ポケットモンスターAGE 英雄のいない物語 作:natsuki
意識を取り戻したとき、ユウリが最初に感じたのは、頬に触れる湿った草の冷たさと、霧の中ではほとんど感じられなかった風の匂いだった。
「……ん」
身体を起こそうとした途端、頭の奥が鈍く痛み、ユウリは思わず額へ手を当てた。視界にはまだ白いものが残っているような気がしたものの、何度か瞬きをしているうちに、それが霧ではなく単なる眩暈なのだと分かってくる。
「お、やっと起きたか!」
すぐ近くから聞こえた声に顔を上げると、そこには見慣れた派手な帽子と、テレビの画面越しに何度も見てきた顔があった。
「……ダンデさん?」
「正解だ! もっとも、今のお前ならリザードンと答えても半分くらいは正解だったけどな!」
いつもの調子で笑ったダンデの後ろにはリザードンが立っており、その大きな身体の傍らでは、ホップが地面に座ったままこちらを見ていた。
「ユウリ! 大丈夫か?」
「ホップ……ウールーは?」
「そっちかよ! 俺の心配は?」
「喋ってるから大丈夫でしょ」
「そういう問題か?」
勢いよく立ち上がったホップの向こうから、メェ、と間の抜けた声が聞こえてきた。
見ると、問題のウールーは何事もなかったように草を食んでいる。
その姿を確認して安堵したところで、ユウリはようやく周囲を見回した。
まどろみの森の入口だった。
どうやらダンデが二人をここまで運んできたらしい。
「兄貴が来てくれなかったら危なかったんだぞ。俺たち、森の奥で完全に気を失ってたんだからな」
「二人とも無茶をする。ポケモンも持たずに、まどろみの森へ入るなんてな」
ダンデの口調は穏やかだったが、その言葉には珍しく叱るような響きがあった。
「……ごめんなさい」
「でも兄貴、ウールーが!」
「分かってるさ」
なおも説明しようとするホップの頭に大きな手を置き、ダンデは困ったように笑った。
「助けようとしたことまで怒るつもりはない。ただ、自分まで危険な目に遭ったら、助けられるものも助けられなくなる。トレーナーになるなら覚えておけ。勇気と無茶は似ているようで、全然違うものだからな」
「……分かった」
素直に頷いたホップの隣で、ユウリも小さく頷く。
けれど、頭の中に残っていたのはダンデの言葉ではなかった。
霧の中にいた、あのポケモン。
青白い身体と、巨大な獣を思わせる輪郭。
そして最後に見えた、剣のような何か。
「ダンデさん」
「なんだ?」
「森の奥で、変なポケモンを見たんです」
ダンデの表情がわずかに変わった。
「変なポケモン?」
「大きな……犬みたいな」
「俺も見たぜ!」
ホップが勢いよく割って入る。
「すっげえ霧の中にいたんだ! こっちを見ててさ、攻撃しようとしても……って、俺たちポケモン持ってなかったから攻撃なんてできなかったけど、とにかく普通じゃなかった!」
「最後の方、説明がぐちゃぐちゃだよ」
「ユウリだって見ただろ?」
「見たけど」
ユウリは森へ目を向けた。
入口から見える木々の間には、もう先ほどのような濃い霧はない。
「剣を咥えてた気がする」
「剣?」
ダンデが聞き返した。
「たぶん。霧が濃かったから、はっきりとは見えなかったけど」
「俺にはそんなの見えなかったぞ」
「じゃあ見間違いかな」
そう答えながらも、ユウリには奇妙な確信が残っていた。
あれは確かに存在した。
けれど、その確信がどこから来るのかまでは自分でも説明できない。
「俺が二人を見つけたときには、近くにいたのはウールーだけだった。リザードンも特に何かを感じてはいなかったみたいだしな」
ダンデがリザードンを見ると、リザードンも分からないと言いたげに首を傾げた。
「ま、森にはまだ知られていないポケモンがいるのかもしれない。ガラルチャンピオンの俺だって、この地方の全部を知っているわけじゃないからな!」
「兄貴でも知らないポケモンか……」
ホップはむしろ嬉しそうだった。
「だったら俺たちが見つけたら大発見じゃないか!」
「また入ろうとか考えてないよね?」
「今すぐは行かないって!」
「今すぐは?」
「細かいこと気にするなよ!」
先ほどまで気を失っていた人間とは思えない元気さに呆れながらも、ユウリはもう一度だけ森を振り返った。
霧はない。
獣の姿もない。
それでも、森の奥から何かに見られているような感覚だけが、いつまでも消えなかった。
