1月9日(土曜日)
自分の愚かしさ加減に嫌気がさす。
なんで私というのはいつもこうなのだろう?
完璧に仕上げたように思っていてもいつも何かが抜けている。
つまり、まあ分かりやすくいうと……。
宿題を一部やり忘れていたのだ。
ちなみにやり忘れていたのは読書感想文。
何か本を読んで、原稿用紙1枚以上で感想を書けというものだ。
問題集一冊全部、というような手間のかかる宿題じゃないので後回しにしていたのがよくなかった。
そっちが片付いた時には感想文のことはとっくに記憶の彼方。
まさにうっかりである。
明後日の月曜日にある現代文の時間に提出すればお咎めなし、というのが不幸中の幸いだった。
そんなわけで私は三階の一番奥にある図書室にいる。
何か適当に面白そうな本を見つけて借りて帰ろうという算段だ。
とりあえず、二の徹は踏むまい。
そう思って机に筆記道具と教科書を広げる。
テスト期間でもないので図書室はいつになく静かだった。
これで暖房もしっかり効いているのだからまさにいたせりつくせりである。
昼までの授業だったので、たいした量はないが、今日の宿題を先にさっさと片付けてしまおう。
本はその後でゆっくり探せばいい。
幸か不幸か家にその旨を電話すると、真琴はお休み中だとお母さんが教えてくれた。
……というか、これから宿題は図書館で済ませておいたほうがいいのではないだろうか?
真琴が傍にいる自分の部屋で勉強に集中できるかというと、かなり不安である。
まあ、真琴が邪魔というわけではなく、家にいる時は勉強云々と言ってあまり邪険にしたくないというのが本音だが。
そもそも、真琴に勉強とは何かを教えるのも骨が折れるだろう。
英作文をしながら、私はそんなことを考えていた。
少ない宿題を片付けて、時計を見ると2時半。
意外に時間は過ぎていた。
短い冬の太陽は既に大きく傾き、図書室の奥にいる私のところにまで日が差し込んできている。
妙に明るく暖かいと思っていたら……なるほど。
心地よさにそのままうとうとしたくなるのを、理性で押しとどめる。
本を探すという目的がまだ残っているのだ。
それに、こんなところで眠って帰るのが遅くなったら真琴が……。
真琴が……。
『真琴が』と思ったところで、とてつもなく不安になる。
学校に残ると家に電話を入れたときはお昼寝中だったようだが……。
私は慌てて図書室を飛び出すと、公衆電話のある職員室前に向かった。
真琴がお母さんを困らせていなければいいが……。
そう思って、落ち着きのない子狐の姿を思い浮かべる。
駄目だ……目を覚ましていたら、大人しくしている姿なんて思い浮かばない。
ああもう、廊下を走るなんて小学生じゃあるまいに。
すれ違うクラブ活動中らしき生徒たちの視線が痛い。
どうやら真琴がいる以上、物腰の上品な天野美汐ではいさせてもらえないらしい。
物腰の上品な天野美汐……か。
クラスメートたちからはよくそう言われる。
ぱっと見、物静かで校則にも従順。
角が立たないように寄って来る人物をあしらっているだけなのだが、人にはそれが達観しているように映るらしい。
悟りを開いた僧への尊敬にでも似たものだろうか?
尊敬はされている。
しかしその実、私は誰にも好かれていないのだ。
職員室前の公衆電話は都合よく空いていた。
まあ、既に放課後なのでこの時間に長蛇の列などを目にすることはないだろう。
受話器を取り、鞄の財布から取り出した硬貨を投入する。
4回半目にして呼び出し音が途切れ、目的の人物の声が飛び込んできた。
「はい、天野です」
「美汐です、お母さん」
「ああ美汐、よかった」
……どうやら予感は的中したらしい。
それも嫌な方向に。
私が話相手だとわかるや否や、お母さんが安堵の声を漏らしたのがはっきりと聞こえた。
それはつまり……。
「真琴がなにかやりましたか?」
溜息混じりに答えの分かりきったことを訊ねる。
「ええ……」
声を曇らせながらも、お母さんから返ってきた答えは肯定。
はあ、一体何をやってるのだろうか?
「カーテンを登って遊んでるのよ」
「カーテン? 猫みたいにですか?」
猫がその爪でカーテンに張り付いて遊ぶ光景は想像に難くないが、狐にそんなことができるのだろうか?
いや、出来たとしてもカーテンが痛んだり破けたりするわけで迷惑には違いない。
「その…猫みたいに爪で引っ掛かってるのかしら? 狐もあんなことができるのねえ」
何か感心した様子のお母さん。
真琴は普通の狐じゃないからそういうことが出来ても……じゃない。
感心してないでさっさと引きずり下ろして欲しい。
そもそも誰の部屋で暴れているんだろうか?
「あ、落ちた」
ボテっという音、そして続く『あぅー!』という叫び声。
電話の近く、のカーテンということは……居間か。
居間のカーテンというと、お父さんが結構凝っていた調度品のはずだ。
私の部屋の安物とはわけが違う。
それにお客さんが来たら当然目にするところのわけで……。
「お母さん…真琴にこう言ってください」
「え、何を?」
「すぐに帰れなかったお詫びに肉まんを買って帰るつもりだったけど無しにします」
そこで一息つき、怒気を込めて次の一言を告げた。
「それが嫌だったら大人しくお座りしてなさい、と」
「え、ええ…分かったわ」
お母さんの声に怯えが混ざる。
しまった…ついうっかり。
お母さん相手に凄んでどうするのだ。
「ごめんなさい。宿題は終わったので急いで帰ります」
「美汐、あんまり真琴ちゃんにきついことを言うのは……」
お母さんはどうしてこんなにも母親なのだろうか?
私をたしなめる何気ない一言には、私だけでなく真琴も包み込むような優しさが込められている。
女性は子を産み、育てると変わるというが、そういうものなのかもしれない。
少なくとも、私にはそんな懐の深い慈愛の心など持てないと思う。
「分かってます。でも、甘やかすわけにもいきませんから」
「そうね、じゃあできるだけ急いでね」
「はい」
ガチャリ、と受話器を元の位置に下ろす。
そして目を閉じて溜息。
私は財布を鞄にしまい、行きよりもさらに加速して校舎を駈けた。
階段を一足飛びに駆け上がり、三階の図書室に。
手ごろなぶ厚さの古典文学を数冊選んで、手続きを済ませると、昇降口まで一気に駆け下りた。
その時間わずか10分。
靴を履き替えながら、額の汗を拭う。
さらさらとした汗で不快感はない。
息は上っているはずなのに、足はまだ走り足りないと訴えてくる。
ああ、この足はいつから野を駈ける感覚を忘れていたのだろう?
このなんとも言えない躍動感。
それは初めて感じるものではなく、昔は私にとって馴染み深いものだった。
真琴への肉まん効果というのは恐ろしいものだ。
コンビニに寄って家に帰ると、真琴は文字通り居間の真ん中でお座りして待っていた。
あごをしゃきっと引き、背筋をぴんと伸ばして、まるで境内のお稲荷さんみたいになっているのが可笑しい。
「お行儀がいいでしょう?」
と居間の外でその様子を指差してお母さんが小声でくすくすと笑う。
「ええ、確かに」
と私も思わず笑ってしまった。
耳も鼻も利く真琴のことだ。
とっくに私が肉まんを買って帰ってきているのにも気付いているし、お母さんとの会話も聞こえているだろう。
それでも私の機嫌を損ねたらと恐れて必死なのだ。
そこまで懸命になっている対象が、私の手元で湯気を上げているただの肉まんなのだからやっぱり可笑しい。
「ほら、あんまりじらしてないで行ってあげなさい」
お母さんがお皿を渡して私の背中をトンと押す。
私はそれに逆らわずに、居間のお稲荷さんのもとに歩み寄り、肉まんをお供えした。
と、途端にお稲荷さんは動き始め肉まんを一気に頬張る。
そして、しばらく口の中で租借し、じっくり味わった後ごくりと飲み込む真琴。
(あー、おいしかった)
真琴はそう言ってとても満足げに息を吐き出す。
一瞬その姿が『くう、この一杯のために生きているんだな!』とトランクス一丁で唸ってみせるお父さんに被る。
……イヤな子狐だ。
「満足ですか?」
しゃがんで、できるだけ真琴と目線をあわせるようにして訊ねた。
真琴は『んー』と言うようにお腹をさすってみせ、私の下げたコンビニの袋を見つめて鼻を動かす。
そして、嬉しそうに尻尾を立てた。
(もうひとつ~)
「はいはい。ちゃんと大人しくしてたみたいですしご褒美です」
本当は私のおやつのつもりだったのだがまあいいだろう。
ぶら下がっていたという居間のカーテンはそんなに荒らされた様子もないし、何だかんだで肉まんは太る元だ。
今度は味わってゆっくり食べる真琴。
尻尾はまさにご機嫌モードとばかりにぱたぱたと揺れている。
その心底嬉しそうな様子を見ていると、あげてよかったなと素直に思えた。
しかし、前に真琴の面倒を見ていたという人物は少々無責任な性格だったと思える。
真琴が妖狐だったからよかったものの、生き物を世話する時はちゃんと調べてほしいものだ。
イヌ科の狐にとってタマネギは刺激が強く、原則与えてはいけない。
だからそれが含まれている肉まんも与えてはいけないのだが……。
(あ、美汐)
「はい?」
真琴が肉まんを食べている姿を見ながら想像にふけっていると、突然真琴が私の名前を呼んだ。
何だろう?
