1月16日(土曜日)
……終わった。
一息ついて机にパタリ、お休みなさい。
って、教室でなんてはしたない真似を。
慌てて机から体を起こす。
昨日あんなことがあったので朝に宿題をやる時間が取れなかったのだ。
で、結局小休止時間までフルに使って何とかやり過ごした。
こういう時間とのギリギリの戦いは心臓に悪い。
二度とここまで追い込まれることがないように心掛けよう。
四時間目開始までまだ少しある。
ずっと教室に閉じこもりっきりだったし、トイレにでも行っておこう。
授業中にもよおしたら、せっかく宿題を済ませた意味がなくなる。
『先生トイレ』なんて小学生もいいところ。
『宿題忘れました』より大恥である。
そう思って私は席を立った。
トイレからの帰り道、おかしなものに遭遇した。
休み時間終了前の喧騒に包まれた廊下の真ん中を子狐が悠々と歩いている。
というか、真琴だった。
って、何故こんなところを真琴が歩いているんですか!?
慌てて駆け寄り、ご機嫌そうに揺れている尻尾を掴もうとしたが、そこで思いとどまる。
廊下のど真ん中を狐が歩いているというのに、周りの人間はまったく無関心なのである。
いや、一つだけ例外があった。
よく見ると舞さんが真琴の近くをウロウロしては、きょろきょろとあたりを見回している。
……ひょっとして、見えてないんだろうか?
なにやら真琴から青いオーラがうっすらと見える気がする。
おじいちゃんから何かをもらったと言っていたが、そのチカラだろうか?
ひとまず、人目のないところに誘い込むため、真琴の前に出て、ちらりと振り返ってから何事もなかったかのように歩き出す。
ついでに舞さんの肩も叩いて。
そして例の踊り場に来たところで、真琴を抱き上げた。
「何をしてるんですか?」
(えへへー、ステルスモードだよ)
「す、捨て留守もーど……?」
聞き覚えのない単語だが、何なのだろう?
というか、真琴が私の知らない英語……いや外来語を使った!?
「ステルス、stealの名詞形。意味は『こっそり』。by stealthで『こっそりと』という意味になる」
なんて、私が想定外の真琴の言葉に面食らっていると、後ろについて来ていた舞さんがもっと驚愕の発言をする。
発言というか、懇切丁寧な説明を。
「英語、お得意だったんですか?」
「…かなり嫌いじゃない」
何かものすごく意外な反面、この人の場合何でもありな感じもして妙に納得もしてしまう。
ひょっとして、かなり成績もいいんじゃないだろうか?
確か推薦で大学を決めているとか言っていたし……。
いや、まあ今はそのことは置いておこう。
問題は真琴のことだ。
「で……その、こっそりモードとは何ですか?」
(人の気をそらしちゃう術のこと。ほら、廊下で誰も真琴に気づいてなかったでしょ?)
……なるほど、つまり透明人間みたいになれるということか。
残念ながら狐の眼を持っている私には丸見えだったようだが。
人ならざる力を使っているためか、体がわずかに発光して見えて余計に目立つ。
試しに眼の力を開放してみたら、これでもかと言わんばかりに妖気が渦巻いていた。
「……本当に大丈夫なんですか?」
(大丈夫。よっぽど人が集まってる所でもない限り術は完璧だから)
おじいちゃんも真琴に余計なモノをくれたものだ。
まるっきり新しいオモチャに喜ぶ子供である。
知覚できない状態らしいが、かえって生徒たちに蹴飛ばされなければいいけど。
「美汐」
「はい、何ですか舞さん?」
「さっきから気配はするのに真琴が見つからない。そこにいるの?」
そこ、と私の手に視線を送る舞さん。
ちょうど真琴を抱いているところだ。
まさか、舞さんにはまったく見えてない?
(ねっ、完璧でしょ?)
「ねっ、じゃないですよ。ここで舞さんを化かしてどうするんですか」
何のために人目のないところへ移動したと思ってるんだろう。
結局真琴は手に入れた『すてるすもーど』とやらで遊んでるだけだった。
……ああ、なるほど。
狐につままれるとは、この術を使った妖狐のイタズラのことを言うんだろう。
割とどうでもいい言葉の起源を見てしまった四限前の休み時間だった。
とんとんとん、と階段をゆっくりと上り屋上前の踊り場に到達する。
佐祐理さんと舞さんがビニールシートに腰掛けていた。
真琴は……いない。
大方まだ校舎をうろついて遊んでいるんだろう。
「あ、こんにちは美汐ちゃん。今日も来て下さったんですね」
「ええ……舞さんから聞いていたので」
さっきの休み時間、舞さんから今日もここで昼食をとると聞いた。
それで、真琴の世話だけお願いしようと思って足を運んだ次第である。
「今日は長居しません。お弁当を持ってきていませんから」
「あ、いいですよ。お弁当はたくさん余ってますから、美汐ちゃんもどうぞ」
「いえ、うちでお母さんがお昼を用意しているはずですから」
「はぇー、それじゃあ仕方ないですね」
「ですが、真琴が来るかもしれませんので、その時はよろしくお願いします」
「あ、はい。分かりましたー」
胸の前で手を合わせて快諾する佐祐理さん。
やはりよく分からない人だ。
『あなたのお誘いに応じるつもりはないが、狐の世話は頼む』と言ってるようなものなのに。
まあ、いい。小姑みたいにいちいちケチをつけられるよりは。
「おい、喧嘩だぞ!」
突然、なにやら物騒な叫び声が階下から聞こえてきた。
佐祐理さん、私、そして黙々と食事をしていた舞さんが手を止め顔を見合わせる。
耳を澄ませると更に色々聞こえてきた。
「何あれ?」
「喧嘩? どこ?」
「ほら、あそこ」
「あれって喧嘩か?」
どうにも要領を得ない。
どうやらすぐ下の4階廊下の窓から校庭を見下ろして数人が話しているらしい。
気になるので降りていってみる。
二人もその後についてきた。
人が張り付いていない窓から外を覗く。
はるか下の校庭には、ちょっとした人の輪。
そして、その中心で二つの小さな茶色い影が……睨み合ってる?
「あの大きい方、山犬だよな? あっちの小さいのは何なんだ?」
「なんか……狐っぽい」
狐……うん、確かにあのふさふさした尻尾は狐だ。
それも小さな、多分かわいらしい子狐。
って、あのお馬鹿!
状況を把握するや否や、私は窓を離れて一気に階段を駆け下りた。
向かう先はもちろん校庭である。
既に下校時間を過ぎていたためか、人だかりは少ない。
そのうち体操服の人が半分。
野次馬の大半はどうやら運動クラブの面々のようだ。
別にかきわけるほどの輪ではないので、適当に空いてるところに割り込む。
「ウーッ!」
(フーッ!)
「ウーッ、ウーッ!」
(フーッ、フーッ!)
「ウーッ、ウーッ、ウーッ!」
(フーッ、フーッ、フーッ!)
お互いに前傾姿勢で睨み合い、相手に唸り続ける動物二匹。
その力関係は分かりやすいくらいに拮抗していた。
……ほっとくべきだろうか?
わざわざこんな衆人環視の中、狐を拾い上げたら何か色々と言われかねない。
とはいえ、この状況を放置していていいものか……。
「部長、止めましょうよ」
「でも、あのままじゃ狐さんが」
「部長! みんな部長を待ってるんですから危ないことは止めてください!」
「うー、でも、でも……」
隣から場の雰囲気に全く合ってない間延びした声が聞こえてくる。
体操服を着ているところから見ると、どこかの運動クラブの部長と後輩のようだが……。
ほっとくと、いらぬおせっかいが入ってこれまたややこしいことにもなりかねない。
ぱっと見たところクラスメートの顔はない。
ここはさっさと真琴を回収して犬をやり過ごすべきだろうか?
そう思った時だった。
「ばうっ!」
(あうっ!?)
山犬が大きく吠える。
その音に驚いた真琴は飛び上がって悲鳴を上げたかと思うと……。
(あぅーっ!)
文字通り尻尾を巻いて逃げ出した。
よりによって、そこで逃げますかあなたは。
当たり前のごとく狩猟本能を刺激された山犬がその後を追う。
小さな体の真琴は、さっさと人の足の間を抜けて輪の外へ。
残されたのは、二匹のにらみ合いを観察していた人たちと、輪の中の山犬。
しかも山犬は完全に興奮状態である。
「うわっ!?」
「きゃあっ!?」
てんでバラバラの方向に逃げ出す生徒たち。
蜂の巣を突いたような騒ぎとはまさにこのことだろう。
まずい、素手でどうにかするのは安全面でも衛生面でもよくない。
山犬のサイズと戦闘に合理化されたフォルムはある意味魔物よりもやりづらいものだった。
とりあえず、私も他の人同様に逃げる。
昇降口の脇まで走ったところで後ろを見ると、山犬は手当たり次第に近くにいる人に走り寄っては、次の標的に狙いを変え、と忙しく走り回っていた。
(あぅー、びっくりした)
……あら、そんなところにいたんですか真琴。
(あ、美汐ー。え? 何、なんで足上げてるの!?)
