灰暦1年 ネマ|乾かぬ帰路
西岸の板場から、クシャ採掘帯へ。
ネマは、夕方まで一尾だけ残っていてくれればと思いながら、魚の腹を裂いた。
いつもなら傷のついた小魚を分けてもらう。今夜は、自分で払って大きいのを買いたかった。弟の熱が下がってから、家族がそろって温かい魚を食べた日はない。父に骨を外してもらわず、ネマが捌いて皿に載せる。うまくできたら、もう腹ばかり裂かせるな、と親方に言ってみるつもりだった。
桶へ内臓を落とし、刃を水にくぐらせる。魚が滑った。塩で指をこすってつかみ直すと、隣の女が笑った。
「その塩で魚を干す気かい」
「手が干せるなら、そうしたい」
指の割れ目がしみた。女は笑いながら、ぬめりを拭く布の乾いた方を寄越した。
港から声が上がったのは、その時だった。荷役夫が板場の前を走り、クシャで灰油が出た、と叫んだ。灯りに使うあの油が、北の地面からいくらでも出るらしい。誰かが高純度という言葉を何度も繰り返していた。ネマは次の魚をつかんだ。地面の下のことより、今夜の皿の方がよく見えた。
昼前、魚を運んでくる船が来なかった。
親方は港へ出て行き、戻ると水桶に蓋をした。水売りが値を上げたと言った。使いかけの水に鱗が浮いていたが、まだ替えるな、と念を押された。午後の仕事は早く終わった。渡された賃は、約束の半分だった。
「残りは船が戻ってからだ」
ネマは手の中を見て、それから籠の一尾を見た。親方はもう奥へ引っ込んでいた。傷のついた小魚も、その日はなかった。
家では、母が鍋の底を匙でこすっていた。弟がネマの後ろへ回り、隠して持って帰った物がないか見た。
「今日はないよ」
そう言うと、弟は母の腰に戻った。責められた方がよかった。ネマは手を洗う水を少なくし、残った賃を母の横へ置いた。
父は遅くに、隣家の男を連れて帰った。男は油皿から少し離して白い紙を広げた。紙の端がまっすぐなことに、ネマは目を奪われた。家にある紙は、包みをほどいたものでも角が丸くなっている。
「採掘許可だ。うちのじゃない。借りてきた」
「掘る金なんかない」と母が言った。
男は頷き、紙にある印を指した。
「これを持つ者が人を集めてる。掘る手だけじゃない。運ぶ手、炊く手もいる。雇いの帳面に名が載れば、向こうの宿へ入れる」
父は紙に触れなかった。ネマは男に、自分の仕事があるか聞きたかった。母が先に、家族も一緒に寝られるのかと尋ねた。
「今なら、と聞いてる」
「今ならって、いつまで」
男は返事をせず、紙を巻いた。父が戸口まで見送った。外では誰かが採掘請負の縁の者だと話していたが、男の足音に重なって続きは聞こえなかった。
その夜、弟が眠ると、父は母に言った。
「俺は海でいい」
母は裁縫針を布へ刺し、灯りの近くで糸を通し直した。
「明日の舟は」
「まだ分からん」
父の返事が小さかった。ネマは寝たふりをして、魚の身に刃を入れる順を頭の中でたどった。
数日たつと、板場には空いた場所が増えた。布を貸してくれた女も来なかった。残った魚は、手が足りなくて昼を越した。腹が温み始め、浜の藻とは違う匂いがした。親方は人を呼んでこいと怒鳴ったが、呼びに出せる手も惜しんだ。
ネマは一人で二人分の腹を裂いた。賃が増えるかもしれないと思った。夕方、親方は顔を見ずに、今日はここまでだと言った。
「いつ、残りをもらえるの」
親方は桶の水を捨てた。濁った水がネマの靴へ流れた。
「魚が売れたらだ」
「捌いたよ」
「売れたらだと言ってる」
港へ行くと、魚を積んでいた場所に釜と寝藁が積まれていた。荷を預けようとしていた男が、明日の順だと押し戻された。荷票を持つ係は一枚の紙を柱へ当て、別の係に見せた。魚という言葉が聞こえたあと、係は釜と寝藁の荷を指した。これを先に内陸へ送る、と言った。
