内海二番港。霧の夜から、その翌朝。
ナギルは、最後の塩俵が船から下りるまで、帰るつもりはなかった。
船宿のトワが、残りのパンを荷役へ回すと言っていた。先に帰れば、自分の分は若い衆に食われる。塩俵を支えるロクにそう言うと、もう食べた、と返された。
「おまえはさっき二つ食った」
「だから、よく見えてますねって」
ロクは俵の下から笑った。ナギルは空いた方を持ち、二人で秤台へ降ろした。夜の荷を片づければ、朝の班を呼ばずに済む。今夜の賃だけでは、朝まで残った者にもう一食出せなかった。
石段の先には小舟が繋がれていた。その外に、俵を降ろす積荷船がある。倉は岸沿いに並び、三番倉の裏を回れば船宿へ抜ける。港の口は霧で見えず、船腹に当たる水の音だけが、荷役の声の途切れた所へ入った。
船宿の小僧が走ってきた。
「停戦かもしれないって。櫓で見たそうです」
ロクが俵から手を離した。ナギルは傾いた口を押さえた。
「それより先に、こっちを下ろせ」
もう片方の手が戻った。二人で台へ俵を転がすと、トワも船宿から出てきた。肩へ掛けた上着の袖に、まだ腕が通っていなかった。
「客が荷を倉へ入れたいってさ。停戦なら船の上よりいいだろうって」
「誰が言った」
「西泊まりの船頭。沖の灯が二度落ちて、またついたって」
「飲んでたか」
「飲んでた」
「半分にして聞け」
「半分だけ停戦してもらっても困るよ」
トワは笑い、すぐに倉へ目を向けた。客の荷だけではなかった。船宿には熱を出した婆と、その息子もいる。息子は今、積荷船で俵を転がしていた。
櫓で灯を取っていたガネが、板を抱えて来た。墨をつけた指で字を示した。
「停戦成立文は、まだ受けていない。それから、沖の帆影に注意。そこまでは取りました」
「じゃあ、停戦じゃないのか」
ロクが聞いた。
「成立していないとは、言っていません。ここでは受けていない」
ガネは板を持ち替えた。
「その前に、黒帆、停戦外、と読めるものもありました。誰の判断か、照会しています」
「返事は」
「まだです」
桟橋の先で、沖へ出るなと言っているぞ、と船頭が声を上げた。ガネが板へ目を落とした。
「出るな、とは取っていません」
「出ていいとも言ってないんだろ」
船頭は返し、舫いを杭へもう一巻きした。
ナギルは積荷船を見た。出すなら、荷役を戻し、岸から離す人手が要る。外で黒い帆に会えば、重い船は逃げにくい。倉へ寄せれば、船宿の客も荷役も同じ場所で数えられる。だが今夜は沖から風が吹いていた。倉の戸は海へ向いている。
トワが、婆をどこへ運ぶ、と聞いた。
ナギルは南側の石段を指した。そこから出す小舟なら、沖を横切らず、岸伝いに入江へ回れる。霧で岸を見失う危険はあった。風が入りにくい分、着くまで時間もかかる。
「婆と子どもは小舟へ。倉には歩ける者を入れる。三番を空けろ」
「全員、舟じゃないのか」
ロクが、船宿から出てきた子どもを見た。
「乗り切れん。先に着いた舟を戻す」
「戻れるのか」
「舟を出す奴に、岸を見て決めてもらう」
ナギルは一度、灯の方を見た。光はかすんで、次に何を言うのか分からなかった。
「船の灯を増やすな。石段の灯は残せ。足元を見せろ」
積荷船の船頭が、まだ荷を降ろしていないと怒鳴った。ナギルは、荷役を岸へ上げる、と答えた。
「停戦なら、ここまでやった荷を放るのか」
「停戦じゃないかもしれんからだ」
「それなら荷ごと船を出せ」
「停戦かもしれんからだ」
船頭が綱を蹴った。ロクは笑わずに、三番倉の戸へ走った。
婆を寝床から運ぶ時、息子がいない、と言われた。トワが息子を呼びに行き、ナギルは婆の背へ外套を回した。
「戻ってくる。先に乗ってくれ」
「あれは先に飯を食わないんだよ」
ナギルは、何の話か聞き直した。婆は息を継ぎ、誰かが残っていると、自分も残る、と言った。
積荷船から戻った息子は、母を見て笑った。
「船の上じゃ食ってたよ」
「何を」
「塩」
婆が、ばか、と言った。ナギルは二人の話が続いている間に、寝床の布ごと身体を持ち上げた。息子が足の方を取る。小舟へ降ろすと、婆は息子の袖を離さなかった。
