五港を結ぶ、島の潮文塔。
エネは、自分の名の横にある空きを見ていた。
隣の見習いの名には赤い印がついた。共通符号を読める、と確かめられた印だった。帳面を閉じられる前に、エネは自分も試してほしいと言った。
オルドが顔を上げた。港から持って来た外套はまだ濡れていて、椅子の下へ水が落ちていた。
「符号帳は見ていい。向こうから来た文を取れ」
エネは灯の窓へ向かった。島の塔で、油を足したりガラスを拭いたりする手伝いはしていた。夜に沖へ知らせる灯もよく見ている。新しい共通符号を自分で読む番になると、覚えたはずのことまで間違えそうで緊張した。
向こうの塔が短く光った。次は長かった。エネは紙へ書き、切れ目を待った。帳場へ届いた自分の文を、知らない者が読める。そのために五港の間で合図を揃えたのだと聞いた。今までは、油の桶を運び終えると仕事の大半が済んだ。今日はその先がある。
最後まで書くと、先任の塔守が紙を覗いた。
「ここで文が切れてる」
エネはひとつの知らせだと思って続けていた。先任は窓の外へ顎を向け、今度は間を見るよう言った。光が戻った。エネは続きを取った。
港へ向かう便が遅れる知らせと、今の風向きだった。二つに分けて読み上げると、オルドは紙を受け取り、帳面へ印をつけた。
エネはすぐ覗き込んだ。先任に背をつつかれ、窓へ戻る。
「次が来てる」
その日は、印を見たくて何度も帳面の方を向いた。隣の見習いが、そっちは光らないぞ、と言ったので、エネは彼の袖を肘で押した。
灯の合図で文を継ぐ仕事を、潮文と呼んでいた。共通符号を覚えてからは、天候だけでなく、他港の荷や値の知らせが来る。凪いだ夜でも光は止まらなかった。船が多く動く日は、それだけ多くの知らせが塔を通った。
エネは、先任の横で受けた文を読み上げるようになった。先任は次の塔へ渡す。やがて二人の役目を入れ替え、エネが灯を動かした。
向こうから受け取ったという返事が来た時、エネは手元を離して窓へ寄った。光の意味が分かる。こちらを見ている誰かがいて、その者が自分の手を待っていた。
先任は、窓へ顔を近づけるな、風が入る、と言った。エネは笑いながら戻り、次の文を待った。
夜番は二人で分けるはずだった。けれど、片方が横になった途端に文が長くなったり、古いやり方の合図が混じったりする。先任を起こしに行くと、毛布の下から出る手を見た。その手で額をこすってから、男は起きた。
エネも休みの間に呼ばれた。別の見習いが、帳面におまえの印があると言った。断ると、できなくなったと思われるかもしれなかった。
昼に港へ渡る約束をした日、エネは岸で船を待ちながら眠った。目を覚ますと、連れて行ってくれるはずの舟はもう見えなかった。拾った貝の殻が掌へ食い込み、膝が潮で濡れていた。
塔へ戻ると、先任が濡れたズボンを見た。
「海へ入ったのか」
「舟を待ってた」
先任は少し笑ったが、自分の目も赤かった。エネは一緒に笑うことができなかった。
帆布の文を読み違えたのは、その後の夜だった。
南の塔の光がかすみ、終わりの二打が一つに見えた。エネは「西二港、帆布払底」と書いた。先任を呼び、もう一度受けた。紙に置いた自分の字を見ながら光を追うと、やはりそう読めた。
先任は、最後が近すぎる、と言った。
「払底だと思う」
「思う、か」
その間にも、次の知らせを待つ光が見えた。エネは符号帳を開き、払底の所を示した。先任は紙を受け取り、次の塔へ文を渡した。
あとから届いた訂正では、帆布は尽きていなかった。「八分停」という、不足しているがまだ保つ意味の合図だった。
エネは紙の一行を塗り潰したくなった。先任に止められ、誤った文と訂正を並べて残した。手が冷たくなり、次の知らせを写す字が大きくなった。
オルドが訂正文を持って来た時、エネは窓のガラスを拭いていた。指が同じ所を何度も往復していた。
オルドは受けた紙と送った控えを机へ並べた。風の向き、聞き直した回数、どこで疑ったかを確かめた。エネが最後を一つに見たと言うと、先任も、自分はそこで疑った、と答えた。
「止めたのか」
「止めなかった。帳を見せられて、それで送った」
オルドは先任の言葉も書いた。エネは自分一人の名前で済むと思っていたので、男を見た。先任は紙を見ていた。
「今度、同じ所が見えなかったら」
オルドがエネに聞いた。
「もう一度、そこだけ送ってもらう」
「送ってもらっても、見えなかったら」
エネは答えられなかった。オルドは符号帳を閉じず、机へ置いた。
「見えた所と、見えない所を混ぜるな。分からん所を、知ってる字で埋めると、次ではもう分からなくなる」
その文で何が動いたか、エネが聞くと、オルドは港の話をした。帆布を買いに走った者がいる。値を上げた店がある。訂正が来る前に、高く払った船頭もいる。
「戻せないの」
「知らせは戻せる。買った銭まで戻せるとは限らん」
エネは塗り潰さなかった一行を見た。
後日、記録を届けに港へ渡った。船具屋の前では、帆を広げた男が針を持って待っていた。奥から出てきた店の者と、布の値を言い合っている。エネには、その人たちが自分の文で損をした者かは分からなかった。
渡す控えの中に、あの訂正があった。包みを持つ手に力が入った。
