湿地の村と、西岸の都市。
アセム/湿地の村
姉は、来季の種を入れる袋を先に縫った。
底が薄くなっていたので、古い衣の裾を切って重ねる。アセムが持ち上げると、姉はまだ入れる物がない、と言った。湿地の畑では、水が引くべき時に引かなかった。乾いた穂を選んでも、指でしごけば中身の軽い粒が落ちた。
子どもが袋へ手を伸ばした。姉は針を抜き、抱き寄せて膝へ載せた。
「納める分が少しでも待ってもらえたら、ここへ残せる」
アセムはそう言った。姉は返事の代わりに、袋の口へ紐を通した。減った収穫からどれだけ出すのか、まだ返事はない。鍋を薄くしても、種まで食べてしまえば次が困る。
村の記録係から帳面の写しを受け取る時、アセムは、本当にこの数字でよいのかと尋ねた。老人は畑から持ち帰った穂を机へ置いた。粒の出ない穂が、紙の上を転がった。
「こっちを直せるなら、直したいがね」
写しには村々の印がついていた。アセムが西岸の都市へ持って行く。口で困ったと訴えるだけでは、倉の門で止められると聞いていた。
船底には納める穀の袋が積まれていた。湿った匂いがする。隣に座る男は、籠へ鶏を一羽入れていた。別の村から売りに行くのだという。
「灯火祭の前なら、まだ買う者がいる」
「今年もやるのか」
「そのために来たんだ。やめられたら、こいつをまた連れて戻る」
男は籠の隙間から水をやった。鶏が嘴を上げるのを、二人で見ていた。
セリ/西岸の都市
西岸では、祭の灯を吊るす柱がすでに立っていた。セリはその下で、運ばれて来る舞台材の数を確かめていた。
荷運びの男は板を下ろしたあとも待っている。渡し賃の受け取りがなければ、帰りの仕事へ行けない。セリが数を読み上げると、祭の仕度を預かる者が袋から銭を出した。男は掌で数え、すぐ舟へ走った。
セリには、こうして人を待たせず済む時がいちばん気持ちよかった。
祭礼費用帳には、油、布、板、祈りを頼む費用、見回りの賃が並んでいた。今年は寄進が少なく、使える布を選り分けて継いでいる。セリの机にも古い布が敷かれ、墨が落ちた所を裏返して使っていた。
「見回りが増える。ここの分を先に残しておけ」
帳場の上役が言った。セリは残りを確かめた。まだ灯を吊るした者への払いが済んでいない。
「この人たちが、今日取りに来ます」
「分かっている。誰の賃も要るから困っているんだ」
セリは筆を置き、相手と同じ欄を見た。上役も、増える銭を持っているわけではなかった。
昼に倉口へ写しを届けに行くと、南岸から来た男が収穫の紙を広げていた。袖は洗ったあとも泥の色が残り、爪の間に黒い筋がある。
倉役は数字を読んだあと、村ごとの書付だけでは猶予を決められないと答えた。まとめた数字を待っているらしい。
「待っている間にも、袋は出せと言われる」
男の声が上がった。倉役は、ここへ来る穀も減っている、と言った。後ろの列から、返事だけ先にくれという声がした。セリは自分の紙を差し出しかけ、引っ込めた。
男は収穫の紙を畳んだ。端が倉役の指に残り、少し裂けた。二人とも手を止めたが、男はそのまま立ち去った。
アセム/倉口を離れて
アセムは倉口を離れ、姉に何と伝えるか考えた。袋を縫ったことを思い出すと、もう一度戻りたくなった。だが、別の者が同じ場所で待っている。
路地では菓子屋の娘が、焼けた物を鉄板から剥がしていた。形の崩れた端を口へ入れ、アセムを見ると手を止めた。
「買うなら、表の方にあるよ」
買えるかと尋ねたのではなかった。アセムは頷いて通り過ぎた。角を曲がった所で、鶏の男に会った。籠は空だった。
「売れたか」
男は銭を見せた。
「帰りの便までは、ここにいる。粥を配るそうだ。食って行こう」
アセムとセリ/灯火祭
祭の初日、セリは灯が端まで渡るのを見上げた。昼には色の違った継ぎ布が、灯の下では気にならない。最後の柱で手を振る男へ、こちらも手を上げた。帳面で待っていた賃は、夕方までに渡せた。男の子が下から父親を呼び、首にしがみついた。
海から吹く風に火が揺れた。水面にも灯がいくつも浮かぶ。アセムは鶏の男と立ち止まって見た。男がきれいだな、と言ったので、アセムも頷いた。
姉の子に見せたら喜ぶだろうと思った。そう思う自分に戸惑った。昼には、この布をほどいて村へ持って帰れないかと考えていた。
粥の列へ入ると、列の先を見ようとする者に肩を押された。菓子屋の娘も、盆を持って脇を歩いている。売れ残りを安く出しているのだと言った。アセムは銭に触れたが、姉の袋を思い出して手を戻した。
「後ろの人まであるのか」
誰かが炊き手へ聞いた。鍋を掻いていた女は、あるだけ配る、と答えた。それを聞いて前へ出る者がいた。別の者が袖をつかみ、すぐ見回りが間へ入った。
鶏の男は、売った銭で何か買って戻ると言って列を離れた。アセムはその場所を空けて待ったが、後ろから詰められた。
前で配る手が止まった。次の鍋はまだ来ない。見回りが列の途中へ縄を渡し、ここまでだ、と告げた。アセムは自分が縄の後ろになったことを知った。
「さっきから待っていた」