「……この」
ぎゅむ!
「お馬鹿!」
(あぅっ!)
とりあえず、騒動を起こした大元のうつけ者を踏んでおく。
(い、犬は狐の天敵なのよぅ。じんつーりきが……)
「聞く耳持ちません。あの騒ぎ、どう責任取るつもりですか」
人が見てないのをいいことに踏みまくる。
いや、もちろん潰れない程度に加減してだが。
ぴしっ!
突然、横から私の頭に手刀が飛ぶ。
「…何してるの」
舞さんだった。
「いえ、ちょっと制裁を」
「やめてあげて」
「まあ、舞さんがそう言われるのでしたら。ところで、それは?」
真琴から足を上げながら、舞さんの手にある物を指差す。
どこから持ってきたのかよく分からないが、それはそこそこ重そうなシャベルだった。
「……シャベル」
「それは見れば分かります。それで何を」
するつもりなんですか? と訊こうとして、舞さんのもう一つの視線に気付いた。
それは逃げ回る生徒たちを追いまわしている山犬。
「舞さんこそ、そんなものでどうする気ですか!」
「…とりあえず、おとなしくしてもらう」
「おとなしくなる前に、下手したら死にますよ」
シャベルなんかでぶったら。
「きゃあっ!?」
「わっ!?」
なんて問答してるうちに、今度はこっちに走ってくる山犬と二人の体操服の女生徒。
確か、さっき傍にいた先輩と後輩だろうか?
(こっちに来るね)
「真琴……他人事のように言わないで下さい」
もう一度踏もうかと思ったところで、舞さんが前に出る。
……シャベルを持ったまま。
私は慌ててその肩を掴んだ。
「……行く」
「待って下さい。私が何とかしますから、舞さんはそのシャベルを仕舞ってきて下さい」
「…でも」
「私がやりますから。ついでに真琴をどこか人目の付かないところに連れて行って下さい」
少しの間、シャベルを見つめたまま考え込む舞さん。
しかし、やがてこくんと頷いてくれた。
「分かった。真琴も連れて行く」
「お願いします」
真琴に『おいで』と言って校舎の裏側へと連れて行く舞さん。
多分あのシャベルは中庭の植え込みかどこかに置かれていたものなのだろう。
さてと、どうしたものか……。
殴る蹴るの暴行を加えるのなら、動きも単純だしそんなに難しいことではない……と思う。
しかし、それでは舞さんを止めた意味がないわけで。
……ん?
ふと、こっちに走ってくる女生徒の肩にかかるある物が目に入った。
そうだ、あれだ。
「すみません、お借りします」
「えっ?」
昇降口に走りこむ女生徒の肩にかかったタオルを、すれ違いざまに掴む。
呆然とした表情でこちらを振り返る女生徒。
だが、今は山犬をどうにかすることが先決だ。
すぐさまタオルを腕に巻き、山犬の前に立ち塞がる。
腕を前に前傾姿勢を取り、飛び掛ってくる山犬の口にそれを合わせた。
「グルルルル……」
興奮状態の山犬は私の腕に必死に食らいついて離れない。
が、これでいい。計算どおりだ。
牙さえ食い込まなければ、きつく挟まれている程度でどうということはない。
昔、おじいちゃんが山道を散歩中に教えてくれたとおりである。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
「ええ、タオル汚してすみません、先輩」
「あ、一年生なんだ。ううん、いいよ……けど……」
「はい」
「これからどうするの?」
唸り声を上げて、私の腕に噛み付いたままの山犬を先輩が指差す。
それで『しまった』と思った。
「……考えてませんでした」
「わたしが引っ張ってみる?」
「いえ、そんなことをしたらまた暴れ出しますよ」
「あ、そうか。うー、困ったなあ」
……全然困ってるようには見えない。
何なのだろう? このマイペースな先輩は。
「とりあえず、先生を呼んでくるね」
「ついでに何か食べ物を持ってきてもらえませんか? 多分お腹を空かせているだけだと思いますから」
「うん、分かったよー」
朗らかに頷いて、私に背を向けて職員室へ向かおうとする先輩。
だが、一歩踏み出したところで振り返る。
「ふぁいと、だよ」
「は…はぁ……」
そんな間延びした声で応援されても……。
とことん調子の狂う先輩だった。
「はい、佐祐理に任せてください」
「えっ?」
……ああもう、またややこしいのが。
職員室に行くはずだった先輩は、異邦人の出現に目をパチクリさせているし。
「あの、あなたのお知り合い?」
「……ええ、まあそんなところです」
「あははーっ、美汐ちゃんは佐祐理のお友達ですよ」
誰が友達だ。私は一度としてそんなことを口にした覚えはない。
これだから、こういう理想論者的なおめでたい人は苦手なのだ。
「わ、びっくり。三年生と一年生の友達なんて初めて見ました」
「はい、佐祐理も一年生のお友達は初めてです」
「あれ……? サユリって、ひょっとして、倉田佐祐理先輩ですか?」
「はぇ? 佐祐理のことご存知なんですか?」
「はい、陸上部のみんなが校内で一番の美人だって言ってました」
「そんなことないですよ。名雪さんの方がスタイル良くて、佐祐理憧れちゃいます」
「そ、そんな、わたしなんて……あれ? どうしてわたしの名前……?」
「あははーっ、体操服の裾に書いてありますよ」
「あ、そういえば……」
ぴしっ! ぴしっ!
「ふえっ?」
「……わ」
エアーポケットを作り出していた二人の頭を手刀が急襲する。
「早く美汐を助けてあげて」
またしても舞さんだった。
舞さん、佐祐理さんはともかく、おそらくは、知らない人まではたくのはどうかと思いますが……。
「あっ、はい。美汐ちゃんごめんなさい」
「あ、ごめん。忘れてたよ」
水瀬先輩、忘れないで下さい。全く痛くないわけじゃないんですから。
どうやら俗に言う『天然』というタイプのようだ。
「はい、犬さんどうぞ」
私の腕に噛み付いて動かない山犬の傍で、佐祐理さんが持ってきたお弁当の包みを開ける。
それは、ちょうどさっきまで二人が食べていたものだった。
鼻腔をくすぐる匂いでも感じたのか、既に大分落ち着いていた山犬はあっさりと私の腕を離れて、差し出されたお弁当にがぶりついた。
……ふぅ、犬がずっとぶら下がっていたのでさすがに右手の筋が少し張った。
「わ、本当にお腹空いてたんですね」
「この時期は山に食べ物がないですからね」
「そうですね。うー、おいしそう……」
お弁当箱の中身を貪るように食べ続ける山犬を見ながら、随分呑気な二人だった。
そもそも、この二人は初対面だったのではないだろうか?
なんて思った矢先、水瀬先輩の肩に第三者の手がかけられる。
「ブ・チ・ョ・ウ……篠原が戻ってきてるのに戻ってこないと思ったら、こんな所で何やってるんですか?」
「……え? だって犬さん」
「何が『だって』ですか。部室でみんな待ってるんですから早く来てください」
「わ、わ、耳を引っ張らないで」
「聞く耳持ちません。ほら早く」
「わたしのタオルー」
「忘れたなら私の予備を貸してあげますよ。ほんとに部長はいつもぼけーっとしてるんですから」
「ひどいよ。わたし、ぼけーっとなんかしてないもん」
「はいはい、続きは部室で聞いてあげますから」
「うー……」
水瀬先輩は同学年っぽい女生徒に引っぱられて去っていった。
多分、副部長かそんな立場の人だろう。
……というか、あんなのんびりした人が陸上部の部長なのだろうか?
