1月11日(月曜日)
1月11日、月曜日。
今日からいつもどおりの学校が始まる。
いつもどおりというのは、授業のきっちり詰まった一週間が始まるということだ。
お正月気分も昨日まで。
お父さんは私より早く家を出て行ったし、お母さんも既に家事にかかっている。
私も気を引き締めていかないと……。
そう思って玄関を出ようとしたときあることに気付いた。
(どうしたの美汐?)
玄関まで送りに来てくれた真琴がお座りしたまま私の様子を伺う。
そして、私の視線の先にある物を見て声をあげた。
(あ……)
傘立てである。
そこに、あの少女とともに持ち帰った剣が立てかけられたままになっていた。
(忘れて帰ったのかな?)
「そうみたいですね」
少女が帰るときに訊ねなかったものだから忘れていた。
そんな些細なことを忘れてしまうほどに少女が印象的だったとも言えるが。
玄関の曇りガラスから冬の長い日が差し込み、立てかけられた剣が銀色に輝く。
美術品といっても悪くないような西洋剣が、一本数百円の傘と一緒に置かれているのは何ともいえないものがあった。
というか、何でお父さんもお母さんも気付かなかったんだろう。
昨日二人で買い物に出かけていたはずなのに。
人のことは言えないが、一家揃って注意力散漫だ。
(どうするの?)
真琴の質問に少し目を伏せて少女の特徴を思い出す。
三年生の制服に腰まで届く髪をリボンで束ねた、やや長身の姿。
特徴があるようで三年生ということ以外はっきりした特徴がない気もする。
あの無表情は特徴的だったが、いつもああなのかは分からない。
結局三年生ということ以外特徴らしい特徴はなかった。
というか、三年生であることも、私の学校の生徒であることもひょっとしたら違っているかもしれない。
「そうですね……とりあえず学校を探してみます」
まあ、今は学校に行くことが重要事項だ。
こんなところで考え事をしていても遅刻が待っているだけである。
そう思った私は、適当に場を切り上げることにした。
(行ってらっしゃい)
「はい、行ってきます。いい子にしててくださいね」
真琴の声を背に家を出る。
一面の雪世界に一瞬体が震えた。
そういえば、昨日は一日中家の中だった。
午前の授業も終わり、昼休みとなる。
いつものように、といっても1ヶ月ぶりだが、自分の机にお弁当を広げる。
お母さんに朝もらったものだ。
お母さんが作れない時なら自分で作ることもある。
そのため食堂を利用することは稀だ。
もっとも、私は食堂に行くくらいなら昼を抜く。
平日の昼休みは混雑していて、はっきり言って食べることの方が空腹を我慢するより面倒くさい。
おまけにうるさいときている。
その点、教室の、更に言うなら窓際の席は静かなものだ。
誰にも邪魔されずに食事が出来る。
「あ、天野さんちょっとちょっと」
「何ですか?」
もくもくと食事をしていると、同級生の少女に声をかけられた。
確か、快活で人当たりがよく男女ともに人気のある子だ。
面倒くさいと思いつつも、とりあえず無愛想には見えないようにある程度顔を作る。
ここで無視しようものならもっと面倒くさい事態になるだろうから。
……結局そんな取り繕いの態度が何を勘違いされたか『上品で近寄りがたい』というイメージになるようだが。
「うん、女子でアンケートしてるんだけど天野さんも答えてくれない」
そう言って少女が私に紙を差し出す。
そこにはクラスメートの女子の名前と、何人かの男子の名前が連ねられていた。
一番上を見ると、『好みの男性のタイプを教えてね☆』と書いてある。
また下らないものを……、とは思うが口には出さない。
授業中に暇になった誰かが回し始めたのだろう。
そして何故私にこれを持ってくるかもよくわかった。
変り者がどんな回答を返すか興味津々といったところに違いない。
「好きな男性のタイプですか……」
いい加減に返すと角が立つ。
真面目に考え込むふりをしてみせた。
「あ、そんなに深刻に考えなくてもいいんだよ。顔だけが好みとかもありだから」
すると、少々慌てたように手を振る少女。
お遊びに真剣にならなくてもいい、と言いたいのだろう。
「すみません。じゃあ、ペンを貸してもらえませんか?」
「はい、どうぞ」
箸と弁当箱を少し脇に寄せ、少女から受け取ったペンで紙に書き込む。
『石橋先生』……と。
紙とペンを返された少女がそれを見て顔をしかめる。
しかめるというか、眉をひそめるというか、いわゆる理解不能の反応だ。
「石橋先生って数学の?」
「ええ、落ち着いていて紳士な感じがしませんか?」
石橋先生とは私達の数学を担当している中年教師だ。
顔は悪くないし、生徒思いなところが評判なのだが、授業はかなり事務的なのが玉にキズと言われている。
一言で言って、『真面目なおじさま』な雰囲気の教師だろう。
当然、本当に好きなタイプのわけがない。
『上品な天野美汐』として求められるであろう回答をしたまでのことだ。
そもそも……私に好きなタイプなどというものがあるのだろうか?