見回りは、前の者も待っている、と答えた。その肩越しに、椀を重ねる手が見えた。
広場では、豊穣を祈る声が読み上げられていた。子どもの声がそれに続く。アセムは縄を握った。
「祈るなら、倉を開けてくれ」
近くの者が同じことを叫んだ。誰かが縄を押し下げたので、アセムも足を進めた。見回りの腕が胸へ当たる。向こうからも押す力が来た。引き返そうとすると、背に別の身体がつかえていた。
石の飛ぶ音を聞いた。投げた手は見えなかった。灯籠の柱が傾き、人が離れた隙間へ、逃げる者が流れ込んだ。見回りが棍棒を上げるのが見えた。火のついた布が低く落ちてくる。アセムは腕で顔を覆った。
鶏の男が石畳に座っていた。片足を押さえ、籠を前へ突き出している。通る者の足がそれに当たる度、籠は潰れた。
アセムは男の腕をつかんだ。倉を開けろという声は、まだ聞こえる。男は立とうとして歯を食いしばった。
「その足じゃ駄目だ」
空の籠を男の膝から外した。買った穀の小袋が転がったので拾い、男の懐へ押し込んだ。男はアセムの肩へ腕を掛けた。二人で立ったが、すぐに押し戻された。
倉の裏へ通じる路地は、閉じた戸の前で詰まっていた。
セリ/倉の内側
セリは内側で費用帳を抱えていた。上役は表へ行く前に、帳面をここへ置き、戸を閉めておけと言った。倉の奥には祭に使う残りの油と布がある。
戸が叩かれた。セリは帳面を箱の上へ載せた。
「ここを通してくれ。運ぶ者がいる」
昼の倉口の男の声だった。隙間から見ると、その肩に別の男がぶら下がっている。奥へ入って何をされるか分からない。セリは閂へ手を置いたまま、二人の背後を見た。もう一人倒れれば、起こす場所もない。
「横を抜けるだけなら。奥へは行かないで」
閂を上げた。戸は外からの力で開き、セリの肩へ当たった。アセムが中へ入り、壁に身体を寄せて後ろの者を通した。セリは裏の出口を指し、油の壺を踏まないよう何度も言った。壺をよける者も、聞こえていない者もいた。
アセムは鶏の男を外の壁際へ座らせた。セリが水を持って来た。男は飲む前に、穀の小袋があるか確かめた。
「先に戻ってくれ。船を待たせる」
アセムは首を振った。一人で桟橋まで行ける足ではない。倉の方では、怪我をした者が次々に運ばれていた。セリが途中まで数え、同じ者をまた見たと思って口を閉じた。
上役が戻ると、通路に残った足跡を見た。セリは自分が開けたと言った。
「帳面は」
箱の上を指した。帳面は残っていたが、そばに置かれた灯が倒れ、布と紙の端に油が染みていた。セリは開いて確かめようとし、上役に手を止められた。
「今夜はもう触るな。明るくなってから見る」
二人で灯を起こした。表の声が近づく度、セリはまた戸の方を見た。
祭のあと
帰りの船は、翌朝には出ていた。アセムは港の隅で鶏の男ともう一度泊まった。男の村へ向かう者を捜し、足を休ませて一緒に乗れる便を待った。手持ちの銭は寝場所と食べ物に減っていった。姉へ持ち帰る返事も、種も増えなかった。
死んだ者がいると聞き、アセムは同じ船で来た人々を尋ねて歩いた。収穫の写しの裏へ、聞けた名だけ書いた。港に残った者が、自分の村の分を書き加えた。顔を知らない者の名も混じった。その紙は、あとで村の収穫帳と一緒にしまわれた。
セリが鎮圧報告を写すよう命じられたのは、祭礼費用帳を乾かしたあとだった。火災は軽微、死傷は若干と記されている。裏で運ばれた者は全員同じ状態ではなかった。自分の数えかけたものを、死者の数にはできない。
油で読みにくくなった支払いを、セリは一人ずつ確かめ直した。その折に、近しい者を亡くしたと話す人もいた。費用帳とは別に聞いたことを残したが、報告と合わせるために知らない人数を埋めはしなかった。
上役からは、当分、倉を一人で預かるなと言われた。セリは頷いた。払うべき人を待たせたくない気持ちは変わらない。今は昼に別の者が来るまで帳面を閉じ、壊れた灯を片づける仕事へ回った。
菓子屋の娘が、柱の下で使い残した板を束ねていた。セリが片側を持つと、娘は炉にくべる、と言った。
「煤がついてるから、菓子には使わないよ」
娘はセリの袖を見た。油の跡は洗っても残った。
「火には当たらなかったの」
「肩をぶつけた」
「それなら、その側は私が持つ」
二人で束を路地へ運んだ。柱から外された継ぎ布が、足元へ長く垂れていた。
アセムが村へ戻ると、姉は話を聞きながら鍋を混ぜた。猶予の返事がないと伝えると、混ぜる手が一度止まった。鶏の男の足の話をしても、薄い鍋はそのままだった。
「一緒の便まで待ったのかい」
アセムは頷いた。姉は、そうか、と言い、子どもに椀を並べさせた。
外に干してあった種の袋を、アセムは取り込んだ。底の重ねた布が乾き切っていない。姉は火から離して置くよう言った。空でも焦がしたくないのだという。
アセムは袋を竿へ掛けた。子どもがまた手を伸ばしたので、縫い目が見える高さまで下げてやった。子どもは指で一針ずつ辿った。アセムはその横に座り、持ち帰った穂から、次に残せる粒を選び始めた。