山間修道院。灰暦27年の霜月の看取り記録ができたあとの訪問。
門へ着いたとき、女は木札を服の外へ出した。
弟の名を刻んだ、小さい札だった。名を聞かれたらすぐ見せられるよう、途中から紐を首へ掛けていた。息が上がるたびに胸へ当たり、坂を上り終えても、その辺りだけが熱かった。
弟は名を呼ばれるより先に、家で使う短い口笛へ振り向いた。門の向こうへ吹いてみようと思い、女は鉄環へ手を伸ばした。
門の鉄環を叩くと、土のついた袖が出た。年かさの修道士が、半分だけ戸を開けた。
「生きている者を捜しに来たのか、埋めた者を確かめに来たのか」
女は口を開き、閉じた。弟を捜している。それ以外の答えを、来るまで用意していなかった。
「どちらも、まだ分かりません」
修道士は戸を開けた。中庭で若い者が石を担ぎ、奥の小屋へ運んでいた。女は歩きながら、弟の背中なら、あの持ち上げ方はしないと思った。そうやって知らない男を見る癖がついていた。
低い倉には、細長い箱が棚いっぱいに並んでいた。修道士が机へ板を広げる。埋葬地の配置を描いた図だった。区画の印だけでなく、水の抜ける所や、石を足した所まで線で残している。
女は名を探した。図にはない。
「札があれば、こちらへ入れる」
修道士は箱を指した。女は胸の札を握った。
「地面には?」
「分からぬ者は、番号を置く」
「名前を持っていた者も、外すのですか」
「箱へ残す者もいる。名前を残さぬ方がよいと言う者もいる。ここでは残す」
女は札から手を離さなかった。
若い修道士が倉へ来た。抱えていた帳面を机へ下ろし、女の捜索願を読んだ。村で字の書ける者に頼んだ写しだった。弟の右手中指が先から欠けていること、青い作業帯、左脚を少し引く癖。その三つを、若い修道士は声に出して確かめた。
開いた看取り記録には、灰暦27年、霜月3日、とあった。
流民帯南道から運び込まれた男。右手中指欠損。腰紐は青褪せた布。水を二度求め、名は「ル……」に始まるか。白い杭、春まで、と繰り返す。夜半没。区画ハ三―十八。
女は机へ近づいた。捜索願の紙が肘に押され、床へ落ちた。拾う前に、もう一度、指の所を読んでもらった。
弟もその指を、子どもの頃に荷車へ挟まれた。春まで戻らない、と伝言を寄越したことがある。
「名前は違う」
女は言った。若い修道士は、最後の音まで聞き取れたわけではない、と答えた。
「なら、弟かもしれません」
自分がそう言った途端、倉の中の箱が一つに狭まった気がした。女は帳面へ手を置き、そちらを見せてほしい、と言った。
箱から出てきたのは、灰青の布切れと骨の釦だった。名札はない。女は持ってきた作業帯の端を、その布と並べた。織り目は似ている。片方を縦にして、次に横へ向けても、同じかどうかは分からなかった。
「この釦は」
若い修道士が聞いた。女は覚えていなかった。弟の服を洗ったことはある。それでも釦を一つずつ思い出すことはできない。
「足のことは書いていないんですね」
「右足首の古傷だけです」
「左を引いていたのを、見落としたかもしれない」
言ってから、女は布を元の向きへ返した。見落としたはずだと言えば、弟がここへ近づく。確かめられた物は増えていないのに。
もう一つの記録は、同じ27年の霜月5日だった。
戦災地域の北縁から搬送。男。左脚を引く。名を問うと、ダムの水門ではない、と繰り返す。黒布の名札輪、札なし。翌朝没。区画ニ一―七。
女は、弟がそこへ雇われた話は聞いていない、と言った。北の荷下ろし場で一時働いたらしい。そのあとの知らせはない。
若い修道士は図へ指を移し、二つの区画を示した。別の斜面だった。女の視線も、離れた二つを往復した。
「弟なら、どちらかになるんですか」
「この二人でなければ、どちらでもない」
女は帳面を閉じたくなった。開いたばかりの時には、ここへ来れば何か返ってくる気がした。今は、指のない男と脚を引く男を、弟の身体へ一つずつ重ねている。
倉の外で石が落ちた。荷を運んでいた若い者が謝り、別の声が、足は、と聞いた。大丈夫と答える声が来た。
「案内してください」
女は言った。
年かさの修道士は図を畳み、戸を開けた。若い修道士も女とともに続いた。斜面に小さい杭が並んでいた。杭の間を通る道は細く、運び込む者が迷わないよう、曲がる所へ石を置いている。女は番号を見ながら歩いた。名のある墓の前では、知らない字でも、足が少し遅くなった。