「それはそうだけど……うーん、天野さんらしい」
首を傾げながらも少女は『ありがとう』と言って席を離れていく。
女子のグループに戻っていって談笑しているところを見ると、満足のいく回答だったのだろう。
まったく、私は何をやってるんだろうか。
彼女達を満足させる人物像を演じて。
溜息をつきながら食事を再開する。
またこれが何を間違ったか『アンニュイな雰囲気』とかおかしな方向に解釈されるのだろうと思いながら。
そういえば、三年生のところに先日の少女を探しに行かなければならなかった。
のんびりしてないで早く食事を済ませないと……。
そう思ったが、少し考え直す。
食堂に行くのも億劫なのに、見ず知らずの上級生の間を人を探して訊ね歩くのか……と。
おまけに少女の特徴はこれといってはっきりしたものではない。
間違うたびに何度も頭を下げないといけないのかと思うと行く気が一気に失せた。
筆箱を回収したおかげで、せずに済んだ訪ね歩きを何故わざわざしないといけないのだ。
しかも私に責任があるわけでもないのに。
なくて困るものなら少女の方から取りに来るだろう。
そう結論付けて少女の捜索は諦める事にした。
結局、私はどこかお人好しなのだろう。
自分のことはどうでもよくても、私が無視することで人の人生が変わるかもしれないとなると動かずにはいられないようだ。
家に帰って夕飯を食べたあと玄関の傘立てを見た私は、何を思ったか学校に向かっている。
二度と入るまいと思ったあの異界にだ。
それも家を出た時から狐の眼を開放して、森の裏道から。
抜き身の剣を持ったままなのだから人通りを避けるのは当然の配慮だ。
(ほんとにあの女がここにいるの?)
職員用昇降口を前にして真琴から声をかけられる。
そう、真琴もついて来ていた。
置いていくとまたうるさそうだし、人目を避けていくのなら真琴がいてもいなくても変わりはない。
そして、今入り口を目の前にしている異界にはおそらく人はいない。
いてはならない空間なのだ。
多分、私は一人でそこに入ることを心のどこかで恐れていたのだろう。
だから、普段は面倒くさいと嫌がるはずなのに真琴をあっさり連れてきた。
私は真琴に心の支えになってもらおうと甘えているのだろうか?
それとも、真琴を守ってやらないといけないと自らを奮い立たせるために真琴を連れてきたのだろうか?
そのどちらかはわからない。
とにかく、一人は怖かった。
「おそらくいるでしょう……彼女なら」
そう言って、先日のように異界に足を踏み入れる。
そう、彼女はきっとここにいる。
そしてなにか途方も無いことをしているのだ。
少女の言った『魔物』という言葉。
それと私の手の中にある、少女が持っていた剣。
それが何を意味するものなのか?
