五港同盟圏の一港。潮文の共通符号を使う、帳場と油倉。
レンは、寝床の横に置いた紙を、朝まで裏返せなかった。
北入灰油不足見込み。
自分で書いた字ではない。印刷場で刷られた相場速報の一行だった。それでも、その文を差し替えへ回したのは自分だ。まだ船が着く前に油を押さえた商人が、帳場まで来て礼を言った。
「今度も、うちへ先に」
先任の書記が、そこは約束しない、と返した。レンはすぐに頷いたが、商人が出ていくまで顔が熱かった。
母方の叔父が船具屋をしていた。その伝手でこの帳場へ入った。きれいな字を書ける者は他にもいたし、足し算を間違えない者もいた。島の灯を継いで届く新しい潮文を、港の荷の見込みへ直す仕事は、古参が皆やりたがる仕事ではなかった。
レンは略号を覚えた。共通符号なら、別の港からも同じ言い方で知らせが来る。朝の船を待つ間に荷を捜すより、先に紙を回す方が早かった。
最初に文を渡した商人の使いが、油倉へ走る。それを窓から見た時、レンは自分もその人たちを動かす側へ入ったのだと思った。
紙はまだ墨の匂いがした。寝床の横へ置くと、叔父の店で切り売りの布を数えていた頃より、朝の来るのが楽しみになった。
翌日は帳場へ早く出た。
港では既に油樽を動かしていた。荷役が渡し板を敷き、買い付けた者の札と樽の印を比べる。昨日の速報を畳んで持つ者もいた。レンは道を空けて、少しだけ振り返った。
帳場では、先任が夜の受信控えを並べていた。
「早いな。寝床の方で潮文を受けてきたか」
「受けられたら、もっと早く来ます」
「来なくていいから、こっちへ回せ」
先任は笑い、紙を渡した。灰油の不足見込みは取り消されていなかった。見込みなのだから、全部入ってこないとも、どこの倉も空だとも書けない。レンはそこを読み直し、荷数の問い合わせを分けた。
昼前、油を分けてもらう缶を抱えた女が来た。
港の受信所の灯を世話する油係だった。ミダと名乗り、どこの倉から買えるか尋ねた。向こうから届いた光を写す部屋の隣で、油を足し、煤を拭いているという。
「いつもの倉は」
レンが聞いた。
「今朝は出せないって。先に取られた分を、まだ数えてる」
レンは窓の外を見た。札をつけた樽が、列になっている。
「北の便が遅れる見込みなんです」
「それは聞いたよ。だから、こっちへ来た」
ミダは缶を床へ置いた。まだ油の入る見込みを教えてほしいのではなかった。
「今夜の分は、いまどこから持って来られる?」
レンは荷の控えを開いた。紙では、油はあった。買い付け済み、取り置き、次便待ち。そのうち、どれをミダの缶へ入れられるかは書いていない。
先任が、買い付けた商人へ聞いてこいと言った。
「うちで配分できる油じゃない」
レンが立つと、ミダも缶を持った。重そうに見えたが、中はまだ空だと言った。底が二重で、運ぶだけで重いのだと。
商人は油倉の前にいた。レンを見ると、次の文が来たかと聞いた。ミダの話を伝えると、まだ引渡しが済んでいない、と答えた。
「下へ聞け。うちの分なら、出す値はあっちで付けてる」
売り場へ回ると、昨日より高くなっていた。ミダは缶の口を示し、これだけでいいと言った。倉の男は、分けるための手を今は出せない、と樽の列を指した。
ミダが床へ缶を置いた。買う銭は用意した。持っていく缶もある。それでも受信所へ戻る時は、同じ空の缶だった。
「灯は消えるんですか」
レンが道で聞いた。
「夜の分まで絞れば、いまの分は保つ。夜には困る」
レンは商人から礼を言われた紙を思い出した。油を早く押さえたから、その人は不足が来ても売るものがある。受信所も、不足を早く知っていた。知っているだけでは缶へ入らなかった。
***
午後、受信所へ紙を届ける仕事を、レンが引き受けた。
机の上には、港から出す照会が重なっていた。いま北便を受ける塔へ、もう一度荷数を確かめろ、出港の見込みを確かめろ。レンが書き直した文もそこにあった。
窓のそばでは、二人が光を取っていた。一人が書いた所をもう一人が見て、続きを求めている。聞き取れたと言うと、字を置いた方が首を振った。
「最後がまだ、合わない」
ミダはその横で灯の煤を拭いた。いつもなら昼に済ませる所を、油倉を回って遅くなったらしい。
レンは届ける紙を空いた所へ置いた。机の端に、誤った文を直す紙が綴じられていた。その横には、オルドが仕事の照合のために持たせた控えがあると教えられた。
誤信の件数、続けて夜に呼ばれた日、代役へ入った日。レンには、数字が別々の紙に見えた。受信係は同じ名を指した。
「この人を今日は起こすのか、聞かれてる」
多く間違えているのか、レンが聞くと、その所だけでは決められないと言われた。
「来た文の数も違う。こっちは、誤ってなくても呼ばれ続けた」
受信係は紙を戻し、窓へ向いた。灯が続きを送っている。レンは邪魔になる場所から足を引いた。
ミダが空の缶を見た。
「油が着いたら、帳場にも文を届けるよ」
冗談だった。レンは笑いかけ、ここを夜に使うのは自分たちだと、ようやく思った。
