灰暦20年 ユサ|結び目
湿地穀倉地帯の村から、西岸の認証所へ。
トオルは、まだ買っていない道具箱の寸法を、両手で示した。
「このくらいだと、舟で邪魔になるかな」
ユサがもう少し狭くすると、今度は中に何が入るか聞いてくる。染料工房で何を使うか、仲人のユサには分からない。それでも二人は、木箱の取っ手が太すぎるとか、底を濡らしてはいけないとか、舟を待つあいだにずいぶん話した。
そばでリネが、息子の着替えを畳んでいた。布の端を揃え、ほどけた糸を指へ巻く。その手が、包みの上で止まった。
「箱は、帰ってからにしな」
ユサも両手を下ろした。
リネの夫ガドは、山の薬草を売りに出た西岸で倒れ、そのまま死んだ。都市に残した荷と売上は封じられた。村で妻と呼ばれてきたリネが受け取るには、婚姻の認証がいる、と知らせが来ていた。
その銀が戻れば、トオルを工房へ出せる。戻らなければ、畑の一部を人に貸す話から始めなければならない。
ユサは、紐で綴じた古い帳面を懐へ入れた。仲人をするようになってから、人が夫婦の席へ座った印を残してきた。字を書く代わりに結び目を描き、そばに鉢や鍋の形を足した。
リネとガドの頁もある。山栗の袋を二つ描き、その下に欠けた鍋を描いていた。ガドが婚の晩に持って来た物だった。
舟は、葦の間を抜けて広い水路へ出た。トオルは包みの口を縛り直していた。ユサが教えた結び方を、ほどいては試した。
西岸の認証所では、順を待つ者が戸口から溢れていた。荷車の間に腰を下ろすと、裏の工房から木を削る音がした。トオルが顔を上げる。ユサは、まずこっち、と肩を押した。
係の女は、三人が机へ着くと、ガドの名を探した。
「婚姻の認証はありますか」
ユサは帳面を開いた。リネが右、ガドが左に座り、村の者が酒を注いだ。鍋を受け取ったのは自分だった、と話した。
女は、絵をひとつずつ見た。
「これは、村で承認された印ですね」
「そう。13年間、二人は同じ家で暮らした」
女は別の紙を引き寄せた。
「この記録だけでは、都市の認証上は同居者として扱います」
リネが机へ手を置いた。肘までは届かず、指だけが木の縁に並んだ。
「夫婦でした」
「そのことを否定しているのではありません。今、私が出せる認証についてです」
女は婚姻の頁を閉じ、相続の紙を開いた。同じ問いが、違う欄から出てきた。続けて、トオルを徒弟に出すには誰が後見をするのか、と聞いた。
リネの指が縁から離れた。
認証所を出たあと、トオルが、工房へは寄らないの、と聞いた。ユサは答えられず、荷車を避けた。見たことのない街路を、宿のある方へ戻った。
その晩、リネは三人の寝床を敷いた。敷く前に床を拭き、壁から少し離した。湿っている所を確かめる手つきに、ユサは村の家を思い出した。
「係の人に、見せたいね」
ユサが言うと、リネは布団の角を引いた。
「これを見せたら、あの銀が戻る?」
「分からない」
「なら今夜は、ここで寝るためにやる」
トオルが包みを枕の横へ置いた。箱の話はしなかった。
翌朝、ユサは認証所の裏で、訴えの文を代わりに書く男を訪ねた。以前、法務の仕事をしていたと宿の者から聞いた。男は、夫婦と認めてほしい、というユサの話を聞き、何を今いちばん急いでいるのか、と尋ねた。
「食い分と、子の工房入り」
「なら、それも求める。婚姻の認証が通らなくても、共同の暮らしに出した分や、子を育ててきたことを調べてもらう」
ユサは帳面を開いた。男は結び目の絵を見て、いつの印かを聞いた。
「大堤を直した年の、そのあとの寄り合い」
「灰暦では?」
ユサは指を折った。ひとつ戻して、また折った。大堤を直した年には、途中で水が上がり、次の季節も同じ仕事をしていた。
男は筆を止めた。
「決められないなら、今はそのままでいい。ほかに覚えている人は」
リネが、鍋を持った女と、酒を注いだ男の名を言った。ユサは、二人とも字が書けない、と答えかけた。男が、その人たちの話も聞きたい、と言うので、口を閉じた。
村から人を呼ぶには、舟賃がかかる。畑を空けられる者も少ない。三人で残りの銭を並べ、ユサが一度戻ることにした。
「私の仕事だ。私が迎えに行く」
リネは銭を戻さなかった。代わりに、ユサの帰りを待つ間は宿の洗い物を手伝う、と言った。トオルは工房へ行き、まだ来てよいか確かめることになった。
村へ戻ると、ユサは二人の証人に帳面を見せた。酒を注いだ男は、山栗は一袋だった、と言った。