おそらく、この剣は武器なのだ。
その『魔物』と少女が戦うために使っていた……。
だが、その剣は現在、少女の手元にはない。
私が持っているから。
では、少女はどうしているのだろう。
家で震えて閉じこもっているだろうか?
それは無い。
あの少女の目には盲信にも似た何かの強い意志が感じられた。
『夜の学校は私の世界。誰も近づくな』というような。
彼女はナイフ一本でも『武器』としてここにやってきているに違いない。
と、そこで気付く。
そういうことか……。
私が彼女に嫌悪感ではなく、むしろ親しみを覚えたわけは。
あの少女の目、あれは何かに囚われた者の目だ。
つまり、私と彼女は似た者同士ということになる。
『傷の舐めあい』か……冗談じゃない。
一瞬浮かんだ親近感を首を振って頭から追い出す。
私はただ償いに来ただけ。
彼女の世界を勝手に侵し、尚かつ彼女の戦いを不利にしたことの償いに。
それが済んだらそこまでだ。
彼女と私の関係は赤の他人に戻る。
(美汐、どこを探すの?)
金に輝く瞳が光の尾を引いてこちらに向く。
いけない、少し神経質になりすぎたようだ。
知らず知らずのうちに動体視力の方までスイッチが入ってしまった。
「この前、彼女がいたところを中心に探しましょう」
(うん、二階の廊下だね)
さすがに階段を出たところで鉢合わせという状況は心臓に悪いので、あらかじめ旧校舎から二階に上がって渡り廊下を使うことにする。
まだこのあたりでは大した恐怖感は無い。
いや、何か空気が変わったように感じられるのは新校舎からだろう。
旧校舎と新校舎、それは一つの明確な境界線だ。
そして、新校舎こそ異界の最奥と言える。
連絡通路の角を前に足を止めてゴクリと唾を飲み込む。
心臓の鼓動が不気味に高まった。
どっくん、どっくん……。
まるでまわりの空間が脈打っているようにも思える。
まさにここは異界のはらわた。
(ねえ、美汐。なんだかここ……この前と雰囲気違ってない?)
真琴の声が、尻尾が震えている。
真琴がここで怯えている姿を見るのはこれが初めてだ。
いくら能天気とはいえ、真琴は霊獣である。
私には感じられないものを感じることができるのかもしれない。
それがこの怯え様、やはりここには『何か』いるのだ。
「戻り……ますか?」
ぶんぶんぶん、と首を振って私の提案を拒否する真琴。
私もそれに静かに頷いた。
「ええ、私も戻るのは怖いです」
私たちはそこに飲み込まれてしまった。
もう引き返すことは出来ない。
はやく彼女を探し出してこの剣を返さなくては。
彼女こそがこの異界におけるただ一人の案内人なのだから。
そして角を曲がり、新校舎の廊下に出た時。
廊下の奥に、うっすらと青い光のもやが映った。
それは人型をしている。
間違いない、彼女だ。
私と真琴は顔を見合わせて頷くと、そこを目掛けて一気に駈け出す。
多分、私たちは理屈ぬきに二人だけという状況が心もとなかったのだろう。
「良かった、すぐに見つかってよかったです」
少女の元に全速力で駆け寄り、肩で息をする私。
そんな私を見て少女はぽかんと口を開けていた。
が、すぐにキッと私をにらみつけて一言。
「何をしに来たの?」
と言った。
見ると少女の手には、一振りの反り返った剣が握られている。
剣というのではなく、『刀』、日本刀と言うべきだろう。
錆が目立ち年期を感じさせたが、刃には研磨したての光沢があった。
なるほど、替えの武器はあったという事か。
(何が『何しに来たの』よ! あんたのために剣を持ってきてあげたんじゃない!)