肉まんはまだ半分残っている。
まさか私にそれを分けてくれるというのだろうか?
(ありがとっ)
たった一言だけそういうと、再び肉まんに夢中になる真琴。
まあ、そんなオチだろうとは思っていたが。
でもその一言を聞くとなんだか嬉しかった。
「こちらこそ、ありがとうございます」
(え? 何が?)
「いえ、何となくです。早く食べないと冷めますよ」
(あ、うん)
そう、ありがとう。
まだ何か分からない、この胸に溢れる気持ちに。
夕飯を食べてから、私は自室にこもって本を読んでいた。
読書感想文用に借りてきた短編小説を。
真琴は居間でテレビに熱中しているので、本を読むなら今のうちというわけだ。
いや、本を音読してやれば喜ぶのだろうが……。
1時間もあれば読めそうなものを、雑談交じりに数時間かけて読むのはさすがに疲れる。
きっと読み終わった後は喉がカラカラだろう。
そう思ったところで思わず自嘲する。
その程度で喉が乾くほど、私は『口』、そして『言葉』というものを日常生活で使っていないのだ。
真琴の言葉を私だけが聞けるのはあの子の呪い?
それもどうだか怪しいものだ。
本当は、私がそれほどまでに人間性を失っているが故ではないのか?
人でない『力』に、人間性の欠落。
「……まるでバケモノですね」
それも、とてつもなく滑稽で哀れな醜いバケモノだ。
檻の外を仰ぎ見るように、窓の外を眺めながらそう呟いた私は、何か無性に物悲しかった。
閉じきった部屋には、一階の音も街の喧騒も届いてこない。
読書には悪くない環境だ。
それにしても……人間のアニメなんかを狐が見て楽しいのだろうか?
妖狐という種が考えることはよく分からない。
人間と明らかに異質であるはずなのは確かなのに、どこかその思考は人間に似通っている。
そもそも……妖狐とはいったいどこからやってきたのか?
そしてどんな生活をしているのか?
真琴はあまりに野性味がなさすぎる。
そして、あの子もそうだった。
ここ数日は、家の色んな物に興味を示す真琴に振り回されっぱなしだったが、訊いてみたほうがいいかもしれない。
……そういうことなのだろうか?
あの子が私にこんな力を残したのは。
今の私には、分からない。
だが、今はそう信じたかった。
1時間後、本を読み終えて私は鞄の中身を探る。
まだ真琴はテレビを見ているようだし、今のうちに感想文の出だしくらいは書いておこうと思って。
……?
横着せずに、一旦全部中身を出してみる。
あ、十円玉。いつのまに鞄の底に入っていたのだろうか?
……そうじゃない。
ない。
あるはず物が入ってないのだ。
筆箱が。
今日は厄日か何かなのだろうか?
こんなにミスが重なるなんて。
昼間、慌てて図書館に筆箱を置き忘れてきたらしい。
勉強机の引き出しを開ける。
一応、予備の筆記用具は幾つかちゃんと置いてはいる。
置いてはいるが……。
そう思いながら、一本シャーペンを手にとって原稿用紙に向かってみる。
……カリカリ、とまずは読んだ本の名前に『を読んで』とつけて題名を書いてみた。
駄目だ、どうもしっくりこない。
質量、太さ、握り心地、そして指に伝わってくる感触。
全てに違和感がある。
こんなまま原稿用紙一枚以上埋めるなんてのは、どうもやりづらい。
私はかなりの凝り性らしい。
いや、物持ちがいいとも言えるのだが、こういう時は裏目に出る。
どうしたものかと逡巡した結果……。
……カタン。
結局、私は予備のシャーペンを引き出しにしまった。
まだ遅い時間じゃない。
幸い制服のままだし、学校に取りに行こうと思った。
それに……月曜日まで待っていては誰かに持っていかれるかもしれない。
善意にせよ、悪意にせよ、筆箱を求めて職員室や事務室を渡り歩くことになるのは億劫だった。
とにかく、早ければ早いほど誰かに持ち去られる心配はない。
『善は急げ』なのか、ただのものぐさ思考なのか我ながら理解に苦しむ結論である。
「……そう、わかったわ。気をつけてね。それと、先生に会ったらちゃんと事情を説明するのよ」
「はい」
居間に降りた私はお母さんに事情を説明して、外出の許可を得る。
別に深夜でもないので無断で出ていっても怒られはしないだろうが、こういうのはけじめが肝心だ。
が……今日はこっそり出ていった方が正解だったかもしれない。
(美汐~、どこか行くの?)
私は馬鹿か?
わざわざ真琴の目の前で外出の話をするなんて。
興味津々、連れてってオーラをまき散らした瞳が私を見上げていた。
「駄目です」
駄目に決まってる。
ただでさえ夜中の学校に入り込むなんて褒められた行為じゃない。
そこに更に動物を持ち込んで、万一見つかったとしたら何と言い訳すればいいのだ。
「いいじゃない、連れて行ってあげなさいよ」
「当たり前です……って、お母さん!?」
てっきり、大人しくお留守番してましょうね、と言ったとばかり思ったお母さんの言葉は真逆の内容だった。
予想外のことに、思わず素っ頓狂な叫び声をあげる私。
「な、な、何で……」
何に対して『何で』なのだろう?
多分色々と、だ。
「何で真琴ちゃんの言葉が分かるのか、かしら?」
愉快そうに微笑んでいるお母さんに、私は息を飲みながらも頷く。
私の驚く様子を見て、更に愉快そうな顔をするお母さん。
真琴はそんな私達を首を振って交互に眺めていた。
「言葉なんか通じなくたって、表情を見ればわかることは多いものよ。美汐だって赤ちゃんの時は話なんて出来なかったでしょう?」
ああ、そうか。
言葉を使えることだけが人間の素晴らしさではない。
誰かの心を察してあげるという思いやりもまた人間の素晴らしさなのだ。
いや、心の通じ合いがあるからこそ言葉は生まれたのだろう。
そんな単純なことにもすぐに気付けないなんて、私は……。
「それに、夜の学校なんだしまず大丈夫でしょう? 連れて行ってあげたら?」
意味がわかってるのか、怪しいが、テーブルの上にお座りしてうんうんと頷く真琴。
お母さんが味方してくれているのが嬉しいのか、期待に胸を膨らませているのか……。
ぱたぱたと触り心地のよさそうな尻尾が揺れていた。
まあ、狐を連れていようがいまいが怒られるのには大して変わりはあるまい。
それに、誰もいない可能性の方がはるかに高いだろう。
「分かりました。おいで、真琴」
(あはは、やったー)
嬉しそうに、トンッとテーブルから飛び降りて私の足元に駆け寄る真琴。
それを確認してお母さんに言った。
「それでは、行ってきます」
「ええ、なるべく早く帰ってくるのよ」
お母さんの言葉に頷き、居間を後にしようとする私。
が、その足首を真琴が前足でぺしぺし叩く。
「何ですか?」
(あのね、お願いしてくれてありがとうってお母さんに伝えて欲しいの)
真琴が私の顔を見上げながら、お母さんの方を何度も振り返る。
その様子に、思わずやれやれといった感じの溜息がもれる。
「お母さん、真琴が『お願いしてくれてありがとう』と言ってます」
(あうっ)
私の言葉と同時に、嬉しそうに短く叫ぶ真琴。
私には奇声に聞こえるが、お母さんの耳には嬉しそうな狐の鳴き声が聞こえているのだろう。
お母さんは眼下の真琴に微笑みかけて答えた。
「行ってらっしゃい、真琴ちゃん。夜のお散歩、しっかり楽しんでくるのよ」
(うんっ!)
