『もう一つの物語』   作:ミサ菓子折(LRA)

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1月18日(月曜日)

 

 

     1月18日(月曜日)

 

 

 長い夜から一日が過ぎた。

「昼飯どうする?」

「俺今日は弁当」

「やばいよやばいよ。次の時間の宿題やってない」

「また? あんたいつもそれじゃない」

 教師が去ってにわかに騒がしくなった昼時の教室。

 いつもはその賑わいがイライラしてたまらないのに……。

 何故か今日はそれがこんなにも懐かしい。

「食堂行こっ」

「えー、メンドイー」

 帰ってきたんだ。

 いつも通りの日常に。

 日常と呼ばれる世界は、まだこうしてここにある。

 そのことに私は大きな安堵を覚えた。

 

 

 いつも通り、真琴の様子を見に屋上前の踊り場に向かう。

 もう何度も通ったのに、屋上に続く階段の一段一段が懐かしい。

 同じ階段でも、陽光の差し込むこの階段とあの異界の階段の感触は大違いだ。

 踏みしめるごとに力が湧いてくるような気がする。

 何を考えてるのだろう私は。

 存在することさえ億劫だったこの世界に、こんなにも親しみを覚えているなんて。

「あ、美汐ちゃん。ちょうどいいところに」

 上から降ってきた声に顔を上げると、そこには既に二人と一匹の姿があった。

 佐祐理さんが、こちらに手を振っている。

 それも何が嬉しいのか分からないくらいの笑顔で。

「……何ですか?」

 イラっときた。

 読書に熱中しているこちらの気持ちも知らず、傍でワーとかキャーとか喚き散らす子供。

 周りの目などまるでお構いなしに、涼しい顔で子供達にさせたいままにする親。

 それらを目にした時のような不快感が湧き上がる。

 私は日常を見ていたかっただけだ。

 日常に喧しく介入して欲しかったわけじゃない。

 イライラする。

 この倉田佐祐理という人を見ていると、何故か気持ちがざらつく。

 他の人間なら無視できるのに、何故彼女だけはこうも勘に触るのか。

 彼女のような人間が舞さんとつるんでいるのが気に入らない?

 いや……それも少なからずあるだろうけど、違う。

 気に入らない人間が友人の傍にいれば、邪魔に思うのは当然の流れだろう。

 順序が逆だ。

 彼女が嫌いだから、舞さんの傍にいるのが気に食わないのであって、舞さんの傍にいるから嫌いなんじゃない。

(美汐ー。早く上がってきてよ)

 

 

 真琴の呑気な声で我に返る。

「早く来て。食事が始められない」

(舞はもう食べてるじゃない)

「……タコさんウインナー、欲しいの?」

(あ、うんっ! ちょうだい!)

 会話通じてないし、脈絡も通ってないけど……まあ、いいか。

 黙っておこう、平和そうだし。

「美汐」

「え? あ、はい?」

「…どうすればいい?」

 どうすればいい、って何が?

 舞さんが困ったように見えないこともない、微妙な表情変化をみせつつ視線を手に持った箸に向ける。

 その先には、舞さんの差し出したウインナーにばくついた真琴の姿があった。

「いや、どうすればと訊かれましても」

 だからどうしたと言うんですか……?

 と、言葉に詰まっていると、舞さんが箸を持つ右腕を高く上げた。

 すると、真琴が箸の先でぷらんぷらん……。

「真琴が釣れた」

(あぅあぅ)

「ぶっ!」

 思わず噴いた。

 そして、同時にダッシュ。

 踊り場から二段跳びに階段を駆け上がり、マヌケな格好で箸に釣られている子狐の体を掴み、強引に箸から口を引き抜いた。

「何をやってるんですか!」

(噛み付いたら、牙がお箸にひっかかったのよぅ)

 怒らないでぇ、と涙目でうるうる嘆願する子狐。

 前足で指し示す口には、確かにキザギザの牙が並んでいた。

 これなら箸が間に入り込むのも無理はない。

「舞さんも、わざわざ釣り上げないでください。カジキマグロじゃないんですから」

「……状況を説明しようと思ったから」

 説明しなくても、頭押さえて箸引っ張り出せば済む話じゃないですか。

 と、言いたいところを堪える。

 既に興味が次のオカズに移っている舞さんに、今さらそれを言っても無駄だ。

「あははーっ。舞、危ないから真琴ちゃんにお箸を出したらダメだよ」

「……卵焼き、おいしい」

「あ、うん。今日のは自信作なの。美汐ちゃんもどうですか?」

「私は結構です」

 イライラする理由が分かった気がする。

 舞さんや真琴の言葉には何も打算がない。

 それに比べて、この人の言葉はいちいち小賢しすぎるのだ。

 今のやり取りにしてもそうだ。

 必死に舞さんの傍にいようと、会話が成立しているように取り繕っている。

「はぇ、そうですか。残念です。じゃあ、美汐ちゃんも揃ったところで、お昼にしましょう」

 私に対してもだ。

 お嬢の気まぐれなのだろうか、浅ましい人だ。

(美汐、早く食べようよ。このままじゃ、舞一人で全部食べちゃう)

