『もう一つの物語』   作:ミサ菓子折(LRA)

6 / 6
1月12日(火曜日)

     1月12日(火曜日)

 

 

 大した量の宿題もなく、1時間目の授業がチャイム数分前に終わる。

 多いよりは少ないにこした事はないし、授業が早く終わるにこした事はない。

 ……ものだと思う、宿題や授業というものは学生にとって。

 しかし、どこのクラスか知らないが、まだ気温も上らない朝のうちからマラソンとはご苦労様だ。

 混む前に済ませておいたトイレの帰り道、三階廊下の窓からグラウンドを眺めて哀れみを覚える。

 まだ完走していない生徒が数名よたよたとグラウンドを回っていた。

 チャイムまであと数十秒というところか……本当にご苦労様だ。

 2時間目以降は疲労で授業どころではないだろう。

 

 

 教室に戻ると同時にチャイムが鳴る。

 これからが2時間目までの10分間の休み時間だ。

 と言っても特に話相手がいるわけでもないし、話すつもりもないのでさっさと自分の席に戻る。

 一番奥、窓側の席に。

 廊下から戻ってきたばかりなのと、窓から吹き込む隙間風のせいで少し体が震える。

 水筒に入れてきた熱いお茶でも一杯飲もう。

 その前に手洗いで冷え切った手を水筒の熱であたためて……。

 資源は有効活用しなくてはいけない。

 とりあえず、休み時間もまだまだゆうに5分以上残っているので、お茶をのんびり楽しもう。

 そう思って窓の外を眺めながら、湯気を立てるお茶を両手でゆっくり口に運んだ瞬間……。

 

(歩こ~♪ 歩こ~♪)

 

「ぶっ!」

 問答無用で口に含んだお茶を噴いた。

 問答無用に真琴の声だった。

 雷に打たれたかのごとく、凄まじい早さで窓を開け放つ。

 身を乗り出すと、窓下の狭い足場を尻尾をふりふり真琴が歩いていた。

 いや、それ以前にここは三階、どうやってこんなところに!?

 窓を開く音に真琴が上を向き、目が合う。

(あ、美汐そこにいたんだー)

「な、な、な……何やってるんですか!?」

 一人で騒ぐと変に思われるので、必死にトーンを落としながら真琴を怒鳴りつける。

 なぜ家で大人しく留守番してるはずの真琴が学校にいるのだ?

 だが、そんな私の焦りとは裏腹に真琴はけろっとした顔で……。

(何って……探検だけど? まだまだ見てないところたくさんあるから)

 と言った、それもさも当たり前と言わんばかりに。

 がくっ、と一気に腰の力が抜ける。

 ふらふらする頭を押さえながら、私は窓枠にぶらーんと垂れ下がる布団になってしまった。

 ああ、布団といえばこんな言葉があったっけ。

 『立てば食欲、座れば布団、歩く姿はブリの腹』とかいう。

 いや、全然関係ない。現実逃避するな、私。

 そもそも正しくは『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』だ。

 ちなみにこれは女性の美しさを褒める言葉である。

 つまり、そういうことだったのだ。

 筆箱を探しに来た時、真琴が寄り道せずやけに素直についてきたわけは。

 『行き方は覚えたからまた今度来よう』

 あの時からそう思っていたのだろう。

 真琴の楽天的な性格ではそれくらい考えることくらい分かったはずなのに……。

 しっかり釘を刺しておかなかった事を思いきり後悔した。

 

「おい、天野。なんで窓開けてるんだ? 寒いだろうが」

 

 後ろから不機嫌そうな男子生徒の声。

 まずい、こっちに歩いてくる。

 とっさに真琴の尻尾をむんずと掴んだ。

(わ、わわっ、なに、なんなの!?)

「植え込みを伝って向こうの角に行ってください。それと……受け身は取ってくださいね」

 空いてる左手で指差し、小声で早口にそう言うと……。

(あうぅっ!?)

 真下の、雪をこんもりかぶった植え込みに投げ込んだ。

 真琴は小さな悲鳴を上げるも、その声は枝葉の揺れる音と雪の落ちる音にかき消される。

 見た目の太さに違わず、それなりに尻尾も丈夫だったらしく切れていない。

 夏の大掃除の最中、同じ植え込みにここから落下して無傷だった人もいるしまず大丈夫だろう。

 今は雪をかぶっているし、軽くて小さい子狐なら尚更だ。

 何はともあれ視界からの抹消完了にひとまず安堵。

 とっさとはいえ、かなりとんでもない行動に出たのは冷や冷やものだが。

 だが、これで全て終わったわけではない。

「何やってんだ、早く閉めろよ」

 窓から体を起こし、教室に顔を戻すと先ほどの男子生徒が私を睨みつけていた。

 その後ろでは他に数人が同じように私を睨んでいる。

 

 そう、これが私のクラスでのもう一つのあり方。

 誰にも好かれていない。

 何もしていなければ特にこじれることはない。

 だが、このように不快感を与えたり、少しでも浮いた真似をすれば……。

 私の周りは一気に敵となる。

 誰にも好かれないとは、そういう世界なのだ。

 権利というものは義務を果たすことによって得られる。

 人の世界では『放っておいてもらう』ということもまた権利なのだ。

 『放っておけるに足る姿勢を維持する』という義務を果たさなければそれは認められない。

 

「すみません、ムカデが机の傍を這ってたので」

 窓を閉じながら頭を下げる。

 別に彼らにどう思われていようが構わない。

 ただ、そのことで日々下らない嫌がらせを受けるのが面倒なだけだ。

 だから、彼らを納得させる言い訳をしておく。

「ムカデ? そんなの冬に出るわけねーだろ」

 ムカデは越冬する虫だ。

 だから冬場でも、いないわけではない。

 特に暖房の効いた屋内では、冬場でも活動している姿を稀に見かける。

 だが、目の前の男子生徒はそこまで虫の生態に詳しくないのだろう。

 とっさに思いついた冬場のムカデという言い訳を信じてもらえない。

 彼の後ろの生徒たちも同様だ。

 いや、よく見ると彼らは普段あまり私を快く思ってない生徒たちだった。

 運動会系のクラブに属しているとかで、私のようなウジウジした汚物が教室にいること自体気に入らないという。

 これをきっかけに私を教室から追い出してやろう、というところだろうか。

 思想や信念があるわけではない。

 この学校という単調なサイクルを繰り返す箱庭では、そんな下らないことが普通に『暇つぶし』となるのだ。

 とはいえ、彼らの『暇つぶし』などにこの身を晒してやるつもりなど毛頭ない。

 どうしたものだか……。

 

「きゃああああっ!」

 

 目の前の敵をどう捌くか考えあぐねていると、突然教室に女生徒の悲鳴が響き渡った。

 続いて起こる、机や椅子の雪崩音。

 目の前の敵を含め、クラス全員の目が騒音の起きた教卓側に集まる。

 椅子や机が円状になぎ倒され、その端に倒れこんでいる女生徒。

 嘘から出た真琴。

 もとい嘘から出たまこと。

 合わせて、真琴から出た嘘から出たまこと。

 円の真ん中にいたのは……一匹のムカデだった。

 まさか本当に出るとは。

 しかもかなり大きく10数センチはある。

 おそらく教卓から這いずり出てきたのだろう。

 多分私が窓を開けたことによる外気の気温変化に驚いて。

 たった一匹の小虫。

 だが、巨大で毒虫、さらに醜悪な外見の持ち主の彼はクラスを騒然とさせるには十分だった。

 

 

「うわっ、マジでいやがった!」

「きゃあっ、来ないでっ」

「ムシ! ムシ、キライ!」

「でかっ」

「誰か何とかしろ!」

 

 

 悲鳴を上げる者、教室から逃げ出す者、遠巻きにムカデを取り囲む者。

 とにかく、蜂の巣を突付いたような大騒ぎだ。

 既に私の目の前に立ふさがっていた数人は、私のことなどを忘れてムカデ包囲網に加わっている。

 中には上履きを手に持って、攻撃する隙をうかがっている者もいた。

 ……やれやれ。

 ムカデを追い出したと言っておいて、ここで知らんふりを決め込むわけにもいかないだろう。

 それに、このままだと彼らの『暇つぶし』のために殺されるムカデがかわいそうだ。

 彼自身はただ『放っておいて欲しい』だけだろうに。

 そう思い立った私は、掃除道具用ロッカーを開け、ホウキとチリトリを取り出す。

 噛むアゴにさえ気をつければ素手でも掴めるが、ショーでもないのにそこまでの危険を冒す必要はあるまい。

 無言でムカデ包囲網の隙間を通り抜けた私は……。

 さっと一掃きホウキでムカデをチリトリに収め。

 手早く近くの窓を開けて、植え込みにムカデを投げ込んだ。

 ピシャリ、と窓を閉じて振り返ると、その様子を眺めていたクラスメートの人垣から溜息が漏れる。

 騒動の去った安堵と虚脱、そして感心の入り混じったような溜息が。

 

「……天野さん」

 

 ホウキとチリトリをしまいに向かおうとしたところで、誰かに呼び止められる。

 ムカデの第一発見者だった女生徒だ。

 かなり虫が嫌いだったらしく、その表情はいまだに怯えが見てとれた。

「その……ありがと、助かったわ」

 形だけの礼……というわけでもないようだ。

 そもそも、普通は私なんかに形だけでも礼などしたくはないだろう。

「冬場のムカデは動きが鈍いですから、そんなに怯える必要はないですよ」

 大したことをしたわけではない。

 『どういたしまして』の代わりにそう説明し、小さく頭を下げて女生徒に背を向ける。

 これでいい、下手に飾ればまた角が立つ。

 

 

 私が教室の後ろにある掃除道具用ロッカーに道具をしまうと、止まっていた時間が動き始めた。

 女生徒がムカデに怯えて倒した机や椅子、散乱した教科書等を、先ほどムカデを取り囲んでいた面々が協力して元に戻していく。

 先ほど私を睨みつけていた男子生徒達もその中に加わっていた。

 何も言わずとも仲間のために手を貸してやれる。

 それは群れで生きるものの素晴らしさだと思う。

 ……ここは私のような、ハミ出し者のいるべき所ではない。

 私は逃げるように教室を抜け出し、昇降口に向かった。

 

 

 

 

 

 

 昇降口を抜けると同時にチャイムが鳴る。

 二時間目開始の合図だ。

 少しサボることになるがしかたない。

 お腹の具合が悪かったことにしておこう。

 そう思いつつ、中庭側にある校舎の死角に入る。

 真琴がお座りして待っていた。

 目線を合わせることなく上から睨み付ける。

 それだけで真琴は背筋をびくっと震え上がらせた。

「真琴……私が学校にいる時は家で大人しくしてなさいと言いましたよね?」

(あ、あぅー)

 真琴は意外に叱られるのに弱い。

 こうやって見下ろしながら不機嫌ぶりを示すだけで、すぐにしゅんとなる。

 それで物分りがいいのかというとそれは違う。

 真琴の姿は、子供なら誰しも大きい相手に怒られたときに取る態度だ。

 つまり、なんとかその場を逃れようという単なる避難体勢。

 だから、ここからが重要だ。

 叱り方を考えないと言うことを聞いてもらえない。

 動物の躾、というか子供の躾は面倒なものだ。

 かといって私が怒っていることを分からせなければ、やりたい放題になるから放っておくわけにもいかない。

 怒りを少し収めたように溜息をつき、あきらめ口調で語り掛ける。

 叱りつけた上で言い分を聞いてやるという寛容の姿勢を示す、いわゆる飴と鞭の心だ。

「だいたい、どうやって家から出てきたんですか?」

 最近は漫画やテレビに興味を示し始めて、留守番もそんなに苦痛ではなくなっていたはず。

 冬場の締め切られている家からお母さんの目を盗んで抜け出すなんて容易とも思えない。

 そんなことをするくらいなら、素直にテレビか私が昔集めていたままになっている漫画でも見ているだろう。

 ちなみに、目から怪光線も、昨日の日本刀を咥えての攻撃もそこから得た知識だったらしい。

(……ん? 普通に玄関から出てきたけど?)