「あははー……楽しそうですね、陸上部」
さすがの佐祐理さんも、今の光景には言葉がないようだった。
まあ……とりあえず名前は分かったので、タオルは洗って後日返しにいこう。
「なくなっちゃいましたね、お弁当」
山犬が満足して去った時には、お弁当はきれいさっぱりなくなっていた。
それを見た舞さんは、返事の代わりに『ぐきゅるるるー』とお腹を鳴らす。
節操というものがないのか、この人は……。
お風呂で、いっつも大きなおならを響かせているお父さんよりはマシだけど。
本人は風呂場だからと安心してるのかもしれないが、一階にいれば丸聞こえだったりする。
「舞さん、真琴はどうしたんですか?」
「…いつものところに行くように言っておいた」
「そうですか」
ということは、踊り場でランチタイムを楽しみに待ってるということだろう。
だが、そのランチは真琴の口に欠片も入ることなく空っぽである。
……仕方ない。
「あ、美汐ちゃん。どちらに行かれるんですか?」
「家に電話してきます。お母さんが何も作ってなかったら食堂でお昼ご飯を調達して真琴と一緒に食べようかと」
のんびり屋のお母さんのことだから、多分まだ何も作ってないだろう。
場合によっては『冷蔵庫のもので適当に作ってね』とか書き残してショッピングに行ってる可能性もある。
そうかと思ったりすると時々作ってたりするのでいい加減なのだが。
「食堂ですか。佐祐理もそうしようかな……ね、舞はどうする?」
「…行く」
いや、誇らしげに五百円玉を掲げないで下さい舞さん。
なんとなく、それが今日の全財産というオチもついてそうな気がする。
「と、いうわけですので佐祐理達もお供していいですか?」
「いいも悪いもないと思いますが、電話にはあまりお供されたくないです」
「あははーっ、それもそうですね。それでは、佐祐理達は先に食堂に行って待ってます」
いつの間にか畳んでいた空のお弁当箱の包みを手に、私の返事を待たず二人は校舎内へと消えていった。
何であの人……佐祐理さんは舞さんの傍にいるのだろうか?
時折、特に今のような時に神経を逆撫でされるような不快感を覚える。
私の気持ちなど、知りもしないくせに……。
真琴や舞さん、それとまいさんとは違う。
彼女が私の心に入ってくる時、それはいつも不法侵入に似たものを感じるのだった。
私は、多分……あの人のことが大嫌いだ。
お盆を持ち寄り、三人と一匹でいただきます。
真琴には何をやるか迷った挙句、『きつねうどん』を持ってきてしまった。
多分、普通の狐は食べないだろう、こんなもの。
いや、普通の狐でなくても……。
(あぅぅぅ、熱い。鼻がヒリヒリする)
「すみません。よく考えてませんでした」
口と鼻が突き出した狐の身体構造に、麺汁たっぷりのうどんは厳しかった。
しかし、真琴。あなたも鼻先突っ込む前にどうなるか考えなかったんですか?
どうにかしようと思って回りを見るも、私と佐祐理さんは真琴と同じくきつねうどん。
一番先に食堂に入っておきながら、私達の後に食券を購入した舞さんは何故か牛丼。
私達に続いてうどんを注文するつもりが、券売機の前で牛丼があるのに気付くや否や瞬時に気移りしてしまった……らしい。
何を考えて牛丼に変えたのか、本人の口からは案の定語られていないが、その時の様子から想像すると間違ってはいないと思う。
そして、黙々と食べている様子から察するに、真琴のきつねうどんと交換する気は多分ないだろう。
それ以前に周りの様子が見えているのかどうか……。
「どうかしましたか?」
優雅にうどんをすすっていた佐祐理さんが、こちらの異変に気付いて声をかける。
このお嬢様にうどんが似合うのか? と思ったが、なかなかどうして。
似合う人は何をやっても様になるというのがよく分かった。
麺を落とすことなく控えめに3、4本を丁度真ん中から掬い、無駄なく口に運んで、ほぼ無音で吸い込む。
あんな芸当、私には到底無理だ。
高貴なお方と、庶民ではこうも違うとでもいうんだろうか?
やめよう、ちびちびネズミのように食べてる自分が惨めに思えてくる。
いや、ネズミと考えるから悪いのだ。
ハムスターと考えよう。愛くるしい顔で麺を一本一本頬袋に……。
……詰めていく姿は、可愛いか微妙だった。
『兄者、見るクポ。今日は三本も入ったクポ』
『よくやった妹者。明日はがんばって四本に拡張するクポ』
『兄者みたいに立派な袋が欲しいクポ』
『それは難しいクポ。ボクの四次元頬袋を身につけるには修行が必要クポ』
『兄者といっしょなら頑張れるクポ』
『クポッ! やっぱり妹者はかわいいクポ』
待て待て待て、何だそのハムスター兄妹は。
確かに、かわいいかもしれないけどそれはちょっと違う。
それ以前に、ハムスターの語尾が何故クポなんだろうか?
時々、自分の頭が考えていることが自分でもよく分からない気がする。
「あのー、美汐ちゃん?」
「あ、はい。すみません、ちょっとぼーっとしてました」
これからもよろしくだクポ、とか言いながら脳内のハムスター兄妹は去っていった。
……ていうか、また来るんですか?
あんまり戻ってきて欲しくないので、全力で記憶の底に押し込めることに決定。
そろそろ現実に戻れ私。
「真琴がおうどんを食べられないみたいなんです」
「ああ、なるほど」
恨めしげに丼に入った湯気を立てる麺汁を真琴が睨みつけている。
それを見て、佐祐理さんは全てを悟ったかのようにぽんと手を叩いた。
「そういうことなら任せてください。これで大丈夫です」
と、佐祐理さんは微笑みながら背中の後ろに置いていたお弁当の包みをほどく。
そして、一番上の上蓋を真琴の前に差し出した。
「ここにおうどんを取ってあげると真琴ちゃんも食べられると思いますよ」
「ああ、そういう使い方も出来るんですね。お弁当箱」
上蓋を小皿代わりにするなんて、普通は行儀が悪いのでしない。
だが、狐の器としては別に問題ないだろう。
「お借りしますね」
「はい。ついでに佐祐理のでよかったら油揚げもどうぞ。真琴ちゃん、狐さんだから好きですよね?」
(うんっ)
「じゃあ是非食べて下さい。ここの油揚げ、実はおいしいんですよー」
ぺちゃ、とひっくり返した上蓋に汁を吸った油揚げを乗せる佐祐理さん。
甘い香りがあたりに広がって、思わず私も真琴のようにそれにかぶりつきたくなってしまった。
さすがにそれは出来ないので、自分の丼に浮いた油揚げを一口つまむ。
確かに、学生食堂のものとしてはかなりおいしい。
真琴も嬉しそうに尻尾を振ってそれにがぶりついていた。
(佐祐理さん、ありがとう。とってもおいしかったよ)
「あははーっ、喜んでもらえて嬉しいです」
……かわいいって、とんでもない役得だ。
この姿と、この表情、仕草で街中を歩けば、みんな真琴に食べ物を差し出すだろう。
「……佐祐理」
「はい?」
突然、それまでもくもくと牛丼に向かっていたはずの舞さんがこちらに声をかけた。
不思議なものを見たとでもいうようなきょとんとした顔。
何かあったのだろうか?
「どうしたの? 舞?」
「……今、佐祐理は」
「佐祐理がどうかしたの?」
相変わらず要領を得ない舞さんの発言に、佐祐理さんが次の言葉を促す。
しかし、それで気が削がれたのか、気のせいか何かと思ったのか、舞さんは言葉を切った。
「……何でもない。お茶」
「あ、はい。どうぞ」
……何だったんだろう?
あれ? そういえば、何か私も引っ掛かるものが。
何かごく単純なことに思えつつも、何が違和感なのかあまりに単純すぎて既に記憶の底に沈んでしまった。
妙に引っ掛かりを覚えながらも、何も思いつかないので食事に戻ることにする。
真琴の丼からうどんを小皿代わりの上蓋に乗せてやりながら。
ああ、そうだ。ひょっとしたら違和感はそのことなのかもしれない。
上蓋をすぐに小皿として使う気転。
多分そうに違いない。そして、さっきの休みの舞さんも。
「あの。ひょっとしなくても、お二人は成績がいいのですか?」
何だかんだで大学を推薦合格している二人である。
しかも舞さんに至っては、学校の問題生徒。
本来なら推薦どころではないだろうに、私が思っている以上に二人は成績優秀者なのかもしれない。
「はぇ、成績ですか?」
よっぽど心外な質問だったのか、佐祐理さんがきょとんとした様子で驚く。
確かに、狐を囲んでののんびりしたお昼時の会話にしては変かもしれない。
しかも、私は一年生なので、三年生である二人の成績がどの程度か知る意味も少ない。
だが、舞さんは何の躊躇もなく答えた。
「佐祐理ほどは良くはない」
「そうなんですか?」
「ずっと、一番だから」
「ちょ、ちょっと舞ー」
さらりと爆弾発現をした舞さんの口を慌てて佐祐理さんが塞ごうとした。
が、本人はそれで質問の答えは終わりだとばかりに食事を再開している。
「別に驚きはしませんよ。推薦合格されてるんですから」
嫉む以前に、本質的にあなたのことは嫌いですから。
今更表面的なことで嫌いになる理由もない。
「そう言われるとそうなんですけど……でも違うんです。一番といっても学内順位で、全国模試ではそれほど……」
「それでも十分凄いですよ」
「いえ、だからその。本当は舞の方が……」
何か少し様子が変だ。
謙遜ではなく、本当に何かを言いたそうな。
というか、舞さんの方が……何なのだろう?