「ええ、そうですね。お昼にしましょう」

 これ以上イラついていても仕方ない。

 せっかく帰ってきた日常なんだ。

 今は大人しくその味を噛みしめよう。

 

 

 今日のお弁当を広げてしばらく。

「あ、そういえば……美汐ちゃんに見て欲しいものがあったんです」

 佐祐理さんが、思い出したようにぽんと手を叩いた。

 そして、足元に置いてあった何かを私に差し出す。

「……ポスター?」

 きらびやかに光る大きなホール。

 真っ白なテーブルやろうそく、そして豪華な食事が並べられているという、どこかの王宮のような映像がプリントされているポスターだった。

「何ですか? このロマノフ王朝は?」

 とりあえず、思った感想を口にする。

 何でロマノフなのかは分からないが、とにかくロマノフな感じがしたからだ。

「舞踏会のポスターですよ。下に書いてませんか?」

「……歯型がたくさん付いてて読めません」

 ポスターの下部には、『平成11年度学園舞踏会』という題字がついていたらしい。

 しかし、言われてみないと判別不能なほどに、舞踏会の部分がぐちゃぐちゃに破損していた。

 というか、ヨダレまみれになってる。

 誰がこれをこのような状態にしたのかは……もはや言うまでもない。

「真琴ちゃんが咥えて持ってきたんです。でも、何のことか佐祐理には分からなくて」

「はあ……」

 生返事をしながら、真琴を睨みつける。

 学校ではおとなしくするように言っていたのに、どこからこれを引っぺがしてきたのか。

 ポスターの四つ角には、セロハンテープの名残が見られる。

(あー、そうそう。美汐、それって何?)

「何、って言われても、私も知りませんよ。佐祐理さん、何なんですかこれは?」

 平成11年度学園舞踏会って、この学校で催されるのだろうか?

 そんなまさか。

 どこかのダンスホールから回ってきたチラシに決まってる。

「はぇ? 書いてある通り、明後日体育館で開かれる恒例の舞踏会ですよ?」

 ……そのまさかだった。

「本気ですか?」

「あははーっ、佐祐理に訊かれましても」

 それもそうだ。

 主催は学校であって佐祐理さんではないんだから、本気かどうか訊いても佐祐理さんは苦笑いするしかないだろう。

「学校で舞踏会なんて、初めて知りました」

「美汐ちゃんは一年生だから仕方ないですよ。結構驚く人いるみたいですし」

「制服もどこか古臭いと思ってましたけど、古風な伝統があるんですね」

 どうやら、この学校にはロマノフ王朝の怨念が巣食っているらしい。

 変な学校に入ってしまったものだ。

 

 

 まあ、それはともかく、ものがはっきりしたので真琴に教えてあげよう。

「これはですね、真琴。舞踏会といって、踊りを踊るお祭りです」

(あぅ、そんなことはどうでもいいんだけど)

「はい?」

 そんなことはどうでもいいって、じゃあ何でこれを持ってきたんですか?

 思わず顔をしかめた私の手から、真琴はポスターをかぷっと奪い取る。

 哀れ、今度こそ『舞踏会』の部分はビリビリに破れてしまった。

 しかし、真琴にはどうでもいいことだったらしく、口に残った切れ端をぷいっと横に捨て、前足でペシペシとポスターの中腹を叩いた。

 そこにあった文字は……『食べ放題』。

(ねえ、美汐……)

「駄目です」

 言いおわる前に拒否。

 何を言うつもりだったかなんて、聞くまでもない。

 ねえ、美汐。舞踏会行こっ。

 間違いなくコレだ。

「美汐ちゃん、何て言ってるんですか?」

「食べ放題行きたいから舞踏会行きたい、だそうです」

(あ、うんうん。なんだ、美汐分かってるじゃない。じゃあ……)

「だから、駄目だと言ってるじゃないですか! 狐なんか連れて行けるわけないでしょう!」

(あぅっ!?)

 何がじゃあ、だ。何が。

 せめて人に化けられるようになってから言ってください。

(分かったわよぅ。それだったら、人化の術で……)

「そんな下らないことに、命かけないでください!」

 頭痛がしてきた。

 命捨ててまで食い気に走るなら、せめて高級ホテルのバイキングにして欲しい。

 『※参加費無料』と書いてあるところを見ると、どう贔屓目に見たって学食レベルの食べ放題。

 そんなのに命賭けるなんて、犬死に以外の何でもない。

 狐の犬死なんて笑えない冗談だ。

 

「…食べ放題?」

 

 ……舞さん、あなたもですか。

 食事に熱中していると思ったら、彼女はその単語だけを聞き逃しはしなかった。

(そう、舞踏会に食べ放題があるんだよ、舞)

「舞踏会が食べ放題なの?」

 ああ、もう余計頭痛くなってきた。

 真琴の言葉は舞さんに通じてないだろうけど、発言がすれ違い気味に同レベル。

 舞さん、あなたには人間のプライドってないんですか?