 少し緊張の解けた真琴が普通にそう答える。

 普通に、とは含みがないということだ。

「玄関からって、お母さんは何をしてたんです?」

(何って……真琴が玄関までお買い物の見送りに行ったら、『あら、お散歩に行きたいのね』って無理矢理あたしを外に……)

「……元凶はお母さんですか」

 案外しっかり者のお父さんに比べて、お母さんは寛大なのか抜けているのかよく分からないところがある。

 首輪もなしに狐を街中に放してまずいとか思わなかったのだろうか?

 しかも真琴にとってもありがた迷惑そのものである。

(で、お散歩自体は楽しいし、せっかくだから学校の探検に来たの)

「もういいです、状況はよく分かりましたから」

(ほんとっ? じゃあ……)

「誰もここを探検していいなんて言ってません!」

 飛び跳ねて喜ぼうとした真琴をピシャリと言葉で叩き落す。

 はぁ、一度でも学校になんか連れてくるんじゃなかった。

 道さえ分からなかったら散歩でもこんなところには来なかっただろうに。

「とにかく、ここは人もたくさんいますから、散歩なら家の裏の山かものみの丘くらいにしてください」

 そう言って『帰りなさい』と裏の山の方向を指差す。

 だが、真琴はお座りしたまま右前足を挙げてひらひらさせながら……。

(見つかっても大丈夫だよ)

 と言った。

 どこにそんな根拠があるのかさっぱり分からないくらい自信を持って。

「……何が大丈夫なんですか?」

 呑気に教室の前を歌いながら、もとい鳴き声を上げながら歩き回っておいて何が大丈夫なものか。

 野生動物が学校に侵入したと分かったら大騒ぎになるのは間違いない。

 時折闖入する野犬にしてもそうだが、傍目に見てどんな病原菌を持っているかわからない生物なのだから。

 それに、そうでなくても学校で私の元に駆け寄られたら困る。

 真琴を家で世話していることなど、職員室で色々説明しなくてはいけない。

 下手をすると狐を校内に持ち込んだ等で説教を食らう可能性もある。

 つまり、真琴はどうでもよくても私がどうでもよくないのだ。

 私がくらくらする頭を押さえながら考え込んでいると、真琴はその場をくるくると元気よく走り回り始めた。

 くるくると円状に。

 1周、2周、3周、『ワン』とは鳴かないで4周、5周……。

 10周くらい回っただろうか?

 そこで足を止めて私の方を見る真琴。

 はっは、と白い息を小刻みに吐き出し、尻尾をぱたぱたと振りながら。

(ねっ? これで分かったでしょ)

 何がわかったというのだろう?

 ただくるくる走り回って見せただけで何を分かれと言うのだ。

「バターにでもなるのですか?」

 少なくとも絶対違うであろう非現実的な答えを返してみる。

 というか『分からない』と遠まわしに言うただの嫌味だ。

(……バター?)

 嫌味というのは意味を解せぬ者相手には全くもって効果がない。

 まあ分かったところで一つ余計な問答が増えるだけなので分からない方がいいのだが。

 ついでに相手が物事にこだわらない性格だと尚よい。

 真琴は『バター』を特に気にせず言葉を続ける。

(そうじゃなくてほらっ)

 

 くるくる……くるくる……。

 くるくる……くるくる……。

 

「わけが分かりません」

 いい加減目が回りそうなのでハッキリと思っていることを伝える。

 そもそもこっちは授業を放棄してこの場にいるのだ。

 真琴のクイズに付き合っている暇はない。

(もう……美汐は鈍感なんだから)

 少なくともあなたのような能天気よりはマシです。

 ……とは口に出さないでおく。

 というか、私が鈍感なのではなくて真琴の方が何か勘違いなことを考えているのではないだろうか。

(こんなかわいい子狐を見たらみんな大喜びだよ)

「…………」

 すぅっ、と息を吸い込んで……。

 はぁっ、って息を吐く。

 

 うにゅぅ、空気が気持ちいいよ~。

 

 頭の中にそんな間延びした声が響いた。

 青空に消える飛行機雲を見送ってさらに溜息。

 もうなんかどうでもよくなるそんな気分だ。

「で、どうかわいさをアピールするんですか?」

(え? どうって……これでイチコロかな)

 雪の上に寝転がり、両足をぴちっと合わせて横になる真琴。

 狐のくせに猫のようによく伸びる体だ。

 そして、その格好で少し溜めをおいて目を細めた真琴は一言。

 

(ウッフ~ン)

 

 すぅっ、と息を吸い込んで……。

 はぁっ、って息を吐く。

 またすぅっ、と息を吸い込んで……。

 またはぁっ、って息を吐く。

 そしてまたすぅっ、と息を吸い込んで……。

「アホですかあなたは!」

(わ、わあっ、何で!?)

 大声に飛び上がった真琴を捕まえ、こめかみに両拳を当てる。

 そして……。

(イタタッ、イタイ、イタイーーッ!)

 

 ぐりぐり、ぐりぐり。

 

 いわゆるウメボシをくれてやった。

 真琴は、むかし私が買った児童漫画か何かのボインお姉さんでも真似したのだろうか?

 何にせよ馬鹿なことを覚えないようにしっかり体に覚えさせておかねば。

 

 

 

 

 

 

「いいですか? 普通の狐が人を見たときの反応は『逃げる』です」

(……あぅ、わかった)

 真琴を解放後、私は数分クドクドと真琴に説教を垂れた。

 学校には入ってきてはいけないこと。

 世の中は狐をかわいいと思ってくれる人ばかりではないこと。

 漫画とかで覚えたことを鵜呑みにしないこと等々。

 だが、真琴はどれもこれも納得しているようには思えない。

 まあ、自分が自由奔放に生きていた子供だった頃を考えれば、叱られても『何で何で?』という気持ちしか起きないだろう。

 それにそもそも相手は狐だ。

 今叱ったことも、あくまで人間社会の常識にそってのことである。

 突き詰めて『何故かくあるべきか』と言われると、なんとなくそれが正しいと思われているから、程度にしか説明がつかない。

 結局、言いたいことは騒動の元になる行動は止めてくれということなのだろう。

 あとは単に私が口うるさいだけ、そんな気がした。

 そう考えた私は、肩の力を抜き『もう説教はやめです』と態度で示す。

「ふう、もういいです。どこを散歩しても構いませんが、他の人に捕まらないようにしてください」

(えっ、いいの?)

 どこまで説教を本腰を入れて聴いていてくれたのか非常に疑問だが、真琴の目が輝く。

 ……子供だ。

 きっとお父さんやお母さんは私を育てるのに苦労したんだろうな、と思う。

「ただし、私に迷惑をかける行動だけは止めてください。それくらいは考えて行動できると信じてますからね」

(うん、わかった)

 何でもかんでも言って聞かせるより、自分で考えるということを学ばせた方がいいかもしれない。

 そう思って私はそれで締めくくることにした。

「それでは、私は教室に戻りますから。満足したら家に一人で帰ってくださいね」

(うん、じゃあねー、美汐)

 真琴は嬉しそうに尻尾を振ると、そこから体育館の方に駆け出していった。

 やれやれ、元気なことだ。

 その後姿に子供時代の自分を重ねながら、私は教室へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

「『She was named for vanilla.』はい、キミ訳して」

「彼女はバニラの為に名付けられた、ですか?」

「違います。『be named for』は『何々にちなんで名付けられる』という成句です。となると訳は?」

「彼女はバニラにちなんで名付けられた、です」

「そうですね、ちゃんと覚えておいて下さい。では次の英文を……」

 

 

 途中出席の2時間目も終わり、今は3時間目残り15分というところ。

 授業は確認するまでもなく英語だ。

 正直言って英語は嫌いである。

 そもそも昔の敵性言語ではないか。

 そんなものを必死になって生徒に勉強させるなんて恥を知れ、と言いたい。

 いや、本当はわかっているのだ。

 この先私が世界に出て行くことも、外国の人と話を交わすこともないだろう。

 そんな広い世界に私の目は向いていない。

 だから英語なんて私の役には立たないのだ。

 つまり、卒業や受験のための障害でしかない。

 

 

 溜息をつきながらぼーっと窓の外を眺めてみる。

 よく晴れ渡りすきとおった青空。

 まさに青天だった。

 雲一つでも浮いていれば少しは面白いだろうに、なんて退屈な空なんだろう。

 だからといってUFOが家畜を吸い上げているところを目撃したいわけではないが。

 ……敵性言語と言った矢先から『UFO』か。

 我ながらいい加減なものだと思う。

 まあ、ようはその程度のレベルの低い言いがかりということか。

 自分に呆れながら視線を下に。

 今度はつまらない白一色の中庭が広がっているだけだろう。

 予想通り、窓の向こうには見渡す限り雪の中庭と人の姿があった。

 

 ……人?

 

 何故こんな時間に人、それも私服の少女が立っているのだ?