「舞、英語検定の一級持ってるんですよ」
「え……一級……?」
予想の範疇を超えたとんでもない真実の開示に一瞬頭が真っ白になる。
英語検定、略して英検は高校生卒業で準一級くらいが限度と聞いている。
まだ一年生の私が案内されたのは準二級の案内だった。
当然、英語が苦手な私は出願もしてないし、一級がどれほどの難度かなんて考えたこともない。
ただ、自分には縁のない雲の上の話とだけ思っていた。
その合格者が目の前にいて、のんびり牛丼を食べているのだから言葉を失う。
しかも、よりによって異文化コミュニケーションなんて言葉と一番縁のなさそうな舞さんだというのが……。
「三年生で一級に挑戦したのは舞だけですし、合格したのも舞だけです」
「それで、舞さんは推薦もらったんですか?」
「ええ。舞は出さなかったんですけど、佐祐理のお父様が代わりに」
「佐祐理さんの、お父さん?」
何故そこで佐祐理さんのお父さんが出てくるのだろうか?
というか、何故佐祐理さんの父さんが代わりに?
「舞はお父様のお気に入りなんですよ。英語検定もお父様が言い出したものなんです」
「……佐祐理さんのお父さんが舞さんに受けさせたんですか?」
「いえ、そうではなくて。その時の状況を再現するとこんな感じです」
舞が佐祐理のおうちに遊びに来て五度目のことでした。
その日、普段は帰ってこないことも多いお父様が夕方に帰ってきたんです。
そして、初めて舞とお父様が出会いました。
「お嬢さん、お名前は何かな?」
「…舞。川澄舞」
「ふむ、いい名前だ。佐祐理の友達のようだが、佐祐理のことは好きかね」
「……嫌いじゃない」
こんな調子で一問一答が続きました。
そして、好きな科目の話になった時でした。
「好きな教科とかはあるのかな?」
「あ、舞は英語が得意です」
「川澄君は英語が好きなのか?」
「相当に嫌いじゃない」
「そうか。いい機会だ、うちの佐祐理と一緒に英検でも受けてみてはどうかな? 英語は出来るに越したことはないぞ」
「……佐祐理と一緒なら」
「いい返事だ。佐祐理もそれでいいな?」
「はい。舞と一緒なら喜んで」
「よしよし、後で秘書に受験届を取り寄せさせておいてあげよう」
身振りと口調の真似を駆使しながら、佐祐理さんは過程を説明してくれた。
しかし、秘書ということは佐祐理さんはやはりお嬢様ということなのだろうか?
『お父様』という呼び方からしても、佐祐理さんのお父さんは社交界で名のある人なのかもしれない。
「それで舞と一緒に最初は準二級を受けたんですけど、舞ったらそれがかなり気に入っちゃったみたいで」
「どんどん上の級を受けたんですね」
「ええ。佐祐理も英語は得意な方なので一緒に受けましたけど、一級はさっぱりでした」
お手上げとばかりに小さく両手を広げる佐祐理さん。
学年一位でも一級は手に負えないものらしい。
その話を聞けばさっきの休み時間の舞さんにも納得がいく。
この目の前で黙々と牛丼を食べている少女は、恐ろしいほどに英語が得意らしい。
「お父様も、そんな舞がすっかりお気に入りになっちゃって、時々外国の方とのお茶に舞を呼ぶくらいなんです」
「お茶って……喋れるんですか? あの舞さんが?」
「はい。舞は英語だとかなりお喋りですから、外国の方には好評だそうですよ。ジャパニーズゲイシャガールって」
……それは好評というかなんというか。
別に喋らなくても関係ないような。
ちょっと、試してみよう。
お喋りな舞さんというのも見てみたい。
ええと、何か話せる英語は……。
「What's the matter with you?」
ぴしっ!
とりあえず喋ってみると、いきなり舞さんから手刀が飛んできた。
しかもお箸を持ったままの手で。
舞さんの顔は、少し怒っていた。
「見世物じゃない。……それに、私はどうもしてない」
それだけ言うと、丼に目を戻して食事に没頭する舞さん。
そういえば、私の質問は『どうかしましたか?』の意味だった。
意訳すると『頭大丈夫ですか?』にもなる。
英語に熟達した舞さんが怒るのも無理はない話だった。
筆記試験で精一杯なのに、無理なことはするものではないと反省。
「あははーっ、駄目ですよ美汐ちゃん。舞が英語を喋るのは必要のある時だけですから。佐祐理も以前怒られちゃいました」
「そうだったんですか」
英語なら自分のことを色々話してくれるのではないかと興味を持ったけれども、舞さんはそう甘くなかった。
「本当にお喋りなんですか?」
「ええ。学校でも、外国の先生の質問には楽しそうに答えてますよ」
「なるほど……」
誰だって話す必要もない時に、使う必要のない言語で話すことなど喜ばないだろう。
いや、そもそも私自身それをよく分かっている。
私が舞さんの立場なら同じことを言って不快感を示しただろう。
人の嫌がることをしてはいけない、ある意味常識的なことだ。
お喋りな舞さんには興味が湧いて仕方がないが、ここは素直に諦めよう。
(あー、おいしかった。お腹いっぱい、眠くなってきちゃった)
と、いつの間にかうどんを食べ終え、温くなった麺汁まで飲み干した真琴はくてんとその場で横になって寝息を立て始めた。
何を思ったのか、同じく食事を終えた舞さんまで壁を背に寝息を立て始める。
傍で丸まっていた真琴を膝の上に乗せながら。
やっぱり、なんというか……動物二匹だ。
「あらら、二人とも寝ちゃいましたね。食器、返してきてから起こしましょうか」
「そうですね。そうしましょう」
苦笑いしながら二匹を見つめ、私達はまだ半分近く残っている自分のうどんに手をつける。
少々話し込んでいたせいか、麺は延びてしまっていた。
はっきりしない歯ごたえが何となく嫌だ。
……あれ? はっきりしない?
二人の成績を聞いても、まだ何か違和感がある。
何だったのだろう?
気にはなりながらも、何故かその正体に気づくことはなかった。
そして、食器を片付けて、真琴と舞さんを起こしたころにはそんなことなど忘れてしまっていた。
今日も今日とて夜の学校に通う。
そういえば明日は日曜日だが、日曜日も魔物は出るのだろうか?
ふと、頭にそんな疑問が浮かんだが、あまりに馬鹿馬鹿しいことだとすぐに気付く。
残り時間はもうすぐ二週間を切る。
魔物が出る出ないに関わらず、可能性がある限り張り込まなければならないだろう。
そもそも、肝心の魔物はまだ一体すら倒せていない。
しかも、うち二体に至ってはいまだ姿を現していないので攻略の糸口すら掴めていないのだ。
「こんばんは」
こくり、と当たり前のようにそこに立っていた舞さんが挨拶に応えてくれる。
(舞ー、こんばんはっ)
と、今度は私の後ろを歩いていた真琴が、元気いっぱいな声を上げて舞さんの胸に飛びついた。
舞さんはというと、全然驚いた風もなくその小さな体を剣を持たない片手で受け止める。
そして、何を思ったのか真琴の体に頬擦りした。
(あぅぅ、くすぐったいよぉ)
「……あったかい」
(だ、ダメっ、そこダメーっ)
「いい匂い」
真琴はかなり本気でくすぐったがっているのだが、舞さんは真琴の言葉が分からないのでそれに気付いていない。
にしても、真琴も脇下が弱いんですか。
また余計な知識が増えたというか、幸せそうな二人だ。
しかしまあ、いつの間にか舞さんにも懐いていたんですね、あなたは。
なんて思っていたら、舞さんが腰を下ろしてゆっくりと真琴を地面に下ろす。
じゃれあいはそこまでのようだ。
真琴はてててっと小走りに私の足元に駆け寄り、そこでお座りする。
そこまでの動作をじーっと名残惜しそうに見つめながら、舞さんは顔を上げた。
その顔はいつもの狩人の顔に変化している。
「美汐、昨日のように」
そして、一言。そう言って舞さんは背を向けた。
「昨日のように……どうするんですか?」
「…魔物を狩り出して」
ちらりと後ろを向いて、私の質問に答えると舞さんは上の階へと走っていった。
つまり、昨日のように下と上から歩いていって魔物を狩り出すということだろうか?