(うん、舞踏会に行けば食べ放題)

「……そう」

 と思ったら、今度は意思まで通じ合わせて頷きあってる。

 舞さん、完全に動物レベルまで堕ちましたね。

 おそらく二人の意思を通じ合わせたのは、真琴の口から垂れてるヨダレ。

 舞さんは、真琴の口元を見ながらこくこくとしきりに頷いている。

 そして、真面目な顔をして佐祐理さんの方を見た。

「佐祐理、私も舞踏会に行きたい」

 ……もうどうにでもなれ。

 後にも先にも、踊る気なしで舞踏会に足を踏み入れようと思ったのはこの二匹だけだろう。

「あははーっ、佐祐理も舞となら行きたいけど、舞踏会はドレスがないと入れてもらえないよ」

「……そう」

 がっくりと肩を落として、舞さんは食事に視線を戻す。

 よかった。

 ここで佐祐理さんに『行きましょう』と言われたら、『舞だけずるい』と真琴がごねるのは目に見えている。

 舞踏会なんて、どんな人種が行くのか想像も出来ない。

 少なくとも、私には場違いなのは間違いないだろう。

 それに、魔物を倒さなければ、町が全て消えるかもしれないというのに踊ってる場合じゃない。

(ううう……)

「諦めてください、真琴。ドレスも用意出来ないんですから」

(あぅー)

 真琴ならステルスモードで潜入出来なくもないだろうけど、これは言わないでおこう。

 騒ぎを起こさずに済むとは思えないし、悪戯狐を入れるなんて舞踏会の参加者達に迷惑だ。

 

「…ただなのに、もったいない」

「え? 舞、何か言った?」

「何でもない。お茶」

「あ、今すぐ出すから待ってね」

 

 今、舞さんが何か心の狭いことを佐祐理さんに言ってた気がするけど、気のせいということにしておこう。

 きっと、こういう客を追い出すためにドレス着用が義務付けられているんだろう、と思う私だった。

 

 

 

 

 

 

 夜の学校に足を運ぶ。

 昨日の戦いが嘘のように静まり返っていた。

 そして、やはり昨日のことなど何事もなかったかのように、剣士は廊下に佇んでいるのだった。

「こんばんは」

 月並みな挨拶をすると、ちらっと私を見ながら舞さんはこくりと頷いた。

 が、すぐに視線を私の足元へと移す。

「…おいで」

(うんっ)

 てててっと、舞さんの差し出した手に飛びつく真琴。

 剣士は本当に動物が好きだ。

「こうしてていい?」

「どうぞ。好きなだけ弄んでやってください」

(ちょっと、美汐。弄ぶって何なの……あぅっ!?)

 言うが早いか、真琴は舞さんにきゅーっと抱きしめられた。

 腕の隙間から、だらんと垂れた後ろ足がピクピク痙攣している。

 舞さん、それハグじゃなくてチョークです。

 でも、敢えて止めない。

 愛し合う二人を止めることなど、私には出来ないのだから。

(み、美汐、向こう見てないで助けてよ!)

「知りません」

 いくら動物好きと分かっていても、受け入れられないこともある。

 真琴と私で、扱いがあまりに違う。

 嫉妬したくもなるというものだ。

「キツネさん、あったかい」

(ま、舞、苦しい。胸に鼻が埋まって……ふがが)

 そう、これは真琴への嫉妬なのだ。

 絶対に舞さんへの嫉妬なんかじゃない。絶対に。

「それで、どうします? また、上と下からですか?」

 最近分かってきたことだが、魔物もまったく考えなしではないらしい。

 動物的本能というか、そういう類のものはあるらしく、こうして舞さんと二人で待ち構えていると警戒されるらしい。

 つまり、なかなか襲ってくる気配がない。

 逆を言えば、敢えて単独行動を取れば、誘い出せるというわけだ。

「……今日は、いい」

 だけど、舞さんは固く口を結んで首を振った。

 魔物に執着している舞さんの言葉とは思えない。

「…それで、昨日は真琴が傷ついた」

「そう、ですね……」

 私も、やられたんですけどね。

 と言いたくなったけど、やめておく。

 少しは考えてくれているだろうし、そんな下らないことで言い争っても仕方ない。

「……キツネさん、あったかい」

 ……考えてくれてるのだろうか。

 真琴をマフラーにして遊んでいる舞さんを見ていると、私の存在意義が何か悲しくなってきた。

 

 

 30分ほど時間が経過した。

 校舎はしんと静まり返り、何の胎動も感じない。

 立っているだけ無意味な空間。

 もともと、夜の学校とはそういう場所だ。

 しかし、『何もない』では困るのだ。

 何もないところで、ぼーっとしているために、ここにいるわけではない。

「舞さん」

(あうっ!?)

 私の声に、真琴を頭の上に乗せて、させたいようにさせていた舞さんがこちらを振り向く。

 反動で真琴が転がり落ちかけたが、舞さんは頭の後ろに手を回してしっかりと受け止めていた。

「私、下のほうを見てきます。真琴のこと、お願いしていいですか?」

 特に何も反応は示さないだろう。

 そう思って背を向けようとすると、舞さんは思いのほか真剣な表情でこちらを見つめていた。

 自然と、私の足も止まる。

「…危険」

「危険は承知です。ですが、待ち構えていても魔物が出てくる気配がありません」

 危険を冒すものが勝利する。

 どこかの軍の言葉だったと思うけど、そんな格言が頭に浮かぶ。

「どうして?」

 そんな私に舞さんが投げかけたのは、これまた予想外にも疑問の言葉だった。

 腑に落ちない、そんな視線を私に向けてきている。

「どうして、とは?」

「どうして、魔物にこだわるの?」

「変なことを言いますね。魔物にこだわってるのは、舞さんの方じゃないですか」

「私は魔物を討つ者だから。…だから、戦う」

 でも、あなたは違うはずだ。

 あなたが魔物と戦う意味はないのに、どうして積極的に魔物を求める?