「二つ描いてある」
「来た晩は一袋だ。あとの袋は、暮らし始めてから持って来た」
鍋を持った女も、それなら覚えている、と言った。ガドは栗の一つを転がしてしまい、床下へ潜った。婚の晩に潜るな、と皆が笑った。
ユサは描いた袋を指で隠した。三人の記憶が揃うと思っていた。揃わなければ、いっそう悪くなる気がした。
「向こうへ行ったら、それを言う?」
女はユサを見た。
「言うよ。あんたの帳面に合わせたら、私を連れて行くことはないだろう」
ユサは指を離した。
西岸へ戻る舟で、男は床下の話を何度もした。女が、そこまで聞かれるとは限らないよ、と言った。ユサは聞かれていなくても、自分から栗の袋が違ったと話すことにした。
字を書く男は、違う記憶も消さずに置いた。婚の晩の袋と、そのあと家へ持ち込まれた袋を、別の行へ移した。ユサは、自分の帳面が間違っていたことも書いてくれと言った。
リネが魚を売って塩を買い、ガドが山から戻ると畑と屋根を直した。トオルを養ってきたことは、三人とも話せた。どちらが鍋を磨いたかには、リネが私だと答えた。
「ガドもやったろう」と酒を注いだ男が言った。
「やった日に限って、皆に言うの」
リネが少し笑った。男も笑い、書き手は顔を上げた。
ユサは、その話まで紙へ載せるのかと思った。書き手は鍋の話を全部写さず、食事を一緒にし、その費用を二人で出したことを確かめた。
リネは、読み上げてもらった文の途中で手を上げた。
「畑の道具は、半分ずつ買ったんじゃありません。私が先に払って、ガドがあとで返した」
書き手はそこを直した。ユサは紙へ近づいた。リネが直させた場所には、元の字もまだ見えていた。
トオルが工房から戻った。まだ受け入れる、と書いた証文を抱えていた。
「でも、待っているあいだ、箱の底を洗う仕事をさせてもらった」
指の間が青かった。リネが手を取った。
「それ、落ちるの」
「落ちる。すぐじゃないけど」
トオルは言って、証文の端を汚さないよう持ち替えた。
審理を待つあいだ、ユサは証人の二人を先に帰した。リネは宿の皿を洗い、トオルは工房へ通った。ユサも荷の包みを結ぶ仕事を貰った。昼を過ぎると何度も認証所の戸を見たが、呼び出しは来なかった。
結果を受け取った日、係の女は、婚姻の認証は認められなかった、と先に言った。
ユサはリネを見た。リネは次を待っていた。
共同生計に出した分として売上の一部が戻る。トオルの契約には、母名と村の証人を添えた限定の後見が認められる。女は一つずつ説明し、何に使う紙かを分けて渡した。
「それで、工房へ行けますか」
トオルが聞いた。
「この契約で受け入れると、工房が言えば」
三人は、認証所からまっすぐ工房へ行った。戸口で証文を見せると、親方はトオルを奥へ呼んだ。箱の底をもう一度洗わせ、昨日ほどこすらなくていい、と言った。
ユサとリネが待っていると、トオルが濡れた手を拭きながら出てきた。
「来ていいって。寝る所も見た」
「どんな所」
「窓のそば。上の段じゃなかった」
言うほどのことなのか、と思う前に、ユサも嬉しくなった。はしごへ上がらず、自分の寝床へ腰を下ろせる。暗くても、すぐ靴に手が届く。
帰り道に、小さい道具箱を買った。全部の銀を使わないよう、リネが二つの箱を比べた。トオルは大きい方を見ていたが、小さい方にも取っ手を確かめ、これでいい、と言った。
宿へ戻ると、包みの中身を一つずつ移した。布を敷き、その上へまだ使っていない道具を置く。ユサが入れ方を変えようとすると、トオルは自分でやると言った。
蓋が閉まった。トオルが膝から下ろし、また持ち上げた。リネが笑った。
「帰るまで取っ手がもたないよ」
村へ戻ってから、ユサは帳面の紐をほどいた。鍋の絵のある頁を捨てず、その脇へ白い紙を足した。字を書く者に頼む前に、リネへもう一度、いつから畑の道具を一緒に使ったかを聞きに行った。
途中で、若い二人に呼び止められた。次の寄り合いで席を並べたい、と言う。男が、今は燈院で全部やるんでしょう、と聞いた。
「あっちの帳面も要る。村の席も、私が作る」
「どっちから?」
ユサは二人の足を見た。仕事帰りで、泥がついていた。
「今日は、家の話から。座る所、決まってる?」
女が男の袖を引き、二人は並んで答え始めた。ユサは途中で聞き返し、勝手に足した分を指で消した。忘れないうちに印をつけるため、帳面を膝へ開いた。