言葉なんて通じていない。
でも、そこには何かとても純粋なものがあった。
暖かくて、眩しくて……思わず目を背けてしまうほど。
それは、私にはまだ過ぎた何かだった。
真琴と一緒に職員用の昇降口から校舎内に入る。
学校までの道のりは、念のため真琴に塀の上を歩かせて人目を避けてきた。
もっとも、こんな時間に雪道を好んで歩く人もいないらしく、誰ともすれ違わなかった。
そもそもうちから学校までの通学路は商店街や駅への道から外れているので、夜中の人通りは普段から少ない。
一応、本当に人目につかない道もあるにはあるが、道が悪い上に夜中なので使いたくなかった。
それに、宇宙人か何かを連れているわけでもないし、いざとなればいくらでもごまかしようはある。
怪我をしていた子狐を保護して、野性に返すために歩行訓練の最中です、とか。
しかし、授業終了から数時間後には一般昇降口は閉鎖されるのを知っていたので、開いているとしたらそこだけだと思ったのだが……。
まだ開いているということは残っている先生がいるということなのだろうか?
外から見た職員室の明かりは既に消えていた。
ひょっとしなくても、締め忘れ?
首をかしげながらも、靴を脱ぎ昇降口の奥に……。
「……っ!」
足の裏に刺すような痛みが走る。
その苦痛に思わず顔を歪める私。
(ど、どうしたの、美汐!?)
「いえ……なんでもないです」
片足を上げた格好で、真琴に平然を装って答える。
外気が氷点下なのだ。
暖房の切られた校舎の床が恐ろしく冷たいのは当たり前だろう。
ここから上履きの置いてあるいつもの昇降口まではかなり距離がある。
そこを靴下一枚の素足で歩いていくのはかなり辛い。
ましてや、誰かが水をこぼしていたら……。
止むを得ない。
足の裏にしもやけをもらって帰るのは嫌だ。
行儀が悪くて気は進まないが、私だって自分の身がかわいい。
意を決して、土足のまま構内に踏み入れる。
もちろん、念入りに雪や泥を落としてから。
ついでに目に入った『土足厳禁』らしき立て札も倒しておく。
私は何も見なかった。
……ということにしておこう。
真琴は私の不審な行動に首をかしげながらも、軽快な足取りで構内に駆け上がった。
真琴はずっと素足だが、寒くないのだろうか?
……肉球が羨ましい。
などと思いながら、少し奥に進んだ時だった。
昇降口には非常灯があったおかげでそんなに気にならなかったが、そこを離れると夜の校舎は不気味なくらいに暗い。
おまけに今いる一階の廊下は、外灯から隠れた離れた位置にあった。
運悪く、月まで隠れてしまったらしい。
私と真琴の前には不気味な闇が広がっていた。
そのあまりの異質な雰囲気に思わず足が止まる。
(へぇー、ここが美汐の通ってる『がっこう』ってところなんだ)
しかし、そんな私の気持ちとは裏腹に、感心した様子で前へ前へと進んでいく真琴。
と、数歩歩いたところで真琴がこちらを振り返った。
私が止まっているのに気がついたのだろう。
(何やってるの美汐?)
振り返った真琴の姿に思わず息を飲む。
闇の中、爛々と輝く金の双眸。
その輝きが、うっすらと真琴の輪郭を闇の中に影として映し出している。
紛れもなく狐の眼。
いや、それをもさらに上回る妖狐の眼。
やはり綺麗だ。
この前の夕闇の中で輝いていたそれよりもずっと。
背筋がゾクゾクきそうな妖しい雰囲気なのに、何故かそう思ってしまう。
だが、そうだった。
真琴だけじゃないのだ。
どうせ誰もいない。
見られる心配はないだろう。
ならば……。
そう思った私は、深呼吸をして『力』を解放していく。
(えっ? わっ……)
真琴の姿が影から、しっかりとした形を持つものへと変わっていく。
数秒後には真琴の驚く表情が鮮明に見えていた。
すぐ隣の窓ガラスに映るのは、真琴のように目を金に輝かせる私の横顔。
「真琴に見せるのは初めてでしたね。驚きましたか?」
自嘲なのだろうか?
私は何故か、驚く真琴にそのように問い掛けた。
不愉快な答えを返そうものならただでは帰さない、そんな暴君が人を試すような物言いで。
だが、真琴は何が嬉しいのか、その私の目をじっと眺めて嬉しそうに尻尾を振る。
何なのだ、この反応は?
気味が悪くないのか?
目を発光させる人間なんているはずない。
そうでないにしても、言葉に詰まるのが普通ではないのか?
少なくとも、初めてこれを見たときの両親がそうだった。
気味の悪さを必死に押し隠して、あくまで普通に接しようと努力していた。
だが、真琴にはそんな態度はまったく感じられない。
(ううん、これでお揃いだねっ)
「あ……そう、ですね」
そんな答えは想像していなかった。
『気味が悪い』と罵ってくれた方がまだよかった。
言葉を詰まらせながら、上辺だけの『きれい』という褒め言葉でもいい。
それが私の私に対する認識だったから。
なのに……あなたはどうして私を私のままでいさせてくれないのだろう?
あなたにとっては、何気ないそんな一言でしかないのは分かっている。
でも、そんな一言だからこそ私の心が駆け出したくなるような喜びを覚えるのだ。
不安になる。
このまま真琴といたら、私は私でない何かに変わってしまうのではないか?
この五年間、そうであり続けた『天野美汐』はどうなってしまうのだろう?
(あ、美汐)
私が呆然としていると、真琴が目を輝かせて声をかけてきた。
言葉どおり、目を輝かせてだ。
「何ですか?」
何だろうか?
やはりこの目のことが訊きたいのだろうか?
だが、待っていたのは……。
(その目、ビームとか出せる?)
相変わらずのそういうオチだった。
激しい頭痛とめまいが一気に襲ってくる。
ああ、そういえばまだ慣れていない頃、明るいところで一気に『力』を開放してしまって気絶したことがあったっけ。
閃光弾を頭の中に直接投げ込まれたような光の奔流、あれはたまらなかった。
などと、昔のことを思い出しながらよろめく私。
(あれ? どうしたの?)
が、その原因を作った当人は自分の言葉に問題があると全く思っていないらしい。
お座りして背伸びした状態で、きりぎり私の膝に達するかという手ごろな大きさ。
サッカーボールのように蹴飛ばしてやろうかと、一瞬そんな考えが浮かんだのを危ないところで思いとどまる。
「この目はあなたの目と同じです。ビームも怪光線も出ませんし、出せません」
ビームだろうが、怪光線だろうが、蟹光線だろうがあまり変わらない気がするが念のためだ。
いったいどんなテレビを見ていたのだろう。
(あ、じゃあ……)
「もう行きますよ。早く帰るってお母さんに言ってるんですから」
まだ何か下らないことを訊こうとしている真琴を置いてさっさと歩き出す。
(あっ、待ってよ美汐)
一瞬、唖然とした様子で私が通り過ぎていくのを眺めていた真琴だったが……。
すぐに気を取り直したらしく、私の後ろを小走りに追ってきた。
そんな真琴に呆れながらも、何か暖かいものを胸に覚える。
変わっていくのは悪くないことかもしれない。
真琴となら自然にそうなっていける、そんな気がした私だった。
そして……。
すぐ先にとんでもない出会いが待つことなど、私達は知る由もなかった。
ツツツツツ……。
小気味の良い小さな音がリズムよく廊下に響く。
真琴の爪がリノリウムの床を鳴らしているのだ。
それだけで何かほっとする。
いかに闇が見通せても、夜の校舎というものは不気味だ。
学校とは陸の孤島なのだと実感する。
いや、小さな世界と言うべきかもしれない。
そこにただ一人というのはいかに恐ろしいことか。
無人島に流れ着いた男の人が、オウムに言葉を覚えさせて飼っていたというのも分かる気がする。
人間というのは一人で生きていけない生き物なのだ。
たとえどんなに心を閉ざし、周りとの交流を断ったとしても。
本当に周りに誰もいなくなって、世界に自分がただ一人残されたなら、三日で気が狂うだろう。
結局、私が孤独を気取っていられるのも他人への依存に過ぎないということか。
(美汐、どこまで行くの?)