「そうだ!」
突然ダンデが声を上げたので、ユウリとホップが同時に振り返った。
「二人に渡そうと思っていたものがあるんだった!」
「渡すもの?」
「兄貴、もしかして!」
ホップの顔が一気に輝いた。
ダンデは答えず、二人についてくるよう促して歩き出した。
向かったのはホップの家だった。
庭へ着くなりダンデは三つのモンスターボールを取り出し、それを芝生の上へ向けて投げる。
「出てこい!」
三つの光が飛び出した。
最初に姿を現したのは、頭に小さな枝を挿した緑色のポケモンだった。地面へ降りるなり枝を抜き、近くにあった石を楽しそうに叩き始める。
その隣では白いウサギのようなポケモンが飛び跳ねており、最後に現れた青いポケモンは、二匹から少し離れた場所へ移動すると周囲を警戒するように身体を小さくしていた。
「サルノリ、ヒバニー、メッソン。ガラル地方で新人トレーナーのパートナーとして選ばれることが多い三匹だ」
「ってことは!」
「ああ」
ダンデは笑った。
「ユウリ、ホップ。お前たちに、この三匹の中からパートナーを選んでもらう!」
「よっしゃあ!」
ホップが飛び上がった一方で、ユウリはすぐには反応できなかった。
「……私も?」
「もちろんだ」
「でも、私、ジムチャレンジに出るって決めたわけじゃ」
「ポケモンを持つ理由はジムチャレンジだけじゃないさ」
ダンデはそう言うと、三匹のポケモンへ視線を向けた。
「一緒に旅をしてもいい。町で暮らしたっていい。ポケモンと人間の関係に正解はない。お前がどうしたいかは、こいつらと出会ってから決めればいい」
「……どうしたいか」
「そうだ。それに」
ダンデは一度言葉を切ると、まどろみの森がある方向を見た。
「さっきみたいな無茶をするなら、せめて守ってくれる相棒くらいは必要だろ?」
「もうしません」
「本当か?」
「……たぶん」
「ユウリ!」
ホップが横から声を上げる。
「そこは絶対って言うところだろ!」
「ホップには言われたくない」
「それはそうだな!」
「兄貴まで!」
笑い声が庭に広がった。
三匹もつられるように動き始め、ヒバニーは庭を駆け回り、サルノリは相変わらず枝で石を叩き、メッソンは池の縁まで移動して水面を覗き込んでいる。
ユウリは三匹を順番に見た。
どのポケモンも可愛い。
けれど、これからずっと一緒にいるかもしれない相手を、見た目だけで選んでしまっていいものなのか分からない。
「選べって言われてもなあ……」
ユウリがしゃがみ込む。
するとサルノリが石を叩くのをやめ、こちらを見た。
「なに?」
「サル?」
ユウリが首を傾げると、サルノリも同じ方向へ首を傾げた。
「真似してる?」
「サル」
もう一度、反対側へ傾けてみる。
サルノリも同じように傾ける。
少し面白くなってきて、ユウリが今度は両手を広げると、サルノリも短い両腕を精一杯広げた。
「……ふふ」
思わず笑う。
「サル!」
サルノリは嬉しそうに鳴くと、ユウリへ駆け寄ってきた。
そのまま足元まで来るのかと思ったが、突然地面を蹴り、ユウリの身体を駆け上がる。
「え、ちょっと!」
「サルノリ!」
頭の上まで登ったサルノリは満足そうに座り込むと、ユウリの帽子を叩いた。
「痛い痛い!」
「サル、サル!」
「こら!」
捕まえようとしても素早く肩へ移動し、そこから背中へ回り込む。
ホップは腹を抱えて笑っていた。
「気に入られたじゃん、ユウリ!」
「笑ってないで助けてよ!」
「いや、それもう決まりだろ!」
「何が!」
「相棒!」
その言葉を聞いて、ユウリの動きが止まった。
肩の上へ戻ってきたサルノリと目が合う。
「……私でいいの?」
「サル!」
即答だった。
ポケモンの言葉が分かるわけではない。
それでも、不思議と意味は伝わった。
ユウリは少し考えてから、サルノリへ手を差し出した。
「じゃあ……よろしく」
サルノリはその手を両腕で掴んだ。
「サルッ!」
その瞬間、胸の奥にあった何かがほんの少しだけ動いたような気がした。
旅に出たいと強く願っていたわけではない。
チャンピオンになりたいと思っていたわけでもない。
ホップのように明確な夢を持っていたわけでもない。
けれど、自分ではない誰かと一緒なら、今までとは違う景色を見ることができるのかもしれない。
「よし! だったら俺は――」
ホップが残った二匹を見る。
ヒバニーとメッソン。
