灰灯圏――百年の記録   作:飯尾みくじ

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灰暦18年 サマ|折り目の名

クシャ採掘帯。

 

ダレンは、熱い椀をいつも底から持った。

 

縁を持てばいいとサマが言っても、大丈夫だと答える。そうしてひと口目を飲む前に、右手から左手へ椀を渡す。朝の炊事場は忙しかったが、その持ち替えを見るたび、サマは笑ってしまった。

 

前の晩もそうだった。第三坑廊の奥へ入るというので、少し濃い所をよそった。ダレンはそれに気づき、匙を沈めたままサマを見た。

 

「自分のを取っとけよ」

 

「鍋の番が飢えてると思うの」

 

思う、と言って、ダレンは椀をこちらへ押した。サマは受け取らなかった。最後のひと口だけよこすように言った。戻ったら小刀の柄を締め直してもらう約束をして、ダレンは空の椀を返した。鍋の向こうでは、サマが育てている子が毛布にくるまって眠っていた。

 

朝、火の匂いが炊事場へ入ってきた時、サマはその小刀で根菜を切っていた。

 

焚き口の煙とは違った。甘いような灰油の臭いが喉へ貼りつき、戸口へ行っても逃れられない。誰かが第三坑廊だと叫んだ。サマは小刀を置き、外へ出た。

 

坂を下りてくる男たちの外套が黒かった。ひとりは靴を片方失っていた。サマは顔を覗きながら道を逆に進み、縄の張られた所で止められた。まだ入れない、と言われた。

 

「出てきた者は」

 

男が背後を指した。サマが通ってきた道だった。

 

「ほかには」

 

男は答えず、急に縄を持ち上げた。両側から抱えられた坑夫が通った。サマはその手を見た。手の大きさだけでは分からなかった。顔を見ようと身をかがめると、後から来た者に肩を押された。

 

炊事場へ戻った時、粥が鍋の縁からこぼれていた。手伝いの老女が蓋をずらし、もう一人が布を裂いていた。サマは濡らした布を男たちに渡した。椀を差し出されると、いつもの量をよそった。

 

昼になっても、ダレンは来なかった。

 

食べに来るはずの者が来ず、鍋に粥が残った。椀を並べた娘が板へ炭で線を引いた。欠けた椀が四十九、夕方には五十七と数え直したが、途中で隣の宿へ運んだ分もあった。救い出す仕事へ戻り、二度食べに来た男もいる。

 

「これを人数にするのかい」

 

老女が聞いた。娘は板を見て、分からないと言った。

 

「よそわなかった分だけだよ。名前は聞いてない」

 

サマは、ダレンの椀を並べた場所へ手を置いた。板が濡れていたので、拭いた。置き場所を残しておけば、自分がよそい損ねずに済む。それくらいしかできなかった。

 

帳場で最初の名の確認が始まると、サマも行った。呼ばれる名に返事が重なったり、誰も声を出さなかったりした。ある女は、今呼んだ者なら先に宿を出た、と言った。帳場係はその名の横へ小さく書き込み、次を呼んだ。

 

ダレンの名は出なかった。

 

サマは一度胸を押さえた。それから、自分が何を待っていたかに気づいた。ダレンは別の男の名で坑へ入った。足を傷めた男から名を借り、その家へ銭を渡していた。名が呼ばれても、ダレンのことだと分かる者は少ない。

 

「その紙を見せて」

 

帳場係は、サマが指した一行を手で覆った。

 

「誰を捜してる」

 

「夫」

 

「この名の家は、違うぞ」

 

「知ってる」

 

知っているから先へ進めなかった。借り名の家へは何と伝えるのか。ダレンの名を書けば、入坑した札がないと言われるのか。サマはもう一度、自分の知っている名を呼んだ。

 

「ダレン。昨日の晩、私が椀を渡した」

 

帳場係は筆を置き、顔をこすった。爪の脇まで墨がついていた。

 

「それを書けば、昨日ここで食べたことは残る。坑で何があったかは、まだ書けん」

 

「じゃあ、食べたことを書いて」

 

男は別の紙を引き寄せた。サマは彼が名を書き終えるまで見ていた。紙には小さな空きが残った。

 

夜、離れの板敷きへ行くと、寝台の木札がいくつも床へ伏せられていた。新しく使う者へ渡すため、外されたのだという。サマはダレンが寝ていた所で屈んだ。煤を吸った毛布が、昨日までの形で丸まっていた。

 

札を裏返すと、借りた名が出てきた。

 