ナギルは空いている船底を見た。子どもの連れが座れば、その隣にまだ一人入る。息子を荷役へ戻したくなった。倉の戸口では、ロクが一人で俵をどかしている。
「一緒に行け」
息子が顔を上げた。
「戻ったら、こっちへ手を貸せ」
男は頷き、母の横へしゃがんだ。ナギルは船頭へ、人を降ろしてから戻るかどうか見てくれ、と頼んだ。舟を押すと、婆の手はまだ袖を掴んでいた。
役所の受信所から、文を写した板が届いた。
停戦成立。沿岸攻防を止めよ。私掠取り締まりは別令を待て。
持って来た役人は、正式文です、と言った。さっきまで倉の入口で荷を抱えていた客が、船へ戻ろうとした。
「黒帆については」
ナギルが聞くと、役人は板を読み直した。
「私掠取り締まりは、別令を」
「その船が、今は来ないということか」
役人は答えなかった。ガネが、自分の板にも停戦文を受けた所を書いた。前の文への答えは、まだないと言った。
子どもを抱いた男が、三番倉の戸口で立ち止まった。乗るはずだった小舟は、もう岸を離れている。
ナギルは男を倉へ入れた。戻りの舟が来たら、そこから呼ぶと言った。
「荷はどうなるんだ」
客が聞いた。船から下ろした箱が、男の足元にも積まれていた。
「今は戻さない。道を空ける」
「出るなという文が来たんだな」
ナギルは否定しかけた。石段で、若い衆が次の舟を引き寄せている。倉の戸口にも人が溜まっていた。
「黒帆のことが、まだ分からん。俺がここで待たせる。荷を踏むな、寄せろ」
男が箱へ手を掛けた。ナギルも片側を持ち、戸の奥へ押した。その後ろから、沖へ出るなだってさ、と声が渡っていった。
***
先に見えた火は、港の外だった。
倉火か船火か、ナギルには分からなかった。すぐ消え、霧が赤く残った。石段で櫂を握っていた者が、その方へ顔を向けた。
「こっちを押せ」
ナギルは舟の縁へ手を掛けた。岸から離れたあと、船頭は灯を下ろした。残った石段の明かりを、ロクが身体で風から庇っていた。
板の言い直しが来たのは、積荷船で騒ぎが起きた時だった。黒帆停戦外は先行文、意味は再確認中。ガネが口へしたが、積荷船の船頭の声に消された。
「綱を解け! 取りに来た!」
桟橋の先に、見知らぬ男がいた。背後にもう一人いる。ナギルが船の方へ踏み出すと、男が短い刃を抜いた。
三番倉の戸口へ、トワが客を押し戻した。戸を閉める前に、ロクが外へ出てきた。積荷船の船頭は、渡し板を引き上げようとしている。岸の男がその端を踏んだ。
船の明かりが倒れた。
炎が舷の内から立ち、渡し板にいた男が船へ跳び移った。船頭の姿が荷の向こうへ消えた。ナギルはロクの肩を掴み、桟橋の根元へ戻った。三番倉の軒には、既に火の粉が入っていた。
「裏へ出せ!」
トワが戸の内で返事をした。箱が邪魔だという声がする。ナギルは前の戸を引き、さっき自分で奥へ入れた箱を押し退けた。
箱が倒れ、蓋が開いた。布が泥へ落ちた。持主が、やめろ、と叫ぶ。
ナギルは布を掴んで脇へ投げた。
「踏まれたくなければ、おまえがどかせ」
男がしゃがんだ。背の上を、子どもを抱いた客が抜ける。トワが入口から裏の戸へ人を渡し、その戸からロクが石段へ案内した。
ナギルが最後に出ようとした時、倉の中で板が落ちた。ロクが戻りかける。ナギルは手を上げて止め、柱へ肩をつけ、腹ばいで戸を抜けた。
外へ出ると、ロクのズボンの腿が裂けていた。布の下に血があった。
「いつやった」
「箱」
ロクは怒ったように言った。倉で押し退けた箱の角に、脚を挟まれたのだった。足をつけると顔が縮む。ナギルは肩を貸した。
石段に舟はいなかった。
最後の小舟も人を乗せて出ていた。トワが倉から運んだ子どもを抱き直す。どこで逃げればいい、と男が聞いた。ナギルは岸沿いの道を見た。倉の背で火が上がり、道へ煙が流れている。
ロクは腕を外そうとした。
「先に、行って」
ナギルは腕を戻した。婆の息子を残していれば、この若いのをもう一人で抱えられたと思った。思っただけで、手は増えなかった。