などと私が状況分析をしていると、少女の見ようによってはきつい態度に真琴が毛を逆立てて怒鳴った。
「……何、キツネさん?」
私のように真琴の言葉が分かるわけもなく、目の前でキーキーわめいている小動物を呆然と見つめるだけの少女。
理由もなく、というよりこの場合私にしか意味が分からないだけだが、何かが突然怒り出したら当惑するしかないだろう。
それはこのどこか現実離れした少女でも同じことのようだ。
その呆然とした表情がどこかおかしくて、緊張した空気は一瞬にして消し飛ぶ。
なんとなく、真琴を連れてきて良かったと思った。
もっとも、真琴自身は少女とウマが合わないようなので本意ではないだろうが。
「真琴、騒いでもその人には分からないですから静かにしてください」
(あ、あぅーっ!)
威嚇のつもりか右の前足を上げてパンチらしき仕草を繰り返す真琴を、左腕と体に挟み込むようにして強引に抱き上げる。
もがもがと何か言いながら真琴が暴れているが、とりあえず無視して右手に持った剣を少女に差し出した。
少女は無言でそれを左手で受け取り、右手の日本刀とじーっと見比べながら時折持ちかえて軽く素振りをしてみせる。
何か訝しんでいるような雰囲気に思わず口を挟まずにはいられなかった。
「あの……この間、あなたを介抱した時に私の家で預かっていたものです」
「わかってる」
少女は横目で一言そう答えると、剣を右手に、日本刀を左手に持って私を正面に見据える。
「慣れたものの方が使いやすい」
あくまで無表情、だがそれはお礼の気持ちなのだろう。
邪魔ではなく、『あなたの行為は私にとって益になった』という。
そして、少女にもそんな凝り性なところがあるという発見がなんとなく新鮮だった。
「ええ、そうですね」
少女の言葉に『どういたしまして』のつもりで相槌を打つ。
本当に何かおかしな会話だ。
そう思っていると少女が左手に持った日本刀を私に突き出す。
「これは?」
意図がよくわからない。
決闘の申し込みだろうか?
「これはもういらないから」
思わず言葉を失った。
つまり、邪魔だからかわりに持って帰ってくれということなのだろうか?
いや、それとも剣を持ってきたお礼にくれるということなのかもしれない。
おそらくそっちだろう。
少女は礼儀知らずというようには見えない。
ただ常識的な礼節が欠けているだけなのだ。
それが何故なのかは分からない。
ただ、私と同じように、どこか現実との糸が切れてしまった人間の雰囲気がする。
「それはいりませんから、よければ外まで送ってもらえませんか?」
「…そう」
少女は残念そうに差し出した日本刀を取り下げ、傍の壁に立てかけた。
どうやら剣を持ってきたお礼で間違ってなかったらしい。
「ついてきて」
少女は厳しい目をして一言そう言うと、くるっと私たちに背を向けて歩き出した。
その目は使命感を帯びた者の目だ。
私たちを無事にここから送り出すという。
少女がそう身構えなくてはならないというのは、やはりここが危険な場所ということなのだろうか。
(美汐、そろそろ降ろしてー)
「はいはい」
腕の中でジタバタもがき続ける真琴を解放してやる。
すると、真琴はトンッと地面に着地し、私の方を半身で振り返って言った。
(あの女、そんなに悪いヤツじゃないのかも)
「真琴もそう思いますか?」
(うーん、ちょっと違う気もするけど……美汐に似てる気がする)
そう言って首を傾げる真琴。
第三者の視点でもそう見えるのか、ということに改めて少女と自分の共通性を認識させられる。
「そう…ですか」
だが、嬉しくはなかった。
そんな少女に思わず駆け寄って、色々話をしてみたくなる自分がいることが。
狂ってる、こんな少女とお友達にでもなろうというのか?
夜の学校で得体のしれないことをやってる不審人物と、だ。
あってはならないことだ。
はみ出し者がつるむ、それがどんな光景として映るだろうか?