「それは机へ戻す」

 

帳場係が灯りを持って来た。サマは札を離さなかった。

 

「この床は」

 

「今夜は使わん。明日も約束はできん」

 

外には泊まる所を捜す者がいた。救出の手伝いに来た者や、壊れた小屋から移った家族だ。サマは入口で、毛布だけを抱えた女を見ていた。

 

「札まで外したら、戻ってどこへ行くの」

 

「札があっても、壁の幅は増えん」

 

男はそう答え、毛布を踏まないように跨いだ。壁際にある箱の蓋を開けた。控えの紙が束になり、その下に木札が重なっていた。

 

サマはダレンの札を箱へ入れる代わりに、男の手へ渡した。

 

「控えと一緒に。昨日、私が椀を渡した紙」

 

男は札の穴へ紐を通した。まだ湿っている紙に木を載せると墨が移る、と言って、別に置いた。サマは毛布を畳んだ。誰かがこの床を使うかもしれないので、持ち去らずに端へ寄せた。

 

箱の上に、二つ折りの紙があった。折り目の内側に細かい字が見えた。サマが開くと、男はネルクだと言った。

 

「ヨナよ」

 

「宿帳ではネルクだ」

 

ヨナは二階の隅部屋にいた男だった。左の膝が曲がりきらず、炊事場の椅子へ座る時に一度脚を伸ばす。サマは椀を置くための隙間を、いつも彼の正面に空けた。

 

紙の外側にはネルク、内側にはヨナとあった。持ち物を見に来た者の話を、帳場係が裏へ書いたものだった。サマは折り目を指で伸ばした。ひとりのことだと知らなければ、二枚に分けられてしまいそうな書き方だった。

 

「これを、つないで書けないの」

 

帳場係は紙を受け取って見た。

 

「何に使う」

 

「家から捜しに来た時に。ヨナじゃ分からないと言って、帰さないために」

 

翌朝、サマは手伝いの娘を帳場へ連れて行った。娘は字を書けた。空いた控え紙の裏をもらい、昨日の二つ折りの紙を横へ置いた。

 

最初に書かせたのは、宿帳名ネルク、いつもヨナと呼ばれる者、という一行だった。火災の後、帰りを確かめられていない。膝を伸ばして座る。サマが言うと、娘は筆を止めた。

 

「死んだって、書くの」

 

「書かない」

 

「戻った人は」

 

「日を添えて、戻ったって書く。線で消すだけじゃ分からなくなる」

 

次は、片耳の欠けた大男だった。熊と呼ばれていた。本当の名はサマも知らなかった。娘はそこを空けた。名を捜すための紙に、空きがあるのは困らなかった。

 

最後にダレンを入れようとすると、声が詰まった。

 

娘は筆を持ったまま待った。帳場では、燈院へ回す書類を求める者が何人も来ていた。誰かの持ち物を認め、誰かの話を聞き返す声がした。サマは昨夜畳んだ毛布を思い出した。入れる前は、そこにまだダレンがいるような気がしていた。

 

「底から持つの」

 

娘はサマを見た。

 

「椀を。熱くても。それで、すぐ左へ持ち替える」

 

「それだけで、分かるかな」

 

サマは首を振った。娘の問いは正しかった。

 

「ダレンと書いて。借りてた名は、あっちの控えを確かめる。私が知ってるのは、昨日の晩まで」

 

娘はその通り書いた。火災の夜に死んだとは書かなかった。書き終えると、紙をサマの方へずらした。

 

炊事場へ戻ると、老女が鍋をかき回していた。湯気の中で顔が怒っているのが分かった。

 

「二人抜けたら、こっちは二人分働くんだよ」

 

サマは濡れた薪を焚き口へ足そうとした。老女に手首をつかまれ、乾いた方を指された。火を見ていなかった。

 

「もう来させない。字を書くなら、炊き終わってから」

 

娘は頷いた。サマも頷いた。夜の片づけを自分が引き受け、鍋が空いたあとに書くことになった。娘が先に眠くなったら、その日は終える。サマ一人で名を書き足すことはできなかった。

 

夜、重い鍋を洗うと、指の節が赤くなった。ダレンに直してもらうはずだった小刀は、柄を布で巻いて使った。片づけのあと帳場へ行き、今夜戻った者がいるか尋ねた。寝床へ戻り、横になったと思ったら、もう朝だった。

 

公式には四十二人の死亡とされた、と聞いたのは、その後だった。

 