受信所を出る前に、レンはもう一度倉へ行くと伝えた。ミダは缶と買い分の銭を預け、受け取れることになったら呼んでほしいと言った。
帳場へ戻ると、商人の使いが戸口で待っていた。北の便の続きが要る。届き次第、紙を届ける手を一人借りたいという。帳場の仕事とは別に、届けた分は払ってくれる。昨日、礼を言われた商人だった。
レンは先任を見た。先任は、夕方の差し替えを済ませてからなら、と言った。
「油を先に届けたいんです」
先任はレンの紙を受け取った。
「運ぶだけで入る油があるのか」
レンは、まだない、と答えた。そこから話し直さなければならなかった。
***
倉の前へ戻ると、商人はすぐに、文は、と聞いた。
「新しい荷数は、まだです。受信所の油を分けてほしいんです」
レンは空の缶の量を手で示した。売り場の男は、分ける係が樽の積替えへ取られている、と答えた。レンは係がどこにいるか聞き、倉の奥へ行った。
男は樽の口を閉めていた。今から売り場へ戻れば積替えが止まる。そこまで聞いてから、レンは自分が荷札を揃える手を代わると言った。
「あんたが油を分ける間だけ」
男はレンの手を見た。
「樽の方を触るなよ」
「触りません。札だけ」
レンが札を受け取る前に、商人が戻ってきた。売る値を変えてもらう話ではないと伝えた。ミダが預けた買い分の銭も見せた。分けて届ける手が要る。
「夕方の文を、うちへ持ってくるのは」
「今日は行けません」
レンは答えた。その届け仕事へ入れば、商人の買い付けを手伝う次の仕事にも呼ばれるかもしれなかった。
商人は倉の男へ、分けてやれと言った。
「灯が使えなくなって、あんたの文が遅れても困る。ただ、ここへ来るのは他の手へ頼む」
レンは頷いた。礼を言ったのと同じ口で、もう別の者を捜す話をしている。
受信所から持ってきた缶へ油が入った。分ける係が戻るまで、レンは札を読んだ。裏の印を見ずに次へ渡しかけ、荷役に止められた。樽には既に別の札がついている。読み直し、違う印の札を戻した。
ミダが缶を運びに来た。今朝とは持ち方が違った。レンは仕事を返し、片側の取っ手を持たせてもらった。
坂を上がると、油が缶の中で揺れた。ミダは階段の手前で止まった。持ち替えるだけかと思ったら、ここから息を合わせて運ぶ、と言った。
レンは頷き、一段ずつ上がった。速く持って行けばいい荷ではなかった。
受信所で缶を下ろすと、ミダは灯の油皿へ分けた。買い分が足りていたことを、レンの持ってきた紙へ書いてもらう。樽を押さえた商人の売上も減らしてはいない。夜の灯に入るまでの、人の手を一つ回しただけだった。
けれど、ミダが油皿を元の場所へ置くと、受信係は、その窓を使っていいな、と確かめた。
続きを受ける番がその前へ移った。
レンは空になった取っ手から手を離した。灯の手元が動き、向こうへ文を求める合図が出る。自分が帳場へ戻れば、次にはそこから紙が来る。
***
夕方の差し替えを届けると、商人の戸口には別の走りがいた。
レンは自分の紙を、帳場から回す分として渡した。男は受け取り、もう一枚を先に商人へ見せた。今日の届け仕事は、その者に回っていた。
帳場へ戻る道で印刷場を覗いた。速報に新しい一行がある。北便の続きだった。不足見込みが全部解けたわけではなく、届く荷の数が一部埋まった。受信所で今夜の油を入れたあとに取った文だという。
刷られた紙を一枚受け取った。先に押さえた油をまた売る者も、この知らせで買う量を変える者もいる。自分も明日はその文を読む。
帳場へ戻ると、先任が今日の照会を束ねていた。
「油の方は」
「受信所へ入りました。買い分の紙はここです」
先任は受け取り、港の荷の帳とは別の束へ入れた。
「おまえの届け賃は、今日はなしか」
「なしです」
先任は少し考え、荷札を揃えた分を倉へ聞くか、と言った。レンは、その分は頼んでいなかったと答えた。
「仕事に使う手を出すなら、先に言え。次も同じようにできるとは言うなよ」
レンは頷いた。灯へ油を入れるだけなら、ミダがいつもしていた。油が入らない日のために、自分が届け仕事を毎回捨てるとまでは、言えなかった。
受信所から次の紙が来た。レンは差し替えへ入れる所を読み、先任へ見せた。夜に港を離れる荷の照会もあった。こちらから出す文をまとめ、同じ荷数の問いを二度入れていた所へ気づいた。
その一つを外しかけ、別の商人の照会だと分かって止めた。先任に、一つの返事を両方へ渡してよいか聞いた。
「聞いてくれ。こっちで片方を消したことにはするな」
レンは戸口の使いへ声を掛けた。使いは、港名まで同じなのか、と確かめた。紙を広げる場所を空け、二つを並べて見せる。返事を待つ間、窓の外では、ミダの持った空の缶が揺れていた。
帰る時、レンは印刷場の紙を畳んだ。今夜も寝床へ持っていく。先に押さえた昨日の一行も、捨てるつもりはなかった。新しい紙をその下へ重ね、受信所へ出す照会の方は、先任の手へ残して帳場を出た。