 見えるのは小さな後姿だけだが、年齢的に私と同じくらいではないかと思われる。

 髪の長さは肩までの私と同じくらい。

 風に揺れるチェック模様のストールが印象的だ。

 しばらくその様子を凝視していると、少女がこちらに向かってくるりと向きを変える。

 色白の肌、白と黒のコントラストが目立つ服装にチェック模様のストール。

 それと胸のところに何か黄色っぽい飾り。

 遠くて細かいところまではよく見えないが、少女の外見はそんな感じだった。

 しかし、あの胸からフンドシのように垂れ下がっている黄色っぽい飾りは何だろうか?

 太陽の光を受けて金色に光っているようにも見えるが……。

 遠目でははっきりしないものの、どう考えても不釣合いな装飾品だ。

 などと思っていると、ひときわ垂れ下がったそのフンドシらしきものの前掛けがひとりでに動いた。

 それも風の向きとは逆に。

 いや、それどころかしきりに所在なく動き回っている。

 一体あれは何なのだろう?

 よく目を凝らして見つめてみる。

 

 ……?

 

 身につけているというよりは、少女が何かを胸に抱き上げているというような感じがする。

 小動物か何かを。

 多分、前掛けのように垂れ下がり揺れているのはその動物の尻尾だろう。

 ……黄色で長い尻尾を持った小動物?

「『He glanced at me and moved toward the companionway for the upper deck.』この訳を……」

 

 ガタッ!

 

 女性教諭の声を遮るように大きな音が鳴り響く。

 多分、椅子の倒れた音。

 そして、教室中の視線が私に集中している。

 ああ、突然立ち上がって椅子を倒した人物は私か。

 なんて思うくらいに……私は衝動的に立ち上がっていた。

「ど、どうしたんですか天野さん!?」

 お呼びでもないのに突然生徒が立ち上がったら先生も驚くだろう。

 それ以上に思わず立ち上がってしまった私自身の方が驚きでいっぱいなのだが。

「……ええと、その」

 まずい、本当に何を言えばいいのかわからない。

 いや、何をしたくて立ち上がったかは分かっているのだ。

 中庭に今すぐ行かねばならない。

 だが、今は授業中だ。

 理由を言わなければ出て行けるわけがない。

「あの……その……」

 しかし、クラス中の視線が集まって思考がうまくまとまらない。

 こういう時はトイレと言うのが相場だが、こんなに派手に立ち上がっておいて『トイレ!』なんて小学生だ。

 だが、先生はそんな私の態度から何を感じ取ったのかハッと目を見開き……。

「ご、ごめんなさい! いいわ、行ってらっしゃい」

 と、のたまった。

 ……まだ何も言ってないのだが。

 そう思ったところで気付いた。

 先生も私も女性、つまりまあそういう事だ。

 男子生徒の興味津々な視線がその意味するところを物語っている。

 どうしたものだか。

 何となく否定しておきたいようで、このまま外に出てしまう方が都合のいい気もする。

 窓の外をちらっと眺めてみた。

 ……やはりあっちの方が先決か。

「あ、どうもありがとうございます」

 そう思った私は、とりあえずそう言って教室を出た。

 

 

 

 

 ……本当のことを言うと、私はまだ初潮すら迎えていない。

 きっと遅い方に入るのだろうが、別に気にもならなかった。

 これから先もなくてもいいとさえ思っている。

 ただでさえ、この眼で難儀したのだ。

 これ以上、体の変化で起こる面倒事はこちらから願い下げである。

 それとも……この体は分かっているのだろうか?

 あの頃から、一歩も動かない私の心を。

 もしもそうだとしたら、私の望み通り変化は起きないのかもしれない。

 小さな胸、男の子のように直線的な体つき。

 昔は高身長だった身長もいまや平均並。

 私の体が成長を止めているのは明白だった。

 心と体は繋がっている、それは一つの真理なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 重たい鉄の扉を押し開け、中庭に出た私は全教室の死角に潜り込み中庭を伺った。

 飛び出していきたいところだが、少女の立っていた位置は私の席から見えたように他の教室からも見える。

 下手に制服姿で身を晒せば、言い逃れのできないサボリの証拠になるだろう。

 とりあえず正面にはいない。

 立ち位置的に、角の向こう側か?

 そう思って、首だけ死角の外に出してみる。

 ……いた。

 私服の少女と、それに抱かれたお騒がせUMAが。

 こちらから出て行くわけにもいかないのでどうしたものか……。

 と、そこで背にした壁の存在を思い出す。

 そうだ、出て行かずともこっちから存在をアピールすればよいのだ。

 そう思った私は、首を引っ込めて壁を背にしながら右手で壁を叩いた。

 それもよく鳴りそうな金属板の部分を。

 

 カンカン。

 

 ……なんだかどこかのスパイか工作員みたいなことをしている気がする。

 そして案の定、物音につられてこちらに歩み寄ってくる足音。

 これが潜入任務ならここで突然飛び出して銃を突きつけたり、飛び掛って首を締めたりするのだろう。

 いや、もちろんそんなことはしないが。

 しかし、雪の上を歩いているというのになんて小さな足音なのだろう。

 よっぽど注意していないと他の音にかき消されてしまいそうなくらいである。

 遠目に見ても小柄だったが、相当体重が軽いのだろうか?

 実は彼女こそどこかのスパイか工作員で忍び足をこなせる……ということはさすがにないか。

 

 

 などと思っていると、少女が私の目の前に姿を現した。

 ついでにその胸に抱かれた真琴も。

 私を見て『しまった』という顔をしている。

「こんにちはです。呼びました?」

 真琴を抱いたままにこっと微笑む少女。

 いやただの少女ではない。

 それはまさしく美少女だった。

 何故だか分からないが、そんな表現しか思いつかない。

 少女の容姿、声、雰囲気、その全てが美少女を表現している。

 日陰にいる私と、陽光を浴びる少女。

 立ち位置の構図が余計にそう思わせるのかもしれない。

「あ……その……」

 『真琴を返してくれ』と言おうにもどう説明すればいいのか分からない。

 いや、それだけではない。

 少女の持つ独特の雰囲気に私は飲まれていたのだ。

 だが、少女は私の視線に気付いたのか胸に抱えた真琴に目を向ける。

「ああ、この狐さん、ひょっとしてあなたの……」

 そこで一度言葉を切る少女。

 そして私と真琴を交互に眺めてにこっと微笑むと……。

「『家族』なんですね」

 そう言って真琴を私に差し出した。

 ペットではなく、『家族』であることを強調して。

「あ、はい。ありがとうございます」

 お辞儀をして真琴を受け取り顔の前に持ち上げる。

 色々言いたいことはあるが、見知らぬ少女の前だ。

 堂々と真琴に話しかけるわけにはいかない。

「人に見つからないようにと言ったでしょう」

(ごめん美汐、突然後ろからこの子に捕まって)

 申し訳なさそうに視線を落とす真琴。

「まあいいです、そのことは後で。おとなしくしててください」

(……また『おしおき』なの?)

 こく、と頷き真琴を胸に抱く。

 ちょうどさっきまで少女がしていたような体勢で。

 つまり、真琴の好きな後ろ足宙ぶらりんの体勢だ。

(あうぅー……)

 だが、ウメボシを恐れてか真琴は情けない声を上げるばかりだった。

「あんまりヒドイことしないであげてくださいね。その子を勝手に捕まえたのは私ですから」

 その様子を眺めて少女が苦笑する。

 そんなに私が動物愛護精神のない人相に見えるんだろうか?

 

 

 そう思って少し思い返してみる。

 尻尾をつかんでハンマー投げ。

 おしおきにウメボシ。

 ……動物虐待の資格は十分あるかもしれない。

 

 

「よく人に慣れているから、誰か知っている人がここにいるのかなって思ったんです」

 当たらずとも遠からず。

 見た目に違わず鋭い少女だ。

 ひょっとしたら油断のできないタイプかもしれない。

 いや、絶対そうだ。

 少女から感じる危険のにおい、その緊張感が胸に躍動を与える。

 真夜中の少女とはまた違った意味での危険ではあるが、なんにせよそれが彼女を美少女に見せるのかもしれない。

「ええ、来てはいけないと言ってるんですけれども。躾が足らないようです」

 とりあえず、下手に真琴の正体を勘ぐられると厄介なので少女に話を合わせておく。

「ところで、あなたは誰ですか?」

 近くで見れば私とあまり変わりなさそうな年。

 そんな少女が何故私服で学校の中庭をうろついているのだろう?

 普段なら関わらずに『さようなら』と背を向けるところだが、どうもそういう気になれない。

 背中を見せることを許さないというべきだろうか?

 こんな奇妙な気持ちに襲われるのはこれが初めてだ。

「『誰』ですか、そうですね……」

 少女はその問いかけに腕を組んでちょっと考え込んでみせると、次の瞬間ひとさし指を口に当てて……。

「恋する素敵で無敵な女の子です」

 と言った。

 そしてアクセントににこっと笑顔。

 

 ドキッ……。

 

 まただ、何なのだろうこの胸の鼓動は。

 この少女の笑顔を見るたびに感情が渦巻く。

 演技だ。

 何かに裏打ちされた完璧な演技。

 少女は分かっていてそれをこなしている。

 意図的に美少女を演出して見せているのだ。

「……何ですかそれは」

 努めて冷静に少女に怪訝な視線を送る。

 一度少女のペースに乗ったらもう自分のペースを保てない気がして。

 真琴は既に何かに魅入られるような目で少女を見ている。

「あはは、やっぱりそれじゃダメですか。じゃあ……」

 照れ笑いを浮かべた少女がその場でくるっとストールを翻してみせる。

「ぬくもりを求めて人里にやってきた雪女、なんてのはどうですか?」

 ふわっと、積もったばかりの足元の雪が舞った気がした。

「ぬくもりを求めて……」

 少女の言葉を思わず口ずさむ。

 それはまるであの子たちではないか。

「あ、今なんだか詩みたいで素敵だなって思いませんでした?」

 そんな私の反応を見て、少女が悪戯っぽく微笑む。

 多分少女はあの子たちのことを言ってるわけではない。

 だが、その言葉は何か特別な響きを持って聞こえた。

「え、ええ。まあ……」

 だから、私はいつの間にかそんなことを口にしていた。

 少女に飲まれるまいと思っていたのに。

「でも、雪女は春になっちゃうと溶けちゃうんですよね」

「そう……言われてますね」

 溶ける……消える……。

 春になったら消える……そんな短い生。

 この少女はあの子たちの仲間ではない。

 それは私の眼が証明している。

 だが、その言葉には何か深い意味があるように思えて仕方がない。

「その限られた時間を精一杯生きるから雪女ってかっこいいと思いませんか?」

 そう言って、やはりにこっと微笑む少女。

 『何をたわけた妄想をしているのだ』

 普段の私ならきっとそう思ったであろう。

 だが、少女の話が持つその意味に……私の心は揺れずにはいられなかった。

「そんなことは、絶対にないです」

 『絶対に』を強調する。

「その雪女を愛した人達のためにもです」

 人に悲しみを残していって何がかっこいいものか。

 残される者の気持ちを考えてほしい。

 たとえそれが雪女という種の生き方であったとしてもだ。

「少なくとも、そんな諦めに美徳なんてないです。あってはいけないんです」

 消える側の都合を一切無視した言葉。

 残される側の一方的な理屈だ。

 そんなことは分かっている。

 でも、そう言わずにはいられなかった。

「そう……ですよね……」

 それを聞いた少女はうつむいてポツリと弱々しい呟きを漏らす。

 その姿と声に一瞬唖然とした。

 そこに先ほどの美少女の姿はなかった。

 あったのは……道端の何の変哲もない石ころ。

 薄く汚れた、何の光沢もないそんな石ころだった。

 何か少女の気持ちも考えずに酷いことを言ってしまったのかもしれない。

 そう思うと少し胸が痛んだ。

 だが、少女は顔を上げると笑顔に戻って……。

「そうですよねっ」

 そう強く頷いて見せた。

 演技だ。

 はっきりと分かった。

 さっき見せた弱々しい姿こそ少女の本当の姿。

 美少女を演じる時の彼女はあまりに美しく出来すぎている。

 今の少女はまるで作り物……。

「これからは雪女も努力と根性の時代というわけですね」

「はい?」

 ……でもなかった。

 いきなり何をとんでもないことを言い出してるのだ、この少女は?