 短い言葉の中に、そんな疑問が込められているのを感じだ。

「前にも言ったかもしれませんが、ある人と魔物を倒す約束をしたんです。だから、私はここにいます」

 約束したのは、他ならぬあなた自身となんですけどね。

「……そう」

 だが、そこまでだった。

 舞さんは、それ以上追求しようとせず、再び胸元に持ってきた真琴に目を向ける。

 私が頼んだように、真琴のことを見てくれているのだろう。

 

 

 どうしたものだろうか。

 昨日の魔物との戦い、結局、私では決着をつけられなかった。

 それは舞さんも同じで、二人と一匹の力を合わせてなんとか勝利することが出来たのだ。

 今後の魔物との戦いを考えると、やはり舞さんの戦力はあてになる。

 少なからず興味を持ってくれた今のうちに、状況を説明して協力してもらうべきか?

 ふとした思い付きではあったけど、それがいいのではないかと思えた。

 上手く説明できれば、魔物が自分自身であることを理解してもらえて、この戦いそのものも終わってくれるかもしれない。

 少なくとも、なんとか私達と連携を取れる形に持っていければ……。

「舞さん。魔物退治の約束をした人のことなんですけど……」

 そして、私がそれを口にしようとした時……。

 

「ああああああああああっ!」

 

 突如、闇をつんざく悲鳴が校舎を揺らした。

 比喩ではなく、本当に揺れたのだ。

 何か、衝撃波のような物が頬に当たった気がした。

 それが気のせいでないと、蛍光灯がパリンと砕け散る音で理解する。

「…今のは!?」

 険しい目つきで、舞さんが剣を構えてあたりを見回す。

 だけど、舞さんから振り落とされた真琴は、不安そうな表情で私を見上げるだけ。

「真琴」

(うん)

 二人で顔を合わせて、頷きあった。

 やっぱりそうだ。

 今の悲鳴、舞さんには聞こえていない。

 舞さんが気付いたのは、一陣の風と蛍光灯が割れた音だけだろう。

 だから、魔物の襲撃を警戒している。

 でも、私達にはここに魔物の襲撃がないことが分かっていた。

 なぜなら、その悲鳴は……。

(今の、まいだったよね?)

「ええ、間違いないです」

 他ならぬ、まいさんの悲鳴だったからだ。

 襲われたのだろうか? 他の魔物に。

 とにかく、今の悲鳴はただごとではない。

 ちらっと、舞さんの方に目を向ける。

 舞さんは、いまだ警戒を解かず周囲を伺っていた。

 少し悪い気もするけど、今は悲鳴を上げたもう一人の舞さんの方が心配だ。

 こっちの舞さんには、このままここで困惑しておいてもらおう。

「舞さん、すみません。急用を思い出したので、帰ります。真琴!」

(うんっ!)

 一方的に用件を伝えて、真琴と共にその場から駆け出す。

 ただひたすら、私達の友達が待つあの教室へと向かって。

 

 

 舞さんには帰ったと見せかけるよう旧校舎まで引き返し、そこから階段を駆け上がる。

 一段飛ばしで。おそらく、狐の眼を切ればあたりは漆黒の闇であろう。

 そんな闇の中を、一人と一匹が駆ける。

 4階渡り廊下を抜ければ、再び新校舎。

 目的の教室が見えてきた。

 いるのだろうか、あそこに?

(美汐、いるよ。まい、あそこにいる!)

 まいさんの気配か匂いを感じ取ったのだろう。

 真琴が一抹の不安を取り払ってくれた。

 いるなら、あとはそこに向かうだけだ。

 無愛想に佇む扉に手をかけ、迷うことなく開け放つ。

 

 

 ザ、ザザ……。

 

 

 ラジオのノイズのような音がしたと思ったら、あたりが漆黒の闇に包まれた。

「これは、一体? 真琴?」

 返事はない。

 姿を探そうにも、あたり一面黒で何も見えない。

 狐の眼は開いているはずなのに真っ暗だ。

 私は墨の海にでも落ちたのだろうか?

「まいさん! 真琴!」

 声を上げながら走る。

 しかし、真っ黒で何も見えない。

 ちょっと待て。危険ではないのか?

 こんな何も見えないところで走ったりなんかして、もし床がなかったりしたら……。

 そもそも、私は今前後左右どっちを向いているのか?