しばらく悩むのかと思ったが、ホップは迷わずメッソンの前へしゃがんだ。
「俺と来てくれるか、メッソン?」
「メソ……?」
「俺は兄貴を超える。そんでチャンピオンになるんだ。一緒に強くなろうぜ!」
勢いに驚いたのか、メッソンが身体を半透明にして消えかける。
「あっ、待てって!」
「いきなり大声出すからだよ」
「だって大事なところだろ!」
やがて姿を戻したメッソンが恐る恐るホップへ近づき、その手へ小さな前脚を載せた。
「よし!」
ホップが嬉しそうに笑う。
残ったヒバニーは一匹になってしまったが、寂しそうな様子はなく、むしろダンデの足元へ走っていくと元気よく飛び跳ねた。
「どうやらこいつは俺と来るみたいだな」
「リザードンの後輩だね」
「そういうことになるな!」
リザードンがヒバニーを見下ろす。
ヒバニーは一瞬だけ怯んだものの、すぐに負けじと胸を張った。
その様子を見ていたユウリの肩で、サルノリも対抗するように枝を掲げる。
その日の夕方、ホップの家ではささやかな食事会が開かれた。
人間たちが食卓を囲む横で、三匹のポケモンもそれぞれ食事を与えられ、最初こそ互いに距離を取っていたものの、しばらくするとヒバニーとサルノリが庭を走り回り始め、メッソンも少し遅れて二匹についていった。
窓越しにその姿を眺めながら、ユウリは自分の腰にあるモンスターボールへ触れた。
朝までは持っていなかったものだ。
それが今では、自分にもポケモンがいる。
その事実だけで、見慣れたハロンタウンが昨日までとは少し違って見えた。
「なあ、ユウリ」
隣に来たホップが声をかける。
「明日、勝負しようぜ」
「勝負?」
「ポケモンバトルだよ。せっかくパートナーができたんだからさ」
「いきなり?」
「いきなりだからいいんだろ。俺たちの最初のバトルだ!」
ホップの目は輝いており、そこには勝敗への不安など欠片もなく、メッソンとならきっと強くなれるという確信だけがあった。
「それで俺が勝って、兄貴にジムチャレンジの推薦状を書いてもらう!」
「もう勝つ前提なんだ」
「当然だろ!」
いつもなら、ここで適当に受け流していたかもしれない。
ホップがダンデを追いかけていることも、いつかチャンピオンになると本気で信じていることも、ユウリは昔から知っていた。けれど、それはあくまでホップの夢であり、自分には関係のないものだったから、応援することはできても、その隣へ並んで走ろうと思ったことはなかった。
けれど今は、少しだけ違った。
窓の向こうではサルノリがヒバニーと追いかけっこをしており、相手に追いつけないと分かると、庭に落ちていた細い枝を拾って地面を叩き、その音に驚いたヒバニーが振り返った隙に距離を詰めていく。偶然なのか、それともサルノリなりに考えたのかは分からなかったが、少なくともユウリには、それがただ無邪気に走り回っているだけには見えなかった。
もし、あれがバトルだったら。
そんな考えが、不意に浮かんだ。
自分なら、サルノリに何をしてもらうだろう。素早く動き回る相手なら追いかけるより先回りした方がいいのか、それとも今のように音を使って注意を逸らすのか。相手がメッソンなら何が得意で、サルノリには何ができるのか、考え始めると知らないことばかりなのに、不思議と面倒だとは思わなかった。
それまでテレビで眺めていたポケモンバトルは、強いトレーナーたちが行う、自分とは少し離れた世界の出来事だった。ダンデがどれほど鮮やかに勝っても、ホップがその姿にどれほど興奮しても、自分がそこへ立つ姿を想像したことはなかった。
けれど今は、自分の隣にサルノリがいる。
バトルになれば、自分の判断ひとつでサルノリの動きが変わる。上手く指示できれば勝てるかもしれないし、間違えれば痛い思いをさせてしまうかもしれない。それを考えると楽しみだけでは済まない緊張が胸の奥に生まれたが、それでも逃げたいとは思わず、むしろ自分がこの小さなポケモンのことをどれほど知らないのか、そして二人なら何ができるのかを確かめてみたくなった。
そんなことを考えているうちに、視線を感じたのか、庭にいたサルノリがこちらを振り返った。
「サル?」
ユウリが窓を開けると、サルノリはヒバニーとの追いかけっこを中断して駆け寄り、窓枠へ手を掛けながら不思議そうにこちらを見上げた。
「……明日、ホップたちとバトルする?」