娘が炭の線を引いた板を持ってきた。サマはそれを帳場の紙の横へ並べなかった。板は炊事場の棚へ戻した。粥をどれだけ余らせたかは、次の鍋を考える時にいる。この板だけでは、誰が戻らなかったかも分からない。

 

帳場係は、サマたちの紙を燈院へ回す束には入れなかった。

 

「名が違うというだけなら、遺体の確認には使えん」

 

サマは一度、束へ入れてくれと言いかけた。出せば何かが変わるかもしれない。ダレンの家として、待っていることを認めてもらえるかもしれない。

 

けれど、借り名の家に知られる名もあった。本人がなぜ名を替えたか、サマは皆について知っているわけではない。

 

「捜しに来た者には、私たちの所へ寄らせて」

 

男はそれならできると言った。待つ間の食い扶持まで、この紙で増やせるとは言わなかった。サマも尋ねられなかった。今日の鍋に、すでに水を足していた。

 

女がヨナを捜して来たのは、さらに何日かしてからだった。

 

道の泥が裾に重くつき、ひとりで帳場の前に立っていた。ヨナという名は宿帳にない、と聞かされ、持ってきた布包みを結び直していた。帳場係がサマを呼んだ。

 

サマは紙を開いた。膝を伸ばして座る、と読んでもらうと、女は包みへ置いていた手を離した。

 

「寒いと、左だけそうする」

 

それでもすぐには頷かなかった。サマは、椀を置く所を空けるとヨナが脚を右へよけてくれたことを話した。女は口を開き、息だけ吐いた。

 

「家でも、よけたつもりなんだ。いつも椅子の脚へ当たって」

 

ネルクの札と一緒に置かれていた荷を、帳場係が持ってきた。女はその中の継ぎだらけの上衣を広げ、裏を見た。自分が縫った、と言った。

 

荷を持ち帰ることはできた。ヨナの帰りを確認できたわけでも、死亡の紙を受け取れたわけでもなかった。女は上衣を畳み、結び目を一度ほどいて、もう一度締めた。

 

「ここでは、ヨナって呼んでたんだね」

 

サマは頷いた。

 

「塩が薄い時は、何も言わないの。濃い時だけ、今日は濃いって言う」

 

女が少し笑った。サマも笑ったが、相手の顔が崩れるのを見て、すぐに手を差し出した。女はサマの指を握った。赤くなった節が痛んだ。サマは動かなかった。

 

帳場係は控えに、家の者が荷を受け取ったことを書いた。娘はその夜、サマたちの紙にも同じことを書いた。帰った、と書きかけたので、サマは止めた。

 

「帰ったのは荷。ヨナは、まだ」

 

娘は紙の端に書き直し、それから間違えた所へ細い線を引いた。古い字が見える程度に引いた。

 

後になって、坑夫宿の控えには、遺体未確認の者が九十一人と残った。

 

サマの紙にある呼び名を数えても、その数にはならなかった。同じ人を違う名で書いた紙や、寝場所だけの控えが、帳場では束ね直されていた。それでも誰がどの坑にいたか、確かめられない所は残った。娘は九十一を写す時、その前に遺体未確認と書くよう、サマに念を押された。

 

ダレンについて、確かめられたことは増えなかった。

 

借り名の札と、食べて出たことを記した紙が残った。サマは夜、紙を開いては椀を持ち替える手を思い出した。朝になれば、知らない顔が鍋の前へ来た。その顔の名前を聞き、聞き取れなければもう一度聞いた。ダレンの椀を置いた場所にも、椀は来るようになった。

 

炊事場で、外へ出す名のほかに、家で呼ぶ名を覚えさせる声が聞こえるようになった。皆が同じ分け方をしたわけではなかった。サマは二つあれば安心だと、子に言えなかった。ダレンがそうだったことを知っていた。

 

ただ、帳場で使う名を教えたあと、そばで眠る子の耳元へ、いつも呼んでいる名をもう一度言った。子は半分寝たまま返事をした。

 

その夜、娘が新しい紙の書き方を見せに来た。一人分を一続きに書き、畳んでも別々の名に見えないようにしてあった。サマはヨナの行を指でたどり、ダレンの行で止めた。

 

「ここ、まだ書けるようにして」

 

娘は下に空きを残した。紙を畳んで渡そうとしたが、サマは受け取る前に、煤のついた手を洗いに行った。戻って指をよく拭き、木札を置いた箱の隣へ紙を入れた。空いた行が内側に来るよう、折り目をつけ直した。

 

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