印刷場の前へ回ると、新しい相場速報が差し出されていた。紙を受け取った男が荷役の方へ走った。ほかの男は上着の内へしまい、違う道へ急いだ。エネが夜に受けた港名と荷の名が紙にある。
エネは走る者に道を空け、しばらく後ろ姿を見た。届け先の戸を叩くと、すぐ開いた。中では新しい速報を広げ、次の荷の話をしていた。エネは訂正文の包みを、机の空いた所へ置いた。
島へ戻る船で、エネは先任に、まだ保つと尽きたとではずいぶん違うんだね、と言った。先任は頷いた。
「あの時、俺も帳を見すぎた」
「僕が見せた」
「受け取って送ったのは俺だ」
先任は舟の縁に腕を載せた。エネもそこへ腕を置いた。島の塔は昼には小さく見えた。上の窓に誰が立っているか、まだ見分けられなかった。
次の夜から、受けた文を見せる前に、分からない所は空けることにした。先任は先にエネの字を見ず、自分で光を取った。二人で比べてから、続きを求める。
仕事が少なくなったわけではなかった。返事を待つ間に、油を足し、煤を拭き、冷めた茶を飲んだ。エネは、自分が寝る番になったら先任を起こすようにもなった。以前は起こさずもう一文取れば、働けると見てもらえると思っていた。
嵐の夜、北東の塔から来た文は、最初から危急の合図だった。
エネは先任を呼んだ。小型船二隻、暗礁帯で帆を失い漂っている。そこまでは二人とも取れた。続く位置の知らせで、向こうの光が雨に滲んだ。
エネは紙を押さえた。風が入り、端が持ち上がる。先任が窓の脇へ身体を寄せ、もう一度光を見る。
「まだ位置が取れん」
エネも取れなかった。二隻が漂っている、とだけ、紙にははっきり残った。向こうが送り直したが、同じ所が欠けた。
「これを待ってる間に、流れる」
エネは言った。先任は南の窓を見た。そちらの塔は見えている。
「分かった分を港へ渡す。救助の支度はできる」
「位置が未確認だと、つけて」
先任が頷いた。エネは灯を動かした。遭難、二隻、帆を失う。暗礁帯。位置は再確認中。短い文を終えると、手を止め、南からの返事を待った。
先任は北東へ位置の部分を求めた。エネが南の返事を取ると、次に北東の窓へ寄った。さっきまで一つに見えた光の間に、暗い時間が少し戻った。
「ここ」
先任が紙へ指を置いた。エネは続きを書いた。合わない所を残し、さらに確かめた。紙の空きは埋まったが、先任が読み上げるまで灯の手元へ戻らなかった。
位置と潮筋、救助へ入る向きが揃った。南の塔へ続きが渡った。共通符号で、こちらが確かめたことをそのまま次へ伝えられる。エネは送り終えると、両手を腿へ押しつけた。指の震えがようやく分かった。
港から、救助の船を出したという知らせが返ってきた。
エネは声に出して読んだ。先任が、受け取ったと返せ、と言った。エネはもう一度手を上げた。
雨は続いた。紙を重ねても置き場所が足りず、先任は茶碗を床へ下ろした。夜の荷の問い合わせも来た。二人で手を分け、救助に関わる文を先に継いだ。その間、エネは何度も北東を見た。救助の船が着いたとは、まだ言ってこなかった。
次に届いたのは、二隻を見つけたという知らせだった。まだ曳く支度をしている。エネは、見つけただけ、と言って読み直した。先任は頷き、茶を湯で薄めて渡した。
エネは両手で飲んだ。茶碗が唇へ当たり、音がした。笑いたくなったが、まだ二隻は海にいる。
日の出前に、二隻を曳いていると伝わった。エネが灯の手を離すと、先任が肩へ手を置いた。今度は窓へ戻せという合図ではなかった。
「通ったな」
エネは笑って頷いた。机へ戻り、曳航の知らせをいちばん上へ置いて、次の文を書く場所を空けた。
朝、港からは救助船のために遅れる荷をどう回すか、問い合わせが来た。エネは先任と一緒に写した。隣番の見習いが起きてきて、下から交代の者を呼んだ。
エネは、港の問い合わせだけ済ませようと思った。次の文が来る。油を足さなければならない。立つと膝が机に当たり、置いた紙を落とした。
隣番が拾い、最初の紙から揃えた。
「どこまで終わってる」
エネは指で示した。二隻を曳いている知らせを読み上げると、隣番が顔を上げた。窓へ寄り、まだ沖にいるのかと聞いた。
「ここからは見えない。続きを待って」
エネは一枚ずつ説明し、受け終えた文と、返事が要る文を分けた。隣番は、分かった、と言って窓の前へ立った。
階段を下りても、エネの目には白い筋が残った。踊り場に座ると、階上から先任に呼ばれた。何を呼ばれたか聞く前に、立ち上がった。
「茶碗、置いていけ」
手に持ったままだった。エネは戻り、床へ置いた。先任は椅子に座ったまま、もうすぐ自分も交代すると言った。
「帰って来たって、知らせがあったら」
エネが言うと、先任は窓の外を見てから答えた。
「起こしてほしいか」
エネは少し考えた。聞きたかった。自分が聞き届けたかった。けれど、目を閉じると灯の続きばかりが残った。
「起きてから、聞く」
先任はそれで頷いた。
寝床では、エネは窓に背を向けた。昼の光が毛布の縁へ細く入っていた。隣番が上で文を読み上げる声がする。途中で言い直し、先任が答えた。
エネは一度、頭の中で続きを取ろうとした。やめて、片手を毛布の下へ入れた。灯を動かした指が、まだ少し震えていた。もう片方の手を重ねると、震えは掌の中に収まった。