 まずは落ち着くべきだ。

 足を止める。深呼吸をする。

 そして、最後にまばたきをした時……。

 突然、足元の床がが抜けたような感覚に襲われ、私の意識は今度こそ闇へと吸い込まれていった。

 

 

 

 

 ザ、ザザザ、ザー……。

 

 

 夕明かりが、街外れの寂しい電話ボックスを照らしている。

 そこで、あたしは必死に受話器を握りしめていた。

「ねぇ、助けてほしいのっ」

「どうしたのさ」

 今日、あの子は来なかった。

 あの場所に毎日来てくれたのに。

「…魔物がくるのっ」

「魔物?」

「いつもの遊び場所にっ…」

「だから守らなくちゃっ…ふたりで守ろうよっ」

「あたしたちの遊び場所で、もう遊べなくなるよっ」

「昨日は言えなかったけど、今から実家に帰るんだ」

「だから、またいつか遊ぼうよ」

 嫌! 行かないで!

 あなただけは違うと思ったのに!

「ウソじゃないよっ…ほんとだよっ」

 本当だよ。

 魔物はちゃんと用意したんだよ。

「魔物なんてどこにもいないよ」

「ほんとうにくるんだよっ…あたしひとりじゃ守れないよっ…」

「一緒に守ってよっ…ふたりの遊び場所だよっ…」

「待ってるからっ…ひとりで戦ってるからっ…」

 お願い! そう言おうとした時だった。

 ぶつん。

 無機質な音を立てて、電話が途切れる。

 あたしの最後の願いを届けないまま。

 もう、お金がない。

 ジジジっと、耳障りな音を立てて点滅し始めた電信柱の明かりを、ただじっと見つめていた。

 予感はしていた。

 あたしには不思議な力があったから。

 だけど、結果を知るのが怖かった。

 あの日、力に目覚めた時から、未来や人の考えも時々読めるようになってしまった。

 でも、それはいつも不安定。

 知りたいことだけじゃなくて、知りたくないことにも反応する。

 どちらかというと、悪い予感の方がよく当たった。

 今日も突然だった。

 いつものように麦畑で待っていると、突然『あの子はもう来ない』そんな予感がした。

 麦畑に戻っても、きっとあの子は来ていない。

 電話越しに、あたしの言葉に呆れている感情が伝わってきた。

 特別な人だと思ったのに……。

 結局、あの子も、あたしをそういう目で見るんだ。

 ジジジ、と電灯はしつこく点滅を続けている。

 その光が完全に灯ることはない。

 こんな街外れだから、誰も取替えに来ないのだろうか?

 ひとりぼっち、誰かに気付かれることもなく。

 そう思っていた矢先、ぶつんと嫌な音がして電灯はそれっきり静かになってしまった。

 夕闇が電話ボックスを飲み込んでいく。

 光に集まり始めた夏の虫達は、もうどこかへ行ってしまった。

 

 

 あたしは、とぼとぼと麦畑への道を帰り始める。

 そして、見てしまった。

 力に例外なんてないことを。

 そこに奇跡なんてありはしなかったことを。

 麦畑には誰も待っていなかった。

 あたしは、またいつもの独りぼっち。

 薄暗い麦畑の中、たったひとり。

 

 カサッ……。

 

 何か、物音がした。

 それは麦を踏み分ける音。

 もしかして、あの子は来てくれた……?

 

 だけど、そこには何も見えなかった。

 麦が、踏みつけられたように左右に広がっているだけ。

「う、あ、あああ……」

 だけど、あたしはそこに何がいるか知っている。

 それはあたしがウソのために用意した見えない魔物。

 力を使って、野犬っぽい何かを作った。あの子と一緒に退治ごっこするために。

 そいつが、『用は済んだか? さあ、戻せ』と、あたしのそばにすり寄ってくる。

 

「……いや」

 

 この力は、お母さんを助けてくれた力。

 お母さんだって、とても素晴らしい力だっていってくれた。

 それは『かみさまのちから』だって。

 だから、嫌っちゃいけない。

 

「来ないで!」

 

 だけど、もう嫌!

 こんな力があるから、みんなから嫌われる。

 みんなあたしから離れていく。

 あの子も離れていった。

 こんな力のせいで。こんな力を持ったせいで!

 

「出て行って!」

 

 全部追い出してやる!

 あたしの中から、憎いこの力を全部!

 

「全部全部、出て行け! あたしの中から出て行け!」

 

 麦畑に身を投げ出し、頭を何度も地面に叩きつけた。

 追い出してやる!

 あたしを不幸にするこの力を、全部全部追い出してやる!

 全部追い出して、魔物にして、やっつけてやる!

 こんな力なんて……こんな力なんて……!

 欲しくもなかったよ!

 

 

 ザ、ザザザ、ザー……。

 ぶつん。

 

 

 

 

 

 う……あ……!?

「はっ、はぁっ……ぐっ!」

 また真っ暗になったかと思ったら、突然モノクロの世界に放り出された。

 酷い頭痛がする。視界がぐらついて、周りがぼやけている。

 まるで白黒の渦巻きだ。頭痛のする頭にこれは堪える。

 立ち上がろうとすると、膝に酷い痺れを覚れて腰が砕けた。

 麻痺した膝周りが冷たく、感覚がない。

 長時間、四つんばいになっていた?