ここぞとばかりに世界は私に牙を剥くだろう。
私のような人間は一人でいるのが一番なのだ。
「…ついて来てくれないと送れない」
後ろで少し話し込んでいた私たちに少女が振り返って声をかける。
まさにその瞬間……。
ガキッ…
明らかに、何か異質な物音がかすかに響いた。
風で何かが鳴ったような音ではない。
まとわりつくような、有機的な雰囲気の音だ。
(何か来るっ)
真琴が耳を立てて全身の毛を逆立てて見つめる先は正面。
私たちがやってきた方向である。
「…動かないで」
一言、そう言って廊下の中央に立ちはだかる少女。
私たちを守ってくれるということなのだろう。
この異常事態にあって、何故かその背中は大きく頼りがいのあるものに映った。
やがて視界の先に青い炎のようなものが見える。
この眼でなければ暗闇に人魂という嫌な状況だろう。
……人魂じゃない!?
ヒタヒタとこちらに向かってくるその青い炎は人魂などではなかった。
だんだんと大きくなり……炎の中に何か人型の者が見える。
それは……。
「……女の子?」
揺らめく炎の中に映るのは小さな女の子。
背中の中程まである長い髪に、うさぎの耳の頭飾り。
青い炎のようなものの中にいるのと、体が透けていることから人間でないのは一目瞭然である。
だが、これが少女の口にしていた異界に住む『魔物』だとするとかなり拍子抜けだ。
無邪気に微笑んでいる姿は、異様とはいえ恐ろしさを感じるものではない。
だが……。
チャリ……。
少女は女の子の接近にあわせて剣を両手に構える。
まさか、あんな小さな子にその剣を振り下ろす気なのか!?
その光景を想像した瞬間、背筋がゾクッとする。
気付いた時には、私は少女の袖を後ろから掴んでいた。
「何をするつもりですか!?」
(そうよ、それで何する気なのよ!?)
気付くと、真琴も少女の足元に居座り少女の行く手を阻んでいる。
「…邪魔」
振り向いて、袖を掴む私を睨む少女の眼光はまるで鬼か修羅のようだった。
間近にその威圧感を浴びせられ思わずたじろぐ私と真琴。
だが、そこで自分がおかしいことに気付く。
少女の様子から、目の前の女の子が見かけとは大違いの危険なものかもしれないということに。
そう思った瞬間の出来事だった。
距離2、3メートルくらいのところで女の子が右腕を持ち上げる。
それと同時にぶわっと巻き起こる巨大な青い炎。
それが女の子の右腕で渦を巻き、巨大な拳を形作る。
そして女の子は微笑みながら……。
その巨大な拳をブゥンと振った。
無造作に。
……体が動かない。
眼の力でゆっくりと全てが見えているのに。
そのあまりの想像を超えた異常な光景に腰が抜けてしまったのだろうか。
炎の巨腕が唸りをあげて、ゆっくりと左から迫ってくる。
コマ送りの世界だというのにそのスピードは速い。
当たったら焼け死ぬのだろうか?
それともグチャグチャにされてしまうのだろうか?
お父さん、お母さん……。
……いままでごめんなさい。
ドンッ!
目を閉じた瞬間にそんな音と強い衝撃が私を襲った。
痛い……。
だけど、これで死ねるなら死ぬのってそんなに痛くないかもしれない。
「立って!」
誰かの声。
なんだか必死だ。
何だろう?
そう思って目を開ける。
すると……。
「早く!」
私に覆い被さった少女が体を起こしながら、私の手を引っぱっていた。
……あれ?
生きてる?
少女の背後には、高々と掲げられた青い炎の拳が今まさに振り下ろされんと……。
(美汐、逃げてーっ!)
真琴の叫びに、はっとして私は少女を突き飛ばすと同時にその反動で地面を転がった。
間一髪のところで拳は私と少女を捉え損ね、リノリウムの床を穿つ。
『叩く』ではなく、穿つだ。
びりびりと地面越しに凄まじい振動が私の体を突き抜ける。
当たっていたらぺしゃんこだった。
つまり、炎のように見えるあれは炎ではなく固体、それもかなりの質量と硬度を持った固体だ。
……青い炎?
