灰灯圏――百年の記録   作:飯尾みくじ

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灰暦24年 ナギル|遅れの顔

内海二番港。霧の夜から、その翌朝。

 

ナギルは、最後の塩俵が船から下りるまで、帰るつもりはなかった。

 

船宿のトワが、残りのパンを荷役へ回すと言っていた。先に帰れば、自分の分は若い衆に食われる。塩俵を支えるロクにそう言うと、もう食べた、と返された。

 

「おまえはさっき二つ食った」

 

「だから、よく見えてますねって」

 

ロクは俵の下から笑った。ナギルは空いた方を持ち、二人で秤台へ降ろした。夜の荷を片づければ、朝の班を呼ばずに済む。今夜の賃だけでは、朝まで残った者にもう一食出せなかった。

 

石段の先には小舟が繋がれていた。その外に、俵を降ろす積荷船がある。倉は岸沿いに並び、三番倉の裏を回れば船宿へ抜ける。港の口は霧で見えず、船腹に当たる水の音だけが、荷役の声の途切れた所へ入った。

 

船宿の小僧が走ってきた。

 

「停戦かもしれないって。櫓で見たそうです」

 

ロクが俵から手を離した。ナギルは傾いた口を押さえた。

 

「それより先に、こっちを下ろせ」

 

もう片方の手が戻った。二人で台へ俵を転がすと、トワも船宿から出てきた。肩へ掛けた上着の袖に、まだ腕が通っていなかった。

 

「客が荷を倉へ入れたいってさ。停戦なら船の上よりいいだろうって」

 

「誰が言った」

 

「西泊まりの船頭。沖の灯が二度落ちて、またついたって」

 

「飲んでたか」

 

「飲んでた」

 

「半分にして聞け」

 

「半分だけ停戦してもらっても困るよ」

 

トワは笑い、すぐに倉へ目を向けた。客の荷だけではなかった。船宿には熱を出した婆と、その息子もいる。息子は今、積荷船で俵を転がしていた。

 

櫓で灯を取っていたガネが、板を抱えて来た。墨をつけた指で字を示した。

 

「停戦成立文は、まだ受けていない。それから、沖の帆影に注意。そこまでは取りました」

 

「じゃあ、停戦じゃないのか」

 

ロクが聞いた。

 

「成立していないとは、言っていません。ここでは受けていない」

 

ガネは板を持ち替えた。

 

「その前に、黒帆、停戦外、と読めるものもありました。誰の判断か、照会しています」

 

「返事は」

 

「まだです」

 

桟橋の先で、沖へ出るなと言っているぞ、と船頭が声を上げた。ガネが板へ目を落とした。

 

「出るな、とは取っていません」

 

「出ていいとも言ってないんだろ」

 

船頭は返し、舫いを杭へもう一巻きした。

 

ナギルは積荷船を見た。出すなら、荷役を戻し、岸から離す人手が要る。外で黒い帆に会えば、重い船は逃げにくい。倉へ寄せれば、船宿の客も荷役も同じ場所で数えられる。だが今夜は沖から風が吹いていた。倉の戸は海へ向いている。

 

トワが、婆をどこへ運ぶ、と聞いた。

 

ナギルは南側の石段を指した。そこから出す小舟なら、沖を横切らず、岸伝いに入江へ回れる。霧で岸を見失う危険はあった。風が入りにくい分、着くまで時間もかかる。

 

「婆と子どもは小舟へ。倉には歩ける者を入れる。三番を空けろ」

 

「全員、舟じゃないのか」

 

ロクが、船宿から出てきた子どもを見た。

 

「乗り切れん。先に着いた舟を戻す」

 

「戻れるのか」

 

「舟を出す奴に、岸を見て決めてもらう」

 

ナギルは一度、灯の方を見た。光はかすんで、次に何を言うのか分からなかった。

 

「船の灯を増やすな。石段の灯は残せ。足元を見せろ」

 

積荷船の船頭が、まだ荷を降ろしていないと怒鳴った。ナギルは、荷役を岸へ上げる、と答えた。

 

「停戦なら、ここまでやった荷を放るのか」

 

「停戦じゃないかもしれんからだ」

 

「それなら荷ごと船を出せ」

 

「停戦かもしれんからだ」

 

船頭が綱を蹴った。ロクは笑わずに、三番倉の戸へ走った。

 

婆を寝床から運ぶ時、息子がいない、と言われた。トワが息子を呼びに行き、ナギルは婆の背へ外套を回した。

 

「戻ってくる。先に乗ってくれ」

 

「あれは先に飯を食わないんだよ」

 

ナギルは、何の話か聞き直した。婆は息を継ぎ、誰かが残っていると、自分も残る、と言った。

 

積荷船から戻った息子は、母を見て笑った。

 

「船の上じゃ食ってたよ」

 

「何を」

 

「塩」

 