 目を閉じ、頭を押さえて、呼吸を整える。

 気を落ち着かせると、頭痛はおさまってきた。

 うっすらと目を開けて、周りの様子を伺う。

 ここは、教室。夜の学校。

 そして、私は天野美汐……だと思う。

 いや、天野美汐で間違いない。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 よく子供向けの番組で悪役が洗脳装置なんてものを持ち出すが、それを使われたような気分だ。

 今もまだ、自分が自分であることに自信を持てない。

 別の誰かだったような、誰かの夢を見ていたような奇妙な感覚に襲われる。

 いきなり二人分の人格情報が頭にねじり込まれたのだ。

 頭が割れそうになる。

 

 

 机に手をかけ、立ち上がる。

 ようやく視界も元に戻ってきた。

 目の前に何か見える。

 こんもり膨らんだ、思わず素足で踏み付けてみたくなる形状の……。

(あうっ!?)

「あ、すみません。つい」

 と、思った時には、既に真琴の尻尾を踏んでいた。

(何するのよっ! あたしのかわいい尻尾に)

「いえ。ですから、つい」

(つい、で尻尾踏まれてたらたまらないわよぅ。もうっ)

 ぶつぶつ言いながら、真琴は身を起こすと、尻尾のよごれを落とそうと口元に尻尾を持っていこうとして……。

(あう?)

 すってん、とばかりに後ろにずっこけた。

 もう一度、立ち上がろうとしたけど、やっぱりまたすってんと後ろにコケる。

(うううう、周りがぐらぐらして気持ち悪い……)

「あなたもですか」

(美汐、どうにかして~)

「一応言っておきますが、真琴が話しかけてる美汐とかいうのはリコーダーです」

 リコーダーなのかは分からないが、とにかく机にかけられていた笛に向かって話しかけているのは間違いない。

 だいたい、どうにかしろと言われても、こっちもどうにかして欲しいわけで。

「とりあえず、目をつぶって大人しくしているとマシになりますよ」

(分かった。がんばってみる)

 ……何を?

 どうでもいいけど、尻尾の汚れを息で落としたいなら、寝ころんだままの方がよくないだろうか?

 一瞬、自分の尻尾を追いかけてグルグル回ってる子狐の姿が思い浮かんだ。

 

 

 と、それはともかく。

 頭痛が引いていくとともに、何をしにここに来たかを思い出す。

 そう、私達はまいさんの悲鳴を聞いてここに来たんだった。

 肝心のまいさんはどこに?

 少し歩きながら、きょろきょろとあたりを見回してみる。

(むぎゅ)

「なんでこっちに転がってくるんですかっ!」

 何故か踏み出した足の先に、真琴の柔らかいお腹があった。

 誰か説明してください。

 この子は一体何をやりたいのですか?

「そんなことしたら、余計に酔いが回るだけですよ。転がらないでじっとしててください」

(……だって、退屈)

「じゃあ、こうしましょう」

(あううううっ、お尻痛い! 頭に血が上ってるよ!)

「それだけはしゃぐ元気があれば、じきによくなりますよ」

 とりあえず、空いてる左手で尻尾をつかんで真琴を背中にかけておいた。

 完全にお持ち帰りされる獲物状態。

 うるさいけど、床を転がられるよりよっぽどいい。

 すぐ傍に落とした鉈が転がっていたし、いきなり踏むとこっちがびっくりするから。

 さて、まいさんは……と。

 もう一度よく教室を見回すと、教卓のところにふたつの盛り上がった何かが飛び出ているのを見つけた。

 間違いない。あれは、まいさんの頭に付いてる大きなウサギの耳だ。

 淡い光も漏れている。

「まいさん、そこですか?」

 だが、様子が変だ。

 耳は小刻みに揺れ、それにいつもははっきり見える青いオーラがなんとも弱々しい。

 よく見なければ、気付かないほどに暗いのだ。

「まいさん……?」

 ゆっくりと教卓の後ろに回りこむ。

 果たして、まいさんはそこにいた。

「うっ!?」

 だが、私はあまりの光景に思わず口を覆った。

 真琴の尻尾を握っていたのも忘れて、左手で反射的に。

(もう、いきなり離さないでよ。美汐はらんぼーなん……ど、どうしたの、まい!?)

 抗議の声を上げようとした真琴も、思わず息を飲んだ。

 そこで私達が見たのは、ずだずだに引き裂かれた血まみれの右腕を押さえて、壁にもたれながら苦しそうに息をしているまいさんの姿だった。

 

 

「どうしたんですか、まいさん!? この怪我は……」

 慌ててまいさんの元に駆け寄る。

 腕は、辛うじてついているといった有様だった。

「あー……みしお。こんばんはぁ」

 意外にも、まいさんは普通に返事をしてくれた。

「こんばんは、じゃないですよ!」

(そうだよ! 大丈夫なの、まい!?)