まあ、ただ立っていても真琴が暇を持て余すだけなのでその提案は悪くない。
魔物に効果があるのかは分からないが、ここは素直に従っておこう。
(ねえ、美汐)
「はい?」
連れ立って舞さんとは反対側の校舎一階隅に移動しようとしたところで、真琴に声をかけられる。
真琴は舞さんの去った方向を眺めながら、神妙な顔をしていた。
まさか、魔物の気配を察知して……?
(美汐も頑張ってね。やっぱり胸に飛び込むのは舞が一番だって思った)
とりあえず尻尾を思いっきり踏んづけてやった。
あたりを警戒しながら一階の廊下を歩く。
だが、これといった違和感はない。
「どうですか?」
私にぴったりくっついて付近を警戒している真琴もふるふると首を振る。
魔物の気配は……なし、か。
(今日はお休みかな?)
「休まれても困るのですが」
今更ながらにしてそれがまずいことに気付いた。
向こうが出てきてくれなければ、戦うことすら出来ない。
何か、誘い出すいい方法でもないものだろうか?
このままジリ貧に追い込まれていくのだけは何としても避けたい。
だが、焦りも空しく、私達が二階の廊下を歩いているところで、上から降りてきた舞さんと鉢合わせしてしまった。
「そっちはどうでした?」
「…何もなかった」
「そうですか。どうします?」
そう問い掛けると、舞さんは視線を下に落としてしばらく考え込む。
やがて、答えが出たのか顔を上げた。
「もう一度。今度は逆に」
「分かりました」
「頑張って」
「はい?」
聞き間違いだろうか?
今、舞さんが私を激励してくれたような……。
「美汐達なら、魔物を誘い出せる」
「……それは、私達に餌になれと」
「そうとも言う」
そうとも、じゃなくてそうとしか言えないと思うが。
というか、そういうオチですか。
まともな激励を期待した自分がおかしいと言えばおかしいのかもしれない。
「はぁ、分かりました。行きますよ真琴」
(うん。じゃあね、舞)
再び私達は別れて、校舎の端へと散っていった。
いけない、なんだかスパイごっこか何かのような感覚になってきている。
これは遊びじゃなくて、本物の実戦なのだ。
間違ってもそんな悠長な気分になってはいけない。
下手を打てば待っているのは……即ち、死だ。
(敵は近くにいるはずだ。狩り出すぞ、おー)
もう一回尻尾を踏んでやった。
もう一回りしても、魔物は姿を現さなかった。
再び顔を合わせた舞さんも黙って首を振る。
やがて、しばらく顔を見合わせていると、私から視線を外して横を向いた。
「今日はもう出ない」
「そうですか」
舞さんが出ないと言うのなら出ないのだろう。
私にはよく分からないが、舞さんにはそれが分かっても不思議ではない。
元はといえば自分のチカラなのだから。
だが、舞さんはそう言った後も、何か腑に落ちないのか首をかしげ続けている。
「…おかしい」
「はい?」
「やっぱり、魔物の様子がおかしい」
「どう、おかしいんですか?」
「変わった。……二人が来てから」
私達を一瞥して、しばらく顔を伏せたあと舞さんは歩き始めた。
「帰るんですか?」
私がそう訊ねると、舞さんは少しだけ振り返ってこくとうなづき、去っていく。
よっぽど腑に落ちなかったのだろうか?
去っていく舞さんの足取りは、何か引きずるような重苦しさがあった。
(やっぱり、今日はお休みだったのかな?)
舞さんがいなくなって、黙って顔を見合わせた後真琴がそう言った。
確かに、今日は異界独特の奇妙な感覚がしない。
となると、魔物の休業日なのだろうか? そんな馬鹿な。
いや、待った。何か重要なことを忘れてないだろうか?
そう、こんな日は前にもあった。その時は確か……。
「ぴんぽん、ぴんぽーんっ」
(わっ、わわっ!? まい!? びっくりしたぁ)
「あはー、驚かせちゃってごめんねー。ん? 何で疲れた顔してるのかな美汐は」
ああ、そうだ。この人がいたんだった。
私達の後ろに、突然出現した少女『まい』さんがぷかぷかと浮いている。
「いるならもっと早く来て下さい。私達も帰ってしまうところでしたよ?」
「だって、仕方なかったんだよ。舞が校舎ウロウロしてるからうかつに姿出せないし。やっと帰ってくれて一安心」
「それは分かりましたが、普通に登場出来ないんですか?」
「え、えーっと……」
私が溜息をつくと、まいさんはしどろもどろに言葉を詰まらせならがら地面におりる。
そして、両人指し指をこめかみにあてて謎のチャーミングポーズを取りながら首を横に倒して言った。
「……ダメ?」
ず、ずるい。その顔でそんなことを言われたら、駄目なんて言えない。
落ち着け私。相手は外見は子供でも本当は私より二年も年上。しかも狡猾だ。
断じて、断じて……。
「はぁ、もういいです」
「わーい、美汐大好き」
かわいいと思ってしまった私の負けだった。
何と言うか……こういうのを魔性の女と言うんだろうか?
いや、まあ、、魔性そのものなわけだけれども。
「じゃあ、前の教室で待ってるから来てね。あでゅーっ」
ぴゅー、とかそんな音が聞こえそうな勢いでまいさんは上階へと飛んでいってしまった。
取り残された私達は、とりあえずお互いの顔を見合わせる。
(なんていうか……)
「はい?」
(『まい』ってデタラメだよね)
……あなたがそれを言いますか、真琴。
いかにも『らしい』オチを付けてくれた真琴に感謝しながら、私達はまいさんの後を追った。
舞さんの教室の前に立つ。
扉を開けようと思ったところで、少し考え直して扉を叩いた。
一応私達は中にいるまいさんを訪ねるのだから、そうした方がいいだろうと思ったのだ。
コンコン。
「どうぞー」
「お邪魔します」
ガラリ、と扉を開けると、そこは一面の麦畑だった。
「……っ!?」
(あぅっ!?)
慌ててピシャリと開けた扉を閉じる。
大きく、後ずさって何かにぶつかったと思ったらそれは廊下の壁だった。
横では真琴が壁にぶつかって驚いた真琴が仰向けにひっくり返っている。
今のは何だ? 私は一体何を見た!?
確認しよう、ここは学校であり、しかもその四階だ。
教室の広さは柱の配置などで若干変わりはあるが、体育館やグラウンドほど広いなんて ことはない。
なのに、今そこには一面の麦畑が広がっていた。
それどころか、向こうには山まで見えた。
有りえないという気持ちと同時に、何かそこに踏み入れることに対して得体の知れない恐怖を覚えた。
真琴もそれは同じらしく、まだ亀がひっくり返ったようなポーズで閉じられた扉を見つめている。
(い、今の何!?)
「私が訊きたいですよ!」
お互い荒い息のせいか、怒鳴り声に近い応酬を交わす。
あんな現実をどう受け止めればいいのか。
耳には麦の穂が風に揺れる音も、足を撫でた麦穂の感覚も残っている。
つまり、間違いなくあの扉の向こうには麦畑があったのだ。
「あー、もう……参ったなあ。入る前から逃げ出しちゃうなんて」
ぴょこん、と私が閉じた扉から一回転してまいさんが飛び出してくる。
まいさん、視覚的に怖いので扉をすり抜けるのは止めてください。
「さっきのは、まいさんの仕業ですか?」
「仕業って、あたしが悪者みたいな言い方しないの。まあ、あたしの力で作り出したのは合ってるけどね」
「一体、何であんなものを……?」
「へ? 何言ってるの? あたしの昔話聞きたいんじゃなかったの?」
「ああ……そういえばそうでしたね」
どうやら、お話ではなく直接映像で見せてくれるつもりだったらしい。
それは分かったけれども、そういうのは断りを入れて欲しい。
あんなのは私達からすればあまりに非常識なのだから。
まあ……。
(……何? 美汐)
「……いえ」
非常識と行動を共にしておいて、今更常識非常識も何もないのかもしれない。
「美汐達には手品の種が見えちゃうのが問題だなあ」
「普通に口で話してもいいじゃないですか」
やれやれとばかりに溜息をつくまいさんにそう言うと、まいさんはぶーっと口を膨らませて横を向く。
「そんなんじゃつまんないもーん」
やっぱりそういうことだった。
果てしなくタダで済みそうにない予感がするので、出来るなら遠慮したいのだが。
「……だめ?」
くりっと大きな目を輝かせて首をかしげる凶悪ポーズ。
騙されるな。騙されちゃいけない。
真琴と違って、この人は分かっててやってる。
分かってるのに……。
「分かりました」
「やたっ」
両手バンザイしながら飛び跳ねるまいさんを見ながら溜息。
子供のおねだりってここまで抗えないものなのだろうか……。
考えていても仕方がない。
こんなところで押し問答してても時間の無駄だし、さっさと話を進めよう。
「それで、どうすればいいんですか? 教室の中に入ればいいんですか?」
「んー、美汐達の目には幻術が見えちゃってるみたいだからただ入っても意味がないんだよね」
「じゃあどうすれば……」
「なーんにも考えないで幻術にわざとかかっちゃって。後はあたしが誘導するから」
「はあ、何も考えない……ですか」
果たしてどうすればそんな状態になれるのだろうか?
