「イギリスに留学…?」
俺は親父の言葉を反芻した。
「今すぐとは言わない。付き合いたてのカップルを引き離すような、野暮なことはしないよ。」
俺の安堵に気付いたのか、親父は続けた。
「来年の七月から一年間、俺と一緒に住みながら現地の学校に通う、どうだ来るか?」
具体的な期間を教えてくれたが、一瞬迷うも答えはすぐ出た。
「俺は行かない、ここでやることがあるから、親父には悪いけど行かない。」
俺の返答が意外だったのか、親父は少し落胆したような相槌を打った。打って変わって、小鳩の意思も確認してくれと頼まれ、通話を終えた。
家に入るや否や、小鳩が出迎えてくれた。
「遅かったな、我が半身。疾く供物を捧げよ…」
わかりやすいくらい大きく腹の虫が鳴っていた。
夕食を食べながら俺は小鳩に、星奈と交際を始めたことを報告した。俺と星奈が付き合うのが意外だったのか、動揺して箸を床に落とした。拾った箸を流しに置き、新しい箸を持って来ながらいつもの調子で、小鳩は俺に真偽を聞いてくる。
「あの星奈と契りを交わしたなぞ、我が半身にしては酔狂なことを言うではないか。戯れが過ぎるぞ…」
信じられなかったようだが、俺は事実であることを告げた。すると忽ちに表情がスッと消えた小鳩だった。
今の小鳩に親父の提案を話すには、居た堪れない気持ちになった。完全に話す順番を間違えてしまった。
しかし小鳩に大きく関わることだ、言い渋っていい訳がない。
「あのさ小鳩、親父がイギリスに来ないかって、来年の七月から一年間なんだけど、行くか?」
イギリスという単語に小鳩の興味が湧いたのか、パッと表情が明るくなった。
「行く!絶対行く!兄ちゃんも一緒だよね?」
そうだよな、小鳩はイギリスに興味を持つだろう。厨二病には聖地のようなところだろう。それに母さんのルーツだ。行きたいと思うだろう。
でもそれは俺も一緒という前提だ。俺は行かない、その意思を伝えなければ、妹に淡い期待を抱かせたままでは、兄貴失格じゃないか?俺は小鳩を傷つけまいと、慎重に言葉を選び、口にした。
「悪い、俺は行かない。星奈のことも、部活も生徒会も、放っていくことはできない。」
想定と違う答えだったから、小鳩は再度落ち込んでしまった。やがてか細くも小鳩は言う。
「じゃあウチ行かない。兄ちゃんがいないのは嫌…」
そうなるよな、俺がいなかったら小鳩は行きたくないよな。留学は俺たち二人とも行かないと言うことで結論が出た。
食事を終えた小鳩は風呂に行き、俺は皿洗いを始めた。単純な作業をしていると、思考する余裕が生まれる。
小鳩はイギリスに行かないと言っていたが、本当にそれで良かったのだろうか。俺がいないからを理由に、自分自身の興味を押し殺すことが、小鳩のためになるだろうか。
いや今更何を悩んでいる。小鳩が行かないと決めたのだから、その意思を尊重すればいいじゃないか、それでいいじゃないか。もう済んだことを考えるな。
家事を一通り済ませ、風呂にも入った俺は、明日が星奈とデートすることを思い出す。
ここにきて大きな課題を目の当たりにする。服だ。隣人部で出かけた時も、もちろん服を着て出歩いた。同じ服を着る選択肢もある。
しかし明日は状況が違う。相手は星奈だ。これまでに何度か出かけているが、今日から恋人同士なのだから、今までと同じ服を着ていいものか?そんな疑問を抱いた俺は、クローゼットを開き、今持っている服から選りすぐりの、コーディネートを考えた。
なるべく大人っぽく見せた方がいいよな。じゃあ、この七分丈のズボンか?いや子どもっぽく見えるか。それともデニムか?無難だけどシンプルだから、カッコよくないかも。
どれにすればいいんだ!
皆無のファッションセンスを頼りに、逡巡していると携帯電話が鳴った。
着信画面を確認すると星奈だった。
通話ボタンを押すと開口一番、
「もしもし小鷹、今何してるの?」
耳元で星奈の声が響き、一瞬耳がキーンとした。
「うわっ、声でけえよ!」
たまらず携帯を耳から離し、ハンズフリーに切り替え机に置く。
「そんなことないよ!」
と星奈は反論するが、そんなことあるから苦言を呈したのだ。しかしそんなことを気にしない星奈は続けて話す。
「ねえ小鷹、明日のデート私楽しみなの!小鷹も楽しみにしてる?」
顔は見えないのに嬉々とした声から、喜びに満ちた表情だと窺い知れる。
俺も素直に気持ちを伝える。
「俺も、まあ…楽しみだ。」
歯切れの悪い返答に、星奈は不機嫌に反応する。
「えーなんか、煮え切らないわね。」
俺は慌てて弁明する。
「あ、いや、楽しみだ。でも緊張もしてる。明日何着ていけばいいか迷ってたんだ。」
俺の釈明に安堵したのか、声のトーンが明るさを取り戻す。
「へーやっぱり小鷹も、楽しみにしてたんだ。嬉しいなー」
電話越しでも笑顔になってるのが眼に浮かぶ。
俺とは対照的に、星奈はありのままだと思った。
「星奈は、その…緊張とか、していないのか?」
俺は気になり、疑問を投げかけた。
「するわよ…」
さっきまでの堂々とした星奈と打って変わってしおらしかった。
つい俺は鸚鵡返しした。
「するのか…」
少し間を置けたことで冷静になったのか、俺の言葉に星奈は続けた。
「当たり前よ!彼氏とデートなんて人生で初めてなんだから!」
人生で初めて、その言葉に俺はドキッとした。
「あたしだって明日着る服迷ってるし、どこ行くかまだ決めてないけど、でも小鷹とのデートだから楽しみの方が大きいかも。」
もうダメだ、俺とのデートが楽しみだと?星奈も緊張していることに安堵していたのに、それでも楽しみにしているなんて言われたら、可愛いだけで済まないくらい感情が昂る。顔から火が出るどころか、背中まで熱い。
星奈に悟られないように、身悶えしそうになるも背筋を伸ばし、通話を続けた。
「小鷹なら何を着ても…」
と星奈は言いかけて、
「いや、物によるわね。」
と訂正した。
「言い直すなよ!」
と俺の切り返しに、いつもの調子が戻ったのか星奈は、
「ちゃんと選んできなさいよ!初めてのデートなんだから、変なの着てたら承知しないんだから!」
と言った。
ふと時計を見ると深夜零時を回っていた。明日のために、いやもう今日になってるか、とにかく早く寝ようとなり、通話を終えた。
それから小一時間、俺は悩みに悩んだ挙句ようやく組み合わせを完成させた。
7時に目覚ましをかけて、ベッドに就いた。暗い部屋の中、時計の針だけが音を立てていた。
目を瞑りながら、明日のデートに何をしようか考えを巡らせていた。やがて意識は朧げになり眠りに就いた。