「三階の一番奥です。歩いて10分くらいですね」
この学校は二つの校舎で構成されている。
一つは入るのに使った職員用通路のある旧校舎。
職員室や音楽室をはじめ、特殊な用途の部屋で大部分が占められている。
そしてもう一つが5、6年ほど前に完成した新校舎。
現在はこちらに教室の全てが収められている。
食堂や図書室のような公共施設もこっちだ。
私が入学する随分前のことなのでよく分からないが、教室を全て新校舎に移すという過程は大変だったのではないかと思う。
(ほんと? やったぁ)
よりによって一番奥に行かなけばならないことにこっちは溜息をつきたい気分なのに、真琴は何故か嬉しそうだった。
「何故そこで喜ぶんですか?」
(だって、それだけ色んなところが見られるじゃない)
「まあ、真琴にはそうかもしれませんね」
分からない気持ちでもない。
私も小学校の時は校舎中を探検して遊んだことがある。
毎日通っているうちにつまらなくなっていくものだが。
「でも、ほとんど鍵がかかっていて入れないと思いますよ」
私はそう言って傍の調理実習室の扉に手をかける。
校舎に入ってから気付いたのだが、図書室が締まっていたら校内に入れても意味がない。
鍵がかかっていたら宿直の先生か用務員さんを探すしかないだろう。
などと思っていると……。
ガラガラッ。
やや、間抜けな音を立てて扉はあっさり開いた。
思わず顔を見合わせる私と真琴。
(……鍵は?)
「締め忘れ、でしょうか?」
試しにその隣の準備室らしきところの扉を開けてみる。
……カチャ。
こっちもあっさり開いてしまった。
その付近の扉も全てが開きっぱなしである。
金目のものがないからだろうか?
それにしてはいくらなんでも無用心な。
「まあ……どっちにしても寄り道する気はありませんから」
(うん、あんまり遅いとお母さんが心配するもんね)
ごねるかと思ったら、真琴は意外に素直だった。
しかも、いつの間にか『お母さん』とごく自然に呼ぶようになっていた。
どうやら、今日の昼にお母さんと二人っきりだったのがよかったらしい。
真琴がうちに家族として馴染んできていると思うとなんだか嬉しかった。
後で、真琴の素直な言葉をそのまま受け取ったことを思いっきり後悔することになるが。
「そういえば、気になっていたのですが」
歩くのを再開し、道すがら真琴に話し掛ける。
(何、美汐?)
「真琴は私に会う前はどんな生活をしてたんですか?」
(どんなって……普通だけど?)
あなたたちの『普通』は私の『普通』じゃないんです。
と言いたいがそれは止めておいた。
「いえ、ゆっくり歩いていくのでしたら話をしているほうがいいでしょう」
(あ、うん。そうだね)
……扱いやすい狐だ。
「例えば、どんなものを食べて生活していたのですか?」
どう考えても真琴が狩りをしている姿が思い浮かばない。
かといって人間の残飯を漁っている姿も。
(ん? 普段は何も食べていないよ?)
「……はい?」
また頭痛。
どこが『普通』なんだろう?
いきなりしょっぱなから異常な回答が返ってきた。
「何も食べてないって、食事をしないということですか?」
(うん、そうだよ。あたしたちは食べても食べなくてもいいの)
「食べなくてもいいって……」
物を食べなくてもいいなんて都合のいい生き物が存在するのだろうか?
だが、真琴の次の言葉は私を更に驚かせた。
(だって、真琴達は一度死んでるから)
楽しそうな語り口とは裏腹に、告げられたのは恐ろしい内容。
「死んでるって、じゃあ妖狐というのは……」
(うん、美汐たちの言葉で言うと幽霊みたいなのかな?)
何ということだ。
とんだところから私は妖狐の正体を知ってしまったらしい。
多くの歳をえた狐が、妖狐と呼ばれる物の怪となる。
私のよく知るものみの丘の伝承によると妖狐とはそういう生き物と伝えられていた。
だが、その真実が今まさに私の目の前にあった。
真琴という形をもって。
(えーっと、『ぱうあーすぽっと』とか『ちみゃく』って言うんだったかな。ものみの丘っていうのはそういうところなんだって)
「パワースポットと地脈じゃないですか?」
(あーっ、うん。それそれ)
頭を押さえながら、緊迫感とほど遠い真琴の怪しい用語を訂正する。
私は真面目な話のつもりのようだが、真琴にとってはかなりどうでもいい話らしい。
どうもこういう話をすると認識の違いが目立つ気がする。
人間の妖狐への理解がそれほどまでに想像に頼ったものであったということなのかもしれないが。
(寿命が来た時に狐としての生涯に満足できなかった狐が『力』と人の知恵を持って生まれ変わった姿)
「……それが妖狐というわけですか」
(そうみたい)
「そうみたいって、あなた自身ことじゃないですか」
さっきから他人事のように妖狐について語る真琴。
そこには緊張感というようなものはかけらもなく、完全に世間話のような雰囲気しかなかった。
どうして『一度死んだ』なんて経験をそんなに軽く語れるのだろうか?
だが、真琴は私の言葉に対して視線を逸らし、はじめて悲しそうな素振りを見せた。
(……そうなんだけど、あたしはその時のことをもうほとんど覚えてないから)
「その時のこと、つまり普通の狐だった時のことですね」
(うん。ものみの丘はそんなに力の強い場じゃないんだって)
力の強い場じゃない、つまりパワースポットとしては不完全ということだろうか?
(だからあたしは子狐の姿で生まれ変わっちゃったし、記憶もほとんどないの)
「ちょっと待って下さい。じゃあ、真琴はずっと前からその姿なのですか? これからも」
(……多分。妖狐になって10年くらいだけどこのまんまだから)
ツツツツツ……。
しばらく足音だけが小さく廊下に響いた。
(だけど覚えていることもあるよ)
「何をですか?」
(あたしは何も残せなかったんだと思うの。ただの狐だった時に)
何も残せなかった……。
それは子供を残せなかったということだろうか?
それとも思い出を残せなかったということだろうか?
いや、多分同じことなのだろう。
動物にとって子供とは一番分かりやすい思い出なのだろうから。
真琴はこちらを見ずに、独り言のように語り続ける。
(だから、真琴は一人が寂しいんだと思う。また何も残せず終わっちゃう気がするから……)
「それで、命よりも人の世界に来ることを望んだのですか?」
(うん、そうしたら妖狐になったことの意味がわかるかなって)
何だか不思議な気分だった。
人間が天から与えられた人間という枠の中で何かを求めて『生きる』ように……。
妖狐もまた天から与えられた妖狐という枠の中で何かを求めて『生き』ているのだ。
本人が望もうと望まないのも関係なく、命という生から死への時間は無理矢理与えられる。
どう『生きる』か。
人間も妖狐もその旅人という意味では同じなのだ。
ただ一つの違いは、一度死を経験しているかしていないかだけ。
大きな違いのようで大した違いではない。
妖狐は人間よりちょっと大胆不敵で無謀な旅人であるだけなのだ。
そして……妖狐にとってはそれが一般的なのだろうが、人間にも少なからずそういう者はいる。
俗に『命知らず』と呼ばれる。
というか、お父さんがそうだ。
お風呂上りにあんなモノをぶらぶらさせて平然と娘の前を歩いていくのだから。
何度出来心で蹴っ飛ばしてみようと思ったか分からない。
……なんだか微妙に話がずれたような気がする。
(でも、おじいちゃんは変わってたなあ)
考え込んでいると、真琴がぽつりと懐かしむように何かを呟いた。
「……おじいちゃん?」
(うん、美汐に会う前まで偶然出会って一緒に暮らしていたの。8年くらいだったかな?)
何か矛盾していないか?
妖狐は狐の転生した姿。
真琴の話ではある日突然生まれるような感じだったし、そもそも真琴に家族がいたというのが驚きだ。
すると真琴は私の疑問を察したのか、首を振る。
(あ、ちがうよ。おじいちゃんって言っても真琴のおじいちゃんじゃなくて……でもおじいちゃんで、あれ?)
