灰灯圏――百年の記録   作:飯尾みくじ

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灰暦13年 サド(回想)|燃え残る字

辺境の農村。後年のサドによる回想。

 

 契約の紙から先に火へ入れろと言ったのは、私だった。

 

 後にサド婆と呼ばれるようになってから、人に聞かれるのは、教本を守った話の方が多い。燃やす紙を集めた手も、その教本を抱えた手も同じだ。灰暦13年のあの夜、私はその両方をした。

 

 当時はまだ、畑の畝を直し、叔父の家へ水を運ぶ若い娘だった。雨が少なく、麦は腰にも届かなかった。水桶を持って畑を通るたびに、叔父は自分のところへ撒くなと言った。飲むぶんを先に家へ置いてこいと。

 

 叔父の手は土で割れていた。前の年、道普請のために印を取られた日には、畑へ戻らず家の前に座っていた。何に印をしたのか聞くと、説明された、とだけ答えた。

 

「何を」

 

「おまえに言ったって分からん」

 

 分からないのは叔父も同じだと思ったが、口にするとまた怒る。私は水桶を奥へ運んだ。

 

 巡礼説教師が村へ来たのは、そんな頃だった。巡礼路から広場へ入り、井戸の脇に荷を下ろした。鈴のついた杖を立てると、子どもが集まった。宿を貸す家の女が湯を持ってきて、男たちは畑から戻る途中で足を止めた。

 

「文字は灯りの影だ」

 

 説教師は歌の合間に言った。私はその続きを、桶の縄を直すふりをして聞いていた。

 

 教本を開くと、黒い字の横に絵があった。手、種、鍬、家。見たことのないものは、ほとんどない。

 

「半分は、読めなくても分かる」

 

「半分しか分からない」

 

 私が言うと、説教師は本をこちらへ向けた。

 

「じゃあ、残りを覚えよう」

 

 納屋の裏で、種、水、手の三つを教わった。土へ枝で書くと、手の字だけ大きくなった。説教師が書いたものを真似して、種の字も同じ大きさにした。

 

「書いたものを、もう一度読んで」

 

 私は土を見た。さっき書けたのに、種のところで止まった。説教師が指を置くと、思い出した。腹が立ったが、また書いた。

 

 これが読めれば、叔父が分からんと言ったとき、私には分かると言える。三つの字を覚えただけで、そんな先のことまで考えていた。

 

 徴し取りの記録係が来た朝、叔父は畑にいた。呼びに行くと、まだ起こしていない畝を見たあと、鍬を置いた。

 

 広場には家ごとの代表が集められていた。井戸へ来た女たちも、水桶を地面に置いて残った。記録係は紙を広げ、麦の取り分のほかに、去年の不足、道普請、巡礼路の保全、干ばつの臨時分を読み上げた。

 

「今年は麦がない」

 

 叔父が言った。

 

「不足は不足として残る。去年、協力の印を取ってある」

 

「道を直す話だった」

 

「これも道のための分だ」

 

 記録係が紙の下を叩いた。叔父はその指の先を見た。私は後ろから覗いたが、覚えた三つの字を探すだけで、何も分からない。

 

 誰かが、読める女を呼べと言った。

 

 その女は、別の村の施療所へ通ったことがあった。紙を受け取り、行を何度か追った。

 

「協力する、とある」

 

「何をいくら出すって」

 

 叔父が聞くと、女はもっと下を見た。

 

「そこは、うまく読めない。細かいところまでは」

 

 村の者がざわめいた。私は、読めると聞いたときには何でも読めると思っていた。女の手元にある紙を見て、黙っているくらいなら私へ返せ、と言いそうになった。返されても読めないのに。

 

「分かるところだけ言ったんだよ」

 

 女は顔を上げた。

 

 記録係は、ならこちらの説明を聞け、と紙を取った。女が読めたところまで、自分の説明の続きになった。

 

 叔父は女から目を離さなかった。私も、女の方を見ていた。記録係へ言えなかったことを、女なら言ってよいような気がした。

 

 午後になると、説教師の教本を見ていた子どもたちが呼び戻された。道へ出ようとした説教師の前に、若い衆が立った。

 

「紙を持ってきた者が、そのまま帰るのか」

 

 説教師は、徴し取りの紙を持ってきたのは自分ではないと言った。若い衆はどかなかった。説教師は広場へ戻り、荷を置いていた家に入った。その日は村を出られなかった。

 

 私は納屋で待った。教わる時間になっても来ないので、宿を貸した家の裏へ回った。説教師は戸を少し開け、教本を渡した。

 

「今夜は一人で復習して。明日、また見る」

 

「これで、あの紙が読めるようになる?」

 

「すぐには」

 

 戸の内側にある頬が腫れていた。私は教本を受け取り、叔父の家へ戻った。

 

 夕方、叔父たちは村役人の控えを持ち出そうとしていた。保管する小屋の戸が開き、紐で結んだ紙が、次々に広場へ運ばれた。読める女に、どれが契約か見分けろと声がかかる。女は小屋へ入らず、戸口に立ったままだった。

 

「自分で分からなかった紙を、今度はあの人に分けさせるの」

 

 私が言うと、叔父は振り向いた。

 

「じゃ、おまえがやれ」

 

 私は教本を服の中へ入れ、紙の束を取った。契約の紙は見たことがある。下の方に家の印が並んでいる。読めるのとは違うが、見分けられると思った。

 

「これを先に。祈りの冊子や教本は、こっちへ寄せて」

 