ニ一―七でしゃがむと、土は平らに均されていた。
「こんなに、同じに」
女が言うと、修道士は土が流れないよう低くしている、と答えた。女は、自分が何を聞いたのか分からなくなった。
胸の木札を外した。ここへ掛ければ、弟の墓になる。自分だけでも、次に来る場所を決められる。
若い修道士は止めなかった。女の手と杭を見ていた。
「あとで違うと分かったら、外します」
女は言った。
「その時、ここにいる人の名が分かるかもしれない」
若い修道士が答えた。女は札を持ったまま、その土を見た。ここへ自分の弟を置くことばかり考えていた。ここに既にいる人を、どこへ置くかは考えていなかった。
札を膝へ戻した。紐の輪が風に揺れた。
「手を合わせたら、弟だと決めたことになりますか」
「誰へ合わせたかは、あなたが決める」
女は札を胸へ戻した。土へ手を触れ、少しの間、そのままにした。弟の名を口へ出さず、埋めた人が顔を知っていたかを聞いた。
「運び込まれた時には見た」
「後で捜す人に、見せられるようには」
修道士は、寒い時でも長くは置けなかった、と答えた。ここへ来る前に倒れている者も多い。待ったあいだに身体が崩れ、家族に見せられなくなったことがある。
女は上の杭を見た。土が保てるあいだに埋めた。埋めれば顔を確かめられなくなる。どちらを先へ回しても、戻らない物があった。
もう一つの区画でも、札は掛けなかった。そちらは風が強く、番号札の下へ細かい土が溜まっていた。修道士が指で払い、掛け直した。
倉へ戻る途中、水抜きの溝へ木の枝が詰まっていた。女が足を止めると、年かさの修道士が拾おうとした。石に挟まっていて抜けない。女は反対側へ回り、枝の細い方を持ち上げた。
弟なら力任せに引いた、と言いそうになった。口にせず、修道士と向きを合わせて外した。石の間から水が動き、下の溝へ流れた。
女は濡れた指を服で拭いた。墓のどちらかを決めたわけではないが、そこへ水が溜まらずに済む。それだけは目の前で分かった。
倉では少年が札包みを棚へ戻していた。年かさの修道士がハル牧、と呼び、空いた箱を机へ持ってこさせた。
女の胸の札を見て、少年は箱の蓋を外した。女はすぐ、これはまだ入れない、と言った。少年は手を止めた。
若い修道士が捜索願を横へ置いた。
「この名を、埋めた人の札として入れません。捜している人がいる、と残します」
女は箱の中を見た。墓から外された札と、捜しに来た者の札が同じ所へ入れば、今度は弟が死んだ印にされるかもしれない。
それを言うと、修道士は別の箱を引いた。捜索願の控えを束ねた物だった。差出地ごとに紐が掛かっている。ハル牧も箱を二つ並べた。
「札は、こちらの控えと一緒に」
女はようやく首の紐をほどいた。けれど、机へ置くと胸元が空になった。
「これを持って帰りたい。ここにも、同じ名を置きたいんです」
若い修道士は小さい薄板を出した。元の札を割るのでなく、字を写す。女はその手元へ身を寄せた。自分では全文を読めないので、元の札と線を比べた。
「弟の右手のことも、脇へ」
「捜索願にあります」
「名だけが離れたら、また分からなくなる」
若い修道士は写した札を机へ置き、脇の紙へ特徴を添えた。二つの区画は一致した印でなく、今回見た候補として控えへ残した。女は読み上げを聞いて、北の荷下ろし場は噂だと付け足した。
ハル牧が写した札と特徴の紙を包み、控えへ結んだ。箱へ納める前に、どちらの箱かを女に見せた。女は頷き、元の札を自分の服へ戻した。
帰り際、修道士は門まで来た。次に聞き取りがあれば、この願いと比べる、と言った。弟が見つかるとは言わなかった。
女は、伝言を受け取る場所も残してきた、と確かめた。修道士が頷いた。そこで初めて、次は山へ上る前に、下の宿へ尋ねることもできると分かった。
坂を下りると、門はすぐ木の間へ隠れた。女は札を握ったまま歩いた。弟はどこかを歩いているかもしれない。二つの斜面のどちらかにいるかもしれない。
道の下で荷を結び直す男がいた。女はその右手を見た。指は五本あった。見ないつもりで来たわけでも、もう見なくてよいわけでもなかった。
男が顔を上げると、女は弟のことを聞いた。青い帯だけでなく、脚の癖も話した。修道院へ置いた名は、胸の札から消えてはいなかった。