ネマは父を捜した。いつもの舟の前にはいなかった。ようやく見つけた父は、道具の樽を運んでいた。樽を下ろすとすぐ次へ走り、ネマに気づいても手を上げるだけだった。
母は夕食の鍋へ水を足した。薬草代の前借りが残っていた。嵐で戻らなかった舟の取り分も、父は受け取れていない。母がどちらを先に払うか尋ねると、父は握っていた匙を置いた。
「明日、名を載せに行く」
ネマは、明日の板場のことを言おうとした。母が父の匙を拾って洗ったので、黙った。
役所脇の小屋には、机へ届く前から列ができていた。弟は途中で疲れ、父の背に乗った。ネマはその靴の踵を押さえた。底に穴が開きかけている。
机の向こうの若い記録吏は、父の名と、元いた浜と、家族の数を聞いた。父は一つずつ答えた。記録吏が紙をめくった時、弟が背で咳をした。
「この子も、寝床を」
父が言うと、記録吏は弟を一度見て、筆を戻した。次にネマを見た。
「年は」
父が答えた。ネマは顔を上げた。ひとつ多い。母はネマの腕に触れたが、押さえるほどの力はなかった。
「働けるか」
「板場で働いてます」
父の返事とネマの声が重なった。記録吏はネマの手を見た。爪の脇に残った魚の血が、洗っても落ちていなかった。
「運ぶ仕事もある」
紙に筆の音がした。父が、寝床は四人で一緒かと聞くと、宿で確かめろと言われた。名を載せる紙と、寝る場所を決める紙は、同じ机では済まなかった。
父は帰りに干し魚を一尾買った。ネマはそれを見て、もう生の魚は買えないのだと思った。家で弟に頭の方を渡すと、噛み切れずに泣き出した。父が代わりにほぐそうとして、硬い骨を折った。
「煮よう」とネマは言った。
母が残りを鍋へ入れた。だしは出たが、身は塩辛かった。父は食べながら、よく味が出た、と言った。ネマは頷かず、弟の身から骨を拾った。
出る朝、母は鍋の中へ匙と針包みを入れ、衣類をかぶせた。毛布は二枚。父は小刀を腰へ挟み、麻袋の口を結んだ。臼の前で手が止まった。
「置こう」と母が言った。
弟は壁の背丈の印の前に立っていた。踵を上げて、次の印をつけろと言った。父は弟の頭へ手を載せ、踵を下ろさせた。
「向こうでな」
印をつける釘は壁に残った。ネマは自分が弟の踵を押さえられるのは、寝床だけになってしまうような気がした。
母が敷居を拭いている間に、ネマは板場まで走った。誰も来ていなかった。自分の立つ場所には、昨日つけた刃の筋がまだ白く残っていた。奥から親方が出てきたので、ネマは賃の残りを頼んだ。
「戻ったら払う」
ネマは板場の刃を指した。
「これを、残りの代わりに」
「道具は道具だ。持っていかれたら次の者が困る」
次の者がどこにいるか、聞かなかった。布を借りた女の場所にも、誰も立っていなかった。ネマは刃を水にくぐらせ、親方の手元へ柄を向けて置いた。
戻ると、父が戸口で待っていた。怒鳴られると思ったが、父は鍋の包みをネマに渡した。弟はもう母に抱かれていた。母が一度家の中を見た。それから戸を閉めた。
港の列は長かった。許可証を持つ男たちは先に通った。ネマたちの列では、荷を下ろし、紙を出し、また荷を担ぐ、そのたびに少しだけ前へ進んだ。ネマは鍋の包みを抱え直した。魚の匂いの染みた袖から、鉄の冷たさが伝わった。
母が列を離れたのは、船へ通される少し前だった。水売りの桶へ行き、小さな壺に水を買った。戻ると家の方角を見て、その水を地面へ少しこぼした。
「飲まないの」
「帰る道を、乾かさないように」
泥の色が濃くなった。すぐに列の男の靴が踏んだ。ネマは壺を受け取り、残った水を弟に飲ませた。弟は両手で壺を持とうとして、母の指までくわえた。
父が笑った。久しぶりに聞いた笑い方だった。
船の縁から屋根を見ても、家は見つからなかった。母がネマの抱えた鍋へ手を添えた。父は弟を膝に乗せ、手元の紙を何度も胸にしまい直した。