 若い衆が私の指す方へ紙を積んだ。村役人は控えがなくなっても取り分は消えないと叫んだ。叔父は、来年の分をまた同じ紙で言われるよりましだ、と返した。

 

 私は、その束を火へ入れた。

 

 薄い紙はすぐ丸まり、印のところだけ黒く残った。広場で誰かが声を上げた。もっとあるぞと言ったのは、私だった。小屋から紙を運ぶ者が増え、井戸の桶も火のそばへ移された。

 

 薬包みを抱えた女が、輪の外へ出ようとした。

 

「それも紙だろう」

 

 若い男が手を伸ばす。女は包みを背中へ回した。

 

「どの薬か、印をつけてもらったんだ。混ぜたら分からなくなる」

 

「薬は寄せておいて」

 

 私が言うと、男は手を下ろした。女は井戸の縁へ包みを置いた。自分の声で人が動いたことが、そのときは嬉しかった。

 

 次に運ばれた束には、見覚えのある絵があった。教本だ。私は拾い、別の山へ置かせた。読める女が、袖へ落ちた火の粉を払っていた。

 

「それは契約じゃない」

 

 女が言った。私が投げた紙の中の一枚を指している。

 

「あんたは、今になって分かるの」

 

 私は言い返した。

 

「私は昼も、分かるところだけ言った」

 

 女は次の紙を取った。見分けるなら貸して、と私の手元へ指を伸ばした。私は離さなかった。その紙は読めなかったが、そこで彼女へ渡すと、私が何も分からず燃やしたことになる。

 

 叔父が紙を取り、火へ入れた。私の言葉を聞いた若い衆が、女の方へ向き直った。

 

「読めるやつは、また残そうとする」

 

 女は広場の端へ下がった。私は追わなかった。追って、さっきの言葉を取り消すべきだったと、今は思う。そのときの私は、残した教本の山を守る方へ回った。

 

 説教師が宿の戸口から出てきた。広場へ入り、火へ落ちかけている教本を見つけた。しゃがんだところへ、男が棒を上げた。

 

「読む手を残すな」

 

 私は棒の前へ腕を入れた。音がして、肘から肩まで痺れた。説教師は教本を拾い損ね、火から退いた。

 

「おまえが先に燃やせって言ったんだろう」

 

 男は私を見た。

 

「契約をって言った。これは違う」

 

「どこが」

 

 私は服の中から自分の教本を出した。手がうまく動かず、角を落とした。

 

「種、水、手が書いてある」

 

 言うと、教わった順に指を置いた。私が覚えたものを燃やされたくなかった。説教師を助けたいと思うより先に、そのことがあった。

 

 井戸の女が、それなら残せと言った。別の男は、そこから契約を読ませるのだと怒鳴った。

 

「なら、読めた方がいい」

 

 私が言うと、叔父が近寄った。

 

「昼のあの女も、読めたぞ」

 

 私は叔父へ、全部は読めなかったんだ、と返した。それはあの女が言ったことだった。叔父は私の教本を見たが、取り上げなかった。

 

 火のそばへ落ちた教本の一枚が、端から縮んだ。説教師が濡れた布を掛け、足で火から引き出した。私はその横へ、自分の教本と、残した薬包みを寄せた。

 

 広場ではまだ紙が燃えていた。契約の束がなくなると、何を持ってきたのか分からない紙も入った。私は止めようとして叫んだが、向こうで誰かが叫び返した。初めのようには、人がこちらを見なくなった。

 

 夜が明ける頃、私は焼け跡へ戻った。井戸まで続く地面には、濡れた灰と、拾い残された紐が貼りついていた。読める女はもういなかった。薬包みを持った女が、水桶を元の場所へ返していた。

 

 私は灰の中で、家の印が並んだ紙を見つけた。まだ印が分かる。拾って、もう残っていない火へ持っていこうとした。誰かがまたこれを持ち出し、私たちが協力したと言う気がした。

 

 灰の山へ置き、足で踏んだ。湿った紙が破れた。

 

 その足元に、教本の焦げた頁があった。私はそちらを拾った。種の絵は残り、その横の字も分かった。次の行は下半分がなく、何が書かれていたのか読めない。

 

 翌々日、兵が来た。村役人が焼けた小屋を示し、叔父や若い衆が縄をかけられた。読める女も呼ばれた。私は家の入口に立ち、あの夜、自分が指した紙の山があった場所を見ていた。誰が何を言ったかを、兵は順に尋ねていた。

 

 自分の声で人が動いたことを、嬉しいとは思えなかった。

 

 後年、巡礼路でこの夜の歌を聞いた。教本を守った説教師と、字を知らずに燃やした村の者の歌だった。私は、その歌の中では村の者の方にいた。説教師の前へ腕を入れた娘は、出てこなかった。契約から先に燃やせと指した娘も、出てこなかった。

 

 回し書きで指示があった、という話も聞いた。私はその紙を見ていない。私が声を上げたのは覚えている。広場の反対側で何が回っていたかまで、自分の目で見たとは言えない。

 

 今、焦げた教本を開くと、残った字と、読めない半分が並ぶ。あの夜に覚えた三つだけでは、どの紙を残すか決められなかった。

 

 壺の底に言葉を刻むとき、字の形を尋ねられることがある。私はまだ柔らかい土へ先に書いて見せ、何と書きたいのかを相手に言ってもらう。違うと言われたら、その場で消す。

 

 その横へ、焦げた頁を置いている。今日も指に煤がついた。土の上の字へ触れる前に、布で拭った。

 

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