何も考えない、何も考えない、何も考えない……。
困った。『何も考えない』という意識を考えてしまってる。
そうだ、こういう時は……。
「真琴、ちょっとやってみてください」
(え? 何を?)
「何も考えない状態です」
まずはお手本として、普段から何も考えてなさそうな真琴にやってもらおう。
そうしたら何かコツが掴めるかもしれない。
「美汐って何気に酷いこと考えてるね」
「気のせいです、まいさん」
横でまいさんがにたーっといやらしい笑みを浮かべてるけど無視。
さあ、真琴。見せてください。
『馬鹿』の実演というものを。
(んー、こうかな?)
首元を前足でひとこすりしてから、真琴はへたっとその場で横になった。
そしてそのまま反り返って私達の方を見ながら、足を開いて白いお腹をのぞかせる。
ちょうど猫が寝転がってじゃれているような姿だ。
(なーご、なーご)
なんて思ったら、本当に猫のつもりだったらしい。
「まいさん、あれでいいんでしょうか?」
「いい……とは思うけど……」
「全世界のネコ科を侮辱してる気がするのは気のせいでしょうか?」
「でも、やらせたのは美汐だよ」
……そうだった。
ごめんなさい、全世界のネコ科の皆さん。
(どうー? 参考になった?)
「ええ、なりましたよ」
ようは『脱力して頭の中をまっ白にすればいい』ってことが。
「じゃ、真琴はそのまま待っててね。美汐の準備が済んだら一緒に送るから」
(うん。じゃあ、いくよー。なーご、なーご)
そのまま猫の真似を続ける子狐一匹。
どうやら本気で『猫の真似=何も考えてない状態』だと思い込んでるらしい。
思い込みもここまで清々しいと、ある意味尊敬に値する。
なんて思ってたら、心底楽しそうな顔をしてこっちに振り返った。
「さ、美汐も『なーごなーご』しちゃって」
「しませんよ」
「えーっ、絶対かわいいって。ほら、『なーごなーご』」
もう一度真琴の姿を見てみる。
仰向けになって、白いお腹を丸出しに、四本の足は人間でいう大の字。
私にあれをやれと?
お父さん、お母さん。あなた達の娘は今、新手の羞恥プレイを強いられてます……。
(みしおー、一緒にやったらもっと楽しくなれるよー)
「ほら、お仲間もああ言ってるよ? 早く『なーごなーご』しちゃお」
「お仲間とか言わないでください!」
何もかも忘れて楽になりたいという自殺願望と、何も考えてない状態は似たものなのかもしれない。
私は今、この世界からオサラバして、さっさと幻の世界に旅立ちたい気持ちでいっぱいだった。
参ろうやパライソ、パードレパードレ。
管制塔聞こえますか? 還ってきた大地です。
(美汐、どうしちゃったのかな?)
「さあ? でもいい具合にトンでくれてるから送っちゃおうか。真琴は『なーごなーご』しててね」
(うんっ。なーごなーご)
「う、ううううっ」
(あれ? どうしたのまい? なんか、目が変だよ)
「超絶かわいい~っ!」
(あ、あうううっ!?)
そんなこんなで、一匹と一人の黄色い声をバックミュージックにしながら私の意識はどこか遠くへ持っていかれたのだった。
ざわわ、ざわわ、ざわわ……。
風の音が聞こえる。
風が、麦の穂を鳴らしている。
私の体は、お腹の高さまで麦に埋もれている。
これはすごく背の高い麦だ。
お化け麦の鳴く、一面麦だけの世界。
周りには何も無い。
ただ連なる山が遠景にあるのみ。
どこまで歩いてもそこに辿り着けそうにない。
その麦畑は延々と続いているのだ。
波立つ麦の海原。
私はそこを歩き続けている。
ふと、麦をかき分ける手が小さいことに気付いた。
私の手はこんなに小さくない。
そうだ。この手は私の手じゃない。そして、この体も。
私ではない子供が、麦畑の中へ中へと分け入っていく。
ざわわ、ざわわ、ざわわ……。
汗ばむ首筋を撫でていく、生温かい風。
季節は夏。私はこの場所を知っている。
新校舎が建つ前にあった麦畑、間違いない。
だけど、周りに見えるはずの旧校舎や町の風景はどんなに遠くにも存在しない。
これは憧憬。この世界の主には、そんなものはいらないのだ。
だから、ここには麦畑と遠くの山しか存在しない。
何かに呼ばれるように麦畑へ入った。
だが、気がつくとそこから出る術が分からなくなっている。
子供……私は、仕方なく麦畑を歩き続けた。
どれだけ、黄金の海原を彷徨っただろう?
足の先に何かが当たった。
「あ…」
と少女は声をあげた。
声をあげたかったのはこっちのほうだ。
だって、その麦畑の中には何も見えなかったからだ。
そこから『あ…』なんて声が聞こえてきたら、びっくりするのはこっちに決まってる。
「あのさ…」
少女は麦の中から立ち上がると、こっちに向いて声をかけた。
「…遊びにきたの、ここに?」
恐る恐る、といった感じで少女は訊いた。
「いや、ちがうよ。迷ったんだ」
……?
何かおかしい。
「このあたりは、まだよく知らないんだ」
馬鹿な。そんなはずない。
私はここがどこだか知っている。
「でも、こんな麦畑があったなんて、おどろいたよ」
一体どうして、こんな嘘を私は言っている?
それに……目の前の少女は、雰囲気が若干違うけれども、まいさんに違いない。
いや、これはむしろ幼いころの舞さん?
「美汐。疑問を持っちゃダメ」
「まいさん? ……どこに?」
どこからともなくまいさんの声が聞こえてくる。
はじめて会ったとき、教室まで誘導された『こっちへおいでよ』の雰囲気に似ている。
「今、美汐はあたしの世界の中にいるの。あたしを否定しないで」
(真琴もいるよー)
「あ、ごめんごめん。真琴もいっしょだったね」
姿は見えないけど真琴の声も聞こえた。
真琴の声は私の頭に直接……いや、これはむしろ……真琴と私の思考が、幼い舞さんと話している子供の中に一緒に入っている?
(あれ? どうしたんだろ? ちっちゃい舞が動かなくなっちゃった)
前を見ると、子供と向き合ってる幼い舞さんが固まっている。
いや、固まっているのは私達が入っている子供の体も同じ。
それだけじゃない。よく見ると、風に揺れているはずの麦まで静止していた。
まるで、ビデオの一時停止ボタンを押されたように。
「だ~か~ら~」
目の前の不思議な光景に戸惑っていると、まいさんの不満げな声が聞こえてきた。
「タイムスリップじゃなくて、これはビデオ再生なの。美汐達が勝手な操作したら止まっちゃって当たり前じゃない」
「あの、ビデオ再生ってことは、今私達が見ているのはやっぱり……」
「そ、あたしと舞の一緒だったころの記憶だよ。ついでに読心能力で相手の気持ちも記録して体感できる次世代映像再現装置!」
「……装置は違うんじゃないですか?」
登場人物と一体化して記録を見れるというのは凄いが、それは超能力の成せる業。
ビデオが進化してもこうはならない気がする。
「そうかなぁ。人間達の技術進化は凄いし、そのうち奇跡も幻想も科学で作り出せるかもしれないよ。こんな風に、誰かに成りきってVR体験したりとかもね」
(ぶい、あーる……って、何? おいしい?)
「バーチャルリアリティ、略してVR。別名は仮想現実。コンピュータグラフィックスや音響効果を組み合わせて、人工的に現実感を作り出す技術のことだよ」
(え、えっと?)
「まいさん、もう少し分かりやすく説明してあげてください。真琴と一緒の頭にいるせいか、私まで頭が回ってきました」
「んー。乱暴に説明しちゃうと、テレビの中に入れちゃうってこと」
(テレビの中? それってすごいっ。ね、ね、どこで出来るの?)