水を切る音がした。
舟が石段へ寄ってきた。舳先で綱を投げたのは、婆の息子だった。ナギルは受け損ね、綱が水へ落ちた。屈んで拾おうとすると、ロクが舟の縁を掴んだ。
「母さんは」
ナギルが聞いた。
「向こうにいます。まだ俺が飯を食わないと思ってる」
息子はロクの腕を取り、舟へ引き込んだ。トワが子どもを渡す。男が、その子は自分の連れだと言い、続いて乗った。
岸の方で、重いものが落ちた。積荷船の灯は見えなかった。ナギルは舟へ片足を掛け、その方をもう一度見た。船頭は岸へ上がっただろうか。
トワが彼の袖を引いた。
「ここにいる奴から乗って」
ナギルは腰を下ろした。船頭が石段を離し、息子も櫂を取った。三番倉の前で裂けた袋が燃えていた。最初に運んだ塩俵が、暗い台の上に残っている。その先は、舟が岸を回ると見えなくなった。
***
入江の小さな船着場では、婆が息子へパンを渡した。
息子は手で二つに折り、ロクへ片方を差し出した。ロクは受け取ってから、脚を伸ばした。ズボンの裂け目へ、トワが布を巻いてくれた。巻く時は笑わなかった。
子どもは桟橋に座り、脱げた片方の靴へ指を入れていた。中に石があると言った。男が靴を振ると、小さい石が一つ落ちた。子どもはそれを拾おうとし、やめなさい、と手を押さえられた。
ナギルはそばの杭へ腰を下ろした。もう一人の子どもが、船宿の小僧に背負われて眠っていた。トワが連れを探しに行き、さっき出した舟から降りた女を見つけた。声を掛ける前に、女の方が走ってきた。
ロクはパンを膝へ置いた。
「積荷船は」
「見えなくなった」
「船頭は」
ナギルは首を振った。死んだとは言えなかった。助かったとも言えなかった。
「朝、探す」
ロクが頷いた。パンを持ち上げると、表面に指の形で血がついていた。彼はそこを下へ向けて食べた。
空が白くなってから、港へ戻る舟にナギルも乗った。ロクは入江へ残った。働いた賃の話をすると、帰ったら聞く、と答えた。もう食べてしまったパンの冗談は言わなかった。
二番港では、三番倉の屋根が落ちていた。積荷船は岸へ寄ったまま焦げ、荷を持ち去った跡があった。船頭はまだ見つからないという。ナギルは桟橋の下へしゃがみ、暗い水面を見た。声を掛けても返事はなかった。
役人が、昨夜の配置について聞きたい、と呼びに来た。ナギルが立つと、いつ舟を止める命令を受けたか、と聞いた。
「舟は出した」
「積荷船を留めた理由です」
ナギルは焦げた船へ目を向けた。
「黒帆が来るか分からなかった。倉に寄せた方が、人を動かせると思った。俺が決めた」
「停戦成立の文は受けましたね」
「受けた。別令を待ても受けた。待ってる間に、ここで何が起きたかも書け」
役人は紙を足そうとして、片手では持てず、秤台へ置いた。ナギルは残っていた塩俵をずらした。昨夜ロクと持った俵だった。
倉で布を失った客が、二人へ近づいてきた。
「俺の荷は、船に戻せなかった。倉を離れるなと言われた」
ナギルは客を見た。
「言った。俺が荷を戻すなと言った」
「停戦外だから、と」
「何が停戦外か、分からないままだ」
客は、分からないで済まされても、と言いかけた。ナギルは役人の紙を指した。
「あんたの方も、書いてもらえ」
客が秤台へ手をついた。ナギルはその手を避け、書く者が板を置けるように台を空けた。自分の判断を先に書かせれば、客の方も同じ文になると思いかけた。客は違う順で話し始めた。
トワが、船宿の者を探す手が要ると言いに来た。ナギルは役人に、あとで戻る、と言った。先に行こうとしたトワが足を止めた。裏の道には、焼けた梁が倒れている。
ナギルは梁の端を持ち上げた。いつもならロクを呼ぶ重さだった。トワがしゃがみ、反対の端へ手を掛けた。
「パン、残ってるか」
「あんたが帰ってくるのを待つと、また固くなるよ」
ナギルは返事をせず、二人で梁を道の脇へ動かした。腰を伸ばすと、トワが先に船宿へ向かった。彼も続き、まだ呼んでいない名を、戸口へ向けて呼んだ。