内陸へ進むほど、水は灰色に濁った。岸に仮小屋が続き、枝には重そうな洗濯物が掛かっていた。湿った薪の煙に、油の匂いが混じった。母は父に、三月で借りを切れるのかと尋ねた。父は、働き口を見てからだ、と答えた。ネマは壺を覗いた。水はもうなかった。
クシャで船を降りると、鍋より弟の方が重くなった。父が麻袋と毛布を持ち、母が鍋を持ったので、ネマは弟を背負った。道の泥に足を取られるたび、首に回された腕が締まった。
宿は長屋で、まだ木の新しい色が見えた。入口では帳場係の女が、紙を出せと呼び続けていた。父の控えを受け取り、帳面に線を引く。女は一か所へ指を置いた。
「父親と、妻と、ネマ」
父が、ネマの背にいる弟を指した。
「これもいる」
女は控えを灯りへ寄せた。筆先が擦れた場所を爪でなぞった。
「子は一人、ネマ、と書いてある。もう一人の子は、ここにない」
「ネマは働く方だ」
父が言い、ネマは弟を下ろした。足が泥へ沈み、弟が泣いた。女は机の下から別の紙を引き出したが、後ろの男が自分の紙を差し出してきた。
「端へ寄って待って」
父は弟を抱いた。母がネマの足の泥を布で拭こうとした。ネマは身体を引き、帳場の机へ戻った。
「ネマは私。子は、弟です」
女は次の紙を見たまま、分かった、と言った。
「分かったなら、弟の場所も教えて」
後ろで男が舌打ちした。父がネマの肩に手を置いたが、ネマは退かなかった。女は顔を上げ、弟とネマを交互に見た。それから、さっき引き出した紙に父の名をもう一度聞いて書いた。
「寝る幅は増やせない。今夜は同じ場所を使って。子の食数は炊き場に伝える」
ネマは女の指が止まるまで待った。どこに弟が書かれたかは読めなかった。女が紙を畳んで小皿の下へ置くと、ようやく父の手に従った。
薄い粥には根菜が二切れ浮いていた。弟の分も来た。母は一切れを自分の椀から移し、弟は匙を握ったまま眠りかけた。藁は湿っていた。四人で横になると、父の片腕が壁板へ当たった。
夜のうちに父は働き口を見に出た。朝、靴に土を詰めて戻り、灰油の桶を積んだ車を支える仕事だと言った。母が坂なのかと聞くと、父は頷いた。
ネマは炊き場へ行った。昨日の帳場係の紙が届いているか気になった。大鍋の横で、女たちが根菜の泥を落としていた。ネマが弟の分を尋ねると、一人が籠を顎で指した。
「今朝はある。それより、そこを持ってくれるかい」
籠の底から水が垂れていた。ネマは両手で持ち上げ、女が泥を流すのを手伝った。手の割れ目へ土が入った。魚とは違って、根菜はつかんだ場所を動かなかった。
母が迎えに来た頃には、袖まで濡れていた。炊き場の女が、明日も二人で来られるかと聞いた。母は弟を振り返った。
「寝てる場所は、すぐそこです」とネマが言った。
「あんたに聞いてるんじゃないよ」
母はネマを見て、少し笑った。それから女へ、朝だけなら、と答えた。賃の話は、そのあとだった。母は曖昧な返事に頷かず、何をもらえるのか最後まで聞いた。
その日の夕方、父は帰るとすぐ腰を伸ばした。弟が父の靴へ触ろうとしたので、ネマは泥を落とす方をさせた。弟は石を持ち、靴底を熱心に叩いた。
母が根菜の切れ端を鍋に入れた。炊き場で分けてもらったものだった。父は腰の小刀を抜き、ネマへ渡した。柄に海で使った跡の黒ずみがあった。
「硬い所を落とせるか」
刃は、板場のものよりずっと短かった。ネマは根菜を持ち、父の親指がいつも置かれる場所へ自分の指を掛けた。薄く削ると、鍋の中に白い面が増えた。
弟が靴を持ち上げ、きれいになったと見せに来た。まだ泥は残っていた。父は受け取り、弟の足と靴を並べてみせた。弟は自分がずいぶん小さいのが気に入らず、父の膝を叩いた。
ネマは笑いながら、二切れをさらに小さくした。煮えたら弟も噛める大きさにする。母が鍋へ水を注いだ。ネマは削った根菜を刃の腹に載せ、こぼさないよう、鍋の縁まで運んだ。