「残念ですが、それは空想のお話で現実にはまだありませんよ」
(そうなんだ……残念)
心底残念そうな声が響いてくる。
真琴にしては珍しく理解が早い。
私と頭が繋がってるおかげで、少しは利口になったのだろうか?
(真琴、お料理番組の中に入ってみたかったなぁ)
……駄目だ。今の話、一割も理解出来ていれば上出来だろう。
「とにかく美汐、余計なこと考えて再生を中断しないでよね」
「はいはい、分かりました。黙って見ていればいいんですね?」
「よく出来ました。それじゃ、続きを上映するよ」
何か、微妙に馬鹿にされてるような気がする。
気のせいだろう、多分。……多分。
ざわわ、ざわわ、ざわわ……。
麦の穂が再び音を奏ではじめる。
時が流れ始めたのだ。
「…どこからきたの?」
「さぁ…向こうのほうかな」
ただ黄金の海原が続く、その先を子供が指差す。
よく分からない方向だ。
気がついたら山以外何もない麦畑だったのだから。
「合っているかどうか、わからないや」
「じゃあさ…」
「うん?」
「遊ぼうよ」
「どうして?」
「遊んでるうちに思い出すよ、きっと…」
「そうかなぁ…」
「そうだよ、きっと…」
「じゃあ、そうするかぁ…」
「うんっ」
そう言うと、少女の顔が和らいだ。
その日以来、ぼくは彼女とよく遊ぶようになった。
夕日の町中を歩いていると、いつしかその場所に辿りついていたのだ。
麦畑は、広大な遊び場だった。
しゃがめばその姿を隠せたし、走れば麦の海を泳いでいるような心地よさがえられた。
少女はよく笑い、よく走った。
「さあ、いくよ」
少女の声が近くから聞こえる。
それは狩りの合図だ。
かさささっ、という音と共に麦畑が大きく揺れる。
来るっ! そう思って身構えたところで、がさりと一際大きな音が鳴り、しんとなる。
気配を消された。
でも、もう近くにいる。
「どこに……?」
恐る恐る麦が揺れた最後の場所へと足を進める。
少女は……いない。
息を殺して周りを伺っていると、背後から音がした。
かさささっ、と急速にこっちに向かってくる。
「かくご―!」
「うわぁっ!」
体勢が崩れたところに、少女が飛び掛かってくる。
僕はあっさりと少女に馬乗りにされ、両手を抑えつけられた。
「えへへー、あたしの勝ち」
「くっそー。柔道で投げてやろうと思ったのに」
僕らがやってるのは狩りごっこ。
鬼ごっこに、相手の捕獲を混ぜた遊びだ。
馬乗りになれば勝ち。
ちょっと危ない感じもするが、ここは麦畑。
倒れても麦がクッションになってくれた。
「もっと鋭くならないとね」
「じゃあ、もう一回」
「うんっ」
そして少女の姿が麦の中に消えていく。
今度は速攻だ。
急いで追いかけて、少女を捕まえてやる。
そう意気込むが……。
「あ、あれ? どこに?」
「ええーい!」
「うがーっ!!」
あっさりと返り討ちにあった。
よく考えたら当然だ。
少女はずっと麦畑で遊んでいた麦畑の達人なんだから。
よく考えたらずるい。
「またあたしの勝ちだね。ダメだよ、もっと敏感にならなきゃ」
夕日を浴びた少女が、誇らしげにぼくを見下ろしている。
「なれと言われてもよく分からないよ」
「せめて姿ぐらい隠さなきゃ。丸見えだよ」
「そんなの男らしくない。男は正面から力で行くんだ」
「じゃあ、あたしは女らしく隠れて狩るよ。ライオンみたいにね」
にこっと微笑んで右手を差し出す少女。
ちぇ、と思いながらその手を取って起き上がる。
確かに、ライオンはメスの方が狩りがうまいのだ。
「いつか必ず勝ってやる! 今日のことは覚えてろよ!」
「きょうは?」
「うん、ほら」
山際を指差す。
夕日は今にも沈みそうだった。
少女はそれを見て、寂しそうに呟く。
「あ……もうこんな時間なんだ」
「ぼく、帰らなきゃ。また明日来るよ」
「うん、あたしもそろそろ帰らなきゃ。外まで送るね」
「頼むよ。ぼく、どうもここでは方向音痴みたいなんだ」
どういうわけか、麦畑はとにかく広い。
一人だと迷って出られないのだ。
なのに、少女についていくとなぜか簡単に外に出られる。
不思議だなあと思いながらも、いつものように少女について行こうとした。
あ、でもその前に。
「ちょっと待っててくれるかな」
「どうしたの?」
「家まで遠いから、ここでしていく」
「あ、あたしもいっしょにするよ。勝負しよっ」
そう言うと、少女はワンピースの裾をまくり上げた。
やっぱり今日もパンツははいてない。
いつもはいてないのかって訊いたら、ここに遊びに来る時だけって言っていた。
女の子はふかないといけなから、こんなトイレのないところではパンツなんかはいてない方が楽なんだって。
その話を聞いた時、ぼくは涼しそうでいいねってよく分からないことを言っていた。
「お先に」
「あ、ずるいぞ!」
ぼくが準備をする前に、少女はおしっこをはじめた。
少女のおしっこは凄く飛ぶ。
女の子が立っておしっこを出来ること自体驚きだったけど、それより、今までとばしっこした誰よりもよく飛ぶのが驚きだった。
少女はぼくみたいに、そのためのものを持ってない。
そんなハンデがあるはずなのに、少女は誰よりも遠くへ飛ばしてみせた。
でも、男の誇りに賭けて負けるわけには行かない。
立ちションもとばしっこも、男の『せんばいとっきょ』なんだ。
チャックを下ろし、いつものようにパンツの切れ目に指を入れる。
取り出した男の誇りに指を添え、水平より上に10°くらい持ち上げて……。
「○△×~~~~っ!」
どんがらがっしゃーーん!
そんないかにも分かりやすい、崩壊音を立てて、私は机とイスをいくつか巻き込み、ひっくり返っていた。
いや、そんなことより、指!
生温かくて、ぶにぶにしたあの感触……私には存在しないはずの器官を触っていた感触に、触られていた感触。
気がついたら、震える右指を呆然と見つめつつ、妙なモヤモヤ感を覚える股間を押さえている私がいた。
よかった……付いてない。
え、いや、無くなってしまった?
いやいやいや、あんなの私にはついてない。
でも、この股間に感じる喪失感は……。
どうも腑に落ちずに、平らな股間をさすり続ける。
「あっはっはっはっはっ、あはははははー! くるしー、美汐、何その格好?」
……目の前の宙を、右に左にと飛び回りながら大笑いしてるまいさんがいた。
がったんがったん、時折壁や机にぶつかって音を立ててるあたりは、まるっきり騒霊である。
いや、狐の眼を使ってなかったらまいさんは見えないわけで、ラップ音にポルターガイスト現象の不気味な光景が繰り広げられていたことだろう。
「……騙しましたね?」
「なにがー?」
左右のこめかみに人差し指をあてて、首を傾げる謎のチャーミングポーズを取るまいさん。
しかし、その露骨なごまかしで明白だった。
わざわざ口で話さずに、ああいう再生方式を取り、しかも途中中断して私に状況を受け入れるように仕向けたのは……。
「最後のあの……と、とば、とば……」
い、言えない。
仮にも乙女ともあろうものが、『とばしっこ』などという単語を口に出来るものか。
「あー、ごめんごめん。触らせてはもらったし、感覚も共有してみたけど、男の子の実感は違うかも。あたしもアレ持ってないし」
「んなっ!?」
「でもでも、大丈夫。そんな時の必携書がコレなのだ!」
ばばっ、とまいさんがどこからともなく取り出したものは、誰かの机から取ったのか保健体育の教科書。
……それと、男性用グラビア雑誌。俗称は省略しておきたい。
しかも多分『裏』の方。
「こっちのえっちな本に載ってるのはちょっとどうかと思うけど、子供のは結構可愛くてー」
ファッション誌でも女友達と語るような感覚で、まいさんが男性用グラビア雑誌をめくっていく。
「今だったらもっと詳しく調べられたと思うんだよね。特に中身の構造とか……むぐーっ!」
宙に浮いてるまいさんの裾をつかんで引き下ろし、手で思いっきり口を塞いだ。
これ以上聞いてたら頭がおかしくなりそうだ。
まいさんの話術にはまって、気がついたらないはずの器官の感触を追い求めている自分がいる。
「むーっ! むーっ! くるひぃ……」
「まいさんって呼吸してたんですか?」
「ん? あ、くるひくなひ」
苦しくない、とまいさんがもごもごしながら言う。
どうやら呼吸はしてないようだが、口をつかまれるとまともに発声できないらしい。
「よーしっ、じゃあテレパシーで続きを……ふにゃぁっ!?」
気がついたら、しゃがんでいた。
右手はまいさんの頭の上に。まいさんの頭は右手の下に。
まいさんの顔は教室の床と熱い接吻をしている。いや、むしろめり込んでいる。
つまり、まいさんの頭をつかんで地面に向かって押し潰したらしい。
べべんっ、とまいさんの頭に付いたウサギ耳が私の右手を跳ね上げた。
「な、何するの!?」
「あ。すみません、つい」
「痛かったよ! ものすっごく痛かったんだから!」
……それは顔を見ればよく分かる。
涙に鼻血らしきものまで出してる顔を見れば。
今頃、本体の舞さんも顔をさすってるんだろうか?