 雪女が努力と根性?

 目に炎を燃やし、『うおおおおっ!』とか叫んでるスポ根街道まっしぐらの雪女を想像してみる。

 ……どんな雪女だ。

「雨にも負けず、風にも負けず、暑さにも寒さにも負けない、そんな雪女って素敵ですよね?」

 風と寒さに雪女が負けてどうする。

 なんて思ったが、きっと彼女はそんなこと分かってて言ってるのだろう。

 演技のはずなのに、そうは思わせない活き活きとした言動。

 ひょっとしたらどちらの姿も彼女なのかもしれない。

 そして、彼女の言いたいことは私の気持ちと同じだった。

「ええ、素敵だと思います」

 だが、そう言って頷いた私に少女はまたあの弱々しい顔を見せる。

「でも、それでももし消えなくっちゃならなかったとしたら……」

 なんとなくカラクリが分かってきた。

 この少女が美少女に見える理由。

 それは姿や言動ももちろん関係あるが、何より今にも消えてしまいそうなそんな危うさと儚さが垣間見えるからだ。

 だから、燃え尽きる寸前の炎のように輝いて見える。

 だけどそれはどこか悲しい輝きだ。

 必死に燃え上がろうとしても、叶わずにその炎は消え行くから。

「雪女はどうしたいと思いますか?」

 

 

 しばし長い沈黙。

 もし消えなくてはいけないとしたらどうするか?

 答えは思いつかない。

 何故なら私は残される側だったから。

 消える側の気持ちになることは出来ない。

(……何かを残したい。残せるなら好きだった人に何かを残したいと思う)

「……え?」

「……狐さん?」

 突然沈黙を破った真琴の声に驚く。

 少女も突然の狐の鳴き声に驚いたようだ。

(って、その子に言ってあげて。美汐の言葉で)

 『ああ、はい』と言いかけて慌てて息を止める。

 狐の鳴き声に返事をしたら変に思われるではないか。

 だから、私は平然を装ってその言葉を告げる。

「残される人に何かを残してあげたいと思うのではないですか?」

 それを聞いた少女はしばらく俯いて何かを考えていたかと思うと、次の瞬間顔を上げて……。

「そうですよね」

 と微笑んだ。

 虚実の入り混じった笑顔。

 だが、その瞬間彼女は強く輝いて見えた。

 

 

「あ、もうすぐチャイムが鳴っちゃいますね。その子どこかに隠した方がいいんじゃないですか?」

 中庭の時計を見たのだろう。

 少女が真琴を指差しながらそう教えてくれる。

「あ、はい。では私はこれで失礼します」

「ありがとうございました」

「……え?」

 ぺこっと行儀よく私にお辞儀をする少女に、踵を返しかけた足が止まる。

 そんな大層なお礼をされる覚えはないのだが。

「お話を聞いてくれて」

 何がそんなに嬉しかったのだろう?

 たかが話を聞いただけではないか。

 いや、私にはそう思えるだけで少女には何か深い事情があったのかもしれない。

 真剣な表情の彼女を見ているとそう思えてくる。

 だが、そこに踏み込む気は起きなかった。

 あの夜の少女とは違って、目の前の少女はあまりに私とかけ離れた世界の住人だったから。

 少なくとも目の前の少女は現実との糸は切れていない。

 いや、むしろそれに強く縛られている、生き急いでいるように思えた。

「また、いつか会えるといいですね」

 私は、そう呟く。

 次に会うことはあるのだろうか?

 その時、私たちは同じ世界に立つことが出来るのだろうか?

 ただ、どこかでまた幸せな彼女の姿を見ることが出来たら……そんな不思議な感情だけがあった。

 そんな私に、少女はこう答えた。

「きっと会えますよ。努力とド根性溢れる雪女だったら」

「何で根性に『ド』が追加されてるんですか」

「なんとなく、です」

 くすっと微笑んで指を口に当てる少女。

 同性の私が言うのも何だが、かわいらしい仕草だと思った。

 きっと、この少女が私のクラスにいれば相当な人気者だっただろう。

「それでは、私はさっきの場所に戻りますね。そちらも急いだほうがいいですよ」

 そう言ってくるっと少女が私たちに背を向ける。

 急いだほうがいい、というのは休み時間が終わるということに違いない。

「さようならです、狐さんも」

 そしてそのまま視界の外、校舎の角の向こうへと消えていった。

(またねー)

 真琴のその声が少女に届いたかどうかはわからない。

 でも、きっと高く透き通った狐の鳴き声が彼女の耳に聞こえていたことだろう。

 

 

 

 

 

 

 真琴を胸に抱き、足早に校舎を駆け抜ける。

 たどりついた先は屋上前の階段踊り場だった。

 そこで真琴を足元に下ろす。

 ここなら人に見つかることもないだろう。

 そして二時間目の時のように上から睨み付ける。

 それを見て真琴はビクっと首をすくめた。

「で……人に見つかるなと私が言ったのが聞こえなかったんですか?」

(あぅ、違うの)

「何がどう違うのですか?」

(だから、あの子に後ろからいきなり捕まえられたんだってば)

 つまり、自分は逃げるつもりだったけど、気付かないうちに捕まったのだから仕方がない。

 そう言いたいわけだろう。

 だが……。

「狐がそう簡単に人に捕まるわけないでしょう!」

(あぅーーっ、イタイイタイーーッ)

 大きな耳の先をつまんで左右に引っ張る。

 何のためにこんな大きな耳をつけているのだ。

 ただの飾りというわけはないだろう。

 まあ、思い当たる節はあったのですぐに離してやる。

(うう、だってあの子って全然足音立てないんだもん)

「本当にそれだけですか?」

 確かにあの少女の足音の小ささは並ではなかった。

 その気になれば完全に気配を断つことも出来たかもしれない。

 だが、あくまで人間相手の話だ。

 真琴は耳も鼻も人間以上のものを持っている。

(……おいしそうな匂いのしてる建物を眺めてた)

「まったく、そんなところだろうと思いました」

 つまり、食堂を観察していて背中と嗅覚がお留守になっていたわけだ。

 私が溜息をつくと同時にチャイムが鳴る。

 3時間目の授業終了合図だ。

 この屋上前の踊り場から一番近いのは四階にある三年生の教室。

 だが、階段が資材置き場一つ分最寄の教室から離れているため生徒たちの声はあまり聞こえてこない。

 意外に静かな場所だ。

 新校舎の四階は三階のおまけのような形でついている。

 早い話が新校舎はピラミッド型で、上に行けばいくほど校舎面積が小さくなるという構造だ。

 実質一番出口から離れている3階の図書室の方が最奥なのだが、閑散としているという意味ではこちらの方が最奥というべきかもしれない。

 というか、こんなところに立ち入ったのは初めてだった。

 小学校の時はこういうところを好んで探検していたはずなのに。

 きっと学校を密林か洞窟に例えて、最深部を目指すことに興奮を覚えていたのだろう。

 自ら望んで来たわけではないが……。

 その場にこうして今立ってみると何の感慨も湧かないということはなかった。

 雀の涙ほどには懐かしいという気持ちがする。

 

 

 しかし……いい場所だ。

 少々寒いのが気になるが、昼休みはここで昼食にすると落ち着けるかもしれない。

 耳を澄ましてみるが、誰もここにやってくる気配はなかった。

 せっかくだし今日はここで真琴とお弁当をつついてみるとするか。

 そう思って真琴に声をかける。

「真琴、お昼までここで静かにして……」

 『静かにしていられますか?』と訊こうとしたところで、体を丸めてあくびをしている真琴の姿が目に入る。

(えっ、何?)

 次の瞬間、私の言葉に慌てて振り向く真琴。

 そうか、この時間は……。

「眠いのですか?」

(……うん)

 少しは昼型に合わせるようになってきた真琴だが、やはりお昼寝は必要らしい。

 眠そうにとろんとした目をしている。

 さっきまで外を駆け回っていた疲れが出たのだろう。

(ここで寝ててもいい?)

 もとより帰るまでどこか人目につかないところで待たせておこうと思っていた。

 自分の足で帰らせるという選択肢もあったが、一人でちゃんと家に帰ってくれるのかも心配だ。

 おまけにお母さんが家に帰ってなかったらまた面倒なことになりかねない。

 ここで静かにしていてくれるなら願ったり叶ったりだろう。

「分かりました。お昼にまた来ますから、目が覚めてもここで静かにしててくださいね」

(うん、わかったー)

 そう言うと真琴はすぐに目を閉じてしまった。

 まったく、色々人騒がせなことをしておいて、小憎らしくなるくらいに気持ちのよさそうな寝顔だ。

 しかしこんなところで寝て寒くないのだろうか?

 ……というのは愚問だったか。

 今までのパターンから察するに、暑さ寒さも妖狐にはさほど堪えないのだろう。

 さてと、私も4時間目の授業に向かうとするか。

 そう思って真琴に背を向け階段を降りようとした時だった。

(……みしお)

 むにゃむにゃと寝言のように、目をつぶったまま真琴が口を開く。

(さっきあの子に言ったことだけど……)

「はい?」

(何かを残したいってこと)

「ええ、それが何か?」

(真琴は美汐じゃないよ。美汐の気持ちもよく分からない)

 気だるそうに、呟く真琴。

 寝言なんだろうか?