「つまり、血の繋がりは全くない老人と言う意味でのお爺さんということですね?」
(うん、そうそう)
私がそう補足すると、真琴は嬉しそうに頷いた。
……疲れる。
妖狐になって10年とか言ってたが、真琴の精神年齢も10歳くらいの気がしてきた。
(他の所で生まれた妖狐で、大人の姿で、長生きしてて、真琴に妖狐のことを色々教えてくれたの)
「つまり……いえ、もういいです。それでわかりますから」
(……そう?)
補足するのも面倒だったので適当に脳内変換しておくことにしよう。
他の地方で生まれ、年を重ねてきた、大人の姿で転生した格の高い妖狐ということだろう。
(人間の世界もいいけど、旅をする方が楽しいって真琴に会うまで100年間世界中を放浪してたんだよ)
「それは……たしかに変わってますね」
一瞬旅行鞄を持って飛行機に乗る狐の姿を思い浮かべる。
多分そんなのではないだろうが。
(せっかく妖狐になったのに旅をするだけって変でしょ?)
でも、真琴が言うほどそのおじいさんは変でもない気がする。
きっと、そのおじいさんは狐の時に見ることが出来なかった世界を見ることに楽しみを感じていたのだろう。
聞いている限りでは真琴より相当知性を感じさせる人というか狐だから。
「そのおじいさんは……もういないのですね」
(うん、美汐に会う前の日に消えちゃった)
消えた、つまり妖狐としても寿命を迎えたということなのだろう。
別れの寂しさからか少し真琴も悲しそうだが、大好きな人を失った人間のそれほどではない。
でも、妖狐にとってはそれが普通なのだろう。
一度死を体験した彼らにとっては、今『生きて』いることの方が『死』よりもはるかに重要なのだ。
(おじいちゃんが最後に『悔いのないように生きろ』って言ったから早速術を使おうとしたんだけど、そこに美汐が……)
……なんでこう真琴は思考回路が単純なのだろうか?
そのおじいさんと別れた翌日にすぐそんな行動に移るなんて。
いや、だからこそ真琴なのかもしれない。
きっと、おじいさんと別れて一人になったのが寂しくて術を使うことを思い立ったに違いない。
真琴は、そんな誰かと一緒にいるぬくもりが妖狐として『生きる』何よりの楽しみなのだ。
「今はどうなのですか? 術を使って人間になりたいですか?」
(ううん。そんなことをしたら美汐たちのこと忘れちゃうし、美汐たちと一緒にいる時間が短くなっちゃうじゃない)
言葉通り、本当に言葉通りの意味なのだろう。
それ以上にもそれ以下にも何も考えていないに違いない。
でも、私にはその言葉が強く胸に響く。
前向きに迷うことなく言葉を紡げる真琴が眩しくて、嬉しくて。
「私も、真琴と長くいたいです」
気付いた時にはそんな言葉が口から出ていた。
それに『うんっ』と返す真琴は、やっぱり何も考えていないのだろうけど。
目的の図書室の扉はすぐ目の前に迫っていた。
……カチャ。
またもあっさり図書室の扉は開いてしまった。
いくらなんでもおかしくはないか?
図書室の本は持ち出せばお金に変えられる。
価値のある貴重な本もかなりあるはずだ。
そこに施錠もされていないなんて……。
いや、それだけじゃない。
試しに近くの教室の扉も開けてみる。
やっぱりどれもこれも開きっ放しだ。
教室には各生徒が置いたままにしてあるものがたくさんある。
中には情操教育上よろしくないお店に売れるモノもあるに違いない。
あるいはそれ目的で入ってくる人もいるのではないか?
何かが異常だ。
無警戒にもほどがある。
そのくせ窓には全て鍵がかかっている。
おかしい。
何か強烈な違和感を感じた。
状況を整理する。
外への出入り口として開いているのはここから遠く離れた旧校舎の職員出入り口のみ。
なのに、構内の扉は全て施錠なし。
外部に対する閉鎖的空間にして、内部は不可解な開放感を持った空間。
思わず口から言葉が漏れた。
「……異界」
とある遊園地の創設者はそこに出入り口を一つしか設けなかったという。
利便性を考えると明らかに非合理的な構造だが、彼はその理由をこう説明した。
『そうやって外界を極力遮断することで、ここが夢の世界であることを示せるのです』
異世界感覚の演出。
そうだ、今まさにこの夜の校舎がその状態である。
そして、よりによって自分がいるのはその最深部ともいえる場所。
自分の置かれた現状に気付き、冷たいものが背筋に走った。
何か分からない。
だがこれだけは確実に言える。
この場所は危険だ。
(どうしたの美汐?)
私のただならぬ様子に真琴が首をかしげる。
私はそれに答えずに急いで図書室に駆け込んだ。
筆箱は……あった。
予想通りの場所にあった筆箱を回収し、急いで真琴の待つ図書室の扉の前に駈け戻る。
真琴は状況が分かっていないのか、ただ呆然とお座りして外で待っていた。
「真琴、急いでここから逃げるんです」
真琴にそう告げて早足で歩き始める。
(……え? あっ、待ってよぅ)
真琴は慌ててその後を追ってきた。
私は『帰る』ではなく『逃げる』という言葉を使った。
逃げなくてはならない、一分でも一秒でも早くここから。
そう感じさせる得体のしれない不気味さをこの空間は持っていた。
(美汐、来た道と違うよ)
「構いません、こちらからも帰れます」
振り返らず真琴に早口でそう答える。
『何か』がこの異界に入った時から私達をつけてきていたなら、そう思うと同じ道を引き返すのは恐ろしい。
静まった校舎に私と真琴の荒い足音がせわしなく響き渡る。
その音がまるで後ろから『何か』が追ってきているようで余計に恐ろしく思えた。
振り返ったら『何か』がいる、そんな気がして……。
階段を3階から1階まで一気に降りようとして思いとどまる。
怪談でよくある無限階段のシチュエーションを思い出してゾッとしたからだ。
このまま降りていくと階段が延々と続いているなどと考えると気が気でない。
2階の渡り廊下を進んで連絡通路を抜ければ、旧校舎の階段からでも1階には降りられる。
そこからなら出口、つまり入ってきた職員用昇降口もすぐだ。
このまま階段を降り続けるよりはその方がいい……気がする。
何はともあれ立ち止まるのはまずい。
「こっちです」
真琴にそう告げて階段広場から廊下に踊り出る。
視界が開けたその瞬間……。
目の前に現れた光景に私の足が止まった。
一振りの剣を携えた少女が、月明かりを受けて静かに佇んでいたのだ。
身長は私より高く長い黒髪を後ろでまとめた端正ないでたち。
私と同じ制服だが、ケープのリボンの色は青。
つまり、この学校の三年生ということになる。
だが、そんなことは問題ではない。
剣を持って夜中の校舎にいるということも異常だが……。
少女がうっすらと体に帯びる青い光。
それは私のこの眼を通して見ることができる、人に化けたあの子たちの証である。
だが、何かおかしい。
それにしては光があまりにも弱いのだ。
この眼はあの子たち以外の別の物にも反応するのだろうか?
とにかく、目の前の少女が全てにおいて異様な存在であることだけは間違いない。
「……魔物」
少女が何か呟いたと思うと同時に、冷たく鋭い視線が私に突き刺さった。
まもの……魔物?
少女の視線の先は……。
……チャリ。
しまった! 私の目は今、人の目をしていない。
そう思ったときには遅かった。
小さな金属音が鳴り、少女が剣を両手で構える。
私はこの少女に『敵』と認識された。
一体この少女が何者かなどと詮索している場合じゃない。
なんとかやり過ごさなくては。
既に『背を向けて逃げる』という選択肢は頭にない。
少女の持つ威圧感に剣という組み合わせが持つ敵意はそれほどまでに絶対的であった。
それに、私が背を向けたら後ろにいる真琴が襲われる危険もある。
私がなんとかしなくてはならない。
大きく息を飲み、『力』を最大限に開放して少女を凝視した。
少女の動作がコマ送りのように見える。
右足の筋肉が大きく収縮、なるほどその一歩で私との間合を詰めるつもりか。
そして、右肩口に上っていく腕。
少女の狙いは袈裟懸けによる一刀両断……だろう。
熊でも相手にしているつもりだろうか?
