ!」
「それもそうか」
不安を誤魔化すように言葉を交わしながら、二人は森を進んでいく。
やがてユウリは、いつの間にか周囲の音が消えていることに気づいた。
鳥の声もない。
風が木々を揺らす音もない。
自分たちが草を踏む音だけが、妙にはっきりと聞こえる。
「ねえ、ホップ」
「なんだ?」
「こんなに静かだったっけ、この森」
「入ったことないんだから知るわけないだろ」
「そうだけど……」
そこで言葉を止めた。
前方の霧の中で、何かが動いた。
ホップも気づいたらしく、ユウリの前へ一歩出る。
「ウールーか?」
返事はない。
白い霧がゆっくりと流れ、その向こうに巨大な影が浮かび上がる。
ウールーではない。
四本の脚で立つ、獣のような姿だった。
「……なんだ、あれ」
ホップの声から、先ほどまでの勢いが消えていた。
ユウリも答えられない。
見たことがない。
図鑑でもテレビでも、本でも見た覚えがない。
霧の向こうに立つ何かは、二人を見ているようだった。
恐怖より先に、ユウリは不思議な感覚を覚えた。
ずっと昔から知っているような。
けれど、初めて見るような。
その矛盾した感覚に胸を締めつけられ、ユウリは知らず知らずのうちに一歩前へ出ていた。
「ユウリ?」
ホップの声にも答えず、その存在を見つめる。
獣が低く唸った。
次の瞬間、霧が爆発するように膨れ上がった。
「うわっ!」
「ホップ!」
視界が真っ白になる。
ユウリは反射的に腕で顔を庇ったが、前後も左右も分からなくなり、すぐそばにいたはずのホップの姿さえ見えなくなった。
「ユウリ! どこだ!」
「ここ! ホップ!」
声だけが霧の向こうから聞こえる。
そして、そのさらに奥から、先ほどの獣の声が響いた。
ユウリは目を凝らした。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけだった。
霧の中に、剣のようなものを咥えた巨大な獣の姿が見えた気がした。
けれど次の瞬間には何もなくなり、代わりに急激な眠気が襲ってくる。
「なに……これ……」
膝から力が抜ける。
倒れる寸前、誰かが自分の名前を呼んだ気がした。
ホップではない。
聞き覚えのある声だった。
けれど、その正体を確かめるより早く、ユウリの意識は白い霧の中へ沈んでいった。
最後に見えたのは、遠ざかっていく獣の背中だった。
その姿が、ガラルに伝わる英雄の物語と繋がっていることも、やがて自分自身がその伝説の続きを歩くことになることも、このときのユウリはまだ知らなかった。