 そう思っていたら、一瞬片目を開けて私がいるのを確認したのに気付く。

(でもね、美汐やお父さんとお母さんを悲しませたくないと思う。美汐は……)

 『美汐は……』と言ったところで真琴が一息入れる。

 そして、そこから続けた。

(美汐は真琴の仲間に会ったんだよね。それで……)

「ええ、真琴の想像の通りです。私もお父さんもお母さんもあなた達に残された側の人間です」

 こくりと頷いて真琴の想像を肯定する。

 数秒、静かな時間が流れた。

(約束するから)

「……え?」

(美汐が真琴のことを好きでいてくれるなら、真琴は絶対に消えないから)

 『消えないから』のところを境に急速に声が小さくなった。

 いつの間にか呼吸音が寝息に変わっている。

 どうやら完全に眠りに落ちたらしい。

(……美汐は肉まんより……あったかい)

 それでも尚、むにゃむにゃと小さな寝言を漏らす真琴。

 その姿に溜息が出る。

 あなたたちがもっと嫌いやすい性格をしていたら簡単に嫌ってやれるのに、と。

「真琴が私を好きでいてくれるなら、私は真琴を嫌いにはなれませんよ」

 そう言ってすっと小さな真琴の背中をなでてやった。

 ぱたたっ、と尻尾が気持ちよさそうに揺れる。

 このまま真琴を膝に乗せてのんびりしていたくもあるが、仕方あるまい。

 そろそろ行こう。

 休み時間はあと5分といったところだ。

 

 

 

 

 

 屋上の踊り場から階段を降りたところでとんでもない人物と出くわした。

 夜の学校で二度顔を合わせた、あの無表情が特徴の少女だ。

「…………」

「…………」

 二人揃って無言でお互いの姿を見つめ合う。

 さすがに真昼間の校舎で光り物を持ち歩くということはしていないようだ。

 ぱっと見ると普通の三年生の生徒という感じである。

 というか、ちゃんとこの学校に通っていたのか。

 こうやって、日常の何でもない校舎で顔を合わせてみるとそのことが何より新鮮に感じられた。

 しかしトイレなら反対側、この階段に何か用があるのだろうか?

「こちらに何か用ですか?」

 階段の上には真琴がいる。

 この少女は真琴が普通の狐でないことくらいはとっくに気付いているだろうが、それでも目撃者が増えるのは歓迎できることではない。

 万一クラスにでも持ち帰られたら厄介だ。

「…別に」

 そう呟くと少女は私の横を通り過ぎようとする。

 私はすっと足を横に動かしその進路を遮った。

「トイレでしたら向こうですよ」

「トイレじゃない」

「じゃあ何でこちらに用があるのですか? 図書室や食堂に行ってたら次の時間に間に合いませんよ?」

「何となく」

 意地でも階段に行かせない者、意地でも階段に向かおうとする者。

 おかしな睨み合いの構図が出来ていた。

 心なしか横に逸らされた視線はガンを飛ばされているようにも見える。

「……ひょっとしなくても喧嘩を売って下さってるのですか?」

「……喧嘩は売ってない」

 そう言いつつもお互いの右手は握りこぶしを作っている。

 何を意固地になっているのだろう、二人揃って。

 そのくせ妥協する気になれない何か妙な雰囲気。

「喧嘩を売ったのはそっち」

「一番最初に喧嘩を売ったのはあなたです」

「…もう謝った」

「一歩間違ったら死んでたんですよ? 謝って済む問題ですか?」

 平行線。

 それどころか更に妙な雰囲気になっていた。

 どっちが喧嘩を売ったのか? という論争に。

 一応どっちも仕掛けたほうが悪いという認識の上にいるらしい。

 が、睨み合ってるとそれもどうでもよくなってきた。

「やる気ですか? 手加減はしませんよ」

 先にカードを切ったのは私。

 眼の力を開放し、少女を見据える。

 昼間の校舎では目が発光することはない。

 そもそも目の発光は夜目の能力に付随するもので、超動体視力だけならば関係ないことだ。

 昔は別個に扱うことが出来ず、狐の眼を昼間に使おうものならあまりの光量に失神したものだが今は違う。

 つまり、素手ならいつでも喧嘩上等ということだ。

「…………」

 少女は構えた私の右手と、私の視線を睨みつける。

 かと思ったら視線をそらし自分の右手、握りこぶしをじっと見つめた。

 そしてぽつりと呟く。

「…どうすればいい?」

「何がですか?」

「素手では勝てそうにない」

 

 ガクッ!

 

 首と共に気持ちが折れる音がした。

 そして顔を上げて一喝。

「喧嘩をする相手にそんなこと訊かない下さい!」

 というか勝てないならさっさと逃げるべきだ。

 そもそも私はここを通したくなくて居座ってただけなのだから。

 逃げる相手を追いかけてまで痛めつけるつもりは毛頭ない。

「……?」

「なんでそこで首を傾げるんですか!?」

 実際に喧嘩を始めるより疲れてきた。

 何がしたいのだこの少女は。

 いや、いったい何を考えているのだろう。

 そう思ってげんなりした瞬間だった。

 

 

「まーいー」

 

 

 場違いな浮かれた声が響いてきたのは。

 その声の方向に振り返る少女。

 つられて私もそちらを向いた。

 見るからに朗らかそうな女生徒が小走りにこちらへ駆けてくる。

 ケープのリボンの色は目の前の少女と同じ、つまり三年生だ。

 同級生だろうか?

 容姿は悪くない、どころか端麗と言ってもよさそうだ。

 ……今日は美少女とか美女にでも縁がある日なんだろうか?

「授業始まっちゃうよ。って、あれ?」

 少女の元に駆け寄ってそう言った女生徒の口が止まる。

 そして私をきょとんとした目で見つめ、目の前の少女と私を交互に見つめた。

 様子を察するに、女生徒は少女の友達か何かなのだろう。

 しかし、こんな無表情が特徴の少女に対して明らかに人当たりのよさそうな女生徒。

 見るからに不思議な組み合わせだ。

「何かあったの?」

 女生徒は私と少女の様子を伺いながら、恐る恐る少女にそう訊ねる。

 多分私はまだ臨戦態勢を解いてなかったのだろう。

 それは少女の方もで、第三者から見れば近寄りがたい雰囲気を出していたかもしれない。

「…喧嘩を売られた」

「ふぇ……?」

 単刀直入な少女の状況説明に女生徒がぽかんと口と開ける。

「物騒なことを言わないで下さい。そもそも喧嘩を売ったのはあなたです!」

「違う、そっち」

 またさっきの平行線に突入しかける私達。

「ふぇー…」

 状況のさっぱり分かってない女生徒はただただ困るばかりだった。

 というか私もどういう状況なのかさっぱり分からない。

 いったい何でこんなところで上級生相手に睨み合いをやってるのやら。

 と、そこで私を睨みつけていた少女が視線を外して顔を上げる。

 何事だろう?

「……何の用だった?」

「……は?」

「何をしに来たのか忘れた」

 

 ゴォーン……。

 

 お寺の鐘が鳴り響く中、カラスの親子が夕暮れ空を飛んでいった。

 何につき合わされていたのだ私は。

 激しく頭痛がする。

 ああ、お寺の鐘のように聞こえたのは学校のチャイムか。

「あ、あははー、マイが迷惑かけちゃったみたいで……」

 苦笑しながら私に頭を下げる友人らしき女生徒。

 当の迷惑人物は思い出そうとしているのか上の空で首を傾げていた。

「気になさらないで下さい。それより授業が始まるようですし、先輩方も急がれたほうがいいですよ」

 素性の知れない相手なので下手につっかからずに頭を下げる。

 すぐにそういう行動に移れる自分が、なぜ少女と睨み合いなどしていたのか全くもって理解不能だ。

「そうですね。じゃあ、失礼します。ほら、マイ」

 女生徒はまだぼーっと考え込んでいる少女の手を引いて急いで引き返していく。

 が、途中消火器に足をぶつけてうずくまる少女。

 女生徒が驚きながらその手を引き上げていた。

 私も早く教室に戻ろう。

 

 

 それにしても……。

 『マイ』という名前なのか、あの少女は。

 

 

 

 

 

 

 4時間目、黒板の前では石橋先生が生徒に宿題の問題を解かせている。

 当たっていない私ははっきり言って手持ち無沙汰だった。

 何となく外を眺めると、その先には先ほどの少女。

 何を待っているのかはよく分からないが、身動きせずただじっと中庭に立っていた。

 そういえば、あの少女の名前は訊いていなかったな。

 

 

 マイ……か。

 名前を知っていると知らないとでは受ける印象が違う。

 そして、その人物に向ける関心の度合も。

 いや、名前を知るというのは強制的にその人物への関心を持たされることでもある。

 事実、中庭の少女とマイという少女では、後者の方が忘れられない存在となっている。

 中庭の少女のことは、今後顔を合わせなければ数日で頭から消え去るだろう。

 記号化できる単語がないからだ。

 覚えておこうという努力でもしない限り、すぐに風化する。

 もっとも……だからこそ後悔しているのかもしれない。

 真夜中の校舎で出会った少女に対して抱いた好奇心が、マイという名前によってさらに揺り動かされたのだから。

 ……違う、もう分かっているのだ。

 それが最後の引き金になってしまったということを。

 マイという少女のことをもっと知りたい。

 その気持ちが胸から溢れ出していた。

 もう……止めようがない。

 無理矢理押し込めばそれこそ病気になってしまいそうなほどに。

 マイは名前。

 『舞』、『麻衣』どう書くんだろうか?

 そして名字は?

 『まい』という、たったの二文字が既に私の意識を彼女に引き寄せていく。

 長い『漆黒』としか表現のしようのない黒髪が印象的だった。

 少女を色で表わすとすると『黒』ほど的を得ているものはない。

 

 ……イカスミマイ?

 

 一瞬そんな妙な単語が頭に浮かぶ。

 ついでにイカのかぶりものを身につけた無表情な彼女の姿も。

 おかしい、これでもないくらいに似合っている気がする。

 あの顔で着ぐるみというミスマッチが面白いのかもしれない。

 うむ、顔の出る着ぐるみなら全般的に似合っている。

「何を笑っとるんだ、天野? 今夜はハンバーグか?」

「え、あ……いえ、何も」

 いつの間に教室の巡回を始めていたのやら、石橋先生が側で苦笑していた。

 それと同時にクラスに広がる笑いの渦。

 気付かないうちに笑い声を漏らしていたようだ。

 ……恥ずかしい。

 

 

 

 

 

 

 少し休み時間に食い込んで4時間目が終了する。

 私はお弁当と水筒を手に教室を後にした。

 誰にも見咎められることはない。

 私がいようといまいとこのクラスの人たちには関係ないことだから。

 

 

 真琴のいる屋上前の踊り場を目指して階段を上っていく。

 ……なんだろう?