尋ねてから、これでは意味が分からないかもしれないと思い、ユウリはホップと、その足元にいるメッソンへ視線を向けた。
サルノリもつられるようにそちらを見る。
「私とサルノリで、あの二人と」
今度は自分とサルノリを指してから、もう一度ホップたちを指してみせると、しばらく首を傾げていたサルノリは何かを察したらしく、頭に挿していた枝を抜いた。
「サル!」
枝が地面を叩き、小気味よい音が庭に響く。
さらにサルノリはメッソンの方を見ながら胸を張ったので、ユウリは思わず笑った。
「それ、やるってことでいいのかな」
「サルッ!」
「……たぶん、そうだよね」
言葉が通じているのか、それともユウリが勝手にそう受け取っているだけなのかは、まだ分からない。それでもサルノリが嫌がっていないことだけは確かなようで、むしろ先ほどまでヒバニーと遊んでいたとき以上に目を輝かせている。
その姿を見ていると、ユウリの中に残っていた迷いが少しずつ薄れていった。
自分には経験がない。
サルノリがどんな技を使えるのかさえ、まだきちんと知らない。
けれど、それなら明日のバトルで知ればいい。自分が失敗したら、そのときはサルノリと一緒に覚えていけばいい。
最初から上手くできなければならない理由など、どこにもないのだから。
「じゃあ、やってみよっか」
ユウリが手を差し出すと、サルノリは一度その手を見つめ、それから何を思ったのか、握る代わりに自分の枝をぽん、と掌へ当てた。
「……それが返事?」
「サル」
「分かったことにしとく」
サルノリが嬉しそうに歯を見せる。
まだ出会ったばかりなのだから、何を考えているのか全部分かるはずもない。それでも、分からないからこそ知ってみたいと思えたことが、ユウリには少しだけ嬉しかった。
誰かに勧められたからではない。
ホップに付き合うためでもない。
このサルノリと一緒に、自分たちが何をできるのか確かめてみたい。
それが、ユウリが自分で選んだ最初の一歩だった。
「……いいよ」
「本当か!」
「うん。やろう、ホップ」
先ほどまでとは違い、今度は迷わずそう答えると、ホップの顔が一気に明るくなった。
「よっしゃ! だったら決まりだな!」
「ただし、負けても泣かないでよ」
「誰が泣くか! むしろユウリの方こそ覚悟しとけよ!」
その声に反応したサルノリがホップを見るなり、先ほどと同じように枝で地面を叩いた。
「ほら、サルノリもやる気みたい」
「望むところだ! なあ、メッソン!」
「メ、メソ……」
突然話を振られたメッソンは驚いてホップの後ろへ隠れてしまい、ユウリが吹き出すと、ホップは慌てて自分の相棒を励まし始めた。
その夜、家へ帰る道をサルノリと並んで歩きながら、ユウリは明日のことを考えていた。
初めてのポケモンバトル。
考えてみれば、ルールさえきちんと分かっているとは言い難い。それなのに不安よりも楽しみの方が少しだけ大きくなっていることに気づき、ユウリは自分でも可笑しくなった。
朝までは、ポケモントレーナーになることさえ現実味がなかった。
それが今は、隣を歩くサルノリがどんなことを得意としているのか、明日になれば少しは分かるのだろうかと考えている。
「明日、頑張ろうね」
声を掛けると、サルノリは歩きながらこちらを見上げ、少し遅れて枝を高く掲げた。
「……うん。そういうところは分かりやすいかも」
ユウリが笑うと、サルノリも機嫌よく枝を振りながら先へ駆けていく。
たった一日で随分変わるものだと思いながらその小さな背中を追いかけていたユウリだったが、やがて視界の端に遠く離れたまどろみの森が入り、昼間の出来事を思い出して足取りをわずかに緩めた。
「……あれ、なんだったんだろうね」
独り言に近い呟きだったが、サルノリが振り返る。
「サル?」
「ごめん。サルノリは知らないよね」
当然のように首を傾げるサルノリを見て、ユウリは小さく笑ってから歩き出した。
明日になれば、初めてのバトルが待っている。
今はそれでいいと思い、ユウリは森から視線を外してサルノリの隣へ追いついた。
けれど、人の目が届かない森の奥深くでは、その夜になってもわずかな霧が地面を這うように残っており、そのさらに向こうでは四本の脚を持つ何かが静かに顔を上げ、遠ざかっていく少女の気配を確かめるようにしばらく佇んだあと、再び音もなく白い霧の中へ姿を溶かしていった。