そもそもあれは炎なのか?
見方によってはそれは『もや』とも言えるのではないか?
まさか!?
辛うじて立ち上がった私は、無邪気に笑みを浮かべている『それ』に目を向ける。
そして……眼の力を切った。
そこには何もなかった。
夜目が利かなくなった暗闇の中、私の目の前にいたはずの女の子の姿はどこにもなかった。
はじめからそんなものはなかったかのように。
そんな馬鹿な。
あの青い炎は、あの子たちが化けた人間の証である青いもやなのか?
それも今まで見たことがないほど強烈で濃い青だ。
まるでもやだけが集まって形をなしているような……。
一体さっきのは何だったのだ!?
あまりに現実離れしすぎている。
この現実離れした眼が、さらなる現実離れしたものを見てしまった。
そう、これはまるで悪夢。
(危ないっ!)
真琴の叫びと同時に、少女が私の手をぐっと引く。
刹那、私の鼻の先を『ブンッ』と唸りをあげて何かが通り過ぎた。
その風圧に髪が舞い上げられる。
おそらく、さっきの巨大な拳が通り過ぎたのだろう。
人間の目には不可視の圧倒的な暴力。
もし私が狐の眼などというものを持っていなかったら目の前の怪異をこう呼んだことだろう。
『魔物』……と。
「向こうまではし……っ!?」
体勢を立て直すために向こうまで走る、と少女は言いたかったのだろう。
だが、悪いことに手を引いた私の足が少女の足にからまった。
狐の眼を一旦解除していたせいで、足元がよく見えなかったのだ。
倒れこんでから眼の力を開放してももう遅い。
(美汐ーーっ!)
真琴の必死の叫びが響き渡る。
青の巨腕は、まさに振り下ろされんとしているところだった。
足のもつれた私と少女は転がることもままならない。
今度こそ終わりか……。
「ギイイイイイイアアアッ!」
振り下ろされた腕が私達に叩きつけられる寸前で、パンッと風船のように弾けて消える。
それと同時に、怒号とも悲鳴とも分からない金切り声が校舎を突き抜けた。
見ると炎のようなもやが薄れ、足を押さえながら恨めしげに女の子がこちらを睨んでいる。
その先にいたのは、先ほどの日本刀を咥えた真琴。
つまり、真琴が女の子に……いや『魔物』に傷を負わせたということか。
私ともつれた足をほどき、少女が剣を構えて立ち上がる。
その目には非情な光が宿っていた。
終わらせる気だ。
戦いに身をおく者なら、敵の隙を見逃すわけなどない。
魔物目掛けて、少女の剣が銀の残光を走らせる。
ガキッ!
少女の剣が捉えたのはリノリウムの床だった。
その音を最後に静寂が辺りを支配する。
床を叩いたままの姿勢で少女は動かない。
真琴も日本刀を咥えたままだ。
そして、私も少女の背中を見つめたまま。
1分くらいたっただろうか?
少女が床に叩きつけた剣をゆっくりと引く。
「やったのですか?」
結末を少女に尋ねる。
多分答えは『NO』。
私の眼は見ていた。
少女の剣が当たる寸前に、魔物がその姿を霧散させたのを。
「…逃げられた」
無表情で、その顔は残念とも悔しいとも感じられない。
何か慣れのようなものだった。
少女と魔物の戦いは今に始まったものではない、ということだろうか?
「与えたのはかすり傷。でも、キツネさんの攻撃で戦意をくじかれた」
少女は戦いの顛末を淡々と解説しながら、真琴の咥えた日本刀を回収する。
緊張を解いた様子から察するに帰り支度に入ったようだ。
「魔物退治は、もういいのですか?」
「今日はもう出ない」
即答だった。
一体この少女はあの魔物の何を知っているというのだろうか?