 何か人の声が聞こえるような気がするが気のせいだろうか?

 

「狐さん、卵焼きは好きですか?」

(あぅっ)

「あははー、まい、狐さんも卵焼き好きだって」

 

 …………。

 一瞬言葉を失った。

 途中元気よく響いた声、間違いなく真琴だ。

 ダンダンダンと、残り一階分の階段を一気に駆け上がる。

 そこに、先ほどの少女二人組と……真琴がビニールシートの上で重箱弁当を囲んでいる光景があった。

「な、なな……」

 何やってるんですか!?

 と、どっちに叫ぶべきか分からず思わずどもる、いや言葉に詰まる。

「あら、またお会いしましたね。こんにちは」

(あ、美汐。遅かったね)

 まずマイという少女の親友らしき女生徒が朗らかに挨拶。

 それに真琴が続く。

「こんにちは」

 口に入れた物を飲み込み、一足遅れてマイさんが小さくそう呟くのが聞こえた。

「はえー」

 それを見て驚く女生徒。

 何がそんなに驚きなんだろうか?

 私にも珍獣でも見るような視線が向けられているようでむっとする。

「何か?」

「あ、いえ……まいが自分から挨拶するなんて、やっぱりまいのお友達なんですか?」

「二、三度顔を合わせたことがあるだけです」

「そうなんですか。あ、よかったら……」

「真琴、ちょっと来なさい」

 女生徒の言葉を遮って真琴を呼ぶ。

 どうもこの女生徒は苦手だ。

 一体何が楽しいのか、常にぽわーっとした態度で……。

(あぅ、だから違うんだって……)

「いいですから早くいらっしゃい」

(……あぅー)

 真琴は一旦後ろの重箱弁当を名残惜しそうに見つめて、タンッと跳躍すると十数段下の私の胸に飛び込んできた。

 あまりの見事なジャンプを目にして女生徒はぽかんと口を開けている。

 マイさんには特にこれといった表情の変化は見えないが、箸を下ろしてこちらを見ていることから無関心でないのは明らかだ。

 とりあえず真琴を目の前に抱き上げて小声で話し掛ける。

 

 

「いったい今度はどういう状況なんですか?」

(真琴もよくわかんないんだけど)

「はい?」

(なんかね、起きたらあの女の膝の上で、それでもう一人の人がお弁当の中身をあたしにくれて)

「つまり寝ている最中に捕まったと」

(うん、これじゃもうしょうがないよね)

「……お弁当に釣られて居座ってただけでしょう」

(あ、あぅー、そうだけど、じゃなくてそうじゃないけど……もうお仕置きは止めてー!)

 

 

 これが仮にも人間並の知能を持った霊獣『妖狐』の姿なんだろうか?

 尻尾を鷲掴みにされ、宙ぶらりんのままじたばた暴れている小動物を見ていると情けなくなってくる。

 うなだれて呆れていると突然真琴の体重を感じなくなった。

 顔を上げると、いつの間にか階段を降りてきていたマイさんが真琴を抱き上げていた。

「…うちの子になる?」

 真琴の尻尾を握っている私の左手を一瞥しながらそう一言。

 咎められている気がして、慌ててその手を放す。

 真琴は後ろを眺めながら、左右に何度か尻尾を動かして無事を確認すると……。

 マイさんに向かって首を横に振った。

 マイさんはそれに頷き……。

「大事にしてあげて」

 そう言って真琴を私に持たせる。

 両手で持っているのに、さっきより真琴が重く、そして暖かく感じられた。

 見るとマイさんの側には彼女の親友らしき女生徒もやってきていた。

 そして、彼女は私と真琴に微笑みかける。

「よかったら一緒にお昼ご飯にしませんか? 狐さんも一緒に」

(うんっ)

 あっさり頷く真琴。

 だが、私は違う。

 彼女の友好的な誘いかけにかえって警戒心を覚えた。

 さっきの私と真琴のやりとりを見て何か感じないのだろうか?

 明らかに私と真琴は会話をしていたのに。

 私だけじゃない、マイさんも真琴と会話をしていた。

 彼女とマイさんは、このような辺鄙な場所にビニールシートまで引いてピクニック気分を味わっているくらいの仲のはずだ。

 なのに彼女は親友の様子を何かおかしいとか思わないのだろうか?

 私が彼女の立場なら、真琴がただの狐にしては妙なことが多すぎることに絶対気付く。

 あえて目を塞いでいるのか?

 それとも本当に気付いていないのか?

 いずれにしても得体が知れない。

 いや、この人当たりも容姿も良い、クラスの人気者のような女生徒がマイさんと一緒にいることも不自然だ。

 はっきり言って……気味が悪い。

 多分、私はこれでもないほど不躾な視線を彼女に叩きつけているだろう。

 学校で、それもよりによって上級生にそんなことをしたのは初めてのことだ。

 こんな姿をクラスの人間にでも見られようものなら、間違いなく私への心象は悪くなる。

 それが分かっていながらも、私は彼女への警戒を解くことが出来なかった。

「…大丈夫」

 声とともに、すっと手が間に割って入る。

 マイさんが真琴の頭を撫でていた。

「サユリは私の親友だから」

 親友、なんて気安い言葉だろう。

 口にすれば、何かが色あせてしまいそうなそんな感じがする言葉。

 しかし、彼女が言うとそれは違ったものに聞こえる。

 理屈も何もない。

 マイさんがそう宣言した瞬間、サユリという人物は彼女の親友と認識させられた。

「はぇ……」

 女生徒が驚いている様子から察するに、やはり彼女がそのようなことを自分から口にするのは滅多なことではないのだろう。

 ひょっとすると彼女もそう言われたのがはじめてなのかもしれない。

 などと思っているとマイさんが、ポケットから何かを取り出して私に見せる。

「…川澄舞」

 川澄舞、そう書かれた文字と顔写真。

 それは彼女の生徒手帳だった。

「あ、サユリも……」

 それを見て何かを悟ったのか、女生徒も生徒手帳を私の前に差し出す。

 そしてそれを広げて、映っている写真のように微笑んでみせた。

「はじめまして、倉田佐祐理って言います」

 それでようやく舞さんの意図が分かった。

 つまり、今の行為はお近づきの挨拶のつもりだったのだ。

 正直言って、佐祐理なる人物にあまりいい印象はないが、ここまで彼女が手の内を見せているのに一蹴するというのは人として問題だろう。

 何より、川澄舞という人物への好奇心はさらに高まっていた。

 私も彼女達にならって生徒手帳を広げる。

「天野美汐です。そして……」

 くんっ、と腕の中の真琴を顔が見やすいように軽く持ち上げる。

「この子は沢渡真琴といいます」

(よろしくねー)

 私の紹介に合わせて右前足を上げる真琴。

 声は聞こえなくとも、鳴き声で真琴が何を言いたいのかは伝わっているに違いない。

 舞さんも倉田先輩も真琴に対して小さく頷いていた。

 

 

 

 

 

 二人が屋上前の踊り場に敷いていたビニールシートに上履きを脱いでお邪魔する。

 3時間目の時に脇にこれが丸められて立てかけられているのは気付いていたが、まさか個人が勝手に置いていたものだったとは。

「いただきます」

 持参した自分のお弁当を広げて手を合わせる。

「よかったらこちらもどうぞ」

 倉田先輩がそう言って重箱の一つを私の前に寄せてきた。

「いえ、私はこれだけで十分ですから」

 本当は家から持ってきた小さなお弁当箱では小腹がすくのは分かっている。

 目の前の料理は見た目も悪くないし、味も悪くないのだろう。

 だけど、どうしても手を出す気になれなかった。

「はぇ……そうですか」

 それを聞いて残念そうな顔を見せる倉田先輩。

 さすがにここで笑えるようなら本気で気味が悪い。

(みしおー)

 真琴が非難するような目で私を見上げていた。

 分かってます。

 いくら普段なら関わりを持ちたくないような相手とはいえ、あまりに幼稚な反発ぶりである。

 どこからどう見ても嫌な女だろう。

 それに、人に寂しそうな顔をさせておいて平気なほど私の神経は野太くなかった。

 差し出された重箱に手を伸ばし、それを真琴の前にやる。

「私は結構ですが、真琴に食べさせてあげてもよろしいですか?」

 そう言うと倉田先輩は顔を明るくして、胸の前で手を合わせながら……。

「あ、はい。よろこんで」

 と微笑んだ。

 その顔を見て内心溜息をつく。

 やはり、どんな相手でも心から嬉しそうな顔をしてくれている方が気が楽だ。

(美汐、おいしいよー?)

 それに、真琴も喜んでくれている。

 無理に突っかかることもないだろう。

 大丈夫、相手は三年生でもいつもどおりやれる。

 

「…枝豆」

 

 と、それまでもくもくと食事をしていた舞さんがぽつりを呟いた。

 そしてウィンナー、俗にタコさんウィンナーという名で呼ばれるものを箸に摘まんで私の前に突き出す。

「……何ですか?」

 人の前に箸を突き出すとは無作法な。

「…枝豆」

 ……箸にタコさんウインナーを挟んで『枝豆』。

 何かの一発芸なんだろうか?

 確かにウィンナーと言えば小学校で男の子がネタに使う定番のものだ。

 しかし、それを突き出して『枝豆』とはいかに?

 これが舞さん風の芸風なのだろうか?

 などと首を捻っていると、倉田先輩が横から割って入った。

「あははーっ、舞は美汐ちゃんのお弁当に入ってる枝豆と交換したいみたいですね」

「美汐ちゃ……」

 誰を捕まえて『美汐ちゃん』だ。

 おちょくってるのか? と、むっとしかけて慌てて思いとどまる。

 相手は一応二年も上の先輩なのだ。

 ちゃん付けで呼ばれてもなんら不思議はない。

「はえ? どうかしましたか?」

「いえ何でもないです、倉田先輩」

「あ、佐祐理でいいですよ。佐祐理は先輩なんて柄じゃないですから」

 謙遜のつもりか、自覚しているのかは別として後半部分には同意しておこう。

 ……口には絶対に出さないが。

「分かりました、佐祐理さん」

 もとより本音では先輩意識などなかった相手だ。

 こっちもその方が呼びやすくていい。

 

 

「枝豆」

 眼前にずいっと突き出されるウィンナー。

 一人放っておかれて明らかに不満そうな舞さんだった。

 素直に『枝豆をくれ』と言えば手っ取り早いのにそれをしないのは彼女らしいが。

「分かりましたから行儀の悪いことは止めてください」

 ふるふる。

 たしなめて、枝豆を渡そうとすると舞さんが首を横に振る。

 そして重箱に頭を突っ込んでいる真琴を箸で指して……。

「真琴ほどじゃない」

 

 ガクッ!