婆が、ばか、と言った。ナギルは二人の話が続いている間に、寝床の布ごと身体を持ち上げた。息子が足の方を取る。小舟へ降ろすと、婆は息子の袖を離さなかった。

 

ナギルは空いている船底を見た。子どもの連れが座れば、その隣にまだ一人入る。息子を荷役へ戻したくなった。倉の戸口では、ロクが一人で俵をどかしている。

 

「一緒に行け」

 

息子が顔を上げた。

 

「戻ったら、こっちへ手を貸せ」

 

男は頷き、母の横へしゃがんだ。ナギルは船頭へ、人を降ろしてから戻るかどうか見てくれ、と頼んだ。舟を押すと、婆の手はまだ袖を掴んでいた。

 

役所の受信所から、文を写した板が届いた。

 

停戦成立。沿岸攻防を止めよ。私掠取り締まりは別令を待て。

 

持って来た役人は、正式文です、と言った。さっきまで倉の入口で荷を抱えていた客が、船へ戻ろうとした。

 

「黒帆については」

 

ナギルが聞くと、役人は板を読み直した。

 

「私掠取り締まりは、別令を」

 

「その船が、今は来ないということか」

 

役人は答えなかった。ガネが、自分の板にも停戦文を受けた所を書いた。前の文への答えは、まだないと言った。

 

子どもを抱いた男が、三番倉の戸口で立ち止まった。乗るはずだった小舟は、もう岸を離れている。

 

ナギルは男を倉へ入れた。戻りの舟が来たら、そこから呼ぶと言った。

 

「荷はどうなるんだ」

 

客が聞いた。船から下ろした箱が、男の足元にも積まれていた。

 

「今は戻さない。道を空ける」

 

「出るなという文が来たんだな」

 

ナギルは否定しかけた。石段で、若い衆が次の舟を引き寄せている。倉の戸口にも人が溜まっていた。

 

「黒帆のことが、まだ分からん。俺がここで待たせる。荷を踏むな、寄せろ」

 

男が箱へ手を掛けた。ナギルも片側を持ち、戸の奥へ押した。その後ろから、沖へ出るなだってさ、と声が渡っていった。

 

***

 

先に見えた火は、港の外だった。

 

倉火か船火か、ナギルには分からなかった。すぐ消え、霧が赤く残った。石段で櫂を握っていた者が、その方へ顔を向けた。

 

「こっちを押せ」

 

ナギルは舟の縁へ手を掛けた。岸から離れたあと、船頭は灯を下ろした。残った石段の明かりを、ロクが身体で風から庇っていた。

 

板の言い直しが来たのは、積荷船で騒ぎが起きた時だった。黒帆停戦外は先行文、意味は再確認中。ガネが口へしたが、積荷船の船頭の声に消された。

 

「綱を解け! 取りに来た!」

 

桟橋の先に、見知らぬ男がいた。背後にもう一人いる。ナギルが船の方へ踏み出すと、男が短い刃を抜いた。

 

三番倉の戸口へ、トワが客を押し戻した。戸を閉める前に、ロクが外へ出てきた。積荷船の船頭は、渡し板を引き上げようとしている。岸の男がその端を踏んだ。

 

船の明かりが倒れた。

 

炎が舷の内から立ち、渡し板にいた男が船へ跳び移った。船頭の姿が荷の向こうへ消えた。ナギルはロクの肩を掴み、桟橋の根元へ戻った。三番倉の軒には、既に火の粉が入っていた。

 

「裏へ出せ!」

 

トワが戸の内で返事をした。箱が邪魔だという声がする。ナギルは前の戸を引き、さっき自分で奥へ入れた箱を押し退けた。

 

箱が倒れ、蓋が開いた。布が泥へ落ちた。持主が、やめろ、と叫ぶ。

 

ナギルは布を掴んで脇へ投げた。

 

「踏まれたくなければ、おまえがどかせ」

 

男がしゃがんだ。背の上を、子どもを抱いた客が抜ける。トワが入口から裏の戸へ人を渡し、その戸からロクが石段へ案内した。

 

ナギルが最後に出ようとした時、倉の中で板が落ちた。ロクが戻りかける。ナギルは手を上げて止め、柱へ肩をつけ、腹ばいで戸を抜けた。

 

外へ出ると、ロクのズボンの腿が裂けていた。布の下に血があった。

 

「いつやった」

 

「箱」

 

ロクは怒ったように言った。倉で押し退けた箱の角に、脚を挟まれたのだった。足をつけると顔が縮む。ナギルは肩を貸した。

 

石段に舟はいなかった。

 

最後の小舟も人を乗せて出ていた。トワが倉から運んだ子どもを抱き直す。どこで逃げればいい、と男が聞いた。ナギルは岸沿いの道を見た。倉の背で火が上がり、道へ煙が流れている。

 

ロクは腕を外そうとした。

 