そんな大袈裟な攻撃をしないでも私を殺すことは出来る。
まあいい、予備動作が大きいほど私にとっては好都合だ。
肩の力を抜き、攻撃に備える。
少女の右足が地を蹴った。
……速い、相当に訓練された者の動きだ。
だが私には全て見えている。
そう、見えるのだ。
『狐の眼』
私はこの能力のことをそう呼んでいる。
効果はまず夜目が利くこと。
夜が私の領域というのはそういうわけだ。
ただし、闇の中で使うと目が狐のように輝いてしまうためおいそれと使うわけにはいかない。
現にそれのせいで目の前の少女には『敵』と認識されている。
そうでなくても目が金に輝く人間など異形以外の何物でもないだろう。
そしてもう一つ、身体能力がさほど優れているわけでもない私が自分の身を守れる絶対の自信となっている理由。
それが今まさに発揮している超動体視力である。
そのコマ送りの世界では相手の小さな筋肉の動きまで細部に渡って見ることが出来る。
次に相手がどう動くか、それを最速で読めてしまえば身体能力は普通の私でも相手の攻撃をかわすのは容易い。
シュッ!
そんな音とともに振り下ろされる剣。
だが、それが振り下ろされる前に私は体を軽く捻り、紙一重でその軌道から外れていた。
「……っ!?」
大味な攻撃は外れると脆い。
少女の体は剣の勢いを殺しきれず、大きく前に流れた。
それに合わせ、屈み込みながら右腕を突き出す。
少女の体目掛けて。
ドンッ!
鈍い音とともに手の平から腕、そして肩に凄まじい衝撃が走った。
肩が外れんばかりの痛みに思わず目を閉じる。
手ごたえは……あった。
音はそれから何も聞こえない。
どうなったのだろう?
左手で痛む右肩を押さえながら恐る恐る目を開ける。
すると……。
(わー、美汐って強いね)
嬉しそうに私を見上げている真琴の姿が目に入った。
……強い?
私はただ突き飛ばして追い払おうとしただけなのだが……。
そう思って真琴が次に顔を向けた方向をつられて見つめる。
「……そんなまさか」
私は言葉を失った。
一体どんな勢いで打ち込んできたら、こんなことになるのだ?
どうりで肩が外れそうな衝撃がするわけである。
私に斬りかかった少女は数メートル先まで吹っ飛び、大の字になって仰向けに倒れていた。
少女の手から離れたのか、剣に至っては5メートル以上向こうに転がっている。
(美汐……なんだか息をしてないっぽいけど)
倒れた少女に駆け寄って体をぺしぺし前足で叩いた真琴が複雑な表情で状況を報告した。
……ああ、いつの間にか狐の表情が分かるようになっていたのだな私も。
いけない、一瞬現実逃避してしまった。
私が思考停止していると、真琴が少女の落とした剣を咥えてきて私の足元にそれを置く。
(念のためにトドメ刺しとく?)
「刺しません! というか、そんなかわいい顔をして末恐ろしいことを言わないで下さい!」
ああもう……どこまでこの物語は無茶苦茶になれば気が済むのだろう。
だが、ついに『私達』は出会ってしまった。
ここから『私達』の時間が動き始める……。
少女は凄まじい格好で倒れていた。
完全に開脚状態になっているため、もともと短いスカートの中が丸見えになっている。
そこから覗く白い生地に思わずどきりとした。
普段見えないものを覗き見るという背徳感からくるスリルみたいな気持ちだろうか?
同性の私ですらこんな気持ちになるのだから、男の子はもっとなのかもしれない。
しゃがみこんで少女の表情を観察する。
なるほど、たしかに息をしていない。
私の手が入った位置は……鳩尾か横隔膜付近か?
数メートル吹っ飛ぶほどの衝撃である。
気絶と同時に息が気道に詰まってしまったのだろう。
ならば大丈夫だ。
確かそういう場合は……。
私は膝をついて少女の体をまたぐ。
そして両手を少女の体に当てた。
……む?
手を当てるべき位置を探っていると何か柔らかい感触を覚えた。
そのまま手を止めて見下ろしてみると、それは少女の胸のふくらみだった。
思わず揉んでみる。
……私の手の平に収まらないほど大きい。
というか、掴んでも余るというのが驚きだった。
私の胸はというと掴んでもするっと抜けてしまうのに。
……もみもみ。
……もみもみ。
少女の体にまたがったままその感触を楽しむ。
同じ女だというのに自分の体では楽しめないのが恨めしい。
(……何やってるの?)
「す、すみません! つい……って真琴ですか」
いけないことをしているのを咎められた子供のように反射的に謝ってしまった。
声の主は少女でも第三者でもなく真琴だったが、ずっと見られていたと思うとばつが悪い。
私は馬鹿か。
何をやっているんだろう……。
人の胸を揉んでる場合じゃなかった。
少女の呼吸を戻してやらないと大変なことになる。
急いで胸の下に手を当て、ぐっと押し込んだ。
それを数回繰り返す。
こうすることで肺の中に詰まったままになっている空気を吐き出させることができるはずなのだが、間違っていたか?
「……けほっ」
そう思った矢先、少女が小さく咳き込み詰まっていた息を吐き出した。
そして止まっていた呼吸を再び開始する。
「ふう、これで死にはしないでしょう」
緊張が抜けて額に浮かんできた汗を拭った。
(あぅー、死にはしないってまた目を覚ましたらどうするのよぅ)
どうやら真琴は私がトドメを刺さないばかりか、少女を介抱したことを非難しているらしい。
確かにいきなり剣で斬りかかってきた危険人物を助けることもないとは思うが……。
だからと言って殺していいわけはないだろう。
一応相手は生身の人間のようなのだから。
一応……と思ったところで立ち上がり、倒れている少女を眺めなおす。
ほのかに体から青く立ちのぼるオーラのようなもの。
やはりあの子たちとは違う。
私の『狐の眼』にはもう一つの能力がある。
いや、これを能力と言っていいのかは疑問だ。
あっても自分の得にならない力など『呪い』でしかないだろう。
人に化けたあの子たちをそれと見分けることが出来るなんて、辛いだけで何もいいことはない。
『力』をあの子に与えられて以来、立ち昇るオーラを不思議に思ってあとをつけた人間が突然目の前で倒れ消滅したのを見て私はこの目を呪った。
その消えた人間はあの子たちの仲間だったのだ。
そして、それはもう一つ私に辛い事実を突きつけた。
想い人に会えないまま人知れず消えてしまう妖狐たちもいるということを。
さらに恐ろしいことに……『狐の眼』を全開にして人通りを見るとこの街には想像以上にあの子たちが紛れ込んでいた。
その証が少女から立ち昇る青いオーラのようなものである。
だが……。
そこで真琴をその眼で見つめてみる。
外見は何の変哲もない子狐だ。
あの子たちそのものであるにも関わらず真琴にこの眼は何の反応も示さない。
そして少女から発せられるオーラは、あの子たちの化けた人間の物にしてはあまりに薄すぎる。
それだけではない。
この眼は何もない空間に反応することもしばしばあった。
正直言って5年も付き合っているが、この眼のことは完全に分かっているわけではない。
そもそもあの子が何故こんなものを私に与えたのかも分からないのだ。
倒れている少女がただものでないのは間違いないと思う。
だが、この眼の認識能力に関しては考え直す必要がありそうだ。
……カタン。
風が入ったのだろうか。
何かが鳴る音がした。
いや、異界が蠢き始めた。
これ以上ここに留まっているのは危険な気がする。
少女は剣という凶器を持ってここで何をしていたのか?
そう思って真琴が足元に置いた剣を見つめると危機感がざらりと舐めまわされる感覚を覚えた。
「真琴、その剣を咥えて持ってきてください。私はこの人を背負っていきますから」
(えっ?)
私がそう言って、倒れた少女を背中に背負うと真琴が驚いたようにそれを見つめていた。
(美汐……そんな危ない女、置いていった方がいいよ)
それもそうだが、深夜の学校の床は氷点下にもなる。
そんなところに放置したら翌日には凍死しかねない。
それに……。
「重いんですから黙っててください」
この空間に無抵抗の少女を置き去りにするのは危険な気がする。
(置いていけばいいのに……)
真琴はまだ何か言いたげだったが、素直に剣を咥えてついてきた。
多分、私に少女が襲い掛かったことが気に入らないのだろう。
下手をすれば殺されていたのに私があまりに落ち着きすぎなのも不満なのかもしれない。
皮肉なものだ。
真琴や少女の命を気遣うくせに……。
一番命に無頓着なのは私自身なのだから。
「ふぅ、ようやく一安心ですね」
少女を背負いながらの歩みは決して速くなかったが、なんとか校舎の外に出られた。
一気に世界が現実味を取り戻す。
そこは何ということもない夜の校庭だった。
出てきたばかりの職員用昇降口を振り返る。
そこにはただ不気味に獲物を待ち構えている異界の口だけがあった。
巨大な腕でも飛び出してきて私達を中に連れ戻そうとするのではないか?