 

「あなたは狐ですか!」

「あはは……舞、真琴ちゃんはお箸を持てないんだから仕方ないよ」

 思わず大声をあげる私に、苦笑する佐祐理さん。

 この人の純粋さに不快感は感じない、感じないが……。

 やはりどこか疲れる。

 真琴とは別の意味で。

「どうぞ、あとウィンナーはいりませんから。大事にしてください」

 弁当箱の端を埋めるため、申し訳程度に放り込まれている枝豆を舞さんの重箱に入れる。

 多分お父さんのおつまみの残り物だろう。

 しかし自分で言っておいて何だが、ウィンナーを大事にしてくださいとは何なのだろう?

 さっき舞さんに真琴を手渡された時の印象が強かったのだろうか?

 

 

 

 

 

 

「……美汐、また喧嘩したのかい?」

 顔と膝小僧のかすり傷にお湯が染みる。

 痛みでむーっと不機嫌そうな私にお父さんが呆れてみせた。

 小学校二年生くらいの時のお風呂の光景だ。

「3組の男の子が悪いんだもん。私達がサッカーをしてるところにドッジボールをしに割り込んできたんだよ」

「まったく、お前はもう少し女の子らしくならないもんかな。いつか大怪我するんじゃないかと心配だよ」

「大丈夫、美汐は強いんだから。男の子なんてここを蹴っちゃえば一発だもん」

 そう言って自分の体のとある一箇所を拳で叩いてみせる。

 お父さんはそれを見て苦笑いした。

「…美汐、男の子にとってそこは弱点なんだ。だからいたわってあげないと」

「いたわる?」

「大事にしてあげるってことだよ」

「でも私はそこ蹴られても平気だもん。それに……」

 最近、漫画で生まれつきの弱点を修行でなくす主人公の話を見た。

 男の子だって同じことが出来るはずだ。

 だってその主人公も男の子だったし。

「鍛え方が足りないんだよ。だから私が蹴って鍛えてあげてるの」

「……美汐、あれは鍛えようがないものなんだよ。美汐だって目を鍛えたって砂をかけられたら困るだろう?」

「んー……うん」

 自分についてないモノのことはよく分からないけど、目玉のことならよく分かる。

 鍛えられないし、砂をかけられたり突かれたりしたら痛い。

 男の子のそこも同じようなモノなのだろうか?

「美汐はそんなところを攻撃する卑怯な子なのかな?」

「ち、違うもん! 美汐は卑怯な子じゃないもん!」

「じゃあ、相手の弱点を狙うのはやめないとな。その子たちは美汐の目を狙ったりはしなかったんだろう?」

「うん……美汐がずるかった」

 それから男の子と喧嘩をしても勝てないことが何度もあった。

 だけど、私は絶対に泣かなかった。

 だから勝てなくても負けたことは一度もない。

 正々堂々戦う気持ちさえあれば泣くのを我慢するくらい平気だったから。

 

 

 

 

 

 

「タコさんウィンナー」

 凛とした声に慌てて我に返る。

 舞さんがずいっとウィンナーを突き出したままこっちを真剣な目で見ていた。

「いえ、いいですから」

 もう一度『いらない』の意思表示。

 しかし、ウィンナーから何を思い出しているんだ私は……。

 小学校の男子生徒じゃあるまいに。

「タコさんウィンナー」

「ですから、いらないですって」

「タコさんウィンナー」

「あーもう、分かりましたから。いただきます」

 一旦こうなったら、いつまでもこのままになりそうなので私のほうから折れる。

 弁当箱を差し出してウィンナーを入れてもらった。

 ついでに視線がうるさいのですぐにそれを口の中に放り込む。

 もぐもぐ……ごっくん。

 

「……おいしい」

 

 思わずそう呟いてしまうほどそれはおいしかった。

 食材の良さに加えて、お弁当であることを考えての味付け。

 お母さんの変色したリンゴなんかとは大違いの味だった。

 その様子を見て舞さんがこくりと頷く。

「…佐祐理のお弁当はおいしい」

 そして、私が渡した枝豆を黙々と食べ始めた。

 あんまり味わってるようには思えない。

 お茶で無理矢理飲み込んでいるあたり、本当は嫌いな食べ物なのではないかとも思える。

 ひょっとして、舞さんは私に佐祐理さんのお弁当を食べさせるために……?

 

 

「よかったらいつでもここに来てくださいね。いつも多めに作ってますから」

 佐祐理さんの言葉に舞さんが再びこくりと頷く。

 『待ってる』という意味だろうか?

 とりあえず、二人からお昼の招待を受けているのには間違いない。

(美汐、明日も来ようねー)

 ……そして私の相棒は悲しいまでに欲望に忠実だった。

「ええ、まあ……気が向いたらいつでも来ることにします」

 明日は何が起こるかわからないし、どう気が変わるかも分からない。

 今のところ断る理由もないのでそう適度にお茶を濁しておいた。

 

「…あ」

 

 突然舞さんが素っ頓狂な呟きを漏らす。

 何かあったのだろうか?

「はぇ? どうしたの舞?」

「さっきの休み時間のこと」

 さっきの休み時間?

 断片的な単語だけ言われても何のことか分からないし、何を言おうとしているのかも予想できない。

 舞さんの次の言葉をじっと待つ。

「キツネさんの鳴き声が聞こえたから確かめようと思って」

「ああ……」

 何かと思えば今更、今更過ぎることだった。

 そもそも結局既にその目的は果たされてしまっている。

 目的を果たしてしまってから目的を思い出すとは……。

 なんともテンポの掴みにくい人だ、舞さんは。

 

 

 

 

 

 奇妙な昼食会の後、真琴は非常階段や配管をうまく伝って屋上から帰っていった。

 狐というより猫のようなその身のこなしは手足の短い子狐ゆえだろうか?

 妖狐ならではのものなのかもしれないが……やはり何か常識外れな気がしてならない。

 地上から『明日からはここから来るから、そこの扉を開けてねー』と叫んでいたので、とりあえずその旨を舞さんと佐祐理さんに伝えておいた。

 屋上から侵入とか、もうやってることが完全に猫だ。

 とりあえず、少なくともこの二人なら真琴に危害を加えたりはしないだろう。

 舞さんは真琴のことに感づいているようだし、佐祐理さんはよく分からないが少なくとも真琴の敵ではないはずだ。

 四六時中私が監視というのも可哀想だし、真琴が一人で動き回るのも多少大目に見てやろう。

 何だかんだで悪い方向には向かってないのだから。

 

 

 

 

 

 

 ……いいのだろうか?

 娘の『夜の学校に行ってきます』への母の反応が『行ってらっしゃい』で。

 さすがに理由は訊かれたが、夜の学校にいる少女、つまり舞さんに会いに行くと言ったらそこでOKが出てしまった。

 もう少し心配して欲しい気もする。

 が、面倒くさくなくていいというのは楽でよかったりもする。

 まあ、気にしないでおくか。

 もうお約束のように真琴がついて来ているというのも。

 

 

「こんばんは」

 慣れというのは怖いものだ。

 三度目の訪問にして、私はこの異界を普通に歩けるようになってしまった。

 もちろん『狐の眼』があるおかげでもあるが……。

 案内人の彼女がいることが一番大きいだろう。

「…こんばんは」

 私達をちらっと横目で見てから、その無表情な案内人が口を開く。

 昼間と違い、どこか鋭さを持った眼光。

 戦士の表情とでも言うべきだろうか?

「何をしにきたの?」

 友好的とも排他的とも取れない口調の問いかけ。

 ただ、厳しい眼光はここに来るべきでないと訴えかけていた。

「さあ、何をしにきたのでしょうね。私にもわからないです」

 強いていえばあなたとその戦いへの好奇心。

 だが、分からないという気持ちに間違いはなかった。

 ここは死と隣り合わせの危険な場所である。

 そんなところに軽い気持ちで赴くなんて、まともな神経の持ち主ならまずしない。

「お邪魔なら帰りますが」

「別に邪魔じゃない」

 舞さんはそう言うと、ツカツカと私達の元に歩み寄り……真琴を剣を持っていない左手で抱き上げた。

 そしてそれを胸元に持っていく。

(わわっ)

「…こうしてていい?」

 ……答えになってない。

 というか、話の脈絡を完全に無視していた。

「別に構いませんが、いいのですか? 私がいたら足手まといになる気がするのですけど」

 彼女の戦いの足を引っぱりそう、と分かっているのなら来るべきじゃない。

 それにそんなことを尋ねて『足手まとい』と言われたらどうするのだろう。

 そう思いつつも、あっさり状況を受け入れられたのがかえって不安でそんなことを訊いてしまった。

「私が守る。あなたには必要ないかもしれないけど」

「それはどういう……」

 意味を訊こうとしたところで、突然舞さんが剣を引く。

 明らかな攻撃準備姿勢。

 魔物も現れていないのに何をする気だ!?

 緊張と同時に眼のスイッチが入る。

 舞さんの剣がまっすぐ私に突き出された。

 遅い……!?

 スロウの世界の中、驚いたのはそれだった。

 いつぞや襲われたときや、魔物と戦っているときの彼女の剣とは思えない。

 その突きの速さ……以前の剣速の半分足らず。

 しかも、よく見れば届かないではないか。

 どこまで伸びても私の喉元数センチ前で止まる。

 つまり、避けるまでもない。

 果たして、舞さんの剣は私の喉元の前でピタリと止まった。

 それ以上の攻撃は……ない。

 

 

「どうして避けなかったの?」

「必要がないと思いましたから」

 ありのままに答える。

 舞さんはそれを聞き、しばらく押し黙った後、私の喉元に突き出した剣を引き戻した。

「やっぱり……守る必要はない」

 遅い剣、当たるはずのない太刀筋。

 ひょっとして、舞さんは私を試したのだろうか?

 間違いない、いかに遅いと言ってもそれはコマ送りの世界での話だ。

 実際のスピードは決して遅くはないだろう。

 そして剣という絶対的な凶器を突き出されたら……普通の人間は慌てて飛びのく。

 身動きせずにいられるのは高度に訓練された人間か、私のような例外だけだ。

 つまり、私なら魔物に襲われたところで一人で逃げるくらいは出来るということに違いない。

 実際、動揺していた昨日ならともかく、今日同じモノに襲われたとして逃げおおせる自信は確かにあった。

 だからこそ、ここに足を踏み入れることに恐怖がなかったのかもしれない。

 異界の恐怖もネタが割れてしまえば恐怖が半減する。

 

(ちょっと、どこに剣を当ててるのよ!)