「先に、行って」

 

ナギルは腕を戻した。婆の息子を残していれば、この若いのをもう一人で抱えられたと思った。思っただけで、手は増えなかった。

 

水を切る音がした。

 

舟が石段へ寄ってきた。舳先で綱を投げたのは、婆の息子だった。ナギルは受け損ね、綱が水へ落ちた。屈んで拾おうとすると、ロクが舟の縁を掴んだ。

 

「母さんは」

 

ナギルが聞いた。

 

「向こうにいます。まだ俺が飯を食わないと思ってる」

 

息子はロクの腕を取り、舟へ引き込んだ。トワが子どもを渡す。男が、その子は自分の連れだと言い、続いて乗った。

 

岸の方で、重いものが落ちた。積荷船の灯は見えなかった。ナギルは舟へ片足を掛け、その方をもう一度見た。船頭は岸へ上がっただろうか。

 

トワが彼の袖を引いた。

 

「ここにいる奴から乗って」

 

ナギルは腰を下ろした。船頭が石段を離し、息子も櫂を取った。三番倉の前で裂けた袋が燃えていた。最初に運んだ塩俵が、暗い台の上に残っている。その先は、舟が岸を回ると見えなくなった。

 

***

 

入江の小さな船着場では、婆が息子へパンを渡した。

 

息子は手で二つに折り、ロクへ片方を差し出した。ロクは受け取ってから、脚を伸ばした。ズボンの裂け目へ、トワが布を巻いてくれた。巻く時は笑わなかった。

 

子どもは桟橋に座り、脱げた片方の靴へ指を入れていた。中に石があると言った。男が靴を振ると、小さい石が一つ落ちた。子どもはそれを拾おうとし、やめなさい、と手を押さえられた。

 

ナギルはそばの杭へ腰を下ろした。もう一人の子どもが、船宿の小僧に背負われて眠っていた。トワが連れを探しに行き、さっき出した舟から降りた女を見つけた。声を掛ける前に、女の方が走ってきた。

 

ロクはパンを膝へ置いた。

 

「積荷船は」

 

「見えなくなった」

 

「船頭は」

 

ナギルは首を振った。死んだとは言えなかった。助かったとも言えなかった。

 

「朝、探す」

 

ロクが頷いた。パンを持ち上げると、表面に指の形で血がついていた。彼はそこを下へ向けて食べた。

 

空が白くなってから、港へ戻る舟にナギルも乗った。ロクは入江へ残った。働いた賃の話をすると、帰ったら聞く、と答えた。もう食べてしまったパンの冗談は言わなかった。

 

二番港では、三番倉の屋根が落ちていた。積荷船は岸へ寄ったまま焦げ、荷を持ち去った跡があった。船頭はまだ見つからないという。ナギルは桟橋の下へしゃがみ、暗い水面を見た。声を掛けても返事はなかった。

 

役人が、昨夜の配置について聞きたい、と呼びに来た。ナギルが立つと、いつ舟を止める命令を受けたか、と聞いた。

 

「舟は出した」

 

「積荷船を留めた理由です」

 

ナギルは焦げた船へ目を向けた。

 

「黒帆が来るか分からなかった。倉に寄せた方が、人を動かせると思った。俺が決めた」

 

「停戦成立の文は受けましたね」

 

「受けた。別令を待ても受けた。待ってる間に、ここで何が起きたかも書け」

 

役人は紙を足そうとして、片手では持てず、秤台へ置いた。ナギルは残っていた塩俵をずらした。昨夜ロクと持った俵だった。

 

倉で布を失った客が、二人へ近づいてきた。

 

「俺の荷は、船に戻せなかった。倉を離れるなと言われた」

 

ナギルは客を見た。

 

「言った。俺が荷を戻すなと言った」

 

「停戦外だから、と」

 

「何が停戦外か、分からないままだ」

 

客は、分からないで済まされても、と言いかけた。ナギルは役人の紙を指した。

 

「あんたの方も、書いてもらえ」

 

客が秤台へ手をついた。ナギルはその手を避け、書く者が板を置けるように台を空けた。自分の判断を先に書かせれば、客の方も同じ文になると思いかけた。客は違う順で話し始めた。

 

トワが、船宿の者を探す手が要ると言いに来た。ナギルは役人に、あとで戻る、と言った。先に行こうとしたトワが足を止めた。裏の道には、焼けた梁が倒れている。

 

ナギルは梁の端を持ち上げた。いつもならロクを呼ぶ重さだった。トワがしゃがみ、反対の端へ手を掛けた。

 

「パン、残ってるか」

 

「あんたが帰ってくるのを待つと、また固くなるよ」

 

ナギルは返事をせず、二人で梁を道の脇へ動かした。腰を伸ばすと、トワが先に船宿へ向かった。彼も続き、まだ呼んでいない名を、戸口へ向けて呼んだ。

 

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