そんな恐怖感に慌てて顔を背ける。
(それにしても美汐って力持ちだね)
咥えてきた剣を一旦地面に置いて真琴が感心した様子で話し掛けてくる。
確かに多少引きずりながらではあったが、少女の体重は私より重いに違いない。
身長も胸も私よりあるから。
背中に伝わる柔らかい感覚がなんとなく重さを忘れさせてくれる。
いや、別に羨ましくはない。
確かにあの揉み心地は捨てがたいが、こんな大きな物が二つも垂れ下がっていては色々と邪魔だ。
ふよん。
ずり落ちた少女を担ぎなおすと背中越しにまたあの感覚。
……生まれて初めて女として『何か』に負けた気がした。
(……美汐?)
「あ、はい。昔取った杵柄というものでしょうか」
不審の目で見つめられて我にかえる。
何を考えているんだ私は……。
(キネヅカ?)
微妙な角度に首をかしげてお座りする真琴。
意識しているわけではないだろうが、かわいらしいポーズだ。
「過去に鍛えた腕前、という意味です」
(ふーん)
いちいち遠まわしに言わないで素直に力こぶでも作ってみせたほうがよかったかもしれない。
真琴の反応はどうでもよさげだった。
……昔の私のことを知っている人はあまりいない。
いや、忘れられてしまったというべきだろうか。
今は自分ですらあれが私であったことを信じられない。
私はいわゆる風の子だった。
考えるよりも体を動かすほうが好きという。
恥ずかしいことだが、手が出るのも早かった。
男の子と取っ組み合いの喧嘩をしたことも一度や二度ではない。
草の匂い、泥の匂い、消毒液の匂い、そのどれもが馴染み深い物だった。
だが、あの日から全ては変わってしまった。
糸が切れたのだと思う。
……ぷつんと、私と現実を繋ぐ糸が。
それからだ。
目の前で何が起こっても何の感慨も湧かなくなったのは。
なにもかもがつまらなくなった。
世界もそんな私をつまらなく思ったのだろう。
あの日を境に、私の周りにいた人たちも一人、また一人と私から遠ざかっていった。
私はそれを引き止めようともしなかった。
糸はもう切れてしまったから。
彼らが私をどうでもいいと思ったように、私も世界がどうでもよくなった。
生きる実感の無い無意味な生。
今の私を表現するなら、この言葉がぴったりかもしれない。
だが……。
そう思ったところで、また考えを切り真琴を見つめる。
今、私の前に一本の新しい糸がある。
私は、それをどんな気持ちで見つめているのだろうか?
それを掴めばあの日の私が帰ってくるのかもしれない。
しかし、どう掴めばいいのか私には分からない。
何故なら、私はかつてその糸と繋がっていた天野美汐ではないのだから。
今の天野美汐としてそれを掴む方法を見つけなくてはいけない。
「行きましょう、真琴。こっちです」
少女を背負ったまま校舎の裏に向かって歩き出す。
(あぅー、まだそんな危ない女連れて歩くの?)
真琴は不満なのか、お座りしたまま動かない。
「そう思うのでしたら、この人が剣を取り返せないようにしっかり咥えててください」
(……そうする。いざとなったら真琴がこれでトドメ刺すからね)
しばらく唸っていた真琴だったが、諦めて剣を咥えた。
そして剣を咥えたままぶんぶんと首を左右に振る。
トドメを刺すどころか、そのスピードではバナナを斬れるかも怪しい。
そう思っていると、真琴が叫び声を上げて剣を落とす。
(あうう、口切ったー!)
……馬鹿だ。
本気でそう思った。
剣の切れ味はそんなに良くないのか、切ったのは口の端の皮一枚程度らしい。
心配することもないだろう。
「頼りにしてますよ」
かわいそうだし、なぐさめのつもりで心にも無いことを言っておいた。
まあ、気持ちはありがたく受け取っておこう。
(うん……がんばる)
しゅんとして剣を咥えなおす真琴だったが、ぺたんと伏せた耳が既に戦意喪失していることをはっきり示していた。
やれやれ、と思いつつも何故か笑みがもれる。
らしくない、そう思うほど私に『私らしさ』なんて物があるのかは分からない。
らしくない……が、今は何も考えずにこの流れに身を任せることにしよう。
考えることは出来ても、今の私に何かを求めて動く気持ちは起きないだろうから。
ならば何も考えない方が面倒でなくていい。
そう思ったところで思わず苦笑する。
なんだ、いつもどおりじゃないか……と。
そして、そこにはっきりと『私』というものがあったのに気付いて。
……それにつけても重い少女だ。
やはり、胸なんだろうか?
私の学校は、ちょっとした山を背負う形で建っている。
いわゆる『裏山』というやつだ。
時々そこから腹をすかせた野犬がやってきて校庭を騒がすことがある。
それで、その裏山なのだが、実は私の家の裏にも繋がっているのだ。
直線距離なら、裏山を通った方が家には近い。
とはいうものの、裏山はしっかり舗装された道があるわけでもなく外灯もなかった。
おまけに、こんな季節では雪も積もっているので足元も悪いときている。
通れないことはないし、直線距離的には近道ではあるのだが、実質遠回りというわけだ。
ようは、登下校に使えるような道ではない。というか道ですらない。
とはいえ、今は非常時だ。
私は少女を担いだ状態。
真琴に至ってはただでさえ目立つ狐の姿なのに、剣を口に咥えているときている。
これで不審に思われず、通学路を歩き切るというのはさすがに無理があるだろう。
運が良ければ誰ともすれ違わないかもしれないが、見つかったら最悪警察を呼ばれかねない。
人目を避けて帰宅するとなれば、裏山はまさに格好の裏道だった。
幸い雪も頭上の常緑樹に受け止められていて、決まった場所にしか落ちていない。
『狐の目』を持つ私達なら、抜けるのも比較的容易だろう。
私と真琴は無言でそこを通り抜けて家に戻った。
もっとも、真琴は話したくても剣を咥えたままなので話せなかったのだろうが。
案の定、帰宅は相当遅れた。
いくら見えると言っても、こんな季節に整備されてない山を人一人背負って抜けるとなれば相当時間がかかる。
ため息をつきながら、私は呼び鈴を押した。
「ただいま帰りました」
鍵を開けてもらって玄関先入ると、お母さんとお父さんが出迎えてくれた。
お父さんも帰っていたのか。
まあ、色々あって二時間以上出歩いていたのだから不思議でもない。
「もう、美汐ったら……心配したのよ」
「すみません」
そして、案の定それは両親を心配させていた。
返事がないのは良い知らせとかいう言葉があるが、私にそれは当てはまらないようだ。
二人に頭を下げる。
親しき仲にも礼儀ありだ。
「ところで、その子はどうしたんだ?」
お父さんが手を組みながら顔を乗り出して、私の背中を不思議そうに見つめる。
「その、なんというか学校で鉢合わせになって突然襲われました」
「……襲われた?」
物騒な言葉にお父さんが眉をひそめる。
「見られました」
「見られたって何を……まさか」
腕を解き、厳しい目をするお父さん。
私はそれに黙って頷く。
『狐の眼』を見られました、と。
「うかつでした。誰もいないと思って夜の校舎で」
「……そうか」
お父さんもお母さんも複雑な表情をしている。
二人はとにかく私の眼のことが人に知れるのを恐れていた。
まず第一に、娘がまっとうな人間と見られないことを心配してくれていたのだと思う。
そしてもう一つ。
そのことで家族が世間からどんな目に遭わされるかを恐れていたのだろう。
ずいぶん昔の話だが、超能力を食いものにするような番組が放映されていた。
魔女狩りの魔女のように狩り出された出演者とその家族は、その後奇異の目と畏怖の念を背負わされ続けたという。
お父さんの職場にその関係者がいるらしいが詳しいことはよく知らない。
とりあえず、世間の人間にとってこの異質な目がどのように思えるのかは今では想像がつく。
まだこの力を自分で制御出来なかった頃、両親が私に夜間の外出をさせなかった訳も。
「この子どうするの? もし、口が軽い子だったら……」
少し神経質にお母さんが声を荒げる。
かなり気が気でないといった様相だ。
ああ、いつもそうだ。
この眼のことになると、両親は腫れ物でも扱うかのように私のことを見る。
私の行く末を案じる気持ちもあるとはいえ、その態度は悲しかった。
だから、どんなに普段やさしく接してくれても、私は両親と距離を置いてしまう。
そんな両親が歯痒かったし、そんな態度を取ってしまう自分も歯痒かった。
「大丈夫だと思います。こんな物を持って夜の校舎にいた人がまともとは思えませんし……って、あれ?」
後ろで剣を咥えているはずの真琴はそこにいなかった。
「真琴はどこに……?」
家に入る時まで一緒だったはずだが。
「あれ? 帰ってきた時いなかったか?」
お父さんも見覚えがあるらしい。
だがやはり真琴の姿はない。
「変ねえ、私も見た気がするんだけど」
お母さんも首をかしげる。
あの小さな体で扉を開けられるとは思えないし、先に上っていったなら当然気付くはずだ。
真琴用に置いてある足拭きタオルも汚れていない。
三人揃ってきょろきょろあたりを見回すが、やっぱりいなかった。
一体真琴はどこに……?