それにしても、あのウサギ耳は本当に自前なんだなとかどうでもいいところに感心してみる。
「まあ、その……私はああいう話、好きというわけではありませんので……」
「はいはい、ちょっとふざけすぎました。ごめんなさい」
よっこいしょ、とばかりに立ち上がって、小さな体で精一杯頭を下げるまいさん。
ウサギ耳までぺたんと倒しているその姿を見ると、許さざるを得なくなる。
はぁ、やっぱりかわいさってのはずるい。
「今度から、ああいうのはなしにしてくださいよ」
「うん」
無邪気な笑顔でまいさんが頷く。
……この顔、かえって裏がありそうに見えるのは気のせいだろうか?
一応、信用しておこう。一応。
でも、少しだけ気になる。
「まいさん」
「なにかな?」
「その、最後のあれは本当なんですか?」
「とばしっこ?」
「え、ええ……まあ……」
なんでこの人は、こうためらいもなくそんなことが言えるんだろうか?
「もちろん本当だよ。だって、嘘の記憶があんなにリアルに再現できるわけないよ」
「ですが……その……まいさんは女の子なわけで」
回想の中の子供の言葉を借りれば、あんなのは男の子の専売特許であるはずだし、何よりリーチ0の女の子に対して、男の子は……。
ぼぼっ、と顔が火を吹いた。
ズボンのチャックから出てきたものと、あの感触がリアルに思い出される。
――はじめまして お父さん。
――わたし ちじょです。
い、いけない。
生き別れになっていた父に、衝撃の名乗りを上げる娘のシーンが頭に浮かんでしまった。
「んー、姿勢にもよるけど、飛ばそうと思えば飛ばせるよ?」
「そうなんですか?」
「うん。それに、勢いなら女の子の方が強いから、とばしっこは本当は女の子の専売特許なんだよ」
「そ、そうだったんですか」
思わず、自分の股間を見つめてしまう。
知らなかった。この、平べったいだけの丘陵にそんな底力が隠されていたなんて……。
「みーしーおー」
びくっ!
何やら意味深な声と共に、にまーっと笑みを浮かべたまいさんが視界に入ってくる。
まずい。これはまずい。
絶対よからぬことを考えてる。
「美汐はこういう話の方が好きだったんだー、わふー」
というか、股間に頬を押し当ててさすりさすりされていた。
あっ、そのっ、やわらかい頬でそんなに優しくされると……じゃなくて!
「な、何でそんなにまいさんはえっちなんですか!?」
「気にしない気にしない。女の子どーしなんだから。あ、美汐もつるぺたなんだぁ。おそろいだねー」
ウサギ耳をつかんで引き剥がそうとしたら、今度は胸に頬を埋められた。
何やら、私が喜ぶべきではないような事柄に感激されてる。
もう、正直ぶっちゃけ泣いていいですか?
「質問の答えになってません! というか離れてください!」
「ん、答えを言うなら、あたしは早熟ってことかな?」
「離れる方が本題です!」
「まあ、もっと分かりやすく言うとー……」
聞いてない。もうこうなったら……。
考えるより先に、右手はまいさんの頭に乗せられていた。
まいさんは目を細めて語りに集中してるので、気付いてない。
「性欲を持てあま……むぎゅっ!?」
……ふぅ、静かになった。
胸に手を置いて大きく息を吐き出しながら額の汗を拭う。
首から先が床に刺さってる半透明のものが足元に見えるが、気にしない。
「な、何するの!? 普通の人間なら死んでるよ!」
「普通の人間は床を砕かずに地面に頭をめり込ませるなんて芸当出来ません」
「ちえっ、バレてたか。おおげさすぎたかなぁ」
まいさんは残念そうにウソ泣きの涙を拭って溜息をついた。
と、思ったら、まいさんの姿がすぅーっと薄くなっていく。
え? ひょっとして今ので……!?
「あー、違うよ。今日はもう時間みたいだね」
「あ…そういえば結構長かったですね」
まいさんは他の魔物を押さえるために力を使っているので、何時間も出現していることが出来ない。
どうやら、今日もその時間が来たようだ。
「でもね、美汐。あたし、美汐にもっとああいうことに興味持って欲しいなって思うの」
「……え?」
「その、えっちなこと」
ぶっ、と噴き出しそうになるが、まいさんの表情は至極真面目でさっきのおちゃらけた様子はまるでない。
どうやら本気で言ってるらしい。
「私に、痴女になれと?」
「……なりたかったの?」
「いえ、全力で拒否します。それ以前に過去形にして、将来の夢だったみたいに言わないでください」
「あははっ、そうだよねー。美汐ってとんがってるけど、女の子っぽいし、かわいいしね」
本当……なのだろうか?
くすっと微笑んでるまいさんの顔は、ただひたすら優しそうで……嘘ではないのだと思う。
「だからね、美汐には恋をして幸せな女の子になって欲しいの。もちろんえっちなことも含めてね」
「なんでそこにこだわるんですか……」
そこ、とはもちろん『えっち』のことだ。
すると、まいさんは予想に反して寂しそうに呟いた。
「だって、あたしはもうそんなこと許されない体になっちゃったから」
「あ……」
「いっつも考えてるよ。大好きな人に抱かれるってどんな気持ちなの、とか。優しくされるってどんな感じなの、とか」
「ご、ごめんなさい」
そうだったのだ。
まいさんはもう人間ではない。人間のような生き方を許されていない。
そんなまいさんにとって、そういうことはとても羨ましいことなのだろう。
まいさんの立場に立つと、その気持ちはよく分かる。
だって、私もまいさんと同じ女の子なのだから……。
言葉に困っていると、もう随分薄くなってきたまいさんが、ふわりと私の前に浮き上がり、頬に軽くキスをした。
そして、照れた表情で手を振る。
「ありがと美汐。楽しかったよ。また今度続き見てくれるよね?」
「はい、『友達』ですから」
「うんっ」
ほろ甘い女の子同士の友情に乾杯したい気分のままさようなら。
……とは行かないのですよね。
(あぅ~、もう食べられないよぉ)
「…………」
「…………」
机の上で白いお腹を見せて、大口を開けて寝言を漏らしている小動物に二人の視線が注がれる。
夜行性じゃなかったのですか?
「自分に都合のいい幻術を自分にかけてるよ……」
「寝てるんじゃなかったんですか?」
「んー、多分あたしの力を無意識に真似たんだと思うんだけど。真琴って普通の狐じゃないんでしょ?」
「ええ、まあ」
「そんなことよりも気になるのは」
「そうですね」
二人の視線が交錯し、頷き合う。
「いったい、いつから……?」
真琴ステルスモード習得。
これ、『狐につままれる』の設定的にも欲しい機能でしたが、もっと重要な意味があります。
真琴の行動制限が解かれるんですね。
いつまでも隠れてなきゃならないなんて真琴が辛抱できるとも思えませんし、このへんでその制限解いてやりたいと思ってました。
そして、ゲストで名雪登場。
彼女を見ると、Trilogy本編のことが思い出されて涙が出てきます。
とはいえ、それはこれからまだ一年後の話。
まだあゆのことも知らない、ある意味一番平和な頃の彼女です。
……偽りですけどね。
後、女の子のまめちしきー。
女の子は男の子より尿道が短く、膀胱直下に尿道口があります。
そのため、凄い勢いでおしっこが飛び出します。
尿道口が前向きについている人だと、前に向かって激しい勢いで飛ぶことになり、実は男の子よりも遥かに飛距離が出るそうです。
また、女の子の立ちションは昔はよくありました。
国によっては男の子が座ってして、女の子が立ってするということもあったようです。
男の子が尿に関して女の子に明らかに勝っているのは、狙った方向に飛ばせるという一点だけだったんですね。
……って、まいがいってました。
本当かどうかは知りません。