 私たちの手前、元気そうに取り繕おうとしてるのかもしれないが、腕の怪我は誰の目にも分かるほどの重傷だ。

 生きるの死ぬのなんて割とどうでもよさげな真琴ですら心配している。

「あー、うん。油断したわ……まさか、出現したタイミングとはねえ」

「出現したタイミング?」

「ちょっと待ってて。えいっ!」

 まいさんは、そう言って右手で怪我を負った左手を一撫でした。

 すると、傷が見る見るうちに塞がっていく。

「うん、これでよし。あー、痛かった」

 そういえば、まいさんには治癒能力があったんだった。

 じゃあ、心配する必要もなかったんだろうか。

「びっくりさせないで下さいよ。腕がダメになったんじゃないかって思ったじゃないですか」

「いやー、治ったのは見た目だけだね。もう、ほとんどくっついてるだけかな」

「えっ!?」

 軽い口調ですごく重いことを言われた。

 私が言葉を失っていると、まいさんはにっこり微笑みながら私の傍を飛んだ。

「言ったでしょ。魔物は舞の分身だって」

「あ、だから、倒したらダメージが跳ね返るって……」

「うん。なんもないからあたしの勘違いだったのかなあって思ってたんだけど……」

 そこでため息をつくまいさん。

 見た目だけはきれいに繋がった左手をさする。

「跳ね返りのタイミングが、出現の時だなんて思わないよね。てゆーか、未体験なんだから当然でしょ」

 ねーっ、とばかりにまいさんは私たちの周りを飛んで見せた。

(大丈夫なの?)

「ま、飛べるしね。他の魔物倒したところで動けるから問題なしだよ」

(そっか。よかった!)

 いや、真琴。

 我々、これから最短10日ほどでまいさんを殺さないといけないわけなんですが、それ分かってます?

 腕一本だけでこんな苦痛だったのだ。

 それをあと三回も繰り返さないといけないなんて……。

 今この場で、一思いに首をはねてやった方がマシなんじゃないだろうかとさえ思う。

「あー、もう、美汐ったら、またうじうじモードに入っちゃってる」

「えっ、いや……」

「前にも言ったでしょ。あたしはもう十分に楽しんだ。舞に人生を返してあげる時だって」

「それは、聞きましたが……」

「だから、大丈夫だよ。気にしないでいいんだって」

「……はい」

「でも、心配してくれてありがと」

 まいさんは、そう言って私の手を取ってにっこりとほほ笑んでくれた。

 なんで、こんな時まで、この人はかわいいんだろう。

 いや、かわいくあろうとしてくれるんだろう。

 と思ったら、まいさんはいじけたように小石を蹴るような仕草をしてみせる。

「ていうかさー、美汐と真琴がいてくれたから耐えられたけど、一人ぼっちだったら絶対無理だったよ」

(どういうこと?)

「なんで私がこんな目に! って絶対に舞のこと恨んでたと思う。覚悟なんか忘れてさ」

(あー、わかる。ムカつくよね。自分だけが嫌な思いをしてさ)

「うんうん。分かってくれる? 同志だね、真琴」

 なんだろう。

 言いたいことはわかるけど、すごく低次元なレベルの話に思えてきた。

 ……いや、それはいいとして。

「あの、まいさん。まいさんの怪我、やっぱりもう一人の舞さんも……?」

 昨日はそんなそぶりは見えなかった。

 だけど、確かに聞いた。

 舞さんも体の自由を奪われていく、と。

「たぶん、ね。どこか変な様子はなかった?」

 そんな様子は特に見られなかったような……。

(そういえば魔物を倒したあと、舞って左手ずっと見てなかった?)

「あ……言われてみれば」

 前言撤回。

 真琴は意外にも舞さんの様子をしっかり見ていた。

 それとも私が不注意すぎるだけだろうか?

「うん。間違いなく影響出てるね。美汐達には隠したみたいだけど」

「そういえば、『初めて魔物を倒せた気がする』とも言ってました」

「左手の異常で実感したんじゃないかな。『れい』の偽物を斬らされてたのとは、明らかに違っただろうし」

「ということは、舞さんの左手はもう……」

 動かない。

 続く言葉を肯定するようにまいさんは頷いた。

「魔物そのもののあたしみたいに直接影響は出ないみたいだけど、明らかに不自由になってると思う」

「そんな状況であと三体も倒さないといけないんですか……」

「がんばってね」

 こめかみに指をあててチャーミングポーズを取ってくれるまいさん。

 自分を殺す相手に送る声援じゃないですよ。

 そう思いながらも、その場違いな応援に何故か救われた気がする。

「はい、頑張ります」

(うん。ちゃちゃっと片付けちゃお)

 真琴は……なんかずれてる気はするが、まあいいだろう。

 やる気があるのは結構なことだ。

 

 

「そういえば、さっき私達が見せられた記憶は……」

 すごく、悲しい記憶だった気がする。

 少女が魔物を生み出し、拒絶するまでの話だった。

「あー、うん、ごめん、激痛で舞への恨みが噴出した時のやつだよね」

「やっぱり。じゃあ、あれが」

「うん、あたし達が生まれた瞬間の記憶」

 あの悲しい光景を思い出す。

 仲の良かった男の子といたいためについた嘘。

 少年に悪気はなかったのだろう。

 もともと帰る予定だったのだから。

 でも、少女にとって少年は唯一無二の存在だった。

 チカラを受け入れてくれたから。

 手放したくなくて、ついた馬鹿みたいな嘘。

『魔物がくるのっ』

 でも、少年は戻ってはくれなかった。

 当然だ。

 私の年になれば分かる。

 子供は、自分の都合では居場所を決めることはできない。

 だから帰った、それだけのこと。

 だけど、少女はそれを受け入れられず、絶望し、自分のチカラを否定した。

「馬鹿だよね。ううん、今は馬鹿だったって分かってる」

「え?」

「顔に書いてるよ。馬鹿だって」

「すみません」

「あはは、いいよ。あたしも報いだって思ってるんだ」

 まいさんは悲しそうに笑った。

(人間はいつもそうよ。都合が悪くなったらポイするの)

「いや、あなた意味分かってるんですか。まいさんを捨てたのは舞さん自身ですよ」

(うー、それはそうかもしれないけどぉ、でも真琴はまいの味方だもん!)