何もかも分かっているような口ぶりが妙だ。
「あの女の子は何なのです?」
だが、その言葉に少女の眉がぴくりと動いた。
さも予想外のことを聞いたという様子で私に振り返る少女。
「…女の子?」
「ええ、うさぎ耳のカチューシャをした女の子です」
まさかこの少女には見えていないのか?
いや、確かに普通の人間の目には見えないようだが……。
そんな見えないモノを相手に、少女は何故そんなにも詳しくなれるのだろう?
それほどまでに長い間あの魔物を相手に戦ってきたということなのかもしれない。
勘と身体能力だけで。
「私の目では何も見えない」
「……え?」
今、少女は『私の目では』と言った。
それはつまり……。
「知っていたのですか? 私の眼の力を」
だが、少女はその問いに軽く首を横に振った。
「…よく分からない。だけど、綺麗な目だと思う」
「……あ」
二の句が告げられなかった。
そんなまっすぐに、この眼のことを綺麗と言った人間は彼女がはじめてだったから。
そして、何より彼女の言葉は包み隠さない感情そのものだった。
だから、私は彼女の言葉に壁を作れない。
そして彼女は勘だけで気付いている。
光るだけの眼ではないということに。
「キツネさんの目も綺麗」
少女の興味は眼下の真琴に既に移っていた。
真琴の目をじーっと眺めているだけだが。
(美汐…この女、アタマ大丈夫?)
……答えるまい。
今の声は聞こえなかった、ということにしておく。
だが、真琴の言う通りだ。
この少女は私以上に現実から切り離されている。
一体、この少女は何なのだろうか?
そして、この眼でしか見えないあの女の子は何なのだろう?
これ以上、この少女といると飲み込まれる。
その得体の知れない何かに。
一歩踏み出せば、もう引き返すことは出来ないに違いない。
駄目だ、そんな得体の知れない世界に足を踏み出しては。
歩いていける勇気もないくせに。
くるり、と真琴を見つめていた少女が私たちに背を向け歩き出す。
突然の行動に慌てて呼び止めた。
「あの、どちらに?」
「…帰る」
顔だけちらりとこちらをふり返ってそう言うと、何事もなかったように歩き出す少女。
その意識には、私たちのことはもう存在しない。
「待って下さい。送ってくれるのではなかったのですか?」
何を必死になってるんだろう。
何で、私はそんなに少女に気にかけてもらいたいのだ?
「今日はもう大丈夫だから」
少女はそう言い残すと、それを最後に視界の先へと消えていった。
追いかけることもできず、かける声も見つからなかった。
だが確かに少女の言う通り、異界の脈動らしきものはきれいさっぱり感じられなくなっている。
いや、むしろ異界が消え去ったというべきか。
取り残された私たちはしばらく校舎の窓から見える月を眺めた後……。
(……そろそろ帰る?)
「……そうですね」
一言お互いにそうかわすと、こくんと頷きあって言葉少なに歩き始めたのだった。
多分、私の心に渦巻く感情は……。
『好奇心』というものだったのだと思う。
不思議な少女と、この眼にしか見えない魔物の女の子。
こんな私でも揺れ動かされるほどの、そんな絶対的な好奇心だ。
それが堰を切る手前のところまで溢れている。
もしも少女が私に手を差し伸べていたならば、それが最後となっていただろう。
『面倒くさい』と諦めたのに、今度は『諦めるのを諦める』女。
それが美汐です。
ようは面倒くさい女ということ。
こりゃ友達できんわ、と思っていただければ嬉しいです。
……何言ってるんだ、私?
というか、こんなのが主人公で大丈夫なんだろうか。
ただ、原作見てもらえれば、実際こんな子です。
祐一に察してちゃんみたいな態度で接しておきながら、実際祐一が接触しに行こうとすると拒絶するっていう。
よくある『色がついていなくて都合のいい女』……ってのは違うなあと思ってます。