試しに玄関を開けて外を眺めてみる。
(あぅぅ、もっと早く気付いて)
……いた。
剣を置いて玄関前に涙目でお座りしていた。
「何やってるんですか?」
何に気付けというんだろうか。
私について入って来ればいいだけなのに。
(剣がつっかえて入れないのよぅ)
剣を実際に咥えて状況を説明してみせる真琴。
……なるほど。
私が入った時の半開きの扉では、横に咥えたままの剣はつっかえる。
家の中の暖気を漏らさないように扉を最小限にしか開かない癖が災いしたようだ。
「ごめんなさい、真琴。お父さん、真琴の足元の剣を拾っておいてもらえますか」
「ん、ああ。お安いご用だ、任せなさい」
真琴の様子と、私の言葉から状況を理解したのだろう。
お父さんは私を脇に寄せて、仕事帰りに脱ぎ捨てたばかりの革靴に足を入れた。
「ほら真琴ちゃん、寒いでしょう? 早く上りなさい」
(うんっ)
笑顔でそう言ったお母さんに、真琴は嬉しそうに頷くと、私とお父さんの足の間を走り抜けて……。
「って、待ちなさい真琴!」
と、私が叫んだ時には既に遅かった。
「あーあ……」
招き入れたお母さんも複雑な表情で溜息を漏らす。
私達の視線の先には……。
(な、何?)
黒い小さな足跡を残し、お尻から尻尾にかけて雪をくっつけたまま振り返ってきょとんとする真琴の姿があった。
敷居をまたいで2メートルといったところで。
まったく、なんでこの子はこうなんだろう。
それでいて怒る気がなくなるようなあどけない顔を見せるのだ。
そうなると私たちはもう何も言えない。
かわいければ何をしても許される、というのはこういうことだろうか?
傘立てに剣を立てかけたお父さんも苦笑いしながら真琴用の足拭きタオルをお母さんに渡す。
さっきまで漂っていた重苦しい雰囲気はいつの間にか消えていた。
居間のソファーに寝かせておこうという両親の提案を断って、私は少女を自室のベッドに寝かせた。
剣を持って夜の学校をうろついているなんて、どう考えてもまとも人間の行動ではない。
二人にどんな危害を加えるか分からない以上、私が監視しておかないとまずいだろう。
連れて帰ってきたのは私なのだから。
それに、素手ならまず私がやられることはあるまい。
……しかし、狐の次は人間か。
二度あることは三度あるというが、今度は象でも連れて帰る羽目になるかもしれない。
さすがにお父さんとお母さんでも、象は『捨ててきなさい』と言いそうだ。
象に限らず、これ以上わけの分からないことになるのは勘弁して欲しいが。
真琴とともに、ベッドに寝かせた少女を見つめる。
(……まだ気絶してるね)
「……ですね」
医者に連れて行ったほうがいいんだろうか?
頭は打っていなかったと思うが……。
しかし、『狐の眼』を見られた以上、黙って帰すのもまずい気がする。
また、あんなところに凶器を持って立ち入っていたのだ。
少女自身も医者になど連れていって欲しくないかもしれない。
「……すー」
くてん。
間の抜けた息とともに横に倒れる少女の顔。
思わずベッドの上でお座りしている真琴と顔を見合わせる。
(美汐、これって……)
「熟睡してますね」
人の気も知らず……おちょくってるんだろうか?
一瞬そう思って首を締めてやりたくなったが、少女の寝顔を見て思いとどまる。
何なのだろう?
それはまるで、何かの重圧から解放された安堵の表情だった。
仕方ない、寝かせておいてやろう。
下手に叩き起こすと怒りを買うかもしれない。
少なくとも私は熟睡しているところを起こされるのは絶対に嫌だ。
自分が嫌がることを人にするのは理に合わないだろう。
わざわざ余計なところで騒動の種を増やす必要もあるまい。
少女を観察するのを止めて、ベッドの脇から立ち上がる。
そして、勉強机に向かった。
(あの……美汐、どうするの?)
「監視は任せました。私は今から宿題を仕上げます」
持ち帰った筆箱からシャーペンを取り出して、原稿用紙を広げる。
書き始めると、思ったように筆が進む。
取りに行った甲斐があった。
これなら先生も満足のいくものが書きあがるだろう。
(みーしーおー)
背中越しに思いっきり不貞腐れた真琴の声が響く。
『暇だから遊んで』か『そんな悠長な』のどっちかだろうが気にしないことにする。
私には感想文を書き上げるという大仕事があるのだから。
(みーしーおー、ってば!)
「うるさいですね。そんなに騒いでるとその危ない人が目を覚ましますよ」
(あ、あうっ。わっ、わわっ!)
ぽてっ。
妙な物音がしたので座ったまま振り返る。
両前足で口をふさいだままベッドから転がり落ちている真琴がいた。
慌てて前足を上げたらバランスを崩したというところだろうか?
「……何やってるんですか」
分かっていてても、何だかそう突っ込みたくなる。
(美汐のいじわる)
横向けにひっくり返ったまま、真琴が涙目で私を睨んでいた。
「何でもいいですから静かに監視してて下さい。真琴がその人をどうにか出来るなら話は別ですが」
(……分かった。でも、呼んだらちゃんと助けてよ)
「お互い様です。私の命は真琴に預けましたからね」
背後から襲われたり、眠ってしまっているところを襲われたら私だってひとたまりもない。
その点、真琴は夜行性だし真夜中の監視役には最適だ。
(うん、任せて)
真琴は頷くとのそのそとベッドをよじ登り、少女の枕元に腰を降ろした。
そして、じっとその顔を観察する。
背中を任せるにはやや不安だが、まあ信じてやろう。
背後に命の危険を抱えながら読書感想文を優先するというのも変な話だが、不思議と危機感はあまりなかった。
少女の寝顔からは、夜の校舎で感じた殺気のようなものがまるで感じられなかったからかもしれない。
まあ、何はともあれ時間は効率よく使おう。
そう思って私は再び原稿用紙に向かい合った。
そして静かに夜が更けていく……。
擦れまくった美汐ちゃんですが、当時は書くことが怖かったです。
美汐と言えば上品で色がないから書きやすキャラとSS界ではもてはやされていて、そんな中うちの美汐ちゃんは相当異端というか、どっちかというと美汐スキーのお局様達からは睨まれてたんじゃないかと思います。
今はそんなお局様達ももういないので、自由に書けるのはありがたいことですね。
一方で、書いたところで感想はもらえないっていう悲しみを背負うことになりましたけど。
まあ、いいのです。
書きたいから書いてるだけですし、美汐ちゃんが「書け」と脅してくるので仕上げてしまいたいのです。
それはそうと、なにやら不穏な空気が漂い始めましたね。
おしゃべりする動物とのハートフルコメディを続けたい気がしますが、多分そんな時間はもうすぐで終わるでしょう。
舞シナリオが交錯を始めましたから。