 理屈がまるでなってない。子供か。

 いや、子供だった。

 年齢は私達より上かもしれないけど、真琴は子供だった。

 そんな真琴にふわりと近づき、まいさんは頭を撫でる。

「ありがと。そう言ってもらえると嬉しいよ」

(えへへ)

「でも、舞のことは許してあげてね。あれでも、あたしだからさ」

(うん)

 理屈は通じてないけど、何故かふたりは通じ合っていた。

「ところで、その男の子の名前は何て言うんです?」

 聞いたところで意味はないだろうが、一応訊いてみる。

 もしかしたら見つけられるかもしれないし。

「……分からないんだ」

 だけど、まいさんは悲しそうに首を振った。

「分からないって……」

「二人とも名乗らなかったからさ。待ってれば麦畑に来ると思ってた」

「いや、どうやって電話かけたんです? それで……」

「『繋がって!』って願いながら電話しただけ。結構万能超能力者だったんだよ、あたし」

 胸を張って言うことだろうか。

 いや、確かに凄いけど。

「まあ、だから名前は分からないまま。美汐や真琴があの子になってくれるなら嬉しいけど」

「私は女の子ですよ」

(真琴も)

「だよねー。あの子は美汐ほど疑い深くはなかったし、真琴ほどバ……お気楽でもなかったしね」

 まいさん、今『バカ』って言いかけましたね?

 ていうか、まいさんはその気になったら私達を記憶の少年にすることもできるんだろうか?

 と、ふとそこで先日見せられた『とばしっこ』という、おぞましい記憶がよみがえる。

「あの、まいさん」

「ん?」

「くれぐれも、私の記憶を操作したりしないで下さいね?」

「…………」

「こっちを見てください。何で目を逸らすんですか」

「あははー、もちろんそんなことはしないよ」

「絶対ですよ?」

「努力はします」

 睨みつけると、まいさんはぺたんとうさぎの耳を伏せて土下座した。

 努力じゃなくて、そこはしないと断言してほしかったのだが。

「いや、うん、努力はするよ? でも、チカラの抑えが効かなくなってきてるからさ」

「ああ……」

「だから、今日みたいな記憶の押し付けとかがあったらゴメンね?」

 まいさんは、口を×の字にすぼめてしょんぼりしてみせる。

 反省五割、残り五割は故意にやる気だったということだろう。

 まったく、この人は……。

「まあ、いいですよ。記憶を消したりしないのなら」

「いいの!?」

「私も、まいさんのことは忘れたくありませんから」

 いたずらを許されて目を輝かすうさぎに、私は真面目にそう答えた。

 予想外だったのか、まいさんは顔を赤くして目をそらす。

「うん、ありがと……」

 そして、消え入りそうな声でそう言ったのだった。

 

 

 それはさておき、相談したいことがあったのを思い出した。

 舞さんが魔物について気になることを言っていた。

 当事者の魔物がいるし、訊いておくべきだろう。

「ところで、まいさん……」

(シッ!)

 私が話そうとしたところで、真琴が耳を立ててびくんとする。

「どうしたんです?」

(何か聞こえる)

 まさか、魔物?

 こんなところにも出るのか?

 鉈を構えて戦闘態勢に入ろうとする私をまいさんが止めた。

「やっばい! 舞がこっち来てる!」

「え?」

 と言ったところではっとした。

 まいさんの悲鳴に、ここでのおしゃべり、そりゃ舞さんも気配に気付くだろう。

「真琴、舞の足音は分かるよね? 私、軽くあしらって来るから、教室の後ろの扉から逃げて!」

(あぅぅー、わかった)

「美汐も話はまた明日ね。おやすみ!」

 そう言うが早いか、まいさんは教室の前の扉をすーっと抜けて行った。

 陽動してくれると言うことだろう。

(美汐、こっち。ついてきて!)

「あ、はい。お願いしますね」

 さすがに帰ったはずの私達が残っていたと分かると、ばつが悪い。

 ましてや、戦ってるはずの魔物と密会してたとなるとなおさらだ。

 私達は、そうそうにこの空間から逃げ出すことにした。

「……というか、『また明日』?」

(どうしたの?)

「いえ、なんでもありません。急ぎましょう」

 こそこそと走ってる最中に疑問が浮かんだが……。

 ひとまずは気にしないことにして、私達は家への道を急いだ。

 

 

 




舞踏会キャンセル。
美汐ちゃんが行くわけないですよね。
書く手間が省けて何よりです。
……ないよね?
ドレスなんて用意できるわけないですもんね?
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