 

 突然舞さんの腕の中の真琴が金切り声を上げた。

 見ると、舞さんの引いた剣が偶然にも真琴の喉元近くにきてしまっている。

 いわゆる『それ以上近づくとこいつの命はない!』の体勢だ。

「…何?」

 手元で暴れる真琴をちらりと見て、私に問い掛ける舞さん。

 もうこの人には私と真琴が会話できることはとっくにお見通しなのだろう。

 この人は日常生活の鈍さと裏腹に、その対極の事象にはとにかく鋭い。

 このような不可思議な世界に身を置くゆえだろうか?

「剣が真琴の喉元に当たってますよ」

 手元を見る、そして舞さんの口が開いた。

「あ」

 まさにそんな感じで。

(『あ』、じゃないわよ!)

 呆ける舞さんに、ぎゃあぎゃあ針小棒大に騒ぎ立てる真琴。

 大丈夫なのだろうか……仮にもこんな場所でこんなことをしていて。

 

 ガキッ……。

 

 そう思った瞬間、まるで私の心配に応えるかのように異質な音が鳴り響いた。

 空間が裂いて何かが這い出てくる音とでも言うべきだろうか?

 さっきまでの緩やかな雰囲気は一瞬で消え去り、緊張が空間を支配した。

「真琴をお願い」

 舞さんが真琴を私に渡す。

 手に抱いた真琴の体は小さく小刻みに震えていた。

「大丈夫ですか真琴?」

(うん、大丈夫。一人で大丈夫だから降ろして)

 真琴を抱いたままでは私も身動きが取りづらい。

 真琴もそれを察していたのだろう。

 言葉に甘えて真琴を床に降ろす。

 

 ヒタヒタ……

 

 来た。

 前方に青いオーラが揺らめき、それが近づいてくる。

 その中心にいるのはやはりうさぎ耳のカチューシャをつけたワンピースの少女。

 それが私達の目の前で止まった。

「……違う!?」

 間近で見て、思わずそう小さく叫んだ。

 姿形は明らかに同じだが昨日の少女と何かが違う。

 雰囲気、何より何も感じられない表情が昨日の無邪気な笑顔を浮かべた少女とは対照的だった。

 まるで舞さんのような無表情。

 魔物の少女はどことなく舞さんに似ているという気はしていたが、目の前の少女はまさに舞さんをそのまま子供にしたような外見をしていた。

 ただの他人の空似?

 それとも、何か深い訳があるのだろうか?

 考える間もなく少女の手に炎がともる。

 だが、それは巨大な拳を形成しない。

 そのまま手の中でどんどん球状に膨れ上がってゆき……。

「………」

 強い呼吸音に続いて地を蹴る音。

 先に仕掛けたのは舞さんだった。

 だが、その攻撃は大きく空を切る。

 裂いたのはオーラの切れ端に過ぎない。

 気配だけで戦っている舞さんには相手の正確な所在が分からないのだ。

 

 ケタケタケタ。

 

 やみくもな剣士を嘲笑うかのように空間に鳴り響く怪音。

 その声を発しているはずの魔物の少女の表情は変わらずだ。

 昨日の少女より、こっちの方が不気味さという意味で魔物らしい。

 

 ケタケタケタ。

 

 再び鳴り響く怪音、同時に少女の腕で膨れ上がった炎がボールのように投げられる。

 ぶぉん、と風を切る音を感知したのか、反射的にそれを回避する舞さん。

 目標を外れた火球は天井を直撃し、振動で蛍光灯がパリンと弾け飛ぶ。

 やはり火球のように見えるあれも固体、質量を備えたいわば鉄球。

 しかし、明らかに昨日の少女とは別の『攻撃』だ。

 

 ケタケタケタ。

 ケタケタケタ。

 

 魔物の少女の両手に炎がともる。

 まずい!

 その右手が描く軌跡は明らかに私を捉えている。

 もう片方は舞さんだ。

 ごうっ、と両腕が同時に振られる。

 

 距離は十分にある。

 コースさえ読めてしまえば、直線的な分かわすのは剣や拳より容易い。

 半歩横に足を運び、紙一重でそれを回避。

 舞さんもやはり反射的に横に足を運びそれをやり過ごす。

 だが、見えると見えないではこうも違うのか?

 舞さんは必要以上に横に飛んでいる。

 動き自体は私よりはるかに速い……が、私から見れば明らかに無駄の多すぎる動きだ。

 あの身体能力に加えて私のような眼を持っていれば勝負は容易につくだろうに……。

 返す反撃の刃も魔物の手前で空振りに終わる。

 

 相手の攻撃をかわし、そこから位置を探って攻撃。

 見えない相手との戦いとは、なんと気の遠い作業だろう。

 しかし、舞さんは超人的な感覚でそれをこなし、確実に攻撃を魔物に近づけていく。

 魔物の攻撃にも焦りが見え始めた。

 次から次へと火球を打ち出し、上下前後左右縦横無尽に跳ねる舞さんを撃ち落そうとする。

 しかし、それが逆に舞さんに位置や体勢を特定させやすくしていることに気付いていない。

 外見だけでなく魔物の行動はまるっきり子供の暴れ方だ。

 

 そして、戦いの火蓋が落とされてから数分ほどだろうか?

 ついに決着の瞬間が訪れた。

 一旦後ろに跳んだ舞さん目掛けて魔物が火球を放つ。

 しかし、それは舞さんの誘いだった。

 

 赤い制服がはためき、黒い髪が宙に踊る。

 赤と黒で描かれた放物線が、青い炎の描く直線を火の輪くぐりのように通り抜け……。

 最後にくるりと円を描いて戦士は魔物の眼前に降り立った。

 

(すごい……)

 真琴が嘆息を漏らす。

 確かに凄い。

 かわすのが容易とはいえ、それはあくまで遠距離かつ単発の場合のこと。

 目前から連続で放たれた火球を全てやり過ごすのは至難の技だ。

 それどころか宙返りをし、回避と同時に肉薄するとは。

 しかも、舞さんには何も見えていないのに、である。

 恐ろしいまでに研ぎ澄まされた神経と、卓越した身体能力の融合。

 それを象徴すべき一瞬の出来事だった。

 

 魔物が最後の抵抗とばかりに火球を放とうとする。

 しかし、既に舞さんは懐の中だ。

 今ならいかなる攻撃も当たる。

 

 ザシュ!

 

 横薙ぎの一閃が魔物の少女を切り裂いた。

 操り糸の切れた人形のように、真っ二つになった少女の体が音も無く地面に転がる。

 ……転がったはずだった。

 

 ケタケタケタ。

 

 空間に不気味な嘲笑がこだまする。

 いま私が見たのはいったい何だ!?

 攻撃の当たった瞬間、魔物の少女から飛び出した影。

 まさしくそれは魔物の少女だった。

 分身、いや変わり身の術というものか?

 無事逃げおおせた少女は数メートル向こうで私たちの様子を確認した後……フッと姿を消した。

 それと同時に、床に転がった上半身と下半身も霧と化して消滅する。

 

 ケタケタケタ。

 

 と笑いを残して。

 それはまるでイタズラに成功した子供のような笑い声だった。

 

 

「どうなったのですか?」

 剣を降ろし、臨戦態勢を解いた舞さんに話しかける。

 あたりは酷い有様だ。

 蛍光灯が割れ、付近の窓ガラスも流れ弾を食って全壊という状況。

 夜風が直接校舎内に叩き込まれ、寒いことこの上ない。

「…仕留めた」

「間違いないですか?」

「どういうこと?」

 やはり、舞さんは気付いていない。

 切られると同時に魔物が分裂したことに。

 だが、それなら舞さんはどうやって倒したことを理解したのだろうか?

 そもそも舞さんの魔物に対する認識はどんなものなのだろう?

「質問を変えます。どうして倒したと分かったのですか?」

「…なんとなく。それに数が減った」

「数? 魔物は数体いるということですか?」

 こくり。

 舞さんが無言で頷く。

 もともと喋らない人だ、このまま私の推測に肯定か否定かで答えてもらう方がスムーズかもしれない。

「数が減ったということは、舞さんには魔物の残存数が分かるということですね?」

「…なんとなく」

「では残りは何体ですか?」

「5体……だけど時々増える。それに傷の治りも早い」

 傷の治癒速度は分からないが、それはおそらく間違いを含んでいる。

 魔物は増殖しているのではない。

 あれは増殖ではなく偽装、言い換えれば死んだフリだ。

 あの嘲笑が全てを物語っている。

 舞さんが相手を倒したことを確信しているということは、あの笑い声も私にしか聞こえていないということだろう。

 あれを聞けば、いかに相手の姿が見えないとはいえ、本当に倒したのか不安になるはずだ。

「いつかは終わる戦いなのでしょうか?」

「…全て倒せば」

「では、いったい何年間ここにいるのです?」

 そう訊ねると、舞さんは考え込むように天井を見上げた。

 そして視線を私に戻すと……

「…随分前から」

 と答えた。

 ようはもう覚えていないということだろう。

 

 あんな戦い方、一朝一夕に身につくものではない。

 この人は何度こんな夜を越えてきたのだろう。

 人の限界を超えて人ならざるものと戦う。

 そんなことを続けたら、どんどん人間としての感覚が麻痺していくのではないか?

 舞さんはいつか終わると信じて戦い続けているようだが……。

 果たして、その戦いに終わりなどあるのだろうか?

 今までもずっと魔物に踊らされていただけではないのか?

 そもそも、彼女がそうまでして魔物と戦わねばならない理由とは何なのだろう?

 

「舞さんは……何故魔物と戦い続けるのですか?」

 その問いに舞さんはきっ、と刺すような鋭い視線を何もない空間に送る。

「…私は魔物を討つ者だから」

 

 

 

 それが全て。

 そしてそれが彼女の戦う理由だった。

 

 

 




多分二度と交わらないであろう栞との邂逅。
でも、お互いの心に残したものは大きかったはずです。
栞はこの後大きな決断をしますが、そこには美汐との会話も少しは影響があったのかもしれませんね。

なお、美汐というとOLSON師匠の『もう一つの可能性』では、栞に始業式の時に話しかけた女生徒だったりするのですが、こちらではやめておきました。

ちなみに、真琴シナリオや舞シナリオの真相を早いうちに知ったらどうなるんだろう?
そんな疑問がこの物語の根底にはある気がします。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。